暮六つの頃、アラシヤマは、最近すっかり板についた貧乏浪人の着流し姿で、指定された場所まで歩いていく途中であった。
「根岸まで行かなあかんのどすか?それは別にええんやけど、用心棒やったらこれから一日中立ってなあきまへんのやろ?面倒でおます~」
そう、ブツブツと言いながらも、指定された家の灯りが見えてくると、同時に三味線の音も聞こえてきた。
(しかも、囲い者のお妾さんのはずが、その正体は武芸者の男やて?いくら任務のこととは言え、張り合いがおまへんなぁ・・・。シンタローはん以外の男を守るやなんて寒気がしますな!それにしても、狼連役の連中は、面白うないですやろうなぁ・・・。相手が美女やったらいざ知らず、美女でも何でもない男を美女と偽って噂を流さなあかんやなんて無理がありますやろ。あっ、そういや、他人事やのうてわてもそうせなあかんのどしたな。仕事とはいえ、えらい、気がすすみまへんが)
アラシヤマはそう思いながらも、三味線の稽古が終わり、狼連役の連中が外に出てくるのを待った。
「今回のこの役は、本当に役得ですなぁ・・・」
「拙者、ファンクラブがあれば入りたい・・・」
「稽古に通うのが楽しみですな!三味線の稽古は厳しいけど、あの色気には・・・」
などと、連中は話しながら去っていったが、物陰から様子を伺っていたアラシヤマは、彼らの様子に非常に驚いた。
(な、何ですのん!?この連中・・・。てっきり、ガッカリしてるものやと思ってましたのに)
不気味に思いつつも、繋ぎをつけるために、教えられた通りに裏口の戸を3回叩くと、足音が聞こえ、木戸がゆっくりと開いた。
アラシヤマは、戸を開けたシンタローを見て、非常に驚き、言葉が出てこなかった。
シンタローの方も、用心棒役がアラシヤマとは聞いていなかったらしく驚いた様子であったが、アラシヤマよりも立ち直りが早く、彼の腕を引き、木戸の内に引き入れた。
「な、な、何でッツ、シンタローはんがここに居るんどすかぁ!?しかも、何で女物の服をッツ??これって、わての夢!?」
アラシヤマは、混乱しつつも、小声でそう聞くと、それは、シンタローには触れられたくないことであったらしく、
「夢じゃねぇし、何で何でってうるせェッツ!!俺だってスッゲー、嫌なんだけど、親父がいつ奴等が来るか分からねぇから着てろっつーんだよッツ!!」
と、まず、アラシヤマを殴ってから、これまた小声で答えた。
「い、痛うおま・・・」
と、アラシヤマは、殴られて正気に返ったようであったので、とりあえず、シンタローはアラシヤマを家の中に入るように促し、稽古場として使用している部屋に案内した。
三味線や撥が先程の稽古に使ったまま置いてあったので、シンタローが稽古時に座っていた所に再び座ると、アラシヤマはその対面に座った。
アラシヤマはシンタローをボーっと見ながら、
「シンタローはん、そういう着物、似合いますなぁ・・・。女とは違いますが色っぽうおます。って、あんさん、何て格好してはりますのー!!」
「へ?何が??」
「そういう着物で胡坐かいたら、足が見えますやろ!!あっ、鼻血がでそうどす。まさか、あんさん、さっきの連中の前でも・・・」
「男の足が見えたからって、何だっていうんだよ!?一々文句つけてんじゃねーよ!!」
「―――もうちょっと、危機感を持っておくんなはれ。何かがあってからやと遅いんどすえ?」
溜息を吐きながらアラシヤマはそう言ったが、
「何かって、何だヨ!!さっきから、わけ分かんねぇことばかり言ってんじゃねぇッツ!!」
シンタローは手近にあった三味線の撥をアラシヤマに向かって投げつけた。
撥の柄がアラシヤマの額にゴスッと当たり、
「な、何しはりますのんッツ!!ア痛タタ・・・」
アラシヤマは、柄が当たった箇所を手で押さえながら、
「絶対、跡が赤うなってますって、コレ・・・」
と情けなさそうに言った。
「そんなのは、どうでもいいから、とにかくこの状況を説明しろヨ!!親父からは、夜、此処に用心棒として訪ねてくる奴から聞けって言われたゾ?」
「えっ?あんさん、きいてへんの??とりあえず、明日からわてらがある町内に噂を流しますさかい、その噂が町内に広まるまで大体5日ぐらいどすな。賊は、この家の図面を持っていることと、捕まってないことに天狗になって奉行所を馬鹿にしてますさかい、おそらくすぐに行動を起こして10日目前後には来ますやろ。わては、この近辺の家から朝ここに通ってきて、夜に狼連が帰るまで門の前に立ってます。その後は、後をつけられんようにしてここに戻ってきますわ」
「俺は?」
「ここは塀が高うおますさかい大体は普通にしといてくれはったらええんどすが、ただし、絶対に敷地外へ出たらあきまへん。何か要るものがあったらわてか狼連の連中に言うてください。賊が2人おりますが、婦女暴行をしとるんは首謀者の男だけどす。賊の動きは大体こっちで見張ってるんで、繋ぎが来たら家全体に例の香を焚きます。わてらはドクターが作った解毒剤を飲んどかなあきまへんな。ほんまに効き目があるんか分かったもんやおまへんが。まァ、賊には香の効果で女物を羽織ったあんさんが女性に見えとるはずやから、油断させて、できれば捕まえておくんなはれ。お奉行の話やと、捕まえるのが無理そうやったら始末してもうてもええそうどすが」
「ぜってー、捕まえて、今までやってきたことを後悔させてやるッツ」
「シンタローはん、武器は?」
「小柄と木刀」
「刀は要りまへんの?」
「刀を使うと、殺しちまうかもしんねェダロ?あくまで、捕まえることが目的みたいだし」
「まァ、シンタローはんやったら大丈夫や思いますが」
「あったりめーだ!」
シンタローがそう言うと、アラシヤマは頷き、
「ほな、わては今日は帰りますが、明日からここの雇われ用心棒やさかい、よろしく頼みますえ?」
と刀を持って立ち上がり、部屋を辞した。
シンタローも立ち上がってアラシヤマを玄関先まで見送り、
