cheese!
case.1 弟の寝顔電子音が何度も部屋の中に響くのをキンタローは呆れた気持ちで聞いていた。
もう、何度目になるのだろう。
今日撮っただけでもかなりの数になっているはずである。
「シンタロー」
そろそろ帰ろう、とジャケットの裾をつついても弟の寝顔に夢中になっているシンタローには聞こえない。
明日は朝早いんだが、とため息をつきたくなる気持ちを抑えて真剣に携帯電話を構える彼を見つめる。
可愛いなあ、コタロー、とうっとりとして今にも鼻血を垂らしそうな勢いだ。
そして、今撮った画像をひとしきり眺めると、また携帯電話を構える。
「おお!見ろよ、キンタロー!なあ、コレすっげえ可愛いよな?」
すぐに軽快なリズム音が響くと、シンタローははしゃぎながら俺にディスプレイを見せた。
「……ああ、可愛い。だがな、シンタロー。いい加減にしろ」
もう帰ろうと、何度目になるか分からない言葉を吐くとシンタローは、
「あと、1枚。1枚だけだから、な」
と何度目になるのか分からない返事をくれた。
「シンタロー。それはもう聞き飽きた」
いいから帰るぞ、と総帥服の裾を引いてもシンタローは聞く耳を持たない。
弟のコタローにすっかり夢中になってしまった従兄弟に俺はため息を吐いた。
「キンタロー、今度は2人で撮りたいからおまえが撮ってくれよ」
自分でやるのは難しい、と言いながらシンタローは俺の袖を引く。
そして、Gのマークが入ったシンタローの携帯電話を勝手に押し付けられた。
「待ち受けに使いたいんだからな。イイ感じに取れよ」
後ろの花は入れるな、と指示され、俺は仕方なく携帯電話を構えた。
♪♪♪……。
「……どうだ?」
「あー。ちょっとコタローの横ぎりぎりだな。もう1枚取れよ」
「は?いや、だから。シンタロー」
もういいだろう、と言い募っても従兄弟はちっとも聞いてくれない。
その後も無理やり2人を何枚も撮らされて、俺はカメラ機能を付けた携帯電話を開発してしまった過去の自分を恨みたくなった。
case.2 兄の寝顔シンタローの寝顔をシャッターで収めることは簡単だ。
夜を共にしたときに朝方彼よりも早く起きればいいだけのことだし、あるいは昼寝をしているときに足音を立てないようにして近づけばいいだけのことだ。
けれども、それはどちらもパジャマであったり、お馴染みのカンフーパンツのスタイルだったりする。
目の前のように総帥服を着たまま、うたた寝をする彼なんて今まで見たことがない。
開発課の部下からかかってきた電話を終えて、窓辺からデスクへと戻ってきて俺は驚いた。
頬杖をつき、ペンを持ったまま、従兄弟の瞼が閉じられている。
小さい声で「シンタロー」と呼びかけても反応はない。
考え込むようなスタイルだけれども、彼は確かに眠っていた。
仕舞おうとしていた携帯電話のディスプレイを再び開けて、そっと彼に照準を合わせる。
画面いっぱいにシンタローの寝顔が映し出され、かちりと人差し指でその姿を止めると軽快なメロディが鳴った。
「あ、あれ?何してんだよ、キンタロー」
電話終わったのか、と矢継ぎ早に言ってうたた寝を誤魔化す従兄弟に俺は勤めて普通に肯定した。
「メールが来たんだが、今見てもいいか?」
「別にいいけど。俺、まだこの報告書読んでる途中だし」
報告書を手で掲げてシンタローはぎこちなく笑った。
それに気づかない振りをして、俺は手にしている携帯電話を覗き込む。
ディスプレイに映るシンタローの寝顔は被写体がよいこともあって、我ながら上手く撮れていた。
思わずにやつきそうになる口元を必死に抑えながら、俺はディスプレイを静かに閉じた。
case.3 横顔予算編成で不明瞭な点があって、開発課に内線電話をかけたが繋がらない。
どうせ、今日の仕事はこれだけだし、と思って開発課へと久しぶりに行ってみることにした。
俺のどこに不安があるのか、ティラミスもついてきたのが少し気に障ったが、普段行かない場所だから仕方がない。
行きすがら、くれぐれも邪魔しないでくださいね、と念を押されたが子どもじゃあるまいし、従兄弟を仕事中に揶揄うことなんかしない。
大体、知っている団員ならともかくあそこに配属した連中は俺のことをカッコイイ総帥――アンケートで見たから絶対そうだ――だと思ってるんだ。グンマと大人気ない言い争いして夢を壊したくはない。
そんなことを思いながらエレベーターに乗る。
ティラミスもあんまりくどくど言うと俺が怒り出すと思ったのか無言だ。
さすがに親父の扱い方も心得ているやつだけあって余計なことはあまりしない。
着きましたよ、と言われてエレベーターを降りると他のフロアと違い薬品集が鼻を突く。
それに、廊下はしんと静まり返っていて人の気配がまったくない。
「なあ、ここいつもこんなに人いねえの?」
「さあ、どうでしょうね」
私もあまり来ませんから、と言われてふうんと俺は相槌を打った。
まあ一般団員と違ってあんまり招集掛けられねえもんな、と思いながら従兄弟たちのいる場所へと歩いていく。
途中、奨学金のポスターなんかも貼ってあって思わず見入ってしまった。
「あ!あれですね」
ティラミスに言われて左手の部屋を見ると、整然と並ぶ机でメモを取る科学者たちが大勢いた。
彼らと向かい合うようにして、グンマが一番前の席に座っていた。
キンタローは、と探すとスクリーンの前で指示棒を手にしている。
「なんかの研究発表会か?」
「さあ。たぶんそうなんじゃないでしょうか」
スクリーンに映し出される数式も設計図もどちらを見ても何なのかピンと来ない。
挙手して質問をする男にキンタローがすらすらと答えを述べているが、それに耳をそばだててみても内容は分からなかった。
「あ!キンタローのヤツ、白衣着てやがる」
めずらしいなあ、と呟くと傍らの秘書も相槌を打った。
彼が開発したものを見せられたり、使用する事はあっても、白衣でいるのは滅多に見た事がなかった。
「こちらでは意外と着てるんじゃないんですか」
「そうかもな」
総帥室ではスーツだし、遠征のときもその上に着ているのは白衣ではなく軍用コートだ。
「でも、ちょっと入りずらいですよね。開発課の予算は後回しにしますか?」
まだ間に合いますし、とティラミスに言われ俺もそう思う。
科学者の群れに入っていくのはちょっと勇気がいる。それに大事な話の途中だったら悪いよなあ、とも。
「じゃあ、戻るか」
「はい」
夕食のときにでもキンタローに明日総帥室へくるように言っておこう、そう思いながら俺はジャケットを探った。
「総帥?戻らないんですか?」
「ちょっと待てよ。どうせ来たんだから記念にアイツを撮ってから帰る」
すぐだから待ってろ、と白衣のキンタローに携帯電話を向ける。
メロディが鳴って、表示された画面に満足していると秘書は呆れた顔で俺を見た。
「……シンタロー総帥。仕事中ですよ。後でキンタロー様に怒られても知りませんからね」
おまえが言わなきゃバレねえよ、と言うと秘書は頭に手を当てた。
case.4 待ち受け面倒だから携帯電話の待ち受けは時刻表示にしている、と何かのきっかけで言うとシンタローは、
「信じらんねえ!」
と大きな声で言った。そうか?と尋ねれば皆一様に頷く。
「私はもちろんシンちゃ……」
「即刻消去しろ」
伯父は考えるまでもなく、シンタローを待ち受けにしていた。
言い争いをする親子を横にもう一人の従兄弟のグンマが俺に答える。
「僕はねー。今は今月作ったガンボットだよ。その前はアフリカ1号。だいたい発明品かな」
初めて会った人にどんなの作ってるのか聞かれたとき名刺代わりになるでしょ、とグンマはカップを手に取りながら言う。
「てっきりお菓子とか動物だと思ってたが」
発明品とはなかなかいいアイデアだな、と言うとグンマは笑った。
「でしょ?なかなか研究内容は詳しくいえないしね。
お菓子とか動物は……うーん。カメラで撮るけど待ち受けにはしないなあ」
キンちゃんも発明品にしたら、と言われるがなんとなく柄ではない。
聞かれたことは詳しく説明する方が性に合っている。
「シンちゃんはコタローちゃんだよね?」
紅茶に適量以上の砂糖とミルクを流し込みながら、グンマが当然のように聞いた。
すると、伯父の胸元を掴んでいた従兄弟がぱっと手を放す。
急に離された伯父はソファに投げ出されて、「痛いよシンちゃん」と文句を言っていたが従兄弟は聞いていなかった。
「そうそう!俺のコタロー見てみろよ!」
ジャケットから取り出した携帯電話をシンタローは嬉々として皆に見せた。
あどけない表情で眠るコタローがぬいぐるみを抱いている。
「すっげえ可愛いだろう!」
「そうだな」
「そうだね」
いつものように相槌を打つとシンタローはうんうんと頷いた。
「そうだ。キンタロー!おまえもこれにしろよ!お揃いにしようぜ!」
「……考えさせてくれ」
いいアイデアだろ、と話すシンタローをグンマが冷めた目で見ながら、
「……ブラコンなんだから」
と小さく呟く。
伯父はといえば、
「シンちゃんとお揃い!?ええ!ずるい!!」
と、これもまた見当違いの親馬鹿振りを発揮してくれて、結局いつものように親子喧嘩でその場は収まった。
case.5 結局「なあ。そういえば、おまえって待ち受け画像、時計のまんまなわけ?」
仕事帰りに明日のスケジュールをエレベーターの中で確認していると同じように携帯電話を弄っていたシンタローがふと先日話題にしたことを口にした。
「ああ」
明日は午後に会談か、と確認しながら答える。すると、シンタローは、
「俺、あの後、コタローの画像送ってやったじゃん」
とむっとした口調で言った。
「フォルダに入ったままだ。
変えるのが面倒だったし、第一、兄のおまえならともかく従兄弟に当たる俺が少年の寝顔を待ち受けにするのはおかしくないか?総帥のおまえはフリーパスだが、国によっては補佐官の俺は所持品がチェックされるんだぞ」
俺に幼児愛好の趣味はない、と言うとシンタローは黙った。
「うーん。まあ。そうだよな。従兄弟だもんなあ」
説明できねえなあ、とシンタローが呟く。
「グンマのように発明品にする予定もないぞ」
「なんでだよ?」
「ああいうファンシーなものは形が隠れ蓑になるが、俺のは機能的なデザインのものが多い。
そういうものは専門家が見たら判断しやすいからな。明らかに軍事機密に触れる」
「ああ、なるほど」
そりゃ無理だよな、とシンタローは納得した。
「じゃあ、もしかしておまえってカメラ機能もあんまり使わねえの?」
「……カメラ?そうだな。あまり使わないな」
「ふーん。その分の容量分けて欲しいぜ。俺のコタローフォルダすぐいっぱいになるからさあ」
市販のはもう少し容量大きいぞ、とシンタローが俺を見る。
「あくまで業務用だからな。必要なやつは市販のと使い分けしているだろう」
画像データはそんなに必要ないだろうと、と答えるとシンタローはそれでも諦めきれない口調で、
「2個持つのは面倒なんだよ!」
と言った。
「じゃあ、仕方ないな。……着いたぞ」
エレベーターの扉が開く。
「俺は部屋にいったん戻るから。夕食までに行く、と2人に言っておいてくれ」
「え?ああ。分かった」
じゃあな、とシンタローが手を振る。それに片手を上げて応えて俺は私室へと急いだ。
エレベーターで会話をするまですっかり忘れていた。
俺の携帯電話の中には、シンタローの寝顔が保存されている。
来月には某国で会談が控えている。忘れぬうちに早いところパソコンへと移して消去しないといけない。
ジャケットに仕舞った携帯を取り出し、ボタンを何度か押すとシンタローの寝顔が映し出される。
「携帯電話ではやっていないが、パソコンのデスクトップはおまえだぞ」
と言ってみたら従兄弟はどんな反応をするだろう、そう思いながら俺は携帯電話を閉じた。
伯父貴のように反対されるから、決してシンタローには言わないけれども。
初出:2005/10/19
るみき様に捧げます。
case.1 弟の寝顔電子音が何度も部屋の中に響くのをキンタローは呆れた気持ちで聞いていた。
もう、何度目になるのだろう。
今日撮っただけでもかなりの数になっているはずである。
「シンタロー」
そろそろ帰ろう、とジャケットの裾をつついても弟の寝顔に夢中になっているシンタローには聞こえない。
明日は朝早いんだが、とため息をつきたくなる気持ちを抑えて真剣に携帯電話を構える彼を見つめる。
可愛いなあ、コタロー、とうっとりとして今にも鼻血を垂らしそうな勢いだ。
そして、今撮った画像をひとしきり眺めると、また携帯電話を構える。
「おお!見ろよ、キンタロー!なあ、コレすっげえ可愛いよな?」
すぐに軽快なリズム音が響くと、シンタローははしゃぎながら俺にディスプレイを見せた。
「……ああ、可愛い。だがな、シンタロー。いい加減にしろ」
もう帰ろうと、何度目になるか分からない言葉を吐くとシンタローは、
「あと、1枚。1枚だけだから、な」
と何度目になるのか分からない返事をくれた。
「シンタロー。それはもう聞き飽きた」
いいから帰るぞ、と総帥服の裾を引いてもシンタローは聞く耳を持たない。
弟のコタローにすっかり夢中になってしまった従兄弟に俺はため息を吐いた。
「キンタロー、今度は2人で撮りたいからおまえが撮ってくれよ」
自分でやるのは難しい、と言いながらシンタローは俺の袖を引く。
そして、Gのマークが入ったシンタローの携帯電話を勝手に押し付けられた。
「待ち受けに使いたいんだからな。イイ感じに取れよ」
後ろの花は入れるな、と指示され、俺は仕方なく携帯電話を構えた。
♪♪♪……。
「……どうだ?」
「あー。ちょっとコタローの横ぎりぎりだな。もう1枚取れよ」
「は?いや、だから。シンタロー」
もういいだろう、と言い募っても従兄弟はちっとも聞いてくれない。
その後も無理やり2人を何枚も撮らされて、俺はカメラ機能を付けた携帯電話を開発してしまった過去の自分を恨みたくなった。
case.2 兄の寝顔シンタローの寝顔をシャッターで収めることは簡単だ。
夜を共にしたときに朝方彼よりも早く起きればいいだけのことだし、あるいは昼寝をしているときに足音を立てないようにして近づけばいいだけのことだ。
けれども、それはどちらもパジャマであったり、お馴染みのカンフーパンツのスタイルだったりする。
目の前のように総帥服を着たまま、うたた寝をする彼なんて今まで見たことがない。
開発課の部下からかかってきた電話を終えて、窓辺からデスクへと戻ってきて俺は驚いた。
頬杖をつき、ペンを持ったまま、従兄弟の瞼が閉じられている。
小さい声で「シンタロー」と呼びかけても反応はない。
考え込むようなスタイルだけれども、彼は確かに眠っていた。
仕舞おうとしていた携帯電話のディスプレイを再び開けて、そっと彼に照準を合わせる。
画面いっぱいにシンタローの寝顔が映し出され、かちりと人差し指でその姿を止めると軽快なメロディが鳴った。
「あ、あれ?何してんだよ、キンタロー」
電話終わったのか、と矢継ぎ早に言ってうたた寝を誤魔化す従兄弟に俺は勤めて普通に肯定した。
「メールが来たんだが、今見てもいいか?」
「別にいいけど。俺、まだこの報告書読んでる途中だし」
報告書を手で掲げてシンタローはぎこちなく笑った。
それに気づかない振りをして、俺は手にしている携帯電話を覗き込む。
ディスプレイに映るシンタローの寝顔は被写体がよいこともあって、我ながら上手く撮れていた。
思わずにやつきそうになる口元を必死に抑えながら、俺はディスプレイを静かに閉じた。
case.3 横顔予算編成で不明瞭な点があって、開発課に内線電話をかけたが繋がらない。
どうせ、今日の仕事はこれだけだし、と思って開発課へと久しぶりに行ってみることにした。
俺のどこに不安があるのか、ティラミスもついてきたのが少し気に障ったが、普段行かない場所だから仕方がない。
行きすがら、くれぐれも邪魔しないでくださいね、と念を押されたが子どもじゃあるまいし、従兄弟を仕事中に揶揄うことなんかしない。
大体、知っている団員ならともかくあそこに配属した連中は俺のことをカッコイイ総帥――アンケートで見たから絶対そうだ――だと思ってるんだ。グンマと大人気ない言い争いして夢を壊したくはない。
そんなことを思いながらエレベーターに乗る。
ティラミスもあんまりくどくど言うと俺が怒り出すと思ったのか無言だ。
さすがに親父の扱い方も心得ているやつだけあって余計なことはあまりしない。
着きましたよ、と言われてエレベーターを降りると他のフロアと違い薬品集が鼻を突く。
それに、廊下はしんと静まり返っていて人の気配がまったくない。
「なあ、ここいつもこんなに人いねえの?」
「さあ、どうでしょうね」
私もあまり来ませんから、と言われてふうんと俺は相槌を打った。
まあ一般団員と違ってあんまり招集掛けられねえもんな、と思いながら従兄弟たちのいる場所へと歩いていく。
途中、奨学金のポスターなんかも貼ってあって思わず見入ってしまった。
「あ!あれですね」
ティラミスに言われて左手の部屋を見ると、整然と並ぶ机でメモを取る科学者たちが大勢いた。
彼らと向かい合うようにして、グンマが一番前の席に座っていた。
キンタローは、と探すとスクリーンの前で指示棒を手にしている。
「なんかの研究発表会か?」
「さあ。たぶんそうなんじゃないでしょうか」
スクリーンに映し出される数式も設計図もどちらを見ても何なのかピンと来ない。
挙手して質問をする男にキンタローがすらすらと答えを述べているが、それに耳をそばだててみても内容は分からなかった。
「あ!キンタローのヤツ、白衣着てやがる」
めずらしいなあ、と呟くと傍らの秘書も相槌を打った。
彼が開発したものを見せられたり、使用する事はあっても、白衣でいるのは滅多に見た事がなかった。
「こちらでは意外と着てるんじゃないんですか」
「そうかもな」
総帥室ではスーツだし、遠征のときもその上に着ているのは白衣ではなく軍用コートだ。
「でも、ちょっと入りずらいですよね。開発課の予算は後回しにしますか?」
まだ間に合いますし、とティラミスに言われ俺もそう思う。
科学者の群れに入っていくのはちょっと勇気がいる。それに大事な話の途中だったら悪いよなあ、とも。
「じゃあ、戻るか」
「はい」
夕食のときにでもキンタローに明日総帥室へくるように言っておこう、そう思いながら俺はジャケットを探った。
「総帥?戻らないんですか?」
「ちょっと待てよ。どうせ来たんだから記念にアイツを撮ってから帰る」
すぐだから待ってろ、と白衣のキンタローに携帯電話を向ける。
メロディが鳴って、表示された画面に満足していると秘書は呆れた顔で俺を見た。
「……シンタロー総帥。仕事中ですよ。後でキンタロー様に怒られても知りませんからね」
おまえが言わなきゃバレねえよ、と言うと秘書は頭に手を当てた。
case.4 待ち受け面倒だから携帯電話の待ち受けは時刻表示にしている、と何かのきっかけで言うとシンタローは、
「信じらんねえ!」
と大きな声で言った。そうか?と尋ねれば皆一様に頷く。
「私はもちろんシンちゃ……」
「即刻消去しろ」
伯父は考えるまでもなく、シンタローを待ち受けにしていた。
言い争いをする親子を横にもう一人の従兄弟のグンマが俺に答える。
「僕はねー。今は今月作ったガンボットだよ。その前はアフリカ1号。だいたい発明品かな」
初めて会った人にどんなの作ってるのか聞かれたとき名刺代わりになるでしょ、とグンマはカップを手に取りながら言う。
「てっきりお菓子とか動物だと思ってたが」
発明品とはなかなかいいアイデアだな、と言うとグンマは笑った。
「でしょ?なかなか研究内容は詳しくいえないしね。
お菓子とか動物は……うーん。カメラで撮るけど待ち受けにはしないなあ」
キンちゃんも発明品にしたら、と言われるがなんとなく柄ではない。
聞かれたことは詳しく説明する方が性に合っている。
「シンちゃんはコタローちゃんだよね?」
紅茶に適量以上の砂糖とミルクを流し込みながら、グンマが当然のように聞いた。
すると、伯父の胸元を掴んでいた従兄弟がぱっと手を放す。
急に離された伯父はソファに投げ出されて、「痛いよシンちゃん」と文句を言っていたが従兄弟は聞いていなかった。
「そうそう!俺のコタロー見てみろよ!」
ジャケットから取り出した携帯電話をシンタローは嬉々として皆に見せた。
あどけない表情で眠るコタローがぬいぐるみを抱いている。
「すっげえ可愛いだろう!」
「そうだな」
「そうだね」
いつものように相槌を打つとシンタローはうんうんと頷いた。
「そうだ。キンタロー!おまえもこれにしろよ!お揃いにしようぜ!」
「……考えさせてくれ」
いいアイデアだろ、と話すシンタローをグンマが冷めた目で見ながら、
「……ブラコンなんだから」
と小さく呟く。
伯父はといえば、
「シンちゃんとお揃い!?ええ!ずるい!!」
と、これもまた見当違いの親馬鹿振りを発揮してくれて、結局いつものように親子喧嘩でその場は収まった。
case.5 結局「なあ。そういえば、おまえって待ち受け画像、時計のまんまなわけ?」
仕事帰りに明日のスケジュールをエレベーターの中で確認していると同じように携帯電話を弄っていたシンタローがふと先日話題にしたことを口にした。
「ああ」
明日は午後に会談か、と確認しながら答える。すると、シンタローは、
「俺、あの後、コタローの画像送ってやったじゃん」
とむっとした口調で言った。
「フォルダに入ったままだ。
変えるのが面倒だったし、第一、兄のおまえならともかく従兄弟に当たる俺が少年の寝顔を待ち受けにするのはおかしくないか?総帥のおまえはフリーパスだが、国によっては補佐官の俺は所持品がチェックされるんだぞ」
俺に幼児愛好の趣味はない、と言うとシンタローは黙った。
「うーん。まあ。そうだよな。従兄弟だもんなあ」
説明できねえなあ、とシンタローが呟く。
「グンマのように発明品にする予定もないぞ」
「なんでだよ?」
「ああいうファンシーなものは形が隠れ蓑になるが、俺のは機能的なデザインのものが多い。
そういうものは専門家が見たら判断しやすいからな。明らかに軍事機密に触れる」
「ああ、なるほど」
そりゃ無理だよな、とシンタローは納得した。
「じゃあ、もしかしておまえってカメラ機能もあんまり使わねえの?」
「……カメラ?そうだな。あまり使わないな」
「ふーん。その分の容量分けて欲しいぜ。俺のコタローフォルダすぐいっぱいになるからさあ」
市販のはもう少し容量大きいぞ、とシンタローが俺を見る。
「あくまで業務用だからな。必要なやつは市販のと使い分けしているだろう」
画像データはそんなに必要ないだろうと、と答えるとシンタローはそれでも諦めきれない口調で、
「2個持つのは面倒なんだよ!」
と言った。
「じゃあ、仕方ないな。……着いたぞ」
エレベーターの扉が開く。
「俺は部屋にいったん戻るから。夕食までに行く、と2人に言っておいてくれ」
「え?ああ。分かった」
じゃあな、とシンタローが手を振る。それに片手を上げて応えて俺は私室へと急いだ。
エレベーターで会話をするまですっかり忘れていた。
俺の携帯電話の中には、シンタローの寝顔が保存されている。
来月には某国で会談が控えている。忘れぬうちに早いところパソコンへと移して消去しないといけない。
ジャケットに仕舞った携帯を取り出し、ボタンを何度か押すとシンタローの寝顔が映し出される。
「携帯電話ではやっていないが、パソコンのデスクトップはおまえだぞ」
と言ってみたら従兄弟はどんな反応をするだろう、そう思いながら俺は携帯電話を閉じた。
伯父貴のように反対されるから、決してシンタローには言わないけれども。
初出:2005/10/19
るみき様に捧げます。
PR
dialogue
case.1 彼の髪シンタローの髪が好きだ。いや、好きなのは別に髪だけではないんだが。
彼の髪は俺よりもずっと長い。腰までは行かないが、優に肩は超えている。
癖のない、真っ直ぐとした……そうまるで糸を集めたかのような髪だ。
総帥になってからは以前と違って紐でくくることをしなくなった。
なんの手も加えずに背に流された髪には紐の跡も何もついていない。
とてもきれいな髪だ。
「なんだよ?」
「いいや」
まだ終わらないのか、と凝視していたことを誤魔化すとシンタローはばつの悪そうな顔をした。
「もう少し……だな。悪いけどちょっと待てよ」
積み上げた報告書の上に今、サインし終わった物を乗せる。
ちらり、とそれを見るとサインの横に押した判が曲がっていた。
「シンタロー」
「なんだよ」
紙を捲る手を止めずにシンタローが問う。問われるままに、
「曲がっているぞ」
と答える。するとシンタローは深いため息を吐いた。
「……今読んでるのからは気をつける」
あー、ちくしょう、とがしがしと髪をシンタローが掻き回す。
黒い髪が乱れて、赤い総帥服のジャケットにばらばらと髪の房が散った。少しだけ見苦しい。
「あまり……髪を掻き回すな」
急な客が会ったらどうする、と嗜めるとシンタローは口を尖らせた。
「癖なんだから仕方ねえだろ!気に何ならお前が直せよ」
case.2 彼の口唇キレたときのキンタローほどやっかいなものはない。
ミスを犯し、一般家屋への被害が少し出て今ヤツはかなりのお冠だ。
そりゃあ、俺だって怒鳴りつけたい。
一応、ガンマ団は正義のお仕置き集団に変わったんだ。
ようやく世間に根付いてきた評価をまた昔に戻したくはない。
俺を初めて殺そうとしたときは今のように語彙が豊かでなかった。
殺してやる、とかお前を殺すだとか、まあ、そんな風にしか言ってなかった気がする。
ところが、ドクターの献身的な教育の甲斐があってかいつのまにかコイツは口が達者になってしまった。
科学者として発表の場がある所為もあるだろう。
それと、俺に同行して色々な交渉の場に着くことも多くなったからかもしれない。
ともかくキンタローは以前より格段に口が回るようになったわけだ。
それでもって、今キンタローはというと直接的なミスを犯した団員を前に情報伝達の重要さを説いている。
その態度は慇懃無礼で、俺がこの団員だったらとっくの昔に取っ組み合いになっているようなモンだ。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローの片眉が上がった。
顔を合わせた彼の秘石眼は辛うじて光っていないが、、口元が若干歪んでいる。
「とりあえずそいつは謹慎させておいて、帰還してから始末書を書かせるんでいいだろ。
他にも処理することはあるんだ」
下がっていいぜ、と告げると青ざめた顔で敬礼し去っていく。
司令室にはとっくに他の部下たちはいない。
怒ったキンタローほど厄介なものはいないからだ。
「謹慎?始末書?生温い処分だな」
あー、まだ口の端が上がってんな。
髪をかき上げながら、キンタローの癖を確かめる。この口元が戻らないとちょっとしたことでネチネチ言われちまう。
「処分は始末書を見てから出すんでもいいだろ。減給すんなり、配置転換すんなり、さ」
なだめるように言うとキンタローはふんと鼻を鳴らした。
まだ、あまり気が落ち着いてないようだ。
「とりあえずコーヒーでも淹れて気分転換しようぜ。今後の作戦も少し変えなきゃだめだろ」
落ち着けよ、な、と椅子を勧めて俺はジャケットを脱いだ。
キンタローは素直に従ってくれたが、機嫌が良くなったわけではない。
口元で機嫌が分かるからまだ対処のしようがあるが……。
(これで、この癖なかったら最悪だよなあ)
歪んだ口元を見ながらため息を吐くとキンタローの眉がピクリと動いた。
case.3 彼の鏡「また、見てるのか」
部屋に入るとキンタローはいつものように驚いたような表情で俺の方を振り返った。
いつの頃か、キンタローは一人でいたいときに亡き叔父の部屋の鏡を見つめるようになった。
ルーザー叔父さんの部屋はキンタローの書斎になっているし、彼がそこにいても不都合はないのだが気にはなる。
「飽きないよなあ、お前」
部屋の壁に掛けられた長方形の姿見はごく普通のものだ。
華美なことを嫌い、合理的なものを好んだという叔父の遺品らしく目立たぬ色合いの縁をしている。
「……いいだろう。べつに」
決まってこの鏡のことを言及するとキンタローは眼を逸らす。
それはなぜだか分からないけれど。
「まあ、べつにいいんだけどな。珍しくハーレムとサービス叔父さんが揃って来てるから呼びに来た」
来いよ、と誘うとキンタローの目が丸くなる。
「あの二人が?それは……珍しいな」
「親父がいないから、ドクターとグンマが相手をしてるとこ。夕飯は外へ食いに行こうってさ」
予定はないよな、と確認するとキンタローは肯定する。
「ジャケットは後で取りに来ればいいだろ。早く来いよ」
紅茶が冷めると言うとキンタローは分かったといつもどおりの声で答え、それから鏡の縁をやさしく指でなぞる。
それはいつ見ても不思議な光景だ。凝視しているのをばれないようにさり気無く扉へ向かうとキンタローも後に続く。
シャッと小気味よく自動的に扉が開く。もう一度音が聞こえるのは閉まるときだ。
だが。
扉が閉まるのはいつもゆっくりだ。
あの鏡に固執するわけはよく分からない。
それでも、部屋を去る間際にキンタローが鏡へと振り返り、扉が開け放たれたままになるのを俺はいつも見ていない振りをする。
case.4 彼が眠るときノックをした後、覗き窓から俺の姿を確認しシンタローが部屋のドアを開ける。
現れた従兄弟の姿を見て俺はもう何度目になるか分からない注意を口にする羽目になった。
「ここがどこだか分かっているのか」
五ツ星にランクするホテル、とはいえ休戦協定を結んだばかりの国で下着一枚で寝る人間がいていいんだろうか。
持参した資料の説明はそこそこに指摘するとシンタローはぷいと顔を背けた。
*
ベッドの上でシンタローは胡坐をかいている。
その所作も咎めたいところだが、これはまあいい。
寒くはない、とはいえこの国の温度は別段暑くもない。
空調が壊れているわけでも、風呂に入る直前といったわけでもないのに従兄弟は下着のみを纏った状態でいる。
「パジャマはどうしたんだ」
「ンなもん持ってきてるわけないだろ」
交渉だぜ。観光じゃないんだ。荷物は最低限でいいに決まってるだろ、とシンタローは当たり前のように口にする。
「部下たちだって私物は出来る限りセーブしてるしさ」
それでも、おまえのように下着一枚で部屋にはいないと思うがな。
思わず、そう言いたくなったがぐっと我慢した。
「百歩譲ってパジャマを持ってきてなくてもよしとしよう。
だが、部下たちだって飛空艦の中で非番のときは私服を着ているな?」
たいていはシンタローと同じようなカンフーパンツだったり、動きやすい服装だったりだが。
「おまえも総帥服を脱いでるときは私服を着ていたはずだ」
パジャマがなくても、それがあるだろうと言い募るとシンタローはひらひらと手を振った。
「あ、それ無理。今、洗っちまっててさ。第一、艦に置いてきてるし」
着る物ない、とシンタローがあっさりと言う。
頭が痛くなったが、俺は我慢した。
「洗ってしまったのなら仕方がない。
だが、このホテルの設備は一級だ。アメニティだって充実している。
服を持ってきていないおまえのことだからシャンプーだってここのを使ったんだろう?」
「シャンプー?当たり前だろ」
「それなら、その傍にバスローブがあったのを分かっているはずだな。何でそれを着ない」
何かあったら、急に誰かが訪ねて来たり、何かで避難しなくてはいけない場合どうすると畳み掛ける。
するとシンタローは悪びれることなく答えた。
「だって男のパジャマといったらこれだろ!それにパプワ島で暮らしてからすっかり癖になっちまってさ」
夜、何かを着るのは落ち着かないとあっさり言い放つシンタローに俺はもうため息しか出てこなかった。
case.5 癖になりそうな……食卓に誰かが欠けているのは珍しいことじゃない。
俺とキンタローはよく遠征へ行くし、グンマだって遠方の会議に出席することもある。
それでも長期間の不在がこうも重なることは珍しかった。
「早いな」
すっきりと身嗜みを整えたキンタローが俺に近づく。
昨日の午後から親父とグンマはそれぞれの用事でいない。それも今週末まで1週間も、だ。
「いつもどおりだろ。それより、キンタロー。なんか忘れてねえ?」
昨日約束しただろ、とからかい混じりに注意をするとキンタローは
「うっかりしていた。そうだったな。すまない」
明日から気をつけよう、とわざとらしく肩をすくめて見せる。
そして、それから俺に、
「おはよう、シンタロー」
と口にしてから軽いキスを頬にくれた。
「ん。よく出来ました」
笑いながら、キスのお返しをするとキンタローもくすぐったそうな表情をする。
「これを1週間続けるんだな」
たまにおまえは面白いゲームを思いつく、とキンタローは笑った。
「後からキッチンに入ってきた方からやるんだぜ」
やられた方は3秒以内にお返し、しかも忘れた方が朝食の用意な、と口にするとキンタローは俺に椅子を勧めた。
「今日は俺が作るとしても……どちらも覚えていたらどうするんだ?」
「そりゃ一緒に作ればいいだろ」
なに言ってるんだよ、と呆れたように答えて見せる。
それもそうだな、と特に感心したようには答えずにキンタローは首肯した。
「……それよりも」
「なんだよ?」
淹れたてのコーヒーに口をつけて先を促すとキンタローはトマトにフォークを刺した。
「このゲームは1週間も続けたら癖になりそうじゃないか?
