さっきまで熱を孕んでいた空気は、息が整う頃にはいつもの通り沈黙し、ひんやりと涼しい。夜も更け、日付も変わったことだろう。
皮膚の表面を薄く覆う汗も冷え、身体に纏わりつくだけで鬱陶しかったシーツが恋しくなる。
白い布を引き寄せ身体に巻きつけると、蓑虫よろしくベッドに転がって寝返りを打った。
ぼんやりと開いた目の先に映る窓の外はまだ暗い。誰にともなく呟く。
「今日は絶対厄日だ…」
「へぇ?それはまた何で?」
背中の向こうから半身を起こす気配が身を乗り出してきて、耳元に囁きを残す。
甘ったるく、少し掠れた声に鼓膜を擽られ、先刻までの名残を色濃く残す身体が小さく疼いた。
そんな状態を悟られまいと、殊更に大きく溜息を吐いて聞かせ、シーツを頭まで引き上げる。あいつの目から俺の姿を全て包み隠すかのように。
「いけずやな」と呟く声が聞こえたが、笑いを含んでいたのが明らかだったので無視をした。
それでも消えない笑いの気配。
布の塊の端から広がる長い黒髪を掬い取られ、ちゅ、とわざとらしく音を立てて毛先に口付けてくる。
何度となく聞かされ続け、耳にこびりついた言葉が囁かれずとも蘇ってくる心地悪さに身動ぐと、手元から髪を奪い返すように頭を振る。布から目だけを覗かせて睨みつけた。
視線が合う。未だ情欲の名残りを残して蕩けた瞳が、笑みの形に更に緩んだのが見える。
長い前髪で片目を隠していても、美しく整った顔立ち。なのに、何故こうも「笑顔」が似合わないのか。
「お前とこうやって過ごさなきゃならねぇから」
散々啼かされて痛んだ喉から低く不機嫌な声を搾り出すと、覗き込んできた左目が丸く見開かれた。
一瞬の絶句。続いて、呆れたのか諦めたのか、小さく息を漏らす音。
再びシーツに潜り込もうとしたが、肩を包み直す前に布を軽く引かれ、引き止められる。
「…あんさん…わてのこと、そこまで疫病神扱いしたいんどしたら、さっさと服を着て帰りなはれ」
シーツに包みそびれた肩の上にあいつの顎が乗ってくる。互いに汗を含んだ肌はぺたりと吸い付き、そのまま溶けるように馴染んでしまう。
その感覚がなんとも忌々しく、離せと肩を揺らしても離れやしない。それどころか、そのまま上に圧し掛かり、耳の近くに笑いを含んだ吐息がかかって擽ったい。
こんなに怠くなければ、このくらい楽勝で跳ね返せるのに。悔しさに眉間に皺が寄っていくのがわかる。
「……できりゃ、とっくにやってる」
「ま、そりゃそうでっしゃろなぁ…」
口を開いても出るのは負け惜しみでしかなく、あいつにはそれが筒抜けなのが気に食わない。
全てわかっていると言わんばかりに耳殻に歯を立てられ、背を乗り越えて密着する熱が伝わってくる。ふわりと甘く官能を含んだ芳香が纏わり付いて、昨夜の熱に侵された時の眩暈にも似た感覚が蘇ってくる。
身動ぐ反動で身体が仰向けに転がり、視線を上げれば天井越しに見下ろしてくるあいつの腕の下に組み敷かれた格好となってしまい、より濃厚な香りに包まれる。
頭上から落とされる視線は獲物を捕らえて飽食した獣のもので、飢えた時のそれも知っているだけに、満足するまで貪った証のその目がまた淫靡に映る。
さっきまでいいように貪り喰らわれた身体が再び疼き、新たな興奮に酔いたくなる誘惑。
それをあと一歩のところで踏み留まるべく、眦に力を込めて睨み返すが、アラシヤマは全く悪びれずに目を細めただけだった。
「お前が無茶しすぎなんだって気づけよ…」
「でも、無茶するのんわかっといてこうやって来はるお人が居るのは何どしょうな」
囁きと共に伸ばされた指が、頬の線をなぞってくる。同じ圧力を均一にかけながら、短く整えられた薄い爪がすべり、頭上の薄い唇が笑みを形作って降りてくる。
わてはもっと無体なことさせたい思うてますえ。
そんな囁きが聞こえてきそうな、蕩然とした色を浮かべた瞳。見下ろしているせいで顔を半ば隠す前髪が下がり、その下に隠れた目までよく見えた。
薄く開かれた唇が触れる直前、掌でその口元を押し返し、まだ怠さの残る身体を無理に起こす。
天井との間を遮っていたアラシヤマを隣へ転がすと、そのまま不貞腐れたか、手近に投げ出されていた枕を両腕で抱え込んでうつ伏せになり、頭が落とされる。
「まったく…つれないお人やなぁ」
不機嫌な落胆の声が響く。ざまあみろ。
それを振り返ることなく、乱れて肩に重たげにかかる髪を手櫛で前髪から一気に梳き流す。
指を通る髪はやや重く、含んでいるものが汗だけだとは到底思えない。隣で寝そべるこいつの想いもそのまま孕んだかのようだ。
腰に負担がかからぬよう、背をそらして伸びをひとつ。
「あー、ほんっとにツイてねぇ」
聞こえよがしに部屋へと声を響かせ、首をゆるりと回すと、隣から深い溜息が響いた。
「そない言わはるんやったら、賭けでもしまひょか。きっと厄日やのうて、ラッキーデイだと確認させたりますわ」
「確認するまでもなく厄日だろ。間違いねぇよ」
実際、腰は痛いし、身体は怠い。きっと暫くの間は、こいつの気配が身体に染み込んだまま取れないだろう。
このままいつもの俺に戻れなくなってもおかしくないんじゃないか、と不安になる。
そんな気分だというのに、何がラッキーなものか。
「きっとさ、今朝の『目覚めろテレビ』の『本日の占いカウントダウン』とかでも最下位になってるって」
ごろりと広いベッドの傍らに仰向けに倒れ込むと、隣でうつぶせていたアラシヤマが頭を起こした。
愉しげな笑いを含む声と共に、指先がシーツに散らかした髪の先を弄ぶ。
地肌が少しだけ引かれ、むずがゆい刺激を嫌がって無意識に眉間に皺が寄る。その上に押し当てられた柔らかな感触が唇だと気付く前に、面白くない言葉が吐き出された。
「むしろそれで第一位とかになっとりますやろな」
「いくらなんでもそれはねーだろ」
覗き込んでくる視線をかわし、毛布に身体を包んで背を向けた。のし、と再び肩越しに乗り上げ、耳元に寄せられた唇が密やかな声を届ける。
「わてと居られて幸せでっしゃろ?」
「さぁな…厄日じゃなけりゃ幸せなんじゃねぇ?」
耳障りの良い甘い声に纏わりつかれても、今までなら『幸せなのはお前だけだろ』と一蹴することもできた筈なのに、言葉が出てこなかった。
触れてくる重みも体温も、包んでくる空気の甘い重苦しさも、全てがいつの間にか俺にとって抵抗のないものに変わっていたのだろうか。
なんとなく納得がいかないが、身体を包む毛布ごしの温もりが心地良く眠気を誘うから、考えるのは後にして瞼を伏せた。
皮膚の表面を薄く覆う汗も冷え、身体に纏わりつくだけで鬱陶しかったシーツが恋しくなる。