「しっかり働けヨ」
と言った。
アラシヤマは、非常に不機嫌であった。何故なら、自分はシンタローに会えないまま、ほぼ1日中門の前に立っているのに比べ、狼連の連中は非常に楽しそうだからである。
狼連が実感を込めて語ったおかげか、噂は順調に町内に広がり、現在、「根岸の妾宅には金持ちのご隠居に囲われている美人で鉄火肌の三味線の師匠が居る」という評判でもちきりであった。その美女が稽古以外では中々姿を見せないということも人々の興味を引いてはいたが、その町内は根岸からは遠かったので、わざわざ見に来てやろうという物好きは居なかった。
(こんなに近くに居るのに、こんなんやったら、会ってへんのと一緒ですやろ)
そう思ったが、ただし、シンタローの手作りの料理を食べられるという小さな幸せもあった。
(シンタローはんは、料理が上手どすなぁ・・・。今日のお昼は何を作ってくれはるんやろか)
と、少々夢の世界に行きかけたアラシヤマであったが、ふと、道の前で妾宅を窺う不審な老爺に目を止めた。一見、普通の通行人のようであったが、アラシヤマの目からすると、常人にしては隙がなさすぎた。
宵五つの頃、狼連が全て帰るのと同時に、アラシヤマも帰る振りをし、連絡役と繋ぎをつけると再び妾宅に戻ってきた。
奥の部屋で寝ているシンタローに近づき、
「シンタローはん、起きておくんなはれ」
と声を掛けた。
シンタローは、すぐに目を覚まし、
「来たのか?」
と言った。
「いえ、まだどすが、たぶん明日の夜来ます。今日は、家の周りを不審な老爺が窺ってました。たぶん、賊の一味どす。年寄りの方は用心深そうどすけど、若い方は思慮が浅そうですな。おまけに、年取った方の忠告はどうも聞いて無いみたいどすえ?だから、明日か明後日には来ますやろ」
2人は明日の段取りをもう一度確認し直した。
次の日の夜、狼連の連中が帰ると、2人は解毒薬を飲み、家中に香を焚いた。お香は少し花の香りがしたが、それはほんの僅かであったので家中に炊いても違和感は無かった。
シンタローは、稽古に使われる部屋に布団を敷き、アラシヤマは奥の部屋に控えた。
夜九つの頃、勝手口の方から微かに物音がし、2人の黒い人影が入ってきた。
若い方の人影は、寝たふりをしているシンタローの顔を持っていたカンテラの光で照らすと、
「噂は当てにならないと思っていたが、予想以上の上玉だな・・・」
と呟いた。
「若、また悪い癖をお出しになるおつもりですかい?さっさと殺っておしまいなせぇ。女を生かしておくと、何処からアシが着くかわかりませんぜ?」
と年老いた方の影は嗜めるように言った。
「煩いっ!お前は早く金目の物を探してこい!!」
と、若い方の影が苛立ったように言うと、年老いた方の影は諦めたように溜息を吐き、奥の部屋へと向かった。
奥の部屋に向かった老盗が襖を閉め部屋に入ると、気配を消して襖の近くで待ち伏せていたアラシヤマが、手刀で老盗の首筋を強打し、一瞬動けなくなった老盗にすかさず当身を喰らわせた。気を失ってその場に崩れ落ちた老盗に猿轡をかませ、袖口から出した捕縛縄で逃げられないように縛り上げた。この間の一連の動作は音を立てずに行われたので、襖の向こう側に気取られた様子はなかった。
「あんさんには後々、色々と喋ってもらわなあきまへんからな・・・」
そう小声で言うと、アラシヤマは襖を開け、稽古場へと入った。
老盗が部屋から出て行った後、若い方の影はシンタローの着物の袂を肌蹴ようと手をかけたが、その手をシンタローは掴み、起き上がり際に盗賊を投げ飛ばした。
「なっ、何だ!?」
投げ飛ばされた盗賊は非常に驚き慌てたが、体勢を立て直し、匕首を引き抜くと
「やあっ!」
と気合声を発し、シンタローの方に向かってきた。
シンタローは、布団の下に置いてあった樫の木でできた木刀を取り出すと、下段に構え素早く正眼に構えなおすと向かってきた賊の腕を木刀で打った。
鈍い、骨の折れるような音がし、
「ぎゃあっつ」
賊は呻き、持っていた匕首を思わず取り落とした。
「口ほどにもねぇ」
と、シンタローが蹲って手を押さえている賊を見下ろすと、
「お見事」
背後からアラシヤマの声がした。
「さすがはシンタローはんどすな!後はわてにまかせておくんなはれ」
アラシヤマはそう言うと、捕縛縄を賊にかけ、賊を縛り上げた。
アラシヤマは賊を縛ると、一旦暗闇の中に消え、2人の捕り方を連れて戻ってきた。捕り方は、シンタローに向かって、
「失礼」
と会釈をして、部屋に上がりこみ、奥の部屋から気絶している老盗を2人掛かりで引き立てると、再び一礼をして出て行った。
「何だよ、あいつ等?」
と、シンタローが言うと、
「お奉行はんの部下どすえ~。まぁ、こっから先はあまり気持ちのええ話やおまへんな。わて、あれを見た時には悪い事はするもんやないと背筋が寒うなりましたわ」
と、飄々とした調子で言い、ヘラっと笑った。
「さて、シンタローはんとこのままずっと話していとうおますけど、わてにも仕事がありますさかいな。あっ、そうや!明後日、明神さんへ一緒にお参りにいきまへんか?この前はそんなにゆっくり会えへんかったし」
「・・・行ってもいいゼ」
シンタローがそう答えると、アラシヤマは、非常に吃驚した様子で、
「えッツ!?ほんまどすかぁ?わての聞き間違いやのうて!?」
と、非常に嬉しそうであった。
「やっぱ、今のナシ」
その様子を見ていてなんとなくムカついたシンタローがそう言ったが、アラシヤマは、
「嬉しおす~!!シンタローはんとデートどす~♪ほな、待ち合わせは、昼八つにまた道場近くの茶屋で!」
―――全く聞いていない様子であった。
「デートじゃねェからなッツ!!」
シンタローは、そう念を押したが、アラシヤマは適当にハイハイと返事をしながら、盗賊を縛っている捕縛縄の端を持つと、