二人が帰ってきたら気をつけろよ、とサラダを食べ進めながら口にするキンタローに俺も言ってやった。
「それを言うならおまえもだろ」
初出:2005/09/30
かな様に捧げます。
case.1 彼の髪シンタローの髪が好きだ。いや、好きなのは別に髪だけではないんだが。
彼の髪は俺よりもずっと長い。腰までは行かないが、優に肩は超えている。
癖のない、真っ直ぐとした……そうまるで糸を集めたかのような髪だ。
総帥になってからは以前と違って紐でくくることをしなくなった。
なんの手も加えずに背に流された髪には紐の跡も何もついていない。
とてもきれいな髪だ。
「なんだよ?」
「いいや」
まだ終わらないのか、と凝視していたことを誤魔化すとシンタローはばつの悪そうな顔をした。
「もう少し……だな。悪いけどちょっと待てよ」
積み上げた報告書の上に今、サインし終わった物を乗せる。
ちらり、とそれを見るとサインの横に押した判が曲がっていた。
「シンタロー」
「なんだよ」
紙を捲る手を止めずにシンタローが問う。問われるままに、
「曲がっているぞ」
と答える。するとシンタローは深いため息を吐いた。
「……今読んでるのからは気をつける」
あー、ちくしょう、とがしがしと髪をシンタローが掻き回す。
黒い髪が乱れて、赤い総帥服のジャケットにばらばらと髪の房が散った。少しだけ見苦しい。
「あまり……髪を掻き回すな」
急な客が会ったらどうする、と嗜めるとシンタローは口を尖らせた。
「癖なんだから仕方ねえだろ!気に何ならお前が直せよ」
case.2 彼の口唇キレたときのキンタローほどやっかいなものはない。
ミスを犯し、一般家屋への被害が少し出て今ヤツはかなりのお冠だ。
そりゃあ、俺だって怒鳴りつけたい。
一応、ガンマ団は正義のお仕置き集団に変わったんだ。
ようやく世間に根付いてきた評価をまた昔に戻したくはない。
俺を初めて殺そうとしたときは今のように語彙が豊かでなかった。
殺してやる、とかお前を殺すだとか、まあ、そんな風にしか言ってなかった気がする。
ところが、ドクターの献身的な教育の甲斐があってかいつのまにかコイツは口が達者になってしまった。
科学者として発表の場がある所為もあるだろう。
それと、俺に同行して色々な交渉の場に着くことも多くなったからかもしれない。
ともかくキンタローは以前より格段に口が回るようになったわけだ。
それでもって、今キンタローはというと直接的なミスを犯した団員を前に情報伝達の重要さを説いている。
その態度は慇懃無礼で、俺がこの団員だったらとっくの昔に取っ組み合いになっているようなモンだ。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローの片眉が上がった。
顔を合わせた彼の秘石眼は辛うじて光っていないが、、口元が若干歪んでいる。
「とりあえずそいつは謹慎させておいて、帰還してから始末書を書かせるんでいいだろ。
他にも処理することはあるんだ」
下がっていいぜ、と告げると青ざめた顔で敬礼し去っていく。
司令室にはとっくに他の部下たちはいない。
怒ったキンタローほど厄介なものはいないからだ。
「謹慎?始末書?生温い処分だな」
あー、まだ口の端が上がってんな。
髪をかき上げながら、キンタローの癖を確かめる。この口元が戻らないとちょっとしたことでネチネチ言われちまう。
「処分は始末書を見てから出すんでもいいだろ。減給すんなり、配置転換すんなり、さ」
なだめるように言うとキンタローはふんと鼻を鳴らした。
まだ、あまり気が落ち着いてないようだ。
「とりあえずコーヒーでも淹れて気分転換しようぜ。今後の作戦も少し変えなきゃだめだろ」
落ち着けよ、な、と椅子を勧めて俺はジャケットを脱いだ。
キンタローは素直に従ってくれたが、機嫌が良くなったわけではない。
口元で機嫌が分かるからまだ対処のしようがあるが……。
(これで、この癖なかったら最悪だよなあ)
歪んだ口元を見ながらため息を吐くとキンタローの眉がピクリと動いた。
case.3 彼の鏡「また、見てるのか」
部屋に入るとキンタローはいつものように驚いたような表情で俺の方を振り返った。
いつの頃か、キンタローは一人でいたいときに亡き叔父の部屋の鏡を見つめるようになった。
ルーザー叔父さんの部屋はキンタローの書斎になっているし、彼がそこにいても不都合はないのだが気にはなる。
「飽きないよなあ、お前」
部屋の壁に掛けられた長方形の姿見はごく普通のものだ。
華美なことを嫌い、合理的なものを好んだという叔父の遺品らしく目立たぬ色合いの縁をしている。
「……いいだろう。べつに」
決まってこの鏡のことを言及するとキンタローは眼を逸らす。
それはなぜだか分からないけれど。
「まあ、べつにいいんだけどな。珍しくハーレムとサービス叔父さんが揃って来てるから呼びに来た」
来いよ、と誘うとキンタローの目が丸くなる。
「あの二人が?それは……珍しいな」
「親父がいないから、ドクターとグンマが相手をしてるとこ。夕飯は外へ食いに行こうってさ」
予定はないよな、と確認するとキンタローは肯定する。
「ジャケットは後で取りに来ればいいだろ。早く来いよ」
紅茶が冷めると言うとキンタローは分かったといつもどおりの声で答え、それから鏡の縁をやさしく指でなぞる。
それはいつ見ても不思議な光景だ。凝視しているのをばれないようにさり気無く扉へ向かうとキンタローも後に続く。
シャッと小気味よく自動的に扉が開く。もう一度音が聞こえるのは閉まるときだ。
だが。
扉が閉まるのはいつもゆっくりだ。
あの鏡に固執するわけはよく分からない。
それでも、部屋を去る間際にキンタローが鏡へと振り返り、扉が開け放たれたままになるのを俺はいつも見ていない振りをする。
case.4 彼が眠るときノックをした後、覗き窓から俺の姿を確認しシンタローが部屋のドアを開ける。
現れた従兄弟の姿を見て俺はもう何度目になるか分からない注意を口にする羽目になった。
「ここがどこだか分かっているのか」
五ツ星にランクするホテル、とはいえ休戦協定を結んだばかりの国で下着一枚で寝る人間がいていいんだろうか。
持参した資料の説明はそこそこに指摘するとシンタローはぷいと顔を背けた。
*
ベッドの上でシンタローは胡坐をかいている。
その所作も咎めたいところだが、これはまあいい。
寒くはない、とはいえこの国の温度は別段暑くもない。
空調が壊れているわけでも、風呂に入る直前といったわけでもないのに従兄弟は下着のみを纏った状態でいる。
「パジャマはどうしたんだ」
「ンなもん持ってきてるわけないだろ」
交渉だぜ。観光じゃないんだ。荷物は最低限でいいに決まってるだろ、とシンタローは当たり前のように口にする。
「部下たちだって私物は出来る限りセーブしてるしさ」
それでも、おまえのように下着一枚で部屋にはいないと思うがな。
思わず、そう言いたくなったがぐっと我慢した。
「百歩譲ってパジャマを持ってきてなくてもよしとしよう。
だが、部下たちだって飛空艦の中で非番のときは私服を着ているな?」
たいていはシンタローと同じようなカンフーパンツだったり、動きやすい服装だったりだが。
「おまえも総帥服を脱いでるときは私服を着ていたはずだ」
パジャマがなくても、それがあるだろうと言い募るとシンタローはひらひらと手を振った。
「あ、それ無理。今、洗っちまっててさ。第一、艦に置いてきてるし」
着る物ない、とシンタローがあっさりと言う。
頭が痛くなったが、俺は我慢した。
「洗ってしまったのなら仕方がない。
だが、このホテルの設備は一級だ。アメニティだって充実している。
服を持ってきていないおまえのことだからシャンプーだってここのを使ったんだろう?」
「シャンプー?当たり前だろ」
「それなら、その傍にバスローブがあったのを分かっているはずだな。何でそれを着ない」
何かあったら、急に誰かが訪ねて来たり、何かで避難しなくてはいけない場合どうすると畳み掛ける。
するとシンタローは悪びれることなく答えた。
「だって男のパジャマといったらこれだろ!それにパプワ島で暮らしてからすっかり癖になっちまってさ」
夜、何かを着るのは落ち着かないとあっさり言い放つシンタローに俺はもうため息しか出てこなかった。
case.5 癖になりそうな……食卓に誰かが欠けているのは珍しいことじゃない。
俺とキンタローはよく遠征へ行くし、グンマだって遠方の会議に出席することもある。
それでも長期間の不在がこうも重なることは珍しかった。
「早いな」
すっきりと身嗜みを整えたキンタローが俺に近づく。
昨日の午後から親父とグンマはそれぞれの用事でいない。それも今週末まで1週間も、だ。
「いつもどおりだろ。それより、キンタロー。なんか忘れてねえ?」
昨日約束しただろ、とからかい混じりに注意をするとキンタローは
「うっかりしていた。そうだったな。すまない」
明日から気をつけよう、とわざとらしく肩をすくめて見せる。
そして、それから俺に、
「おはよう、シンタロー」
と口にしてから軽いキスを頬にくれた。
「ん。よく出来ました」
笑いながら、キスのお返しをするとキンタローもくすぐったそうな表情をする。
「これを1週間続けるんだな」
たまにおまえは面白いゲームを思いつく、とキンタローは笑った。
「後からキッチンに入ってきた方からやるんだぜ」
やられた方は3秒以内にお返し、しかも忘れた方が朝食の用意な、と口にするとキンタローは俺に椅子を勧めた。
「今日は俺が作るとしても……どちらも覚えていたらどうするんだ?」
「そりゃ一緒に作ればいいだろ」
なに言ってるんだよ、と呆れたように答えて見せる。
それもそうだな、と特に感心したようには答えずにキンタローは首肯した。
「……それよりも」
「なんだよ?」
淹れたてのコーヒーに口をつけて先を促すとキンタローはトマトにフォークを刺した。
「このゲームは1週間も続けたら癖になりそうじゃないか?
二人が帰ってきたら気をつけろよ、とサラダを食べ進めながら口にするキンタローに俺も言ってやった。
「それを言うならおまえもだろ」
初出:2005/09/30
かな様に捧げます。
二人のキス
case.1 甘えん坊なきス「ほな、おさきに」
名残惜しそうに陰気な男が降りると、従兄弟は深くため息を吐いた。
辛気臭い香の香りがまだそこらに漂っている気がする。
「あいつも……うざったくなけりゃあ、使える男なのにな」
幾度となく聞かされた言葉を聞き、俺は律儀にああと返す。
アラシヤマは確かにうざったい。
あれがなければ、というか極端に従兄弟に固執しなければ俺が四六時中シンタローについていかなくてもよいのだが。
「あれのどうしようもなさは今更直るものでもないだろう。我慢しろ」
あの根暗な性格を強制できるようなプログラムなどありはしない。
かといって優秀な人材を首にすることもできない現実もある。
「我慢か~」
「おまえには難しいことだろうがな」
ちらりと従兄弟の横に目を向けるとシンタローはぐっと詰まった表情をした。
「エレベーターの中では眼魔砲を撃たないくらいの分別はついているようだが」
壁には彼が苛つくあまりにめり込ませた拳の跡が残っている。
なにやらぶつぶつとシンタローは文句を言っていたが、俺が軽く睨むと口を閉じた。
「……悪かったよ」
ぶすっとした表情のまま従兄弟は組んでいた手を解く。
はあ、ともう一度深いため息をつき、彼は艶やかな髪をがしがしとかき混ぜはじめた。
赤い服に黒い髪が乱雑に散らばるのを見て、俺の方こそため息を吐きたくなる。
「シンタロー」
「なんだよ」
上目遣いに俺を伺う従兄弟に別に怒ってはいないと囁く。
髪をかき上げる動作を止めた彼の手首にくちづけを落とすとシンタローは眉を吊り上げた。
「おまえなあ、仕事中だろ」
「一応密室だ」
憮然とした表情のシンタローの眉間へともキスを落とすと彼は再びため息を吐く。
「……誰か乗ってきたらどうすんだよ」
「そのときは、そのときだ」
伯父貴でないといいな、と揶揄い混じりに耳を食むとシンタローは身を捩った。
やめろよ、と軽く手で払い、反撃してくる彼は目も口も笑っている。
笑いながら抵抗するシンタローへ俺はじゃれつくように腕を伸ばした。
抱きしめるとシンタローは「しょうがないヤツだよ。……俺の従兄弟は甘ったればっかだなあ」といいながら俺の頬に手を寄せる。
「俺もおまえも我慢が足りねぇよな」
深くくちづけを交わす前にシンタローは悪戯めいた表情でそう言った。
case.2 戦場でのキスダ、ダ、ダダダダダ。
銃声がぱらぱらとそこらじゅうで響く。
特殊能力を持った戦闘員が多いとはいえ、なかなか防ぎきれない。
走りながら傍らの従兄弟に目を向ければ彼の左腕は銃弾が掠った所為で赤い総帥服が濃く見えた。
「キリねえよな」
きいんと弾がすぐ横の金属製の窓枠に弾かれて耳障りな音を立てる。
眼魔砲を使っちゃだめか、と伺いたててきた従兄弟に首を振ると彼は大仰に嘆息した。
「地道に作戦通りやるしかねえのかよ」
「眼魔砲はあくまで最終手段だ。貴重なデータを失いたくはない」
あきらめろ、と言いながら通路の死角から照準を合わせてきた敵兵にレーザー銃を撃つ。
「この建物は複雑な造りなんだ。崩壊したらどれだけの被害が出るか分からないぞ。
死人を出したくないのならそれで我慢しろ」
従兄弟が手に握っている最低値に設定したレーザー銃を示すとシンタローははいはいとおざなりな返事をした。
「予定通りなら夕飯前に終わるよな。まあ、お互いがんばろうぜ」
おれはこっちだったな、と二股に分かれた通路に差し掛かるとシンタローが左の方向を指差す。
「気をつけろよ、シンタロー」
「おまえもな」
じゃあな、と手を振って別れる前にシンタローがぐいっと俺の手首をつかむ。
銃に軽くキスを落とすとシンタローは悪戯めいた表情で笑った。
「おまえにはあとでやるよ」
振り返り、手を振る従兄弟に嘆息しつつ、俺はレーザー銃を握りなおした。
右の通路から足音が近づいてくる。
打ち込まれる弾丸を避けてトリガーを引くと青白いひかりが宙にラインを描いて弾けた。
case.3 病室でのキス 夜半に訪れたこともあって、病棟はしんと静まり返っている。
大きな戦闘も近頃はないためか、病棟を歩いても呻き声や苦しげな寝息は聞こえない。
コツコツと靴の音が響かぬよう、細心の注意を払って一番奥の病室へと向かう。
扉の前で指紋照合をすると、開いた扉からメルヘンチックな病室が現れた。
「お土産だよ、コタロー。ピンクのくまなんだ。かわいいだろ」
大人の手でも一抱えにもなる大きなぬいぐるみをシンタローは小さい従兄弟のベッドの下に置いた。
部屋の中にはもういくつものぬいぐるみやら洋服が所狭しと展示されている。
「最近来れなくてごめんな。お兄ちゃん、お仕事忙しかったんだよ」
ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けてシンタローは小さい従兄弟の髪を梳いた。
さらさらと眺めの前髪が瞼をくすぐっても小さい従兄弟は嫌がる仕草をすることがない。
少し前に訪れたときと同じように深い眠りに落ちているままだ。
ひとしきり、最近の家族のことを話すとシンタローはいつものようにコタローの頬へと軽いキスを落とした。
「おやすみ、コタロー。よい夢を」
眠り続ける弟へ意味のない動作だというのに、まるで起きている子どもをあやすようにシンタローはキスを落とす。
シンタローは寝返りも打たない彼の布団をかけなおし、髪を撫でつけた。
病室にしんとした空気が戻る。
おやすみのキスを終えてもベッドの傍から離れないシンタローにため息を吐きつつ、深刻にならないように勤めて俺は明るい声を出して、シンタローと同じように就寝前の儀式を小さな従兄弟へと行った。
「そういえば俺にはおやすみのキスをしてくれたことがないな」
コタローの額から口唇を離し、どうしてだ、とわざと子どもが駄々を捏ねるように尋ねるとシンタローは目を見張った。
立ち上がり、従兄弟の傍へ近づく。手を組んだまま小首を傾げて「シンタロー」と返事を促す。
目を丸くしていたシンタローだったが、もう一度呼びかけると彼は口角を上げた。
「そういえばそうだったな。なんだ、欲しかったんなら早く言えよ」
大人の癖に欲張りなお兄ちゃんだよな、コタローはこういう大人になっちゃだめだぞ、と従兄弟はベッドの弟へと話しかける。
「そうは言われてもな。俺は亡き父に似て慎み深いんだ。伯父貴に欲しいものを強請るときのおまえの態度はなかなか真似できない」
子どもの頃の彼の思い出をいくつか披露すると従兄弟は、
「てめえふざけんな」
と苦々しく言った。だが、すぐに何か反撃を思いついたらしく、にいっと悪戯めいたひかりを目に宿す。
「ああ、そうだ。おやすみのキスの後はついでにいつも世話になっている礼に歌でも歌ってやろうか」
高松が作ったおまえを称える歌なんてどうだ、と意地悪く従兄弟は言ってくる。
いつのまにそんなものを、と眉を顰めるとシンタローは噴出した。
「冗談だぜ、キンタロー。まあ、ドクターならやりかねねえけどな」
大仰に肩をすくめると声を立てて従兄弟は笑う。
笑い声でも小さい従兄弟が目を覚ますことはない。
くっくっくと噛み殺した笑いを響かせる従兄弟が憎らしくて、口唇に噛み付くようなキスをしてやる。
それでもシンタローは笑うことはやめず、病室からの帰り道でも俺たちは互いを遣り込めるためにからかい続ける羽目になった。
case.4 酔っ払いとのキス 扉を開けるなり、キンタローはそこから逃げ出したい衝動に駆られた。
音と色に満ち溢れている中に一際目立った集団、いや目立った男が一人いる。
煌びやかな室内にあっても目を引く派手な赤いスーツ。
ひかりを吸い込む黒い髪。
酒気を帯びた陽気な声。
その持ち主が、認めたくないことにキンタローが迎えに来た人物だった。
「大分聞こし召している様だな」
慇懃な口調で過ぎた酒量を揶揄すると赤い服の男はへらりと笑った。
俺が不機嫌なのにも気づかないわけか、と眉を顰め同席者を一瞥するとどれも皆判を押したように目を逸らす。
何人か見知った顔はいるものの殆どが初対面の者だというのに、だ。
「よ~。キンタロ!どうしてここが分かったんだよ。ま、いいや。座れ。おまえも飲もうぜ」
ほらほら、と従兄弟は隣のスペースを手で叩いた。
居合わせた連中の一人がこっそりと連絡を寄越したというのに、人の気も知らず陽気に店の人間に手を上げて合図などしている。
「あ~、えっと俺とおんなじでいいよな。さっきのワインを持って……」
誰が飲むか。
俺はおまえを迎えに来たんだ、と思わず怒鳴りたくなった。
だが、ここで言い合いになるのはよくない。
酔っていつも以上に短気なシンタローが店を破壊するのだけは避けたい。
「いや。いらない。それより、いい加減にしないと明日に障るぞ」
ほら、もうやめろ、とグラスを握る手を掴んで促す。
するとシンタローは「ぜってぇいやだ」と首を振った。
「駄々を捏ねるな。明日は朝からヘリに乗って視察に行くんだぞ」
帰って寝ろ、と隙を突いてグラスを取り上げる。
シンタローが呼んだ店員に有無を言わさず受け取らせ、シンタローの二の腕を掴む。
総帥服に皺が寄ったが、代えは何着もある。
ぐっと掴んで立ち上がらせると、シンタローは俺の胸を押した。
「明日の視察になんか影響ねえよ。俺はまだ飲むぞ。おまえは飲まないんなら帰れ」
手を離せ、と口を尖らせるシンタローに駄目だと何度も根気よく繰り返す。
それから、シンタローと「いやだ、飲む」「駄目だ、帰ろう」の言い合いを何度か繰り広げ、
「明日後悔するのはおまえだぞ。この間もそうだっただろう」
と俺が口にするとシンタローはようやく口を閉じた。
「ほら、シンタロー。帰るぞ」
やれやれと大人しくなったシンタローの手を引いて促す。
「シンタロー」
「……る」
「シンタロー?」
まだ聞かないのか、とうんざりした気持ちで従兄弟を見ると彼は耳を貸せと手招きした。
耳に当たる息が熱い。
シンタローはおもしろさを隠せない声音で俺に囁いた。
「キスしてくれたら帰ってやるよ」
できないだろ、と身を離し、シンタローは周りを見回した。
帰る帰らないの争いをしていた俺たちを店員だけでなく隣のテーブルの人間までもが見つめている。
先ほどまでの言い争いを思い出して、気まずい気持ちになった。
だが、それよりもシンタローがいそいそとテーブルの上のグラスを取ろうとしたほうが気になった。
「シンタロー」
「何だよ」
諦めたな。おまえも飲むんだろ、と勝ち誇ったかのように従兄弟は振り向いた。
「……!!」
後は知らない。
きっと酔っ払った目で見た幻覚とでも無理やりに思い込んでくれるだろう。
ガンマ団の連中は都合の悪いことは目を背けてくれる。きっと。
それよりも駐車場までずんずんと一人で進んでいくシンタローの機嫌をどうやって取るかのほうが今は重要だった。
case.5 デジャヴュのようなキスそういえば以前もこんなことがあったな、と壁に寄りかかりながらシンタローは思った。
キンタローは、とシンタローがグンマを訪ねたのはほんの数分前のことだった。
おやつというよりもハイティーの時間に差し掛かっていたが、アップルパイが焼けたと口にするとグンマは顔を綻ばせた。
夕飯前だけど、少しならいいだろ、と言うと甘いものに目がないグンマは間髪置かずにシンタローに賛成する。
試作しているロボットらしき物体を片付け、手を洗わなきゃとはしゃぐ彼にもう一人の従兄弟の居所を尋ねたのだ。
「部屋にはいなかったの?」
「ああ」
真っ先に訪ねたキンタローの部屋は応答がなかった。
てっきりグンマと一緒だとばかり思っていた、と言うとグンマは「それならあそこだよ」といった。
「ルーザー叔父様のお部屋にいると思うよ。キンちゃん、研究中でも息抜きによく行くから」
「ふーん。ルーザー叔父さんの部屋か。んじゃ、ちょっと行ってみる。おまえは先、行ってろよ」
すぐ追いつくからと別れて、シンタローは亡き叔父の部屋へと向かったのだった。
人の気配を感じ、扉が自動的に開く。
無機質な感じのする部屋には鏡と、部屋の奥に故人の蔵書やレポートが整然と並んだ本棚があるだけだ。
目当ての従兄弟は扉からすぐ見える鏡の前に佇んでいた。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローはすごい勢いで振り返った。
そして、シンタローへと襲い掛かるかのような勢いで駆け寄る。
「キン……ッ、おい!ちょっと待てッ!」
ぐっとシンタローの肩が壁へと押し付けられる。
扉のすぐ近くの所為か開きっ放しになり、シンタローからは廊下が横目で見えた。
肩の痛みに眉を顰めていると、ぐいっと顎を指で掴まれ、
「キンタロ……ん、ちょっ……」
待てよ、とシンタローが口にする前に言葉が従兄弟の口腔に飲み込まれていく。
どうしたんだ、と疑問を形作る舌が絡め取られ、噛み付くようにキスを挑まれてシンタローはぎゅっと目を閉じた。
口唇が離れ、荒い息を吐く。
ようやく吸い込んだ酸素に頭が回らない。
キンタローはというとシンタローと同じく荒い息を吐きながらも、顎を掴む指を緩めてはいない。
視線が合う。
何か、言わなくては。
どうしていきなり、だとか誰かに見られたらどうする、だとか。
ぐるぐるとシンタローが思い巡らせているとそれよりも先にキンタローが口を開く。
「好きだ」
