ことり、とテーブルから聞こえてきた音に、シンタローは顔をあげた。
「ああ、ありがとう。キンタロー」
テーブルの上には、湯気が立ち上るティーカップが置かれていた。中には琥珀色の液体が入っている。それを持って来てくれたのは、ガンマ団総帥である自分の補佐を務めてくれているキンタローであった。
一息つくようにふぅ、と息を強く吐いてから、書類から目を放し、両手を上に持ち上げ伸ばす。軽く肩を回してから、ようやくティーカップへと手を伸ばした。
こくりと一口飲んで、シンタローは、驚いたように顔を上げた。
「酒?」
その言葉に、見つめられた相手は、こくりと頷いた。
「蜂蜜を混ぜたカリン酒を温めた。今日は朝から喉の調子が悪そうだったからな」
その言葉に、ぱちくりと瞬きをする。
気がついていたのか。
朝から、喉がいがらっぽく、痛みも伴っていたが、たいしたことはないだろうと放っておいていた。だが、他のものに知られれば煩いから、なるべく声は出さないように仕事をしていたのだ。今日の予定がデスクワーク中心であったために、大丈夫だと思っていたが、しかし、今日は一日中傍で仕事をしていたキンタローには、しっかり気付かれていたようである。
「ありがとう」
もう一度感謝の気持ちを伝え、甘い芳香をくゆらせるカップに口をつけた。
「そう言えば………」
喉だけでなく身体を全体も温めてくれたカリン酒を飲み干したシンタローは、ふっと思い出したように、窓へ視線を向けた。
「そろそろ、花梨の花咲く頃だな」
「そうなのか?」
つられるようにキンタローも外を眺めるが、あいにく見える範囲にカリンの木はない。カリンを植えてあるのは、ここではないのだ。
「ああ、親父が果実酒作るために三本くらい植えてあるからさ、子供の頃収穫も手伝ったこともあるし、覚えている」
カリンの花は、ピンク色をした愛らしい花である。小さいながらも、くっきりとしたピンク色が瑞々しい若葉の上へ咲き誇り、遠くからでも目立つほどである。それは、庭に植えられていた。花が咲けば実がなることを知っているから、子供ながら、花が咲けばその周りで、咲いた咲いたとはしゃいでいた。秋には大きな実となり、マジックと一緒に収穫するのだ。
「酒だったから、出来上がってもあまり飲ましてくれなかったけどさ。喉が痛い時は、決まって出してくれていた」
「そうか」
笑みを浮かべて相槌を打ってくれるキンタローに、けれど、ハッとシンタローは気付いたように表情を固まらせた。
(しまった……)
キンタローには、こんな風に小さな頃の思い出はないのだ。そのために、なるべくそういう過去は、語らないでいたのだが、カリン酒を出されて、つい思い出話をしてしまった。
もちろん、キンタロー自身が気を悪くしている様子は見えない。それでも、シンタローは、ばつが悪かった。気にしすぎだと言われそうだが、後ろめたさは消えてはくれない。やっかいだと思うけれど、こればかりは仕方がなかった。
出来うることならば、今からでも思い出を作りたい。
(ああ、そうか―――)
「どうした?」
きっとはたから見れば百面相をしているようだろう。コロコロ表情を変えるシンタローに、キンタローが怪訝な声をかければ、先ほど思いついた案を口にのせた。
「えっと………今年は、俺たちも作るか?」
「カリン酒をか?」
「ああ、そうだ―――嫌か?」
新たにカリンで思い出を作ればいいと思ったのだ。固いあの実を収穫して、一緒に果実酒を作って、二人で飲む。
「いいや。それはいいな」
そういってくれたことにホッとひと安心し、シンタローは中断していた作業に戻ることにした。
「じゃあ、もうひと頑張りしますか!」
「シンタロー」