「今からシンタローはんと別れてこんなムサイ男と道行きやなんて、非常に嫌でおますが、仕事やから仕方おまへんな。ほな、シンタローはん、明後日お会いするのを楽しみにしとりますさかい!!」
そう言って、草履を履くと、賊を引っ立て木戸から出て行った。
それを見送っていたシンタローは、(もしかして、あんな約束しない方がよかったか?)と少々後悔しながら溜息を吐いた。
賊は、アラシヤマ1人のことであるし、隙あらばいつでも逃げ出そうと考えていたが、そのアラシヤマには隙が見当たらなかった。
後ろ手に縛られたまま、アラシヤマに縄の端を持たれて、川沿いまで出たとき、不意に、縄を放された。
非常に驚いた賊は、
「!?」
と、状況が把握できずに呆然とした後、我に返って逃げようとしたが、アラシヤマが太刀の鯉口を切ったかと思うと、その一瞬後、賊は頚動脈を撥ね切られて前のめりに倒れ伏した。
「せっかくシンタローはんが助けた命やけど、もともとこういう筋書きになっとったんどす。悪う思わんと成仏してや。まァ、どっちにしろ地獄行きやろうけど・・・」
アラシヤマは、刀に付着した血を拭い、刀を鞘に収めながら無表情に呟いた。
何所からともなく黒衣の人物が現れ、大八車に息絶えた賊を乗せ、薦を被せると再び闇の中に消えていった。
「いくらわてでも、流石に明日すぐにはシンタローはんに会えまへんな・・・。わても、死んだら地獄行き確実どすわ」
そう言うと、アラシヤマは橋を渡り、仮住まいの我が家へと向かって歩き出した。
そろそろ時は暁七つの時刻となり、夜蕎麦売りの屋台の風鈴の音も路地裏に消えていった。
空が白み始めるのを待たずに、石町の鐘が寝静まる江戸の町に響き渡り、新たな一日の始まりを告げた。
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三河屋の2階座敷で、高松とシンタローは、向かい合って座り、天麩羅蕎麦を食べていた。
もう既に昼八つの時刻であり、2階席は1階席よりも値段が高かったので、2人の周りには客は居なかった。
蕎麦を食べ終わったシンタローは箸を置くと、
「でッツ!話って何だよ?」
と、高松を睨み付けながら言った。
高松も箸を置くと、
「シンタロー様は、近頃、江戸に出没している凶盗の噂はご存知ですか?」
と、改まった様子で訊いた。
「知らねぇナ。親父の仕事には首を突っ込まねぇことにしてるんだ」
と、にべも無い様子で言った。高松は、身を乗り出し、
「マァ、知らなくても無理はありませんね。世間には広まっていないはずのことですし。これは絶対に内密にしてほしいのですが、今、江戸の街には、弱い立場の者を狙った、非常に卑劣な悪党が横行しているんですよ。・・・妾宅を狙った婦女暴行強盗殺人です。死んだ妾達は妾宅という事もある手前内々に葬られますし、生き残った彼女たちは、表沙汰になることを非常に恐れて、でも、非常に悩んだ末、マジック様が設けた“人には知られたくないけど解決して欲しい悩みを訴える目安箱”に匿名で手紙を投じたんです。マジック様は、前々から隠密廻りを使ってその調査をなさっていましたが、相手は利口な奴等でなかなか尻尾を出しません。でも、調査の結果、粗方、様相が分かったので、今回、一気に誘き出して決着を着けることを決断されたんです。それには、ぜひ、シンタロー様のご協力が必要なんです」
そう、真剣な顔で言った。
シンタローは、話を聞いた後、しばらく黙っていたが、
「分かった。そんな卑劣な奴等は許しておけねェ。それで、俺は何をすればいいんだ?」
と言うと、高松は、ホッとした様子で、
「ご協力してくださるんですね!?男に二言はありませんよね??」
「くどいッツ!とっとと言えよ!!」
「では、まずは、シンタロー様の武芸の術を見込んでのお願いなのですが、シンタロー様には“囮”になっていただこうかと思います」
「フーン。囮・・・って、オイッツ!!狙われているのは妾ダロ!?俺に女装しろってことかヨ!?ぜってー、ヤダッツ!!それに、どうやったって俺は女に見えねぇと思うし」
「・・・もともと、捕り物に女性を使う事は禁止されていますし、例外としても今回の任務の囮役を女性にすると危険なんですよ。相手はなんにしろ不気味な奴等ですし、万が一にも女性を危険にさらすわけにはいけません。女性に見えるかどうかということは、心配ご無用ッツ!!そのために、この長崎で入手した曼陀羅花の香を焚くのですから。これがあれば、相手の思い込みがあるきっかけによって引き出され、幻覚が見えるんです。この場合、きっかけは女物の服装ということになりますので、女物の着物を着ていただくことは仕方がないのですが、シンタロー様の武芸の腕を見込んでのことなのですよ。人助けだと思ってお願いします!!」
そう、高松は頼み込んだ。シンタローは、どうしようかと迷っているようであったが、不意に、
「別に、俺じゃなくてもいいんじゃねぇの?腕の立つ奴は、与力とか同心の中にもたくさん居るだろ?」
そう言った。
高松は、
(気付かれましたか・・・。まぁ、シンタロー様を女装させるという趣向はマジック様の趣味というか遊びですし。中々、シンタロー様も鋭いですね。でも、まだまだですねぇ)
と心の中で思いつつも、何食わぬ顔で、
「これは、極めて私的な件なので、秘密を知るものが少なければ少ないほど良いんですよ。信頼できる相手というのも限られていますしね。中でも、一番腕が立つのはシンタロー様とのお奉行のご判断です。あっ、言い忘れていましたが、一応、三味線の女師匠という設定なので、三味線が弾けないと駄目なんですよ。シンタロー様は弾けるでしょう?」
と、シンタローに言うと、シンタローは反論の糸口を失ったようで言葉に詰り、
「しょーがねーな。女装でも何でもやってやるよ!!」
と、半ばヤケ気味に了承した。
高松は、(やれやれ、ここまで話を持ってくるのにかなり疲れましたね。後から奉行に経費&精神的疲労の慰謝料を請求しなくては・・・)と、考えながら、湯飲みを手に取り、蕎麦茶を一口飲んだ。
