(「ささやかな変化」の後の話)
三日ぶりに部屋に戻り、明日の予定を頭の中で確認してから時計を見るとすでに「明日」は「今日」になっていた。時間の使い方が下手なのか、仕事を詰め込みすぎなのか、総帥を継ごうとしている身として後者はともかく前者はどうにかすべきだと結論付けると、彼は服を着替えてベッドにもぐった。心身ともに疲れており、一秒でも長く休息をとるべきなのに、眠りはそう簡単に彼に訪れてはくれず、電気を落とした寝室で何度も寝返りをうった挙句、もそもそとベッドを抜け出した。
髪を鬱陶しそうにかき上げながら冷蔵庫からアルコールを取り出して、何となく窓の方を向く。真っ暗にしてあるはずなのにやけに明るいと思ったら、季節のせいかやけに月が大きく明るかった。
「月見酒」
夜中の来訪に奇妙な顔つきになっていた目の前の相手にそう言って、彼が酒を差し出すとたちまち叔父は破顔した。
「マッカランか。また良いもん持って来たな」
嬉しそうにしながらもまだ腑に落ちない様子だったので、「ほら、あん時」と酒瓶を渡しながら彼が部屋に入りこもうとすると、阻止することもなかったが叔父はますます奇妙な顔になった。
「酒でも飲もうぜって言ったじゃねぇか、アンタ」
「ああ」
すれ違った廊下で、今度酒でも飲もうと言われたのは先日のことだ。呆けたか?と彼が訊こうすると、叔父はようやく納得したのか頷いてグラスを探し始めた。晩酌の用意している叔父を尻目に、彼は初めて入った叔父の部屋を観察する。飛行船暮らしが長いせいか、生活用品は必要最低限しかそろっておらず、かと思えば意味のないガラクタが部屋の隅に積んであったりで統一性が無く、本人の性格のように支離滅裂だった。
「アンタの部屋、初めて見たけど汚ねぇな…」
煙草の焦げ痕のついたくすんだ色のソファに座ると埃が舞い上がった。床にちらばった酒瓶や煙草の空き箱を眺めながら彼がそんな感想を述べていると、叔父がどこから取り出したのかしれない曇ったグラスを二つ手にして向かいに座る。
「部屋が汚くたって、死にゃしねーよ」
叔父が蹴飛ばした酒瓶がごろごろと転がって壁にぶつかり、かしゃんと音を立てた。まぁ確かに、と彼は納得しつつもいつ洗ったのか分からないグラスを前に後悔の念が湧きあがった。スコッチの瓶を開けて自分のグラスに大量に注ぐ叔父の手から瓶を奪い、彼も渡されたグラスにマホガニー色をした液体を注いだ。
かなり大量に注いでいたはずのグラスをあっさりと空け、次を飲む叔父は顔色一つ変わっていない。
「そーいやーおっさん、酒飲めたんだったな」
「飲めねぇわけねぇだろ。俺を誰だと思ってんだテメェ」
「ナマハゲだろ。獅子舞か?」
「…生意気なとこはガキん時と変わってねぇな」
叔父は面白くなさそうな顔で、床に落ちていた煙草の箱を拾うと、一本抜き出して火をつけた。煙のきつい匂いに彼が眉を顰めていても、叔父はお構い無しの表情で煙を吐き出している。
「煙草」
「ああ?」
「おっさんも煙草は変わってねぇんだな」
子供の頃、叔父が旨そうに吸う煙草が気になって仕方なかったことを、彼は思い出した。口では文句を言いながら、たまに大人気なく本気で遊んでくれる叔父は、子供達の良い遊び相手になっていた時代もあった。彼が成長するにつれて、それは変容して行ったのだが、それはすでに過去のことだ。
島での出来事があってから何かと理由を付けて本部に帰ってくるようになった叔父は、彼の目から見ると少々変わったように思える。今夜飲むきっかけになった廊下で会った時も、以前のようにどこか構えた雰囲気がなくなり、昔のようなごく自然な態度だった。
『煙草は』と彼が言外ににおわしたものを感じ取ったのか、叔父はふいっと目を逸らした。あの番人の面影を重ねていたことに対してばつが悪いのか、罪悪感なんて感じるタマじゃねぇのに顔に似合わず繊細なことで、と苦笑していると、叔父は突然立ち上がり、煙で燻されたような色になったブラインドを開けた。
「月見酒なんだろ」
咥え煙草のままで言うので灰が落ちないか気にしつつ、一応頷いてみせる。「にしても月なんか出てねぇぞ」と続けて叔父が言うので、彼も窓の外を向くと、あれほど明るかった月は姿が見えなかった。
「向きが悪いんじゃねぇの」
月見酒と言う名目でやって来たのに月が見えないとなると、自分の行動が変に馬鹿馬鹿しいように思えて、彼は少し苦笑する。
「ま、酒が飲めりゃなんでもいいぜ俺は」
それなりに高価なスコッチを、軽々と空けて行く様子は見ていて感心する。だが、そう叔父ばっかり飲まれても気に食わないので、彼も慌ててグラスを空けた。
「お、ガキの癖に飲めんのかいっちょまえに」
「ガキガキ言うなおっさん。飲めねぇのに酒持って来るか?」
「そりゃ頼もしいこって。あー、何かつまみねぇかな」
ごそごそと探し始めた叔父に、何故つまみを探すのにガラクタの山に向かうのか心底不思議に思った彼は、勝手に冷蔵庫を開ける。