声をかけられ、顔を上げる。
「ん? って、何を!」
急接近する顔に、思わずギュッと目をつぶる。
ちゅっ。
「…………」
目を開けてじろりと睨む。
「行き成り何をするんだ?」
「頑張ってくれ、という意味のつもりだったが?」
さらりと告げてくれるその言葉に、唇がへの字に曲がる。
「で、なんで頬なわけ?」
そう。あの時、唇に来ると思っていたキスは、けれど予想に反して、頬への軽いキスだった。
唇に来ると思っていたために、慌てた自分に恥かしくなる。そんな自分に、キンタローはニッと笑って見せた。
「それは、だな。唇では、我慢できなくなるからだ。いいか、お前の唇にキスするだけで、俺は満足など全然しないからしなかったのだ」
「なるほど」
納得である。
それに関しては、自分も同感である。その先が、もっと欲しくなるというものだ。
「んじゃ、これを全て片付けますか」
そうすれば、好きな場所にキスができる。かすかに甘いカリンの香りが漂う部屋で、シンタローはペンを取った。
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ざわっ…。
頭上の枝が波打つようにしなる。芽吹いたばかりの若葉が掠れ合い、柔らかな音を奏でる。誘われるように頭上を見上げたシンタローは、そのままの姿勢で止まった。
「あッ」
思わず声をあげる。その声に、一歩先に進んでいた相手が振り返った。
「どうした、シンタロー。…ああ」
問いかける声。けれど、すぐに納得がいったとばかりに頷かれた。
「髪が絡まっているな」
目の前の事実を率直に述べられ、シンタローは、恥ずかしさを誤魔化すように苦笑した。
ガンマ団敷地内にあるA棟からD棟までの距離。いつもならば車に乗っての移動だけれど、天気のいい今日は、時間の余裕もあるために、歩いて移動することにした。
初夏を思わせる暖かさ。触れる風も、爽やかで、のんびりと散歩気分で歩いていたのだが、うっかりと髪を木の枝に絡ませてしまったのだ。
「ちょっとまってくれ、すぐにとるから」
絡まった髪を手に取る。
「まて! シンタロー。俺が――」
すぐに重なるキンタローの声。だが、それは遅かった。
「ッ!」
髪を取ろうと枝に触れたとたん、鋭いものにシンタローの指先を突かれた。反射的に身体を引いて、しかし、髪が未だに絡まったために、二重の痛みを味わう羽目になった。
「ッ~~~~~~」
「シンタロー!?」
慌てて駆け寄ってきたキンタローを前に、不覚だが、シンタローは涙目になっていた。
「いってぇ~」
指の痛みと頭皮の痛みに苦しんでしまう。
「指を刺したのか?」
キンタローの問いかけに、シンタローは痛みで歪む顔のまま頷いた。
「ああ…この木、棘がある」
「ボケだな」
眉を顰め神妙な顔で言ってくれた相手に、シンタローは、ギロリと睨みつけた。
「ボケだぁ? 喧嘩売る気かよ、キンタロー」
確かに、そんなことにも気付かないというのは、ボケているかもしれないが、こちらが痛みで泣いているのだ。にもかかわらず、そんなことを言われてしまえば、ムカついてくる。
しかし、そんなシンタローに、キンタローはぷるぷると首を横に振った。
「違う。お前に言ったわけではない。いいか、お前が『ボケ』なのではない。その木の名前が『木瓜(ぼけ)』というのだ」
「…………」
きっちり説明してくれた相手に、誤解をしてしまったシンタローは、気まずさから口をへの字に曲げて、視線をそらした。
確かに、そんな樹が存在していることは、シンタローも知っていた。しかし、これが木瓜だとはわからなかった。というか、こんなところになぜ植えているのだろうか。
(植えた奴をボコりてぇぜ!)
