気に食わない。
まず、彼の態度。自分が強いことが、さも当たり前のような。
それに、彼の目つき。意志の強い黒い瞳が、全てを拒んでいて。
けれど、適当に人当たりが良くて。
総帥の息子だという立場も手伝って、彼を慕う奴や彼に取り入ろうとする奴にいつも囲まれていた。
どんなに努力しても、彼には勝つことができない。
いつかはきっと、彼が総帥の座に着き、そして自分はその下で働くことになるのだろう。もしも自分が彼を超えられたとしても、彼が総帥の息子であることには変わりないのだから。
(…あないに取り巻きはべらせて、笑顔振りまきはって)
遠目に、一団をちらりと見た。
訓練終了後、いつものように他愛の無い会話を口にする彼ら。
(やかましいわ…静かに生きれんのかいなアイツらは)
彼の笑顔が、知らぬ間に心の底の炎を燃やす。それは酷く嗜虐的で、師が時々自分を見る瞳の中に覗かせていた感情に近いものだ。
(……殺したい)
あの時のように、今度は意思と殺意を持って彼を燃やしたい。
そんなに火力は強くなくてもいい。じわじわと嬲り炙る。
悲鳴を上げるだろうか?父親に助けを求めるだろうか?許しを乞うだろうか?
薄く、口元に笑みを浮かべて、ハッと意識が現実に引き戻される。彼の黒い瞳が、人ごみの中からこちらを射抜いていた。
慌てて目を逸らすと、向こうも何事も無かったかのように視線を逸らす。
「どしたべ?シンタローさん」
「あァ、なんでもねー」
またざわめきの中に埋もれる彼の姿。
鼓動が、やけに高鳴っていた。
いつからか、何度も思い描いていた姿。
怯える彼の制服を焼き、肌に火傷の痕を残し、足を開かせて、犯す。涙を流し、総帥の名を呼び、助けを求め許しを乞って歪める顔を、白く精液で汚す。快感を覆い消し去るほどの痛みに、また涙を流す彼に罵声を浴びせて。両手で首を絞めながら、彼の体を焼いて、水分を失いながら果てていく体の中に欲望を放つ。
そんな叶わない──今のところ実行する気もない妄想を浮かべて、性器を扱く。
左掌に吐き出された熱に、熱い吐息を漏らして、ティッシュ・ボックスに右手を伸ばす。シーツにも、白い飛沫が飛んでいた。洗わなくてはならないだろう。
殺意は、それに似た熱い暴力的な感情に変わり、その炎は心を焦がした。
師にあれだけ、如何なるときも冷静であれと言われていた筈だが、絶対である筈のその言葉は薄れ、熱情が己を突き動かす。
強くなるということに、初めて、理由が生まれた。
(シンタロー、あんさんは)
戦場で生き残る以外の理由が。
(わてが殺したるわ)
慌てるように、足早に去る複数の人影を見た。
上級生だろうか…見覚えが無い、否、覚える必要も無いと思っていただろう雑魚が6人。ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて、士官学校の廊下を歩くそいつらが、ふと目に付いた。
普段より幾分潜められている様な会話の中に、「シンタロー」の名を聞きつけて。
(…陰口にしちゃあ、随分と楽しそうなこって)
彼等が現れた廊下の角を曲がり、普段使われていない薄汚れた倉庫に向かう。使い古されたトレーニングマシーンが埃を被って転がっているこの倉庫は、この人の多いガンマ団士官学校の数箇所ある一人きりになれるスポットのひとつで、その薄暗さがアラシヤマにとって居心地がよく、とても落ち着く場所だった。
その扉は珍しく開いており、来訪者がいるのかと軽く舌打ちする。
そっと隙間から中を覗くと、ぼんやりと窓からの小さな光の筋に照らされて、人影が見えた。
──彼だった。座り込んだまま、肌蹴た制服を手繰り寄せ、何か小さく呟いている。
「俺は、負けられない、泣けない、強くなければならない」
外気に触れている肌には、大小様々な打撲の痕や、切り傷、煙草か何かを押し付けられたのだろう小さな火傷の痕。
「俺は、親父の──マジックの息子だ」
それは、幾度も屈服させたいと夢見た彼の、自分以外のものに暴行を受けた姿。
「俺は……俺はッ」
彼は、放心しているのかと思えば、瞳はいつものように強く輝いていて。けれど、肩が小さく震えていた。
ふっと、彼が視線を上げてこちらを、見る。
「…誰だッ!!?」
声を上げられたのと同時に、地を蹴って、走る。
何を逃げることがあるのだろう、と疑問にも思ったが、一度駆け出した足を止める理由にはならない。数分走って、やっと立ち止まる。別に、追ってはこないだろうけれど、それでも周囲の視線が気になって、周りを見回した。
今、自分はどんな顔をしているだろう?
