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恥ずかしいヤツ
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 スクランブル・エッグのとろとろにした黄身は、バターでソテーしたパンに乗せて。
 今日のブラック・プティングはナツメグが効き過ぎか。
 薄めに入れた紅茶はカモミールで、一晩の熟睡後も体に残る疲れを癒してくれる。
 窓の白いカーテンの向こうには、爽やかな朝の光と小鳥が笑いさざめき。
 平和な光景だ。
 ガンマ団総帥シンタローは、吐息を漏らした。
 膝の上の新聞をめくる。新しいインクの香りが鼻腔をかすめる。
 テレビから流れるほのぼのとした休日のニュース。
 今日は彼にとっても、久しぶりの休みだった。
「キンちゃ~ん、そこの林檎ジャムとってよー」
「これか。しかし林檎を素材とするジャムは熱してから食した方がいい。何故なら含まれるペクチンは20℃であれば22%の体内の活性酸素を除去するが、100℃で熱すると48%に効果が跳ね上がり更に……」
「朝からもういいよ~」
 まったく平和だ。
 食卓には食器の触れ合う音とナイフとフォークを使う音。
 ……こんなに平和なのは。
 きっと、あいつがいないからだ。




 しかし、いなくていいと思ってはいるが、いないと気になる。
 何やら早朝に外出してしまったのは知っている。
 あいつがやっていることを知りたくはないが、知らされないと腹が立つ。
 クソッ。
 イライラ。
 ……。
 シンタローの我慢は食卓について15分で切れた。
「……今気付いたけど、そういや親父は?」
 えー、とグンマが丸い瞳で意外そうにこちらを向く。
「あれぇ、シンちゃん知らないのー? あ、もうそろそろ九時かなぁ」
 金色の巻き毛が揺れて、壁時計を見上げる。
 カチリ、と長針が回る音がして、それは時報を打った。
 テレビではワイドショー番組が始まっている。軽快な音楽。
「あァ? なんだよ、九時って」
『みなさん、おはようございます。休日の爽やかな朝、いかがお過ごしでしょうか……』
「九時は九時だ。いいか、短針が9の文字盤に合い秒針と長針が合わさった瞬間にだな、」
「あァ? じゃあデジタル時計だったらどーすんだよお前はよ」
「あ! 出た、おとーさま」
 その瞬間シンタローは固まった。
『……それでは今日のゲストコメンテーターを御紹介します。ガンマ団元総帥、マジックさんです』
 画面に大写しになる見知った金髪派手な顔。
 しかもウインク。
『ははは、よろしくお願いします。シンちゃん見てる? 愛してるよ!』
「だっはーッッッっっっ!!!!!!!!!!!」
 シンタローは食器を空中に巻き上げて食卓に突っ伏した。



----------



「だあからっ! やめてくれつってるんだよ!」
 昼食時の青家族の食卓では、より凄惨な言い争いが続いていた。
「どうして? ガンマ団は秘密軍団から平和のお仕置き軍団に生まれ変わったんじゃないか! テレビくらい出たって平気だよ」
「ちっがーう! 恥ずかしいんだよっっ!」
「シンちゃ~ん、もうやめなよー。おとーさまのコメント、僕すっごく面白かったよっ」
「そーゆーコト言ってんじゃないのっッ!」
「伯父上、あの『五月みどり』と『シャツが黄緑』という発言の間にある接点には非常に興味があります。何故、人名と衣服がある特定の色をしているという事実が……」
「だーっ! キンタロー、お前までっ!」
 シンタローは床に崩れ落ちた。
 コタローッッ! 早く目を覚ましてくれっ! 
 お兄ちゃんは、お兄ちゃんはこんな家族の中で……ッ!
「シンタロー」
 全ての元凶が倒れ伏す自分の髪を撫でてきた。指でこぼれる涙を拭いてくる。
「どうしたんだい? ひどく御機嫌斜めだね……パパに話して御覧。お前は笑った方が、可愛いよ!」
「……っ!!!!」
 溜め。
 ウインウインウイン。
 手の中できっかり三秒。
「……アンタのせいだ――――!!!!」
 どっかーん!
 正攻法で眼魔砲が部屋に炸裂した。



 最近、テーブルの上にバラの一輪挿しがある。
 特に意味はなく聞いてみると、なんだかコイツに毎朝送りつけてくるアホがいるらしい。
『知ってる? シンちゃん。赤いバラの花言葉は『情熱』。毎日花を贈って、千本になったら告白するんだよ。そして相手は断れない。そうなったらパパどうしようかな』
 ……もうどうでもいいから、とにかく勘弁してくれ……ッ!
 例の恥ずかしい世界大会で優勝したり、講演会その他テレビラジオ雑誌もろもろのメディアに出まくったりと、最近のマジックは公の場に進出している。
 特にあの口に出すのもためらう大会は、グンマがテレビをつけていたので自分もばっちり目撃してしまった。
 え、衛星放送で世界中にあの映像が……ッ!
 今までは家庭内だけでの恥だったのに……。
 世界中に晒さないで、我が家の恥ッ!!!
 しかもナンかアレ以来、世界中のバカやアホたちから変な貢物が届いたり妙な追っかけがいたりして……。
 ああっ……ッ! おぞましい……ッッ!
 考える程に、うざいエピソードが頭をよぎって悶々としてくる。
 シンタローは心を落ち着かせるために、居間のソファで料理の本を広げた。
 この所は忙しくて好きな料理も作れないってのに。
 その貴重な休みをいつもアイツはッ! アイツはッ……!
 ……。
 ……。
 目の端に、着替えたらしいマジックのスーツが映った。
 どうやら午後から出かけるらしい。
「……」
 再びどこへ行こうというのか。
 気になる。また人様の前でバカをやらかしそうな悪寒。
 しかし聞くのはムカツく。だけど俺だけ知らないのはもっとムカツく。
 イライライラ。
 そして聞いてくれと言わんばかりの顔で、自分の前を通り過ぎていくマジック。
 イライライライラ。
「あ、あのね、シンちゃん」
 グンマが見かねたのか話しかけてきた。
「おとーさま、3時から御本のサイン会があるんだって。あと一緒に軽く販促のポスター撮影」
 バリッ。
 お気に入りの料理本が、俺の手の中で真っ二つに割れた。
 ……ぐわああああああアアアアアァァァァッッ!!!
 あの恥ずかしい自叙伝くわぁ!!!