完全なる八つ当たりである。
「……ったく、薔薇じゃねぇのに、棘なんか生やしやがって」
ぶつぶつと文句を言えば、それを聞きとめたキンタローは、また律儀に答えてくれた。
「いや、ボケも薔薇科だ。棘があるのはおかしくはないが……シンタロー、刺した指を見せてみろ」
「え? ああ、別にたいしたことはねぇぜ」
実のところ、しゃべる合間に指を吸っていたら、痛みはほとんどひいていた。もともと指先をわずかに突き刺しただけなのだ。
痛がったのは、それが不意打ちだったからである。自覚してみれば、たいした痛みではなかった。
「……って、おい。何してんだ」
自分の手をとったと思えば、あっという間に、トゲを刺した指は、キンタローの口に入っていた。
「消毒だ」
「俺が散々やっていただろうが」
「念には念を入れろというだろうが」
「……こういう時に使うのは明らかに間違いだろう」
念を入れたところで、これ以上の消毒がなされることはない。キンタローの唾液の方がより消毒効果があるわけではないのだ。絶対に。
それでもがっちりと掴まえられているために、好きなようにさせていれば、ようやく満足したのか、指から離れていってくれた。
「――シンタロー」
「なんだ?」
名を呼ぶキンタローの顔は真剣である。思わず身構えたシンタローに、キンタローは重々しく訊ねた。
「これも間接キスというのだろうか?」
「知るかッ!」
真面目な顔して呼ぶから何事かと思えば、あまりにもくだらない発言に、シンタローは、思わず大声で怒鳴っていた。 こいつには付き合ってはいられない。キンタローを置いて、さっさと行こうと一歩前を進んだシンタローは、即座に身体は引っ張られ、頭皮に痛みを感じた。
「ッ~~~~~~!」
忘れていた。まだ、髪は木瓜の枝に絡まったままだったのだ。
「素でボケるな、シンタロー」
「……お前に言われるとはな」
もちろん今のボケは、木の木瓜ではなく、こちらに対する罵詈だ。
髪が未だ枝に絡まっていることに気付かなかったこちらも、確かにボケているだろうが、キンタローにだけは言われたくない言葉である。しかし、反論ももちろん出来なかった。
「待ってろ。すぐに取ってやる」
「いい! 俺が――」
しかし、伸ばした手は払われた。
「身動き取れないお前がやるより、俺の方が早い」
確かに、その通りである。ぶすっと不貞腐れたような表情で、じっとしていれば、ふっと頭皮が引っ張られる感覚が消えた。
「とれたぞ」
「サンキュ」
ようやく自由を取り戻せた頭を振る。その開放感に浸っていれば、それをぶち壊すようなキンタローの言葉が聞こえてきた。
「まったく、お前は危なっかしくて見ていられない」
「――お前には言われたくねぇよ…」
身体を手に入れて、まだ幾年も経ってない、まだまだ経験地不足のお子様には言われたくない言葉である。それでも、先ほどまでの自分の行動を振り返れば、確かにその通りなのだから、余計腹正しい。
(絶対に認めねぇからな!)
自分の方が、年を重ねている分大人であることは譲れない。
「行くぞ!」
ここで随分と時間をロスしてしまった。次の会議に間に合わせるために、ずんずんと足早に大股で歩くシンタローの後ろを、キンタローはかすかな笑みを浮かべながらついていった。
「綺麗だ…」
そう思った瞬間、身体が動いていた。
「シンタロー」
部屋に入ってすぐ、名を呼び掛ければ、重厚な作りの机を前に座っていたガンマ団総帥はゆっくりと顔をあげた。
少しやつれた表情。
二日間研究室にこもっている間に、どうやら無茶をしていたようだった。久しぶりに見るその姿を観察していれば、ペンを机の上に置いたシンタローが口を開いた。
「どーしたんだよ、キンタロー。つーか、お前ちょっとやつれたか?飯はちゃんと食えよ」
その言葉にムッとする。それはこちらの台詞である。