「酒しかねぇな…」
「酒以外に入れるもんねぇだろ」
「アンタはな」
呆れている彼の後ろでは、食料の探索を諦めた叔父がまたスコッチをグラスに注いでいた。つまみがないと飲めないわけではないので、彼もソファに座って適当に飲み始める。足元に丸まった紙くずがあったので広い上げてみると、はずれた馬券だった。
「まだ競馬場通い、止めてなかったんだな」
彼が馬券をぽいっとテーブルの上に投げると、叔父は面白くもなさそうにちらっとそれに目をやって、指ではじいて再び床に落とした。
「勝つまで止めねー」
「借金すんなよ」
「経費回せや。倍にして返してやっから」
「アンタに貸したらぜってー返ってこねぇな。グンマの研究費に回した方がまだマシだ」
アホらしいと彼が肩を竦めて見せると、叔父は怒るかと思いきや、予想に反してくつくつと笑っている。
「何がおかしいんだよ、オッサン」
「いや、酒が旨ぇと思ってよ」
十年か、と叔父がぽつりと呟いた言葉は、彼の耳に確かに届いた。十年と言う過ぎてしまえばあっと言う間のように感じる年月、二人は没交渉だった。元番人を酷く憎んでいた叔父が、自分とわざと関わりを持たないようにしてきたのだろうことを、彼は知っている。そしてそれがいくらか緩和されたのであろうことも。
かといって、全てが無かったことにはならない。面影を重ねて憎んでいたであろう過去も、無言の空気の中に理不尽な感情を感じていた過去も、十年の中には確かに存在しており、それが二人に距離を作っていた。その距離を近づけるも遠ざけるも、すべてはこれからであり、今日がその第一歩だ。だが決して近づき過ぎないであろうを、彼は予感している。彼がこれから成そうとしている団の改変は、叔父の主義とは大きく異なっていた。恐らくこれから団の方針を巡って、何度も衝突するだろう。
そういった予感を持ってさえも、久しぶりに向き合った叔父と下らない会話を交わしながら飲む酒は、彼に酩酊感をもたらして心地好かった。逆に決して縮まらないであろう距離が、心地好いのかもしれない。
「アンタも酒好きだよなぁ」
三十年もののスコッチを、水でも飲むように空けていく叔父は、強いとか弱いとかそういう域を超えている。このペースに付き合っていたら、多少酒が強いだけではそうそうに酔い潰れてしまうだろう。
「大事に飲めよ、良い酒なんだから」
「酒は飲んでなんぼだろ」
このままでは全部飲まれると危惧して奪い取った酒瓶は、すでに随分軽かった。適当に杯を重ねつつ、最後の一杯をグラスに空けて飲み干すと、彼はソファから立ち上がる。
「じゃあな、オッサン。俺寝るわ」
「もうオネムかよガキは。また酒持って来いよ。酒によっちゃぁ歓迎してやる」
「もう二度と持ってこねー。部屋は汚ねぇわ、つまみはねぇわ、酒はほいほい飲まれるわ。俺の部屋の方がマシだ」
「じゃぁ今度はオメェの部屋な。尊敬する叔父様のためになんか作れ」
部屋の扉へ向かいかけた彼は、叔父の言葉に立ち止まると、ゆっくりと振り返った。酒瓶片手に人の悪い笑みを浮かべる叔父をみて、何か言い返そうと口を開いたが、結局何も言い返すことなくふっと肩の力を抜くと、転がっていた瓶を指差した。
「あのバランタイン。あれ持ってきたら入れてやる。何か珍しい日本酒でもいいぜ」
なにやら抗議の声を上げる叔父を無視して、彼は部屋を後にした。月見酒の名目で飲んだ酒は、彼に奇妙な愉しさを与えていた。酒の種類のせいか、飲んだ相手によるのか、どちらだろうと彼は考えたが、微かに酔った頭は思考力を鈍らせており、結論は後回しにせざるを得ないようだ。
とりあえず眠れそうなことに感謝して、彼は冷えたベッドに潜り込んだ。
(2006.11.18)
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(「家族冩眞」の写真を撮った側の人の話)
ファインダーをのぞいた先の「黒」は、異質に見えた。
長兄の第二子が誕生した、と男は戦場で連絡を受けた。最近めっきり甥の顔をみていないので甥が何歳になるのかとっさに思い出せなかったが、随分離れた兄弟になるんだな、と最初はどうでも良いような感想を抱いた。
次に来たのは、漠然とした恐怖のような感情で、それを抱いた自らに嫌悪感が湧いた。そんな男の自己嫌悪は、もしもまた「黒」だったら、と言う危機感、あるいは恐怖感に追われてどこかに身を潜めてしまった。その混沌とした感情をどうにか鎮めたくて、男は当事者である長兄に連絡を入れようか迷ったが、何事も自分の目で確認することを好む自身の性格が、珍しく本部への道のりを歩ませた。
甥が、男が最も憎悪する「あの男」に似てきてから、男は本部へと足を踏み入れることをやめた。甥と直接顔を合わすとろくでもないことになるであろう予感はつねに付き纏い、それを否定する要素も覚悟もなく、ただ兄や弟からの連絡で近状を知るのみにとどめている。