「そうそう、グンちゃん」
 あはは、とマジックが能天気に話し出す。
「明日は日本のトーキョー都で一日都知事をやるんだけどさ。ハーレムに聞いたけど、あの都庁って夜になると合体してロボットになるらしいよ! さすがメカニックの国エキゾチック・ジャパン」
「うわあ、おとーさま、それってスゴい!」
「合体するのはいいですがまずその目的と効果が問題視されるかと。そもそも日本の軍隊とはあくまで自衛隊であり、日本国憲法第九条の観点から言うと……」
「……いい加減にその一族全体の、間違った日本観やめようぜ」
 さてと、そろそろ行かなきゃかな、と言いながらマジックが腕時計を見た。
 そして自分の方を向いて笑う。
「今日は折角シンちゃんお休みなのに、一緒にいられなくてゴメンね! でもシンちゃんの顔が見たいから昼御飯は食べに来たんだよ。パパ、可愛く謝るから許して!」
「カワイかねーよ、カワイか。そのカワイさ自体を100字以内で説明しやがれ。つーかそんな恥ずかしい会に行くのヤメロ、本も発禁になってしまえ」
「ヤだなあ、シンちゃんったら亭主関白」
「誰が亭主ッ! 誰が関白ッ!」
「そんなに怒らなくても。どんなに人気者になったって、私はいつだってお前だけのものだよ! ヤキモチ焼くシンちゃんも可愛いけど。それじゃあね。バイバイ!」
「はあああ? うわっ! たっ!」
 ……飛んできた投げキスが、光速すぎて避けられなかったことにしばらく落ち込んだ……



「……」
 シンタローは非常に仕事に戻りたかった。
 仕事に無理矢理打ち込めば、いつものように、わずらわしい私事から一時は解放されるのだ。
 今日に限って自由な体が恨めしい。
 いや。いやいやいや。落ち着け、俺。
 必死に自分を励ました。
 俺は、ガンマ団総帥シンタローだ。
 これぐらいのダメージどうだっていうんだ。
 精神の安定ぐらい、軽くコントロール出来ないでどうする。
 クッソォ、あのアホ親父め。
 外で何やらかすか……人様の前で何やらかすか……だがそんなことは俺が気にしなければいい話であって。
 そう、気にしなければいい。
 ……まあ、場所どこ行ったか知らないからな。知らないから気にしなければまあ……。
「シンタロー。伯父上はトーキョーのシンジュク、キノクニヤ書店に向かわれたそうだ。駅東口。ちなみに飛空艇は整備済みのが乗降口に」
 ああっッ! お気遣いの紳士が余計なことをッ!
「お夕飯までには帰ってきてね、シンちゃん」
「ダ・レ・がッッ!!! ド・コ・にッッ!!! 行くんだよっ!」
「シンちゃん、そーいえばコート欲しいって言ってたじゃない。軍服の上にはおるやつ。今、日本はバーゲンの時期らしいよっ!」
「確かにバーゲンで購入すれば経費節減の観点からすると好ましくはある」
「……数万節約するより、その前に3億円パクった親族を連れてこいよ、お前ら……」
 あ、という顔でグンマが人差し指を立てる。
「そーいえば、吉兆の高級味噌が切れてるっておとーさまが」
「そう言えば、日本製半導体が切れていたな。最近はアキハバラ以外の主要都市量販店でも手に入ると聞くが」
「突然一度に思い出さないでッッッ! 切れてる日本製品ッッッ!」



 チッ。
 クッソ、ナンだこの気まずい雰囲気は。
 二人の目が、俺にこの家から出て行けと言っている。
 ナンなんだ、この息苦しい家は。ここは俺の家じゃなかったのか。
「……近くを散歩してくる。久々の休日だからな」
 とりあえず今は出て行くしかないぜ。なんてこった。
 いいさ、外の冷たい空気を吸って、落ち着こう。
 踵を返したシンタロー、その背中に浴びせかけられる声。
「行ってらっしゃ~い! お味噌よろしくねっ! あとお菓子も」
「半導体。いいか、型番を間違えるな」
「万が一近くまで行ったらな……万が一だぞ、万が一」
 バタンと乱暴に玄関口のドアを閉めると、途端に冷気が体を包んだ。
 ひんやりとした風が吹いている。
 けっこー寒いな。薄いセーターだけで出てきてしまった。
 まだ春も早いしな。
 肩が小さく震えたので、手の平で擦ってみる。
 ……。
 やっぱ、コートって買わないとダメかな。
 ……。
 あの総帥服って意外と寒いんだよ。胸開いてるし。下はワイシャツだけだし。
 ……。
 ガンマ団総帥が風邪ひいたら、団員に示しがつかないもんな……。
 ……。
 休みの日に買い物するのってよく考えたら、まったくもって当り前のことだよな……。



----------



 シンタローは両手に買い物袋をぶら下げて、シンジュクの駅ビル内をうろうろしていた。
 買い物はもう終わってしまった。
 おまけの味噌と半導体と、グンマ好みの甘い和菓子まで買ってしまった。
 もうエスカレーターを上から下まで五往復はしている。
 そろそろ店員の目が気になってきた。
 そりゃこんなデカい男がうろついてちゃ不審に思うだろうよ。
 あー、あー、そりゃそうだよな。俺だっておかしい人だと思うよ、いつもなら。
 しかもその間に、きゃあきゃあ言ってる女の子たちに数回声をかけられた。
 ……次、声をかけられたら女の子と遊ぶのも悪くない。
 だって休日だし。そう思いながら、生返事で断ってしまう。
 ああ……俺って煮え切らない男だ……。
 そうこうしている内に時間は3時。
 ……。
 シンタローは、思った。
 次はエレベーターに乗ろう。



