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03.薬    53*28


 


 


 


 


 



朝、自宅を出るときにクシャミをしたら、見送りに来ていたマジックが大騒ぎをしながら自室へと駆け戻っていった。なんでも先週日本に行った際、よく効くと評判の漢方薬を手に入れたそうで、それを取ってくるから待っていなさいとドップラー効果を起こすほどの声で叫びながら走り去っていく。


クシャミのひとつで騒がれても困る。


自分の立場を弁えてはいるから健康管理に気を遣うのは当然だが、大袈裟にされるとむず痒くなるのは性分なので仕方ない。


父が戻る前に、サッサと歩き出してしまう息子は薄情なのか、正常なのか。


 


エントランスが見えなくなる直前、窓外に見えたマジックの表情がとても悲しそうだったことに少し、ほんの少しだけ胸が痛んだ。


 


 


 


 


 


昼食を一緒にと誘われ、仕方なく頷いた。


シンタローの目の前に立つ、薄く微笑んだ叔父は相変わらず綺麗で年齢というものを感じさせない。彼が本当にマジックの弟なのか、未だに信じがたい部分もあるが他人に対し徹底的に無関心なところと、そのくせ身近なものにはかなりの執着を見せるアンバランスな精神を併せ持つ辺りはまさに血縁である証なのかも知れない。


サービスと二人なら、久しぶりの対面を素直に喜べたし、気分だって良くなったに違いない。


朝一の会議を終え、総帥室に戻った辺りから微かな頭痛を感じ始めたシンタローは、実のところいま相当に気分が悪くなっている。


見た目で気付かれることはないだろうが、弱ったところを見られるのは嫌だし、知られるのもいやだった。だから極力なんでもない振りをして、叔父に手招かれるまま彼の車へと乗り込んだ。


運転席で、笑顔の大安売りをしているのはジャンだ。


ミラーに映るそのヘラヘラとした顔を見たくなくてサービスの方を向くのに、一々話題に入ってくるから無視することも出来なくなる。


彼は、いつでも笑っているがその実シンタローだけは気付いていることがある。


実際そう感じるのがシンタローだけなので、それが事実であるかどうかは分からないが、誰に対しても始終笑顔でいるはずのジャンは何故だかシンタローにだけは意地が悪い。笑っていても、その目の奥は笑ってなどいないのだ。


冷めて、嘲笑するような。


そんな色を隠している。


そう見える。


人前では常にシンタローの方が優勢であると見せかけ、ジャンは道化役に自ら甘んじているのではないか。彼のことは軽くあしらいながらも、そのくせ絶対的な信頼を向けるサービスを見るに付け、そんな自分の考えこそがおかしいとも思うのだがそれでも。


それでもシンタローはジャンのことが苦手だった。


彼を包むふんわりとした温かさがいやだった。


 


 


叔父の近況や団内で起きていることなどを手短に報告しあい、事務的な話が尽きれば嫌でも三人に共通した話題へと流れていく。


サービスの双子の兄、ハーレムのことであればシンタローが口を挟む場面も少なく聞き手に回ればいいから気は楽だった。


けれど、まるでタイミングを計っていたかのようにジャンの口から“マジック様はどうしている”と尋ねられた途端、抑えていた諸々のものが一気に吹き出したようにシンタローを責めだした。


 「シンタロー?」


口元に手をやり、俯いた甥に気付いたサービスが肩に触れてくる。


 「具合が悪いのか」


 「べつに、大丈夫」


 「顔色が悪い」


ジャンが。


心配そうに、彼が。


顔を覗き込む気配がする。


シンタローと同じ顔。いまの、自分の体の、本当の持ち主。


 「体調が悪いなら言えばよかったのに」


そう言いながら、サービスに店を出ようと合図を送る。叔父は小さく頷き支払いのため給仕の方を向き片手を上げた。


 「大丈夫か?」


サービスの意識が逸れると、ジャンが一気に距離を縮めシンタローの背に手を当てる。


 「なんでも、ない」


 「致死量には届いてないはずなんだけどな」


思わず視線を上げると、いまの、不自然なほどにのんびりとした台詞を吐いたジャンが目だけは真剣にこちらを見ている。


凝視するシンタローと暫し見つめ合い、それから怪訝そうな顔つきに戻ると小さな声で呟いた。


 「あれ、いまの、笑うところだったんだけど」


笑いで盛り上げようと思ったのに、失敗?


困ったなぁと言いながら、会計を済ませたサービスに“ごめんなんか俺が更に悪化させたかも”と神妙に謝罪し、車を回してくると席を立ち足早に店を出ていった。


 「どこか痛むとか、辛いとか、あるか」


 「ないよ。…多分ただの風邪だから」


 「自覚症状があったのか?」


 「朝から少し寒気がして…でも本当にそんな大袈裟なことじゃないから」


 「お前がどうであろうと、総帥がそんな顔色でウロウロしていていいはずがないだろう。まったく、兄さんが知れば大変な騒ぎになるぞ」


 「そうだね」


 


たかが風邪だ。


気分が悪くて、寒気がして、きっと熱があって今夜はもっとひどくなる。


それでもこれはただの風邪だし、叔父に誘われた食事の席で症状が進んだのもそこにジャンがいたのもただの偶然に過ぎない。


だからこれに“原因”なんてものは、ない。


 


サービスに支えられながら車に戻ると、ジャンは先ほどの悪ふざけをもう一度詫び、静かに、丁寧に発進させた。


それはどう見てもシンタローに対し悪意を持つ者の態度ではなかった。


 


 


 


 


団には戻らず、そのまま自宅へと送られ報せを受けていたマジックが自ら玄関で出迎えてくれる。


久しぶりに戻った弟にリビングでくつろぐよう勧めると、シンタローの体に手を回し抱き込むようにして歩き出す。


大袈裟だ。


そう言おうとした、刹那。


 「シンタロー、さっきの、本当にごめんな」


 「ジャン?なにかしたのか」


 「いや、気分が悪そうだったから、ちょっと笑いでもと思ったんだけど…」 


「お前の笑いに対するセンスは最低だからな」


サービスの溜息がそれが事実であることを如実に語っている。


 「きみにも世話になったね。ありがとう」


ふいに。


足を止めた父が、少しだけ振り返りジャンを視界に入れる。


マジックの口元が、微笑んだ。そして。


 「…いえ…」


 


 “…いいえ、マジック様”


 


その、僅かな、間。


 


 


 


ベッドに腰掛けると、まるでメイドのような身のこなしでシンタローの衣服を脱がせ寝間着へと着せ替えさせる。子供の頃にはよくこうして世話になったが、あの頃と変わらぬ繊細な指先がとても心地よく同時にとても苦しくなった。


 「今度こそ薬を飲んでくれるよね?」


 「…ああ」


 「待ってて。すぐに戻るから」


部屋を出て、言葉通りすぐに戻ったマジックが水差しからコップに注いだ水と薬を差し出してくる。


古風な、赤い紙に包まれた薬。


毒が入っているような。


 「あんたも…俺のこと、殺したいの?」


 「なにを言ってるんだい?」


 「…べつに」


俺を殺して、二人で。


二人でどこかに、行くの?