似ている甥に罪は無い。それは男も良く解っている。悪いのはその面影を重ねてしまう自分自身であり、過去のことを許せない、また許すつもりも毛頭無い自らの許容の狭さだと、男は理解していた。だが感情と理性は別物であり、それを擦り合わせて生きていくには、この場合特殊すぎた。
寄りによって自分の甥が、寄りによって「あの男」と似ている。
男にとって悪夢のような事実は、甥が年齢を重ねる嘲笑うかのように顕著になり、どうにも身動きがとれなくなってしまった。双子の弟が甥の修行に同行したとの連絡も受けてはいたが、弟が「あの男」に似た甥と二人でいて何を思うかと考えると双方を哀れに思った。何に対する哀れみか、は男も解っていない。方向性はまるで逆だが、恐らく同じように「あの男」の面影をみているであろう弟の心境にか。それとも何も知らず弟を慕う甥にか。
どちらにせよ、哀れむのはどこか間違っている。男は自分達兄弟を壊した「あの男」に関することで、哀れみなど覚えたくなかった。
長兄の第一子に対する溢れんばかりの愛情をみていると、第二子に対しても似たようなものだろう。「青」であれ「黒」であれ、子煩悩な長兄はきっと今ごろ鼻血でもたらしながら、生まれたばかりの我が子をあやしているに違いない。そう考えて男は総帥室には向かわなかった。
願わくば、仕官学校に通っているはずの甥が帰ってきていませんようにと願いながら、まっすぐに一族のプライベートエリアに足を踏み入れて、さてどこにいるの思案していると、ある程度防音効果が施されている扉からも漏れてくる賑やかな笑い声が耳に入った。願いは叶わなかったようである。変声期を経た甥は、声までも「あの男」を髣髴とさせるものであり、そのあまりの相似に鳥肌が立った。もう一人、次兄の子供の方の甥も遊びに来ているようで、その甲高い声もまた扉の向こうから伝わってきた。
さて、どうするか。ここまで来て踵を返すことは、どこか負けたような気がして男のプライドが許さなかった。だが顔を合わせたくないのも本音である。思案した挙句、男は扉を開けた。
金と黒の子供達が、光溢れる部屋で和やかに笑っていた。
数年ぶりにまともに顔を合わせた二人の甥達は、年齢の割りには子供っぽく、無邪気に映った。だからこそ、益々許せなかった。「あの男」ではないと理性は否定するのに、「あの男」と良く似たその顔で屈託なく笑うな、と男は思った。
だが感情に任せて激昂するほど、男は短慮ではなかった。部屋には子供達から少し離れてその様子を見守っている兄の姿があり、そして甥の成長を目の当たりにした衝撃をとりあえず腹の中に納められる程度に男は歳を重ねていた。
「げ、獅子舞」
「わぁ、ハーレムおじ様」
そんな男の複雑に渦を巻く感情にお構い無しに、甥達は至って呑気に男の登場を受け入れた。黒髪の甥の腕の中には産着に包まれた小さな赤ん坊がおり、すやすやと大人しく寝息を立てているようだった。
「ハーレムか」
何しに来た、と兄に言われる前に男は「新しい甥っ子を見に来たんだよ」と鼻先で笑うようにして本日の目的を告げる。
破天荒な弟の来訪をあまり嬉しそうとは言えない様子で歓迎した長兄は、何か言いたげに眉根を寄せたが、結局何も言わずに再び子供達の方へ視線を向けた。
そんな長兄の態度に腑に落ちないものを感じたが、それも確認すれば分かるだろうと、男はつかつかと子供達の方へ歩み寄る。
「アンタみたいな怖い顔の大人が覗き込んだら、コタローが泣くだろ」
そんな相変わらず可愛くない甥の言葉も、真剣に捉えるとそのままずるずると感情が爆発する危険性があったので、故意に無視した。無視された甥が一瞬奇妙な顔になったのを視界の端で確認し、甥を傷つけたことに対する罪悪感と「あの男」を不快にさせた優越感のような錯覚を覚え、ますます酷くなる感情の混沌に、男は耐えた。
大切に、まるで壊れ物のように甥に抱かれた赤ん坊を、男は覗き込む。
青か、と最初に安堵して、それからその両目が一族特有の力を有していることに気付いて、抱いていた危惧とは別物の危機感が背筋を伝った。
「ふうん。兄貴に似てんな」
どうにでも取れるような感想を一応呟いて、男は子供達から離れて長兄のそばに向かった。「それでアニキはそんな面してたのか」と男が声を潜めて囁くと、兄は「ああ。まさか両目ともそうだとは思わなかった」と眉間の辺りに険しさを漂わせて唇の隙間から困惑を吐き出した。
「あのガキにコントロール出来るのか?」
「まだ分からん。分からんが…」
珍しく言葉を濁す兄は、長子を眺める目とは全く異なる、探るような目で自らの赤子をじっと見つめていた。それはとても親が子供に向けるものではなく、子煩悩とばかり思っていた兄の一面を目の前に、男はその子供の未来に何か不穏なものを感じ取った。