 屋上の動物乗り物で遊ぶ子供たちを眺めて、地下の食料品売り場を総チェックして更に買い物し、駅南口の350mの遊歩道を散歩し、駅西口の地下道を通ってそびえる都庁を見、駅北口はないので仕方なくセイブ・シンジュク駅北口まで行って、シンタローが問題の東口についたのはもう暗くなってからのことだった。
 他は全部行ったから、東口だけは行かないってのは具合悪いだろうしな……不公平だ。
 タクシー乗り場を越えて、シンタローは東口正面へと足を踏み出した。
 周囲を見渡してみて、少し安心する。
 なんだ、普通の風景じゃん。
 休日の横断歩道は人で満ち溢れ、アルタ前の大画面には平凡なCMが映り、街頭ではIT業者の勧誘が通り過ぎる人々に小袋を配っている。
 夕闇の中で車のクラクションが鳴り、若者たちが待ち合わせしているのか手に手に携帯をいじっていて……。
 ……若者?
 ……気付きたくないことに気付いてしまった。
 明らかに違う年齢層の方々が混じっている。
 混じっているっていうかむしろ主成分。
 シンタローは帰りたくなった。



 何かとてつもなく悪いことが起きる予感がする。
 東口の右手、つまりキノクニヤ書店の方へは必死に目をやらないようにしていたが、このざわざわとした嫌な雰囲気はそこから漂ってきているような気がする。
 世界最強軍団の総帥として、鍛え上げたこの俺の勘がヤバいと叫んでる。
 動け。動け。俺の足。
 しかし人込みの中で、背の高いシンタローは歩道の電柱のように動けない。
 俺は、消費者金融のティッシュ配りのお姉さんたちにも絶対変に思われている。
 だけど。だけど。
 明らかにおかしい年齢層の方々が、腕に分厚い本を抱え使用済みの整理券を手に、興奮しながら群れている様子はもっと異常だ。
 地面に座り込んで、必死に限定トレカを交換している様子はもっと異常だ。
 何か怪しげなグッズを、声高に即席オークションしている様子はもっと異常だ。
 ええっ? もう7時だぜ? 4時間経ってるんだぞ?
 まだ終わってないの!?



 その瞬間、パッと辺りが明るくなった。
 シンジュク通り交差点の四方八方からライトが輝き、ガラス張りのキノクニヤ書店を美しく照らし出す。
 アルタ前の大画面が見たくもない男の顔を映し出す。
 群集がざわめき出し、我も我もと身を乗り出す。
 シンタローの身体が、硬直した。
 あああああッ! オ、オレ、もしかして一番ダメージの大きい時間帯に来ちゃった?
 助けてッ! 助けて、神様ッッ!
 白い大型リムジンが軽快なブレーキ音と共に、書店前に乗りつける。
 運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
 そして絶妙なタイミングで書店の扉が開いて。
 ヤツが颯爽と姿を現した。
 ウオオオオオオン!
 人々のどよめきを、シンタローは気の遠くなった心で聞いていた。
『みなさんどうもありがとう。楽しかったよ!』
 全てを中継している大画面のせいで、聞きたくもない声がシンジュク東口全体に響いている。
『みなさんに愛を。我が最愛の息子、シンタローの次の愛で恐縮だけれども……』
 ……もうシンタローには搾り出す声すら残ってはいなかった。
 警備員や警官が抑えた人波の間を通り抜けて、花束を手に車に乗り込むマジック。
 走り出すリムジン。
 追いすがる群集。
 灰色の画面になるアルタ前。



 終わった!? 俺の苦行はもう終わった?
 しかし。
 シンジュク通りの半ばまで進んだ車は、人波で動きを止めた。
 ちょっとッ! しっかりしてよッッ! 日本の警察ッッッ!
 そんなんだから犯罪検挙率が年々下がってヤンキーが増えて、俺たちが苦労すんのよ?
 ああっ、ホラ、ホラ、俺の目の前に……。
 降りてきたあああああああッッッッッ!!!!!!
『ははは。じゃあ皆さんにさっきしきれなかった『秘石と私』巻末フロクの解説を』
 まだマイクはずしてないのかよ! つうか大画面も再び映すな! 
 お前らどんなサービス精神だッ!
『まず最初の第一章一条一項の『パパだよ、そしてこれはパンダ』に関してですが、この想起の背景には、実は悲しい事情があったのです。秘石を奪った我が息子シンタローが南の島に行ったきりの時……』
 もう……。
 もう……。
 もうッ……!
 耐えられないッッッッッ!!
 恥ずかしいッッッッッッッッ!!!
 シンタローの凍りついた足が初めて動いた。
 矢のように人込みを飛び出す。
 派手なスーツの男の手をつかむと、比較的人の薄いヨヨギ方面へと走り出した。



----------



「シンちゃん、荷物持つよ」
「いいって」
「シンちゃん、寒くないの」
「つーか別の意味でサムいんだよ放っとけ」
「シンちゃん、何買ったの、見せて」
「ここで見せられるかよ! いいから大人しく歩け」
 自分たちはシンジュク御苑に向かう細道を歩いている。
 暗く街路樹が陰り、たまに通る車のサーチライトが掠めていく。
 小さく夜の鳥の鳴き声がした。
 ……まだ心臓がばくばくいっている。
 信じられない。ありえない。
 あああ、恥ずかしい! なんなんだよ! 
 どうして俺ばっかりこんな目に!
 平然とバカをやるこの男が憎らしい。