今度こそ。


 「飲めない?手伝おうか」


今度こそ二人で。


初めから俺じゃないから。


 「シンちゃん?」


俺は俺ですらない。“俺”というものは、初めから、そしていまも、存在すらしていなくて。


 「大丈夫、パパがいるからね。隠さなくていいんだよ、心細いならそう言って、私を頼って」


愛されたいのに。


 


 


ここにあり、求められる。


自分が“自分自身”であること。


当たり前のはずの、けれど俺にとって一番難しいこと。


 


 


掌の赤い包みを握りつぶして、声を殺し泣き続けるシンタローの体を、マジックは両手を回し抱き締めた。


訳は問わず。ただ、ただいつまでも。


 


いつまでも。


 


 


 


 


 


ジャンは、自分を蔑んだりしていない。


そんなこと分かってる。


マジックの囁く愛の言葉は本物だ。


それも事実と確信している。


それでも。


 


不安を生み出すのはいつでも自分で、自信を失うのは自らの弱さを克服出来ない脆弱さの所為で。


シンタローの病はより深く心を蝕む。


地上のどんな薬も効かない、それは、“念”という名の、不治の病。





 


 


 


 


 


 


END



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大人は、怖い。


子供はもっと、怖い。


 


犬は、怖い。


猫は、ちょっとだけ、好き。


犬はわんわん、大きな声で吠えて追いかけてくるけど、猫は、知らん顔をする。


お前なんか知らないって、見ない振りで行ってしまう。


だから、ちょっと、好き。


 


朝は、嫌い。


夜はもっと、嫌い。


 


雷は、怖い。


雨は、ちょっとだけ、好き。


雷はごろごろ、大きな音で鳴って追いかけてくるけど、雨は、隠してくれる。


ここにいる自分のこと、見つからないように隠してくれる。


だから、ちょっと、好き。


 


 


でも、一番怖いのは。


一番、大嫌いなのは。


 


 


 


 


 


    なづけ


 


 


 


 


手を繋いで歩いていたのに、お母さんは、急に立ち止まってぼくの手を放した。


 「ここで、待っていてね」


ここ?


ここにいれば、いいの?


どこだか分からない。おうちの近くじゃない。


電車に乗って、飛行機に乗って、外国に来た。


お母さんが、ここは外国よって、言った。


外国って、なんだか分からないけど。


でもいままでいたところと、全然違う。


大きな、うち。ビルって、言うんだって。そればかり。


歩いてる人も、大きい。


みんな金色の髪。


黒い人もいるけど、金色。ばっかり。


 「おかあはん、わて、ここにおったらええの?」


 「そう。ここにいて、動いたらあかんよ」


頷いて。


石の階段。骨みたいな色。焦げてない。


お母さんは、走って、行っちゃった。


行っちゃった。


ぼくは、待ってる。


待ってる。待っててって、言われたから。


歩いてきた通りと違って、ここは人がいない。よかった。


時々、ハトが来て。ぽっぽーって。外国でも、ぽっぽーって。


ハト。焦げてない。


 「はとー。はと、ぽっぽー」


呼んでも、来ない。


焦げてない。


ぼくが呼ぶと来てくれるのは、お母さんと、ちょうちょ。


お母さんは、すぐ泣くけど。怒らないけど。


ちょうちょが来ると、泣くけど。


呼ぶと来てくれる、お母さん。


お母さんは、好き。


好き。


 


好き。


 


 


 


鳩は飛んでいっちゃって、お母さんは、まだ。


まだ帰ってこない。


待っててって言われたから、ぼくは待ってるけど。


待ってるんだけど。


 「おかあはん…まだやろか」


空が赤くなって、ここは外国だから、おうちの近くと違う色。


いままでは、もっと赤い。


もっともっと、赤い。


階段は冷たくて、あんまり赤くない空が紫になって、青くなって。


黒くなって。


冷たくて。


夜は、おうちの近くと、一緒だった。


 


夜は嫌いだから、階段の隅っこに行って、小さくなって。


小さくなると、誰もぼくを見付けられない。


お母さんが言ったから、見つからない。


だけど小さくなっている所為で、お母さんからも見付けてもらえなかったら困る。


困る。


夜は嫌いだけど、困る。


お母さんが戻ってきたら、ぼくは手を振ろう。


寝ないで、ちゃんと待ってる。


帰ってくるの、待ってる。


ちょうちょが来ないように静かにして。


お母さんが泣かないように。


泣かないように。


 


 


ずっと、待って。


寝ないで待って。


朝は嫌いだけど階段の真ん中に行って、お母さんを待って。


自転車の音。


外国だけど、同じ音。ハト。


ハトも同じ。


足音も、同じ。みんな同じ。少し違うけど、同じ。同じだと思う。


違うかも知れないけど、同じ。


怖い。


ここも、怖い。


猫が来てくれたら怖くないのに、来ない。


違うかも知れないから来ないのかな。


違かったら、猫も、怖いかな。犬みたいに、追いかけてくるかな。


おなか、空いた。


階段の真ん中で、嫌いな朝で、お母さんはまだ戻ってこなくて。


おなかが、空いた。


 


足音がして、階段の上を見たら、金色の髪の人が降りてきた。


急いで端っこに行って、小さくなる。


見えなくなる。


聞こえなくなるまで小さくなって、それから、顔を上げて。


大丈夫、見えてなかった。ぼくは、見えてない。


おなかが鳴った。


 


お母さんはまだ戻ってこなくて。


でも動いちゃいけなくて。


金色と、白と、灰色、黒。色んな髪の人が階段を昇って、降りて。


ぼくは見えてないから大丈夫だけど、もしその時お母さんが来たら大変。


大変だから、急いで戻る。


待ってる。


おなかが、何回も、鳴る。


 


 


また夜が来て、ぼくは階段の隅っこに行って、お母さんを待って。


朝になって。


真ん中に。


階段の真ん中に行かなきゃって思うのに、行けなくて。


寒くて。


寒くて。


寒くて。


 


おなか、もう、鳴ってない。


 


待ってるけど。


待ってなきゃ、いけないけど。


 


 「寝て、しもうても…ええやろ、か」


 


ちょうちょ。


飛んでる。


 

 

 


    なづけ


 


 


 


 


赤。


あか。


夕焼けじゃない。


ちょうちょでも、ない。


でも赤い、赤い色。暖かい。


 「パパ、起きたよ」


 「起きたね」


大人と、子供。


赤い服。金の髪。


黒い髪。


怖い。


怖い。


こわい。


 「シンちゃん、自分の部屋に戻っててね」


 「なんで?」


 「なんでも。ほら早く」


子供。


石を投げてくる。棒で叩く。触ると危ないから。危ないから。


ぼくは危ないから。


ぼくが、危ないから。


 「怖いの?」


赤い服の、金の髪の。


蒼い目の。


 「怖いのかい?」


笑ってる。


 


黒い髪の子供は、違う大人に連れて行かれた。やっぱり金の髪。


それから、同じドアから、黒と、金の髪の二人の大人が入ってきた。


怖い。


どうして、ぼくは、どうして、ここに?