白い布を引き寄せ身体に巻きつけると、蓑虫よろしくベッドに転がって寝返りを打った。
ぼんやりと開いた目の先に映る窓の外はまだ暗い。誰にともなく呟く。
「今日は絶対厄日だ…」
「へぇ?それはまた何で?」
背中の向こうから半身を起こす気配が身を乗り出してきて、耳元に囁きを残す。
甘ったるく、少し掠れた声に鼓膜を擽られ、先刻までの名残を色濃く残す身体が小さく疼いた。
そんな状態を悟られまいと、殊更に大きく溜息を吐いて聞かせ、シーツを頭まで引き上げる。あいつの目から俺の姿を全て包み隠すかのように。
「いけずやな」と呟く声が聞こえたが、笑いを含んでいたのが明らかだったので無視をした。
それでも消えない笑いの気配。
布の塊の端から広がる長い黒髪を掬い取られ、ちゅ、とわざとらしく音を立てて毛先に口付けてくる。
何度となく聞かされ続け、耳にこびりついた言葉が囁かれずとも蘇ってくる心地悪さに身動ぐと、手元から髪を奪い返すように頭を振る。布から目だけを覗かせて睨みつけた。
視線が合う。未だ情欲の名残りを残して蕩けた瞳が、笑みの形に更に緩んだのが見える。
長い前髪で片目を隠していても、美しく整った顔立ち。なのに、何故こうも「笑顔」が似合わないのか。
「お前とこうやって過ごさなきゃならねぇから」
散々啼かされて痛んだ喉から低く不機嫌な声を搾り出すと、覗き込んできた左目が丸く見開かれた。
一瞬の絶句。続いて、呆れたのか諦めたのか、小さく息を漏らす音。
再びシーツに潜り込もうとしたが、肩を包み直す前に布を軽く引かれ、引き止められる。
「…あんさん…わてのこと、そこまで疫病神扱いしたいんどしたら、さっさと服を着て帰りなはれ」
シーツに包みそびれた肩の上にあいつの顎が乗ってくる。互いに汗を含んだ肌はぺたりと吸い付き、そのまま溶けるように馴染んでしまう。
その感覚がなんとも忌々しく、離せと肩を揺らしても離れやしない。それどころか、そのまま上に圧し掛かり、耳の近くに笑いを含んだ吐息がかかって擽ったい。
こんなに怠くなければ、このくらい楽勝で跳ね返せるのに。悔しさに眉間に皺が寄っていくのがわかる。
「……できりゃ、とっくにやってる」
「ま、そりゃそうでっしゃろなぁ…」
口を開いても出るのは負け惜しみでしかなく、あいつにはそれが筒抜けなのが気に食わない。
全てわかっていると言わんばかりに耳殻に歯を立てられ、背を乗り越えて密着する熱が伝わってくる。ふわりと甘く官能を含んだ芳香が纏わり付いて、昨夜の熱に侵された時の眩暈にも似た感覚が蘇ってくる。
身動ぐ反動で身体が仰向けに転がり、視線を上げれば天井越しに見下ろしてくるあいつの腕の下に組み敷かれた格好となってしまい、より濃厚な香りに包まれる。
頭上から落とされる視線は獲物を捕らえて飽食した獣のもので、飢えた時のそれも知っているだけに、満足するまで貪った証のその目がまた淫靡に映る。
さっきまでいいように貪り喰らわれた身体が再び疼き、新たな興奮に酔いたくなる誘惑。
それをあと一歩のところで踏み留まるべく、眦に力を込めて睨み返すが、アラシヤマは全く悪びれずに目を細めただけだった。
「お前が無茶しすぎなんだって気づけよ…」
「でも、無茶するのんわかっといてこうやって来はるお人が居るのは何どしょうな」
囁きと共に伸ばされた指が、頬の線をなぞってくる。同じ圧力を均一にかけながら、短く整えられた薄い爪がすべり、頭上の薄い唇が笑みを形作って降りてくる。
わてはもっと無体なことさせたい思うてますえ。
そんな囁きが聞こえてきそうな、蕩然とした色を浮かべた瞳。見下ろしているせいで顔を半ば隠す前髪が下がり、その下に隠れた目までよく見えた。
薄く開かれた唇が触れる直前、掌でその口元を押し返し、まだ怠さの残る身体を無理に起こす。
天井との間を遮っていたアラシヤマを隣へ転がすと、そのまま不貞腐れたか、手近に投げ出されていた枕を両腕で抱え込んでうつ伏せになり、頭が落とされる。
「まったく…つれないお人やなぁ」
不機嫌な落胆の声が響く。ざまあみろ。
それを振り返ることなく、乱れて肩に重たげにかかる髪を手櫛で前髪から一気に梳き流す。
指を通る髪はやや重く、含んでいるものが汗だけだとは到底思えない。隣で寝そべるこいつの想いもそのまま孕んだかのようだ。
腰に負担がかからぬよう、背をそらして伸びをひとつ。
「あー、ほんっとにツイてねぇ」
聞こえよがしに部屋へと声を響かせ、首をゆるりと回すと、隣から深い溜息が響いた。
「そない言わはるんやったら、賭けでもしまひょか。きっと厄日やのうて、ラッキーデイだと確認させたりますわ」
「確認するまでもなく厄日だろ。間違いねぇよ」
実際、腰は痛いし、身体は怠い。きっと暫くの間は、こいつの気配が身体に染み込んだまま取れないだろう。
このままいつもの俺に戻れなくなってもおかしくないんじゃないか、と不安になる。
そんな気分だというのに、何がラッキーなものか。
「きっとさ、今朝の『目覚めろテレビ』の『本日の占いカウントダウン』とかでも最下位になってるって」
ごろりと広いベッドの傍らに仰向けに倒れ込むと、隣でうつぶせていたアラシヤマが頭を起こした。
愉しげな笑いを含む声と共に、指先がシーツに散らかした髪の先を弄ぶ。
地肌が少しだけ引かれ、むずがゆい刺激を嫌がって無意識に眉間に皺が寄る。その上に押し当てられた柔らかな感触が唇だと気付く前に、面白くない言葉が吐き出された。
「むしろそれで第一位とかになっとりますやろな」
「いくらなんでもそれはねーだろ」
覗き込んでくる視線をかわし、毛布に身体を包んで背を向けた。のし、と再び肩越しに乗り上げ、耳元に寄せられた唇が密やかな声を届ける。
「わてと居られて幸せでっしゃろ?」
「さぁな…厄日じゃなけりゃ幸せなんじゃねぇ?」
耳障りの良い甘い声に纏わりつかれても、今までなら『幸せなのはお前だけだろ』と一蹴することもできた筈なのに、言葉が出てこなかった。
触れてくる重みも体温も、包んでくる空気の甘い重苦しさも、全てがいつの間にか俺にとって抵抗のないものに変わっていたのだろうか。
なんとなく納得がいかないが、身体を包む毛布ごしの温もりが心地良く眠気を誘うから、考えるのは後にして瞼を伏せた。
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ごん。ごん。とこめかみを叩く鈍い音が響く。頭が痛い。
これは飲み過ぎの二日酔い特有の症状だ。今までにも身に覚えがある。目を開けないまま、もそもそと周囲を手で探ってみる。