「ねェ、シンちゃん」
「あんだよ、黙ってろ」
「……じゃあパパの口塞いでよ」
「うわったったったっ!!! バカ! どーしてアンタはこう人目とかどーでもいいんだよッ! 恥を知れ!!!」
 大きな体に後ろから抱きつかれた。
 少ないとはいえ遠巻きに好奇の目が向けられている。女性の黄色い声まで聞こえてくる始末だ。
 シンタローは唇を寄せてくるマジックに必死に抵抗した。
 掴み掴まれの、ぎゃんぎゃんとしたいつもの押し合いになる。
「……だってシンちゃん」
 耳元で低く声が響いて、それが嫌で文句を言ってやろうとその顔を見ると。
 わざとらしい素振りの中で、意外に彼は真剣な目をしていた。
 思わず手を止める。
 通り過ぎる車の光が、薄く長く二つの影を作って、また闇に消えた。
 カタカタカタと遠くに走る自転車の音。近付いたままの自分の頬が相手の息を感じる。
「とにかく大きな声で言わないと、お前はどんどん私から離れていってしまうよね。お前が立派になっていくのは嬉しいよ……でもそれが寂しい。置いていかれそうで不安でたまらない。私にはお前だけだもの。だから何だって使うよ。何だって利用して、世界中の何処でだって、朝から夜まで何時だって、お前のこと愛してるって言いたいんだよ」
「……そんなの……言わなくていい」
「でもシンちゃんわかってくれないし」
「そんなのわからなくていーんだよっ! アンタだって」
 言葉を切る。
 また無性に腹が立った。
「アンタだって、わかってないだろ、色々……オラ、もう行くぞ。ホントに置いてくぞ」
 無理矢理に男を振り払い、スタスタと道を歩く。
 冷たいんだから、という声がして、後ろからついてくる足音が聞こえた。



 まったく最悪だ。
 このバカが。クソ。
 ひたすら手間がかかって。
 死ぬほど気がきかなくて。
 とにかく思い通りにならなくて。
 いつまでたっても訳がわからないし、あっちもわかっちゃくれない。
 なんて面倒な奴。
 なんて直球な奴。
 なんて恥ずかしい奴。
 シンタローは振り返った。
 視線が合って、嬉しそうに微笑みかけてくる青い瞳。
 ……。
 ……わかってる。
 この世で一番恥ずかしいヤツは。
 アンタを放っておけない、俺自身。






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タンポポの花
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 本部の中庭隅に、タンポポが咲いていた。
「ふうん、シンちゃん、そんなのが好きなんだ」
 しゃがみこんで嬉しそうに眺めている黒髪に声をかけると、『好きだよ』と素直な答えが返ってきた。
「春になったって感じがするだろ。それにこんなコンクリの間から、よく顔出したなって思ってさ」
 差す日の光は暖かい。灰色のコンクリートの小さな割れ目からは、黄色い花弁が天を向いて咲いている。
「すっごく綺麗だ」
 そう言ったシンタローは自分を振り向き、『な!』と同意を求めてきた。
「ああ」
 返事をすると、彼はわずかに眉をしかめる。
 どこかいけなかっただろうか。
 シンタローが長い髪を揺らせて立ち上がった。
「……とにかく、春って好きさ。ワクワクしてくるし、こーゆー緑を見てると俺も頑張ろうって気になるから」
「そう」
「じゃあ、俺、行くよ」
「気をつけて」
「……うん」
 見送ったシンタローの背中が、建物の中に消える。
 彼はこれから戦地に行くのだ。
 残されたマジックは、一人で彼が喜んでいた『緑』を観察する。
 それは言われなければ、自分の目には雑草としてしか映らない草々。
 本部付の庭師が仕事を怠っているぐらいにしか思わない。
 彼は芸術品や花の良さの審美眼は備えていたが、このような勝手に生える雑草を見て、頑張ろうなどと思える気持ちが全くわからなかった。
 だがシンタローがそう言うなら、それはそういうものなんだろう。
 嬉しそうに話していた姿。
 そんなシンタローの赤い頬は、とても可愛いと思う。
 シンタローだけが、マジックにとって価値がある。



----------



 数日後に帰陣したシンタローは、食卓のテーブルの上を見て驚いた。
「どうしてタンポポを植木鉢に入れるんだよ」
 出陣前に見た黄色い花が、白いクロスの上に置かれている。
「え、どうしてって」
 マジックは驚いたように言う。自分が喜ぶとでも思っていたのだろうか。
「だってシンちゃんはこの花が好きなんだろう。だったら、こうして家に入れて守らなきゃだめだよ。外に置いたら風に吹かれるし踏みつけられるよ。そうなってからじゃ遅いじゃないか」
「……」
「そうだ、これはコタローの枕元に置いておくよ。そうするとお前は嬉しいだろう?」
 いい思い付きをしたという顔で男は言い、窺うようにシンタローの目を見下ろした。
 反応に困ったシンタローが曖昧に口端を上げると、彼は安心したように微笑む。
 シンタローが悲しくなるのは、いつもこんな瞬間だった。



 その夜コタローの部屋に入ると、花の鉢はマジックが言った通りベット脇に置かれていた。
 側の椅子に腰掛け、小さな弟の頬をなぞる。
 規則正しい寝息が伝わってきて、彼が眠りの中でも確かに生きていることに安心する。
 可愛い顔の隣の、鉢植えのタンポポ。
 それがひどく寂しそうに見えて、その花びらにも手を伸ばす。
 数日前に彼が感じた生命力は消えていた。
 しばらく黄色い花を触っていると、また胸の奥に寂しさが込み上げてきた。
 蘇る過去の言葉たち。
『コタローのことは忘れろ』『私の息子はお前だけだ』『お前さえいればいいんだ』
 ――アンタは、この子を愛していない。
 おそらく今この瞬間も。
 俺に引け目を感じて、俺に無理矢理合わせてる。