「お前には言われたくない。いいか、俺は今のお前にだけは言われたたくないからな! ――シンタロー、お前こそ鏡を見たらどうだ。頬が少しこけてるぞ」
その指摘にシンタローは今気付いたとばかりに頬を撫でた。
「え!マジ?…っかしいなぁ。睡眠と食事はきちんととってるぜ」
「それが足りてないからだろう。まったく俺がいないとすぐ睡眠と食事を減らすな」
「…そういうつもりはないんだけどな」
「なかろうとも、結果はでている」
甘い顔をすればすぐに無理をする相手だから、厳しい顔で睨み付けるようにすれば、視線を反らされた後、罰が悪そうに頭を下げた。
「悪ぃ。今度からは気を付ける。…で、お前の用はなんなんだ?今日までこっちの仕事は休みだろ」
確かにシンタローの言う通り、今日まではガンマ団開発部で仕事だった。だが、途中で抜けてきたのだ。それは――。
「シンタロー。少し俺に付き合ってくれ」
「は?なんで…俺は今仕事中――」
「そろそろ休憩をいれる時間だろう。それとも強制的に休憩が必要な身体にしてやろうか?」
そうすることはこちらとしては望むところである。机を回り込みシンタローの顎を軽く持ち上げてみせれば、慌てた様子で手を叩かれた。
「けっこーだ!つーわけで行くぞ。どこだ?その付き合って欲しい場所は」
そそくさと立ち上がるシンタローに、内心残念に思いつつも、キンタローは先を歩いた。
「外だ」
連れて行きたかった場所はガンマ団本部内の端だった。
それは研究室へ移動する窓から見えた。安全確保のためにガンマ団基地の中でもはずれに作られたそこは、建物との合間をつなぐために色んな種類の樹木を植えていた。たぶんこれもそのひとつ。だが、広大な基地の端であり危険な研究所が入っているために近づく者は早々いないここに、それはあまりにももったいないものだった。せめて自分だけでも気付いたならば、共に見たいと望む者と眺めたかった。
「あっ…」
シンタローの顔に驚きの表情が浮かぶ。キンタローはそれを眺めほくそ笑んだ。予想していた反応だったからだ。自分もまた、これを見たときは驚いた。数メートル前までは青々とした緑溢れる常緑樹の並木道なのだ。けれど一歩角を曲がれば薄紅色のトンネルである。互いに触れ合うほどに枝を伸ばした桜達はその全てを可憐な淡い紅の花で飾っていた。辺りの空気すら染めるほど溢れる桜色。
「すげぇ…」
漏れ出た感嘆の声にキンタローは同意するように頷いた。
「圧巻だろう」
「ああ」
棒立ちのまま桜に魅入る相手を置いて、キンタローは移動した。そこは一際美しい桜の木下。道とは反対側に回り込み、そこへ座った。
「シンタロー、ここに来い」
その場で手を伸ばし、名を呼べば振り返ったシンタローは頬を桜色に染めた。
「何考えてやがる!」
キンタローが示した場所は、キンタローの股の間。キンタローが桜の幹にもたれかかって座っているように、シンタローもまたキンタローの胸にもたれかかって座れと言っているのだ。
「恥ずかしがらずとも、誰にも見られることはないぞ」
「そうかもしんねぇけどさ…」
だからと言って素直にキンタローに身体を預けるのも照れ臭くて仕方がない。羞恥の壁に阻まれて躊躇っていれば、真っすぐな視線に貫かれた。
「嫌か? シンタロー」
直球で尋ねられる質問。
「……ズリぃ」
その問い掛けに、子供のように唇を尖らせた。そう思わずにはいられない。だからこそ、シンタローはキンタローの手をわざと無視して、定位置にストンて座った。
「嫌なわけねぇだろ!」
ぶっきらぼうな答え。
好きか嫌いかを尋ねられれば、どちらかなどわかりきったこと。こんな気持ちいい場所、他人に味あわせるのも嫌だ。
くつろぐように背を相手の胸に預ければ、両腕が軽く回された。
「上を見ろ」
その言葉にしたがって、頭上を仰げば、薄紅色と空色の柔らかな色彩に視界は埋められる。
心安らぐ光景。