シンタローの顎をつかんでいた指の力がなくなる。
さっきまで込められていた力とは打って変わった手つきで頬へと指が寄せられる。
「愛している、シンタロー」
掠めるようなキスを口唇で受けて、シンタローは同じようにキンタローの頬へと手を添えた。
互いの髪を梳く指先は優しい。
ジャケットで振動する携帯電話と開け放たれたままの扉に気をとられながらもシンタローはキンタローへとキスを贈った。
初出:2005/09/23
eddy様に捧げます。
case.1 甘えん坊なきス「ほな、おさきに」
名残惜しそうに陰気な男が降りると、従兄弟は深くため息を吐いた。
辛気臭い香の香りがまだそこらに漂っている気がする。
「あいつも……うざったくなけりゃあ、使える男なのにな」
幾度となく聞かされた言葉を聞き、俺は律儀にああと返す。
アラシヤマは確かにうざったい。
あれがなければ、というか極端に従兄弟に固執しなければ俺が四六時中シンタローについていかなくてもよいのだが。
「あれのどうしようもなさは今更直るものでもないだろう。我慢しろ」
あの根暗な性格を強制できるようなプログラムなどありはしない。
かといって優秀な人材を首にすることもできない現実もある。
「我慢か~」
「おまえには難しいことだろうがな」
ちらりと従兄弟の横に目を向けるとシンタローはぐっと詰まった表情をした。
「エレベーターの中では眼魔砲を撃たないくらいの分別はついているようだが」
壁には彼が苛つくあまりにめり込ませた拳の跡が残っている。
なにやらぶつぶつとシンタローは文句を言っていたが、俺が軽く睨むと口を閉じた。
「……悪かったよ」
ぶすっとした表情のまま従兄弟は組んでいた手を解く。
はあ、ともう一度深いため息をつき、彼は艶やかな髪をがしがしとかき混ぜはじめた。
赤い服に黒い髪が乱雑に散らばるのを見て、俺の方こそため息を吐きたくなる。
「シンタロー」
「なんだよ」
上目遣いに俺を伺う従兄弟に別に怒ってはいないと囁く。
髪をかき上げる動作を止めた彼の手首にくちづけを落とすとシンタローは眉を吊り上げた。
「おまえなあ、仕事中だろ」
「一応密室だ」
憮然とした表情のシンタローの眉間へともキスを落とすと彼は再びため息を吐く。
「……誰か乗ってきたらどうすんだよ」
「そのときは、そのときだ」
伯父貴でないといいな、と揶揄い混じりに耳を食むとシンタローは身を捩った。
やめろよ、と軽く手で払い、反撃してくる彼は目も口も笑っている。
笑いながら抵抗するシンタローへ俺はじゃれつくように腕を伸ばした。
抱きしめるとシンタローは「しょうがないヤツだよ。……俺の従兄弟は甘ったればっかだなあ」といいながら俺の頬に手を寄せる。
「俺もおまえも我慢が足りねぇよな」
深くくちづけを交わす前にシンタローは悪戯めいた表情でそう言った。
case.2 戦場でのキスダ、ダ、ダダダダダ。
銃声がぱらぱらとそこらじゅうで響く。
特殊能力を持った戦闘員が多いとはいえ、なかなか防ぎきれない。
走りながら傍らの従兄弟に目を向ければ彼の左腕は銃弾が掠った所為で赤い総帥服が濃く見えた。
「キリねえよな」
きいんと弾がすぐ横の金属製の窓枠に弾かれて耳障りな音を立てる。
眼魔砲を使っちゃだめか、と伺いたててきた従兄弟に首を振ると彼は大仰に嘆息した。
「地道に作戦通りやるしかねえのかよ」
「眼魔砲はあくまで最終手段だ。貴重なデータを失いたくはない」
あきらめろ、と言いながら通路の死角から照準を合わせてきた敵兵にレーザー銃を撃つ。
「この建物は複雑な造りなんだ。崩壊したらどれだけの被害が出るか分からないぞ。
死人を出したくないのならそれで我慢しろ」
従兄弟が手に握っている最低値に設定したレーザー銃を示すとシンタローははいはいとおざなりな返事をした。
「予定通りなら夕飯前に終わるよな。まあ、お互いがんばろうぜ」
おれはこっちだったな、と二股に分かれた通路に差し掛かるとシンタローが左の方向を指差す。
「気をつけろよ、シンタロー」
「おまえもな」
じゃあな、と手を振って別れる前にシンタローがぐいっと俺の手首をつかむ。
銃に軽くキスを落とすとシンタローは悪戯めいた表情で笑った。
「おまえにはあとでやるよ」
振り返り、手を振る従兄弟に嘆息しつつ、俺はレーザー銃を握りなおした。
右の通路から足音が近づいてくる。
打ち込まれる弾丸を避けてトリガーを引くと青白いひかりが宙にラインを描いて弾けた。
case.3 病室でのキス 夜半に訪れたこともあって、病棟はしんと静まり返っている。
大きな戦闘も近頃はないためか、病棟を歩いても呻き声や苦しげな寝息は聞こえない。
コツコツと靴の音が響かぬよう、細心の注意を払って一番奥の病室へと向かう。
扉の前で指紋照合をすると、開いた扉からメルヘンチックな病室が現れた。
「お土産だよ、コタロー。ピンクのくまなんだ。かわいいだろ」
大人の手でも一抱えにもなる大きなぬいぐるみをシンタローは小さい従兄弟のベッドの下に置いた。
部屋の中にはもういくつものぬいぐるみやら洋服が所狭しと展示されている。
「最近来れなくてごめんな。お兄ちゃん、お仕事忙しかったんだよ」
ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けてシンタローは小さい従兄弟の髪を梳いた。
さらさらと眺めの前髪が瞼をくすぐっても小さい従兄弟は嫌がる仕草をすることがない。
少し前に訪れたときと同じように深い眠りに落ちているままだ。
ひとしきり、最近の家族のことを話すとシンタローはいつものようにコタローの頬へと軽いキスを落とした。
「おやすみ、コタロー。よい夢を」
眠り続ける弟へ意味のない動作だというのに、まるで起きている子どもをあやすようにシンタローはキスを落とす。
シンタローは寝返りも打たない彼の布団をかけなおし、髪を撫でつけた。
病室にしんとした空気が戻る。
おやすみのキスを終えてもベッドの傍から離れないシンタローにため息を吐きつつ、深刻にならないように勤めて俺は明るい声を出して、シンタローと同じように就寝前の儀式を小さな従兄弟へと行った。
「そういえば俺にはおやすみのキスをしてくれたことがないな」
コタローの額から口唇を離し、どうしてだ、とわざと子どもが駄々を捏ねるように尋ねるとシンタローは目を見張った。
立ち上がり、従兄弟の傍へ近づく。手を組んだまま小首を傾げて「シンタロー」と返事を促す。
目を丸くしていたシンタローだったが、もう一度呼びかけると彼は口角を上げた。
「そういえばそうだったな。なんだ、欲しかったんなら早く言えよ」
大人の癖に欲張りなお兄ちゃんだよな、コタローはこういう大人になっちゃだめだぞ、と従兄弟はベッドの弟へと話しかける。
「そうは言われてもな。俺は亡き父に似て慎み深いんだ。伯父貴に欲しいものを強請るときのおまえの態度はなかなか真似できない」
子どもの頃の彼の思い出をいくつか披露すると従兄弟は、
「てめえふざけんな」
と苦々しく言った。だが、すぐに何か反撃を思いついたらしく、にいっと悪戯めいたひかりを目に宿す。
「ああ、そうだ。おやすみのキスの後はついでにいつも世話になっている礼に歌でも歌ってやろうか」
高松が作ったおまえを称える歌なんてどうだ、と意地悪く従兄弟は言ってくる。
いつのまにそんなものを、と眉を顰めるとシンタローは噴出した。
「冗談だぜ、キンタロー。まあ、ドクターならやりかねねえけどな」
大仰に肩をすくめると声を立てて従兄弟は笑う。
笑い声でも小さい従兄弟が目を覚ますことはない。
くっくっくと噛み殺した笑いを響かせる従兄弟が憎らしくて、口唇に噛み付くようなキスをしてやる。
それでもシンタローは笑うことはやめず、病室からの帰り道でも俺たちは互いを遣り込めるためにからかい続ける羽目になった。
case.4 酔っ払いとのキス 扉を開けるなり、キンタローはそこから逃げ出したい衝動に駆られた。
音と色に満ち溢れている中に一際目立った集団、いや目立った男が一人いる。
煌びやかな室内にあっても目を引く派手な赤いスーツ。
ひかりを吸い込む黒い髪。
酒気を帯びた陽気な声。
その持ち主が、認めたくないことにキンタローが迎えに来た人物だった。
「大分聞こし召している様だな」
慇懃な口調で過ぎた酒量を揶揄すると赤い服の男はへらりと笑った。
俺が不機嫌なのにも気づかないわけか、と眉を顰め同席者を一瞥するとどれも皆判を押したように目を逸らす。
何人か見知った顔はいるものの殆どが初対面の者だというのに、だ。
「よ~。キンタロ!どうしてここが分かったんだよ。ま、いいや。座れ。おまえも飲もうぜ」
ほらほら、と従兄弟は隣のスペースを手で叩いた。
居合わせた連中の一人がこっそりと連絡を寄越したというのに、人の気も知らず陽気に店の人間に手を上げて合図などしている。
「あ~、えっと俺とおんなじでいいよな。さっきのワインを持って……」
誰が飲むか。
俺はおまえを迎えに来たんだ、と思わず怒鳴りたくなった。
だが、ここで言い合いになるのはよくない。
酔っていつも以上に短気なシンタローが店を破壊するのだけは避けたい。
「いや。いらない。それより、いい加減にしないと明日に障るぞ」
ほら、もうやめろ、とグラスを握る手を掴んで促す。
するとシンタローは「ぜってぇいやだ」と首を振った。
「駄々を捏ねるな。明日は朝からヘリに乗って視察に行くんだぞ」
帰って寝ろ、と隙を突いてグラスを取り上げる。
シンタローが呼んだ店員に有無を言わさず受け取らせ、シンタローの二の腕を掴む。
総帥服に皺が寄ったが、代えは何着もある。
ぐっと掴んで立ち上がらせると、シンタローは俺の胸を押した。
「明日の視察になんか影響ねえよ。俺はまだ飲むぞ。おまえは飲まないんなら帰れ」
手を離せ、と口を尖らせるシンタローに駄目だと何度も根気よく繰り返す。
それから、シンタローと「いやだ、飲む」「駄目だ、帰ろう」の言い合いを何度か繰り広げ、
「明日後悔するのはおまえだぞ。この間もそうだっただろう」
と俺が口にするとシンタローはようやく口を閉じた。
「ほら、シンタロー。帰るぞ」
やれやれと大人しくなったシンタローの手を引いて促す。
「シンタロー」
「……る」
「シンタロー?」
まだ聞かないのか、とうんざりした気持ちで従兄弟を見ると彼は耳を貸せと手招きした。
耳に当たる息が熱い。
シンタローはおもしろさを隠せない声音で俺に囁いた。
「キスしてくれたら帰ってやるよ」
できないだろ、と身を離し、シンタローは周りを見回した。
帰る帰らないの争いをしていた俺たちを店員だけでなく隣のテーブルの人間までもが見つめている。
先ほどまでの言い争いを思い出して、気まずい気持ちになった。
だが、それよりもシンタローがいそいそとテーブルの上のグラスを取ろうとしたほうが気になった。
「シンタロー」
「何だよ」
諦めたな。おまえも飲むんだろ、と勝ち誇ったかのように従兄弟は振り向いた。
「……!!」
後は知らない。
きっと酔っ払った目で見た幻覚とでも無理やりに思い込んでくれるだろう。
ガンマ団の連中は都合の悪いことは目を背けてくれる。きっと。
それよりも駐車場までずんずんと一人で進んでいくシンタローの機嫌をどうやって取るかのほうが今は重要だった。
case.5 デジャヴュのようなキスそういえば以前もこんなことがあったな、と壁に寄りかかりながらシンタローは思った。
キンタローは、とシンタローがグンマを訪ねたのはほんの数分前のことだった。
おやつというよりもハイティーの時間に差し掛かっていたが、アップルパイが焼けたと口にするとグンマは顔を綻ばせた。
夕飯前だけど、少しならいいだろ、と言うと甘いものに目がないグンマは間髪置かずにシンタローに賛成する。
試作しているロボットらしき物体を片付け、手を洗わなきゃとはしゃぐ彼にもう一人の従兄弟の居所を尋ねたのだ。
「部屋にはいなかったの?」
「ああ」
真っ先に訪ねたキンタローの部屋は応答がなかった。
てっきりグンマと一緒だとばかり思っていた、と言うとグンマは「それならあそこだよ」といった。
「ルーザー叔父様のお部屋にいると思うよ。キンちゃん、研究中でも息抜きによく行くから」
「ふーん。ルーザー叔父さんの部屋か。んじゃ、ちょっと行ってみる。おまえは先、行ってろよ」
すぐ追いつくからと別れて、シンタローは亡き叔父の部屋へと向かったのだった。
人の気配を感じ、扉が自動的に開く。
無機質な感じのする部屋には鏡と、部屋の奥に故人の蔵書やレポートが整然と並んだ本棚があるだけだ。
目当ての従兄弟は扉からすぐ見える鏡の前に佇んでいた。
「キンタロー」
呼びかけるとキンタローはすごい勢いで振り返った。
そして、シンタローへと襲い掛かるかのような勢いで駆け寄る。
「キン……ッ、おい!ちょっと待てッ!」
ぐっとシンタローの肩が壁へと押し付けられる。
扉のすぐ近くの所為か開きっ放しになり、シンタローからは廊下が横目で見えた。
肩の痛みに眉を顰めていると、ぐいっと顎を指で掴まれ、
「キンタロ……ん、ちょっ……」
待てよ、とシンタローが口にする前に言葉が従兄弟の口腔に飲み込まれていく。
どうしたんだ、と疑問を形作る舌が絡め取られ、噛み付くようにキスを挑まれてシンタローはぎゅっと目を閉じた。
口唇が離れ、荒い息を吐く。
ようやく吸い込んだ酸素に頭が回らない。
キンタローはというとシンタローと同じく荒い息を吐きながらも、顎を掴む指を緩めてはいない。
視線が合う。
何か、言わなくては。
どうしていきなり、だとか誰かに見られたらどうする、だとか。
ぐるぐるとシンタローが思い巡らせているとそれよりも先にキンタローが口を開く。
「好きだ」
シンタローの顎をつかんでいた指の力がなくなる。
さっきまで込められていた力とは打って変わった手つきで頬へと指が寄せられる。
「愛している、シンタロー」
掠めるようなキスを口唇で受けて、シンタローは同じようにキンタローの頬へと手を添えた。
互いの髪を梳く指先は優しい。
ジャケットで振動する携帯電話と開け放たれたままの扉に気をとられながらもシンタローはキンタローへとキスを贈った。
初出:2005/09/23
eddy様に捧げます。
SSS.31「タイ」 キンタロー×シンタロータイを直してやるとリキッドは短く礼を言った。
別段、どうということもない。
曲がっていたのがなんとなく気になって直したまでだ。
眼前で繰り広げられる結婚式は、今までシンタローが見たものとは違ってナマモノ同士のものだったが、それでもやはり微笑ましく心が洗われる光景のものだった。
突然の式に朝から追われていた所為で少し眠い。
新婦が気恥ずかしげに目を伏せたのを見ながら、シンタローはこっそりとあくびをする。
目ざとく見つけたリキッドにここぞとばかりにじっと見られたが何も言わずに蹴ってやった。
(俺に文句言おうなんざ10年早いんだよ)
***
時代錯誤な重たい引き出物をパプワの分も運んで、家に帰るとすぐさまリキッドがジャケットを脱いだ。
日頃の肩の凝らない服装と違って疲れたのだろう。
それでも脱ぎ散らかしはせずに皺にならないようにきちんと畳んでいる。
式場で簡単なものを摘んだとはいえ、育ち盛りのパプワがアレで満足するとは思えない。
早く夕メシにとりかからねえと、とシンタローもジャケットを脱ごうとボタンに手をかけた。
「あ。シンタローさん、脱いだらこっちに掛けてください」
一応、洗っておきますんで、とリキッドがズボンを脱ぎながら言った。
おう、と返事をしてシンタローはジャケットを脱ぐと、とりあえずその場に軽く畳んでおいた。
いつものランニングを引き寄せておいて、タイごとシャツを取り払おうと首元を緩めると、シンタローの目に下だけ着替え終わったリキッドが目に入った。
タイとシャツの間を指先で強引に緩めている。
(おいおい。それじゃシャツもタイも傷むだろうが……)
ああいう形のタイはアイロンかけるのが面倒なんだよな、とシンタローは自分のことを棚に上げてそう思った。
キンタローだったらきちんと順序良く着替えるだろう・
それこそ横着して、シャツと一緒に脱ごうとしてる俺を怒るんだろうな、と脱いだシャツを足元に放りながら思う。
ランニングを被り、結んだ髪を左右に振りながら頭を出すと、ちょうどリキッドがほどいたタイを手に取ったままシャツを脱ぎかけているのが見えた。
(キンタロー……)
その仕草はキンタローとは似ていない。
従兄弟のようにしゅるりと小気味よい音を響かせて首元からタイを抜き取ったわけでもない。
滑らかな指先でもない。着替える時にボタンを外しながら俯いた顔も似ているわけでもない。
だが一瞬、リキッドがタイを持ったままでいる手を見たとき、シンタローはそこにキンタローがいるかのような錯覚に囚われた。■SSS.35「続きは後で」 キンタロー×シンタロー「昨日は結局どうなったんだ?」
開口一番、朝の挨拶もそこそこに従兄弟は切り出した。
寝過ごしたためか、髪が跳ねている。
朝食の席に現れなかった彼を伯父が心配していた。
「おまえが酔いつぶれたと連絡を受けたので俺が迎えに行った」
連絡を受けて迎えに行くと、くたっと力を抜いてソファに体を投げ出している従兄弟がいた。
他にも何人か潰れていたヤツラがいたが酒瓶を抱えて豪快に笑うコージに任せてきた。
俺はシンタロー以外の面倒を見るつもりはない。
「あー、なんだ。車に乗せてくれたのおまえだったのか」
よかった、よかったと従兄弟は髪を掻きまわしながら呟いた。
「よかった?」
なにがだ、と傍らの彼に視線を向けるとシンタローは髪を弄りながら言う。
「誰かが……っていうか金髪の男が車に乗せてくれたのは覚えてるんだけどよ。
親父かおまえか分からなかったんだよ。酔っ払ってて眠かったから」
あ~、親父じゃなくてスッキリした、とシンタローが伸びをしながら言う。
「グンマは俺を抱えていけるわけねえだろ?朝起きてどっちだか分かんなくってさ。
前に親父が迎えに来たとき、あのヤロウ、イイトシした息子を抱っこした写真を取りやがって。
おまけに朝起きたらアイツのベッドで寝てたんだぜ」
今朝は自分の部屋だったからおまえだと思ってたけど、とシンタローは付け加えた。
「でも万が一、親父だったら朝会いたくねえからさあ。酔いつぶれるまで飲むなとかぐだぐだウルセエし」
「それで朝食に来なかったんだな」
そうか、とシンタローの横顔を覗くと彼はああと頷いた。
カツカツ、と廊下にシンタローのブーツの音が響く。
しん、と冷えた空気が肌を刺すが、それでもまだ季節は秋だ。
冬物のスーツに袖を通しているため、指先や顔など露出している部分以外は寒くない。
傍らで歩むシンタローもとくに空気の冷たさに堪えた様子はなかった。
「キンタロー」
三叉路へと出るとシンタローがいつもとは違い俺を呼び止めた。
左に進もうとしていた足を止め、彼のところへ戻る。
シンタローのいた数歩先では総帥室へと直結するエレベーターのランプが点滅していた。
故障か、いやまだ乗っていないのだからなにか言い忘れでも、と従兄弟を見る。
どうした、と口が動く前にシンタローが動いた。
「昨日は面倒かけちまって悪かったな」
立ち止まったまま動かないでいた俺にシンタローが手を伸ばした。
頤に添えられた指は空気にさらされているというのに冷たくない。
ゆっくりと、指が頬を撫で、口唇をなぞってくる。
朝に似つかぬその動きにどきりとする。
シンタロー、と言うよりも早く彼が口唇を合わせてきた。
頭の後ろに回されたシンタローの手が俺の髪を掴む。
酔ったシンタローは俺が抱き上げても抵抗せずにいた。
とりたてて暴れることもなく、車に乗せたときも大人しくしていた。彼の手は首に回されていたが髪を掴むことはない。
部屋に運ぶときも、ガンマ団のエントランスから戻ったというのに文句は出なかった。
夢中になって舌を絡めるシンタローの指先は俺の髪を放さない。
昨夜は赤く染まっていた目元は今は元通りである。
絡める舌を離して、シンタローが角度を変えるたびに彼の睫は震えた。
シンタローの味は酒の名残が微かにあった。
歯磨きをした後に残るわずかなミントの辛さの中に微かに残っている。
垂らされたままの髪も密着した状態では酒の残り香が染み付いているのがよく分かった。
昨夜の、酔い潰れて視線も口調も覚束なく、頬を染めたシンタローの姿がフラッシュバックする。
昨夜は従兄弟が今着ている総帥服が乱れていた。
帰りたくねえよ、と駄々を捏ねる彼を車に乗せ、部屋へと運び入れるとおやすみのキスをねだってきた。
子どもがえりした酔っ払いのたわいない頼み事は勿論聞いた。
でも、それはこんなキスではない。
「……シンタロー」
彼の舌が離れたときに思わず名を呼ぶと、従兄弟は不敵な笑みを浮かべた。
「続きは……後でな」
体を離す間際にシンタローが俺へと囁く。
熱い息が耳朶に掠り、それから彼はキスの後の濃密な空気を払うように駆けて行った。
(……なにもそんな礼をとらなくてもいいだろう)
言葉だけでなく、唐突に行動に現したシンタローに心臓が早鐘を打っている。
引き止める暇もなく、それよりもどうしていいのか分からない。
スーツの皺を払って、当初の通り研究室へと向かおうとする。
背を向ける前になんとなく視線を上へと向けると、ちょうどエレベーターのドアが閉まるところだった。
ドアが閉まる間際に視線がかち合う。
にやり、と悪戯が成功したような顔でシンタローが俺を見ていた。
さっきまで冷たかった頬が熱く、体から熱が引いていかないでいる。
早く来いよ、と笑いながら手招きしたシンタローの姿がドアによって遮られて、そしてもう一度エレベーターのランプが灯るまで俺はそこから動けずにいた。■SSS.37「エプロン」 キンタロー×シンタロー俺にだって料理くらいできる、と新しくできた従兄弟が言い出した。
え~!ほんとに?ひとりで大丈夫なのキンちゃん!ともうひとりの従兄弟が言ったのが彼にとって不満だったらしい。
来週末に俺もグンマも親父も、そして高松ですら出かける日程が重なることに、皆、不安を覚えていた。
姿こそ20代の青年とはいえ従兄弟のキンタローは今まで現実を経験したことがなかった。
はじめてのお留守番にヤキモキするのは当たり前だ。
「料理って言ったってトーストとコーヒーとかカップ麺にお湯を注ぐのはなしだよ?」
従兄弟のグンマがキンタローに言う。それに対してキンタローは眉を寄せて「当たり前だろう」と言った。
「本当に?本当に出来るの、キンちゃん。シンちゃんが作ったごはんをレンジでチンする方がいいかもよ」
美味しく出来るか分からないじゃない、とグンマは言う。
けれどもキンタローは、
「下ごしらえも片付けも自分で出来る。俺のことは放っておいて出かければいいだろう」
と言った。
「店屋物とか外食でもいいんだよ?」
「くどい」
しつこいグンマにキンタローが切れた。が、グンマは黙る様子はない。
初めてのお留守番をする従兄弟がよっぽど心配なのか、そんなこと言ったって!と喚きはじめる。
同席していたドクターが仕方なく宥めるべく口を開いた。
「まあまあ、グンマ様。
キンタロー様もおできになると言っているんですし、ここはひとつ、なにか作っていただいたらどうでしょう?その結果を見て来週のことは考えたらいかがですか?」
「高松。それは俺に嘘じゃないか証明しろということだな」
キンタローは憮然とした表情で口を開いた。
「いえいえ!キンタロー様。めっそうもない。この高松、キンタロー様のことは疑ってなどいませんとも!