「おーい、コージおるんかァ?」
売ト者姿のトットリが返事を待たずに建てつけの悪い引き戸を引き開けると、コージは手に丼を持ち、深川飯を食っていた。
「居るんやったら、返事ぐらいするっちゃ」
と、トットリが言うと、
「なんじゃあ。わしは今飯を食うとるけぇ、物を口に入れたまま話すと行儀が悪いじゃろ?ところで、何の用じゃ」
と、丼と箸を手放さないままそう答えた。
トットリは勝手に上がりこみ、囲炉裏の前に座ると、
「仕事の話だっちゃ」
と短く言った。
コージは改まった顔になり、
「お奉行か?」
と訊くと、トットリは無言で顎を引いた。
「わしゃぁ、どうもあのお奉行は苦手じゃあ。できれば、関わりとうないのォ」
「そういうわけにもいかんがや。相撲を辞めてからは図面を盗賊に売り渡しとったお前が、こうしてカタギの大工に戻れたのもマジック様のおかげと言えばそれまでっちゃね」
「それは重々に分かっとるんじゃけど、わしは生き別れの妹を探しちょるけんのォ。もし、妹が見つかったら、危ないことには巻き込みたくないんじゃ!!」
「まァ、気持ちは分からんでもないっちゃ。ところで、根岸の方で盗賊に図面が渡っている妾宅とかの心当たりはないだらぁか?入れ替わりの激しい、今は空き家になっとる壁の高い家があればええんやけど」
コージは丼を置き、片手でガシガシと頭を掻いた。
「あ゛ーッツ!!いつになったら、おんしらと縁が切れるんじゃろうか!?・・・大坂屋の寮から少し離れたところに建っている、加賀屋が妾宅用に立てた別荘が条件に合うとるけぇの!多分、今は小隈屋が管理しとるが空き家のはずじゃあッツ」
トットリは懐から紙包みを取り出すと、コージに渡し、
「いつも、すまんっちゃ。―――僕も、この任務が終わったら、妹さんを探すのを手伝うわ」
「・・・縁切りたいとか言うてしもうて、すまんかったのォ。まぁ、おんしが悪いわけじゃないのは分かっちょるはずなんじゃが」
「今度、飯でも奢るっちゃね。でも、コージに飯奢っとったら、金がいくらあっても足りんわナ」
「おんしは、一応お役人様じゃろ?酒もつけんかい!!」
コージが笑いながらそう言うと、
「同心は、貧乏やから、勘弁してくれっちゃ!」
トットリは、下駄を掃き、土間に置いていた筮竹や台などを一纏めにした荷物を担ぐと、再び開きにくい戸を片手と足で開け出て行った。
黒い、漆塗りの文机の上に置かれた数枚の手紙を見つめ、町奉行のマジックは思案していた。
手紙はいずれも、女文字で書かれ、書かれた際に非常に動揺していたためか、文字が震えていた。
深刻そうな彼の表情とは対照的に、部屋の障子が開け放たれ、そこから見える庭の景色はいかにも秋といった風情であり、楓の木の葉が秋の日差しを受けますますその紅い色を際立たせていた。
「うーん。やっぱり、これをこのまま放って置くと拙いよねぇ。ここは、燻り出して一気に叩くしかないんだけど・・・」
マジックがそう呟いて手紙を文箱に直すと、廊下を歩いてくるかすかな足音がし、用人のティラミスが、
「お奉行、医師の高松先生がお見えになりましたが」
と、障子の向こうから声を掛けた。
「通せ」
マジックがそう答えてしばらく経つと、十徳姿の高松が現れ、
「お久しぶりです。2日前に江戸に戻ってまいりました」
と、マジックに挨拶した。
「ドクターが居ない間、腕のいい検死医が見つからなくて困ったよ。ところで、長崎での遊学はどうだったんだい?」
「本当に、興味深いことがたくさんありましたよ。医術も本草学も、やはり長崎は進んでいますね。でも、進んでいる反面、阿片等の麻薬が横行していて、向こうの役人は苦労しているみたいでしたよ。あんなものが江戸にも蔓延りだしたら、江戸も一気に駄目になりますね」
「麻薬か・・・。それは、由々しき事態だな。今は、江戸には出回っていないみたいだけどね」
「マァ、毒と薬は表裏一体といいますから、一部の毒薬には医術の役に立つものもあるんですが。そうそう、麻薬といえば、マジック様、長崎で変なものを入手しましたよ」
そう言って、高松は懐から手のひらに乗る程の大きさの小さい包みのようなものを取り出した。そして、その包み紙を取り去ると、中からは朝顔のような植物の形を模った香合が現れた。
マジックが、興味深そうに、
「ドクター、何だね?これは」
と畳の上に置かれた香合をのぞき込むと、
「曼陀羅花という植物から作られた喘息用の薬なのですが、これは幻覚作用を持ちます。これを取り扱っていた中国人の薬商の話によると、コモロ茸とかいう毒茸の胞子も入っているようで、その胞子が幻覚を引き起こすのに大きく関与しているみたいですね。本来なら内服用ですが、燃やして出た香を吸い込んだ人は、自分が思い込んでいる通りのものが、あたかも現実のように見えたり感じられたりするらしいです。身体に害は無く、効果も1刻程で切れますけどね」
「って、誰かに使ったの?ドクター??」
マジックがそう尋ねると、高松は誤魔化すようにハッハッハッと笑い、
「医学の進歩には犠牲がつきものです!!って、誰も死んでませんし、予め試薬試験をして安全そうだから同宿の医生に使ってみたのですが。それにしても、この効き目はすごいですねぇ・・・。同じ宿の食い意地の張った奴なんか、菓子の本を見ていたのですが、前々から食べたいと思っていた菓子が本物のように目の前に出てきたって言っていましたよ。でも、金持ちになりたいとか言っていた奴は千両箱を見たことが無かったので傍に置いてあった1文銭が大量に見えたらしいですけど。どうも、幻覚は現実にあるものに多少変化を加えて出てくるらしいですね。暇だったので、ついでに解毒薬も作ってみましたよ。流石は天才科学者!!」
と、高松が自画自賛しているのをマジックはハハハと笑いつつもその実聞き流していたが、