殺したいとも、犯したいとも思えなかった。
ただ、声をかけてやりたかった。何を言うかなんて、思いつきもしないのに。
どんな顔で、そんな阿呆らしい事を考えているのだろう?
鼓動が高鳴る。短い距離ではあるが全力疾走をしたせいだろうか。
アラシヤマの複雑な心中は置いてけぼりに、士官学校の陽は沈んでいくところだった。
(04/07/14)
PR
どうにも俺は、泣き落としというものに弱いらしい。
コイツが柄にもなく弱気な表情でしがみ付いてきやがるから、どうにも振り払うタイミングも逃し、俺の胸でいきなり泣き出したアラシヤマを、どうすることもできずに見下ろしている。
「…シンタローはん、わては、わては」
苦しそうなくらい表情を歪めて、俺を見上げる。
いつもみたいに強気なアラシヤマなら簡単にあしらえるのに、こんなツラされちゃ誰だって怯むだろ。
「わては、あんさんを憎んどるのかもしれへん」
言葉を紡ぐことすら辛いのか、自分の気持ちを口に出すだけで傷付いているような、そんな表情で必死に俺に縋りつく。
「そないなことあらへんって、どないしたら証明できるん?」
辛そうに、それでも目線を逸らすことだけはせずに向けられる瞳が痛々しい。
人を殺すときだってこんな顔はしないくせに、なんてそんなことばかり目に付いてしまう。
「結局、昔の、あんさんを憎んどったときと何ひとつ変わってへんのどす」
そんな風に言いながら、何を死に物狂いになってるんだ?
俺の軍服を跡が残りそうなくらいに握り締めて、俺が逃げないように、自分が逃げ出さないように?
「せや、まず愛情と憎悪の差ァが分からへんのや。わてのこの誰より強い想いはどちらなん?
どっちも他人に強く執着して…わてのこの想いはどっちなのか分からなくなってもうたんや」
他人とのコミュニケーション能力が欠如したコイツには、そんなことも理解できないらしい。道徳やら倫理やらなんてガンマ団の士官学校では教えないし、それ以前にもそんなことを教わる機会もなかったんだろう。
「…わてはずっとあんさんを愛しとるつもりやった。せやけどほんまは憎んどったんやろか」
別段俺の返事を待っている訳でもなく、ただ自分の心情を吐露したいだけのようなので何も答えず、ただじっと見詰めてやる。意外と冷静なのか燃え上がる様子もない。
「全部復讐やったんやろか…あんさんの優しさに付け入って、縛り付けて…」
瞳が、揺らいでいる。
情けなく涙を零して、鼻を啜り上げて、それでも真直ぐ俺を見上げて。
「ひとの感情の中で一番強いのは憎悪でっしゃろ? わてのこれもそうなんやろか」
自分に対しての哀しみなのか、俺に対しての哀れみなのか、悲しそうに俺を掴む。目も逸らせないし手も振り払えず、何も言えず、俺は掴まれるがままだ。
「ずっとずっとあんさんを苦しめる為に抱いとったんやったら…わては」
──そんな訳ないだろ。
「わてのこのどうしようもない殺意はなんなんでっしゃろ」
──それは只の、行き過ぎた独占欲だ。
「やっぱり、わてはあんさんのこと嫌いなままやったんやろか」
──あんなに嬉しそうに笑いかけといて、本当にそう思うのかよ。
「愛しさも憎しみも、あんさんが教えてくれはってん…今の気持ちは、どっちなんやろか」
──本当は、そんな答えなんかとっくに分かってるんだろう?