運が良ければ、自分のベッドの上に無事たどり着いているはず…と布団の柔らかさを指で確かめようとする。身体の重心が変わったことで、小さくベッドが軋み、体重を受け止める馴染んだ柔らかさにここが自分の寝床に間違いない、と安堵した。
そのまま指が触れた布を引き寄せて腕に抱き締め、また一眠りしようと顔を埋めようとしたところで、不意の違和感。
どこかで嗅いだことのある香りが鼻先を擽り、周囲を包む。指先に掴んで引き寄せた布の触感も、シーツのそれより更に滑らかで、軽い。この香りの出所は、俺がシーツだと思って引き寄せた布に間違いないだろう。まさかとは思うが、とんでもない場所に居たりしないだろうな…そっと片目の瞼を開いて見ると映ったのは見知った天井だった。が、手にしていたのはシーツではなく目にも鮮やかな明るいピンク…。……ピンク!?
「…っ!?」
がばっと勢い良く半身を起こすと頭がぐらりと揺らぎ、勢い余ってよろけそうになるのをかろうじて踏みとどまる。
手に握り締めていたものを持ち上げて広げてみれば、俺より一回り大きく、俺なら絶対に着ないような派手な色彩のタキシードのジャケット。香りの出所はこれに残った移り香だ。気に食わない色彩と香りなのに、忘れることもないくらいしっかりと覚えのあるそれを反射的に壁に投げ捨てる。
更にその下にはシルクのカマーベルトに同色のタイ。でもこのベッドは間違いなく俺の私室のもので…まさかっ!?
『うわぁぁぁぁっ!!』
声にならない叫びが喉を詰まらせ、脳内をぐるぐると巡る。もの凄いスピードで脳裏を飛び交う言葉はパニックを起こした俺には理解不能。
ベッドの周囲を手当たり次第、平手で叩いてみる。しかし、ジャケットとベルトの持ち主らしき物体はどこにもなかった。
ひとまず深呼吸をして平静を取り戻そうとしても、確実に残る香りにそれを阻まれ、約一名の顔だけが鮮明に思い浮かぶ。その周りをぐるぐる巡るキーワードの一つがふと止まった。
『やっちまった!?』
馬鹿な!覚えがねぇぞ!!
咄嗟に首を巡らせ、周囲を確認。誰も居ない。何も、どこも壊れてない。
無意識に胸元に手を伸ばす。着慣れない糊の効いたドレスシャツがくしゃくしゃになってはいるが、まだそこにあった。ボタンは全て外れていたけれど…俺、自分で外したか?覚えがない……が、足もちゃんとズボンの中に入っているし、身体にも特に異常は無さそうだ。頭は鈍く痛むけれど。
ふぅっ……と大きく息を吐くと肩の力が抜けた。ようやく人心地がつき、高速回転していた頭も徐々にスローダウン。
落ち着いて考えろ、俺。と自分に言い聞かせる。そして何でここで寝ているのかを思い出せ。
あぁ、そうだ。今夜はパーティだか何だかで。
ガンマ団総帥とは直接関係はないものの、秘書二人が有休を使ってしまい、キンタローやグンマも招待されていることもあって仕事にならねぇから、と参加したんだ…。あの忌々しい親父が総帥を引退してから、暇潰しに、と出版した自伝だか何だかのアレだ。
参列者はガキの頃から知っている各国の著名人始め、多くの有力者が集まり、大規模なものとなると聞いた。次代のガンマ団の運営方針を知ってもらうためにも、顔繋ぎは大切だし、隅っこに居る分には、この日の主役の親父に何かとくっつかれることもないだろう、とキンタロー達に口説かれ、破り捨てるつもりだった招待状を片手に渋々会場へ向かったのだ。
**********
『秘石と私』出版記念パーティ。
そう銘打たれた会場内は派手に賑わっていた。実用より装飾を優先した豪奢な建物、磨き込まれたフロア、絢爛に咲き誇り甘やかな香りと色で場内を彩るディスプレイされた花々。まさに親父の好みそのものの華やかな会場は、彼の人脈の豊かさを示して多くの人でざわめいている。
今夜の主役はマジックだ。談笑する一際大きな輪の中心には必ずと言っていいほど、あいつが居る。
当たり前のことなのだが、マジックを中心とする人垣に近寄らないでいる俺には気づいていない。
会場の片隅で挨拶を交わし、新しい体制について傍らのキンタローが語る。その言葉に尤もらしく頷く。何度も繰り返される社交辞令。詳細な質問は全てキンタローに解説をさせ、俺は傍らに立ってそのやりとりを見届けるのが役目だ。
組織のトップがいちいち説明するより、全てを心得た腹心の補佐が居ることをアピールするには効果的だ。また、青の一族としては申し分のない外見を持ちながら、今まで表に出ることがなかったキンタローの存在を知らしめるにも有効な手段だろう。
そんな連中の中には理屈っぽい連中も居り、今までのガンマ団からの方向転換を俄かには信じ難いという連中も居た。彼らの質問は全てキンタローに集中し、一つ一つの質問疑問を丁寧に読み解き、説明を試みる。
堂々巡りとも見えるそのやりとりに、だんだんとうんざりしてくる。ガタガタ言おうが疑おうが、俺はやるったらやるんだよ!そう言えたらどんなに楽か、と思うが、それじゃ作戦は台無しだ。
いらつく気分を紛らわせるために会場内を見回すと、必ずといっていいくらい目についてしまうのは輪の中心で頭一つつき出た金髪が談笑している姿。一際でかいから目立つっていうのもあるんだが、同じ場所に居ると思うと、どうしてもあいつの動向が気になって仕方がない。
俺としてはこんな人の多い場所では、絶対にあいつに気付かれたくないと思ってるんだ。何故なら、あいつは人前だろうが二人っきりで居る時と、まったく態度が変わらない。その恥かしさに耐えられないから、あいつの近くに居たくないと切実に思ってる。絶対、間違いなく、そう思っている…筈なんだ。そう、自分に言い聞かせながらも、視線が追ってしまう。
マジックの周囲には俺が知らない顔ばかり。この出版を機にお近づきになろうという下心や媚が見え見えの笑顔を張り付かせて取り囲んでいる。
黙ってりゃ、かなり…いや、そこそこ見られるルックスと、他の奴が着たら許せないような派手なフォーマルもあいつならでは、と思わせる説得力だ。悔しいことに、似合っている、としか言えない。
俺が望む通り、まったくこちらには気付かず談笑する姿に、ほっとしなくてはいけない筈なのに、何故かイライラとこめかみが痛む。気になる、なんてありえないはずなのに、目をそらすことができなかった。
俺の知らない奴に笑顔を振りまいて、好意を受け止め、好意を振りまき。きらきらと輝く華やかな明かりの下で、派手に着飾った女や男に囲まれて。
俺がこんな片隅で、キンタローと一緒に面白くもない話に相槌を打っている間に楽しそうに。
あ。
何、手なんか取ってんだよ!