「ふーん、って、ちょっと待てよ?ソレ、使えるかもしれんな」
と言って、マジックはしばらく考え込むと、高松を手招きし、「かくかくしかじか」と、先程まで悩んでいた内容と、幻覚薬の使い道を高松に説明した。
それを聞き終わった高松は、
「そういうお話ならぜひコレを使って下さい!面白そうですしね」
と、マジックの頼みを承知した。マジックは、
「これで、肩の荷が下りた気分だよ。私はもともと辛気臭いのは苦手だしね。あっ、そーだ!!ついでだから、遊んじゃおうっと♪」
そう言って、マジックは自分の思い付きを高松に楽しそうに話したが、高松はそれについては少々懐疑的であった。
「そう、うまく事が運ぶものですかねぇ・・・。シンタロー様は、そういうのは嫌がりそうですし」
「なぁに、大丈夫だよ♪シンちゃんは正義感が強いし、まぁ、一応こっちには切り札があるし。」
「切り札って、あの件ですか?そう、軽々しく出しちゃっていいものなんでしょうか?」
「もともと、私は以前からそういうつもりだったしね。シンタローが思い込んでいるのとは違うよ。それ、シンタローには全然、言ってないけど」
高松は、しばらく腕を組んで考えていたが、突然ニヤリと笑い、
「お奉行様も、お人が悪いですねぇ・・・」
と、軽い調子で言った。
それを見ていたマジックも、ニヤリと笑い、
「なんの、高松。そちには敵わぬわ」
と芝居がかった調子で応じた。
部屋からは、
「アーッハッハッハッ!」
と、高笑いが聞こえたが、もし、その光景を見ていたものが万が一にもいたとすれば、いかにも悪役の密談といった風情であった。
ガラッと長屋の戸が開き、任務から帰ってきたアラシヤマは土間で草履を脱ぐと、深編み笠を板の間に放り投げた。
「やれやれ、たくさんの人に会うと疲れますなぁ・・・。中でもあの親馬鹿奉行は格別どす。早う隠居して、シンタローはんに代替わりしたらええのに」
そうブツブツ言いながら、彼は、帰り道に振り売りから買って来た惣菜を流しの方に置き、畳にゴロリと寝転んだ。
(それにしても、囲い者の家の用心棒をやれやて?奉行も、ついにあの件の始末をつける気になったんやろか?ま、何にしろ、任務に片がつくのはええことどすな!アレ以来、シンタローはんには会うてまへんし・・・)
アラシヤマは勢いをつけて起き上がると、内職道具を部屋の隅から引っ張り出し、桃や柳の枝を削って器用に房楊枝を作りながら、
「あぁー、シンタローはんに会いとうおます~~」
と、溜め息を吐いた。
アラシヤマが長屋に帰る数刻前の昼九つの時間帯に、少々不機嫌な十徳姿の高松が、シンタローが師範代を務める道場の方に向かって畦道を歩いていた。
(ったく、私を使いっぱしりにして、しかも面倒臭い役を押し付けるだなんて。いくら秘密を知るものが少ない方がいいとは言え、信じられませんよ!さらに、自分がシンタローに会いに行きたいのにその役を譲ってやっただなんて、恩着せがましいにも程があります!!)
敷地内に入り稽古場の方に向かうと、気合の声や木刀同士が打ち合わされる音が聞こえ、今日も激しい稽古がなされていることが分かったが、如何にも医者といった風体の高松が道場をのぞき込んでいるのを見ると、まだ稽古を始めて日が浅い若い門人達は皆一様に目を丸くし、しばし稽古の手が止まった。
「コラッ!お前ェら、やる気がねェなら帰れッツ!!」
と、木刀を肩に担いだシンタローが奥の方から道場の上がり口の方に来ると、そこにいた高松を見て、やっぱり目を丸くした。
シンタローは慌てて、草履を突っかけると、高松の服の袖を引っ張って建物の外に出た。そのまま井戸の前を突っ切り、道場から離れた裏庭に辿り着くと、やっと高松の袖を離した。
「なんで、変態医者がここに居んだよ!!」
高松は、袖を引っ張って連れて来られたことと、“変態医者”と言われたことで更に不機嫌度が増していた。彼は引っ張られて少し形が崩れた着物を直しつつ、
「ったく、ガサツですねぇ。そして、変態医者って何ですか!?信じられませんよ。少しはグンマ様を見習ってほしいものですね」
と言うと、シンタローは腹を立てたようで、
「用がねェんなら、帰れヨ!」
と言って、道場の方に戻ろうとした。
「用があるから来たんですよ。お父上の使いです。何処か、誰にも聞かれずに話ができるところはありませんか?内密の話なんですが」
高松がそう言うと、シンタローはしばらく眉間に皺を寄せていたが、思い直したようであり、
「じゃぁ、三河屋は?蕎麦でも食おうぜ。ここは、やっぱ年長者の奢りだよナ」
と言った。
高松は溜め息を吐きながら、
「仕方ないですねぇ・・・。じゃぁ、其処で話をするということで」
「おう!言っとくけど、ドクターの奢りだからな!!」
「門の前で待ってますから、さっさと来て下さいね!」
念を押したシンタローが、道場内に外出する旨を伝えに行く背に向かって声を掛け、高松は、
(マァ、久々に江戸の蕎麦を食うというのもいいですね。関西はうどんは美味しいですけど、蕎麦はからっきしですし・・・。それにしても、話を聞いたシンタローは一体どんな反応をするのやら。店の中で暴れないといいんですが)
と、これから食べる蕎麦のことと、話さなくてはならない内容のことを考えながら、門柱にもたれてシンタローが出てくるのを待った。
夕七つの頃、深編み笠を被り,着ながしに太刀を帯した浪人がゆっくりと道を歩いていた。
浪人は、ふと、生垣の前で立ち止まり、道場内の稽古の様子をしばし眺めた。道場では少年や大人の男達が汗を流して熱心に稽古に励んでいた。この道場で教えている内容は剣術のみではなく、あらゆる武術を総合した実戦的な流派であり、稽古が厳しい事で有名であった。
「そこッツ!もうすぐ終わりだからって、気を抜いてんじゃねェッツ!!稽古つけてやるから来いッツ」
と、よく通る声で叱責が飛び、長い髪を1つに束ねた、紺の袴姿のシンタローが現れた。