何かを言う気も起きずに、ただ心の中で答えを言う。
そっと背に腕を回して、軽く抱き締めてやれば、腕の中に納まったアラシヤマの体がびくりと強張る。
「…なして、そない優しいんどすの…わては、あんさんをきっと」
どうせ誰かの胸で泣いたこともないんだろう。
仕方なしに俺の胸を貸してやってるんだから、素直に泣いておけばいいのに。
「きっと……憎んどるのに」
耐え切れなくなったのか、そのまま俯いて、俺の胸元に顔を押し付けてしゃくりあげる。
俺はといえば、自分の中で出る結論を無視して、俺の答えを待つコイツの言葉なんか聞きたくもなくて、ただアラシヤマの髪の流れを眺めてみたりしながら、
──それくらい自分で考えろよ。いくらでも待っててやるから。
そんな優しい言葉をかけてやりたくもなくて、目線で訴えてみたりしていた。
(05/03/28)
「……何、してんだよ」
「言いましたやろ?わては、あんさんの言うことなら何でも聞きますて」
どくり、どくりと脈打つ不快感。それを圧して、アラシヤマは微笑んでみせる。
理解できないものを見る目で、それには怯えも含まれているかもしれない、そんな目で、シンタローはアラシヤマを見つめる。
訳が分からないのだ。彼の行動の意味も、微笑みに含まれた感情も。
「シンタローはんの言葉は、わてにとっての全てどすから」
そう言って、黒髪から覗く左目を細めた。
アラシヤマの首筋に、そっと触れる。指先が軽く震えていた。
「…だからって、どうしてそう…ッ」
「こないなもん、たいしたことあらしまへん。」
ぬる、と嫌な感触が伝わる。慣れた感触ではあるはずなのに、嫌悪感が湧き上がる。
「あんさん、本気やあらしまへんどしたろ。せやから、わてもただの脅しどすわ」
シンタローの右手に、嬉しそうにアラシヤマが指を重ねた。
「心配してくれはるの?」
よく見れば、対して深いものでもないのは分かるのだ。
なのに、どうしてこんなにも動揺しているのか、シンタロー自身にも分からなかった。
「シンタローはんが死ね言うんやったら、わては笑って死にますえ」
「…馬ッ鹿じゃねーの…」
ゆっくり、アラシヤマを抱きしめる。からん、と音を立てて、アラシヤマの掌に握られていた赤く塗れたナイフが床に落ちた。
「ふざけんなッ…死ねバカ!」
いつもの一方的なじゃれ合いの末の、いつもの暴言。
ふっと真顔になったアラシヤマが、胸元のポケットから取り出した折りたたまれたナイフで、首筋に線を描いた。
その時にやっと、シンタローはアラシヤマの異常な執着に気がついたのだ。
シンタローはん、あんさんは優しいから、だからこそ。
わての弱さで、笑みで、愛で、あんさんを縛ったります。
せやから、存分にわてのことで苦しんでな?
まったく、最悪で最低の手段どすけどな。
心の中でそっと呟いて、アラシヤマはシンタローの体温を笑顔で受け止めた。
(04/07/22)
「シンタローはん、わてな…わて、愛された記憶があらしまへんのや。
親の事なんぞまったく覚えてへんし、師匠は厳しいお人やったさかい。
…せやけどわて、人間のずるいとこ知ってますさかい、分かってしもたんどす。」
そっと長い髪に触れてみても、何も反応はしてもくれない。
「せやから…せやからほんまは知っとるんどすえ。
シンタローはんが、なしてわてのこと好きやて言うてくれはらんのかも
なして嫌いやても言うてくれはらんのかも、理由分かるんどすわ。
せやけど──わてかてずるい人間やさかいに、身の守り方だけはよぉ知っとるんどす。」
肌を晒したまま背を向けて、そのまま汗も乾いてしまった。
「愛されないんやったら、わてから愛したらええんでっしゃろ?
幸せになれへんでもええさかい」
少し熱の奪われた体にそっと腕を回してみても、抵抗はされない。
「……シンタローはん? 眠ってしまはったん?