何、嬉しそうに話してんだよ!
そんな奴ら、あんたのことなんて理解する気もなく、見目の良さに浮かれた女や、名声との繋がりを求めてるだけの似非名士だってのは見え見えだろうが。
理由のわからない苛立ちに眉間に皺が寄り、苛立ちに爪先が床を叩く。
手にしたグラスに力が篭り、ぴし、とひびが走り零れた酒が指を濡らす。
その冷たさに我に帰ると目の前で語り合っていた男が目を丸くし、キンタローの視線が咎めるように俺を見た。
「悪い。グラス変えてくる」
話を続けてくれ、と言い置くとその場を離れた。
楽しげにさんざめく人々の合間を縫い、手近にあったビュッフェ・テーブルへ。そこへ壊れたグラスを置き、傍らに置かれたグラスへ手を伸ばした。
後ろから響く笑い声の中にあいつの声を聞き分けてしまい、ぐいっと一息に煽る。
並んだグラスはウェイターが会場内に運ぶものだが、そんなこと構うものか。このよくわかんねぇ気分をどうにかしたくて、どんどん目の前のグラスを機械的に空にしていった。
目の前に並ぶグラスは全て俺の敵で、その中に入った酒を一刻も早くなくさないと俺がどうにかなっちまう。そんな脅迫めいた気持ちで半ば義務めいた感覚で、何個目かも思い出せないグラスを取った手首を不意に捕まれた。
「そろそろ、飲みすぎじゃないかな」
傍らで響く耳障りの良い聞きなれた声。捉われた手首を振りほどきグラスを口許へ運ぼうと腕に力を込めるが、振りほどけない。
動かない手首を支点として、俺の視界がゆらりと傾く。その肩を支えるように回された腕と共に、愛用のトワレの香りに包まれた。
顔なんて確認しなくてもわかってる。あいつだ。
「いいから、その手離せよ」
不機嫌な低い声で呟く。
何だよ。さっきからちゃらちゃらと他の奴らに笑顔振りまいてたくせに。何でこんな時に見つけるんだ。
「ちゃんと歩けるなら手を離してあげるよ」
「…っ、歩けるに決まってんだろ!!」
どうせ歩けるわけないだろう、と見透かしたように笑いを含んだ声に返され、かっと顔が熱くなった。おそらく軽く握っただけの筈の手首の指を渾身の力で振りほどいて半身を返すと、そのままくるりと一回りし、ぐらりと床が斜めに揺れ、天井が上から移動してきたところで停止した。
肘と肩を支えられ、半ば仰向いた天井の端から覗き込んできたのは今日の主役。
何楽しげに目なんか細めて笑ってんだよ。
「おっと…危ない。こんなんじゃ私の息子として恥かしくてここに置いておけないな」
あんたはいつも恥かしい奴なんだから、関係ねーだろ、と言い返してやりたかったが、言葉の代わりに零れたのは飲みすぎたアルコールで温められた溜息だけだった。
肘を軽く引き上げられ、脇に回した腕に身体を抱え起こされる。視界が通常の位置へ戻り、正面にはマジックの青い瞳。
畜生。この目が悪いんだよ。それにこの顔。何でも解ってるって顔しやがって、そんな顔して何で他の奴見てんだよ。
殴りかかるつもりで伸ばした指はふらふらで、親父の襟を掴むに留まった。そのまま青い瞳が近付いてくる。
**********
というところまでは思い出せた。
で?
何でここに居るんだ?
「いかん…思い出せねぇ。本気で飲みすぎた……」
ベッドの上で頭を抱えて呻く。このジャケットは俺が持って帰っただけ、とかそういうことで済んだりはしない…だろうな。
「……っ!」
不意に目隠し代わりの衝立の向こうに人の気配。ぐらつく頭を強引に覚醒させ、ベッドから飛び降りる。自室でも仕事ができるように最低限の書類を揃えたデスクの方だ。
縺れる足でみっともなく床を踏みしめ、衝立に手をかけるとその向こうを覗き見る。
華やかな金色の髪を僅かに乱したマジックが、俺のデスクに腰を預け、ぱらぱらと机上の書類を捲ったりして室内を物色していた。
「何、してんだよ!!」
「やぁ、シンちゃん。目が覚めたかい?」
手にした書類から顔を上げると、にこやかに笑顔を作って手を振ってきた。
体内に残るアルコールの余韻か、こめかみが鈍くごんごんと脈打ち、俺の眉を顰めさせる。指で痛む辺りを押さえてみても、頭の中から揺さ振られるようだ。今の俺はきっとこの笑顔とは正反対の、愛想の悪い顔をしていることだろう。
「何であんたがココに居るんだ……」
ようやく搾り出した低い呻き声に、マジックはおや、と眉を上げて見せる。
「覚えてないのかい?随分早いピッチで飲んだせいで、酷く酔っていたしね…無理もないか…」
「いやだから、一体何を覚えてないって言うんだよ!」
「酔って歩けなくなっていたシンちゃんをしっかりお姫様抱っこで車に乗せ、ここまで運んできたのは私だよ。」
「…あ!」
思い出した!
