空は青く澄みわたり、陽光は穏やか。眼下に群れをなし飛ぶ鳥が見える。
キンタローは暖かい日差しの差し込む研究室で、なんとなしに外を眺めていた。
二十四年間、彼は外の世界を知らなかった。だから見るもの聞くものが面白く、興味深い。本を読むことや今のようにただ外の景色を眺めること。それだけのことが彼にとっては意味のあることになる。
髪を切ったらどうかな?
金髪の従兄弟に薦められ、親代わりの高松も同意したので長い髪を切った。信念があって伸ばしていたわけではないので、そのこと自体にはさほど抵抗はない。不思議だったのは、それまでシンタローに似ていると思っていたのがさほど似て見えなくなった。鏡の前にいる人物は間違いなく自分なのに、まるで違うように見える。「自分」になれた気がした。そんなことが面白く感じられた。
窓辺で外を眺めていると、研究室のドアが開いた。
「ふあぁぁ。疲れたー。…あ、キンちゃん」
グンマが両手に資料を抱えて本当に大儀そうに入ってきた。午前中は会議だといっていたので抱えているのは会議資料だろう。それを無造作に机に投げ置くとちょこまかとキンタローのそばによってきた。
「なに見てんの?」
「別に」
「ふぅん」
グンマといて楽だと思うのはこういう時だ。自分でもわからない行動について事細かに探り出そうとはしない。キンタローが『外を見ている』という行為が彼にとって全く無意味な行動というわけではないのだが、それをどう説明していいかわからない時、無理をして言葉を引き出そうとはしない。それはグンマの心遣いではけっしてない。だからといってグンマ自身が他人に無関心というわけでもない。ただグンマにとってそれが自然な行動なのだ。そのことはキンタローもわかっている。
グンマがキンタローの隣にやってきて、何が見えるのかなー?とつぶやくと、額と鼻の頭をガラスに押し付けるようにくっつけながら一緒になって外を眺める。
同じ年だというのに全く稚気の抜けていない従兄弟の横に並んでキンタローも外を見る。
「なぁ、グンマ」
と、そういいかけた瞬間
「グンマ! キンタロー! いるか!?」
ものすごい勢いで研究室の扉を開け放たれた。現れたシンタローに違和感を感じたのは、彼がいつもの真っ赤な総帥服ではなく、大き目のシャツにジーンズというラフないでたちだったからだ。
「ど、どうしたの、シンちゃん!?」
「いるな? すぐ出るぞ、来い!」
「え、え~~~??」
シンタローはグンマの腕を取ると、有無を言わさず引っ張っていく。呆気に取られ呆然と立ち尽くしているキンタローをシンタローが振り返る。
「おい、なにボサッとしてんだ! 早く来い! と、白衣は脱げよ!」
思い出したかのようにいうとグンマの白衣を剥くように脱がせ、そのままそれを投げ捨てた。キンタローも急かされるままに白衣を脱ぐと、慌ててシンタローの後を追っていった。
研究室を出てからのシンタローの行動は妙に慎重かつ迅速だった。誰にも見つからないようにプライベートエリアに駆け込んで、まるで逃げるようにエレベータに乗り込み地下の駐車場まで下りていく。
エレベータを降りると一台の車が目の前に滑り込んできた。
「あ、この車…」
グンマには見覚えがあるらしいVolkswagenのBeetle。古い車だがよく整備されていてエンジンの音も悪くない。もちろんボディは磨かれていて、新車よりずっと落ち着いたつやを出している。
「総帥~~~」
「お、ごくろうさん」
運転席から情けない顔をしながら降りてきた年若い団員にシンタローが気軽に声をかける。
「悪かったな、こんな事に加担させて」
「悪いと思うなら俺が手引きしたってこと、秘書室の連中に内緒にしといてくださいよ! バレたら俺、殺される…」
「心配すんな。バレて殺されたら二階級特進させてやるから」
笑いながらそう言うとグンマを後部座席に、キンタローを助手席に押し込める。
「死んだあとに昇進しても嬉しくないです…! それより早く帰ってきてくださいよ!」
「あー、わかったわかった。盛大に厳粛に団葬してやるから心配すんな」
嬉しくないですー、と涙を流す団員を尻目に自分は運転席に乗り込むとアクセルを吹かして駐車場を飛び出し、裏門からガンマ団を後にした。
「久しぶりだね、シンちゃんのBeetleに乗るの」
グンマが後部座席から身を乗り出して話しかけてくる。
「シンタローの車なのか」
「そう。シンちゃんがね、お給料を一生懸命貯めて初めて買った車なんだよ」
まるで自分のことのようにグンマが自慢げに語る。
「だから僕には絶対触らせてくれなかったんだよね~。かっこよく改造してあげるって言ったのに」
それは誰だって触らせないだろう、とキンタローは思ったが黙っておく。シンタローも何か言いたそうだったが、あえて黙りこんだ。