「ここに来てたんだ」
 部屋の扉が開いて、マジックが姿を現す。手には茶色のアンプルを数本持っている。
「その鉢。どうも元気がないみたいなんだ。だから栄養剤でも挿そうと思って」
「……」
 その瞬間、シンタローは胸が怒りで熱くなるのを感じた。
 近づいてきた男の腕を乱暴につかむ。
「この花は、鉢植えにされたからおかしくなったんだよ……ッ」
 金髪の男の整った顔は不審気だ。
「……俺は、植木鉢に入れたタンポポが見たいんじゃないんだよ。踏みつけられても、コンクリとか風とかに邪魔されても、頑張って根を張ってる姿が好きなんだよ。大事にしたいってのと鉢に入れたり栄養やるのは違う……」
 それがこの男の可愛がり方だと知っているから、それだけに我慢ができなかった。
 自分も一度、逃げた。
 マジックは首を傾げて考える様子をしながら言う。
「お前がそれを元に戻せと言うなら、そうするよ」
「……ッ!」
 カッとなった。
 揺れた自分の肘に植木鉢は当たり、呆気なくベットの下に落ちて割れた。
 絨毯に飛び散る陶器の破片と土。
「あ……」
「ああ、割れちゃったね」
 しゃがみこんでそれを拾い集める男。
 泥の中でくちゃくちゃになっているタンポポの花が、目に痛かった。
「……その花、どうするの」
 立ち尽くしたままでシンタローが聞く。
「ん?そうだね、お前の好きなように。また鉢に植えるか、それとも元の……」
「アンタさ」
 その言葉を遮り肩をつかんで真正面から見据えた。
 悲しい気持ちが湧き上がってきて、それを吐き出したくてたまらなくなる。
 相手が困った顔をして立ち上がると、長身から見下ろされる形になった。



「アンタ、コタローが目覚めたら、どうすんの。やっぱり『お前の好きなように』って言うの」
「……」
 また感情の読み取れない瞳を、この男はしている。
 この瞳が、ずっと怖かった。
 でも今は立ち向かって言わなければならない。
 ――俺よりも、この子を愛して。
 血のつながらない俺なんかよりも、血のつながったこの子を。
「お願いだよ……コタローが目覚めたら、ちゃんと愛してやってくれよ……」
「ああ」
「そんな生返事じゃなくて、ちゃんと約束してくれよ」
「……約束するよ。ちゃんとコタローを愛する」
 約束しても、約束しても、次の瞬間にすぐまた不安になる。
 この約束はこれからまた何度も重ねられるのだろう。
 なぜなら自分はいつだって悲しくなるし、いつだってこの人はその内面を自分に見せてはくれないからだ。
 青い眼を見つめていると、自分の黒い目から涙が溢れてくるのがわかった。
 絶対にこの男とは理解しあうことはできない。
「ごめんね。また不安にさせて」
 冷たい指がそれを拭う。
 シンタローはその手を取って、握りしめた。
 寂しい。
「……アンタは、俺が言ったからって何でもその通りにやんのかよ……」
「違うよ」
 男が軽く背を屈める。額と額がくっつけられて、シンタローは目を閉じた。
 こういう瞬間、彼はわかりあえない二つの心の境界線が、ふっと溶けるのを感じる。
 だけどそれは目を閉じている間だけのことだ。
 甘い低音が暗闇の中で、間近に響く。
「お前が教えてくれる光を、私はいつも探している……お前が導いてくれなければ、もう歩けない」
「光なんて俺には見えないよ……どうやって教えろっていうんだよ……」
「今はお前が目を閉じているから。今お前が見ているのは、私の闇だ。お前が目を開けてしまうと、私はまたこの暗闇に一人取り残される」
「……」
「でも、お前は目を開けて。そして正しい道を、何度でも私に教えて」
 声は静かで強かった。
「私は何度でもやり直す。お前といる限り」
「……父さん……ッ」
「ここはそれ以外には何の価値も生まれない世界だ」
 俺しか価値がないといつもアンタは言う。
 なら、俺がアンタの世界を作ってやる。
 何度でもやり直すよ。失敗しながら、アンタに言い続けるよ。
 この繰り返しでしか、俺たちは強くはなれない。
 失われた時間を取り戻すことはできない。
 そうしなければ、俺とアンタの心の溝は埋まらないんだ。
 こんなに、つながりたいのに。



 お前の言いたいことはわかったよ。
 このタンポポはコタローなんだよね。
 ……もう閉じ込めたりはしないよ。
 別のやり方で大事にするよ。
 ……愛するよ。
 そして男は子供の金色に輝く頭を撫で、その髪に軽く口付けた。








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 アラシヤマは、目黒にある建部の道場を見張っていた。建部は依然として家の中から出てこない。
 いきなり踏み込んで奉行所に連行しても良かったが、確たる証拠が無い上、アラシヤマには建部が拷問を受けても医者殺しを白状するような気がどうにもしなかったので、どうすればよいものか考えあぐねていた。
 そうこうしているうちに、建部宅を訪ねてきた者がある。
 「建部さん」
 戸口に立ったのはシンタローであった。
 (何で、よりにもよって今、シンタローが・・・)
 アラシヤマは、舌打ちしたい気分であった。これで、さらに踏み込みにくい状況となった。


 シンタローは、返事が無かったので、少々不審に思いつつも勝手に戸を開けて中に入った。土間に立ったが、板戸が全て閉め切られているせいか部屋は薄暗く、戸口から差し込む日の光が唯一明るかった。誰もいないかと思われたが、部屋の中に人の気配がする。
 強い酒の臭いがし、シンタローは、顔を顰めた。
 「建部さん?勝手に上がるゼ!?」
 そう言ってシンタローは部屋に上がり、板戸を開け放った。
 部屋には一気に昼の日が入り、蹲っている建部の姿が在った。彼の周りには酒瓶が幾つも転がっている。髪の毛は茫々で、以前よりもさらに痩せており、目だけが何かに取り憑かれたように、ギラギラとしていた。
 シンタローは、
 「一体、どーしたんだヨ!?」
 と問うたが、返答は無かった。
 シンタローが、建部の傍に膝を着き、
 「建部さん!?」
 と、建部の顔をのぞきこむと、いきなり肩口を掴まれ、畳に押し倒された。
 突然の事にシンタローは目を見開いたが、何か仔細があるのではと思ったらしく動かず、
 「何だか分かんねぇけど、大丈夫だ」
 そう言ってシンタローが片手を伸ばし、建部の背を撫でると、建部は、
 「きぬ、おきぬ・・・」
 と言って泣き出した。
 しばらくそのままでいたが、不意に、建部の様子が一変し、
 「シンさん、おぬしの所為だ・・・」
 と言って、シンタローの着物を引き千切るように脱がせようとした。当然、シンタローは、
 「何すんだヨ!?」
 と、建部を押しのけようとしたが、痩せさらばえた体の何処にそんな力があるのか不思議であるが、ビクともしない。シンタローは暴れたが、服を全部脱がされてしまった。
 これから何をされるのか分からなかったが、シンタローは怖くなった。胸元を濡れた感触が這い回るのが気持ち悪かった。
 「嫌だッツ!ヤメロッツ!!」
 無我夢中でそう叫ぶと、何か、熱いものが頬にかかった。
 おそるおそる、目を開けると、そこには、血のついた刀を握ったアラシヤマが無表情に立っていた。