ざっと血の気の引く音が聞こえたような気がした。マジックはそんな俺の様子を認めて、にっこりと口の端を緩めて見せる。
「思い出したかい?可愛かったな~、シンちゃん」
あぁ、そうだ…そうだった……。
**********
車から部屋までの運搬もやはり横抱き、マジック言うところの「お姫様抱っこ」で、俺は落ちないように首に腕をかけるのが精一杯な状態だった。
運ばれている間は、ずっとマジックへの文句をぶつぶつ呟き続けていたように思う。
「愛想笑いすんな」とか「何気安く触られてんだ」とか「いい気になってんじゃねぇ」とか、思いついた言葉を投げつけ、その度に「はいはい。わかってるよ」と相槌を打たれながら、ベッドまで運ばれたのだろう。
「シンちゃん。寝るならこの腕を解かないと…」
ベッドへ俺を下ろされても、俺がかけた腕は離れなかった。苦笑混じりの声が響く。
その声を掻き消すように腕に力を込めて縋りつくと、耳許で小さな溜息が聞こえ同時に柔らかく温かな感触が触れてきた。思わず「父さん」と呼ぶ。
「…いいのかな。酔っているんだろう?」
「酔ってねぇよ…」
耳に触れる吐息が、アルコールで熱くなった俺にはとても心地良くて、ぐらぐら揺れる視界は触れた腕を解くことができなくて、つい聞きなれた声の問いに逆の答えを返す。
鼓膜を擽る低い笑い声に喉が震え、細く息が零れた。
「ちゃんと聞いたからね。お酒のせい、という言い訳はナシだよ」
「ん…」
ぴちゃり、と耳孔を侵す舌の濡れた音に煽られ、タイを締めたままの喉が撓り、息苦しさに眉を顰める。
耳に触れる熱さとは正反対のひんやりとした指が、その襟を緩め、シャツのボタンを開いていく。
動きを追って、頤から顎先、喉元へと熱い口付けが落とされる度、覚えのある感触が身体の熱を増していき、途切れる息が零れ落ちた。
首に絡めた指で上着に手をかけ、軽く引けば親父が顔を上げ、ぼんやりと緩んだ視界の向こうで笑う気配がした。それでも指が離せない。
「手、離してごらん」
囁きを唇へ落とし、吐息を啄ばんで軽やかなキスが繰り返される。触れては離れるそれを追って顎が浮き、肩にかけた指を項へとかけて引き寄せる。
それが合図となったように深く重なってきた唇から潜り込んできた舌が俺の咥内で蠢き、ざわりと背中を粟立たせた。
濡れた音を立てて絡みつく舌の動きに翻弄され、くぐもった声が漏れる。口付けに蕩然となっている間に、マジックは肩からジャケットを脱ぎ捨て、片手で器用にタイを緩めて投げ捨てていた。
「いい子だ…シンちゃん……」
「っ…ン、ぁ…!」
タイを投げた指がシャツの狭間の胸板を這う。ひんやりと冷たい指先の動きは、火照る身体の上に線を描いて胸元にある小さな突起に辿り着くと周囲をくるりとなぞられた。同時に囁かれた声の合図と共に、思わず上擦った甘い声が溢れてしまい、反射的に唇を噛み締める。
「何でそう…いつも嫌がるんだろうねぇ。本当は嫌がってないのに…」
揶揄を含む甘い声が噛み締めた唇の上に落とされ、再び塞がれ口腔を侵される。胸元の指に掠めただけで固さを増して尖った突起を摘まれ、ゆるゆると捏ね回してくる、鈍く痺れる刺激に喉が鳴り、息苦しさに涙が滲んだ。
「ほら…気持ちいいんだろう?」
「は……あっ」
濡れた音を立てて離れた唇と入れ替わりに流れ込んでくる新鮮な空気に大きく息を吐いて喘ぐと、上下した胸骨の上に熱く濡れた口付けが落とされた。熱い口付けはシャツの襟を開くように胸元から鎖骨へと。そして先に弄られ、固さを増した胸の飾りを含み、丁寧に舌先で転がしてくる。
反対側にある同じ飾りは指で嬲られ、熱さと冷たさ、もどかしさと時折走る痛みに身体が跳ねた。
「…本当に、言葉より素直な身体だね。大好きだよ」
濡らされた胸元を滑る吐息が更に熱く、俺の意識を煽る。このまま流されてどうにでもなっちまえばいい。そう思っても言葉にはならず、そのまま意識はぼんやりと白く霞んでいった。
**********
「うわー!うわー!うわー!!一体何やってんだ俺!…っ」
考えるより先に叫びが喉から迸り、反動で頭が痛む。脳裏で再現された場面と感覚に頭を抱え、ううーん、と唸って倒れてしまいたかった。これが夢で実は目を覚ましたら一人で平和に寝てましたってオチだったらいいのに、この痛みは本物らしい。
「本当にねぇ……酔ってない、って言ってたのに、言い訳もなし、と言ったのに、途中で寝てしまうなんて…」
「まったくだ!明らかに酔ってんのに、言い訳も何も、途中で寝ちまうなんて…っ!……ってえ!?」
やれやれ、と溜息と共に聞こえる俺じゃない声に反射的に怒鳴り返す。けれど…途中で口走った言葉にぴたっと固まる。ちょっと待て、親父は今何て言った?
ちらりと表情を確かめ、一文節ずつ区切って発音してみる。
「……途中で、寝た………?」
「そうだよ。パパがせっかくシンちゃんからお許しを貰ったっていうのに、これからって言うところでスコーンと寝てしまってね。さすがにマグロのままのシンちゃんを抱いても面白くないから、パパ悲しかったよ」
「…ってことは、未遂?」
くすん、と情けなく鼻を啜って、マジックが肩を落として頷く。その後にも「あんなことやこんなことがしたかったのに」とぐだぐだぐだぐだ言い募る親父の言葉なんか一切聞かず、俺は大きな安堵の溜息を吐いた。
「よ、かったー!」
「…全然悦くなんかないよ」
ぐちぐち親父は無視。気が軽くなった俺はいそいそと立ち上がり、機嫌の良い笑顔で扉を示す。
「じゃ、用は済んだから帰ってくれ」
「え?これからやり直しじゃないのかい?」
待ってたんだよ、と言い募る親父の反駁に、にーっこり、と最大値の営業用スマイルで頬を引き攣らせて床を大きく踏み鳴らす。びしりとこめかみに血管が浮き上がる。
「出・て・い・け・!と言ってんだよ」
ピンポーン。
「シンタロー。帰っているか?」
指で示した扉の先で呼び出し音。身体だけは反射的に扉の方へ向くが、頭の中は一瞬で真っ白になった。
扉の向こうに居る声はキンタローだ。
泣き落としを試みていた目の前の親父が、ハンカチを目に当てながら「鍵はかけてあるから」とほざく。
あーそー。用意周到だな、アンタ!と拳を固めるが、ふと気付いた。グンマが一緒だったらあいつは鍵くらい平気でぶっ壊す…。
「シンちゃーん。沢山お酒呑んでたらしいって聞いたけど、大丈夫ー?閉まってるみたいだけど開けるよー」
「今開けるからちょっと待て!!」
やっぱり一緒か!こいつら二人がセットで来るとは本当に始末が悪い。
酔い潰れた挙句、部屋に中に親父を連れ込んでるのを見たら、キンタローの奴は、たとえ何もなかったとしても何かあったと思い込みかねない。多くは聞かないが、とか余計な一言を前置きして、しばらくは酒の席が絡む度にくどくどと言われるだろう。
その上、グンマだ。あいつは絶対愛想よく親父に何をしていたのか聞くだろうし、その上しっかり根も葉もない親父の妄想込みの話を鵜呑みにして、仕事中だろうが人前だろうが、関係なくあけすけに聞いてくるに決まってる。
見られたらまずい!