シンタローは縁側で座って休んでいた男の着物の襟首を引っつかんで、道場内に引きずって行きかけたが、ふと、外に目を遣り、
「先に行っとけ」
と、男の着物から手を放すと、男は急いで道場の方に戻った。
シンタローは、懐から小柄を取り出すと、浪人目掛けて投げつけた。
小柄はかなりの勢いで浪人の方に向かって飛んだが、浪人は小柄が刺さる寸前で身をかわした。
地面に突き立った小柄を拾い上げながら、浪人は、
「―――シンタローはん、いきなり、こんな物騒なもんを通行人に投げつけるやなんて、危のうおまへんか?」
と言い、編み笠を脱いだ。
「うっせーな。分かっててやったに決まってんだろーが。ところで、いつ帰ってきたんだ?アラシヤマ」
どことなく、すねたように言うシンタローに、アラシヤマは苦笑しながら、
「なんや、最初から、お見通しやったんどすか。シンタローはんもお人が悪いでんな。京から帰ってきたのは数日前どす。久々の江戸は活気がありますなぁ。ところで、シンタローはん、この後お暇どすか?もし暇やったら、わてと晩飯でも食べに行きまへんか?」
シンタローは少し考え、
「いいゼ」
と答えた。
「ほな、そこの茶屋でお待ちしてますさかいに」
そう言ってアラシヤマは深編み笠を再び被ると、道場の前の道を通り過ぎた。
空が夕映えの色に染まる頃、シンタローがアラシヤマがいるであろうと思われる茶屋に行くと、彼は、店の外の長椅子で茶を飲み、団子を食べていた。
シンタローが、
「こういう時は、普通、酒とか飲むもんじゃねェのか?」
と、団子とお茶を間に挟んでアラシヤマの隣に座りながら言うと、
「いや、さっきシンタローはんが稽古しはってる姿を見とりますと、昔を思い出しまして、つい。わて、昔は稽古帰りに時々ここに寄ってたんどすえ。味が変わってへんのがうれしゅうおますな」
と、アラシヤマは団子の串を手に持ち、照れたように言った。
アラシヤマが暢気な口調で、
「シンタローはんも団子いりますかぁ?」
とシンタローの方に団子の皿を差し出したが、シンタローは腕を組んだまま、
「いらねぇ。で、京都はどうだったんだよ?」
と、聞くと、
「・・・マァ、色々ありましたが、可も無く不可も無くといったかんじでっしゃろか。あっ、色事関係の方は何もありまへんえ?わては昔からシンタローはん一筋やさかいナ!」
と、アラシヤマはニヤニヤしながらそう言った。それを見ていてムカついたシンタローは、アラシヤマの足を思いっきり踏んづけた。
「痛たた!痛うおます~。ほんまにシンタローはんは、照れ屋さんどすなぁ・・・」
「照れ屋とか、そういう問題じゃねぇッツ!!真面目に話をする気がねェんならもう帰るゾ!?」
「シンタローはん一筋なのはほんまのことどすのに・・・。今回は、たぶん江戸にずっと居ると思います。既にもう任務に入ってますしな」
「フーン」
シンタローは、自分の湯飲みを手に取り、一口、茶を飲んだ。アラシヤマがシンタローの方を見ずに前を向いたまま、
「何の任務か聞きまへんの?」
と、尋ねると、
「当たり前だ。どうせ、無暗に他人に話していいような内容じゃねぇんダロ?」
シンタローはキッパリとそう答えた。
「まぁ、そうなんどすが。―――シンタローはんは、ご実家の方には帰られへんのどすか?あの親馬鹿奉行に会ったらシンタローはんが中々家に帰って来んって嘆いてましたえ?」
「あの馬鹿親父・・・。家に帰ると、後を継げってうるせーからな。俺は、親が勝手に決めた相手と結婚なんかしたかねーし!」
アラシヤマは、湯飲みを持ったまま俯き、
「・・・誰や、意中の人でもいはるんどすか?」
と、小さい声で聞いた。
シンタローは、一瞬泣きそうな表情をしたが、すぐに元の様子に戻り、
「そんなヤツなんか、いねぇヨ!!」
と、怒ったように言った。
アラシヤマは、ホッとした様子で、下を向いたまま、
「そうなんどすか・・・」
と答えた。彼はずっと下を向いたままだったので、シンタローの顔は見えなかった。
2人は結局その後、酒も飲める、茶飯で名の知られた居酒屋に拠点を移した。
アラシヤマは、そう酒が飲める方でもなかったので、配分を調節しながら飲んでいたが、シンタローは少々飲みすぎたようであり、夜四つの時刻には卓上に突っ伏して眠ってしまった。店には既に客は2人しか居なかった。
店の親爺が、
「お客さん、すみませんが、そろそろ店仕舞の時刻ですぜ」
と、少々迷惑そうに言ったので、アラシヤマは代金を払い、
「シンタローはん、起きられますか?」
と、シンタローを揺さぶったが、シンタローは1日の激しい稽古で疲れていたせいか、起きなかった。
「仕方ありまへんな・・・」
と、アラシヤマはシンタローを背負うと、
「ほな、ご馳走さんでした」
と、親爺に軽く会釈し、店の暖簾を潜って外に出た。
空を見上げると、月が雲に隠れて全く見えず、暗い闇の中、今にも雨が降ってきそうであった。
「ところで、どこに送り届けたらええんですやろ?わて、今シンタローはんが住んでる所は知りまへんえ?実家の方に届けると、なんや、ややこしそうどすし・・・」
アラシヤマが、シンタローを背負ったまま歩きながら思案していると、突然、大粒の雨が降り出した。
「あ゛―――ッ、もう、わてが今任務で間借りしてるとこでもええですやろ。一番近そうどすしナ!!それにしても、秋の雨は冷とうおます~」
アラシヤマは、できるだけシンタローが雨に濡れないように前に抱えなおし、全速力で家まで走った。
アラシヤマが長屋の自分の部屋の戸を、ガラッと引き開けると、当然のことながら中は真暗であった。彼は、手馴れた手つきで行灯に灯を点けた。
行灯の周囲のみが薄ぼんやりと明るくなり、それ以外は暗いままであったが、アラシヤマからはシンタローの顔は、はっきりと見えた。
「シンタローはん、起きてくれまへんか?そのまま寝ますと風邪ひきますえ?」