階段で待ってるのに。


お母さんを、待ってるのに。


待ってなきゃ、いけないのに。


ちょうちょが沢山飛んできて、お母さんが泣くからだめなのに。


怖くて。


 「こりゃすげえ。しかも結構綺麗じゃねぇか」


 「危険です。素手で触らないで下さい」


ぼくの周りにちょうちょがいっぱい飛んできて、いっぱいでぼくを取り囲んで。


犬みたいに追いかけない。猫みたいに知らん顔しない。


ちょうちょは、いつも、ぼくの傍にいて。


お母さんより、傍にいて。


 「間違いなくマーカーの管轄だな」


 「そうだろうと思ったから、わざわざお前たちを呼び戻したんだよ」


 「どこで拾ったって?」


 「ピカデリーサーカスからチャイナタウンに向かう路地で倒れていたそうだ」


 「捨て子か」


 「だろうね。この通り、炎の蝶を撒き散らしていたのを見た者が知らせてきた」


特戦にいる隊員と、似たような力を持っているんじゃないかと。


赤い服の人が、笑ってぼくを見る。


 「だがこれほどとはねぇ。いい拾いものをしたよ」


 「ふん。しっかしよく兄貴がこんな危ねぇもんあいつに近付けたな」


 「可愛い子じゃないか。しかも利用価値がある」


 「価値、ねぇ」


金の髪の二人はぼくを見て笑う。


でも、黒い髪の人は、笑わない。怖い。


 「で、どうしろって?」


 「お前は優秀な部下を一時期手放すことを了承すればいいだけさ」


 「マーカーに押しつける気か」


 「使い物にならなければ切り捨てて構わない。だが、みすみす逃すには惜しいだろう」


手が、伸びてくる。ちょうちょがいるのに。


きっと叩かれる。気持ち悪いって。


危ないやつだって。


 「怖くないよ。彼の言うことを聞いて、私のために働くと誓うなら」


気持ち悪いって。


 「ここでは、お前のような者こそ必要なんだ」


あっちに行けって。


いなくなれって。


 


頭に。


ふわん、って。


顔を上げたら、赤い服の人が、笑ってぼくの頭を撫でてた。


黒い髪の人がちょうちょを握りつぶしてたけど、でも、焦げなかった。


人も、ハトも、焦がしちゃう、ちょうちょ。


ぼく。


なのに。


 「きみが必要とされる場所は限られる。ここは数少ないきみの居場所だよ」


 「い、ば…しょ?」


 「一人でいたいかい?また冷たい路地に戻って、寂しく死んでいきたい?」


 「…や」


 「私の期待を裏切らなければ、なにもかもを与えてやろう。どうする?」


 「わて、おかあはん、待ってなあかんの。ここにおったら会える?」


 「それは無理だ。だが母親よりもっと強い絆を得ることは出来る」


 「きずな、て…なに?」


 「一人じゃない、ということさ」


一人じゃ、ない。


お母さんは、戻って来ない。


分かってた。


本当は分かってた。


あの階段で手を放されたとき、本当はもう、分かってた。


ぼくは、ぼくの所為で置いていかれた。


ぼくが悪いから、だから、仕方ない。でも。


 「わて…ひとりは、いやや。おいてかれるんは、いやや」


 「立ち止まっていれば置いて行かれる。ほら、欲しければ彼から学べ」


ちょうちょを、全部消してしまった黒い髪の人。


怖い目でぼくを見てるけど、でも、怖くはない。


本当には、怖くない。


だって。


 


ぼくの嫌いな、本当は大嫌いなちょうちょを消してくれたから。


ぼくの嫌いな、本当は大嫌いなぼくを、真っ直ぐに見て、くれてるから。


 


一人じゃないって。


 


 


ひとりじゃ、ない、って。


 


 


 


 


 


 


 「パパ、あの子、どこ行くの?うちの子にならないの?」


 「あの子はいずれシンちゃんのために働くようになるんだ。だから勉強しないとね」


 「じゃあぼくも一緒に勉強する。グンマじゃ泣いてばかりでつまんないよ」


 「いつかね。あの子がシンちゃんの力になれるなら、ちゃんと呼び戻してあげる」


 「…いまは?」


 「いまはダメ」


 「ぼくが頼んでるのに?」


 「パパが言ってるのに、聞けないの?」


 「…ちゃんと、帰ってくる?」


 「いつかね」


 「…分かった」


 


子供は、嫌い。


怖い。


でも。


師匠と呼べ、と言った黒い髪の人と同じ。


この子は全然、怖くない。


怖いと思ったのは、最初だけ。


だってぼくを見てくれるから。じっと、じーっと、見てくれるから。


ぼくから見るのは、本当はちょっと、怖いけど。


でも会えなくなるから、見ておかなきゃ。


覚えて、おかなきゃ。


 


 「名前」


 「…え、あ、」


 「名前、なんて言うの?」


 「な、まえ?」


 「自分の名前、知らないの?」


 「そう言えば聞いてなかったね」


名前。お母さんに、呼ばれてた。


呼ばれてた、名前。


 「――――ん」


 「なに?聞こえなかったよ」


 「あら……ん」


 「あら?あらって言うの?」


 「あらし、まへ…」


 「パパ、この子声小さくて聞こえないよ」


 「あらしって言ってたね」


ない。


名前なんて、ない。


あっちへ行けとは言われても、おいでと呼んでくれたのはお母さんだけ。


だけどお母さんも、いつだって小さな声で呼んできただけ。


“おいで”とか、“急いで”とか。


だから、名前なんて、ない。


 「あーっ分かった!」


同じくらいの背丈の子が、大きい声で叫ぶ。


怖い。


 「アラシヤマだよ!パパと日本に行ったとき遊びに行ったでしょ」


 「ああ、なるほど。どこかで聞いたことのある方言だと思っていたけど」


そうだね、京都だよね。


勝手に納得して、二人で笑って。


ぼくは怖くて、なにも言えなくて。


言えないうちに手を引かれて、歩き出す。


“師匠”は足が速くて、転びそうになるのにどんどん歩いて。


歩いて。


 「…なにを泣いている」


怒られても、歩いて。泣かないようにして、歩いて。


 「お前…本当の名はなんという」


 「…う、ぐ、っ、ひっ」


 「泣かずに答えろ」


 「あら、し、ま、すっ」


 「聞こえん」


 「あっしま、ひぐっ」


 「聞こえないと言っているだろう」


引っ張られた腕が、もっと、ぐいってされて。


両手で、引っ張られて。


持ち上げられて。


 「ほら、言ってみろ」


 「あらっ、アラシヤマ、どす、うっく」


 「それはシンタロー様の勘違いだろう。本当の名だ」


 「そやから、ほんまの、名前どす」


 「本当にアラシヤマなのか」


 「っ、へえ」


 「…そうか。だがお前、自分の名前を伏せようとしていなかったか?」


伏せる、がどういうことか分からないけど、本当の名前なんてないのと同じ。


だからいらなかった。


いらないから、黙ってた。ないって、言った。


同じだったらまた繰り返す。きっと、繰り返して、ぼくはまたひとりで。


捨てられて。


 「まあ、お前はお前でしかないということだろう」


 「わては…わて、だけ?」


 「自分も、名前も、捨て去りたかったんだろう?だが捨てられなかった」


抱えられて見る師匠の目。


怖くはない、目。


 「捨てられないなら抱えて歩け。どこまでも自分を貫け」


そうすれば、見えるものがあるから。


 「見える…もの?」


なにが、見えるの?