衝立を蹴倒す勢いでベッドの脇へ向かい、ジャケットやタイ、ベルトを掴んでマジックへ投げつけた。狙いはあやまたず、しっかりナイスキャッチ。
投げつけたジャケット類を抱えてもなお、渋った表情を見せる親父の腕を強く掴んだ。扉の向こうに聞こえないように、少し距離を詰めて声を抑えて、それでも断固命令をする。
「ほら、早く出てけよっっ!」
「えー?」
わざとらしく眉を寄せ、哀れっぽく見せる顔から目を反らし、ぐいぐいとベランダの窓へと引っ張る。
駄目だ。駄目だ。そんな哀れみを誘うような目をして見せても、元美少年でも今は馬鹿でかい親父なんだからな。ここで甘やかしたら住み着かれかねない。
ベランダの向こうは2層程度の居住区画内の吹き抜けだから、閉め出しても問題はないだろう。
「ほら、さっさと出てけ!そこに住み着くんじゃねぇぞ!」
有無を言わせず窓の向こうへ背中を押しやり、駄目押しで眼魔砲一発。
外の様子に構わず内側から鍵を掛けると、目隠しのスクリーンをざっと引き下ろした。足早に室内を一通り巡り、他にマジックの居た形跡がないことを確かめる。よし、これでアイツが居た形跡は一切なし!完璧!
部屋が静かになると、忘れかけていた頭痛が再び蘇ってきた。
扉を開くと、待たされた時間の分だけ眉間に皺を寄せたキンタローと、破壊にしか役に立ちそうもない工具を手にしたグンマが居た。
「シンタロー?」
「悪いな。ちょっと寝てた」
頭痛に顔を顰め、ちょっと飲みすぎた、と言い訳をしてぎこちなく笑って見せた。
グンマは活躍できなかった工具達を仕方なさそうな手付きで一つ一つ丁寧に仕舞っている。
「さっき何か物音がしたようだが?」
「慌てて起きた拍子にコケて部屋の中のもん倒しちまった」
尤もらしい理由をでっちあげ、半身を開いて室内を見通せるようにしてやる。さっき引っ掛けた衝立が倒れているのが見える筈だ。
そして、いかにも頭が痛いと言った風にこめかみを押さえて小さく唸る。
「また寝るから今日はもう引き取ってくれ」
「あぁ、わかった」
門前払いに近い対応に戸惑うキンタローの目が見開かれるが、傍らのグンマに目をやると、納得したように頷いた。
相手の調子にお構いなしに、大袈裟に騒ぐグンマと一緒に過ごさせるのは酷だと判断してくれたのだろう。
「じゃ、今日の成果は明日にでも聞かせてくれ。グンマも悪いな」
最後にそう言い置いて扉を閉めた。そこに背を預けてしばらく気配を消す。
その場で、心配だと渋るグンマをキンタローが宥め、部屋の前から遠ざかる足音を聞くのを待った。
気配が消えてしばらく。ようやく詰めていた息を吐いて、室内へと戻る。手近なソファに腰を沈めると、長い溜息が漏れた。
あれだけの取り巻きに囲まれていた親父は照明の中心に居て、俺は部屋の隅に居たというのに…何で見つけちまうんだろう。
ゆっくりと天井を仰ぎ瞼を伏せると、鼻腔に微かに覚えのある残り香が感じられ、この部屋の空気はまだ親父の気配を残していることが判る。
「まったく…何も見てないって顔してるくせに…親父の奴」
早く換気をするべきだ、と理性は訴えてくるが、こめかみを殴ってくる痛みがそれを打ち消してしまい、そのままソファに倒れこむ。
僅かに残る温もりと更に強まる香りに、頭の痛みが和らぐような気がした。
昨夜は帰ることができなかった。
前もって遅くなると世話を頼んでおいた秘書は、朝も様子を見に来ただろう。
その上で私の帰宅がなかったことを見て取れば食事を用意しているに違いない。
一日の大半を寝て過ごす彼にとって、私の不在はそう大したことでもあるまい。
少なくとも秘書とは顔見知りだし、彼の食事が住むまではその部屋に居てやるようにと指示はしているから、おそらくのんびりと食後の昼寝の時間を楽しんでいる彼の元に戻ることになる、と予想して部屋の扉を開くと…。
扉の前で不機嫌に座り込んだ彼の姿があった。
「あ゛……シンちゃん。ただいま」
『…………』
無言。
大きな丸い黒目がちな瞳が上目遣いにこちらを見上げている。その形は下に弧を描く半月形だ。
いつもなら真ん丸に見開いた目をまっすぐに私の顔へと向けてくるのに、眉間に皺まで寄せられてMの文字になってしまっている。
少し長めのふさふさとした毛は寝癖で乱れることなく身体に沿って滑り落ちており、寝起きという風でもなさそうだった。
「ご、ごめんね。遅くなっちゃって」
目つきに気圧されながらも、掌を彼の頬へと伸ばす。
機嫌がよければその手に擦りよってくれるものなのに、触れる手を避けるように頭を引くと視線も合わせずに踵を返されてしまった。
後姿が語る。
『さっさと部屋へ入れば?』
その後姿について扉を閉めて、私と彼だけしか居ない室内の空気は非常に気まずい。
外出から戻ればいつでも周囲に纏わり着いて、外でつけてきた匂いを全て自分のそれと置き換えようと必死になるのに、今日は数歩前をどんどんと歩いていく。
いつも私が休息に腰を下ろす椅子から2メートルほど離れた場所で立ち止まると振り返る。その目つきはまだまだ半円のままで、眉間もMの字のままだ。
「シンちゃん、怒ってるのかい?」
そんなの見ればわかるだろう、という素振りで伸ばした手の分だけ後ろへと下がられた。目線はこちらに向けたまま。
こういうときの彼は何を言っても聞いてくれない。
溜息を吐くと何事もなかったように、いつもの椅子に腰を下ろし、わざと彼から視線を外してみる。
視線が痛い。
まったく、私から言い訳を切り出せば、聞く耳は持たないとばかりにどこかへ隠れてしまうくせに、実はその言い訳が聞きたくて仕方がないくせに、気のない顔をして。
ちらりと横目でその様子を伺えば、眉間は顰められたまま皺を寄せているけれど、こちらへ向けられる視線はまっすぐだ。
いつもとは違う場所で風呂を使ってきた匂いの違いに気付かれたか。こういう時は例え言葉は通じなくとも、先に謝っておくに限る。
「ごめんね。いつもと匂いが違うかもしれないけど、パパだよ。」
横目に様子を伺ったまま静かに告げると小さく首を傾けるが、一歩を踏み出してくる気配はない。
『ふーん?実は偽者だったりすんじゃねーの?』
ああっ。そんな疑いの目で見るのかい…哀しくなるじゃないか。