折角、わてが色々話しとるのに、しゃあないどすな。
ま、聞かれてへん方がええか…こないな話。」
小さく溜息を吐いて良く聞いてみれば、静かな寝息が聞こえた。
「しょうもない男の、こないしょうもない話なんて、毒にも薬にもならへんしな」
(05/04/05)
ピンポンパンポーン、とマヌケな案内音が寮内に響く。
『250号室のシンタロー君、電話が入ってるよー』
電話なんて珍しいと思いながらシンタローは部屋を出た。
この寮の電話は管理人室の横にしかない。
携帯電話を持てば、いちいち呼び出されなくてはならない煩わしさから開放されるが、一度父にプレゼントされた携帯をぶち壊してから、シンタローは携帯を持つのを拒否していた。
ちなみに携帯を壊したのは、ストーカー並に入ってくる父からの電話とメールに切れたからだ。
父には、寮の電話は皆の共有物だから滅多なことではかけるなときつく言ってある。くだらないことでかけたら絶交だとも。
誰だろう?と思いながらシンタローは受話器を取った。
「もしもし?」
『やあ、シンタロー。久しぶりだね』
親父によく似た声だけど、声質はもっと若い。
「…サービス叔父さん!?」
『そうだよ。元気だったかい?』
「うん、スッゲー元気!」
久しぶりの叔父の電話に、シンタローは声を明るくした。
サービスはシンタローが身内では唯一心から信頼し、尊敬している人物だ。
いつまでもシンタローを子ども扱いするマジックとは違い、サービスは自分を対等なひとりの人間として扱ってくれる。
シンタローは幼いころから大勢の大人に囲まれて育った。
そのほとんどがシンタローを「マジックの息子」として扱う中、サービスだけが特別な存在だった。
「どうしたの、電話なんて。なんかあった?」
『実は今度急に日本に行くことになってね。お前の顔を見て行こうと思うんだが、食事でもどうだい』
「マジで!超嬉しいよ!」
シンタローの声が思わず弾んだ。
気になることもあるし、サービスになら相談できるだろう。
「いつ来んの?」
『今週の土曜だよ。そうだな、3時くらいに銀座まで出て来れるかい?』
「ん、大丈夫。やったぁ!何食わしてもらおうかな~」
『何でも好きなものを。何を食べたいか考えておいてくれよ。じゃあ、土曜日に』
耳障りのいい微かな笑い声を残して、サービスは電話を切った。
大好きな叔父に会える、ということが自然にシンタローの顔を緩ませる。
スキップしそうなキモチで部屋に戻ろうとしたところ、廊下でばったりとアラシヤマに出くわした。
「…どうしましたん?ニヤニヤしはって気持ち悪いわ」
「…っせぇナ、テメーに関係ねーよ」
「それもそうどすな」
すごみを効かせたつもりだったが、アラシヤマは平然と受け止めて歩き出した。
スタスタと向かって行く先は寮のエントランスだ。
「…おい、どこ行くんだよ」
あのアラシヤマの電話を聞いた日以来、シンタローはそれとなくアラシヤマの動向を気にするようになっていた。
例の、言った覚えの無いシンタローの家の事情について問いただしても、『誰ぞ話してたんを聞きましたんや。有名なことでっしゃろ』というばかり。
アラシヤマに対して、何かがおかしい、とは感じていても、決定的な証拠は見つけられなかった。
「…ちょお、忘れ物しましてん。ガッコに取りに行くんですわ」
ふと時計を見るとすでに10時を回っている。
「この時間じゃ空いてねーよ」
アラシヤマの言うことが本当かどうかはわからなかったが、できる限りアラシヤマに不審な行動はさせたくないと思った。
「でも、リキッドが図書室の窓の鍵が壊れてて、そっから入れる言うてましたえ?」
確かに、それは事実だった。
この学校の図書室は、校舎の一番寮に近い位置にあり、『緊急事態』用として生徒だけが知る出入り口となっているのだ。
あのヤンキー小僧め。余計なことを…。
シンタローは短く舌打ちした。
「…忘れモンて何だよ?」
「明日提出の化学のレポートどす。ジャンのペナルティーはきついて聞きましたえ」
化学は明日の1限だ。
化学教師のジャンは、クラス担任としては甘いが、教科担任としてはすこぶる厳しい。
レポートを忘れたのなら、今取りに行かなければ間に合わないだろう。
「…わかった。俺も行く」
シンタローの申し出に、アラシヤマは不快そうに眉間にしわを寄せた。
「別に、一人で行けますわ」