ただ、やはり何事も備えあれば憂いなしということで……キンタロー様の予行練習にもなりますし」
おろおろと二人の従兄弟の顔色を伺うようにドクターが言う。
「ふん。まあいい。そうだな、伯父貴がよく作るカレーでも作ることにしよう。
ちゃんと作れたらこれ以上がたがた騒ぐなよ、グンマ」
きっと睨みつつキンタローが立ち上がる。
楽しみだねえ、と暢気な口調で言った父親にシンタローはげんなりした。
楽しみってあのなあ、ガキの喧嘩でまずいもん食わされたらたまんねえぞ。
アイツ、本当に料理できんのかよ。
キッチンに向かうキンタローを見ながらシンタローはこっそりとため息を吐いた。
***
「シンタロー」
手招きされてシンタローは立ち上がった。やっぱり、ダメかと思いつつキッチンに行く。
背後でグンマが忍び笑いをするのが聞こえた。
ったく。しょうがねえ、従兄弟どもだよ。
けれどもキッチンにはシンタローが想像した惨状は広がっていなかった。
俎板には丁寧に切られた野菜が乗っていて、ガラスの皿には飴色に炒められたタマネギのみじん切りがあった。
「どうしたんだよ、キンタロー」
ちゃんと料理できるじゃねえか、と見回しつつ尋ねると従兄弟はばつの悪そうな顔で切り出す。
「始めてしばらくしたら気づいたんだが、料理をしているというのにエプロンをするのを忘れてしまった」
「別にしなくても……」
いいじゃねえか、とシンタローは言おうとした。けれどもキンタローがダメだと頭を振る。
「それで?エプロンなら戸棚の左から2番目にあるぞ」
場所が分かんなかったのか、と思いシンタローが言うとキンタローは「違う」と言った。
そして、テーブルに置いてあった布を広げる。
「なんだ分かってんじゃねえか。それじゃなんの用だよ?」
「背中の紐がうまく結べないから結んでくれ」
エプロンを着込みつつ、少し照れた顔でキンタローはシンタローに背を向けた。■SSS.38「馬子にも衣装」 キンタロー×シンタロー朝食の席に向かおうとシンタローが廊下に出ると、新しくできた従兄弟のキンタローに出くわした。
彼の部屋の扉が開いた拍子にあくびを堪えつつ、目を擦りながらおはようと声をかけたが返事は返らない。
まあ、いつものことだしな、と思いつつシンタローはすたすたと先に行こうとするキンタローに目を向けた。
(え!?)
「お、おい。ちょっと待てよ。キンタロー」
いつもとは違う装いの従兄弟にシンタローは思わず目を疑った。
島から帰ってきても好んで着ていたレザースーツは彼の身を包んでいない。
おまけにざんばらだった長い髪の毛も短く揃えられていて、きれいに撫で付けられていた。
昨日とはまるっきり、百八十度違う姿だ。
「キンタロー、おまえ、どうしたんだよ!?それ!!」
地味なダークスーツに身を包み、髪も整えた姿はどこかの名家の子弟のようにさえ見える。
ぎらぎらとした眼差しも口角を上げた不適な口元もその姿では乱暴者というより切れ者補佐官と言った感じだった。
「朝からぎゃあぎゃあと煩いヤツだ。少しは声を抑えろ。
高松が父さんのような格好でないと学会には相応しくないと言ったからそうしただけだ」
何かおまえに不都合があるのか、と横を歩くシンタローに彼は冷たく言い放つ。
それに一瞬、シンタローはムッとしたがいつものことだと思い直した。
この新しい従兄弟が自分に突っかかるのはいつものことなのだ。
シンタローは昨日までの姿を思い浮かべながら、ふんと鼻を鳴らすキンタローを見る。
(たしかになあ。あれじゃ特戦部隊だもんな)
血生臭い世界とは無縁の科学者の勉強会には相応しくない。
場違いなだけでなく、バックにガンマ団が控えていることと合わせていい印象なども持たれはしないだろう。
「ふ~ん。そんでなのか。まあ似合ってんじゃねえの」
ルーザー叔父さんに似てるなあ、ともシンタローは思った。
写真の中の姿や話に聞いた叔父のやわらかな物腰には及ばないが、以前とは違ってこのごろは落ち着きが見られてきた。
スーツ姿もなかなか様になっている。
ドクターのヤツ、こいつにこういう格好勧めたけど見たのかなあ。
きっと鼻血出すぞ、2リットルくらい、と亡き叔父を信奉していて現在はこの従兄弟に無償の愛を捧げる科学者をシンタローは思い浮かべた。今日のガンマ団は大変なことになるだろう。
そのまえに食卓で親父もグンマもビックリするだろうけど。
「あ、ちょっと待てよ」
リビングのドアを開けようとするキンタローをシンタローは止めた。
「まだなにか言いたいことがあるのか?」
ぎらっとひかったキンタローの目を見てシンタローは頭を抱えたくなった。
ったく。なんでコイツは俺に突っかかってばっかいるんだよ。
仲良くしろとは言わねえけど、少しは気を許してくれてもいいじゃねえか。ドクターには懐いているくせに。
「こっち向けよ。ネクタイが曲がってるぞ」
直してやる、とシンタローはキンタローの肩を掴む。だが、
「俺に触るな」
肩口に置いた手はばしっと払われた。
どけ、とリビングのドアを開けてキンタローが食卓に着く。
装いは変わってもいつもどおりシンタローに牙を剥く彼に、ドアの前に立ち尽くしながらシンタローはため息を吐いた。■SSS.43「口の減らない」 高松×サービス久しぶりに友人の研究室を訪ねると、相変わらず室内に染みついていた薬品臭が鼻をついた。
眉を顰めて、手近な椅子に座ると友人がいつもどおりペンを止めて立ち上がる。
すぐに淹れてきてくれたコーヒーで薬品のにおいは幾分和らいだ。
「相変わらず不味いものを飲んでいるね」
一口啜るとドリップ式特有の紙の味がした。
「口が肥えた貴方にとってはそうでしょうけどね。私はコレでいいんですよ」
そうにべなく言って高松は己のカップにミルクを注いだ。
マーブルを描くコーヒーを楽しげにスプーンでかき混ぜている。
ふうん、といつもどおり気のない返事をして、ふと殺風景な部屋に視線を走らせると場違いなものがあった。
「高松、あれは?」
視線で尋ねるとカフェ・オ・レに口をつけていた友人がああ、と口元を緩めた。
「プレゼントですよ」
「誰に?」
そんなこと決まってるじゃないですか、と友人は私を一瞥した。
「グンマ様とキンタロー様にですよ。私はあの方たちのサンタクロースなんですから」
「……」
うっとりと話した友人を冷たい目で見ると彼は別にいいでしょう、といってカップに口をつける。
プレゼントの横の写真立てを見て懐かしげに目を細めた高松に私はふとルーザー兄さんのことを思った。
兄さんが生きていたら私にしてくれたようにあの子たちにも贈り物をしていたんだろうか。
高松は兄さんの代わりをしている、だとかキンタローがクリスマスを迎えるのは初めてだとか、いろいろなことが頭の中に駆け巡った。
「……高松」
「コーヒーが冷めますよ」
さりげなく高松は目をそらした。
それから白衣へと手を入れて彼は煙草を取り出した。
「吸いますか?サービス」
いつもの人をくったような笑みではない、穏やかなものを口元に浮かべて彼は言った。
「ああ。もらうよ」
指を伸ばして一本掴み取り、火を分けてもらう。
吸い込むときつい苦味が喉に沁みた。
「高松」
いつものようにからかってやろうと声をかけると紫煙を吐き出していた彼が「なんですか?」と片眉を上げて応じた。
「あの子たちにプレゼントを買う金があるのなら私に4万円を返してくれてもいいんじゃないか?」
ふふ、と笑うと高松が目を見張る。
いつものように慌てて私を褒めて矛先をかわすのかと思ったら今日ばかりは違った。
「返してしまってもいいんですか?私に会う口実がなくなりますよ、サービス」
煙草の灰を落として友人がにやりと笑う。
思わぬ切り替えしに煙草から口を離す。すると高松はそんな私を、
「貴方のそんな顔を見るのは初めてですよ」
とからかいの滲んだ口調で言った。
「うるさいよ」
きっと睨んで煙草を吸い込むと友人がくつくつと笑う。
まったく。どうしてこの男はこんなに口が悪いんだか。
ジャンもハーレムも私には口で勝てないのに、とここにはいない同い年の二人を思い浮かべながら私は紫煙を吐いた。
苦い煙を高松に吹きかけてやっても旧知の友人は動じずに人の悪い笑みを浮かべるのみだった。 ■SSS.44「お願い」 コタロー出してよ、出してよ。
お願い。誰かぼくをここから出して!
何度そう叫んだのかぼくは分からない。
喉ががらがらですぐ近くにはぼくのために用意された食事とジュースとが置いてある。
ジュースはとっくにぬるくなっているし、チキンもすっかり冷めていた。
冷めたチキンを口に運ぶと今日はテーブルにもうひとつお皿があったのに気がついた。
ケーキ!ぼくの大好きな甘いケーキだ。イチゴが乗っている。真っ白なクリームがふわふわのっているケーキ!
ぼくのお誕生日、覚えてたのかな?パパ?ううん、パパはぼくのこと興味ないもん。
お兄ちゃん?ううん。お兄ちゃんは遠くの学校へ行ってるってパパが言ってた。
でもパパはくれないと思うし。やっぱりお兄ちゃんなの?
ドキドキしながらケーキのお皿を引き寄せる。
小さな丸いケーキの上にはプレートが乗っていたから。ぼくの位置からはちょうど裏側だった。
きっとお誕生日おめでとうって書いてある。
コタローって名前だって入ってる。だって、お兄ちゃんが前に買ってくれたのはそうだったもん。
このケーキ、ぼくにお兄ちゃんがプレゼントしてくれたのかな?
ワクワクしながらお皿を反対にすると白いチョコレートのプレートに赤い字が書かれている。
Merry Christmas!
ただそれだけ。
今日はクリスマスじゃないよ。それは明日だもん。今日はぼくの誕生日……ぼくの誕生日なのに。
チキンが刺さったフォークを投げつけるとからんと床に落ちた。
でも誰もぼくを叱らない。
ここには誰もいない。パパは帰っちゃったし、他の人間は誰も来ない。
もうやだ。ひとりはやだよ。
パパ、戻ってきて。いい子にするから。お願い、お願い、お願い……。
ぼくの前には誰も座っていない。
少し前にいた家ではお兄ちゃんがいた。ぼくにおいしいご飯を作ってくれたし、お菓子もくれた。
でも、今はいない。
毎日毎日、ぼくが呼んでもお兄ちゃんはここへは来ない。
ここに来ていたのはご飯を持ってくる人。でもその人もぼくが泣いたら壊れちゃった。だから今ではパパだけだ。
ぼくのご飯は眠っている間にいつの間にか用意されている。
ぼくはいつもご飯のまえに眠っちゃう。お兄ちゃんとはよくお昼寝をしていたからだと思う。
たまに知らないおにいちゃんの声がスピーカーで聞こえると扉が開く。
扉が開くのはそのときだけ。
ぼくのパパが来る、そのときだけ。
出してよ!パパ!
ひとりはいやだよ!パパ!
泣き喚いて、パパが持ってきてくれた新しいおもちゃに力をぶつけるとパパは冷たい目でぼくを見た。
駄目だよ。コタロー。
おまえはここから出てはいけない。
パパはそう言っていつも帰っていっちゃう。
いつもいつも。ぼくがどんなに頼んでも泣いても言うことを聞いてくれない。
お兄ちゃんはぼくの言うことを聞いてくれたのに。
りんごのお菓子が食べたいってねだったらすぐに用意してくれたのに。
遊んでっていったら木馬に乗せてくれたし、抱っこもしてくれた。
ぼくのお願いは全部聞いてくれたのにパパは違う。
パパはぼくのお願いをひとつも叶えてくれない。
きらいだ。パパなんか。大きらい。
パパなんかいなくていいのに。大きらいだ。きらいきらいきらい……。
パパなんてきらいだ。パパだけじゃないもん。お兄ちゃんもだ。ちっとも迎えに来てくれないお兄ちゃんもきらい。
お兄ちゃんもきらい。きらい。きらい。きらい。みんなきらい。
はぁはぁっ、と息を切らす。暗いテントの中でも僕の目が覚める。
喉が渇いて、なんだか口が重たい。
水を飲もう、と寝袋から出ると横で同じように眠っている叔父さんが寝返りを打った。
暗闇の中でもサービス叔父さんの髪はきらきらして見えた。
起こさないように、目を擦りながら静かに歩く。すると、
「コタロー?」
サービス叔父さんが僕に声をかけた。見ると、ぼんやりとした目で僕のほうを見つめている。
「お水が飲みたいから起きただけだよ」
「……そう」
サービス叔父さんは目を閉じた。
あまり音を立てないようにテントの中のリュックからペットボトルを取り出す。
かちっとキャップを回して、喉が鳴らないように気をつけて口に運ぶとぬるい水が流れ込んできた。
あんまり、おいしくないや。
冷やしてないから当たり前だよね、とため息をついて元に戻す。
まあ、いっか。すこしは口の中がさっぱりしたし。
ごそごそと寝袋に戻ると今度は叔父さんが起き上がった。
「叔父さん?」
「なんでもないよ。おやすみ」
ぽんぽんと頭を撫でられて僕の心がすーっと軽くなった。
もしかしてサービス叔父さん、僕が嫌な夢見たの分かってるの?
「ちゃんと寝ないと疲れは取れないよ、コタロー」
目を丸くして見上げていると、叔父さんがふふと笑って僕の額にキスを落としてくれた。
「眠れないのなら私が傍にいてあげるよ」
私が起きていたらサンタクロースは来ないだろうけどね、と叔父さんが笑いながら言う。
「ひとりで寝れるよ!それに、僕、サンタクロースはここに来れないんだから」
ぷーっと膨れると叔父さんはおやと目を見張る。
「どうして、ここには来れないのかい?」
どうしてってそんなの……。
「だってパプワ島で見たんだもん。夜、トイレに起きたら島のみんなにリキッドがプレゼント配ってたんだからね。サンタクロースはリキッドだったもん。ここには来れないよ」
「パプワ島ね……。それならコタロー、ガンマ団ではどうだった?」
サンタクロース来てただろう?と叔父さんが僕の髪を撫でる。
「……たしか朝起きたらプレゼントの傍に鼻血が落ちてたよ。あれはお兄ちゃんだよ。僕、悪い子だったし……」
そう言うと叔父さんは悲しそうな顔をした。
でも、本当だもん。昔の僕は悪い子だったからサンタさんは来なかった。
プレゼントがあったのはお兄ちゃんと暮らしてたときだけ。
悪い子の僕をお兄ちゃんがかわいそうに思ってくれたんだよ、きっと。
「今はいい子だよ。コタロー」
叔父さんが優しく僕の髪を撫でながら言った。
「ううん。今夜だって多分来ないよ。僕がいい子になったの、サンタさん知らないもん。
僕、ずっとパプワ島にいたんだから」
そうかな、と叔父さんは考え込むように言った。
「そうだよ。それに僕のサンタクロースはリキッドだから来ないでしょ。プレゼント2個貰っちゃうことになっちゃうもん」
「リキッドはおまえのプレゼントを用意しているの?」
「そんなの当たり前だよ。リキッドだもん」
パプワくんに会いに行ったらついでに貰うもん、と口を尖らせると叔父さんは笑った。
「それじゃあ、修行を早く終えないといけないな」
「……うん」
寝袋の端を握り締めると叔父さんが僕の頭を撫でる。
「明日の修行のためにはもう寝ないといけないよ。おやすみ」
「うん。おやすみ、サービス叔父さん」
おやすみ、を言うと叔父さんが目元をほころばせた。
目を閉じて、でもやっぱり気になってそっと瞼を開けるとサービス叔父さんが僕の顔を覗き込んでくれている。
ちゃんと寝るまで見てくれるの?
なんだか、くすぐったいや。
おやすみ、サービス叔父さん、と心の中でもう一度呟いて、僕は目を閉じる。
なんとなく今度はいい夢が見れるような気がした。
どうせならパプワくんやリキッド、島のみんなの夢がいいなあ。
リキッドはここには来れないけど、こっちの世界のサンタさんもそれくらいならお願い聞いてくれるよね?
お願い、サンタさん。今度は僕にいい夢見させてよ。■SSS.45「リップクリーム」 キンタロー×シンタローただいま、と軽いキスを額に落として、それから口唇へと移行する。
ちゅ、と軽く落とした額とは違って少し長めのキスで従兄弟を味わうとかすかにミントの香りがした。
「シンタロー」
「なんだよ?今、コーヒー淹れてやるから待ってろよな」
キスを終えて、俺がジャケットを脱いでいる間にキッチンへと移動していた従兄弟がカップを片手に返事をする。
ネクタイを緩めて、ソファで待っているとしばらくしてシンタローは二人分のカップを携えてきた。
「寝る前だからな。薄めに淹れたぞ」
ほら、とテーブルに従兄弟がカップを置く。俺の隣に座ると彼は早速コーヒーに口をつけた。
「シンタロー。もう歯を磨いたんじゃないのか?」
一口飲んでから、先程尋ねようと思ったことを切り出す。
砂糖が少しとはいえ入ったコーヒーなど飲んでいいものなのか。
いや、また歯を磨けばいいことだが、と首を傾げるとシンタローは目を見張った。
「夕飯の後には一応磨いたけど、俺、まだ風呂も入ってないぜ?」
寝る前に磨くつもりだ、と俺を見て従兄弟が答える。
言われてみれば従兄弟はまだパジャマを着ていなかった。
「そうか。そういえばそうだな」
夕食の後に磨いたといったからその残り香か、とコーヒーを飲みながら思う。
「何で急にそんなこと聞いてきたんだよ」
すると今度はシンタローが不思議そうな面持ちで俺に尋ねてきた。
「何で……って、さっきキスしたときになんとなくミントの香りがしたからだが」
ただ聞いてみただけだ、と従兄弟に答える。シンタローは俺の答えにミント?と考えこんだ。
「歯磨きのじゃないのか」
たしかすっきりするものを使っていただろう、と言うとシンタローはあ!と声を上げた。
「違う違う。今日、歯磨き粉切れててグンマの借りたんだよ。アイツのイチゴ味のヤツ。
おまえが言うミントみたいな香りってこれだぜ」
ごそごそとポケットを探るとシンタローは少し細めの小さな筒を見せてきた。
「リップクリーム?」
「ああ。メンソレータム配合ってなってるからこれだろ?たぶん」
さっき塗ったから、と言ってシンタローはリップクリームの蓋を開けた。
軽くひと塗りするなり、俺の口唇にちゅ、と軽く合わせる。
「な?これだろ」
ポケットへとリップクリームを戻しながらシンタローは笑った。
「ああ、これだ。この香りだな。シンタロー、おまえ口唇が荒れているのか」
口唇を合わせてみてもそんな感じはしなかった。
少しべたつく下唇に指を這わしてみてもささくれ立ったところはとりたててない。
「団内どこいっても暖房つけてて空気が乾燥しているだろ。ひび割れないうちに予防でしてるだけだぜ。
もう何日も前から塗ってるぞ」
意外と気づかなかったんだな、とカップの縁を弄りながらシンタローが言う。
「キンタロー、おまえも使うか?放っておいて口唇荒れたら痛いだろ」
研究室だって暖房はつけているわけだし、とシンタローが再び内ポケットを探り始める。
「いや。いい。もう寝る前だしな」
そういって俺は従兄弟の申し出を断った。
シンタローはふうんと気にも留めていない返事をするとソーサーにカップを置く。
俺が片付ける、と腰を上げるとシンタローは中腰になった俺の額へ少し背伸びをしてキスをする。
お礼のつもりなのか、と思わず頬が緩む。
風呂は沸かしておいたから一緒に入ろうな、と囁かれてカップを手にしたまま俺もシンタローにキスをした。
彼と違って、額ではなく口唇だったけれども。
口唇のむちっとした感触に俺はふと思い立った。
俺の口唇が荒れないのはもしかしてリップクリームを塗ったシンタローにキスをしているからか?
明日からは俺も塗ろう。
シンタローの口唇からみずみずしい潤いを奪わないようにしないと。■SSS.48「心臓」 キンタロー×シンタロー「俺はお前を好きなようだ」
思わず耳を疑った。
幻聴だとか、なんかの罰ゲームだとか思いつく限りのことは想像してみた。
だが、目の前の男のあまりにも真剣すぎる表情に笑い飛ばそうと思った気が萎えていく。
「あの……な、キンタロー」
エイプリルフールまでずいぶん時間があるぜ、と引きつった笑みを浮かべながら言うと従兄弟は眉を顰めた。
「何を言っているんだ、シンタロー。俺は本気だぞ」
いいか、もう一度言う。俺はお前のことが好きだ、などと真剣な表情で従兄弟は俺の肩に手をかけた。
「返事は今でなくてもいい。だが、俺は本気でお前のことを愛してるんだぞ」
寝ても覚めてもおまえのことしか考えられない。仕事も手につかないんだ。
シンタロー、おまえ以外の人間じゃこんな気持ちにならないんだ。俺はおまえが好きでたまらない」
親父じゃないんだ、下手な冗談はよしてくれと俺は言おうとした。だが、キンタローは、
「LIKEでなくLOVEでだ。従兄弟としてでなく、一人の男としてでだ」
と至極真面目な顔で言う。
退路を立たれて俺はぐっと詰まった。
だが、いくらなんでも……。
「おまえ、絶対勘違いしてるぞ!どうせ、ワケわからねえ心理学の本でも読んで影響されただけだ!
本を読んで得ただけの知識で物事を理解しようったって世の中そんなに甘くねぇぞ!
心臓がどきどきするから恋だとか四六時中相手のことが気になるから恋だとか、そんなもんは全部錯覚だ!!
どきどきするのは不整脈だ!親父じゃねえけど、少しおまえは疲れが溜まってるんだよ!
俺が気になるのは俺がひよっこ総帥だからだって!じゃなきゃ、アレだ。
ズボンのチャックが開いてたり、髪が長いのが鬱陶しくて視界に入ってきただけだ。な、そうだろ?