苦しさに胸を締め付けられてハンカチを噛み締めて身悶えてしまうじゃないか。
「あれ?シンちゃん、御飯は?」
ハンカチを噛んで彼から目を外すと、その先に映ったのは彼の食事。
いつもなら全て食べ終えて、皿も片付けられているであろうそこには、手をつけた痕跡は僅かにあるものの、半分以上はそのまま残っていた。
留守を任せている部下が食事の時間を間違える筈はないのだが…と首を捻る。
目を据わらせたままこちらを睨んでいた彼は「御飯」という言葉にぴくりと耳を震わせ、急ぎ足でその皿へと走っていく。
『別にあんたを待ってたわけじゃないからなっ!』
私に背中を見せて皿の食事を一息にたいらげようとしている様に目を細める。
「実は私の帰りを待っていたら食事も喉を通らなかったとか?」
『そんなことあるか!』
くるりと背中越しに振り返る目は相変わらず冷たかったが、尻尾の先だけが小さく揺れていて、思わず笑顔を返す。
長いふさふさとした尻尾を軽く立てて先の方だけを小さく揺らして見せるのは、大抵嬉しい時だからこの目つきも照れ隠しの一つだってバレバレだよ。
本当はとても素直なのに、何でこうストレートな表現が苦手なんだろうね。
喉を震わせて笑い続けていると、食事を終えた彼は水を少し飲んだ。少し高い位置にあるお気に入りの場所を陣取るとそこに寝そべって。視線だけはこっそりとこちらに向けるけれど、表情は無関心。
私は寂しさに胸を締め付けられながらも、視線に気付かない振りをして帰宅してから片付けるべき事柄へと目を通すことにした。
書類に目を通し、ふと視線を上げた先が、彼のお気に入りの場所だ。
いつもなら、そこで作業が終わるのを待ち、あるいは待ちきれずにそこから降りてきて『早く構え』と私にプレッシャーをかけてくるのが常の状態で、私の方も常に視界の端にそこを留めるようになってしまっている。
今も何気なく上げた先で、ゆったりと優雅に身体を伸べて寝そべる彼の姿が映り、動くものへ無意識に向いてしまったと思える視線とまっすぐにかちあった。
一瞬大きく見開かれた瞳は、即座に背けられる。
『あんたを見てたわけじゃない』
「わかってるよ。シンちゃんはパパが帰ってこなかったら、怒ってるんだよ、ね?」
少し芝居掛かっていると承知した上で、大袈裟に情けない声を上げて視線を外して見せる。無造作に垂らされた長い尾が葛藤を示してぱたぱたと小刻みに揺れるのが気配で伝わってきて、思わず内心笑いながら、しおらしく更に続けてみる。
「いいんだよ。もうシンちゃんに許してもらえるわけないんだよね。今度から御飯もお世話も全部私ではない者に任せることにしようか…」
ちらりと横目で棚の上を見上げると背けた頭の耳だけがぴくりと大きく動いた。尾の先が伝える葛藤は更に大きくなってきていて動揺を隠しきれていない。
徐に椅子を立って、深く溜息をついて卓を離れようとする。
ちりん、と柔らかな音が響いて、床へ降り立つ軽い気配。そのままするりと暖かなものが触れてきた。
そっと頬へ手を伸ばすといつもよりは大分遠慮がちに、それでもしっかりと押し付けるようにして摺り寄せてくる。そのまま親指で耳の後ろを撫でてやり、軽く顔を上向かせてこちらを向かせる。
あ、まだ目は半月だね…。
「シンちゃんはもうパパじゃなくってもいいんじゃなかったのかな~?」
思わず目を細めて見詰めると、眉間の皺をそのままに目を細くして強く頬を押し付けてくる。
高く垂直に伸ばされた尻尾も足に絡みつくように纏わりついてきて、言葉以上に雄弁な感情。
この不器用な伝え方が愛しくて仕方なくて、思わず腋に手を入れて抱き上げて私からも頬を擦り寄せる。
「本当にシンちゃんは、パパ大好きなんだねぇ」
『……そうかもしれねーけど……でも、そんなんじゃねぇよ。』
いつもならこんなに長時間抱き締めさせてくれないのに、今は必死で我慢しているんだろう。
抱き締めた暖かい体がひくりと小さく強張り、垂れ下がった尾が忙しく揺れる。
まったく…感情表現が下手だと思われがちなお前だけれど、愛しくて仕方がないよ。
言葉や表情での表現こそ苦手だろうけれど、それ以上に大切なことだけは温もりで伝えてくれるじゃないか。
いつも癒してくれてありがとう。
だけど、三日くらいは朝帰りしたことは許してくれないんだろうね…。
その甘やかに響く声に蕩け落ちる。
そのすべらかな指先に熱を奪われる。
触れて交わし合う度に体内に篭る筈の熱は全て奪われて、ただただ凍える冷たさだけが残る。
これは全て悪いことだから。
俺が悪いものだから。
だから、あの人の繊細な指は美しい身体は熱くなることがないのだ。
そして俺だけがどんどん熱を昂ぶらせて開放を求める。
なんて…。
なんて………。
こんなことを続けていい筈がない。
こんなことをしていていい筈がない。
あの人がこんなことをするのは俺が悪いから。
あの人が冷たいままなのは俺が熱くすることができないから。
きっと昔、あの人と熱を共にした人が居たというのに。
いくら外見が似ていても、違うものなのだと思い知らされる。
同じであればよかったのに。
同じであれば、あの人に熱を与えることができたのに。
実際には俺の熱はあの人に奪われるだけで。
あの人はずっと冷たく凍えたままなのだ。
あなたを温めたいのに。
あなたは望んでいないだろうけれど。
それでもあなたを温めたいんだ。
あなたの望みを叶えようとして、どんどん俺が冷たくなっていくのを感じる。
俺の望みを呑み込む度に、俺の熱があなたに伝わらないことを感じる。
もうやめよう。
そう言えたらどんなにいいか。
あなたの指や声に侵された自分に言えるはずもなく。
もうその指や声を失うことなど考えたくなくなるほどに、溺れて染められていく。
侵され、あなたと触れる肌の距離はこんなにも近い筈なのに、初めて会って見上げた時よりも遠く感じられて。
肌を重ねる度に苦しさは増していくけれども、離れられない。
苦痛は嫌悪ではないから。
こんな苦痛を誰にも悟られてはいけない、と抱え込む。
胃がぎりりと音を立てて軋む。
この音はあの人にも悟られないように。
そうして更に冷たさが増していく。
温もりを求めて触れ合う行為がどうしてここまで冷たい?