「でも、こんなに急いでどこに行くの? 何かあったの?」
「何かあったもナニもよー」
シンタローが大仰にため息をつく。
「新総帥を就任してからこっち、ティラミスたちが休みなく働かしてくれてよ~。メシの時間も仕事の話、寝る直前までデスクワーク、夢の中でも仕事してて、もうイヤんなるぜ! 『息抜きのため、午後半休』って休暇届書いて決済印押してきてやったぜ!」
「シンちゃんさ~~」
今度はグンマがあきれ返って深く嘆息する。
「仕官学校時代にも似た事あったよね~。そのたびに僕を巻き添えにしてさ」
僕は講義受けたかったのにさ~、とブチブチ過去のことに対して文句をたれるグンマを、ルームミラー越しにシンタローがにらみつけながら言った。
「ンだよ、悪かったな。戻りたいんだったら降りてかまわねーぞ」
「ううん。僕も研究が行き詰まっていたし、会議ばっかりでクサってたトコ!」
「よっしゃ! キンタロー、オマエは?」
「サボタージュ。…いわゆるサボりというヤツか」
「イヤか?」
ここでイヤだといえば、おそらくシンタローはこのままガンマ団に戻るのだろう。だが、このサボタージュという行為自体にキンタローは俄然興味がわいてきた。
「……悪くない」
「上等!」
風でめちゃくちゃに髪を乱しながらシンタローは破顔するとBeetleのアクセルを思いっきり踏み込んだ。
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休日の朝はベッドでまどろみながらコーヒーの香りで目が覚める。シーツに包まってうっすら目をあけると、まぶしい朝日の中でマジックが笑いかけた。
「おはよう。コーヒー飲む?」
「…ああ」
寝乱れた前髪をかきあげながら答えるとマジックが手に持ったサイフォンから白い大きなマグカップにコーヒーを注いで差し出した。ベッドの中でそれを受け取ってシンタローは眉間にシワを寄せる。
「…いつも言ってるけどな、これコーヒーって言わねーんじゃねーの?」
カップの中にはなみなみとコーヒーが注がれている。ただし、半分は牛乳だ。
「起きぬけにブラックなんてダメだよ。いつも言ってるけど、胃に悪いでしょ」
「テメーのカップの中はなんだよ」
「パパは朝一番に牛乳飲んでるからね」
バチンとウィンク付きで返されてシンタローはこれ以上の反論は無駄と悟ってカップを口に運ぶ。休日の朝は不毛と思いつつ同じ会話を繰り返す。寝起きでなければ「いつまでも子ども扱いすんな!」と一通りケンカもするのだが、朝っぱらから血圧を上げるのも疲れるし、何よりいつまでたっても扱いは変わりそうにないことに最近やっと気付いて半ば諦めかけているのもある。
「それを飲んだら起きてね。朝ごはんにしよう」
そう言いながらマジックはシンタローの頬に軽くキスをしてキッチンへ行ってしまった。シンタローはその背中を見送りながら、さして熱くもないカフェオレをことさらゆっくりと飲んだ。
七月七日、七夕。彦星と織姫の年に一度の逢瀬の日。だがその日は毎年どういうわけだか雨が多い。
シンタローは私室の窓を穏やかに打つ雨をなんとなしに眺めていた。雲は深く立ち込めていて晴れそうにもない。
「こりゃ、夜になっても止みそうにねーな」
ポツリと呟いたのをマジックは聞き逃さなかった。
「夜? 夜に何かあるのかい?」
「あるといえばあるけど、ないといえばない」
「なにそれ?」
コーヒーのカップを手渡しながらマジックは首をかしげる。
「今日は七夕だろ? せっかく一年一度のデートが雨じゃ、ちょっとかわいそうだ」
シンタローのセリフを聞いてマジックが軽く笑ったので、シンタローは少し膨れて睨みつけた。
「なんだよ」
「シンちゃんかわいいなぁと思って」
揶揄されてシンタローはさらに膨れるとプイッとそっぽを向いた。
「あれ、シンちゃん怒っちゃった?」
「知らん」
マジックはシンタローの後ろにそっと忍び寄って抱きしめる。
「放せ、鬱陶しい!」
「ねぇシンちゃん。彦星は馬鹿だと思わない?」
「はぁ?」
「だってもしパパがシンちゃんと一年一度しか会っちゃダメ!って言われたら発狂しちゃうよ! 天の川が太平洋だって泳いで横断しちゃうね!」
「なんだよそれ」
大げさなマジックにシンタローは思わず軽く吹き出してしまった。
「俺はアンタと十年会わなくたって平気だね!」
「パパはシンちゃんと一日だって離れたくないよ。一時間だって耐えられない。一秒千秋の想いだもの」
「おおげさだな。おい、やめろよ」
マジックが首筋にグリグリ額を押し付けてくるのをシンタローはくすぐったそうに身を捩る。
「ねぇシンちゃん」
さっきまでの甘えたような口調が突然深く優しくなる。