そんな親の視線に気付かずに、子供達は赤ん坊の写真を撮ろうとやっきになってカメラをいじっていた。お互いに交代で赤子を抱いて写真を撮りあい、はしゃいだ声を上げながらシャッターを切っている。
「おい、親父。獅子舞でも良いや。コタローと俺らで写真撮ってくれよ」
カメラを渡された兄が、無言で椅子から立ち上がった。長子の時は自らの手で鼻血をたらしながら何度もシャッターを切っていた兄が、今度は頼まれないと写真を撮ろうとしない。それが何よりも雄弁に、兄の赤子に対する感情を表しているように、男には思えた。
「ちっ、しょうがねーから俺が撮ってやるよ。ついでに兄貴も入れ」
ほら早く、と兄を急き立てて、半ばひったくるようにその手からカメラを奪ったのは、新しい甥への憐憫だったのかも知れない。その目をコントロールする難しさは身を持って知っていた。だからこそ男は兄の危惧も良く分かる。そして黒髪の甥に憎しみを向ける自らを省みると、兄に意見することは出来なかった。
きゃぁきゃぁ騒ぎながら窓辺に立ち並ぶ四人を、ファインダーに納める。
三人の「青」に囲まれた「黒」は異質だったが、それでも大切そうに弟を抱く甥は、このときばかりは男の目にも家族に映った。
「兄貴もガキ共もじっとして笑えって。よし撮るぞ」
この家族が行く末にはどんなものがあるのかと、そう遠くないであろう未来を憂いながら男はシャッターを切った。
(2006.10.19)
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きっかけは、視察のために立ち寄ったとある街の光景だった。
散歩中の子供と一匹の犬。
子供にぴったりと寄り添って歩く茶色の中型犬は、御主人との散歩が嬉しいのか、尻尾をゆるやかに左右に振っていた。犬の賢そうな顔つきは飼い主への信頼に満ちており、子供との絆の強さが伺える。子供が立ち止まり、犬に何か話しかけたかと思うと、尻尾のゆれが大きくなった。
平和な眺めに心が和む。思わず見とれ、しばしぼんやりとしていた。
あいつらみたいだな。
視察中の総帥という立場を忘れたわけではないが、その光景は思わずあの島での記憶を喚起させるものだった。思い出したことは確かであり、弁解するつもりはない。隣にいた従兄弟が顔を強張らせて不安げに自分を見つめる視線に気付いて、無理やりその光景から眼を逸らし、先を促した。
団内に設けられた空中庭園は、プライベートエリアのすぐ近くの階にあり、その存在を知っている人物は限られている。
一族の人間とごく一部の親しい関係者しか立ち入らないこの庭は、幼いころ、良く従兄弟と遊んだ思い出のある場所だった。
長じてからあまり足を踏み入れなくなったが、最近は時間を見つけては、ここに来て独りぼんやりと植物やガラス越しに空を眺めていた。
緑に囲まれていると何となく安心するようになったのは、島から戻ってきてからの習性で、そんな自分に戸惑いを覚えたが、今では開き直っている。
しかし、家族に知られるのは憚られたため、この庭に来るのは、人のいない深夜や早朝に限っていた。
今日、午前2時を回った夜更けに、ここへ来たのはそれなりの理由があった。
視察から帰ってきてから数日間激務に追われ、それもどうにか一段落し、秘書官の勧めもあって今夜は早めにベッドに入ったのだが、高ぶった神経のおかげで眠りは浅く、夢を見た。
過去の記憶が映像となって現れた夢は、生々しく現実味を帯びており、あの島の空気まで感じられるものだった。
夕飯を催促しに肩に登る子供。勢い良く噛み付いてくる犬。愉快で騒がしい島の住人たち。
どれもこれもが懐かしく、夢から醒めたときには、自分がどうして空調の効いた部屋で独りベッドにいるのか、一瞬理解できないほどだった。
視察先で見た光景が今頃になって呼び水となり、こんな夢を見させたのだろうとは、安易に推測できる。
どうしようもないほどの懐かしさと、ぽっかりとした空白、それに諦めと罪悪感が複雑に混じり合った気分では寝直すことも出来ず、部屋を抜け出して辺りに人影が無いことを確認してから、この庭に足を向けた。
植物を眺めながら、過去の記憶と今の自分の立場を思う。
戻りたい、とは思わない。それは確かだ。だが、懐かしい。逢えるものなら、再び逢いたいと思う。
それと同時に、総帥と言う肩書きが加わった己について考える。
島にいた自分と、ここで紅い軍服を纏っている自分。中身は同じものであるはずなのに、どこか相反している。そこには団の公私とはまた別の顔があるらしく、それをたまに覗かせてしまっては、家族を不安にさせているようだった。
不安にさせるのは本意ではないが、思い出さないのも無理な話で、うかつに懐かしんでいる様子を見せないよう気をつけるしかなかった。そしてそれはある程度成功し、ある程度失敗している。