 「なにが見えるのかを決めるのもお前自身だ。…ほら、行くぞ」


 「へえ」


誰かが、触ってる。


師匠が、抱えてる。


嫌われ続けたぼくを、触ってる。触ってる。触ってる。


 「わて、いま、いろんなもんが見えてますえ」


 「抱えられている分際でえらそうなことを」


 「へえ。けど見えてます。いろんなもん、見えますえ」


 「そうか。…よかったな」


 「へえ!」


 


自分の目で、見えるもの。


見付けなきゃ。


自分の居場所、作らなきゃ。


ぼくの、ために。


ぼくが生きる、ために。


 


 


強く、ならなきゃ。


 


 


 


 


 END

なづけ
  名付け、だったり
  許嫁、だったり
    …アラッシーへの対シンちゃんすり込み成功



 

zxc
10. 暑い夏の日











 ミーン、ミーン、ミーン。
 カナカナカナ。
 ジーィ、ジーィ、ジーィ。
 ツクツクホーシ、ツクツクホーシ。





「―――暑ィ」

 藍色の地の端に花火が散っている柄のうちわで、だるそうに首から上を扇ぎながら。高い位置で髪を一括りにしたシンタローが呟く。

 普段ならパソコンのキーボードを叩く音か書面にサインをするサラサラというペンの音しか響かないハズの総帥室に、なぜこれほどに鮮明にセミの声が聞こえるのか。
 答えは簡単。音を遮るものが何も無いからだ。
 厚さ五センチを超える完全防弾のはずの窓ガラスは見事に粉砕され、いまやすっかりオープンテラス状態になっている。


 気温は三十六度。
 真夏日を超え、今年初めての酷暑日になりそうだと、朝のニュース番組で髪の長いキャスターは説明していた。



 黒革の高級椅子の上でだらしなく足を組みながら、隣でせっせと書類の処理を行っている男をシンタローは横目で見る。
 予備の椅子に腰を掛け、総帥室の執務机に向かっているのは、普段ならこの部屋に十分以上の滞在も許すことはない黒髪の男だ。
 だが常には陰気なその男―――アラシヤマは、山のように積まれた書類を前にして、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で次々とそれを処理している。

「……暑くねーの、オマエ」

 アラシヤマはスーツの上着は脱いでいるものの、折り目のついた白いシャツに、ネクタイまできちんと締めている。
 シンタローなど既に総帥服を放棄し、ズボンの上にはノースリーブのシャツ一枚になっているというのに。

「え、なんでどす?」

 浮かれた声でそう返す男に、ああやっぱりコイツはまごう事なき変態だと、シンタローは確信を深めた。










 そもそもの原因も、この男だったのだ。
 作戦修了の報告を持ってあがってきた男に入室を許可し、一通りの説明をさせて書類を受け取った。

 書類を渡すとき、アラシヤマが

「で、ちぃとここからは機密の話になるんどすが……」

 真面目な声でそう言って、執務机の上に身を乗り出してきた。ちょいちょいと指で耳を貸すようにシンタローに示唆する。
 シンタローはアラシヤマに耳を寄せた。アラシヤマのそれまでの報告がいつになくまっとうで、その時の表情があまりに真に迫っていたため、常の警戒心が緩んでいた。

 

 そしてアラシヤマが次にとった行為は、重要機密の報告でもなんでもなく。

 一瞬の隙をついて、近づいたシンタローの耳元に口付けた。



「――――――ッッッ!!!!!!!」

 耳元を押さえ、シンタローがばっと身を引く。

 アラシヤマはといえば、

「やったぁ~、シンタローはんのキス、ゲットどすえ~~♪」

 などと胸の前で両手を組んでくるくると浮かれている。周囲に有害そうな花柄の空気を散らしながら。

「この前読んだ少女マンガで勉強しましたんや。やーばっちりどしたな!」
「……………」
「あれ、シンタローはん?顔真っ赤どすえ?ややわぁ、照れてはりますの……」
「………………は、ハハ、ハハハハハハハ」

 シンタローは、しばらく魂をどこかに飛ばしているような顔で動かずにいて。
 やがて、その口から乾いた笑いをあふれ出させた。

 そして相手を見下ろすようにやや顔をあお向けてアラシヤマに向けた視線は、ギラリ、と効果音がつきそうなほどの正真正銘の殺気つき。

「―――ブッ殺ス」




 思う存分溜めたのを一発、溜めナシのを無数に。それだけの眼魔砲をかなりのところ食らったはずの男は、それでもゴキブリ並みのしぶとさで絶命することはなかった。
 シンタローが肩で息をしながら、それでもようやく若干、我に返れば、最重要警備区画であるはずの総帥室の風通しは見事によくなっており。
 生ぬるいどころか、熱風と呼んでも差し支えないほどの暑気が、燦燦と降り注ぐ太陽の光と共に部屋の中に入り込んでくる。
 仕事関係の書類とパソコンだけが無傷で残っていたのが哀しい職業病だったが。室内のエアコンディショナーなど、既に跡形もなく消え去っていた。
 

 処罰、報復、イヤガラセのつもりで半ばヤケクソのように。
 虫の息のクセにまだこちらに這いずって来ようとする男に、その後に下した命令は、暑くてとても仕事になどならないこの部屋での、総帥業務の代行。

 だが今の状況を見れば、その処遇は男を喜ばせる結果にしかならなかったようだ。










 たらたらと自然に流れ落ちてくる顔の汗をシャツの裾で拭いながら、シンタローが隣の男に目をやれば、シャツに汗染み一つ作っていない。いつもどおりの顔で、平然と作業を続けている。
 男が机の上で別に分けておいた書類から一枚を取り、シンタローに手渡す。

「シンタローはん、コレ、どないします?わては許可してもええ思いますけど」
「あー、まあ、あと一週間だけ様子見とけ。そんでも膠着が続くようなら作戦Dに切り替え。…にしてもテメェ、ホントは変温動物なんじゃねぇのか?」
「立派なホモサピエンスどす。暑いて全く感じないわけやないんどすえ。コレは一応、訓練の成果どす。で、こっちは?」
「あと5%は損壊率が低いプラン、再提出。訓練てなんだヨ」
「炎操作の訓練の一環で、体温の調節、やらされましてん」

 シンタローの手元から戻された書類にカリカリと新たな書き込みを加えながら、アラシヤマは言う。

「十度やそこらの外気の変化で汗かくんは、体温の調整が上手くできてへんからや、気合が足りんからやて何べんどつかれたか…」
「……テメェの師匠は、どこぞのモデルか。でもその割にゃオマエ、よく冷や汗だらだらかいてっよなぁ」
「人見知りは、訓練や直らんかった……ゆうかますます酷ぅなりましたわ……。士官学校入ってすぐ、誰かさんにダメ押しもされましたしな」
「へーーー。そりゃ災難だったな」

 皮肉な笑みを口元に浮かべ、遠くを見るような視線をシンタローに向けるアラシヤマに、シンタローは一ミリの感情も篭らない平坦な声で応じる。
 アラシヤマは一つ小さな息を付いて姿勢を正し、再び書類の山へと向きなおった。










「お、終わりましたえ~、シンタローはん」
「……おー」

 ソファでうつらうつらとしていたシンタローは、アラシヤマのその声で覚醒した。
 ここのところほとんど睡眠時間というものを取れなかった身としては正直、大分ありがたい休息だった。上体にはアラシヤマのスーツの上着がかけられていた。
 時刻は午前零時を回ったところ。本当は今日中に済ませる予定ではなかった仕事も紛れ込ませていたにしては早い時間だ。にしても表は当然、とっぷりと暮れている。

 シンタローがのそのそと執務机に近寄り、アラシヤマが終了させたという書類の束にざっと目を通す。ほとんど全てきちんと処理してあり、あとはシンタローのサインさえあれば終わりという書類が数部残っているだけだった。
 シンタローが最後に目を通した書類をばさりと机の上に戻す。何も言わないのは、仕事の終わりを認めたということだ。
 アラシヤマはソファに行き、先刻までシンタローにかけていた上着を片腕で抱えてからもじもじとシンタローを上目遣いで見る。