アラシヤマは、シンタローが板戸を開けるのを見て、シンタローが帰るまで待とうと思った。家からは死角となり、かつ内部の様子の窺える場所に移動したが、シンタローと建部の会話を聞いていて腹が立った。
 (甘うおます。もうシンタローのことなんや、どうでもええわ。勝手にしなはれ)
 そう思ったが、シンタローの抗う声が聞こえ、中で何が行われているのか想像がつくと、思わず刀の鯉口を切り、任務の事など完全に忘れて、走った。
 そして、目の前の光景を見ると、刀を振りかぶり、斬った。
 

 シンタローは、呆然とアラシヤマを見上げていた。彼にはどうしてアラシヤマがこの場にいるのかが、全く理解できなかった。
 アラシヤマは刀の血を振って鞘に納め、建部の身体を足で蹴って退かした。そして、屈んでシンタローを起こし、自分の着ていた羽織を彼の剥き出しの肩口に掛けた。
 ―――アラシヤマは、正面からシンタローを抱きしめた。
 シンタローは身じろぎしたが、アラシヤマは、
 「完全に、わての負けどす。わては、シンタローはん。あんたはんが好きや」
 そう言って、もう一度シンタローを抱きしめると、何処からか短い針を取り出し、シンタローの首筋に刺した。
 シンタローの目蓋が落ち、眠りに入る間際、アラシヤマは、シンタローの頬に着いた血を指で拭い、
 「これは、全部夢どす。何事も無かったんどす」
 囁くように言った。







  

 アラシヤマは、シンタローに服を着せると、意識の無いシンタローを担ぎ上げたが、ふと、血を流して倒れている建部の元に寄り、
 「何か、言い残したいことはおまへんか?」
と聞いた。
 建部は、まだ息があったが、一言、
 「きぬ・・・」
 と言って息絶えた。何処か、安らかな死に顔であった。
 アラシヤマは、その場を後にした。

 
 駕籠を呼んで意識の無いシンタローを乗せ、奉行所まで戻ると、マジックが立っていた。
 アラシヤマが抱き上げていたシンタローをマジックに渡すと、マジックは無言でシンタローを受け取り、
 「竹の間で、待て」
 とのみ言うと、屋敷の奥へと姿を消した。
 アラシヤマが竹の間に控えていると、しばらくして、マジックがやってきた。
 入ってくるなりマジックは、アラシヤマを殴り飛ばし、
 「お前がついていながら、なんて様だ」
 そう言った。普段のマジックとは全く違い、底冷えのするような、恐ろしい様子であった。
 アラシヤマには返す言葉も無く、黙っていた。
 マジックは、上座に座ると、
 「まぁ、私がお前でも、そうしたかもしれないけどね」
 そう言って、脇息に肘を置き、溜め息を吐いた。
 「わては、お役御免どすか?」
 アラシヤマが静かにそう聞くと、マジックは少し考え、
 「・・・しばらく、京へ行け」
 と言った。
 アラシヤマは、その返答が意外であったのか、目を見張った。
 退出際、アラシヤマが
 「―――お奉行はんらしゅうおまへんえ?」
 そう言うと、
 「私もそろそろ歳かな?ヤキがまわったもんだ」
 そう、軽い調子で応じた。


 夜半、八丁堀の長屋に戻り、アラシヤマは少ない荷物を纏めた。
 ふと、壁に架かっていた暦がぼんやりとした灯りの中、目に留まり、
 (もう、神無月どすか・・・。京に行く途中、山が見事に紅葉してそうどすな)
 と思った。
 「シンタローはんにも、いっぺん京の街を見せてやりとうおます」
 そう呟くと、何かの感傷を振り切るように頭を振り、アラシヤマは灯りを消した。



 季節は長月となり、秋もいよいよ深まってきた。巣鴨や雑司ヶ谷ほど大掛かりなものでないにしても、あちらこちらの町内では植木屋が大輪の菊で鶴や帆掛け舟などの細工を作り、店先に誇らしげに展示している。
 (金が要る・・・。とにかく今よりも多分に要る)
 何やら思いつめた様子で黄昏時の路を歩む男がいた。代稽古帰りの建部宗助である。懐中には代稽古の謝礼金があったが、それのみでは立ち行かない事情が建部にはあった。
 建部は大横町に足を向け、細い路地に入った。家の引き戸を開いて中に入ると、中は灯もつけないままで薄暗かった。
 「おきぬ」
 と、建部が声を掛けると、床に敷き述べてある布団から、ゆらり、と白い人影が身体を起こした。
 「建部様・・・」
 か細い声で痩せ衰えた女性が返事をした。
 「そのまま、そのまま寝ておれば良い!」
 急いで建部は部屋に上がると、そっと女性の肩を抱き、再び布団に横たわらせた。
 枕元に座った建部を、きぬは高熱があるのかぼんやりとした目で見上げ、
 「お越し頂いて、ありがとうございます」
 と言った。
 「具合はどうだ?」
 きぬは骨と皮ばかりの白い手を伸ばし、慌てて建部はその手を掴んだ。彼女はかぶりを振り、
 「建部様、もうよろしいのですよ」
 「何を言う!?薬、薬さえあれば・・・!“亦私蘭修謨斯”という薬さえ手に入れば全て良くなると、医師から聞いたぞ!?」
 きぬは、少し微笑み、
 「ありがとうございます。でも、もうよいのですよ。貴方様は、最近気になるお方ができたのでしょう?そのお方と幸せになってくださいまし」
 「嫌じゃ!俺にはお前だけだ!!そんなこと、言わないでくれ・・・」
 建部は、枕元で男泣きに泣き始めた。
 きぬは、少し身を起こし、もう片方の手を伸ばすと建部の背中を母親が子どもをあやす様に撫でた。そして、
 「建部様、きぬは幸せでござります」
 そう言った。