アラシヤマは、シンタローに声を掛けたが、シンタローが起きる気配は依然としてみられ無かった。
「起きへんと、襲いますえ?」
少し強い調子でそう言っても、何ら返事は返って来なかった。
アラシヤマは、溜息を吐き、箪笥から手拭いを数枚取ってくると、シンタローを抱え起こし濡れた髪を拭いた。
「服も脱がせなあきまへんな。・・・久々に想い人に会って、心の準備ができていないうちに、いきなり自制心が試されるやなんて今日は厄日でっしゃろか?」
アラシヤマは、ブツブツ言いながら、シンタローの身体を拭き終えると、箪笥から取り出した自分の着物をシンタローに着せた。寝ている人間に着物を着せるというのは中々の重労働であったので、帯までは結ばずに夜具の方にシンタローを運んだ。
アラシヤマは自分も着替えると、布団の傍に座り、胡坐を掻いた。
(布団は1組しかありまへんし、かと言って、一緒に寝ようものなら朝起きたときに何言われるか分かったもんやおまへんな。しょうがない、起きとりますか・・・)
そう決めたアラシヤマは、内職の房楊枝を作ろうと木の枝と小刀を手に持ったが、集中できず、すぐに両方とも箱の中に戻した。
結局、アラシヤマは片肘で頬杖をつき、しばし、シンタローの寝顔を眺めていた。
(久々に、シンタローはんに会いましたけど、やっぱり可愛いおすなぁ・・・。意識の無いときに、何やするのはわての趣味やおまへんけど、せ、接吻ぐらいなら、ええですやろか!?)
彼は勝手にそう判断すると、
「シンタローはん、わてを許しておくんなはれ」
と言って、眠っているシンタローに接吻した。
(あぁー、色々しとうおます!!でも、わてが欲しいのは、まずは、気持ちの方やさかいな)
と、内心色々思いつつも、アラシヤマは何とか自制心を取り戻すと、再び座りなおし、
「今日は、あんさんに今好きな人がおらへんと聞いて、ホッとしました。マァ、もちろん、好きな人というのがわてやないのが残念どすが。・・・ほんまやったら、あんさんは、わてにとってお天道様みたいに手の届かん雲の上の存在なんどす。でも、わては、これからはもう絶対諦めまへんえ?覚悟しといておくんなはれ」
アラシヤマはそう言って、もう一度シンタローの寝顔を見ると、行灯の灯を消した。
朝からぼんやりしていたマジック様は、
昼過ぎには使い物にならないほどになられた。
だから、
気分転換をしてください、と言った。
言ったけど、だからってこれはないだろう。
The star for you.
昼過ぎに本部を出たのに、今はもうすっかりと日が落ちている。
しかもあたり一面には草原が広がり、
少し時期はずれの蛍が淡い光を放ちながら飛んでいる。
そんな幻想的な雰囲気に、
チョコレートロマンスは嬉しそうに駆け回っている。
いい歳をして…、と思わないでもないが、そうさせるだけのものがここにはある。
地上だけでなく見上げた空には、
同じように、けれどそれ以上に強い光を星たちが放っている。
そんな中、夜空を横切るように存在する光の帯が見える。
日本語で、天の川と言うのだと思い出したら、
次いで、今日が七夕と呼ばれる日と言うことも思い出した。
年に一度だけ、引き離された愛する人に会える日らしい。
そんなことまで思い出したら、
何故、こんな所にマジック様が来たのか解った気がした。
思い浮かぶのは、マジック様にとって唯一の存在。
今はいない、シンタロー様。
「マジック様、どうしてこのような場所に私たちはいるんですか」
訊くまでもなく答えなど解っているのに、
ふつふつとやるせない怒りが湧き上がり訊いた。
書類はこうしている間にも増え続ける。
緊急の問題がいつ起こるか解らないのに、本部を遠く離れた場所にいる。
それもこれも、マジック様のせい。
…いや、そんなことでじゃなくて、感情の問題なのだ。
時折、解らなくなる。
マジック様への感情がなんなのか。
尊敬をとうに超えていることは認める。
けれど、行き着いた先にある感情が解らない。
解ることが、怖いのかもしれない。
溜息を吐き出しながらそっとマジック様を伺ってみれば、
私の言葉など聞いてなかったようで、ぼんやりとしたまま空へと手を伸ばしている。
しかも、僅かに笑みすらのせて。
「…何ですか。
手なんか伸ばしても、星なんて手に入りませんよ」
言ってから、何をバカなことを言ってしまったのか、と後悔したが、
マジック様は、きょとんとした顔で私を見て、
伸ばした手を、やはりきょとんとした目で見つめる。
ゆっくり伸ばした手は下ろされたが、それは胸元で軽く握られた。
大切なものをそっと抱いているかのように。
「…確かにね。
夜空に輝く星は手に入らないね。
でも、私は星を貰ったよ」
穏やかな声でマジック様が言う。
星とは、シンタロー様のことだろうか。
そんなことを思ったが、貰った、という表現がひっかかる。
そんな考えが解ったのか、マジック様は小さく笑い、また夜空へと手を伸ばす。
「子どもの頃に、父から貰ったんだよ。
クリスマスに星が欲しいと言えば、キレイなクリスタルの星を貰った。
夜空に輝く星が欲しかったんだけど、それ以上に素敵なモノだった。
あの時の嬉しさを覚えているのに、私はどうして間違ったのかな?」
伸ばした手を完全に下ろし、寂しそうに笑った。
「シンちゃんもね、子どもの頃に星が欲しいと言ったんだ。
私とは違って、クリスマスじゃなくて誕生日にだけど」
「あなたが貰った星をあげたんですか?」
言いながら、否定される気がした。
クリスタルの星というものに、覚えがある。
マジック様の執務机に、ずっと昔からあるクリスタルの星。
ペーパーウェイトと使われているけれど、あまりにもキレイな星。
あれが、そうなのではないだろうか。
そう思っていると、やはりマジック様は否定の言葉を口にした。
「いいや。
できたばかりのプラネタリウウムを買った」
何でもないことのように、さらりと答えられる。