「この後はどないします?わてのウチ、今日は誰もおらへんのどすけど……v」
「……ソレも例の少女漫画のセリフか?てか誰かいる日ねーだろ、まず」
「酷ッ!いる日も仰山ありますえ!」
「人間か?」
「……おともだち、どす。まぁ夜のお誘いは今日のトコは冗談にしときますわ」

 すぐにはどうせ帰れへんのどすしな、という小さな独言を耳にして、シンタローは―――ン?と頭に疑問符を浮かべる。
 今更、といえば極めて今更な話なのだが。

「オマエ、そんで自分の仕事は」
「これからやりますえ。遠征中に溜まってた分もありますしな」
「……」
「ま、明日以降に持ちこせる分はそうさせてもらいますし、取り急ぎのだけなら朝までには終わるでっしゃろ。問題ありまへん」

 ほな失礼しますえ~、と薄気味の悪い、しかし満面の笑顔を浮かべ、アラシヤマは総帥室を退出していった。





 白いシャツ姿の背中が完全にドアの向こうに消えてから、シンタローは総帥専用の椅子に腰掛けた。
 浅く座り、背もたれをギイっと軋ませつつ、顔を仰向ける。ポケットに入れたまま横になっていたため、ややつぶれかけた箱から煙草を取り出し、咥えて火をつける。ゆらゆらと煙が天井へとのぼっていく。
 遮るもののない背後の空には、満天の星空。日中に比べれば空気は嘘のようにその温度を下げている。蝉の声ももう大分おさまっており、ここまでは殆ど聴こえて来ない。
 風が部屋の中を通り抜け、シンタローの無造作に括ってある髪の毛の先を、緩やかに散らした。





 結局のところ、シンタローにとって今日の午後は殆ど休暇となってしまった。暑さに不快だったのは確かだが、それでも二時間は眠っただろう。そして今日はこのまま、自宅に戻って休むことが出来る。





 元々、悪いのはあんな笑えない悪ふざけをしかけてきたアラシヤマのほうだ。あの精神的ハラスメントを思えば、その後に何をされたとしても礼を言うつもり気になどなるわけがない。

 ただ、仕事は几帳面にこなすその律儀さだけは、評価して。
 修理費分の給料減額は3%くらい免除してやるか、と。シンタローは藍染めの団扇を上下させながら、寝起きの頭で思った。






































=========================================================

369のざっきを見てくれた友人から「アラシヤマがちょっかい出して
怒ったシンタローが眼魔砲で執務室の冷房(というか全て)を自ら壊してしまい
修復期間中アラが償いとして仕事やってたら…」というコメントをもらって
ざくっと書き上げました。  汗かかない人、羨ましいです。


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09. 闇の中











 久々に、アイツと思いっきり、怒鳴りあうようなケンカをした。
 とはいっても、電話口でのことだが。


 最初は一ヵ月後に予定している作戦についての打ち合わせだったハズなのだが
 そこからどう発展したものだったか、
 気付けばネクラだの俺様だのどこの小学生のものかというレベルの口ゲンカになり。


 テメーなんか一生ぜってー友達なんて思わねーからナ!と俺が怒鳴って。しばらくの沈黙の後。


 呪ってやりますえぇぇシンタローはん~~~という半泣きのアイツの声が聞こえてきたので、
 その瞬間勢いよく受話器を壁に叩きつけた。
 総帥室の壁の一部が見事にへこみ、コードレスの受話器は四散して、再起不能になった。




 大分頭が冷えてから、アイツの言ったことの内容自体にはまあ一理はあったかもしれない、とは思い、その晩、作戦の一部には渋々と修正を加えたのだが。
 謝るつもりは、さらさらなかった。
 内容の正しさとそれを告げる口調は無関係だ。その後の口ゲンカは、尚更。







***







 翌朝。
 起きようとしたら、たっぷり十分間、金縛りにあった。

 朝食に出ていたゆで卵を割った瞬間、どろりと中身が流れ出して総帥服の膝に垂れた。生だった。なぜだか見当もつかないとコックはひたすらに頭を下げていた。

 着替えて家を出ようとしたら、目の前を黒猫が横切った。(警戒用のセンサーは作動していたはずなのに)

 本部正門手前の木々の枝を埋めるように、カラスが行列を作っていた。




(……なんっか……縁起悪ィような……)


 そう思った瞬間、昨日の電話口から聞こえたアイツの陰気極まりない声が、頭に蘇る。


 
 ありえねぇありえねぇと頭を振りつついつもどおり歩いていたら、総帥室に入る前の自動ドアに思いっきりぶつかった。(本当にありえねぇ)
 チクショーと呟きつつ無理やりこじ開けて入ったらそこには既にキンタローと秘書たちがいて。
 どうしたシンタロー、と怪訝そうな顔でキンタローが訊ねてきた。
 そこのドア、ぶっ壊れてやがんじゃねーかと、痛む額を押さえながら怒鳴る。
 だが、片眉を上げたキンタローに俺は普通に入れたが、と返され、さらに実践もされた。キンタローが近づくとドアはいつもどおり、スムーズに開いた。



 腑に落ちない気分でそれでも執務机に座り、一時間ほどしたとき。
 入り口近くの机で仕事をしていた秘書の一人が、顔面蒼白でこちらにふらふらと歩いてきた。

「……総帥」

 その顔色と、ほとんど震えながらのその声に、非常に嫌な予感がする。

「……なんだ」
「昨日作成された、ベータ国侵入マップの最終データが…飛んでます。バックアップも……すべて……」 
「なにィーーーーーーーーー?!!!!」

 昨日の午前二時過ぎまで、目を充血させながら何重ものチェックを行ったデータが壊滅。


 しばらく状況が把握できず、椅子から立ち上がることすらできなかったところ、
 もうひとりの秘書が盆を手に近づいてきて、間近で思い切りけつまづき。

 持ってきた熱いコーヒーを頭から浴びせかけられた。

 ぽたぽたと髪から滴り落ちる黒い液体を慌てて拭きつつ謝罪を続ける秘書。
 怒る以前に、呆然とした。

 
 総帥室の足元につまづくようなものなどなにもなく、今までにこんなことは(当たり前だが)一度もない。





 その後の悲惨な経過は思い出したくもないが、とにかく次から次へと続くデータの故障や部下のうっかりミス、整備万端なハズの輸送機が何故か作動しなくなるといったアクシデント。

 そして合間に重なる些細な、しかし確実な不幸。

 さらにそれから二日の間、降りかかる不幸の種類こそ違え、結果としてそれとほぼ同じような日々が続き。



 仕事量としてはさして詰まっていたわけではないのに、三日目の朝、鏡を見た際には、目の下にはくっきりとしたクマが浮き出ていた。



 ―――さすがの俺も、音をあげざるをえなかった。







***







 二回のコールの後、相手が出た。
 
「シンタローはん?」

 と、何食わぬ声で前線基地にいるアイツは電話を受けた。
 かけているこちらの顔色といえば、ここ数ヶ月を見返してもないくらい焦燥しきっていたに違いない。

「……アラシヤマ」
「なんでっしゃろ」
「……この前のは……俺も、ほんのちょっっっとだけ……悪かった。だからもう呪い電波は送ってくんな!!」
「へ?電波……?て、なんのことどす?」