 現在、アラシヤマは内々に一月前に医師が殺害された件を調査していた。マジックから直々に指示があり、どうやら密貿易が関係しているらしい。おかげで、小野道場に通う事もできず、シンタローとは会えない日々が続いていた。
 色々と調べていくうちに、その医師は呆れた悪徳医師であることが分かった。密貿易で得た高価な薬は金に糸目をつけない患者に売りつけ、多くの患者には舶来物の薬と偽って高額で偽の薬を売りつけていたのである。
 アラシヤマは、医師の自宅から押収した帳簿を見ながら、
 (―――ぼろ儲けどすな。これやったら、いくら悪徳言うても、あのドクターの方がまだマシでっしゃろ。あのドクターは、金は二の次どすからな。・・・いや、やっぱり、どっちもどっちどす。この前わてに牽牛子を一服盛ったのは絶対に忘れまへんえ~!!呪ってやりまひょか)
 どうやら、アラシヤマは高松に実験台にされて酷い目に遭ったらしい。ブツブツ言いながら帳簿を捲っていると、ふと、気になる名前が目に留まった。
 (―――建部?ひょっとすると、これはあの貧乏浪人でっしゃろか?でも、ピンピンしとったさかい、高価な労咳の薬なんか買うわけないわな)
 気のせいかと思って、その考えを捨てようとしたが、中々頭から離れない。
 不意に、湯灌場で高松の検死に立ち合った際に死体の体につけられていた刀傷が、アラシヤマの脳裏に浮かんだ。
 「右顔面が、斬られとったナ・・・」
 右顔面斬りは、神道無念流の技の1つである。
 「悩んでいても、しょーもおまへんな!行きまひょか!!」
 アラシヤマは、帳簿を閉じると立ち上がり、壁に掛けられていた編み笠を取って、奉行所を出た。

 
 帳簿に書かれていた住所を頼りに、アラシヤマは番町の方角に向かった。番町は「番町にいて番町しらず」と言われるほど複雑な道筋が広がっていたので、アラシヤマは「番町絵図」を携帯していった。
 「ここやろか・・・」
 アラシヤマが木戸を潜り店の前に立つと、井戸の傍で町女房風の女が、昼餉の支度なのか鯵を捌きながら、
 「旦那、そこは空き家だよ」
 と投げるように言った。
 「此処に、建部という人が住んではるはずなんどすが、知りまへんか?」
 「たけべ?たけべだかなんだか知らないけど、そこにはおきぬさんって女が1人で住んでたよ。この頃姿を見なかったけどあれは、肺病病みだね。先日、自害したけどさ」
 「自害どすか?」
 女房は元来噂好きであったらしく、捲し立てた。
 「そうだよ、短刀で喉を一突き。わたしゃ、百両積まれたってあんな死に方いやだよ。おお、桑原桑原!・・・そういや、侍風の男が結構通ってたけど、私らとは全く付き合いがなかったねぇ。おきぬさんは、お武家の出じゃないかって私らは噂してたんだよ!」
 アラシヤマは、小包丁を振り回しながら熱弁する女房の勢いに、少々引き気味になりつつ、
 「ありがとうさんどす。少のうてすみまへんが、とっといておくれやす」
 そう言って、一朱を渡した。女房が思わぬ収入に喜んでいるのを背に、
 (やっぱり、関係がありそうやな)
 そう思いつつ、一旦、奉行所に引き返した。







  

 アラシヤマは例の夢を見て以来、シンタローと顔を会わせ辛くなった。
 稽古の最中はそのような事を意識せずシンタローと立ち合えるのだが、それ以外の時に面と顔をあわせると、どうしても思い出してしまう。彼は、赤面したり挙動がぎこちなくなったりと自分の意志では制御出来ない状態に陥るのが嫌で、シンタローと向かい合うのを避けていた。
 しかし、避けようと思う一方で、離れるのが耐え難いと思う心もある。
 いつの間にかアラシヤマは、物陰からコッソリとシンタローの姿を見るようになっていた。
 (なんで、わてがこんなにコソコソせなあかんのや・・・)
 そう情けなく思わないでも無かったが、かといって、アラシヤマにはどうしようもなかった。
 シンタローから少し距離を置くようになって、見えてきたこともあった。それは、存外アラシヤマと同様の者、つまり、シンタローに恋慕する者がいるという事である。憧れ程度の者が大半ではあったが。
 (最初は、あの親馬鹿奉行の杞憂かと思うたけど、あながち的外れでもなかったんやな・・・)
 アラシヤマは自らのことを棚に上げ、忌々しく思った。
 そうは言っても、小野道場の弟子達の間では暗黙の了解のようなものが行き渡っており、シンタローに思いを告げようとするなどの行動に出ようとする者は皆無であった。
 江戸時代、男色は一つの文化として存在しており、それほど異端視はされてはいなかったものの、やはり、それなりの覚悟が必要ではある。
 アラシヤマの場合、様々な状況から考えるともう自分を誤魔化せる段階としては既に無理が生じてきていたが、彼はマジックから言い渡された「シンタローの身辺を見張る」という当初真面目に取り組むつもりはなかった任務を根拠に、現在の自分の行動を正当化していた。感情の面については、どうしようもなかったが。
 (シンタローには、任務やから、気づかれたらあかんのどす!)
 そう思うと、葛藤状態で苦しい中、少しだけ楽になるような思いがした。