その上、
本当は新しいのを造りたかったんだけど、間に合いそうになかったから、と
今と変らず、金銭感覚の狂った言葉をくれた。
「さぞ、お喜びになったでしょう」
嫌味を込めて言ったら、小さく首を振られる。
「喜んでくれたよ。
でも、何かが違ったんだよ」
何が違うと言うのだろう。
本物の星なんて手に入らない。
手に入ったところで、それは空で輝いている星ではなく、
ただの石ころでしかない隕石だろう。
それならば、マジック様が貰ったというクリスタルの星も、
シンタロー様にあげたというプラネタリウムも同じではないのだろうか。
解らない、と目で問えば、視線を空に向けたままに答えられる。
「だからね、ここを買ったんだ。
誕生日からちょっと遅れてしまったけど、今日と同じ七夕に一緒にここに来たよ」
何がどう、だから、に続くのかは解らなかった。
けれどその理由を訊けるはずもなく、ただマジック様を見つめれば、
マジック様はゆっくりと星が瞬く空ではなく、蛍が飛び交う地上へと視線を移した。
「地上も空も、キラキラと輝いてキレイだと思わないかい。
ここは、今も昔も変らないね。
目を輝かせてね、シンタローもチョコレートロマンスみたいに走り回ってた」
そう言うマジック様の視線は、チョコレートロマンスに向けられている。
蛍を追い掛け回し、手に捕まえ立ち止まり、そっとその中を覗き見る。
それから広がる満面の笑み。
きっと、幼かったシンタロー様も、
同じように蛍を追い、捕まえ、満面の笑みを見せたのだろう。
「お喜びになったでしょう」
だから、同じ言葉を言った。
嫌味を込めたものではなく、本心から。
「…そうだね、喜んでくれたよ。
プラネタリウムの時以上に。
だから、毎年この日にここにふたりで来たよ」
長くは続かなかったけど、とやはり寂しそうに続けられる。
「いつからかな、シンタローが一緒に来なくなったの。
士官学校に上がる頃までは文句を言いながらも一緒に来てくれてたのに、
上がってからは一緒に来たことがない。
できることならずっと隠していたかった総帥の私を知って、許せなくなったのかな」
「…マジック様」
否定しなければ、と思うのに、その言葉はひとつも出てきてはくれない。
それが絶対の答えではないだろうけれど、
答えの要因となったことは否定できないと思うから。
「そんな顔をしなくていいよ。
おかげで、何が違うか解ったから」
痛ましいのに柔らかな笑みで、マジック様が笑う。
「何…だったんですか?」
「実に下らないことで――とても大事なこと」
「何ですか?」
「傍に、ってことだよ。
本物とか本物じゃないとかは、やっぱり関係ないんだよね。
その証拠に、シンちゃん喜んでくれたし。
違うって言うのは、私の我侭というか弱さかな」
そう言って、視線を空へと戻される。
「傍に、ないんだ。
私が貰ったクリスタルの星は、父が亡くなった今でも私の手にある。
キレイな思い出と共に。
けれど、シンタローはどうだろう。
あの子の手元には、何も残ってないよ」
寂しそうに笑って、
それでも大切なモノを見る目で星を見る。
そんな姿は、見ていて辛い。
「でも、思い出が残っているでしょう」
否定の言葉を告げれば、否定の言葉で返される。
「でも思い出は、目に見えないよ。
シンタローが思い出として大切にしてくれていたとしても、私には見えない。
それは、傍にあるとは言わない。
私が貰った星のように、あの子にも星をあげたかった」
後悔が嫌と言うほど伝わる。
けれど、こんなことは後悔なんかじゃない。
後悔とは、手を尽くしてそれでもどうにもならなかった時にするものだから。
だから今、後悔なんかしてはいけない。
「あげればいいじゃないですか。
マジック様の貰った星をあげればいい」
そうすれば、シンタロー様はきっと受け取る。
マジック様からの贈り物は、絶対に受け取らないだろう。
けれど、それがマジック様以外
――それも自分の祖父から伝わってきたモノだと知ったら、
受け取らずにはいられないだろう。
人の好意は無駄にできない人だから。
文句を言いながらでも、決して蔑ろにはしない。
唯一それをされる相手が、マジック様だ。
そのことを知らないのは、当のマジック様だけ。
だから、マジック様は気づかない。
シンタロー様の気持ちも。
憎んでいるだけなら、逃げたりなんかしないのに。
このふたりは、いつも相手をちゃんと見ていない。
見ているのに、本質を理解していない。
「ティラミス?」
解らないという顔で、マジック様が見てくる。
その目を逸らさずに言った。
「シンタロー様に、あなたの星をあげればいい。
喜ばれますよ。
あなたは、もう必要ないでしょう?」
マジック様が欲しいモノは、星じゃない。
手に入った星も大切だけれど、それ以上に大切なモノがある。
その人に大切な星が渡り、
それを手にし、大切にしてくれる相手を見ることで満たされる。
だから、もう必要ないでしょう。
そう目で静かに訴えれば、マジック様は瞠目した後に笑った。
久しぶりに見る子どもみたいな笑みで。
「そうだね。
シンタローに私の星を貰ってもらおうか。
そうしてそれは、あの子の手に残る。
昔みたいに喜んでくれないかもしれないけど、
その代わりに、違う、なんてもう思わないよね」
そしてまた、手を空へと伸ばされる。
まっすぐ星に向かって伸ばされたその手は、ゆっくりと下ろされ胸元で強く握られた。
先ほどのようにそっとなんかではなく、想いを込めるように強く。
そんなマジック様の姿を見て、安心する。
けれどその反面、胸がズキリと痛む。
その痛みに、行き着いた先の感情を自覚する。
知ったところで、どうしようもない感情。
だから、何も望まない。
ただ今、傍にいられることだけで幸せだと思った。
傍にあるということは、何よりも大切なこと。
勝手なエゴでしかないけれど、それでももう十分に幸せなんです。