ほな、とアラシヤマはシンタローに背を向けて歩き出した。
「でも、オメーどの窓が空いてるか知ってんのかよ?」
ぴた、とアラシヤマの動きが止まる。
「図書室の窓は10コ近くある。[当たり]の窓以外に異変があるとセコムに通報されるぜ?」
ゆっくりと振り返ったアラシヤマは、ハアと大袈裟にため息をついた。
「…あのヤンキーの情報はあてになりませんわ…」
「俺がついていってやるよ。感謝しな」
シンタローは靴を履き替えて、アラシヤマとともにひんやりと冷たい夜の森に向かった。
* * * * *
夜の森は肌寒く、夜気がしっとりと体にまとわりつくようだ。
湿った落ち葉を踏みしめると、布製のスニーカーに夜露が滲みた。
「チクショー、さすがに夜は寒ぃな」
シンタローは両腕を組んで体を縮こませた。
吐く息がわずかに白い。
「そんな薄着してくるからや。何年この森ん中に住んではるん?」
アラシヤマはちゃっかりとウィンドブレーカーを着込んでいる。
アラシヤマの物言いにカチンと来たが、指摘されたことは事実だ。
シンタローは部屋着代わりにしているパーカーのまま。
上着のひとつでも取ってくれば良かったと後悔した。
何か言い返すのも分が悪く、シンタローは憮然とした表情のまま、赤くなった指先に息を吹きかけた。
「……ホレ」
シンタローの目の前に、アラシヤマのウィンドブレーカーが差し出された。
「えッ…?い…いらねーよ、テメーが着てろよ」
アラシヤマの突然の行動に驚いて、思わずどもってしまう。
「わては、風邪ひいたことないんや。こんくらいの気温はどうってことあらしまへん」
アラシヤマはぐいぐいとウィンドブレーカーを押し付けてくる。
いらねぇ、と返したかったが、すでに入浴を済ませたあとで、寒さがかなり身に凍みていた。
アラシヤマはウィンドブレーカーを脱いでも平然とした顔をしている。
これ以上突き返すのも子供っぽい気がして、シンタローは素直にウィンドブレーカーを受け取った。
「…サンキュ」
小さく礼を言うと 、アラシヤマは短くフンとだけ答えた。
校舎の図書館は、寮の裏手を回って数分ほどの距離にある。
あとから増築されたため、図書室だけが校舎から飛び出たような形になっていた。
シンタローは、凸型に飛び出した校舎の右端の窓に近づいた。
観音開きタイプの木枠の窓は、古いが頑丈な造りになっている。
しかし、鍵部分にトントンと振動を与えると、差込式の窓の鍵が、周りの金具ごとゴトリと外れた。
「こんな風に、こいつだけ付いてる振りしてるわけよ」
「…セキュリティは万全て聞いとったんやけど…」
アラシヤマはぼそりと呟いた。
「まあ、でもココは何年か前の先輩が必死でセキュリティ破ったんだってヨ。一応全部の出入り口にセコムしかけてんのはホントらしいぜ」
シンタローは鍵の外れた窓を左右に開くと、窓枠に足をかけてよじ登った。
図書室の中は、火災報知器の明かりでぼんやりと赤く浮かび上がっている。
シンタローは床に着地する前に、窓枠につかまりながら器用に靴を脱ぎ、靴底を上にして机の上に置いた。
ひらりと窓枠に飛び乗ったアラシヤマも、同じようにシンタローにならって靴を脱ぐ。
「そんなわけで、ここが非常口。鍵は中からしか戻せないから、使った奴が朝一で戻すってのが暗黙のルールになってる」
シンタローは中に落ちていた鍵と金具を拾った。
「だからオメー、明日朝一で鍵戻しに来いよナ」
鍵と金具をアラシヤマに手渡すと、アラシヤマは嫌そうにうなづいた。
しかし、 いくら[非常口]があるとはいえ、夜の学校に入ろうと思う奴はそう多くいない。
シンタローもこの非常口を使うのは2度目で、中学のときにやった肝試し以来だった。
「…オメー、懐中電灯なんて持ってきて…ねーよな…」
アラシヤマはこくりとうなづいた。
図書室を出ると、目の前に続くのはそのまま闇の世界に続いているように見える真っ暗な廊下。
「今は月が雲に隠れてるんやろ。しばらくしたら目も慣れますわ」
そういえば、森の中は月明かりがあった。
廊下の窓の方角からすると、雲が晴れれば月の光が入ってくるはずだろう。
アラシヤマは闇に臆することなく、スタスタと歩き出した。
「あッ…、オイ、待てよ!」
シンタローが慌てて追いかけると、少し先で待っていたアラシヤマにドカッとぶつかった。
「…ッたぁ…、気ぃつけなはれ」