漆黒の瞳と紺碧の瞳が一色に染め上げられる。
「―――お前とこうして見たかった」
「ん…」
その気持ちが嬉しくて自然と笑みが浮かぶ。
「…シンタロー」
名を呼ばれ振り替えれば甘い口付けが降ってきた。桜色に染まる頬を包み込み。花びらが触れるような優しいキスを何度も送られる。ようやく離れればその視線は桜ではなくキンタローのみに注がれていた。
「俺はずっと…お前とこんな綺麗な景色を共有していきたい」
真 剣に語られる言葉をシンタローはゆっくりと噛み締める。胸が熱くなるのは、その気持ちが嬉しいから。泣きたくなるのは、キンタローのことをそれだけ強く思っているからだ。
「…俺もだ――ありがとう、キンタロー」
今日この日この時を与えてくれて、そしてこの先の美しい世界を共有出来る喜びを与えてくれて。感謝をこめて笑みが浮かぶ、その唇に深く触れた。
なんでこんなことになっているのか………。
淡い薄紅色のトンネルを緩やかな足並みで歩く。道の両端に植えられた桜は、互いに交差するように枝を伸ばし、その枝先まで春の訪れを示すように鮮やかな春色に染め上げる。
幻想的な風景。夢見心地を誘われるその道を、けれどシンタローは無言のまま。仏頂面をして、まるで苦行のように延々と歩いていた。
一体、自分は何をしているのか―――――。
「どないしはりましたん? シンタローはん」
訊ねたのは、自分の同行者。そう、シンタローは、ひとりでここに訪れたわけではなかった。
ガンマ団が保有する保養所のひとつ。中でも一族と幹部以上の者しか来ることを許されないここは、シンタローの中では、特別な場所であった。この時期になれば、家族などといつも訪れるこの場所を、けれど家族以外で、二人きりできたのは初めてだった。
「どうもしねぇよ」
そっけなく言い放ち、歩みを速める自分の背後から、同じような足並みでついてくる気配がする。けれど、自分を追い越すことはしない。隣に立つこともしない。それは、そうすることを自分が最初に拒否したせいだった。
『キモいから隣を歩くな』
それは、照れ隠しを多分に含んだもので、訪れる者が少ないとはいえ、保養所内の建物には常任している管理人がいる。その目をはばかって言ったのだが、荷物を部屋に置き、外へと散歩に出かけ、その目もとっくに見えなくなったにもかかわらず、相手はその言葉を忠実に守ってくれていた。
「………くそぉ」
つまらない。全然つまらない。結局ひとりで歩いているのと変わらないのだ。
今日は、散歩日和である。
このあたりは、数日花冷えとも言われていて寒い日が続いていたのだが、今日は一転して春の陽気になったと、ここの管理人が教えてくれた。
その言葉どおり、頬に触れるのは柔らかく温かな春風。前日までは、七分咲きだったと言われていた桜も、今日の陽気に誘われるように、蕾は、ほろほろと綻び、その艶やかな姿を披露してくれている。
眺めるだけでも楽しい、その光景。それなのに、今の自分は、ほとんどわき目もみらずに、真っ直ぐ進んでいる。
スタスタスタ。
聞こえてくる音は二人分。
けれど、自分の隣には誰もいない。それは、もちろん自分のせいだけれど、素直に言うことを聞く相手も相手だと思うのは、身勝手な考えだろうか。
今日の散歩とて、実のところようやく時間を工面して作ったものだ。自分は総帥業が忙しくて、ほぼ無休。相手もまた、性格は置いといて、ガンマ団団員としては幹部の実力を持つほど有能である。そのために、危険で難しい任務を与えることが多く、ほとんど本部に戻ってくることはない。
下手すれば、二ヶ月三ヶ月の遠征だってありうる相手を、総帥権限をほんの少しだけ使わせてもらって、この時期に本部に留まらせたのは、理由がある。
それは、ひとつの約束。
それは、他愛のないもので、言った本人は忘れているかもしれないが、それでも自分は実現させて見たかったのだ。