いつか温められたらいいのに。
イタタマレズニ ヘヤヲ デタ。
午後になると「おやつの時間」と称して、グンマが強制的に俺やキンタローに休憩を仕向けにやってくる。
ただのあいつの自己満足かと思っていたのだが、ヤツに言わせると「そうでもしないと二人ともずーーーーっと仕事しっぱなしで倒れちゃうでしょ!」という一見正論とも思える理由を振りかざしてくるのだ。
更にキンタローを先に説得してラボから連れ出して来られた日には、あいつにまで働きすぎを強調される始末だ。
人の事を言えるのか、と切り返そうにも今から休憩に向かうヤツ相手では分が悪すぎる。
しかして、単なる趣味だとしか思えない甘い茶受けの洋菓子とゴールデンルールで淹れられた薫り高い紅茶が用意され、しばらく山積みの決裁待ち書類から強制開放される時間が訪れることとなる。
毎日毎日律儀に守られるこのルール。グンマは嬉々としてやってくるし、キンタローもそのまま受容しているように見えるが、俺は未だに日課として馴染み切れない。
あの島に居た頃だって、やることが山盛りある中、強引に遊びに巻き込まれたり、突発事項は人の都合を考えずに舞い込んで来て、その都度振り回されながらもどうにかやってきたのだから、そんなに簡単にペースを崩される筈はないんだ。
そう信じていたのだけれど、どうやら煩雑さがどうのという類のものではなかったらしい。
多分、時としてそこに混ざるのが引退したアイツであったり、美貌の叔父であったり、はたまた、いつもはどこに居るのかわからない金遣いの荒いもう一人の奔放な叔父であったりするのも一因なんだろう。
美貌の叔父はともかくとして、他の二人のどちらが揃ってもロクなことはないが、両方揃えば、どこが休憩だよ、と突っ込まずには居られない騒ぎに発展しかねない。
下手に付き合うくらいなら、仕事詰めの方がマシなんじゃないかってくらいの騒がしさ。そして場合によっては破壊がオマケについてくることもある。
珍しく、そんな厄介なメンバーが、もれなく一揃い居合わせた日のこと。
賑やかではあるけれど、どことなく長閑な穏やかな空気が紅茶と甘い洋酒を含んだ菓子の匂いと共に室内を満たす。
こめかみに木の杭を打ち込まれるような、がんがんという痛みが鈍く響き始めた。
その音と周囲の和やかな笑い声、雰囲気が、薄紙一枚隔てて鬩ぎ合い、心の奥底から言い様のない不快感を呼び覚ます。
きらきらと光る金色。明るい空の青色。
それはとても綺麗で、幼い頃に焦がれた色。
自分の持っていない色。
今の自分が今のままでいい、と思っているし、それは間違いないことで。
俺の24年間は俺のものだから、誰に恥じるものでもないのだけれど。
それでも、その間に得てきた諸々のものは全て本当は他の誰かが享受すべきものだったのでは、と涌き上がってくるこれは。
ふと思いついただけの疑問のようでいて、ずっとこの4年間、思い続けてきたものかもしれない。
考え始めればキリがなく、こめかみを鈍く叩く杭。
誰にも気付かれることのない痛みに眉を寄せ、自分に向けられる暖かな視線から目を背ける。
寄せられる好意にいつでも不機嫌を装ってきたから、多分誰も気付かない。
気付かれずに目の前で流れていく会話に適当に相槌を打ちながら、頭の端にこびりついた考えは止まることなく流れ続ける。
24年間自分だと思っていた身体は、
今の身体にしたって、
受け取ってきた愛情にしても、
全て本来受け止めるべき誰かがいたはず。
そう。
この魂でさえ、
普段なら考えもしないような、
普段なら忘れていたようなことが一気に膨れ上がる。
胃の奥に固いしこりが生まれ、喉元目掛けて競りあがり、零れそうになる呻き。
それもこめかみの痛みと眉間の皺に掻き消され、唇を噛むにも至らない。
俯けば頬にかかる自分の黒い髪。
彼らの持つそれとはまったく違う。
目を背けた先の天井の色は無機質な灰色で、瞼の裏に常に思い描く楽園の青には程遠く。
青の鮮やかさとの落差に溜息が漏れる。
幼い頃に焦がれたあの色と、彼らが互いにあまりにも優しくて。
そこに俺も居て当然という顔をしたりするから。
俺だけが黒い髪で、俺だけが黒い瞳。
違うことに意味なんかないと彼らは笑うのだけど。
それでも、時々重くなるんだよ。
こいつらの頂点に立って、俺がやりたいことをやる、ということが。
あの叔父との反目を呼んだということが。
青い瞳と金色の髪の一族を率いるのが黒い俺であることが。
あんたが着ていた赤い服を引き継いでも、どこかが違っていて。
黒い髪により禍々しく映える赤。
それが俺なんだとわかってはいるけれど。
笑顔を作りながら、眉を顰めながら、
どこかでこいつらは結局俺とは違うんだ、と自分の中で膨れ上がる違和感は押さえようもなく。
常の疲労を言い訳に、ソファから立ち上がると口の端に軽く笑みを掃いて見せる。
多かれ少なかれ俺を気遣う表情に曇るであろう、あいつらを安心させるために、気休め程度にしかならないかもしれないが、疲れているのも事実だし。
案の定、親父の顔にはかなり大袈裟な「心配」という文字が浮かび上がる。あんた、ほんっとに引退してから親ばかに拍車かかったな。
居た堪れずに部屋を出た。
室内の暖かな空気とは対称的な、ひんやりとした廊下の空気。
ようやくこめかみの痛みをそのまま溜息にして大きく吐き出せば、視界に闇が下りてくる。
仕事に戻る気にもなれず、屋上へと足を向けて階段を上っていく。
高層階の屋外には強風が吹き荒れるが、頭上を仰げば青い青い空が広がっていた。
まるであいつらの瞳の色や、あの南の楽園の高い高い空の色には敵わないけれど、それでも透き通った青。
ああもう。
大好きだよ。お前ら皆。
一緒に居るのが苦しくなるくらいだ。