「ん?」
「七夕ってね、雨乞いの儀式でもあるんだって。彦星と織姫が天の川を渡って逢うことができれば天の川は溢れて下界に雨を降らすんだ」
「へぇ。じゃあ今まさに二人はデートの真っ最中ってことか?」
「そうだよ。そして天には雨が降らない。だからきっと二人の夜空は美しい満天の星空なんだ」
「なるほどね」
確かに二人っきりの逢瀬なら誰にも見せたくはないかもしれない。内緒にして、包み隠して、けれど万人が知るデート。
だったらそれに隠れてこっそりと―――。
シンタローはゆっくりとマジックに体を預け、マジックはシンタローをそっとけれども力強く抱きしめた。
今日の休日はシンタローにとって降って湧いたような休みだった。秘書にスケジュールを確認したが彼らは口をそろえて「明日は休日のご予定です」と言いきる。シンタローが覚えているだけでも午前中は幹部と会議、午後は外交を伴う仕事があったはずなのだが、それらは全て都合でキャンセルになったという。
「よって総帥は明日一日お休みです。ごゆっくりなさってください」
ティラミスに真面目腐った顔でそういわれると別の仕事を片付けたいというセリフを飲み込まざるをえなかった。結局シンタローは半ば押し切られるような形で休暇をとることになった。
突然の休日とはいってもやることは普段の休日とさして変わらない。いつもは人にまかせっきりにしている自室の掃除をしてみたり、以前から気になっていたキッチンの汚れをぴかぴかに磨いてみたり。そんな彼の見事な主婦っぷりは新総帥を崇拝してやまない一般団員達には見せられない姿である。
昼食は珍しくマジックとふたりきりだった。グンマとキンタローは研究が大詰めを向かえているとかで自分たちのラボで簡単に済ませてしまったらしい。
食事が終ってからは買うだけ買って目を通してもいなかった本を居間でゆっくりと読んでいた。
こんなふうにゆったりとした休日は久しぶりだ。
シンタローたち一族はガンマ団本部に居住空間を構えているために総帥業はある意味、巨大な自営業のようなものだ。何か問題がおこったり、どうしても必要な場合はシンタローの休日は消えてしまう事が少なくない。だがいつものそんなアクシデントが今日はまったくない。
――珍しいこともあるもんだな。
その日の夕食にもグンマとキンタローは姿をあらわさなかった。グンマが手がけていた研究が終了して、研究室の連中とお祝いで飲みに行くのだという。飲みに行くなら誘ってくれりゃいいのに、と思いつつ支度をして昼食と同じくマジックとふたりきりの食事。普段のにぎやかな食事風景と比べてなんと淋しいことか。だが、たまにはこんな落ち着いた食事も悪くない。
食事の後は紅茶を飲みながら、ゆったり過ごす。
こんなふうに平穏で余裕のある日は本当に珍しい。
一日の終わりに濡れた髪をタオルで乾かしながら寝酒でも飲もうとキャビネットからボトルを取り出しながら、ふと目に入ってきたカレンダー。
シンタローは自室でベッドの上に置いた箱を見下ろし、腕組みをしていた。まるでそうすることによって中身が透視しているかのように。だが、どんなに眉間にしわを寄せてみたところで透視できるわけもなく、シンタローはため息をついた。
――ったく、なんだってあんな賭けをしちまったんだか…。
あの日あの時、あの地下カジノでのくだらない賭け。まるでペテンにかけられたような勝負。BETは『24時間、シンタローがマジックの言うことを聞くこと』
赤いシルクのリボンがかかった箱を見ながら後悔するが、時すでに遅し。あの時のマジックの顔を思い出しただけでもムカついてくる。
その上、昨日は満面に笑みを浮かべて
『ハイ! 明日はこれを着てね!!』
なんて言いながら包みを押し付けて去っていった。
着ろ、と言ったということは中身が服であることに間違いはない。その点に関しては安心しているが、問題はその『服』だ。一体どんな『服』が入っているのか、想像するだに恐ろしい。
大体マジックはセンスが悪い。普段着はともかく、あのピンクのスーツにフリルのシャツ、ついでに言うならレースのスカーフもシンタロー的にはありえない。あんな服がこの中に入っているのじゃないかと思うと、恐ろしくて手も触れられないでいた。
睨み付けるように見下ろしていた視線を時計に向ける。マジックが指定した時間まであと30分。このまま勝ち目のないにらめっこをしていたところで仕方がない。それに時間になってもシンタローが現れず、なおかつ贈った服を着ていなかったときには
『パパがお着替え手伝ってあげるよ』
とかなんとか言って無理やり着替えさせられそうだ。
それだけは勘弁願いたいシンタローは、深いため息をつくと覚悟を決めてリボンに手をかけた。