 相手の声はあくまで暢気で、その上どこか浮かれているようにも聞こえる。
 本当にいつもどおりの、腹が立つほど普通のアラシヤマの声だ。

「そうそう、例の作戦、ちゃんとわての意見反映させてくれはったんどすなぁ。ありがとさんどす~」

 こちらの思惑などまったく推量もせず、ここ数日のほとんど奇跡といいたいような悪夢の日々にも全く触れず。
 それどころか、

「あのときシンタローはんが友達やないなんて言わはったんも、いつもの照れ隠しでっしゃろ?わかっとります、わかっとりますわ」

 そんなことを呟きつつ、アラシヤマは回線の向こうでひとりうなずいているようだ。



「ああ~それにしてもシンタローはんからの電話、嬉しゅおす~~vvで、なんの用件どしたっけ?」
「…………」


 その言葉に、開いた口がふさがらなくなる。
 ここ数日間のアレは絶対に、自然の現象ではない。たとえ天中殺でもあれだけのことが起こり続けるわけがない。


 
 とすれば、コイツが無意識にそういった電波を送っていた。あるいは、あの、呪いますえ~の言葉にそれだけの効力があったということで。



 陰険。変態。ネクラ。妄想癖。そのくせ自信過剰で自意識過剰。
 アイツの欠点など腐るほど羅列することが出来る。だがそういった認識すら、まだ甘かったのかもしれない。



 自分は総帥。アイツは部下で、それも一応は直属。
 そして、アイツの勝手な思い込みによれば、心友。






 あれ?シンタローはん?電波悪ぅおますか?シンタローは~ん、と電話口から洩れ聞こえる声は、もうほとんど耳に入りはしない。

 ただ、殴ろうが蹴飛ばそうが眼魔砲でぶっ飛ばそうが阿呆な犬かアメーバかというように離れない相手との、この先の関係を思うと。
 まるで出口の見つからない闇の中にいるように、―――目の前が、真っ暗になった。













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08. 士官学校












(―――へ?)



 いきなり手首をつかんできたその手は、暖かくて。
 そして、つかまれたその手首は更に熱かったに違いない。




 それは、きっと人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
 相手のせいで意識した、とかそういうわけではなかったけれど。





***





 壁一面と、部屋の中央を仕切るように置かれた天井まで届く木製の棚。
 並ぶのは埃を被った背表紙の厚い本や、堅く蓋を閉めてある無数の瓶。壊れかけた実験器具の類。
 教室一つ分の広さを持つ部屋に窓の類はなく、外の音はほとんど聞こえない。
 机は二つ。一つは入り口のそばに、もうひとつは棚に仕切られた奥側に。

 その奥にある机の上に備え付けられたデスクスタンドの元で、アラシヤマは棚から取り出した一冊の本を読んでいた。

 明かりは小さく部屋の一隅を照らすだけで、部屋は全体として薄暗い。
 だが、本を読むだけなら、それで十分だ。
 膝を抱えるように机のそばに体育ずわりをしつつ、黴臭い書籍のページをめくる。
 

 不意に、上階にある体育館から溢れるような歓声が洩れ聞こえてくる。
 ここまで聞こえてくるということは、よほどの大声で騒いでいるに違いない。放課活動中のどこかが紅白戦でもやっているのだろう。

「……フフ……わては群れな何もできんような凡人どもとは違うんどすえ…!!」

 と、アラシヤマが口元に笑みを、眉間にシワを浮かべつつ小声で呟いた瞬間。

「―――ほれ、ここだべ!」

 心休まる一人の時間を瓦解させる胴間声とともに、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。






「この前、トットリと校内探検してたとき見つけたんだっぺ」
「前の薬学の教官が使ってた準備室らしいっちゃ。ただ残っちょるモンがこげにジメジメしてるけぇ、今は使われてないんだわや」
「ここなら見つかる心配もねえべ」
「ほお、こんな部屋があったんじゃのォ」

 聞き覚えのあるその声は、間違いなくあのノーテンキな同期生たちのもの。
 闖入者の足音は四人分。ということは、今の声の主たちのほかに、あともう一人いるということだ。

 部屋に入り込んできた四人はドアを閉め、部屋全体の電灯をつけると、入り口そばの机の周辺に腰を落ちつけたらしい。

「……けんど、本気でムカつくべ、あの教師!あの試験の内容、どう考えても生徒へのイヤガラセだべ?しかも四十点以下はレポート百枚て、ムチャクチャだべ」
「こん前、授業中にやりこめてやったん、まだ根に持ってるっちゃね…」
「あれもちいと可哀相じゃったがのぉ。じゃが、ワシもあの教師の性根はどうも好かんわ」

 棚一つを挟んでだだ洩れの会話から、その話題の中心が先日期末の試験範囲を発表し、生徒のほぼ全員から(というのは、酷いエコ贔屓を受けているごく一部の生徒以外、という意味だが)大反発を食らった化学教師のことだとアラシヤマは推測する。

 ガンマ団士官学校は世界有数の規模を有する団の士官候補生を育てる機関だ。教師陣も一流を揃えている。だが、それでも中には人格に多少問題がある教師も、いないとは言えない。
 今話題に上っている教師は、その代表格で。アラシヤマも確かに好かない、というかほぼ誰からも好かれてはいない。

 しかしだからといって、アラシヤマにはその教師に対して特に反抗する気もなかった。
 そうしたことをすることすら馬鹿馬鹿しく、確かに他の教科に比べればメチャクチャな試験範囲であっても、自分が低い点数をとるとはまず思えなかったからだ。

 特に息を潜めていたわけではないが代わりに出て行ってやるのもシャクで、無視や無視、と心中唱えつつ本の続きに目をやる。
 だがそう思って外界からの音を遮断しようとしたとき。

「―――よし。そんじゃ、手順の最終確認するゼ」 

 聞こえてきたその声に、意識を無理やり引きずられた。






(な…シンタロー?!)

 俺様で傍若無人で、威圧感があるというほどの低さもないくせに、何故か相手に有無を言わさぬような口調の声は、間違いなくあの総帥の息子のもので。
 アラシヤマは反射的に顔を上げ、棚の向こう側の会話に耳をすませた。
 復学してから三ヶ月。まだマトモな口すらきいてはいないが、それでも初対面のときの恨みを忘れたわけではない。

「警備員の巡回は午後八時、午前零時、午前三時の三回。一周約一時間……で、いーんだよな?トットリ」
「少なくともここ一週間は、そうだったわいや。宿直の教官が三人はおるけど、ほとんど自分の準備室からは出てこないっちゃ」
「寄宿舎との境の塀についてる警報はミヤギの筆で止めとく、と。ミヤギはそこで俺たちが戻ってくるまで待機な」
「了解だっぺ!」
「トットリは廊下側、コージはアイツの準備室の窓の外で見張り。その間に俺が問題用紙を見つけて写してくる。コピーは明日の朝でいいだろ」

 その会話の内容を、アラシヤマは見えている片目を僅かに見開きながら盗み聞く。
 どう聞いても、これは教官準備室から試験問題を盗み出すという計画の密談に他ならない。
 なんちゅうことしでかそうしとるんや、あん阿呆どもは。
 そう思いつつアラシヤマが更に耳をすますと、続いて、どんな緊迫した状況でもなんとなく鷹揚に聞こえる大男の声が聞こえてきた。

「じゃけんど、本当にええんかシンタロー?ヌシはこがぁなことせんでも、まず赤点はとらんじゃろう」
「―――いーんだヨ。俺もアイツ、気にくわねーし」

 そう言うシンタローの声には、なぜか翳があるように感じられた。
 その分声のトーンも落ちた気がして、アラシヤマはそろそろと部屋の中間を仕切る棚のほうに移動する。
 
「決行時間は二時……」

 だが、シンタローがそう言いかけた瞬間。
 アラシヤマが動いた先の木の床が、ほんの少しだけ、軋みを上げた。

「誰だッ!!」

 シンタローの厳しい誰何の声が響く。
 ごまかしたところでこちら側を覗き込まれたら隠れる場所もない。それに元々自分にやましい部分はないのだ。
 しぶしぶ、といった様子でアラシヤマは戸棚と壁の隙間から姿を現した。