「シンタローはん?」
背後から問いかけられる声。そろそろ我慢が出来なくなり、苛立たしさに、頭を掻き毟ったり、粗雑に歩みを進めるために不審に思ったのだろう。それならば、自分を追い越し、こちらの様子を伺ってくれたり、隣に立って気遣う視線を向けてくれればいいのに、忠犬よろしく一歩後ろの位置から変わらない。
そして状況は変わらないまま、桜並木も終わりを迎えた。
桜並木の終着点は、洪水のように流れ落ちる枝垂れ桜だった。
「うわっ」
その迫力に飲み込まれそうになる。
それほどに見事な桜だった。無数の枝が天上から垂れ下がって、それはまるで薄紅色の滝である。周りの空気すらも桜色に染め上げられてしまうようだった。
ここの土地を買った時、この桜が決めてだったと言われている。そこから続く道は、後から作ったものである。他のものは五十年も経ってはいないのだが、この桜だけは、もう百年以上も前から、ここにあるのだ。
何度も見ているにもかかわらず、圧倒的な迫力に息を飲んで魅入ってしまう。
一瞬だけ、意識が桜へと向けられた。そのために、突然身体を触れられて驚いてしまった。
ビクッ。
肩が大きく揺れる。反射的に、視線を斜め下に向ければ、そこには自分の右手がある。そしてその上を掴む、アラシヤマの手があった。重なるように触れた手は、しっかりと握り締められていた。
驚いた。
ずっと触れることなどしなかったにも関わらず、行き成りのこの行動にどう反応すべきかと考え込めば、半歩ほど距離を縮めた場所から、声が聞こえた。
「驚かせてすんまへん」
「なに?」
ビクついてしまったのを隠せなかったことに、かすかに羞恥を覚えつつも、平素を装ってそう訊ねれば、申し訳そうに告げられた。
「あんさんが、この桜に奪われてしまわれそうで思わず手を掴んでしもうたんどす」
その言葉に心底呆れた。
そんなはずはない。確かに、この枝垂れ桜は見事である。一瞬だけ、それに見蕩れてしまった。けれど、わかっていない。それもわずかの合間だけで、心はもちろんのこと、自分の意識はいつだって、後ろにいた相手の方へ行っていたのだ。
「わても阿呆どすな。許可なく触ってしもうて、気分悪ぅ思わせたらすんまへんどした」
その手がいとも簡単にするりとほどけられる。だが、シンタローは、逃げ去る寸前にその手を掴んだ。
「シンタローはん?」
訝しげな声が耳に聞こえる。相手の表情はわからない。いつまでも背後にいるからだ。だから、気付いてもらえない。顔さえ見れば、一目瞭然のはずなのに。
無言のまま、その手を引っ張る。なんなくその身体は、自分の隣に立つ。
こちらを見る相手の視線から、ふいっと顔をそらす。だが、真横から自分を見つめる相手の視線は感じていた。
掴んだ手は、すでに力を緩めていた。手を解こうと思えばすぐに解ける。だが、手はまだ繋がったまま。
「シンタローはん………このままでええどすか?」
どうしてわざわざそんなことを聞くのだろうか。自分の答えなど分かりきっている。それとも、それもわからないほど鈍感なのだろうか。ああ、そうだろう。だからこそ、苛立ちは増す。
心の声など聞こえはしない、言葉にしなければわかってもらえない。
そんなことは、重々承知。だからといって、なんでも言葉にできるわけがない。
言えない言葉などたくさんある。そう―――恥かしくて言葉にできないことは、それこそ山盛りたくさんだ。
だから、答えにならない答えを告げた。
「約束……しただろ」
冬に交わした約束。
―――桜が咲いたら、一緒に見に行きまひょ。
冬の最中に告げられた言葉。桜の蕾はまだほとんど目立たないぐらい小さく堅く。春などずっと先のことに思えたけれど、その約束が叶えられるのを密かに待っていた。
それは、まだ叶えられていない。共に並んで桜を見てはいないのだ。
「そうどしたな」