 季節は葉月となり、朝夕に冷気が感じられるようになった。空からは入道雲がいつの間にか姿を消し、代わりに白い羽のような鰯雲が現れた。
 アラシヤマは、相変わらず道場でシンタローの姿を陰から窺っていたが、道場外のことまでは詮索しようとはしていなかった。しかし、シンタローがミヤギやトットリ、アラシヤマ達と奉行所まで帰るようになると、シンタローが自宅にはそのまま帰らず1人で時々何処かに行く事に気づいた。
 (シンタローは、一体、何処に行きよるんや?まさか、女の所に通っとるんやろか・・・)
 そう思い立つと、いてもたってもいられず、ある日アラシヤマはシンタローの後をつけてみる事にした。
 ある日、シンタローは、渋谷から目黒の方面へと足を向けた。その頃の目黒の辺りは江戸の郊外であり、武家屋敷や寺院の他には、田畑や雑木林が広がっていたので、アラシヤマは尾行に苦労した。
 (えらい田舎どすな・・・。こんなとこに、女が住んどるものやろか?)
 そう思いつつ、様子をうかがうと、シンタローはボロボロの小さな一軒屋の前で足を止めた。一応小さな道場らしいが、どうやら閑古鳥が住み着いているようである。
 門も何もあったものではなかったが、入り口らしきところでシンタローが、
 「建部さん」
 そう呼ぶと、奥から、
 「おお、シンさんか!ようまいられた」
 と、痩せて旗竿の様に背が高い、三十代ぐらいの、どう見ても貧乏浪人が姿を現した。彼は洗い晒しの衣服を見につけ、頭は総髪にしていたが、人が良さそうなものの、一見全く強そうには見えなかった。しかし、アラシヤマは、
 (アレは、ただ者やおまへんな・・・)
 と思った。


 一向に風采の上がらない浪人は、建部宗助という。彼は某藩の下級藩士であったが、ある事情により脱藩し、江戸に出てきている。彼は神道無念流の剣客であり、同じ無念流の番町にある道場で賓客待遇となり、時折門弟に指南を行っていた。
 シンタローとは、さる大名の御前試合で面識を得た。
 建部は道場主の薦めもあり、試合に出場した。双方立ち合ったまま動かず、結局、その場では決着はつかなかった。シンタローに勝つ事ができなかったので建部にとって仕官の話は無しとなったが、お互いもう一度立ち合ってみたいと思ったので後日の試合を約束し、その場で別れた。その後、シンタローとの交誼が始まり、シンタローは稽古がてら時折目黒まで遊びに来るようになったようである。


 アラシヤマは、道場の背後の林の中から様子を窺った。シンタローと建部は木剣を持って移動したので、どうやら2人は立ち合うようである。
 過ごしやすい季節であるからか、道場は全ての板戸を外し吹き抜け状態であるので少々離れた場所からでも十分に見えた。
 道場内に入ると、お互い、左脇構えを取った。
 しばらく間合いをとり道場の空気は張り詰めていたが、不意に両者ともに前進し、間合いを縮めた。建部は刀を振りかぶると、正面から大きく斬り込んだが、シンタローは左足から大きく一歩下がって攻撃を避け、同時に木刀を下段に付けて、空振りした建部の木剣に合わせた。両者は木剣を合わせたまま、相中段の構えに戻った。シンタローは木刀を外すと、正面斬りを浴びせたが、建部は頭上で横一文字に木刀を構え、受け止める。そのまま力づくで押し戻し、シンタローの体勢が少し崩れたところで、上腰に構えた木刀を添え手突きにシンタローの脇腹ギリギリで止めた。
 「これまで、だナ」
 「これが五本目だよ、シンさん」
 ずっと見ていたアラシヤマは、
 (神道無念流の型か・・・)
 と会得した。
 その後、2人は打太刀と仕太刀を交代して、再び非打ちの五本目の型を使い始めたが、シンタローは、1回相手の技を見ただけで既に覚えていたらしい。見事な剣使いであった。
 稽古が終わった後、2人は縁側に座っていたが、建部は何やらぼやいていた。
 「うちの門人も、シンさんの十分の一でも剣才があればなぁ・・・。どうにも筋が良くない」
 「そういや、吾平だっけ?今日は姿が見えねェけど、どうしたんだヨ?」
 「あやつは、畑仕事の方がいいと言って、この前からとんと稽古に来ないが・・・」
 「なんだ。だったら建部さん、門人ゼロじゃねーか!」
 「うう、シンさんはハッキリ物を言うなぁ・・・」
 図星をつかれたらしく、建部は頭を掻きながらションボリしてしまった。どうも三十を超えた大の大人が、未だ少年と言っても過言ではない年下のシンタローに言い負かされるのは、何やら滑稽なようでもある。だが、建部はどうやらそのあたりに、こだわりはないようであった。
 シンタローは、少し悪かったと思ったのか、話題を転じた。
 「御新造さんの具合は?」
 シンタローがそうたずねると、建部は顔を曇らせ、
 「相変わらず、中々よくはならんよ・・・」
 と言った。
 シンタローは彼の妻には会った事は無かったが、以前、一度建部と飲みに行ったとき、酔った建部が散々惚気ていたので閉口した覚えがある。
 建部の妻は、現在病で臥せっていた。労咳、現在で言う肺結核であった。当時、治療法は滋養強壮を中心とした処方が中心で、気休め程度である。しかし、高い薬さえ飲ますことができれば良くなるといって暴利を貪る医者もたくさんいた。


 木陰から見ていたアラシヤマには、シンタローと建部の会話は聞こえなかったが、シンタローが建部に気を許している様子を見てイライラした。
 (あの浪人は、今まで何人も斬ってますな。全く羽振りが良さそうでもないのに、片田舎の破れ道場とはいえ借りる事ができるやなんて、たぶん、後ろ暗いところのあるはずや。そんなんも分からんで、シンタローは暢気なもんどすな!)
 アラシヤマは、不快気に眉間に皺を寄せた。
 彼はしばらく何事か考えていたが、
 「シンタローは、甘うおます」
 懐手をし、そう呟くとアラシヤマはその場を後にした。



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