「アラシヤマ……?」

 床に直接座っていた四人が絶句したように目を丸くして、出てきた少年を凝視する。
 だがアラシヤマがそれに対して、人を見下した視線ではん、と笑い返してやろうと思えば。

「い、いつから、そこにいたんだっぺ……」
「これッッッぽっちも……気付かなかったっちゃ……」
「影の薄さも、ここまでくれば才能じゃのう……」

 ミヤギ、トットリ、コージの三人が呆けたような声でそんなことを呟いた。
 アラシヤマがふるふると拳を震わせながら顔を上げる。

「いつからも何も、最初の最初っからどすわ。元々わてがいたところにあんさんらが来たんどす!」

 勢いのままそう怒鳴りつけて少し気をおさめてから、アラシヤマは、とん、と壁に片方の肩をつけた。腕組みをしてシンタローたち四人を見下ろす。
 口元には陰気な笑みが浮かんでいる。

「せやけど、ええもん聞いてまいましたわ。これ、教官にバラしたら、あんさんら全員、よくて停学どすな」
「な……っ!何言うてるべ!!」

 いかにも楽しげにそう言い放ったアラシヤマに、ミヤギが噛み付く。トットリも眉をひそめてその後をついだ。

「アラシヤマが何言うたところで、信じるモンなんておらんわや」
「そうどすか?赤点常習のあんさんらが急にええ点とったら、怪しまれるんは当然ちゃいます?」
「う……」
「わてはその理由を教えたるだけどす」

 のうのうと、薄笑いを浮かべながら嫌味たっぷりに言う男に、場の雰囲気は一気に険悪なものになる。
 一対四。ではあるが、とりわけミヤギ、トットリとアラシヤマの間に一触即発の空気が流れる。

「アラシヤマ、オメ……!」
「黙らんかったら力ずくで、いうことどすか?これやから野蛮な田舎モンは」

 だが、導火線に火がつくかと思われたその瞬間、腰を浮かせかけたミヤギの胸を、隣に座っていたシンタローが軽く手の甲で叩いた。

「待てよ、ミヤギ―――それよりもっと、いい方法があるゼ」

 言いながら、シンタローは立ち上がり、アラシヤマのそばにずかずかと歩み寄る。

「オイ、アラシヤマ」

 立って並べば、身長はシンタローのほうがわずかに高い。それまでと目線の位置が逆転し、アラシヤマはなんとなく壁に背をつけて、身構える。

「…………なんどす?」
「てめーも、共犯だ」
「はァ?!」

 唐突に、淡々と告げられたその言葉に、アラシヤマはあからさまに眉をひそめ。
 それから、剣呑な目つきのまま唇の片端だけを引き上げた。

「アホらし……、なしてわてがそない犯罪の片棒担がんとあかんのどす」
「保険医が育ててる校舎裏の植物園、半径五メートル」
「?!」

 シンタローが目を細めてアラシヤマを見据えつつ発した、その台詞。
 後ろにいる他の三人は怪訝な顔をして首を傾げた。ただ、対面するアラシヤマの顔色だけが一気に蒼褪める。

「燃やして全部ダメにしたの、テメーだろ」
「な、なしてあんさんが、それを……」
「いい天気だったから、奥にある木の上で昼寝してたんだヨ。そしたら、なーんか俯きながら歩いてきて、表から見えないトコまで来た途端燃え出したヤツが」

 シンタローの言葉が進むにつれて、アラシヤマの顔色はどんどん悪くなる。

「あ、あ、あれは不可抗力、ゆうもんで……!」
「あそこ、雑草だらけに見えたけど、すっげー貴重な薬草とか色々あったのにって高松、ボヤいてぜ」
「……!!」
「残った灰、証拠隠滅に埋めてたトコまでばっちり……」
「あああああ!!」

 みなまで言わせないように、両手を上げてシンタローの言葉を遮る。
 そしてゼエゼエと肩で息をしながら、アラシヤマはシンタローを思いきり睨みつけた。

「あんさん……、それ、脅迫どすえ?!」

 だが、そんなアラシヤマの悪意に満ちた視線などものともせずに、シンタローは、

「お互い様、だろ」

 言って、ニ、と勝ち誇ったように笑った。

 しばらくの間、目を見開いたままピクリとも動かずに固まっていたアラシヤマは。
 やがて何かを諦めたように深い深いため息をつくと、同時にがくりと肩を落とした。ミイラ取りがミイラにとはこういうことか、と心底から思いながら。









 宿直室、そして二つ三つの小窓から洩れるかすかな光などものともせず、夜の学校は闇の中に沈み込んでいる。
 夜間訓練や遅くまで続くような会議などがないことは、トットリが事前に調査済みだ。
 午後九時以降のみつけられる寄宿舎と校舎の間の塀につけられたセンサー。目には見えないが、網の目のように張り巡らされた赤外線に触れれば、寄宿舎中の生徒が目を覚ますようなサイレンが響く。
 だが、装置の一部分に、ミヤギが筆で「休」と書くと、手なずけられた犬のように大人しくなった。
 ミヤギをそこに残し塀を乗り越えたシンタロー、トットリ、アラシヤマの三人は、夜の中でも更に暗い木陰を選び、校舎へと近づく。コージは塀を越えた地点から別ルートを回って校舎の裏側へとまわる。
 夕方のうちに鍵に細工をしておいた窓の一つから、校内に侵入する。
 廊下に人の気配はない。足音を忍ばせて目的の準備室に近づくのは、案外に容易だった。


 トットリが針金で鍵を開け、シンタローとアラシヤマが部屋に入る。
 コージもすぐに裏手からこの部屋の窓の外にたどりつくはずだ。
 トットリは廊下で姿勢を低くしたまま、気配を消して注意深く辺りをうかがう。
 

 ペンライトを手にしたシンタローとアラシヤマは、さして広いとは言えない、そして嫌味なほど整頓された部屋の中で問題用紙を探し始めた。
 自宅に仕事は持ち帰らない。試験問題は一ヶ月前には完成させる。
 そうした噂のある教師の、常に定規ででも書いているんではないかと思う手書き文字の問題用紙が、この部屋のどこかにしまわれているのは確かだった。

 薄暗い部屋の中で手袋をはめて引き出しや棚を漁る。後に僅かな違和感も残さぬように、慎重に。
 ふと冷静に己の姿を鑑みれば正にコソドロそのもので、アラシヤマは闇の中で大きく嘆息した。
 そうこうしているうちに二十分が経過し。
 静寂の中で、アラシヤマは半ば愚痴のような気分で、囁くような小声を出す。

「……にしても、なしてあんさんまで、こない馬鹿げたマネしとるんどす」

 その呟きに、シンタローが作業を続けつつ小声で返す。 

「最初にアイツらに話、持ちかけたのオレだし」
「へ?あんさん、あん教師にえらい贔屓されとるやないの。あない戯けた試験でも、いつもほとんど満点とってはるて聞きましたえ」
「……」

 淡々と続けるアラシヤマの問いかけに、シンタローはしばらくの間、無言だった。
 だが、なんや無視かいな、とアラシヤマが不快に思いつつ、再び作業にのみ集中しようとしたときに、