島の記憶を喚起させる光景は、思いのほか至る所に点在していて、つい先日の失敗例を思い出し、従兄弟に対して申し訳なくなった。
「でっけぇため息だな、オイ」
いきなり背後から声をかけられて、驚いて振り向くと、いつの間に来たのか叔父が立っていた。
つい数時間前本部に帰還し、派手に言い争いをしたばかりの叔父が、どうしてこんな時間にこんなところにいるのか分からなかったが、とりあえずここでぼうっとしているところを見られてしまった気まずさと、それから八つ当たりめいた怒りが湧いてきた。
「うっせぇよ」
そのまま無視して立ち去ろうと思ったが、ふと思い立ち、叔父を飲みに誘った。どうせ部屋に戻っても眠れないのだから、酒でも飲もうと決めてはいたが、この状態での独り酒は好ましくないとは自覚していたので、共に飲む相手が欲しかった。
「おいオッサン、ちょっと付き合え」
突然の誘いに、叔父は厭味ったらしく片方の眉を上げて皮肉めいた笑いを口元に浮かべたが、断ることも無く、さっさと歩き出した自分について部屋までやって来た。
いつものように、簡単なつまみを作り、先に飲み始めていた叔父から日本酒を取り上げて、グラスに注いだ液体を一気に空ける。
叔父と飲むときは、大抵くだらない他愛のない会話に終始するのだが、今回は勝手が違ったようだ。
「あんなところに、何しに来たんだよ」
そう話を振ったのは、どういう意図があったのか、自分でも良く解らなかった。純粋な興味と、どこから見られていたのかという探りが半々といったところだろう。
「煙草の吸い過ぎで喉がいがらっぽくなったなったから、新鮮な空気でも吸おうと思ってな」
そう言いながらも、叔父は煙草に火をつけた。嘘だと直感したが、追求しても仕方ないので、灰皿を押しやって、どうでもいいような相槌を打っておいた。
「テメェはどうなんだよ。馬鹿みたいにぼけっとしながら、でっけぇため息なんか吐きやがって」
やはり見られていたのか、と思うと同時に、見られたのがまだ叔父で良かったと安堵する。これが従兄弟や父親だったら、また不安にさせるところだった。この叔父は、他の家族と比べると、自分に対する執着が酷く薄い。だから話してもかまわないと思った。
「夢を見たんだよ。あいつらの」
口から出た『あいつら』と言う単語の響きで、誰がと明言しなくても伝わったようで、叔父は軽く目を見張ったが、そうかと納得したように頷いた。
「すっげぇ久しぶりでさ、何か懐かしくなったんだよ」
「それで、か」
それで会話が途絶えて、沈黙が流れた。澱んだ空気を誤魔化すように杯を重ねる。
叔父の煙草の煙が渦を巻いて、天井付近をただよっていた。差し出された煙草を一本貰い、火をつける。そのまま黙って煙草をふかした。一本吸い終わって灰皿に押し付けると同時に、叔父が口を開いた。
「ま、思うのは自由なんじゃねぇの」
ぽんっと頭に手を置かれ、乱暴に髪を掻き乱される。幼少時にされた覚えのあるような無いようなその行動に狼狽しつつ、自分でも意外なことにその気安く大きな手に安心した。
「心配するやつらもいるだろうが、ほっとけや。あいつらも大人なんだし」
先ほどの、庭園で吐いたものとは別種のため息が漏れた。
叔父の言うように放っておくことは出来ないし、今後もなるべく気付かれないようにするつもりだが、一族の人間である叔父にそう言われると、少し心が軽くなった気がした。
礼を言おうと思ったが、それも何となく癪なので、新しく封を切った酒を黙って叔父のグラスに注ぐ。
何かを言うかわりに、叔父のグラスに自分のグラスを軽くぶつけて、秘蔵の酒を飲み干した。
(2006.2.8)
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あの島から帰って、皆何かと決別するように、髪を切った。
自分もその例外にもれず、長かった金髪を短く切り、気分を変えた。評判は良いとは言えなかったけれど、まぁそんなものだと思っている。
変わったのは髪形だけで無いようで、内面にも多少の変化が見らた。特に一度も行っていなかった次兄の墓参りに何の抵抗も無く行けるようになったことには、己自身驚きながらも少々ほっとしたものだ。
終ったのだ、と思う。
家族の間にあったしこりめいたものが、あの島の出来事で無くなった。失ったものも少なからずあったが、得るものの方が多かったのだろう。
まだ多少ぎこちなくはあるが、家族間に戻ってきた不思議な和が心地好く、以前よりも本部に帰ってくることが多くなった。飛び回っている方が性にあっているので飛行船暮らしは止められないが、それでも家族の顔を見に頻繁に戻ってくる。
戻って来るたびに、前進している兄弟や甥が頼もしかった。
「何だアンタか」
兄に挨拶を済ませ、そろそろ飛行船に戻ろうかと歩いていると、黒髪の甥に出会った。
他に変わったこと言えば、この甥に対する態度だろうか。この甥に会っても、前のように構えることが無くなっていた。