よく、考えてみろよ!!キンタロー!!」
一息に怒鳴るとキンタローは少し考え込んだ。
俺の肩に置いていた手が口元へと持っていかれ、考え込む姿勢を作っている。
爪の先まで調えられた長い指に一瞬見惚れているとキンタローがぼおっと突っ立っていた俺を己のほうへと引き寄せた。
「ッな!おいッ!!」
ぐいっと力任せに引き寄せられ、体のバランスが崩れかける。
支えるキンタローの腕にほっとしつつ、何をするんだと咎める視線を送ってみるとキンタローはすっと指先で俺の顎に手をかけた。
「……俺の心臓はどきどきしているだろう、シンタロー」
おまえはそうでもないようだが、と残念そうにキンタローは口唇を微かに上げた。
「おまえに触れるだけでこんなに心臓が早く動くんだ。錯覚じゃないだろう、シンタロー」
これは絶対に恋だ。おまえを愛している、とキンタローは俺の頬をやさしく撫でながら言った。
そんなわけない、と反論したかったが口が動くよりも先に俺の心臓がどくりと大きな音を立てた。←SSS Top
視界を横切った金色に思わずハーレムは駆け寄った。
焦り、足がもつれそうになるのを必死で押さえ込んで回り込むとそこにいたのは思い描いた人物ではない。
似ているが、脳裏に浮かんだ人の忘れ形見だった。
「ハーレム?」
何か用か、と眉を顰めた様子は兄のルーザーによく似ている。
今朝、食卓を囲んだときには長かった鬣のような金色の髪も丁寧にカットされていて、生前の兄を写し取ったかのようだった。
「あー、いや……髪切ったんだな」
何を言っていいのか分からなくてしどろもどろ口にすると、目の前の甥が微笑んだ。
うすい口唇を上げるその仕草がやはり兄によく似ている。
じろじろと見つめると口角になにか赤いものが付いているのが見えてハーレムは訝しげに思った。
「キンタロー、なんか口についてるぞ」
ここらへんに、と己の口元で指し示すとキンタローは不思議そうな顔をした。
「ついている?」
「ああ、なんか赤い。ジャム……じゃねえよな。なんだ」
赤い、とハーレムが言うなり、キンタローはああ、と納得したような顔をした。
「それは俺の血だ」
ごく普通にそういってキンタローが口元を手で拭う。
けれども言われたほうのハーレムは普通にはしていられなかった。
「おまえの?」
どういうことだ。殴られては、いねえようだし。いや、こいつがそうなら相手は……あのガキしかいねえよな。
本気で殺し合いをおっぱじめたにしちゃ爆発音は響いていねえし。
ガキの喧嘩か、とぐるぐると悩んでいるとキンタローは小首を傾げた。
「なにかおかしいか?ああ……まだとれていないのか」
言って、再び口元を拭うキンタローにハーレムは何も言葉が浮かばない。
幾度か拭って気が済んだのか、
「まだついているか?」
と言われてようやく我に返る。
「ん……ああ、取れたけどな」
けどな、とハーレムが言うとキンタローはまだ何かあるのかとでも言いたげな表情を浮かべた。
「殴られたわけじゃあねえよな?」
口の端が切れた様子も痣が出来た様子もない。
聞きたくねえけど、と恐る恐る疑問を呈したハーレムに甥は父親譲りの笑顔を浮かべた。
「殺してやろうと思って口を塞いでやったら抵抗されてな。
舌を噛まれた。噛み切られてはいないのに意外と血が出るもんだな。
それに、もう大分経つのにまだ舌の先がひりひりして……どうした?ハーレム?」
具合でも悪いのか、と覗き込む甥にハーレムはなんともいえない気分に陥った。
その殺し方は間違ってるだろうが、と思ったが兄譲りの容姿で訝しむ甥の姿を見るともう何も口には出せなかった。
火事を告げるアラートが鳴り止まない。
朝食の席で伯父が貴賓室で友好国の大統領と会談するとキンタローは聞いていた。
和やかな会談であるはずなのに、本部棟の静寂が打ち破られた。
その事実が何を示すのかはっきりしないまま、研究室で報告を受けるのを待たずにキンタローは現場へと急いだ。
足音を立てて、濛々と立つ煙の中を抜けると焦げ臭い臭いが鼻を突く。
マスクをした団員が消化剤を撒いているが、あまり緊迫した空気はない。
どちらかといえば、シンタローと伯父の親子喧嘩で棟が破壊されたときの後始末と同じような雰囲気だ。
アフロヘアーの秘書たちに状況を尋ねるとこの惨状を引き起こしたのが伯父本人だと言われる。
詳しい事情を聞いて、キンタローは眼魔砲を撃ったマジックよりも一番の原因であるハーレムとその部下たちを呪った。
友好国に裏切られたのか、暗殺かと一瞬でも考えてしまったことが厭わしい。
元凶の特戦部隊は遠征の準備に入っていると聞いて、その場は秘書たちに任せて滑走路へと赴く。
整備班が嫌そうな顔をしながら作業にあたるのを見て、キンタローはため息を吐いた。
飛行船のタラップを上がり、室内に入るとそこは4年前に訪れたときと同じ光景だった。
ところどころアルコール類のボトルが転がっているが、一応は片付いている。
めずらしい。掃除でもしたのか、と思いながらキンタローがハーレムを呼ぶと現れたのは彼の部下1人だけだった。
「ロッドか」
「……キンタロー様。何か御用で?」
垂れ気味の目元を殊更緩ませてロッドは聞いた。へらへらと笑う態度にむっとしたが、キンタローは口にはしなかった。
「叔父貴はどうした?貴賓室のことで話がある」
貴賓室とキンタローが口にするとロッドが盛大に笑う。
「マジック様にお仕置きされてるとこじゃないすかね。他のメンバーは寝てますよ。
戦地に行くってのに、俺だけ寝ずの番で……ああ、それは隊長から言いつけられた罰のひとつですけどね。
ま、日が差してるってのにそう寝られるわけじゃないですけど」
御用があるのなら、総帥室へ行かれたらどうですか、とロッドが笑う。
「ハーレムの処遇をマジック伯父貴が決めてるのなら俺が行くには及ばないだろう。
一言俺からも忠告しようと思っていたがな。おまえたちもあまり叔父貴の悪ふざけに付き合わないことだ」
おまえのミスが原因だそうだな、と貴賓室の方向を顎でしゃくってキンタローはロッドを見据えた。
「ミス……ねえ。それが故意だったらどうします、キンタロー様」
ロッドはジャケットの内側から数枚の写真を取り出した。
黒いレザーのジャケットは特戦部隊だけの制服だ。
一時期これを着ていたな、と少し懐かしく思う心を打ち消してキンタローは写真を受け取る。
「なかなかよく写ってるでしょ?俺が撮ったんですよ」
隊長に命令されてね、と笑う彼が寄越した写真は新しい番人のあられもない姿を写し取っている。
「かわいい息子さんのこんな姿見ちゃったら坊やの復帰は難しいですよね」
可愛い息子さんを持つ親に俺からのやさしい忠告ですよ。
でも、まさか坊やのパパがアメリカ大統領とはね、とロッドは大仰に肩を竦める。
「俺はね、キンタロー様。坊やには幸せな人生を歩んで欲しいわけ。
でも、獅子舞の傍じゃあそうはいかない。だから坊やのパパに写真を披露しただけのことですよ」
隊長のことは尊敬してますけどね、とロッドは写真をキンタローから取り上げながら付け加えた。
「……ロッド」
「リキッド坊やじゃなかったら俺も反対しないっすけどね。
まあ、さっきの坊やのパパの様子じゃ金輪際、獅子舞は近づけられなくなるでしょうけど」
そう思いませんか、と垂れた目を片方閉じてロッドはウィンクした。
その仕草が癇に障ってキンタローはロッドの胸元を掴みあげた。
しばらく視線を交えたまま、キンタローはロッドの胸元を掴んでいたが手を出さずに離した。
今はそんなことをしている場合じゃない。一刻も早く、シンタローを救出しないと。
そう思ってキンタローは踵を返そうとした。だが。
「キンタロー様」
ロッドに呼び止められ、キンタローは振り返る。
にやついていたはずのイタリア人がすっと真剣みを帯びた表情でいるのを見てキンタローは一瞬緊張した。
殺気ではない張り詰めた空気が2人の間を漂う。
「俺たち、特戦が帰還してるのは不思議じゃないですか?」
「……?」
何を言っているとキンタローが怪訝に思うとロッドは続きを口にした。
「本部を盗聴するのはわけないんですよ。
団員はみんな遠征か、あの島へ行く装置を開発するのにかかりきりですからね」
壬生のやつらが紛れ込んでたら情報は駄々漏れですね、とロッドに言われてキンタローは言葉に詰まった。
「新総帥を助けたい気持ちは分かりますけど周りを見たらどうですか?」
「……ロッド」
「そこまで送りますよ」
タラップにいたるドアを開けてロッドは表情を緩めた。
真剣味はもうない。いつもの緩んだ表情だ。
近づき、ロッドはキンタローの耳に口唇を寄せた。
「新総帥とあんたの関係ばらすよりよかったでしょ?」
マジック様にばらしたら坊やの騒ぎどころじゃない。
現状を忠告してやったのを感謝してくださいよ、と揶揄いまじりに口にされてキンタローはなんとも言えない気分になった。
タラップを降りれば、煙が空へと流れていくのが見える。
自分と従兄弟の関係がどこまで漏れているのか考えて、キンタローは首を振った。
そんなことは後でもいい。伯父にばれてからでも、シンタローが帰ってからでも。
むしろ後に出来ないのは……。
装置の開発も大事だが、それよりとりあえず団内を統制しないと、とこれからのことを思ってキンタローは嘆息した。
aromatic」 キンタロー×シンタロー軽くタオルドライをしたものの髪はまだ水気を持っている。
パジャマの上からタオルを引っ掛けた状態でとりあえず水分補給をしようと向かったキッチンから水音が聞こえた。
「誰かいんのか?」
ドアを開ける前に呼びかける。いるのが父親だとすると髪を乾かしきっていないことを小うるさく咎められる。
がしがしと拭き取りながら俺は「おーい」と叫んだ。できれば俺が強い態度を取れるグンマであって欲しい。
けれども水音が邪魔をして相手に聞こえなかった。
「親父~ぃ?」
グンマだといいな、と思いつつ室内に踏み入れると短めの金髪が見えた。
髪の長さは父親と同じくらいだけれども微妙に違う。金色だけれども父よりは色合いがうすく、それに空色のスーツを着ていた。
父親はイイ年をして未だにピンク色のジャケットを羽織る男だけれども、この色は着ない。
シンクの前に立っていたのはもう一人の従兄弟、キンタローだった。
「なんだ、おまえか」
タオルから手を離して呟くと背を向けていたキンタローが蛇口を止める。
平たい皿を拭きながら、キンタローは俺に向かって「シンタローか」と言った。
「ナニ?おまえ今メシ食ったのかよ」
「ああ」
夕食の席に着いたときに確かグンマからキンタローは研究室にこもっていると聞いていた。
こんな時間まで、と咎めるような視線を送ると仕方がないだろうとばかりに肩を竦められる。
「今日中に片づけたいことがあったんだ」
そう言いながらキンタローは食器棚に皿を仕舞う。それから、彼は横にある冷蔵庫を開けた。
「これでいいのか?」
炭酸水のボトルを掲げられて俺は頷いた。
「ああ。風呂入ってノド渇いちまったからな」
相変わらず従兄弟は自分のことは何でも分かるらしい。
礼を言いつつ、受け取るとキンタローはパタンと冷蔵庫のドアを閉めた。
「なんだよ?」
キッチンの電気は俺が消すぜ、とスーツのジャケットを着たままでいるキンタローに俺は言った。
ボトルの蓋がきゅぽんと小気味のいい音を立てて、それから炭酸の泡が浮き上がる小さな音が耳に入ってくる。
しゅわっと立った音を楽しみつつ、口をつけると口腔へと気持ちのよい冷たさが満たされた。
寒くなってきたけれども、やはり風呂上りには冷たいもののほうが美味い。
「キンタロー?」
いいんだぜ、とボトルから口を離して部屋に引き上げるよう促す。
だが、彼は俺に従うのではなく違う言葉を口にした。
「何のにおいだ?」
「はあ?」
キンタローは俺に近づいて、ボトルを手にする俺の手首を掴んだ。
「なッ!おい、ちょっと待て!零れるだろッ」
なんなんだよ、とボトルに慌てて蓋をする。
キンタローはといえば、身を屈めて俺の手に鼻を寄せていた。掠めるように吹きかかる息がくすぐったく、変な気分になる。
「レモン……?いや違うな」
石鹸を変えたのか、それともバスオイルかなどとキンタローは考え込みながら呟く。
「レモンって……ああ、分かった。このにおいいは柚子だぜ。冬至だろ」
風呂に柚子を浮かべたんだよ、と掴まれた手を払って説明してやるとキンタローは納得したような顔をした。
「そうだったな。おまえは昔から日本式で過ごすのが習慣だった」
日本支部で暮らしてたからか、とうんうんと頷く従兄弟に俺はそうかもなと投げやりな返事を返す。
「柚子湯に入りてえんなら、まだ何個か冷蔵庫にあるぞ」
キッチンペーパーに包めば掃除も楽だ、と教えてやるとキンタローはそうなのかと感嘆したように言った。
それから俺は炭酸水の残りを飲み干しながらキンタローに柚子の包み方をレクチャーしてやった。
適当にすればいいのに真剣な顔で柚子を包むキンタローの表情は見ていてなんだかくすぐったい気がする。
そのうちコタローが起きたときにはこうやって冬至の日を過ごすのかな。
そんなことを思い描いていると2個目の柚子に切れ込みを入れたキンタローが不意に問いを発した。
「伯父貴とグンマは使わなかったのか?」
何でこんなに買っておいたんだ、と不思議そうに聞く。
「残りは明日柚子釜にする……ああ、親父とグンマ?あいつらはやらねえよ」
「柚子釜、か」
「そ。たまには手の込んだもん作ってみたいし。
親父とグンマはバラとかバニラとか甘ったるいもんがすきだろ。柚子はミカンの入浴剤とかよりにおいがキツイからな。
いい柚子だと次の日まで体に香りが染み付いてるし」
だから柚子湯に入るのは俺とおまえだけ、とキンタローが包丁を洗い終わったらボトルを軽く水洗いしようと思いながら答える。
キンタローのほうも俺の行動が分かっていて、洗い終わっても蛇口は閉めなかった。
「そこ閉じたら出来上がりだからな」
ちゃぷちゃぷとボトルを揺すりながら水で洗う。
するとキンタローはできたぞと袋仕立てにしたキッチンペーパー俺に見せながら口を開いた。
「これで今日は俺も柚子湯だ。……そうすると俺とおまえだけが明日同じにおいなんだな」
キンタローの言葉は思いついたまま口にしたものでとくに含むような響きはない。
だから、普通に相槌を打てば言いだけのことなのにそうだな、と答えた俺の声は思いもかけず上ずった。
「シンタロー、それは」
「え、ああ?」
柚子の入った袋を手にしたキンタローが怪訝そうに俺を見る。
「いつまで洗ってるんだ……捨てるぞ」
変なヤツだな、と言いながらキンタローが俺の手からボトルを取り上げる。
一瞬だけ触れた指先が不意に先ほど手首を掴まれたときに感じた呼気を思い出させ、冷めたはずの肌が風呂上がりのように火照り始める。
(ちくしょう。これから寝るのに考えちまうじゃねえかよ)
この後、キンタローの肌が自分と同じ香りがするのだ、と意識して俺はどうしようもなくどきどきした。
誤魔化すようにかき上げた髪の先からも柚子の香りがして、どうしていいのか分からない。■SSS.60「可愛くない」 キンタロー×シンタロー渡された紙は5枚もあって俺はうんざりした。
ターゲットの部隊に潜入するくらい士官学校生の時分からもう何度もやってるのだ。
それでも生真面目にペンを持ってチェックしようとするキンタローには逆らえず、俺はしぶしぶテストを受けるはめになる。
5枚にわたってびっしりと潜入組織のデータやら俺の偽名での設定、この場合はどういう行動をとるべきか、などといった問題が印刷されている。
とっとと終わらせてコタローの顔でも見に行こうと俺は1問目に目を走らせた。
*
「その発音は綺麗過ぎる」
俺だって口に出してから気づいたんだ。
もっと乱暴にクチを聞けって言うんだろ。分かってるっつうの。さっきまで出来てたんだからな。
ちょっと間違っただけじゃねえか、うるせえな。
「俺は指摘をしたまでだ。ボロを出して捕まりたくなかったら気をつけろ」
現地の発音に近づけろ、と笑みを浮かべながらキンタローは俺を見た。
くそっ。むかつくヤローだぜ。
だいたいなんでコイツが監督するんだよ。
他にもいるだろ、他にも。
「そこの発音は正しくはこうするべきだ……分かったか?シンタロー」
ちくしょう!その口、止めろ。自分が優位だからって笑いやがって!!
あーホントむかつくヤツだ!本当になんでコイツなんだよ!!
「……手の開いてるのが俺で残念だったな」
次の問題はまだか、とキンタローはチェック表にバツをつけながら俺を見る。
やってやろうじゃねえか。
「――で、どうだよ?合ってるか?」
間違っていないはずだ。めちゃくちゃ自信がある。ほら、とっとと言えよな。
睨みつけるとキンタローは息を吐いて、
「……正解だ。次もそうだといいな、シンタロー」
と言った。
いちいち気に障るやつだぜ。
まあいい。とっとと終わらせるか。コタローが待ってるんだ。俺の可愛い弟のコタローが。
「顔が緩んでるぞ、シンタロー。コタローのことは後で考えろ」
……うるさい。なんでもかんでも俺のこと分かりやがって。
24年間観察してたからって言われりゃおしまいだけどな、いちいち指摘すんじゃねえよ!
コタローと違って可愛げのないヤツだぜ。
「コタローのことは後にしろ」
次も間違えるつもりなんだな、と笑われて俺は本気で腹が立った。
ああ、ホントうるせえヤツだな!可愛くねえ!
「間違える気なんてねえよ。ほら、次だ。次」
チェックしろと言ってキンタローを睨むと笑った。
「――どうだよ?合ってるだろ。完璧な発音だし、これ以上ない答えだと思うぜ」
正解だという自信はさっきよりある。
得意気にキンタローに宣言すると従兄弟はふっと口元を緩めた。
さっきまでの俺の失敗を指摘するような笑い方とは違う。どちらかといえばやわらかい印象の笑みだ。
「……おまえのそういう、俺に対してむきになるところは可愛いな」
ああ、それは正解だ、と付け加えてキンタローは俺を見た。
次はどうなんだ、と問いかけるキンタローに俺はぐっと詰まる。
慌てて紙を1枚捲ると笑い声を噛み殺す気配が伝わってきて、俺は照れくさいと同時に苛立ちも感じた。
むかつく。ほんとむかつく。
なんでそういうこと言い出すんだよ。
「次は……ちょっと待ってろ」
集中しろ、集中。これが終わったら、コタロー。コタロー。コタロー。
「シンタロー、次はどうした。コタローの病室へ行きたいんだろう?」
そうだよ、今すぐ行きてえよ!
ああ、ホントむかつく。とりあえず、笑うのはやめろ。俺の心ん中も読むなよな!
それから、キンタロー。おまえってホント、可愛くない。
別段、どうということもない。
曲がっていたのがなんとなく気になって直したまでだ。
眼前で繰り広げられる結婚式は、今までシンタローが見たものとは違ってナマモノ同士のものだったが、それでもやはり微笑ましく心が洗われる光景のものだった。
突然の式に朝から追われていた所為で少し眠い。
新婦が気恥ずかしげに目を伏せたのを見ながら、シンタローはこっそりとあくびをする。
目ざとく見つけたリキッドにここぞとばかりにじっと見られたが何も言わずに蹴ってやった。
(俺に文句言おうなんざ10年早いんだよ)
***
時代錯誤な重たい引き出物をパプワの分も運んで、家に帰るとすぐさまリキッドがジャケットを脱いだ。
日頃の肩の凝らない服装と違って疲れたのだろう。
それでも脱ぎ散らかしはせずに皺にならないようにきちんと畳んでいる。
式場で簡単なものを摘んだとはいえ、育ち盛りのパプワがアレで満足するとは思えない。
早く夕メシにとりかからねえと、とシンタローもジャケットを脱ごうとボタンに手をかけた。
「あ。シンタローさん、脱いだらこっちに掛けてください」
一応、洗っておきますんで、とリキッドがズボンを脱ぎながら言った。
おう、と返事をしてシンタローはジャケットを脱ぐと、とりあえずその場に軽く畳んでおいた。
いつものランニングを引き寄せておいて、タイごとシャツを取り払おうと首元を緩めると、シンタローの目に下だけ着替え終わったリキッドが目に入った。
タイとシャツの間を指先で強引に緩めている。
(おいおい。それじゃシャツもタイも傷むだろうが……)
ああいう形のタイはアイロンかけるのが面倒なんだよな、とシンタローは自分のことを棚に上げてそう思った。
キンタローだったらきちんと順序良く着替えるだろう・
それこそ横着して、シャツと一緒に脱ごうとしてる俺を怒るんだろうな、と脱いだシャツを足元に放りながら思う。
ランニングを被り、結んだ髪を左右に振りながら頭を出すと、ちょうどリキッドがほどいたタイを手に取ったままシャツを脱ぎかけているのが見えた。
(キンタロー……)
その仕草はキンタローとは似ていない。
従兄弟のようにしゅるりと小気味よい音を響かせて首元からタイを抜き取ったわけでもない。
滑らかな指先でもない。着替える時にボタンを外しながら俯いた顔も似ているわけでもない。
だが一瞬、リキッドがタイを持ったままでいる手を見たとき、シンタローはそこにキンタローがいるかのような錯覚に囚われた。■SSS.35「続きは後で」 キンタロー×シンタロー「昨日は結局どうなったんだ?」
開口一番、朝の挨拶もそこそこに従兄弟は切り出した。
寝過ごしたためか、髪が跳ねている。
朝食の席に現れなかった彼を伯父が心配していた。
「おまえが酔いつぶれたと連絡を受けたので俺が迎えに行った」
連絡を受けて迎えに行くと、くたっと力を抜いてソファに体を投げ出している従兄弟がいた。
他にも何人か潰れていたヤツラがいたが酒瓶を抱えて豪快に笑うコージに任せてきた。
俺はシンタロー以外の面倒を見るつもりはない。
「あー、なんだ。車に乗せてくれたのおまえだったのか」
よかった、よかったと従兄弟は髪を掻きまわしながら呟いた。
「よかった?」
なにがだ、と傍らの彼に視線を向けるとシンタローは髪を弄りながら言う。
「誰かが……っていうか金髪の男が車に乗せてくれたのは覚えてるんだけどよ。
親父かおまえか分からなかったんだよ。酔っ払ってて眠かったから」
あ~、親父じゃなくてスッキリした、とシンタローが伸びをしながら言う。
「グンマは俺を抱えていけるわけねえだろ?朝起きてどっちだか分かんなくってさ。
前に親父が迎えに来たとき、あのヤロウ、イイトシした息子を抱っこした写真を取りやがって。
おまけに朝起きたらアイツのベッドで寝てたんだぜ」
今朝は自分の部屋だったからおまえだと思ってたけど、とシンタローは付け加えた。
「でも万が一、親父だったら朝会いたくねえからさあ。酔いつぶれるまで飲むなとかぐだぐだウルセエし」
「それで朝食に来なかったんだな」
そうか、とシンタローの横顔を覗くと彼はああと頷いた。
カツカツ、と廊下にシンタローのブーツの音が響く。
しん、と冷えた空気が肌を刺すが、それでもまだ季節は秋だ。
冬物のスーツに袖を通しているため、指先や顔など露出している部分以外は寒くない。
傍らで歩むシンタローもとくに空気の冷たさに堪えた様子はなかった。
「キンタロー」
三叉路へと出るとシンタローがいつもとは違い俺を呼び止めた。
左に進もうとしていた足を止め、彼のところへ戻る。
シンタローのいた数歩先では総帥室へと直結するエレベーターのランプが点滅していた。
故障か、いやまだ乗っていないのだからなにか言い忘れでも、と従兄弟を見る。
どうした、と口が動く前にシンタローが動いた。
「昨日は面倒かけちまって悪かったな」
立ち止まったまま動かないでいた俺にシンタローが手を伸ばした。
頤に添えられた指は空気にさらされているというのに冷たくない。
ゆっくりと、指が頬を撫で、口唇をなぞってくる。
朝に似つかぬその動きにどきりとする。
シンタロー、と言うよりも早く彼が口唇を合わせてきた。
頭の後ろに回されたシンタローの手が俺の髪を掴む。
酔ったシンタローは俺が抱き上げても抵抗せずにいた。
とりたてて暴れることもなく、車に乗せたときも大人しくしていた。彼の手は首に回されていたが髪を掴むことはない。
部屋に運ぶときも、ガンマ団のエントランスから戻ったというのに文句は出なかった。
夢中になって舌を絡めるシンタローの指先は俺の髪を放さない。
昨夜は赤く染まっていた目元は今は元通りである。
絡める舌を離して、シンタローが角度を変えるたびに彼の睫は震えた。
シンタローの味は酒の名残が微かにあった。
歯磨きをした後に残るわずかなミントの辛さの中に微かに残っている。
垂らされたままの髪も密着した状態では酒の残り香が染み付いているのがよく分かった。
昨夜の、酔い潰れて視線も口調も覚束なく、頬を染めたシンタローの姿がフラッシュバックする。
昨夜は従兄弟が今着ている総帥服が乱れていた。
帰りたくねえよ、と駄々を捏ねる彼を車に乗せ、部屋へと運び入れるとおやすみのキスをねだってきた。
子どもがえりした酔っ払いのたわいない頼み事は勿論聞いた。
でも、それはこんなキスではない。
「……シンタロー」
彼の舌が離れたときに思わず名を呼ぶと、従兄弟は不敵な笑みを浮かべた。
「続きは……後でな」
体を離す間際にシンタローが俺へと囁く。
熱い息が耳朶に掠り、それから彼はキスの後の濃密な空気を払うように駆けて行った。
(……なにもそんな礼をとらなくてもいいだろう)
言葉だけでなく、唐突に行動に現したシンタローに心臓が早鐘を打っている。
引き止める暇もなく、それよりもどうしていいのか分からない。
スーツの皺を払って、当初の通り研究室へと向かおうとする。
背を向ける前になんとなく視線を上へと向けると、ちょうどエレベーターのドアが閉まるところだった。
ドアが閉まる間際に視線がかち合う。
にやり、と悪戯が成功したような顔でシンタローが俺を見ていた。
さっきまで冷たかった頬が熱く、体から熱が引いていかないでいる。
早く来いよ、と笑いながら手招きしたシンタローの姿がドアによって遮られて、そしてもう一度エレベーターのランプが灯るまで俺はそこから動けずにいた。■SSS.37「エプロン」 キンタロー×シンタロー俺にだって料理くらいできる、と新しくできた従兄弟が言い出した。
え~!ほんとに?ひとりで大丈夫なのキンちゃん!ともうひとりの従兄弟が言ったのが彼にとって不満だったらしい。
来週末に俺もグンマも親父も、そして高松ですら出かける日程が重なることに、皆、不安を覚えていた。
姿こそ20代の青年とはいえ従兄弟のキンタローは今まで現実を経験したことがなかった。
はじめてのお留守番にヤキモキするのは当たり前だ。
「料理って言ったってトーストとコーヒーとかカップ麺にお湯を注ぐのはなしだよ?」
従兄弟のグンマがキンタローに言う。それに対してキンタローは眉を寄せて「当たり前だろう」と言った。
「本当に?本当に出来るの、キンちゃん。シンちゃんが作ったごはんをレンジでチンする方がいいかもよ」
美味しく出来るか分からないじゃない、とグンマは言う。
けれどもキンタローは、
「下ごしらえも片付けも自分で出来る。俺のことは放っておいて出かければいいだろう」
と言った。
「店屋物とか外食でもいいんだよ?」
「くどい」
しつこいグンマにキンタローが切れた。が、グンマは黙る様子はない。
初めてのお留守番をする従兄弟がよっぽど心配なのか、そんなこと言ったって!と喚きはじめる。
同席していたドクターが仕方なく宥めるべく口を開いた。
「まあまあ、グンマ様。
キンタロー様もおできになると言っているんですし、ここはひとつ、なにか作っていただいたらどうでしょう?その結果を見て来週のことは考えたらいかがですか?」
「高松。それは俺に嘘じゃないか証明しろということだな」
キンタローは憮然とした表情で口を開いた。
「いえいえ!キンタロー様。めっそうもない。この高松、キンタロー様のことは疑ってなどいませんとも!
ただ、やはり何事も備えあれば憂いなしということで……キンタロー様の予行練習にもなりますし」
おろおろと二人の従兄弟の顔色を伺うようにドクターが言う。
「ふん。まあいい。そうだな、伯父貴がよく作るカレーでも作ることにしよう。
ちゃんと作れたらこれ以上がたがた騒ぐなよ、グンマ」
きっと睨みつつキンタローが立ち上がる。
楽しみだねえ、と暢気な口調で言った父親にシンタローはげんなりした。
楽しみってあのなあ、ガキの喧嘩でまずいもん食わされたらたまんねえぞ。
アイツ、本当に料理できんのかよ。
キッチンに向かうキンタローを見ながらシンタローはこっそりとため息を吐いた。
***
「シンタロー」
手招きされてシンタローは立ち上がった。やっぱり、ダメかと思いつつキッチンに行く。
背後でグンマが忍び笑いをするのが聞こえた。
ったく。しょうがねえ、従兄弟どもだよ。
けれどもキッチンにはシンタローが想像した惨状は広がっていなかった。
俎板には丁寧に切られた野菜が乗っていて、ガラスの皿には飴色に炒められたタマネギのみじん切りがあった。
「どうしたんだよ、キンタロー」
ちゃんと料理できるじゃねえか、と見回しつつ尋ねると従兄弟はばつの悪そうな顔で切り出す。
「始めてしばらくしたら気づいたんだが、料理をしているというのにエプロンをするのを忘れてしまった」
「別にしなくても……」
いいじゃねえか、とシンタローは言おうとした。けれどもキンタローがダメだと頭を振る。
「それで?エプロンなら戸棚の左から2番目にあるぞ」
場所が分かんなかったのか、と思いシンタローが言うとキンタローは「違う」と言った。
そして、テーブルに置いてあった布を広げる。
「なんだ分かってんじゃねえか。それじゃなんの用だよ?」
「背中の紐がうまく結べないから結んでくれ」
エプロンを着込みつつ、少し照れた顔でキンタローはシンタローに背を向けた。■SSS.38「馬子にも衣装」 キンタロー×シンタロー朝食の席に向かおうとシンタローが廊下に出ると、新しくできた従兄弟のキンタローに出くわした。
彼の部屋の扉が開いた拍子にあくびを堪えつつ、目を擦りながらおはようと声をかけたが返事は返らない。
まあ、いつものことだしな、と思いつつシンタローはすたすたと先に行こうとするキンタローに目を向けた。
(え!?)