「悪ィ、そんな近くにいたのかヨ」
しかし、一寸先は闇といえるくらいに、周りがほとんど見えない。
「なあ、月が出るまでちょっと待とうぜ。これじゃ何にも見えねーじゃん」
おそらくほんの数センチ先にいるのだろう、アラシヤマの顔すら見えない。
「わては夜目が効くさかい、多少は見えてますえ」
「マジかよ?目に赤外線でもついてんじゃねーの?」
シンタローが手を前に出すと、アラシヤマの手にぶつかった。
「…ホンマ、窓の場所だけ言うてくれりゃ良かったんに…」
アラシヤマがハァとため息をつく。
足手まといだと遠まわしに言われて、カッと頭に血が上った。
「連れてきてやったのに、その言い方はねーだろーがよッ!!」
「ああ、もう。ホンマ、短気なお人でんなぁ」
アラシヤマの手がシンタローの手をつかんだ。
繋いだ手が、ぐっと引っ張られる。
「たぶん、月が出るのはしばらく後や。こうして行くしかないやろ?」
不本意だが、仕方がない。
シンタローはアラシヤマに手を引かれて歩き出した。
繋いだ手は、驚くほどに熱かった。
* * * * *
「おい、あったかヨ?」
「そうせかさんといておくれやす。これだけの明かりじゃなかなか…」
アラシヤマは携帯電話の液晶画面の明かりで、周囲を調べている。
ようやく化学室までたどりついたものの、セコムに通報される恐れがあるため、電気をつけるわけにいかない。
アラシヤマは携帯をチカチカさせながら、ガス管のついた机の下を這い回っていた。
…結局、ついて来ても意味なかったかもしんねーなぁ…。
シンタローはわずかな携帯の明かりを目で追いながらそう思った。
こんなに暗いんじゃ、アラシヤマが何かしててもわかんねぇし。
それに…。
シンタローは少しずつ、アラシヤマに対する警戒心が解けはじめていた。
否、「解きたい」と思い始めていた。
アラシヤマが、一般人ではないことは確かだろう。
アラシヤマの身のこなしは、かつてシンタローが教えを受けたSPや元軍人、武術家などのどれとも違っていたが、「特別な訓練を受けた人間」であることは間違いない。
一切足音を立てない歩き方は、一朝一夕で身につくものではないだろう。
けれど。
上着を貸してもらったからというわけじゃねぇけど。
アラシヤマはシンタローに、少なくとも敵意は持っていないように思えた。
それとも、俺がそう思いたいから、気がつけないだけなのか?
アラシヤマはたぶん何かを隠してる。
そしてたぶん、「一般人」じゃない。
でも、俺とはなんの関係もねぇかもしれねーじゃん。
そうだったらいいのに。
そうしたら、俺とこいつはただの隣人でクラスメイトだ。
「あ、あった。ありましたえ」
アラシヤマが嬉しそうに携帯を振った。
「うし。帰ろーぜ」
化学室を出ると、窓には月明かりが戻ってきていた。
アラシヤマの白い輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
アラシヤマはノートを大事そうに抱えて笑っていた。
「…そんなに嬉しいことかヨ?化学好きなのか?」
「え?や、そんなことはないんやけど、何か楽しゅうて…」
初めて見る、アラシヤマの表情。
いつもの、無愛想で何を考えているのかわからないのとは違う。
それは、同じ17歳の少年らしい表情だった。
「わて、今までほとんど学校行かずに育ったんどす。ベンキョはみんな家庭教師で…。せやから、夜の学校忍び込むなんて、小説の中だけのことやと思うてましたわ」
「え!?ソレ、マジで?」
今まで学校に行ったことがないというのは、そうとうに特殊な環境だろう。
シンタローもマジックに『家庭教師をつけるから学校に行くな』と言われたことがある。
猛反発し、ハンストまでして何とか学校に通うことができたが、アラシヤマも似たような事情なのかもしれなかった。
「そーいや、オメーがココに来て、もう1ヶ月近く経つのに、オメーのこと何にも知らねーな」
「別に、特別話すようなこともあらしまへんえ」
アラシヤマはさらりと流すと、あごをしゃくって廊下の先を促した。
歩き出したアラシヤマの後を慌てて追う。
「でも、ガッコ行ったことねぇっつーのはかなり特殊だろ?何で?」
「…家の事情どす。…育ての親が…船乗りみたいなもんで、世界中転々としてたんですわ」
育ての親、ということは本当の親ではないのか?