あれほど頭を悩ませていた、甥が憎んだ男にそっくりだと言う事も、理由が分かれば当然のことだった。
番人のコピーだとか影だとか、この甥の正体は今でも良く解らないことが多かったが、自己を否定され血だらけになりながら、あくまでも自分自身であろうとした甥は、あの男とは違うものなのだと、ようやく心より理解することが出来た。
実際にあの男と会ったせいもあるかもしれない。
その風貌や飄々とした性格、そして弟への執着。
何もかもがあの時と変わりなく、自分達兄弟をめちゃくちゃにした張本人が、澄ました顔で現われた時には、目の前が赤く染まる程の怒りを感じた。
全てが終った今、あの男が悪びれも無く弟の近くにいると言う事は当然面白くないが、恐らく永遠に不変だろうその存在に、少しばかりの憐憫をも感じたのも事実だった。
だからと言って許してはいない、許すつもりもない。こればかりは変わりようがなかった。
「叔父様に向かって何だとは何だ。この糞餓鬼が」
「見慣れねぇんだよ、その髪型に。誰かと思ったぜ」
可愛くない減らず口を叩く甥も、少しばかり髪を切ったようだ。
つい最近まではあんなに似ていると思っていたのに、今では全くの別人に見える。違うのは髪の長さばかりでは無いのだと、今になって発見することも多い。
「すげぇよな、どうしたらそんな髪型になるんだか」
「うっせぇよ、テメェのその髪毟るぞコラ」
素直に見れるようになったからだろうか、この甥との憎まれ口の叩きあいは意外と愉しく、自分が意識するよりもっと前、甥がまだ小さな子供だった頃のことを思い出したりもして、久しくまともに会話すらしていなかったという事実に気付かされる。
「ああそうだ、アンタにさ、言っとこうと思って」
「何だよ」
「俺、親父の跡継ぐから」
そんな大事なことをあっさりと、先ほどの続きのように言われると、驚くよりも呆れてしまった。
「そうかよ」
それで?と火の付いた煙草を向けてやると、甥は煙に顔をしかめながら「いやそんだけだけど」と拍子抜けしたような声でつぶやいた。
「反対しねぇの?」
「して欲しいのか?」
「アンタは反対すると思ってたからな」
確かに以前の自分なら強固に反対していただろうが、今更そんなつもりはない。兄も安心しただろう。この甥ならば、悪いようにはしない。少なくとも自分が継ぐより、よっぽどマシだ。
「だって、アンタ俺の事嫌いだろ?」
露骨な態度を示していたつもりは無かったが、聡い甥は何となく察していたようで、罪悪感とはまた違う一種の居心地の悪さを覚えた。
己の甥に対する感情は、嫌い、という単純な言葉では表しきれない複雑なものだったのだが、説明しても解らないだろう。どう答えたものかとしばし迷う。自分ですら解らなかったのだから。
「まぁな。嫌いだった」
考えた末の、過去形の返事を返すと、酷く意外そうな顔をされた。この甥は本当に分かり易い。そんなので総帥が務まるのだろうかと心配する一方で、こんなところもあの男とは違うと気付く。何だか妙に可笑しくて、つい笑ってしまった。
「変なオッサン」
笑い続ける自分を訝しげに横目で見ながら、甥は踵を返す。お互いに忙しい身の上であることだし、そうゆっくりと立ち話する暇は無い。けれど少し名残惜しい気がした。
「おい、甥っ子。今度ゆっくり酒でも飲もうぜ」
離れていく背中にそう声を掛けて、自分も歩き始める。十年近く、ろくに会話も交わさなかった甥のことを、もう少し知ってみようと思った。
驚いたように振りかえった気配が伝わってきて、また笑えてならなかった。
(2005.11.30)
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「シンちゃん、いるの? 入るよ?」
異母兄の声に、転寝していたシンタローは、もたれかかっていた脇息からはじかれたように身を起こした。未だ開ききらない視界に、几帳をめくって顔を覗かせたグンマの、呆れたような表情がぼんやりと映る。
「誰もいないの? シンちゃん、無用心すぎるよ! こないだ、伊達衆のナントカってのに襲われたばっかりなのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。この俺が昼間っからそう簡単に襲われるかってんだ」
起き抜けに嫌なことを聞いた、と蘇芳の小袿を着崩したシンタローは欠伸を噛み殺しながら言う。一方、内裏から下がってきたばかりなのか、未だ深緋の束帯姿のグンマは、「わかってないな」と言いたげにため息をついた。
「本当だったら、女の人ってことになってるシンちゃんの部屋に、僕だってこんなふうに入ってきちゃいけないのに……取次ぎどころか、女房の一人もいないなんて。──ティラミスとチョコレートロマンスはどうしたのさ?」
グンマの小言に、シンタローは億劫そうに返す。