「お、おい。ちょっと待てよ。キンタロー」
いつもとは違う装いの従兄弟にシンタローは思わず目を疑った。
島から帰ってきても好んで着ていたレザースーツは彼の身を包んでいない。
おまけにざんばらだった長い髪の毛も短く揃えられていて、きれいに撫で付けられていた。
昨日とはまるっきり、百八十度違う姿だ。
「キンタロー、おまえ、どうしたんだよ!?それ!!」
地味なダークスーツに身を包み、髪も整えた姿はどこかの名家の子弟のようにさえ見える。
ぎらぎらとした眼差しも口角を上げた不適な口元もその姿では乱暴者というより切れ者補佐官と言った感じだった。
「朝からぎゃあぎゃあと煩いヤツだ。少しは声を抑えろ。
高松が父さんのような格好でないと学会には相応しくないと言ったからそうしただけだ」
何かおまえに不都合があるのか、と横を歩くシンタローに彼は冷たく言い放つ。
それに一瞬、シンタローはムッとしたがいつものことだと思い直した。
この新しい従兄弟が自分に突っかかるのはいつものことなのだ。
シンタローは昨日までの姿を思い浮かべながら、ふんと鼻を鳴らすキンタローを見る。
(たしかになあ。あれじゃ特戦部隊だもんな)
血生臭い世界とは無縁の科学者の勉強会には相応しくない。
場違いなだけでなく、バックにガンマ団が控えていることと合わせていい印象なども持たれはしないだろう。
「ふ~ん。そんでなのか。まあ似合ってんじゃねえの」
ルーザー叔父さんに似てるなあ、ともシンタローは思った。
写真の中の姿や話に聞いた叔父のやわらかな物腰には及ばないが、以前とは違ってこのごろは落ち着きが見られてきた。
スーツ姿もなかなか様になっている。
ドクターのヤツ、こいつにこういう格好勧めたけど見たのかなあ。
きっと鼻血出すぞ、2リットルくらい、と亡き叔父を信奉していて現在はこの従兄弟に無償の愛を捧げる科学者をシンタローは思い浮かべた。今日のガンマ団は大変なことになるだろう。
そのまえに食卓で親父もグンマもビックリするだろうけど。
「あ、ちょっと待てよ」
リビングのドアを開けようとするキンタローをシンタローは止めた。
「まだなにか言いたいことがあるのか?」
ぎらっとひかったキンタローの目を見てシンタローは頭を抱えたくなった。
ったく。なんでコイツは俺に突っかかってばっかいるんだよ。
仲良くしろとは言わねえけど、少しは気を許してくれてもいいじゃねえか。ドクターには懐いているくせに。
「こっち向けよ。ネクタイが曲がってるぞ」
直してやる、とシンタローはキンタローの肩を掴む。だが、
「俺に触るな」
肩口に置いた手はばしっと払われた。
どけ、とリビングのドアを開けてキンタローが食卓に着く。
装いは変わってもいつもどおりシンタローに牙を剥く彼に、ドアの前に立ち尽くしながらシンタローはため息を吐いた。■SSS.43「口の減らない」 高松×サービス久しぶりに友人の研究室を訪ねると、相変わらず室内に染みついていた薬品臭が鼻をついた。
眉を顰めて、手近な椅子に座ると友人がいつもどおりペンを止めて立ち上がる。
すぐに淹れてきてくれたコーヒーで薬品のにおいは幾分和らいだ。
「相変わらず不味いものを飲んでいるね」
一口啜るとドリップ式特有の紙の味がした。
「口が肥えた貴方にとってはそうでしょうけどね。私はコレでいいんですよ」
そうにべなく言って高松は己のカップにミルクを注いだ。
マーブルを描くコーヒーを楽しげにスプーンでかき混ぜている。
ふうん、といつもどおり気のない返事をして、ふと殺風景な部屋に視線を走らせると場違いなものがあった。
「高松、あれは?」
視線で尋ねるとカフェ・オ・レに口をつけていた友人がああ、と口元を緩めた。
「プレゼントですよ」
「誰に?」
そんなこと決まってるじゃないですか、と友人は私を一瞥した。
「グンマ様とキンタロー様にですよ。私はあの方たちのサンタクロースなんですから」
「……」
うっとりと話した友人を冷たい目で見ると彼は別にいいでしょう、といってカップに口をつける。
プレゼントの横の写真立てを見て懐かしげに目を細めた高松に私はふとルーザー兄さんのことを思った。
兄さんが生きていたら私にしてくれたようにあの子たちにも贈り物をしていたんだろうか。
高松は兄さんの代わりをしている、だとかキンタローがクリスマスを迎えるのは初めてだとか、いろいろなことが頭の中に駆け巡った。
「……高松」
「コーヒーが冷めますよ」
さりげなく高松は目をそらした。
それから白衣へと手を入れて彼は煙草を取り出した。
「吸いますか?サービス」
いつもの人をくったような笑みではない、穏やかなものを口元に浮かべて彼は言った。
「ああ。もらうよ」
指を伸ばして一本掴み取り、火を分けてもらう。
吸い込むときつい苦味が喉に沁みた。
「高松」
いつものようにからかってやろうと声をかけると紫煙を吐き出していた彼が「なんですか?」と片眉を上げて応じた。
「あの子たちにプレゼントを買う金があるのなら私に4万円を返してくれてもいいんじゃないか?」
ふふ、と笑うと高松が目を見張る。
いつものように慌てて私を褒めて矛先をかわすのかと思ったら今日ばかりは違った。
「返してしまってもいいんですか?私に会う口実がなくなりますよ、サービス」
煙草の灰を落として友人がにやりと笑う。
思わぬ切り替えしに煙草から口を離す。すると高松はそんな私を、
「貴方のそんな顔を見るのは初めてですよ」
とからかいの滲んだ口調で言った。
「うるさいよ」
きっと睨んで煙草を吸い込むと友人がくつくつと笑う。
まったく。どうしてこの男はこんなに口が悪いんだか。
ジャンもハーレムも私には口で勝てないのに、とここにはいない同い年の二人を思い浮かべながら私は紫煙を吐いた。
苦い煙を高松に吹きかけてやっても旧知の友人は動じずに人の悪い笑みを浮かべるのみだった。 ■SSS.44「お願い」 コタロー出してよ、出してよ。
お願い。誰かぼくをここから出して!
何度そう叫んだのかぼくは分からない。
喉ががらがらですぐ近くにはぼくのために用意された食事とジュースとが置いてある。
ジュースはとっくにぬるくなっているし、チキンもすっかり冷めていた。
冷めたチキンを口に運ぶと今日はテーブルにもうひとつお皿があったのに気がついた。
ケーキ!ぼくの大好きな甘いケーキだ。イチゴが乗っている。真っ白なクリームがふわふわのっているケーキ!
ぼくのお誕生日、覚えてたのかな?パパ?ううん、パパはぼくのこと興味ないもん。
お兄ちゃん?ううん。お兄ちゃんは遠くの学校へ行ってるってパパが言ってた。
でもパパはくれないと思うし。やっぱりお兄ちゃんなの?
ドキドキしながらケーキのお皿を引き寄せる。
小さな丸いケーキの上にはプレートが乗っていたから。ぼくの位置からはちょうど裏側だった。
きっとお誕生日おめでとうって書いてある。
コタローって名前だって入ってる。だって、お兄ちゃんが前に買ってくれたのはそうだったもん。
このケーキ、ぼくにお兄ちゃんがプレゼントしてくれたのかな?
ワクワクしながらお皿を反対にすると白いチョコレートのプレートに赤い字が書かれている。
Merry Christmas!
ただそれだけ。
今日はクリスマスじゃないよ。それは明日だもん。今日はぼくの誕生日……ぼくの誕生日なのに。
チキンが刺さったフォークを投げつけるとからんと床に落ちた。
でも誰もぼくを叱らない。
ここには誰もいない。パパは帰っちゃったし、他の人間は誰も来ない。
もうやだ。ひとりはやだよ。
パパ、戻ってきて。いい子にするから。お願い、お願い、お願い……。
ぼくの前には誰も座っていない。
少し前にいた家ではお兄ちゃんがいた。ぼくにおいしいご飯を作ってくれたし、お菓子もくれた。
でも、今はいない。
毎日毎日、ぼくが呼んでもお兄ちゃんはここへは来ない。
ここに来ていたのはご飯を持ってくる人。でもその人もぼくが泣いたら壊れちゃった。だから今ではパパだけだ。
ぼくのご飯は眠っている間にいつの間にか用意されている。
ぼくはいつもご飯のまえに眠っちゃう。お兄ちゃんとはよくお昼寝をしていたからだと思う。
たまに知らないおにいちゃんの声がスピーカーで聞こえると扉が開く。
扉が開くのはそのときだけ。
ぼくのパパが来る、そのときだけ。
出してよ!パパ!
ひとりはいやだよ!パパ!
泣き喚いて、パパが持ってきてくれた新しいおもちゃに力をぶつけるとパパは冷たい目でぼくを見た。
駄目だよ。コタロー。
おまえはここから出てはいけない。
パパはそう言っていつも帰っていっちゃう。
いつもいつも。ぼくがどんなに頼んでも泣いても言うことを聞いてくれない。
お兄ちゃんはぼくの言うことを聞いてくれたのに。
りんごのお菓子が食べたいってねだったらすぐに用意してくれたのに。
遊んでっていったら木馬に乗せてくれたし、抱っこもしてくれた。
ぼくのお願いは全部聞いてくれたのにパパは違う。
パパはぼくのお願いをひとつも叶えてくれない。
きらいだ。パパなんか。大きらい。
パパなんかいなくていいのに。大きらいだ。きらいきらいきらい……。
パパなんてきらいだ。パパだけじゃないもん。お兄ちゃんもだ。ちっとも迎えに来てくれないお兄ちゃんもきらい。
お兄ちゃんもきらい。きらい。きらい。きらい。みんなきらい。
はぁはぁっ、と息を切らす。暗いテントの中でも僕の目が覚める。
喉が渇いて、なんだか口が重たい。
水を飲もう、と寝袋から出ると横で同じように眠っている叔父さんが寝返りを打った。
暗闇の中でもサービス叔父さんの髪はきらきらして見えた。
起こさないように、目を擦りながら静かに歩く。すると、
「コタロー?」
サービス叔父さんが僕に声をかけた。見ると、ぼんやりとした目で僕のほうを見つめている。
「お水が飲みたいから起きただけだよ」
「……そう」
サービス叔父さんは目を閉じた。
あまり音を立てないようにテントの中のリュックからペットボトルを取り出す。
かちっとキャップを回して、喉が鳴らないように気をつけて口に運ぶとぬるい水が流れ込んできた。
あんまり、おいしくないや。
冷やしてないから当たり前だよね、とため息をついて元に戻す。
まあ、いっか。すこしは口の中がさっぱりしたし。
ごそごそと寝袋に戻ると今度は叔父さんが起き上がった。
「叔父さん?」
「なんでもないよ。おやすみ」
ぽんぽんと頭を撫でられて僕の心がすーっと軽くなった。
もしかしてサービス叔父さん、僕が嫌な夢見たの分かってるの?
「ちゃんと寝ないと疲れは取れないよ、コタロー」
目を丸くして見上げていると、叔父さんがふふと笑って僕の額にキスを落としてくれた。
「眠れないのなら私が傍にいてあげるよ」
私が起きていたらサンタクロースは来ないだろうけどね、と叔父さんが笑いながら言う。
「ひとりで寝れるよ!それに、僕、サンタクロースはここに来れないんだから」
ぷーっと膨れると叔父さんはおやと目を見張る。
「どうして、ここには来れないのかい?」
どうしてってそんなの……。
「だってパプワ島で見たんだもん。夜、トイレに起きたら島のみんなにリキッドがプレゼント配ってたんだからね。サンタクロースはリキッドだったもん。ここには来れないよ」
「パプワ島ね……。それならコタロー、ガンマ団ではどうだった?」
サンタクロース来てただろう?と叔父さんが僕の髪を撫でる。
「……たしか朝起きたらプレゼントの傍に鼻血が落ちてたよ。あれはお兄ちゃんだよ。僕、悪い子だったし……」
そう言うと叔父さんは悲しそうな顔をした。
でも、本当だもん。昔の僕は悪い子だったからサンタさんは来なかった。
プレゼントがあったのはお兄ちゃんと暮らしてたときだけ。
悪い子の僕をお兄ちゃんがかわいそうに思ってくれたんだよ、きっと。
「今はいい子だよ。コタロー」
叔父さんが優しく僕の髪を撫でながら言った。
「ううん。今夜だって多分来ないよ。僕がいい子になったの、サンタさん知らないもん。
僕、ずっとパプワ島にいたんだから」
そうかな、と叔父さんは考え込むように言った。
「そうだよ。それに僕のサンタクロースはリキッドだから来ないでしょ。プレゼント2個貰っちゃうことになっちゃうもん」
「リキッドはおまえのプレゼントを用意しているの?」
「そんなの当たり前だよ。リキッドだもん」
パプワくんに会いに行ったらついでに貰うもん、と口を尖らせると叔父さんは笑った。
「それじゃあ、修行を早く終えないといけないな」
「……うん」
寝袋の端を握り締めると叔父さんが僕の頭を撫でる。
「明日の修行のためにはもう寝ないといけないよ。おやすみ」
「うん。おやすみ、サービス叔父さん」
おやすみ、を言うと叔父さんが目元をほころばせた。
目を閉じて、でもやっぱり気になってそっと瞼を開けるとサービス叔父さんが僕の顔を覗き込んでくれている。
ちゃんと寝るまで見てくれるの?
なんだか、くすぐったいや。
おやすみ、サービス叔父さん、と心の中でもう一度呟いて、僕は目を閉じる。
なんとなく今度はいい夢が見れるような気がした。
どうせならパプワくんやリキッド、島のみんなの夢がいいなあ。
リキッドはここには来れないけど、こっちの世界のサンタさんもそれくらいならお願い聞いてくれるよね?
お願い、サンタさん。今度は僕にいい夢見させてよ。■SSS.45「リップクリーム」 キンタロー×シンタローただいま、と軽いキスを額に落として、それから口唇へと移行する。
ちゅ、と軽く落とした額とは違って少し長めのキスで従兄弟を味わうとかすかにミントの香りがした。
「シンタロー」
「なんだよ?今、コーヒー淹れてやるから待ってろよな」
キスを終えて、俺がジャケットを脱いでいる間にキッチンへと移動していた従兄弟がカップを片手に返事をする。
ネクタイを緩めて、ソファで待っているとしばらくしてシンタローは二人分のカップを携えてきた。
「寝る前だからな。薄めに淹れたぞ」
ほら、とテーブルに従兄弟がカップを置く。俺の隣に座ると彼は早速コーヒーに口をつけた。
「シンタロー。もう歯を磨いたんじゃないのか?」
一口飲んでから、先程尋ねようと思ったことを切り出す。
砂糖が少しとはいえ入ったコーヒーなど飲んでいいものなのか。
いや、また歯を磨けばいいことだが、と首を傾げるとシンタローは目を見張った。
「夕飯の後には一応磨いたけど、俺、まだ風呂も入ってないぜ?」
寝る前に磨くつもりだ、と俺を見て従兄弟が答える。
言われてみれば従兄弟はまだパジャマを着ていなかった。
「そうか。そういえばそうだな」
夕食の後に磨いたといったからその残り香か、とコーヒーを飲みながら思う。
「何で急にそんなこと聞いてきたんだよ」
すると今度はシンタローが不思議そうな面持ちで俺に尋ねてきた。
「何で……って、さっきキスしたときになんとなくミントの香りがしたからだが」
ただ聞いてみただけだ、と従兄弟に答える。シンタローは俺の答えにミント?と考えこんだ。
「歯磨きのじゃないのか」
たしかすっきりするものを使っていただろう、と言うとシンタローはあ!と声を上げた。
「違う違う。今日、歯磨き粉切れててグンマの借りたんだよ。アイツのイチゴ味のヤツ。
おまえが言うミントみたいな香りってこれだぜ」
ごそごそとポケットを探るとシンタローは少し細めの小さな筒を見せてきた。
「リップクリーム?」
「ああ。メンソレータム配合ってなってるからこれだろ?たぶん」
さっき塗ったから、と言ってシンタローはリップクリームの蓋を開けた。
軽くひと塗りするなり、俺の口唇にちゅ、と軽く合わせる。
「な?これだろ」
ポケットへとリップクリームを戻しながらシンタローは笑った。
「ああ、これだ。この香りだな。シンタロー、おまえ口唇が荒れているのか」
口唇を合わせてみてもそんな感じはしなかった。
少しべたつく下唇に指を這わしてみてもささくれ立ったところはとりたててない。
「団内どこいっても暖房つけてて空気が乾燥しているだろ。ひび割れないうちに予防でしてるだけだぜ。
もう何日も前から塗ってるぞ」
意外と気づかなかったんだな、とカップの縁を弄りながらシンタローが言う。
「キンタロー、おまえも使うか?放っておいて口唇荒れたら痛いだろ」
研究室だって暖房はつけているわけだし、とシンタローが再び内ポケットを探り始める。
「いや。いい。もう寝る前だしな」
そういって俺は従兄弟の申し出を断った。
シンタローはふうんと気にも留めていない返事をするとソーサーにカップを置く。
俺が片付ける、と腰を上げるとシンタローは中腰になった俺の額へ少し背伸びをしてキスをする。
お礼のつもりなのか、と思わず頬が緩む。
風呂は沸かしておいたから一緒に入ろうな、と囁かれてカップを手にしたまま俺もシンタローにキスをした。
彼と違って、額ではなく口唇だったけれども。
口唇のむちっとした感触に俺はふと思い立った。
俺の口唇が荒れないのはもしかしてリップクリームを塗ったシンタローにキスをしているからか?
明日からは俺も塗ろう。
シンタローの口唇からみずみずしい潤いを奪わないようにしないと。■SSS.48「心臓」 キンタロー×シンタロー「俺はお前を好きなようだ」
思わず耳を疑った。
幻聴だとか、なんかの罰ゲームだとか思いつく限りのことは想像してみた。
だが、目の前の男のあまりにも真剣すぎる表情に笑い飛ばそうと思った気が萎えていく。
「あの……な、キンタロー」
エイプリルフールまでずいぶん時間があるぜ、と引きつった笑みを浮かべながら言うと従兄弟は眉を顰めた。
「何を言っているんだ、シンタロー。俺は本気だぞ」
いいか、もう一度言う。俺はお前のことが好きだ、などと真剣な表情で従兄弟は俺の肩に手をかけた。
「返事は今でなくてもいい。だが、俺は本気でお前のことを愛してるんだぞ」
寝ても覚めてもおまえのことしか考えられない。仕事も手につかないんだ。
シンタロー、おまえ以外の人間じゃこんな気持ちにならないんだ。俺はおまえが好きでたまらない」
親父じゃないんだ、下手な冗談はよしてくれと俺は言おうとした。だが、キンタローは、
「LIKEでなくLOVEでだ。従兄弟としてでなく、一人の男としてでだ」
と至極真面目な顔で言う。
退路を立たれて俺はぐっと詰まった。
だが、いくらなんでも……。
「おまえ、絶対勘違いしてるぞ!どうせ、ワケわからねえ心理学の本でも読んで影響されただけだ!
本を読んで得ただけの知識で物事を理解しようったって世の中そんなに甘くねぇぞ!
心臓がどきどきするから恋だとか四六時中相手のことが気になるから恋だとか、そんなもんは全部錯覚だ!!
どきどきするのは不整脈だ!親父じゃねえけど、少しおまえは疲れが溜まってるんだよ!
俺が気になるのは俺がひよっこ総帥だからだって!じゃなきゃ、アレだ。
ズボンのチャックが開いてたり、髪が長いのが鬱陶しくて視界に入ってきただけだ。な、そうだろ?