ふわりと笑みが浮かべられる。ああ、覚えていてくれたのだ、とその笑顔でわかった。
それだけで十分である。我ながら現金だとは思うけれど、先ほどまでの苛立ちはスッと消えていた。
繋いだ手は、いまだそのまま。
「―――ほなら、このままあの桜の周りを散歩しまひょか」
「そうだな」
周りの大気すらも桜色に染め上げるほどの艶やかな枝垂れ桜の下で、自身もまた、桜色の染めながら、春を楽しむように手を繋ぎ歩き出した。
淡い薄紅色のトンネルを緩やかな足並みで歩く。道の両端に植えられた桜は、互いに交差するように枝を伸ばし、その枝先まで春の訪れを示すように鮮やかな春色に染め上げる。
幻想的な風景。夢見心地を誘われるその道を、けれどシンタローは無言のまま。仏頂面をして、まるで苦行のように延々と歩いていた。
一体、自分は何をしているのか―――――。
「どないしはりましたん? シンタローはん」
訊ねたのは、自分の同行者。そう、シンタローは、ひとりでここに訪れたわけではなかった。
ガンマ団が保有する保養所のひとつ。中でも一族と幹部以上の者しか来ることを許されないここは、シンタローの中では、特別な場所であった。この時期になれば、家族などといつも訪れるこの場所を、けれど家族以外で、二人きりできたのは初めてだった。
「どうもしねぇよ」
そっけなく言い放ち、歩みを速める自分の背後から、同じような足並みでついてくる気配がする。けれど、自分を追い越すことはしない。隣に立つこともしない。それは、そうすることを自分が最初に拒否したせいだった。
『キモいから隣を歩くな』
それは、照れ隠しを多分に含んだもので、訪れる者が少ないとはいえ、保養所内の建物には常任している管理人がいる。その目をはばかって言ったのだが、荷物を部屋に置き、外へと散歩に出かけ、その目もとっくに見えなくなったにもかかわらず、相手はその言葉を忠実に守ってくれていた。
「………くそぉ」
つまらない。全然つまらない。結局ひとりで歩いているのと変わらないのだ。
今日は、散歩日和である。
このあたりは、数日花冷えとも言われていて寒い日が続いていたのだが、今日は一転して春の陽気になったと、ここの管理人が教えてくれた。
その言葉どおり、頬に触れるのは柔らかく温かな春風。前日までは、七分咲きだったと言われていた桜も、今日の陽気に誘われるように、蕾は、ほろほろと綻び、その艶やかな姿を披露してくれている。
眺めるだけでも楽しい、その光景。それなのに、今の自分は、ほとんどわき目もみらずに、真っ直ぐ進んでいる。
スタスタスタ。
聞こえてくる音は二人分。
けれど、自分の隣には誰もいない。それは、もちろん自分のせいだけれど、素直に言うことを聞く相手も相手だと思うのは、身勝手な考えだろうか。
今日の散歩とて、実のところようやく時間を工面して作ったものだ。自分は総帥業が忙しくて、ほぼ無休。相手もまた、性格は置いといて、ガンマ団団員としては幹部の実力を持つほど有能である。そのために、危険で難しい任務を与えることが多く、ほとんど本部に戻ってくることはない。
下手すれば、二ヶ月三ヶ月の遠征だってありうる相手を、総帥権限をほんの少しだけ使わせてもらって、この時期に本部に留まらせたのは、理由がある。
それは、ひとつの約束。
それは、他愛のないもので、言った本人は忘れているかもしれないが、それでも自分は実現させて見たかったのだ。
「シンタローはん?」
背後から問いかけられる声。そろそろ我慢が出来なくなり、苛立たしさに、頭を掻き毟ったり、粗雑に歩みを進めるために不審に思ったのだろう。それならば、自分を追い越し、こちらの様子を伺ってくれたり、隣に立って気遣う視線を向けてくれればいいのに、忠犬よろしく一歩後ろの位置から変わらない。
そして状況は変わらないまま、桜並木も終わりを迎えた。