「お前は特別だろ。兄弟なんだから、水臭いこと言うなよ。……ティラとチョコは、こないだその、アラシヤマが入ってきた築地の崩れを直しに行ってる」
「そんなこと……僕に言ってくれれば、仕丁の一人や二人、すぐ貸したのに」
不満そうなグンマに、シンタローは肩をすくめた。
「俺がやれって言ったんだよ。まあ、こっちに不用意に他人を近寄らせたくないってのもあるが……いろいろばれると面倒だからな。別に俺は一人でも大丈夫だし、それにあいつらだって、たまには『自分は男だ』って、実感したいんじゃねえかと思ってさ。──ちゃんと狩衣を着て、力仕事してってな。俺が言うのもなんだけど、親父の馬鹿な遺志のせいで、女装して、自分が男だってばれないように、それこそ女みたいに屋敷に閉じこもる生活させられてるんだぜ? 女房装束を着せられてるってだけでも恥なのに、なんにも知らない奴らにちょっかいかけられたり、言い寄られたりまでして……男としての面目なんて、あったもんじゃねえ。たまには開放してやらないと、おかしくなっちまうだろ?」
「シンちゃん……」
表情を曇らせるグンマに、シンタローは苦笑する。
「そんな顔すんなよ。しょうがねえだろ。親父が娘だって吹聴してた俺が実は男だ、なんて今さら知られるわけにはいかねえんだから。巻き込んじまったティラミスとチョコレートロマンスには悪いが、こういう秘密は、人が関わるほど漏れやすくなるからな。……とりあえず、一族の権力基盤が落ち着くまで、なんとか我慢してやってもらうさ。ルーザー叔父さんやコタローの不利になるようなことは、したくねえからな」
「だけど……本当にいいの? シンちゃんは、それで?」
勧められた茵にふてくされたように座るグンマを無視して、シンタローは手渡された文箱を覗き込んだ。マジック亡き今、屋敷の主であるグンマがわざわざ文使いのようなまねをすることもないのだが、シンタロー側の事情が事情で、本来ならば大勢いるはずの女房も信用できる者を厳選して数を極端に制限しているため、なにか間違いがあってはいけないと、直々に出向いてきたものらしかった。
「……オッサン、また来るのか」
文箱の中に不似合いな酒壺を見つけ、シンタローが忌々しそうに言う。
「うん。僕のところにも別に文が来たよ。月見酒だって」
酒好きのハーレム叔父が、月見にかこつけてグンマとシンタローの住む二条院にやってくるようになったのは、三ヶ月ほど前からのことだ。
それは、二人の父であるマジックの喪が明け、改めて一族の長の座に就いたルーザーの意向で、血族の誰かとシンタローを娶わせることが決まった矢先の出来事だった。都の口さがない野次馬たちは、絶大な権勢を振るったマジック亡き後、さっそく高貴なる一族の権力闘争が始まったのかと、興味津々でハーレムの動向に注目した。マジック最愛の娘を娶るということは、すなわち、マジックの持っていた力の全てを受け継ぐということを意味したからだ。シンタローを男と知る者はごく近い血縁の者と、シンタローの傍近く仕える二人の従者に限られており、マジックの生前からその周囲に近づくものは厳しく制限されていたため、当の二条院に仕える者にとってすら、シンタローは実在するのかどうかさえ定かではない、謎めいた深窓の姫君であった。シンタローが誰と結ばれるかによって、主であるグンマの行く末も変わりかねないと、都中の誰よりも二条院の使用人たちこそが、この訪問のもたらす結末について、固唾を呑んで見守っていたのだ。──その青の一族自体が、当初からこの茶番劇にいささかうんざりしていたことも知らずに。
だが、渦中の人物の一人であるシンタローはと言えば、自分の素性を知っているはずの叔父が、微妙な時期に微妙な行動に出たために、その真意を測りかねて右往左往していた。
常に行動が型破りでとらえどころのない叔父のすることである。単純に酒を飲みに来ただけなのかもしれないが、なにか別の考えがないとも言い切れない。ルーザーとハーレムの関係が良好とはいえないものであることも周知の事実だったから、今回の決定に対して、なにか一悶着起こすつもりではないかとも思われた。
とにかく相手はなにをするかわからない酔っ払いだ。用心するに越したことはないとの結論に達し、ティラミスとチョコレートロマンスを見張り役に、シンタロー自身はこんなときのためにあらかじめ立てこもりやすいように改造しておいた塗籠に身を隠したのだった。
しかし、それはただの杞憂だったと言うべきか──結局のところ、酒宴で酔いつぶれたハーレムが、シンタローのところにやってくることはなかった。
都一の酒豪と評されるハーレムが酔いつぶれるなど、考えられないことだったが、もしかしたらグンマか、グンマの後見役の高松が、気を利かせてなにか薬を盛ったのかもしれないと、シンタローは勘繰っていた。──あえて確認はしていないので、真相は謎のままだが。