よく、考えてみろよ!!キンタロー!!」
一息に怒鳴るとキンタローは少し考え込んだ。
俺の肩に置いていた手が口元へと持っていかれ、考え込む姿勢を作っている。
爪の先まで調えられた長い指に一瞬見惚れているとキンタローがぼおっと突っ立っていた俺を己のほうへと引き寄せた。
「ッな!おいッ!!」
ぐいっと力任せに引き寄せられ、体のバランスが崩れかける。
支えるキンタローの腕にほっとしつつ、何をするんだと咎める視線を送ってみるとキンタローはすっと指先で俺の顎に手をかけた。
「……俺の心臓はどきどきしているだろう、シンタロー」
おまえはそうでもないようだが、と残念そうにキンタローは口唇を微かに上げた。
「おまえに触れるだけでこんなに心臓が早く動くんだ。錯覚じゃないだろう、シンタロー」
これは絶対に恋だ。おまえを愛している、とキンタローは俺の頬をやさしく撫でながら言った。
そんなわけない、と反論したかったが口が動くよりも先に俺の心臓がどくりと大きな音を立てた。←SSS Top
視界を横切った金色に思わずハーレムは駆け寄った。
焦り、足がもつれそうになるのを必死で押さえ込んで回り込むとそこにいたのは思い描いた人物ではない。
似ているが、脳裏に浮かんだ人の忘れ形見だった。
「ハーレム?」
何か用か、と眉を顰めた様子は兄のルーザーによく似ている。
今朝、食卓を囲んだときには長かった鬣のような金色の髪も丁寧にカットされていて、生前の兄を写し取ったかのようだった。
「あー、いや……髪切ったんだな」
何を言っていいのか分からなくてしどろもどろ口にすると、目の前の甥が微笑んだ。
うすい口唇を上げるその仕草がやはり兄によく似ている。
じろじろと見つめると口角になにか赤いものが付いているのが見えてハーレムは訝しげに思った。
「キンタロー、なんか口についてるぞ」
ここらへんに、と己の口元で指し示すとキンタローは不思議そうな顔をした。
「ついている?」
「ああ、なんか赤い。ジャム……じゃねえよな。なんだ」
赤い、とハーレムが言うなり、キンタローはああ、と納得したような顔をした。
「それは俺の血だ」
ごく普通にそういってキンタローが口元を手で拭う。
けれども言われたほうのハーレムは普通にはしていられなかった。
「おまえの?」
どういうことだ。殴られては、いねえようだし。いや、こいつがそうなら相手は……あのガキしかいねえよな。
本気で殺し合いをおっぱじめたにしちゃ爆発音は響いていねえし。
ガキの喧嘩か、とぐるぐると悩んでいるとキンタローは小首を傾げた。
「なにかおかしいか?ああ……まだとれていないのか」
言って、再び口元を拭うキンタローにハーレムは何も言葉が浮かばない。
幾度か拭って気が済んだのか、
「まだついているか?」
と言われてようやく我に返る。
「ん……ああ、取れたけどな」
けどな、とハーレムが言うとキンタローはまだ何かあるのかとでも言いたげな表情を浮かべた。
「殴られたわけじゃあねえよな?」
口の端が切れた様子も痣が出来た様子もない。
聞きたくねえけど、と恐る恐る疑問を呈したハーレムに甥は父親譲りの笑顔を浮かべた。
「殺してやろうと思って口を塞いでやったら抵抗されてな。
舌を噛まれた。噛み切られてはいないのに意外と血が出るもんだな。
それに、もう大分経つのにまだ舌の先がひりひりして……どうした?ハーレム?」
具合でも悪いのか、と覗き込む甥にハーレムはなんともいえない気分に陥った。
その殺し方は間違ってるだろうが、と思ったが兄譲りの容姿で訝しむ甥の姿を見るともう何も口には出せなかった。
火事を告げるアラートが鳴り止まない。
朝食の席で伯父が貴賓室で友好国の大統領と会談するとキンタローは聞いていた。
和やかな会談であるはずなのに、本部棟の静寂が打ち破られた。
その事実が何を示すのかはっきりしないまま、研究室で報告を受けるのを待たずにキンタローは現場へと急いだ。
足音を立てて、濛々と立つ煙の中を抜けると焦げ臭い臭いが鼻を突く。
マスクをした団員が消化剤を撒いているが、あまり緊迫した空気はない。
どちらかといえば、シンタローと伯父の親子喧嘩で棟が破壊されたときの後始末と同じような雰囲気だ。
アフロヘアーの秘書たちに状況を尋ねるとこの惨状を引き起こしたのが伯父本人だと言われる。
詳しい事情を聞いて、キンタローは眼魔砲を撃ったマジックよりも一番の原因であるハーレムとその部下たちを呪った。
友好国に裏切られたのか、暗殺かと一瞬でも考えてしまったことが厭わしい。
元凶の特戦部隊は遠征の準備に入っていると聞いて、その場は秘書たちに任せて滑走路へと赴く。
整備班が嫌そうな顔をしながら作業にあたるのを見て、キンタローはため息を吐いた。
飛行船のタラップを上がり、室内に入るとそこは4年前に訪れたときと同じ光景だった。
ところどころアルコール類のボトルが転がっているが、一応は片付いている。
めずらしい。掃除でもしたのか、と思いながらキンタローがハーレムを呼ぶと現れたのは彼の部下1人だけだった。
「ロッドか」
「……キンタロー様。何か御用で?」
垂れ気味の目元を殊更緩ませてロッドは聞いた。へらへらと笑う態度にむっとしたが、キンタローは口にはしなかった。
「叔父貴はどうした?貴賓室のことで話がある」
貴賓室とキンタローが口にするとロッドが盛大に笑う。
「マジック様にお仕置きされてるとこじゃないすかね。他のメンバーは寝てますよ。
戦地に行くってのに、俺だけ寝ずの番で……ああ、それは隊長から言いつけられた罰のひとつですけどね。
ま、日が差してるってのにそう寝られるわけじゃないですけど」
御用があるのなら、総帥室へ行かれたらどうですか、とロッドが笑う。
「ハーレムの処遇をマジック伯父貴が決めてるのなら俺が行くには及ばないだろう。
一言俺からも忠告しようと思っていたがな。おまえたちもあまり叔父貴の悪ふざけに付き合わないことだ」
おまえのミスが原因だそうだな、と貴賓室の方向を顎でしゃくってキンタローはロッドを見据えた。
「ミス……ねえ。それが故意だったらどうします、キンタロー様」
ロッドはジャケットの内側から数枚の写真を取り出した。
黒いレザーのジャケットは特戦部隊だけの制服だ。
一時期これを着ていたな、と少し懐かしく思う心を打ち消してキンタローは写真を受け取る。
「なかなかよく写ってるでしょ?俺が撮ったんですよ」
隊長に命令されてね、と笑う彼が寄越した写真は新しい番人のあられもない姿を写し取っている。
「かわいい息子さんのこんな姿見ちゃったら坊やの復帰は難しいですよね」
可愛い息子さんを持つ親に俺からのやさしい忠告ですよ。
でも、まさか坊やのパパがアメリカ大統領とはね、とロッドは大仰に肩を竦める。
「俺はね、キンタロー様。坊やには幸せな人生を歩んで欲しいわけ。
でも、獅子舞の傍じゃあそうはいかない。だから坊やのパパに写真を披露しただけのことですよ」
隊長のことは尊敬してますけどね、とロッドは写真をキンタローから取り上げながら付け加えた。
「……ロッド」
「リキッド坊やじゃなかったら俺も反対しないっすけどね。
まあ、さっきの坊やのパパの様子じゃ金輪際、獅子舞は近づけられなくなるでしょうけど」
そう思いませんか、と垂れた目を片方閉じてロッドはウィンクした。
その仕草が癇に障ってキンタローはロッドの胸元を掴みあげた。
しばらく視線を交えたまま、キンタローはロッドの胸元を掴んでいたが手を出さずに離した。
今はそんなことをしている場合じゃない。一刻も早く、シンタローを救出しないと。
そう思ってキンタローは踵を返そうとした。だが。
「キンタロー様」
ロッドに呼び止められ、キンタローは振り返る。
にやついていたはずのイタリア人がすっと真剣みを帯びた表情でいるのを見てキンタローは一瞬緊張した。
殺気ではない張り詰めた空気が2人の間を漂う。
「俺たち、特戦が帰還してるのは不思議じゃないですか?」
「……?」
何を言っているとキンタローが怪訝に思うとロッドは続きを口にした。
「本部を盗聴するのはわけないんですよ。
団員はみんな遠征か、あの島へ行く装置を開発するのにかかりきりですからね」
壬生のやつらが紛れ込んでたら情報は駄々漏れですね、とロッドに言われてキンタローは言葉に詰まった。
「新総帥を助けたい気持ちは分かりますけど周りを見たらどうですか?」
「……ロッド」
「そこまで送りますよ」
タラップにいたるドアを開けてロッドは表情を緩めた。
真剣味はもうない。いつもの緩んだ表情だ。
近づき、ロッドはキンタローの耳に口唇を寄せた。
「新総帥とあんたの関係ばらすよりよかったでしょ?」
マジック様にばらしたら坊やの騒ぎどころじゃない。
現状を忠告してやったのを感謝してくださいよ、と揶揄いまじりに口にされてキンタローはなんとも言えない気分になった。
タラップを降りれば、煙が空へと流れていくのが見える。
自分と従兄弟の関係がどこまで漏れているのか考えて、キンタローは首を振った。
そんなことは後でもいい。伯父にばれてからでも、シンタローが帰ってからでも。
むしろ後に出来ないのは……。
装置の開発も大事だが、それよりとりあえず団内を統制しないと、とこれからのことを思ってキンタローは嘆息した。
aromatic」 キンタロー×シンタロー軽くタオルドライをしたものの髪はまだ水気を持っている。
パジャマの上からタオルを引っ掛けた状態でとりあえず水分補給をしようと向かったキッチンから水音が聞こえた。
「誰かいんのか?」
ドアを開ける前に呼びかける。いるのが父親だとすると髪を乾かしきっていないことを小うるさく咎められる。
がしがしと拭き取りながら俺は「おーい」と叫んだ。できれば俺が強い態度を取れるグンマであって欲しい。
けれども水音が邪魔をして相手に聞こえなかった。
「親父~ぃ?」
グンマだといいな、と思いつつ室内に踏み入れると短めの金髪が見えた。
髪の長さは父親と同じくらいだけれども微妙に違う。金色だけれども父よりは色合いがうすく、それに空色のスーツを着ていた。
父親はイイ年をして未だにピンク色のジャケットを羽織る男だけれども、この色は着ない。
シンクの前に立っていたのはもう一人の従兄弟、キンタローだった。
「なんだ、おまえか」
タオルから手を離して呟くと背を向けていたキンタローが蛇口を止める。
平たい皿を拭きながら、キンタローは俺に向かって「シンタローか」と言った。
「ナニ?おまえ今メシ食ったのかよ」
「ああ」
夕食の席に着いたときに確かグンマからキンタローは研究室にこもっていると聞いていた。
こんな時間まで、と咎めるような視線を送ると仕方がないだろうとばかりに肩を竦められる。
「今日中に片づけたいことがあったんだ」
そう言いながらキンタローは食器棚に皿を仕舞う。それから、彼は横にある冷蔵庫を開けた。
「これでいいのか?」
炭酸水のボトルを掲げられて俺は頷いた。
「ああ。風呂入ってノド渇いちまったからな」
相変わらず従兄弟は自分のことは何でも分かるらしい。
礼を言いつつ、受け取るとキンタローはパタンと冷蔵庫のドアを閉めた。
「なんだよ?」
キッチンの電気は俺が消すぜ、とスーツのジャケットを着たままでいるキンタローに俺は言った。
ボトルの蓋がきゅぽんと小気味のいい音を立てて、それから炭酸の泡が浮き上がる小さな音が耳に入ってくる。
しゅわっと立った音を楽しみつつ、口をつけると口腔へと気持ちのよい冷たさが満たされた。
寒くなってきたけれども、やはり風呂上りには冷たいもののほうが美味い。
「キンタロー?」
いいんだぜ、とボトルから口を離して部屋に引き上げるよう促す。
だが、彼は俺に従うのではなく違う言葉を口にした。
「何のにおいだ?」
「はあ?」
キンタローは俺に近づいて、ボトルを手にする俺の手首を掴んだ。
「なッ!おい、ちょっと待て!零れるだろッ」
なんなんだよ、とボトルに慌てて蓋をする。
キンタローはといえば、身を屈めて俺の手に鼻を寄せていた。掠めるように吹きかかる息がくすぐったく、変な気分になる。
「レモン……?いや違うな」
石鹸を変えたのか、それともバスオイルかなどとキンタローは考え込みながら呟く。
「レモンって……ああ、分かった。このにおいいは柚子だぜ。冬至だろ」
風呂に柚子を浮かべたんだよ、と掴まれた手を払って説明してやるとキンタローは納得したような顔をした。
「そうだったな。おまえは昔から日本式で過ごすのが習慣だった」
日本支部で暮らしてたからか、とうんうんと頷く従兄弟に俺はそうかもなと投げやりな返事を返す。
「柚子湯に入りてえんなら、まだ何個か冷蔵庫にあるぞ」
キッチンペーパーに包めば掃除も楽だ、と教えてやるとキンタローはそうなのかと感嘆したように言った。
それから俺は炭酸水の残りを飲み干しながらキンタローに柚子の包み方をレクチャーしてやった。
適当にすればいいのに真剣な顔で柚子を包むキンタローの表情は見ていてなんだかくすぐったい気がする。
そのうちコタローが起きたときにはこうやって冬至の日を過ごすのかな。
そんなことを思い描いていると2個目の柚子に切れ込みを入れたキンタローが不意に問いを発した。
「伯父貴とグンマは使わなかったのか?」
何でこんなに買っておいたんだ、と不思議そうに聞く。
「残りは明日柚子釜にする……ああ、親父とグンマ?あいつらはやらねえよ」
「柚子釜、か」
「そ。たまには手の込んだもん作ってみたいし。
親父とグンマはバラとかバニラとか甘ったるいもんがすきだろ。柚子はミカンの入浴剤とかよりにおいがキツイからな。
いい柚子だと次の日まで体に香りが染み付いてるし」
だから柚子湯に入るのは俺とおまえだけ、とキンタローが包丁を洗い終わったらボトルを軽く水洗いしようと思いながら答える。
キンタローのほうも俺の行動が分かっていて、洗い終わっても蛇口は閉めなかった。
「そこ閉じたら出来上がりだからな」
ちゃぷちゃぷとボトルを揺すりながら水で洗う。
するとキンタローはできたぞと袋仕立てにしたキッチンペーパー俺に見せながら口を開いた。
「これで今日は俺も柚子湯だ。……そうすると俺とおまえだけが明日同じにおいなんだな」
キンタローの言葉は思いついたまま口にしたものでとくに含むような響きはない。
だから、普通に相槌を打てば言いだけのことなのにそうだな、と答えた俺の声は思いもかけず上ずった。
「シンタロー、それは」
「え、ああ?」
柚子の入った袋を手にしたキンタローが怪訝そうに俺を見る。
「いつまで洗ってるんだ……捨てるぞ」
変なヤツだな、と言いながらキンタローが俺の手からボトルを取り上げる。
一瞬だけ触れた指先が不意に先ほど手首を掴まれたときに感じた呼気を思い出させ、冷めたはずの肌が風呂上がりのように火照り始める。
(ちくしょう。これから寝るのに考えちまうじゃねえかよ)
この後、キンタローの肌が自分と同じ香りがするのだ、と意識して俺はどうしようもなくどきどきした。
誤魔化すようにかき上げた髪の先からも柚子の香りがして、どうしていいのか分からない。■SSS.60「可愛くない」 キンタロー×シンタロー渡された紙は5枚もあって俺はうんざりした。
ターゲットの部隊に潜入するくらい士官学校生の時分からもう何度もやってるのだ。
それでも生真面目にペンを持ってチェックしようとするキンタローには逆らえず、俺はしぶしぶテストを受けるはめになる。
5枚にわたってびっしりと潜入組織のデータやら俺の偽名での設定、この場合はどういう行動をとるべきか、などといった問題が印刷されている。
とっとと終わらせてコタローの顔でも見に行こうと俺は1問目に目を走らせた。
*
「その発音は綺麗過ぎる」
俺だって口に出してから気づいたんだ。
もっと乱暴にクチを聞けって言うんだろ。分かってるっつうの。さっきまで出来てたんだからな。
ちょっと間違っただけじゃねえか、うるせえな。
「俺は指摘をしたまでだ。ボロを出して捕まりたくなかったら気をつけろ」
現地の発音に近づけろ、と笑みを浮かべながらキンタローは俺を見た。
くそっ。むかつくヤローだぜ。
だいたいなんでコイツが監督するんだよ。
他にもいるだろ、他にも。
「そこの発音は正しくはこうするべきだ……分かったか?シンタロー」
ちくしょう!その口、止めろ。自分が優位だからって笑いやがって!!
あーホントむかつくヤツだ!本当になんでコイツなんだよ!!
「……手の開いてるのが俺で残念だったな」
次の問題はまだか、とキンタローはチェック表にバツをつけながら俺を見る。
やってやろうじゃねえか。
「――で、どうだよ?合ってるか?」
間違っていないはずだ。めちゃくちゃ自信がある。ほら、とっとと言えよな。
睨みつけるとキンタローは息を吐いて、
「……正解だ。次もそうだといいな、シンタロー」
と言った。
いちいち気に障るやつだぜ。
まあいい。とっとと終わらせるか。コタローが待ってるんだ。俺の可愛い弟のコタローが。
「顔が緩んでるぞ、シンタロー。コタローのことは後で考えろ」
……うるさい。なんでもかんでも俺のこと分かりやがって。
24年間観察してたからって言われりゃおしまいだけどな、いちいち指摘すんじゃねえよ!
コタローと違って可愛げのないヤツだぜ。
「コタローのことは後にしろ」
次も間違えるつもりなんだな、と笑われて俺は本気で腹が立った。
ああ、ホントうるせえヤツだな!可愛くねえ!
「間違える気なんてねえよ。ほら、次だ。次」
チェックしろと言ってキンタローを睨むと笑った。
「――どうだよ?合ってるだろ。完璧な発音だし、これ以上ない答えだと思うぜ」
正解だという自信はさっきよりある。
得意気にキンタローに宣言すると従兄弟はふっと口元を緩めた。
さっきまでの俺の失敗を指摘するような笑い方とは違う。どちらかといえばやわらかい印象の笑みだ。
「……おまえのそういう、俺に対してむきになるところは可愛いな」
ああ、それは正解だ、と付け加えてキンタローは俺を見た。
次はどうなんだ、と問いかけるキンタローに俺はぐっと詰まる。
慌てて紙を1枚捲ると笑い声を噛み殺す気配が伝わってきて、俺は照れくさいと同時に苛立ちも感じた。
むかつく。ほんとむかつく。
なんでそういうこと言い出すんだよ。
「次は……ちょっと待ってろ」
集中しろ、集中。これが終わったら、コタロー。コタロー。コタロー。
「シンタロー、次はどうした。コタローの病室へ行きたいんだろう?」
そうだよ、今すぐ行きてえよ!
ああ、ホントむかつく。とりあえず、笑うのはやめろ。俺の心ん中も読むなよな!
それから、キンタロー。おまえってホント、可愛くない。
賭け事」 キンタロー+シンタロー叔父上がお喜びでしたので、とこの国の人間は俺とシンタローを競馬場へと案内して来た。
叔父であるハーレムがガンマ団から離脱してもう数ヶ月余り経つ。
この国はかつて叔父にクーデターを依頼したこともあって有事のたびに本部を介してではなく叔父の部隊に直接依頼していたらしい。
ハーレムの影響下にある国はほかにもいくつかあるようだったが、これは見過ごせない事態だった。
叔父は団からリタイアして悠々自適の生活を送っている、と俺とシンタローはこの国の役人に言った。
以降の依頼は本部で引き継ぐので、と求めたがすでに叔父の方で手回しがしてあったようだ。
ガンマ団を抜けるに当たって用意周到に準備をするのはよく考えれば当たり前だろう。
飛行戦の燃料の補給、食料を行く先々で略奪すればどこからか本部かあるいは敵対組織に依頼が入る。
好戦的な叔父とその部下の性質から考えれば向かってくる敵も大歓迎だろうが、それでは苦労する割合が高くなる。
名の知れた特戦部隊に歯向かうヤツはそうはいないとはいえ、後々の禍根や毒物の混入などのリスクを考えれば縁のある国で出稼ぎした方が楽だ。
この国の要人たちは誰もが曖昧な笑みを浮べるだけで俺とシンタローの要求に回答を出さなかった。
有耶無耶に誤魔化して、俺たちが帰国したらとりあえずハーレムに指示を仰ぐつもりなのかもしれない。
繊維工場の視察も申し入れた俺たちは回答は三日後でよいと告げた。
彼らは一様に微笑を浮べながら頷くとそのうちの1人が俺たちを競馬場に案内してきたのだ。
視察を頼んだ繊維工場ではなくて。
工場どころかたいていこういうときに案内される公共機関ではなく競馬場に連れてこられたことにシンタローは最初、腹を立てていた。
「そりゃあ、この国のレースは観光資源だし、王族も来るから変じゃねえけどよ」
と従兄弟は俺に囁く。俺もシンタローの言いたいことは分かる。
この国の人間は日程を調整する時間を作るためと少しでも俺たちの機嫌が良くなるよう接待のつもりでここへ連れてきたのだろう。
けれど、「叔父上がお喜び」はない。
あのアル中でギャンブル狂いのハーレムと一緒くたにされるとは……。
「ハーレムと一緒にされてもな」
肩を竦めてみせるとシンタローは俺に「まったくだ」とため息を吐いた。
ブザーが鳴り、馬たちが位置に着く。きっとハーレムはこの状態からも大騒ぎしていただろう。
それに金も賭けていたはずだ。部下の小遣いも巻き上げて大分注ぎ込んでいたに違いない。
一斉にスタートする馬はVIP席からだと小さく見える。
シンタローははじめから用意されていたオペラグラスを手にした。
なんだかんだ言って彼も興味があるらしい。手を握りしめて芝を駆ける馬に熱中し始めたシンタローに俺は心の中で「似たもの同士じゃないか」と思った。
ハーレムが離脱したのは他国にも知れている通り、新総帥であるシンタローとの確執が原因だ。
確執と言っても戦闘におけるスタンスの違いから生じた口喧嘩の応酬で伯父貴が出て行ったというのが正しいかもしれない。
アイツの邪魔をしてやる、とシンタローはさっきまで意気込んでいた。けれども。
「よっしゃあ!行け!まくれ!まくれ!抜いちまえ!」
従兄弟の頭の中はハーレムの顔がすっぱりと消え去っているらしい。
他の客はいないから興奮したシンタローが多少騒いだところで恥をかく心配はない。しかし……。
「あー!ちくしょう!馬券買えばよかったぜ!」
黒毛の馬がゴールするなりシンタローは髪を掻き毟った。
どうやら目をつけていた馬が1着のようだ。VIP席にいる俺たちに飲み物を給仕した後も控えていた係員をシンタローが手招きする。
「なあ、次のレースあの茶色いヤツに賭けたいんだけどさ」
金ならあるけどどうすりゃいいんだよ、と生真面目に係員に尋ねるシンタローに俺はため息を吐いた。
……きっとこの国の人間は青の一族は競馬が好きだと思うだろう。
*
オペラグラスを片手にしたシンタローが片手に握っていた馬券を放り投げる。
外れたことに悔しがるシンタローに俺は散らばった馬券を拾い集めてから渡した。
「外れたからといって放り捨てるのは止めろ」
ハーレムと同じで行儀が悪い、と俺が忠告するとシンタローは眉を顰めた。
「ついやっちまっただけだ」
ちゃんと拾うつもりだった、と弁解するシンタローは本部の家でマジックに「吸殻と空になったお酒は片づけなさい」と怒られたときのハーレムと同じ表情だった。
「それに賭け事は叔父貴と同じで向いていないようだな」
ハーレムの横領した金のほとんどがなんとかホイミという馬に注ぎ込んだ裏づけがあったな、と俺は従兄弟に言った。
「……ツいてなかっただけだ!」
おまえだってやってみりゃ当たるのが難しいの分かるぜ。そりゃハーレムは行き過ぎだけどな、とシンタローは口を尖らせる。
「俺は別に団の金まで賭ける気はねえよ。ただゲームをおもしろくするスパイスみたいなもんだろ」
せっかくここへ案内されたのに昼寝を決め込むわけにもいかねえし、とシンタローが言う。
「何も賭けなくても」
いいだろう、大人しく見ていればと俺が言い返そうとするとシンタローが遮った。
「賭けでもしねえと馬が走ってるの何回も見たってつまらねえだけだろ」
あんまりうるさく言うなって、とシンタローは言った。
「おまえだってあと2回もレースを見れば退屈になるぜ」
にやっとシンタローは笑った。
だが、そういわれても俺は賭ける気にはならない。プライベートで来たならともかく来賓なんだから大人しくするべきじゃないのか、とシンタローに言うと従兄弟は「つまんねえヤツ」と鼻を鳴らした。
「……馬に賭ける気はないが」
「なんだよ」
「おまえがあと3回とも予想を外すのは賭けてもいい」
認めたがらないだろうがこの従兄弟はハーレムに似ている。きっと外す。ビギナーズラックなんて言葉も無縁に決まっている。
いやビギナーズラックは金の賭けていない最初のレースだっただろう。きっと。
俺の言葉にシンタローは立ち上がり「言ったな!」と人差し指を突きつけてきた。
「俺が当てたら吠え面かくんじゃねえぞ!」
「それはおまえの方だ」
「俺が勝ったら親父がファンに貰ったとかいう勝負パンツを履いてもらうからな!」
高松の鼻血で溺れてもらうぜ!とシンタローが背を逸らす。
「そっちがその気なら俺は……」
そうだな、と考えて俺はマジック伯父が片時も離さないシンタロー人形の存在を思い出した。
「マジック伯父貴の人形をリビングで作ってもらおう」
見られた瞬間、伯父貴の熱い抱擁が待ってるぞ、と俺が言うとシンタローは「やったろうじゃねえか」と乱暴に椅子に座りなおす。
次のレースを賭けようと係員を呼んだ従兄弟に俺はどうせ外れる、とほくそ笑んだ。
シンタローとハーレムはよく似ている。
いくら馬に注ぎ込んだところで……当たるわけがない。■SSS.67「Chupa Chups 」 キンタロー×シンタローコーヒーを淹れ替え、席に戻ってくると隣でレポートを書いていた従兄弟がにこにことバッグに手を入れているところだった。
ガンマ団のエンブレムが付いたスポーティなバッグは見かけとは違って中身はジムに行くための運動着でもなく、色とりどりな菓子がいつも入っていた。軽い休憩や食事の時間になると従兄弟のグンマはそこから気に入りの菓子を取り出す。
「今日は何だ?」
カップをデスクに置くとグンマは俺を見上げた。
今日はね、と笑顔を浮かべて従兄弟は選んだ菓子を見せびらかすように上へと向けた。
白い短い棒に丸い玉。形状からキャディの類だと見て取れる。
「……ずいぶんカラフルな包装だ」
キャンディのヘッドは花形をくりぬいたような形を黄色で塗りつぶされている。下の方は紺色だ。赤いラインがうねうねと走っている。
思わずそんな感想を呟くとグンマは「きれいでしょ」と笑った。
「これはグレープ味で、こっちはプリン!グレープは今日初めて食べるんだ~」
「そうか」
それは楽しみだな、と答えるとグンマは頷いた。
「キンちゃんにもあげようか?コーヒー味はないけどね、キャラメルならあるよ」
「キャラメル?いや……」
「ミルクより甘くはないけど」
首を傾げるとグンマはバッグを漁りはじめた。俺はあわてて断ろうとグンマの手を引く。
「グンマ。俺は……」
別にいらないんだが、と断る前にグンマは目当てのキャンディを見つけ出してしまった。
「はい、これあげるね」
「……ああ」
すっごくおいしいよ。ハマる味だから、とにっこり笑うグンマに退路を立たれて俺はキャンディを受け取った。
いらないと断るのは簡単だけれどもグンマがむくれるのは面倒だ。
もう一人の従兄弟にでもやろう、と思いながら俺は席に着く。グンマはカラフルな包み紙を外してキャンディを口に入れた。
今日初めて食べるというグレープ味のキャンディ。
「うまいか?」
なんとなく感想を聞くとグンマは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!すっごい幸せな気分だよ~」
甘くておいしい、とグンマはふわふわと夢見るような顔で答えた。
キンちゃんも食べたら、と微笑まれて俺は「……後で」と返事するに留めた。咎められないうちにキャンディをそそくさと上着のポケットへと仕舞いこんだ。
机の上には淹れたてのコーヒーがある。それに。
グンマの持っている菓子はたいてい歯の浮くような甘さのものばかりだから性質が悪い。
*
日が沈むのがだんだん遅くなってきた気がする。
研究室から総帥室へと移動するとき窓の外を見て俺はそう思った。夏が近づいている。
今年もシンタローはあの島での夏を思い出すんだろうか。
そんなことを考えながら俺はドアをノックした。
「入れ」
ノブを回すといつも控えている秘書たちがいなかった。
デスクワークに勤しむ従兄弟は口にペンを咥え、頬杖を付いていた。
「行儀が悪いぞ、シンタロー」
従兄弟の口からペンを取り上げると彼はうるせえなあという表情を浮かべた。
「ちょっと煮詰まってるんだよ」
きしっと椅子の背をしならせてシンタローは伸びをした。背もたれがぐっと角度を広げている。
伸びをするのをやめてシンタローの体勢が元に戻ると椅子はまた軋んだ音を立てた。
「コーヒーでも淹れるか」
立ち上がり、シンタローは読んでいた書類をばさっとひとつに重ねた。
「俺がやる」
「来たばっかだろ。いいって」
座ってろと、シンタローは俺にソファを勧めた。
「いや。だが、おまえは休憩した方がいいだろう。俺が」
「いいって」
ひらひらと手を振りながらシンタローは俺の横をすり抜けようとした。
すっと給湯室まで行くのか、と思っていたがシンタローが不意に足を止めた。
「なんだ?」
「いや……それなんだよ?」
車のキーじゃねえよな、結構膨らんでるし、とシンタローは呟いた。
「膨らんでる?」
「ああ、ほら。それだよ。ジャケットの。何入れてるんだ?」
実験器具なら戻しとかねえといけねえんじゃねえの、とシンタローは指差した。
「ジャケット……ああ、これか」
ほら、と俺はポケットから取り出したものをシンタローに渡した。グンマから貰ったキャラメル味のキャンディだ。
「これ、グンマのヤツか?」
「ああ」
「懐かしいな」
甘いんだよな、これ、としげしげと黄色いパッケージをシンタローは覗き込んだ。
「おまえにやろうと思って」
「俺に?おまえ舐めねえの?」
「ああ」
ほら、とシンタローの手の中に俺はキャンディを渡した。
「それでも舐めて待っていろ。コーヒーは俺が淹れてくる」
俺の言葉にシンタローは頷くとソファへと足を引き返した。歩きながら従兄弟の指はパッケージをはがすのに苦心していた。
カップを2つ抱えて戻ってくるとシンタローはソファから慌てて足を下ろした。
寝そべってキャンディを舐めているとはこれもまた行儀が悪い。
ため息を吐きたくなったが、俺は大目に見ることにした。
「時間かかったな」
「ああ。新しい豆を探すのに苦労した」
誰か場所を移動させていた、と答えながら俺はテーブルにトレイを置く。
「キャンディはどうだ?うまいか」
白い棒を咥えたままのシンタローに尋ねると彼は「まあ。普通だな」と答える。
顔を顰めないところを見るとどうやら糖度は一般的なものらしい。グンマの気に入る菓子にしてはめずらしいことだ。
「それとは違う味だが、グンマは幸せな気分だといっていた」
「ふ~ん。幸せな気分ねえ」
アイツらしいぜ、とシンタローは肩を竦める。シンタローの横に座りながら俺は従兄弟のそんな仕草に笑った。
「おまえにも幸せをお裾分けしてやろうか?」
にやっと笑うシンタローの言葉に俺は首を傾げた。
「どうやって?」
「こうやってだよ」
笑いながらシンタローがキャンディをがじっと音を立てて噛み砕く。
「ほら」
腰を浮かせたシンタローは俺に口唇を合わせてきた。
何の行動を取るまもなくするりと砂糖で漬けたような舌が侵入してきた。
僅かなかけらが舌の上に乗せられるとシンタローは体を離した。それから口から離していた棒を従兄弟は咥えなおした。
白い棒には噛み砕かれた後のキャンディの残骸がまだある。
「どうだよ?幸せか」
にやっと笑ったシンタローに俺は口中の甘いかけらを舌で転がしながら眉を顰めた。
「……甘い」
俺の言葉にシンタローはキャンディを離して笑った。■SSS.68「前言撤回」 キンタロー×シンタローああ、なんでこうなってんだっけ、と俺は考えた。いつのまにか2人の間が縮まっている。
ゆっくりと顎の輪郭をなぞる指の感触に気をやりつつ、思い出してみたが「夕飯何する?」と聞いた後に二言三言会話しただけで取り立てて思い当たる節はない。
顎をなぞっていた指が耳の後ろへと這わされて、髪が引っ張られる。痛くはないけれど少しだけ引き攣れた感触に俺は目を閉じた。
青い目がゆっくり近づく。キスされる。
(なんでコイツそんな気になったんだ……?)