桜並木の終着点は、洪水のように流れ落ちる枝垂れ桜だった。
「うわっ」
その迫力に飲み込まれそうになる。
それほどに見事な桜だった。無数の枝が天上から垂れ下がって、それはまるで薄紅色の滝である。周りの空気すらも桜色に染め上げられてしまうようだった。
ここの土地を買った時、この桜が決めてだったと言われている。そこから続く道は、後から作ったものである。他のものは五十年も経ってはいないのだが、この桜だけは、もう百年以上も前から、ここにあるのだ。
何度も見ているにもかかわらず、圧倒的な迫力に息を飲んで魅入ってしまう。
一瞬だけ、意識が桜へと向けられた。そのために、突然身体を触れられて驚いてしまった。
ビクッ。
肩が大きく揺れる。反射的に、視線を斜め下に向ければ、そこには自分の右手がある。そしてその上を掴む、アラシヤマの手があった。重なるように触れた手は、しっかりと握り締められていた。
驚いた。
ずっと触れることなどしなかったにも関わらず、行き成りのこの行動にどう反応すべきかと考え込めば、半歩ほど距離を縮めた場所から、声が聞こえた。
「驚かせてすんまへん」
「なに?」
ビクついてしまったのを隠せなかったことに、かすかに羞恥を覚えつつも、平素を装ってそう訊ねれば、申し訳そうに告げられた。
「あんさんが、この桜に奪われてしまわれそうで思わず手を掴んでしもうたんどす」
その言葉に心底呆れた。
そんなはずはない。確かに、この枝垂れ桜は見事である。一瞬だけ、それに見蕩れてしまった。けれど、わかっていない。それもわずかの合間だけで、心はもちろんのこと、自分の意識はいつだって、後ろにいた相手の方へ行っていたのだ。
「わても阿呆どすな。許可なく触ってしもうて、気分悪ぅ思わせたらすんまへんどした」
その手がいとも簡単にするりとほどけられる。だが、シンタローは、逃げ去る寸前にその手を掴んだ。
「シンタローはん?」
訝しげな声が耳に聞こえる。相手の表情はわからない。いつまでも背後にいるからだ。だから、気付いてもらえない。顔さえ見れば、一目瞭然のはずなのに。
無言のまま、その手を引っ張る。なんなくその身体は、自分の隣に立つ。
こちらを見る相手の視線から、ふいっと顔をそらす。だが、真横から自分を見つめる相手の視線は感じていた。
掴んだ手は、すでに力を緩めていた。手を解こうと思えばすぐに解ける。だが、手はまだ繋がったまま。
「シンタローはん………このままでええどすか?」
どうしてわざわざそんなことを聞くのだろうか。自分の答えなど分かりきっている。それとも、それもわからないほど鈍感なのだろうか。ああ、そうだろう。だからこそ、苛立ちは増す。
心の声など聞こえはしない、言葉にしなければわかってもらえない。
そんなことは、重々承知。だからといって、なんでも言葉にできるわけがない。
言えない言葉などたくさんある。そう―――恥かしくて言葉にできないことは、それこそ山盛りたくさんだ。
だから、答えにならない答えを告げた。
「約束……しただろ」
冬に交わした約束。
―――桜が咲いたら、一緒に見に行きまひょ。
冬の最中に告げられた言葉。桜の蕾はまだほとんど目立たないぐらい小さく堅く。春などずっと先のことに思えたけれど、その約束が叶えられるのを密かに待っていた。
それは、まだ叶えられていない。共に並んで桜を見てはいないのだ。
「そうどしたな」
ふわりと笑みが浮かべられる。ああ、覚えていてくれたのだ、とその笑顔でわかった。
それだけで十分である。我ながら現金だとは思うけれど、先ほどまでの苛立ちはスッと消えていた。
繋いだ手は、いまだそのまま。
「―――ほなら、このままあの桜の周りを散歩しまひょか」
「そうだな」
周りの大気すらも桜色に染め上げるほどの艶やかな枝垂れ桜の下で、自身もまた、桜色の染めながら、春を楽しむように手を繋ぎ歩き出した。