気にはなったが、そこをこちらから突っ込んで聞くのはあまりに無神経な気がした。
「じゃあ、何でわざわざこんな時期にココに来たんだよ?」
「…親の知り合いのコネや。知ってはります?ココ入学するんには、学力や寄付金以外にも、学校関係者や卒業生の紹介状が要るんどすえ」
そうだったのか。親がココの卒業生という奴が妙に多いのはそういうわけだったのか。
「まあ、単にタイミングが良かったんどす。全寮制なんも好都合やったし」
そのとき、また雲が月を隠してしまった。
わずかにあった明かりが、重い闇に溶けていく。
「あーくそ、また見えねぇじゃん…」
まるで目をつぶっているのと変わらない。
「あんさん、鳥目なんとちゃいますの?」
アラシヤマの手が、シンタローの手をつかむ。
「さ、またお手てつないで帰りますえ」
「…ちぇ、ふざけろよ」
暗くてアラシヤマの顔はわからない。
けれど、きっと笑っているのだろう。
「なあ、アラシヤマ」
手をつないで闇の中を歩き出す。
ほとんど周囲の見えないシンタローを気遣ってか、歩調はゆっくりだった。
「お前さ、もっと色んなこと話せよ。話したくねぇことは言わなくていいからさ。好きな食べモンとか、趣味とかでもいいから」
お前のことを、教えてくれよ。
そう言うと、アラシヤマはしばらく間を置いた後で、「せやなぁ」と短く答えた。
* * * * *
寮に着いたときには、すでに12時をまわっていた。
出掛けに開けて来た非常階段のドアから、こっそりと中に入る。
「あ!お前達どこ行ってただ!?」
シンタローが顔を出すなり、ミヤギが怒ったような表情で駆け寄ってきた。
寮生が無断で外出するときは、いつもこの2階の非常階段が出入り口になる。
ミヤギはシンタローとアラシヤマがいないことに気がつき、ここから戻ってくることをふんで見張っていたのだろう。
「勝手にいなぐなられちゃ困るべ!出るなら出るでオラに一言言っとぐれって、いつも言ってるでねぇが!」
「悪ぃ悪ぃ。点呼までに戻ってこれると思ってたんだよ」
シンタローはミヤギを拝むように手を合わせた。
「…A定おごってもらうかんな。寮監には上手ぐ言ってあるさけ、早ぐ部屋さ戻れ!」
本当に面倒見のいい寮長に感謝しつつ、シンタローは逃げるように部屋に駆け戻った。
ほぼ同時に、隣でもバタンと扉を閉める音が聞こえる。
アラシヤマもミヤギに文句を言われる前にと、部屋に入ったのだろう。
「…あ」
部屋に入ってしまった後で、シンタローはアラシヤマのウィンドブレーカーを着たままだったことに気がついた。
…まあ、明日返せばいいか。
あいつももう今日は外に出ねぇだろうし。
シンタローはウィンドブレーカーを脱ぐと、壁のフックにかけた。
とたんに寒くなった気がして、慌てて布団に入り込む。
あいつの手ぇ、熱かったな…。
アラシヤマと、こんなに長い時間二人でいたのは初めてだった。アラシヤマは学校にいても寮にいても、いつも一人で消えてしまうからだ。
無愛想で嫌味な奴だけれど、少年らしい一面が見えたことにシンタローは安堵していた。
初めて、アラシヤマの個人的な話を聞いた。
学校に行ったことがないというのも、あの性格や今までの行動が裏づけしているような気がした。
……あいつは一体、何者なんだろう?
シンタローは布団を頭まで被って、少しだけ体を丸めた。
アラシヤマと繋いだ右手が、いつまでも熱を持って熱かった。