「だから、だ」

 と、シンタローがぼそりと呟いた。そして、アラシヤマに背を向けたまま、短く言葉を続ける。

「……気にくわねーんだよ。ヒトの顔見て決めるような、アイツの態度」

 その台詞と、それを口にしたシンタローの声音から、アラシヤマにようやく合点がいく。

(―――ああ、そういうことどすのん)

 成績優秀で、人望の厚い一生徒。
 それなりにまっとうな感覚を持つ大半の教師は、シンタローに対し、それ以上の特別扱いなどしない。
 だが、それでも。中には、総帥の息子という肩書きに酷く怯え、媚びへつらう教師も、全くいないわけではない。
 普段は軽く流し、時に利用していたようにすら見えたそれ。だが、本人にしてみれば精一杯の虚勢だったというわけか。

(まぁ、あの教師の贔屓はあからさまにも程がありますけどな……)

 そう心の内で呟きつつ、アラシヤマは薄闇の中で動くシンタローの背中を一瞥する。
 気に食わないことに変わりはないし、差し伸べ返した手を(たとえそれが発火寸前だったとしても)殴打で返された恨みを忘れるつもりもない。
 ただ、なんや案外にガキっぽいトコもあるんやないの、と頭の片隅でちらりと思った。
 

 


 
 探し始めて三十分ほど経った頃、目的の問題用紙がようやく見つかった。
 本棚の最下段の奥深く。無数にあるファイルの中の一つに綴じられていたそれは既に完成されており、書き込まれている日付も、間違いなく次回の分だ。
 シンタローが持参してきた白紙に、それを書き写し始める。
 一枚分を写し終えて時計を見れば。警備員が巡回を始める午後三時まであと十五分ある。
 問題用紙はあと二枚。細かく書き込まれた文字数は膨大だが、それまでには写しきれるだろう。



 だが、そう思い二人が安心しかけたとき、ドアが音を立てずに開いた。その隙間から顔色を蒼くしたトットリが慌てて手招きをしている。
 シンタローは作業を中止して問題用紙を元あった位置に戻してから、ドアに近づく。アラシヤマもその後を追った。
 トットリが冷や汗をかきながら囁く。

「シンタロー!まずいっちゃ、警備員が……!」
「げ」

 その言葉に、シンタローの顔色もまた変わった。

「なんで今夜に限って…!!」
「わ、わからんけど、とにかくあと二分もすればそこの廊下の角曲がってきそうだわや」

 そのやりとりを聞きながらアラシヤマの表情が歪む。
 元々気の乗らない計画ではあったが、ここまで来て全て無駄足、というのは更にシャクだ。

(チィッ……!しゃぁない、こうなったら、廊下の奥に火ぃ飛ばしてひきつけて……)

 す、と手首を上げ、その温度を上げようとする。
 だが、その瞬間。

「バッカ野郎、使うな!」

 アラシヤマの手首をシンタローが掴み、鋭い声で制止した。
 思わぬ行動に出られたアラシヤマが、黒髪の隙間から覗く目を丸くしてシンタローを見る。

「な、この期に及んで、なにゆうて……」
「火ぃ出したら、後でテメェが疑われるかもしんねーだろーが!!」
(―――へ?)

 その言葉の意味するところに気付くまで数秒間、アラシヤマは呆けた顔のまま動けなかった。
 ――――疑われたら、困る?
 むしろアラシヤマを囮にして自分たちだけ逃げ出すことくらい、簡単にやってのけるような男だと思っていたのに。

 そんなアラシヤマの顔から視線を外して、シンタローは小声でそばにいる忍者に問いかける。

「写し終わんなかった分も、大体は覚えた。トットリ、コージにこのこと伝えて、鍵もう一度閉めて来るのに二分かかるか?」
「一分あれば十分だっちゃ」
「じゃあ、俺たちは先に逃げ道確保しとくから、すぐ追ってこいよ」 

 言って、アラシヤマの手首を離し、廊下を駆け出す。勢いに引きずられ、アラシヤマもまた走り出した。
 周囲の気配を探りつつ、音を立てないように、そして出せる最大限の速度で。


 


***





 士官学校の裏手。なんとなく校舎や校庭からは隔離されているようなこの場所にあるのは、保険医が趣味で育てているという植物園と、広大な敷地の余分を埋めるように植えられた無数の木々。
 人の気配など一切しない木漏れ日の射すそこで、アラシヤマはぼんやりと一本の木にもたれかかっている。
 期末の試験はすべて終了し、短い休暇に入った校内は常に比べれば嘘のように静かだ。





 あの後、校舎を脱出する窓のところでトットリ、コージと合流し、中庭を突っ切り、塀の外でぼんやりとしゃがんでいたミヤギを引っ張ると、一目散に寄宿舎へと駆け抜けた。ミヤギの部屋に駆け込むと同時に、全員が深い息をつき、その場にへたり込んだ。
 本人の言葉通り、シンタローはあれだけあった問題のキーワードをほとんど記憶しており。
 全員が一息置いて水を飲んでからすぐ、二枚の白紙にシンタローはそれを書き出して、既に埋まっていた一枚分とともに翌朝四人分のコピーをとった。

 完全とは言えないまでもその問題文は、かなりのところまで正確だった。常に赤点かギリギリのミヤギ、トットリ、コージの三人もそれなりの点数を取り、百枚のレポートから逃れ。
 特にその三人をターゲットとしていた教官は脅しが効きすぎたか、と臍をかんだらしい。
 いわゆる、大成功の末のハッピーエンド、というやつだ。
 あの夜のことが教師たちに露見した様子もなく、日々はたいした変化もなく流れている。





 空は綺麗に晴れており、陽光は穏やかに暖かい。所狭しと伸びている枝々が織り成す影が、他の草むらと同様にアラシヤマの上にも幾何学的な模様を描き出している。
 太い木の幹に背を預けたまま、アラシヤマはぼんやりとあの夜のシンタローの振る舞いを思い出す。


 気に食わない相手だ。いつだって自分がトップで、それが当然という顔をして。
 よく大口を開けて見ているこっちが腹が立つようなバカ笑いもしているし、唯我独尊の俺様のくせに取り巻きたちからは何故か慕われていて。
 総帥の息子という立場すら利用して、好き勝手しているように見えた。

 初対面のときにあれだけの仕打ちをしておきながら、アラシヤマの復学後、一言も謝ってこなかったし。
 こちらから近づきもしなかったが、それでもいつも、アラシヤマのことなどまったく眼中にもないような、どれほど踏みつけにしたところで気にもならない。そんな態度をとってきた―――それなのに。



(バッカ野郎、使うな!)
(後でテメェが疑われるかも―――)



 あの言葉は、きっと、アラシヤマが疑われれば自分たちも芋づる式に見つかるかもしれないと、そう考えただけの話だろう。
 ―――たとえあのときのシンタローの目が、どれだけ真剣で、真っ直ぐなものに見えたとしても。


「ホンマ、気に食わん……」

 呟きながら、アラシヤマはあの時シンタローにつかまれた左の手首を見る。


 制服の袖から覗くその手首には、まだ、シンタローの手の暖かさ、奇妙な温度が残っているような気がした。 




 それは、人に触れられるというその行為自体があまりに久しぶりだったからで。
 相手があの男だったから、とかそういうことではない、とアラシヤマは思う。


 多分、きっと。
 絶対に。












FIN.




















============================================
思えば士官学校時代書くの初めてでした。
男の子はムズカシイですでも好き。
ツッコミどころ満載なのはどうかスルーの方向で…!(拝



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