分かんねえ、と歯列に感じたくすぐったさに伏せていた目を明けると端の方でちらりとしたひかりがあった。
キスを受け止めながらひかりの先に目を凝らす。
その行動を助けるわけではないだろうけれど、キンタローは俺の口腔から撤退した。
口唇に与えられたものとは違う、触れるか触れないか分からないほど軽いキスを目元にされて、俺はため息を吐いた。
ひかりの正体は鏡だ。
亡き叔父、ルーザーの部屋には大きな姿見がある。なぜだかキンタローはそれを気に入っていた。
「……メシどうするか聞きに来ただけだぜ」
「ああ、そうだったな。で、どうする?」
キンタローは帯びれずにそう返してきた。たまには俺が作ってもいい、と話すキンタローに俺は内心、「そうじゃなくてなんで急にキスしてきたんだよ」と再び思う。
唐突過ぎてワケが分からない。煽るようなこともなにも言っていない。
(……コイツってホント分かんねえよ)
2人きりの密室だからいいものの出入りの激しい総帥室だったらと考えるとぞっとする。
そんな無防備なことをするわけないが、それでも衝動的にされるキスは心臓に悪い。
この部屋だってグンマや父がいつ訪ねてくるかわかったもんじゃない。
(バレたらどうすんだ。バレたら)
ああ、ちくしょうと髪をかきながら、それでも惚れた弱みで咎めることはせずに俺は壁に寄りかかった。
ひやっとした感触が背に伝わる。俺の部屋ともキンタローの部屋とも違う温度だ。
この部屋は何故だか他のどこよりも温度が低い。
背に伝わった感触から俺は随分前のことを思い出した。
帰ってきたばかりの頃、この壁に押し付けられて殺してやるといわれたことを……。
「なあ、そういえばさ」
なんとなく思いついたことを俺は聞いてみることにした。
「おまえってこの部屋で俺のこと殺すって言ってたよな」
痛いくらい壁に押し付けやがって、と笑いながら言うとキンタローはわずかに目を見張った。
それから数年前のことを思い出してああと頷いた。
「お前を……引き裂いて殺してやりたかった」
「で、今はどうなんだよ」
意地の悪い質問だなと思いながら俺は尋ねてみた。どう答えてくるのか興味がある。
歯の浮くような科白は勘弁してもらいたいけど。
「今……?」
「ああ」
なんて答えるつもりだよ、と俺はキンタローをじっと見た。
「そうだな。殺したいとは思わないが、お前の服を引き裂いてやりたいときはある」
「……」
前言撤回。歯の浮くような科白の方がマシだ。■SSS.70「心臓に悪い」 キンタロー×シンタロー総帥を継いだシンタローが激務の毎日を送るようになったのは当然だったが、引退したとはいえ、父であるマジックももそれなりに忙しい日を送っていた。
マジックが多忙である理由はおよそシンタローの理解の範囲を超えたファンクラブのための活動であったが、たいていは日帰りのもので今日のようにわざわざ泊りがけて他国へと行くのはめずらしかった。
いつもなら分担して行う夕食の準備も残った家族は食器を出すだとか洗い物をするくらいしか期待が出来ないので、シンタローは早くから台所に立った。残った家族、グンマは家事を高松に任せきりの生活をしていたし、キンタローは料理どころかに日常の雑事すべてがやることなすこと初めての男だ。はっきり言って期待以前の問題である。ところが。
(コイツも家事にハマるタイプだったのかよ)
シンタローの横では今、キンタローが真剣な面持ちで小鯵を開きにしている。
手伝ってやる、と尊大に言われたときシンタローはこいつの面倒も見なきゃいけねえなんてかったりぃなあと思った。
グンマと手分けして食器を出してくれれば、後は大人しく席に着いて待っていてほしいとも思った。
包丁を持つのも初めてだ、と感想を持つだろう男にいちいちレクチャーしてまで手伝ってもらうのは気が進まない。
だが、シンタローの意に反してキンタローは料理でも器用なところを見せた。
おまえがいつもやっているやつだろう、とみじん切りも教えることなくできたし、飾り切りだって手馴れたように作って見せた。
見れば分かる、と得意そうに胸を張る従兄弟のおかげで父親と分担しているときと同じスピードで調理が進むのはよかったけれども。
でも。
(なんつーか話しかけても答えてくれねえしなあ)
今ちょっと取り込んでいるんだ、と研究室に訪ねてみたときと同じ口調でキンタローはすっぱりとシンタローの口にしたくだらない話を一蹴した。集中しているキンタローにそれ以上何を言うことも出来ず、シンタローはコンソメジュレに取り掛かった。
粗熱をとって冷蔵庫にボウルを入れてからふとキンタローを見るとやはり彼は口を引き結んで魚に包丁を入れていた。
バットの上に並べられた小鯵は丁寧に小骨も取り除かれている。
今捌いているもので終わりか、と空になったトレイをシンタローは確認した。やっぱり手際がいい。
まあ、これなら明日も手伝わせて平気だな、とシンタローは思った。
従兄弟に対して過保護な高松を夕食に招待してやるのもいいかもしれない。
そう考えつつ、キンタローを見やると彼は手を動かしつつも前髪が目にかかっているのをうざったそうに目を細めていた。
(払ってやるかな)
一瞬そう考えたが、刃物を持っているときは危ない。それにここまで丁寧に仕事が出来ているのだから放っておいても平気だろう。
長い髪ならシンタローのように後ろでくくることも出来たが、生憎とキンタローは髪が短い。
ああいうのくすぐったいんだよな。痒いような、なんつーか、とシンタローはキンタローの前髪を見ながら思った。
金色の髪が動くたびにさらさらと鼻先にかかる。伏せ気味の目は時折少し開いて青い色を髪の隙間から見せていた。
引き結んでいる口は怒っているときと違って口角が上がっていない。
じっと観察しているとキンタローが手の甲で汗を拭った。
額があらわになるとともに目元がばっちりと見えた。
細めていない目の青い玉が視界に入ってきてシンタローは見惚れた。
(やっぱきれいだよな、コイツの目)
父親もグンマも他の親族も自分とは違う青い目を持っている。
皆、微妙に違った色合いの青だがシンタローは従兄弟のものが一番きれいだと感じた。
子どもの頃とは違って自分の黒い目が嫌だとか青い目になりたいなどとは思わずに、単純に見惚れてしまった。
(親父より薄いかな……)
亡くなったルーザー叔父さんと同じ色なんだよな、とシンタローはぼんやりと思った。
そのまま見つめていると片方だけ見えていた青い目がキンタローが振り返って両方確認できるようになった。
「できたぞ」
どうするんだ揚げるのか、マリネにするのか?とキンタローはシンタローに尋ねた。
「あ?え?ああ……なんか言ったか?」
シンタローははっとした。青い目が怪訝そうに揺れる。
「だからこれだ、魚はどうするんだ」
手を引かれてシンタローは飛び退いた。キンタローの右手は包丁を握ったままだ。
刃物を持つ手に驚いたわけではない。いきなり手を握られたことが原因だったのだけれども。
「し、心臓に悪いんだよ!お前!」
叔父であるハーレムがガンマ団から離脱してもう数ヶ月余り経つ。
この国はかつて叔父にクーデターを依頼したこともあって有事のたびに本部を介してではなく叔父の部隊に直接依頼していたらしい。
ハーレムの影響下にある国はほかにもいくつかあるようだったが、これは見過ごせない事態だった。
叔父は団からリタイアして悠々自適の生活を送っている、と俺とシンタローはこの国の役人に言った。
以降の依頼は本部で引き継ぐので、と求めたがすでに叔父の方で手回しがしてあったようだ。
ガンマ団を抜けるに当たって用意周到に準備をするのはよく考えれば当たり前だろう。
飛行戦の燃料の補給、食料を行く先々で略奪すればどこからか本部かあるいは敵対組織に依頼が入る。
好戦的な叔父とその部下の性質から考えれば向かってくる敵も大歓迎だろうが、それでは苦労する割合が高くなる。
名の知れた特戦部隊に歯向かうヤツはそうはいないとはいえ、後々の禍根や毒物の混入などのリスクを考えれば縁のある国で出稼ぎした方が楽だ。
この国の要人たちは誰もが曖昧な笑みを浮べるだけで俺とシンタローの要求に回答を出さなかった。
有耶無耶に誤魔化して、俺たちが帰国したらとりあえずハーレムに指示を仰ぐつもりなのかもしれない。
繊維工場の視察も申し入れた俺たちは回答は三日後でよいと告げた。
彼らは一様に微笑を浮べながら頷くとそのうちの1人が俺たちを競馬場に案内してきたのだ。
視察を頼んだ繊維工場ではなくて。
工場どころかたいていこういうときに案内される公共機関ではなく競馬場に連れてこられたことにシンタローは最初、腹を立てていた。
「そりゃあ、この国のレースは観光資源だし、王族も来るから変じゃねえけどよ」
と従兄弟は俺に囁く。俺もシンタローの言いたいことは分かる。
この国の人間は日程を調整する時間を作るためと少しでも俺たちの機嫌が良くなるよう接待のつもりでここへ連れてきたのだろう。
けれど、「叔父上がお喜び」はない。
あのアル中でギャンブル狂いのハーレムと一緒くたにされるとは……。
「ハーレムと一緒にされてもな」
肩を竦めてみせるとシンタローは俺に「まったくだ」とため息を吐いた。
ブザーが鳴り、馬たちが位置に着く。きっとハーレムはこの状態からも大騒ぎしていただろう。
それに金も賭けていたはずだ。部下の小遣いも巻き上げて大分注ぎ込んでいたに違いない。
一斉にスタートする馬はVIP席からだと小さく見える。
シンタローははじめから用意されていたオペラグラスを手にした。
なんだかんだ言って彼も興味があるらしい。手を握りしめて芝を駆ける馬に熱中し始めたシンタローに俺は心の中で「似たもの同士じゃないか」と思った。
ハーレムが離脱したのは他国にも知れている通り、新総帥であるシンタローとの確執が原因だ。
確執と言っても戦闘におけるスタンスの違いから生じた口喧嘩の応酬で伯父貴が出て行ったというのが正しいかもしれない。
アイツの邪魔をしてやる、とシンタローはさっきまで意気込んでいた。けれども。
「よっしゃあ!行け!まくれ!まくれ!抜いちまえ!」
従兄弟の頭の中はハーレムの顔がすっぱりと消え去っているらしい。
他の客はいないから興奮したシンタローが多少騒いだところで恥をかく心配はない。しかし……。
「あー!ちくしょう!馬券買えばよかったぜ!」
黒毛の馬がゴールするなりシンタローは髪を掻き毟った。
どうやら目をつけていた馬が1着のようだ。VIP席にいる俺たちに飲み物を給仕した後も控えていた係員をシンタローが手招きする。
「なあ、次のレースあの茶色いヤツに賭けたいんだけどさ」
金ならあるけどどうすりゃいいんだよ、と生真面目に係員に尋ねるシンタローに俺はため息を吐いた。
……きっとこの国の人間は青の一族は競馬が好きだと思うだろう。
*
オペラグラスを片手にしたシンタローが片手に握っていた馬券を放り投げる。
外れたことに悔しがるシンタローに俺は散らばった馬券を拾い集めてから渡した。
「外れたからといって放り捨てるのは止めろ」
ハーレムと同じで行儀が悪い、と俺が忠告するとシンタローは眉を顰めた。
「ついやっちまっただけだ」
ちゃんと拾うつもりだった、と弁解するシンタローは本部の家でマジックに「吸殻と空になったお酒は片づけなさい」と怒られたときのハーレムと同じ表情だった。
「それに賭け事は叔父貴と同じで向いていないようだな」
ハーレムの横領した金のほとんどがなんとかホイミという馬に注ぎ込んだ裏づけがあったな、と俺は従兄弟に言った。
「……ツいてなかっただけだ!」
おまえだってやってみりゃ当たるのが難しいの分かるぜ。そりゃハーレムは行き過ぎだけどな、とシンタローは口を尖らせる。
「俺は別に団の金まで賭ける気はねえよ。ただゲームをおもしろくするスパイスみたいなもんだろ」
せっかくここへ案内されたのに昼寝を決め込むわけにもいかねえし、とシンタローが言う。
「何も賭けなくても」
いいだろう、大人しく見ていればと俺が言い返そうとするとシンタローが遮った。
「賭けでもしねえと馬が走ってるの何回も見たってつまらねえだけだろ」
あんまりうるさく言うなって、とシンタローは言った。
「おまえだってあと2回もレースを見れば退屈になるぜ」
にやっとシンタローは笑った。
だが、そういわれても俺は賭ける気にはならない。プライベートで来たならともかく来賓なんだから大人しくするべきじゃないのか、とシンタローに言うと従兄弟は「つまんねえヤツ」と鼻を鳴らした。
「……馬に賭ける気はないが」
「なんだよ」
「おまえがあと3回とも予想を外すのは賭けてもいい」
認めたがらないだろうがこの従兄弟はハーレムに似ている。きっと外す。ビギナーズラックなんて言葉も無縁に決まっている。
いやビギナーズラックは金の賭けていない最初のレースだっただろう。きっと。
俺の言葉にシンタローは立ち上がり「言ったな!」と人差し指を突きつけてきた。
「俺が当てたら吠え面かくんじゃねえぞ!」
「それはおまえの方だ」
「俺が勝ったら親父がファンに貰ったとかいう勝負パンツを履いてもらうからな!」
高松の鼻血で溺れてもらうぜ!とシンタローが背を逸らす。
「そっちがその気なら俺は……」
そうだな、と考えて俺はマジック伯父が片時も離さないシンタロー人形の存在を思い出した。
「マジック伯父貴の人形をリビングで作ってもらおう」
見られた瞬間、伯父貴の熱い抱擁が待ってるぞ、と俺が言うとシンタローは「やったろうじゃねえか」と乱暴に椅子に座りなおす。
次のレースを賭けようと係員を呼んだ従兄弟に俺はどうせ外れる、とほくそ笑んだ。
シンタローとハーレムはよく似ている。
いくら馬に注ぎ込んだところで……当たるわけがない。■SSS.67「Chupa Chups 」 キンタロー×シンタローコーヒーを淹れ替え、席に戻ってくると隣でレポートを書いていた従兄弟がにこにことバッグに手を入れているところだった。
ガンマ団のエンブレムが付いたスポーティなバッグは見かけとは違って中身はジムに行くための運動着でもなく、色とりどりな菓子がいつも入っていた。軽い休憩や食事の時間になると従兄弟のグンマはそこから気に入りの菓子を取り出す。
「今日は何だ?」
カップをデスクに置くとグンマは俺を見上げた。
今日はね、と笑顔を浮かべて従兄弟は選んだ菓子を見せびらかすように上へと向けた。
白い短い棒に丸い玉。形状からキャディの類だと見て取れる。
「……ずいぶんカラフルな包装だ」
キャンディのヘッドは花形をくりぬいたような形を黄色で塗りつぶされている。下の方は紺色だ。赤いラインがうねうねと走っている。
思わずそんな感想を呟くとグンマは「きれいでしょ」と笑った。
「これはグレープ味で、こっちはプリン!グレープは今日初めて食べるんだ~」
「そうか」
それは楽しみだな、と答えるとグンマは頷いた。
「キンちゃんにもあげようか?コーヒー味はないけどね、キャラメルならあるよ」
「キャラメル?いや……」
「ミルクより甘くはないけど」
首を傾げるとグンマはバッグを漁りはじめた。俺はあわてて断ろうとグンマの手を引く。
「グンマ。俺は……」
別にいらないんだが、と断る前にグンマは目当てのキャンディを見つけ出してしまった。
「はい、これあげるね」
「……ああ」
すっごくおいしいよ。ハマる味だから、とにっこり笑うグンマに退路を立たれて俺はキャンディを受け取った。
いらないと断るのは簡単だけれどもグンマがむくれるのは面倒だ。
もう一人の従兄弟にでもやろう、と思いながら俺は席に着く。グンマはカラフルな包み紙を外してキャンディを口に入れた。
今日初めて食べるというグレープ味のキャンディ。
「うまいか?」
なんとなく感想を聞くとグンマは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!すっごい幸せな気分だよ~」
甘くておいしい、とグンマはふわふわと夢見るような顔で答えた。
キンちゃんも食べたら、と微笑まれて俺は「……後で」と返事するに留めた。咎められないうちにキャンディをそそくさと上着のポケットへと仕舞いこんだ。
机の上には淹れたてのコーヒーがある。それに。
グンマの持っている菓子はたいてい歯の浮くような甘さのものばかりだから性質が悪い。
*
日が沈むのがだんだん遅くなってきた気がする。
研究室から総帥室へと移動するとき窓の外を見て俺はそう思った。夏が近づいている。
今年もシンタローはあの島での夏を思い出すんだろうか。
そんなことを考えながら俺はドアをノックした。
「入れ」
ノブを回すといつも控えている秘書たちがいなかった。
デスクワークに勤しむ従兄弟は口にペンを咥え、頬杖を付いていた。
「行儀が悪いぞ、シンタロー」
従兄弟の口からペンを取り上げると彼はうるせえなあという表情を浮かべた。
「ちょっと煮詰まってるんだよ」
きしっと椅子の背をしならせてシンタローは伸びをした。背もたれがぐっと角度を広げている。
伸びをするのをやめてシンタローの体勢が元に戻ると椅子はまた軋んだ音を立てた。
「コーヒーでも淹れるか」
立ち上がり、シンタローは読んでいた書類をばさっとひとつに重ねた。
「俺がやる」
「来たばっかだろ。いいって」
座ってろと、シンタローは俺にソファを勧めた。
「いや。だが、おまえは休憩した方がいいだろう。俺が」
「いいって」
ひらひらと手を振りながらシンタローは俺の横をすり抜けようとした。
すっと給湯室まで行くのか、と思っていたがシンタローが不意に足を止めた。
「なんだ?」
「いや……それなんだよ?」
車のキーじゃねえよな、結構膨らんでるし、とシンタローは呟いた。
「膨らんでる?」
「ああ、ほら。それだよ。ジャケットの。何入れてるんだ?」
実験器具なら戻しとかねえといけねえんじゃねえの、とシンタローは指差した。
「ジャケット……ああ、これか」
ほら、と俺はポケットから取り出したものをシンタローに渡した。グンマから貰ったキャラメル味のキャンディだ。
「これ、グンマのヤツか?」
「ああ」
「懐かしいな」
甘いんだよな、これ、としげしげと黄色いパッケージをシンタローは覗き込んだ。
「おまえにやろうと思って」
「俺に?おまえ舐めねえの?」
「ああ」
ほら、とシンタローの手の中に俺はキャンディを渡した。
「それでも舐めて待っていろ。コーヒーは俺が淹れてくる」
俺の言葉にシンタローは頷くとソファへと足を引き返した。歩きながら従兄弟の指はパッケージをはがすのに苦心していた。
カップを2つ抱えて戻ってくるとシンタローはソファから慌てて足を下ろした。
寝そべってキャンディを舐めているとはこれもまた行儀が悪い。
ため息を吐きたくなったが、俺は大目に見ることにした。
「時間かかったな」
「ああ。新しい豆を探すのに苦労した」
誰か場所を移動させていた、と答えながら俺はテーブルにトレイを置く。
「キャンディはどうだ?うまいか」
白い棒を咥えたままのシンタローに尋ねると彼は「まあ。普通だな」と答える。
顔を顰めないところを見るとどうやら糖度は一般的なものらしい。グンマの気に入る菓子にしてはめずらしいことだ。
「それとは違う味だが、グンマは幸せな気分だといっていた」
「ふ~ん。幸せな気分ねえ」
アイツらしいぜ、とシンタローは肩を竦める。シンタローの横に座りながら俺は従兄弟のそんな仕草に笑った。
「おまえにも幸せをお裾分けしてやろうか?」
にやっと笑うシンタローの言葉に俺は首を傾げた。
「どうやって?」
「こうやってだよ」
笑いながらシンタローがキャンディをがじっと音を立てて噛み砕く。
「ほら」
腰を浮かせたシンタローは俺に口唇を合わせてきた。
何の行動を取るまもなくするりと砂糖で漬けたような舌が侵入してきた。
僅かなかけらが舌の上に乗せられるとシンタローは体を離した。それから口から離していた棒を従兄弟は咥えなおした。
白い棒には噛み砕かれた後のキャンディの残骸がまだある。
「どうだよ?幸せか」
にやっと笑ったシンタローに俺は口中の甘いかけらを舌で転がしながら眉を顰めた。
「……甘い」
俺の言葉にシンタローはキャンディを離して笑った。■SSS.68「前言撤回」 キンタロー×シンタローああ、なんでこうなってんだっけ、と俺は考えた。いつのまにか2人の間が縮まっている。
ゆっくりと顎の輪郭をなぞる指の感触に気をやりつつ、思い出してみたが「夕飯何する?」と聞いた後に二言三言会話しただけで取り立てて思い当たる節はない。
顎をなぞっていた指が耳の後ろへと這わされて、髪が引っ張られる。痛くはないけれど少しだけ引き攣れた感触に俺は目を閉じた。
青い目がゆっくり近づく。キスされる。
(なんでコイツそんな気になったんだ……?)
分かんねえ、と歯列に感じたくすぐったさに伏せていた目を明けると端の方でちらりとしたひかりがあった。
キスを受け止めながらひかりの先に目を凝らす。
その行動を助けるわけではないだろうけれど、キンタローは俺の口腔から撤退した。
口唇に与えられたものとは違う、触れるか触れないか分からないほど軽いキスを目元にされて、俺はため息を吐いた。
ひかりの正体は鏡だ。
亡き叔父、ルーザーの部屋には大きな姿見がある。なぜだかキンタローはそれを気に入っていた。
「……メシどうするか聞きに来ただけだぜ」
「ああ、そうだったな。で、どうする?」
キンタローは帯びれずにそう返してきた。たまには俺が作ってもいい、と話すキンタローに俺は内心、「そうじゃなくてなんで急にキスしてきたんだよ」と再び思う。
唐突過ぎてワケが分からない。煽るようなこともなにも言っていない。
(……コイツってホント分かんねえよ)
2人きりの密室だからいいものの出入りの激しい総帥室だったらと考えるとぞっとする。
そんな無防備なことをするわけないが、それでも衝動的にされるキスは心臓に悪い。
この部屋だってグンマや父がいつ訪ねてくるかわかったもんじゃない。
(バレたらどうすんだ。バレたら)
ああ、ちくしょうと髪をかきながら、それでも惚れた弱みで咎めることはせずに俺は壁に寄りかかった。
ひやっとした感触が背に伝わる。俺の部屋ともキンタローの部屋とも違う温度だ。
この部屋は何故だか他のどこよりも温度が低い。
背に伝わった感触から俺は随分前のことを思い出した。
帰ってきたばかりの頃、この壁に押し付けられて殺してやるといわれたことを……。
「なあ、そういえばさ」
なんとなく思いついたことを俺は聞いてみることにした。
「おまえってこの部屋で俺のこと殺すって言ってたよな」
痛いくらい壁に押し付けやがって、と笑いながら言うとキンタローはわずかに目を見張った。
それから数年前のことを思い出してああと頷いた。
「お前を……引き裂いて殺してやりたかった」
「で、今はどうなんだよ」
意地の悪い質問だなと思いながら俺は尋ねてみた。どう答えてくるのか興味がある。
歯の浮くような科白は勘弁してもらいたいけど。
「今……?」
「ああ」
なんて答えるつもりだよ、と俺はキンタローをじっと見た。
「そうだな。殺したいとは思わないが、お前の服を引き裂いてやりたいときはある」
「……」
前言撤回。歯の浮くような科白の方がマシだ。■SSS.70「心臓に悪い」 キンタロー×シンタロー総帥を継いだシンタローが激務の毎日を送るようになったのは当然だったが、引退したとはいえ、父であるマジックももそれなりに忙しい日を送っていた。
マジックが多忙である理由はおよそシンタローの理解の範囲を超えたファンクラブのための活動であったが、たいていは日帰りのもので今日のようにわざわざ泊りがけて他国へと行くのはめずらしかった。
いつもなら分担して行う夕食の準備も残った家族は食器を出すだとか洗い物をするくらいしか期待が出来ないので、シンタローは早くから台所に立った。残った家族、グンマは家事を高松に任せきりの生活をしていたし、キンタローは料理どころかに日常の雑事すべてがやることなすこと初めての男だ。はっきり言って期待以前の問題である。ところが。
(コイツも家事にハマるタイプだったのかよ)
シンタローの横では今、キンタローが真剣な面持ちで小鯵を開きにしている。
手伝ってやる、と尊大に言われたときシンタローはこいつの面倒も見なきゃいけねえなんてかったりぃなあと思った。
グンマと手分けして食器を出してくれれば、後は大人しく席に着いて待っていてほしいとも思った。
包丁を持つのも初めてだ、と感想を持つだろう男にいちいちレクチャーしてまで手伝ってもらうのは気が進まない。
だが、シンタローの意に反してキンタローは料理でも器用なところを見せた。
おまえがいつもやっているやつだろう、とみじん切りも教えることなくできたし、飾り切りだって手馴れたように作って見せた。
見れば分かる、と得意そうに胸を張る従兄弟のおかげで父親と分担しているときと同じスピードで調理が進むのはよかったけれども。
でも。
(なんつーか話しかけても答えてくれねえしなあ)
今ちょっと取り込んでいるんだ、と研究室に訪ねてみたときと同じ口調でキンタローはすっぱりとシンタローの口にしたくだらない話を一蹴した。集中しているキンタローにそれ以上何を言うことも出来ず、シンタローはコンソメジュレに取り掛かった。
粗熱をとって冷蔵庫にボウルを入れてからふとキンタローを見るとやはり彼は口を引き結んで魚に包丁を入れていた。
バットの上に並べられた小鯵は丁寧に小骨も取り除かれている。
今捌いているもので終わりか、と空になったトレイをシンタローは確認した。やっぱり手際がいい。
まあ、これなら明日も手伝わせて平気だな、とシンタローは思った。
従兄弟に対して過保護な高松を夕食に招待してやるのもいいかもしれない。
そう考えつつ、キンタローを見やると彼は手を動かしつつも前髪が目にかかっているのをうざったそうに目を細めていた。
(払ってやるかな)
一瞬そう考えたが、刃物を持っているときは危ない。それにここまで丁寧に仕事が出来ているのだから放っておいても平気だろう。
長い髪ならシンタローのように後ろでくくることも出来たが、生憎とキンタローは髪が短い。
ああいうのくすぐったいんだよな。痒いような、なんつーか、とシンタローはキンタローの前髪を見ながら思った。
金色の髪が動くたびにさらさらと鼻先にかかる。伏せ気味の目は時折少し開いて青い色を髪の隙間から見せていた。
引き結んでいる口は怒っているときと違って口角が上がっていない。
じっと観察しているとキンタローが手の甲で汗を拭った。
額があらわになるとともに目元がばっちりと見えた。
細めていない目の青い玉が視界に入ってきてシンタローは見惚れた。
(やっぱきれいだよな、コイツの目)
父親もグンマも他の親族も自分とは違う青い目を持っている。
皆、微妙に違った色合いの青だがシンタローは従兄弟のものが一番きれいだと感じた。
子どもの頃とは違って自分の黒い目が嫌だとか青い目になりたいなどとは思わずに、単純に見惚れてしまった。
(親父より薄いかな……)
亡くなったルーザー叔父さんと同じ色なんだよな、とシンタローはぼんやりと思った。
そのまま見つめていると片方だけ見えていた青い目がキンタローが振り返って両方確認できるようになった。
「できたぞ」
どうするんだ揚げるのか、マリネにするのか?とキンタローはシンタローに尋ねた。
「あ?え?ああ……なんか言ったか?」
シンタローははっとした。青い目が怪訝そうに揺れる。
「だからこれだ、魚はどうするんだ」
手を引かれてシンタローは飛び退いた。キンタローの右手は包丁を握ったままだ。
刃物を持つ手に驚いたわけではない。いきなり手を握られたことが原因だったのだけれども。
「し、心臓に悪いんだよ!お前!」