拍子抜けするような思わぬ結末のおかげで、奇妙な緊張感をはらみつつも、日常は今までと一見変わりなく続いていくかのように思われた。最初のハーレムの行動が印象的だったせいか、その後の叔父や従兄弟との手紙のやりとりなどは、取り立てて人目を引きもしなかったのだ。──ただ、なにもなかったことの代わりのように、シンタローの心に奇妙なしこりが残ったこと以外は。
……あえて言うならば、それは、さんざん思い悩ませられておいて、結局は肩透かしを食らったことへの、恥ずかしさや苛立ちといったものであろうか。
別にハーレムの方でなにかはっきりしたことを言ってきたわけでも、二人の間に暗黙の了解があったわけでもなく、シンタローが一方的に心配して気をもんだだけのことで、逆恨みと言われればそうなのだが、だからといって簡単に納得して気持ちを収められるわけでもなかった。
少なくとも、シンタローにしてみれば、あんなろくでなしの叔父に対して、少しでも期待めいたものをかけてしまった自分が許せないのである。この先の見えないうんざりするような状況を、あの叔父ならなんとかしてくれるのではないかとかすかな望みを抱いて裏切られた、その八つ当たりも兼ねて、あのときのことをずっと根に持っていたのだ。
「ハーレム叔父様、よく来るよね。この前遊びに来てから、まだ三日もたってないんじゃない?」
三ヶ月前の酒宴以降、ハーレムは頻繁に二条院を訪れるようになったが、毎回飲んで騒いで帰るだけである。警戒することがかえって馬鹿らしいと思えるほどに、ハーレムはシンタローのことを気にしていないように見えた。
「……どうせ、酒目当てなんだろ。でなきゃ、俺の財産目当てか。……一体何回月見するつもりなんだろうな、あのオヤジは」
今日は新月だっつうの、とシンタローは悪態をつく。
この時代、親の財産は娘が相続するというのが普通であった。ゆえに、生前、位人臣を極めたマジックの莫大な財産も、長男のグンマではなく、世間的に一人娘ということになっていたシンタローが全て受け継いでいる。ルーザーがシンタローを一族の者と娶わせようとするのも、実は男であるという秘密もさることながら、この莫大な財産を他の者の手に渡したくないという思惑ゆえでもあるのだ。
「サービス叔父様とキンちゃんからも手紙来てるからね。忘れずにちゃんとお返事書いてよ? あと一応こっちの二人にもね」
榊と松の枝にそれぞれ結び付けられた文を見て、シンタローは呆れたようにため息をつく。
「……あいつらもよく懲りないよな……」
おそらく榊が有力貴族の一人であるアラシヤマのもので、松が青の一族と同等の勢力を持つ赤の一族の一人、リキッドのものなのだろう。
この二人、いつどこでどうシンタローを垣間見たのか知らないが、もうずいぶんと前から言い寄っていて、未だに諦めるということを知らない。シンタローを溺愛して、言い寄る者たちを秘かに闇に葬っていたとされるマジックが、絶大な権力を誇っていたころから生き延びているのだ。代替わりして未だ権力を掌握しきれていないルーザーが一族との婚姻を決めた程度で、引き下がるはずもなかった。
「こっちの二人のは、適当でいいから、今すぐ書いてくれるかな? あとで高松が害虫撃退の薬をふりかけて送るから、先に欲しいんだって」
「……あ、そう……」
明日の二人の惨状を思うと今から気が遠くなるシンタローだったが、ここで情けをかけてもさらに泥沼化するだけである。なるべく二人のことは考えないようにして、手近な紙にどうとでもとれるような曖昧な歌を書きつけ、さっさとグンマに渡した。
「サービス叔父様とキンちゃんのは、また後ででいいから。ティラミスかチョコレートロマンスに持たせてよこしてね」
「……オッサンのはいいのかよ」
「ハーレム叔父様には、今夜の宴のこともあるから、僕の方から出しておくよ。シンちゃんは、前のときに返事書いたばっかりだから、今回はいいんじゃないかな?」
頻繁に返事を書いて、こちらが気のあるような素振りをするのもどうかとグンマは言う。
「別に、ハーレム叔父様に対してどうこうっていうんじゃなくてさ……。どうせ、これは全部世間の目を欺くお芝居なんだから、変に野次馬を喜ばせるようなことするのも、癪だなって思わない?」
「……そうだな……」
シンタローはため息をつきながら、サービスの手紙を取る。
「うちの馬鹿親父のせいでサービス叔父さんにもいらん迷惑かけちまって、本当申し訳ないよな……」
サービスの手紙は、一応恋文の体裁を取ってはいるものの、中身はこちらの様子を心配し、気遣うような内容のものだ。
マジックの死後、信頼していた長兄が堂々と隠していたとんでもない事実が明るみに出、ひどく驚き、動揺もしただろうに、シンタローのため、なにくれとなく心を砕いてくれるサービスを思うと、自分の置かれたこの異常な状況のことなど、実に些細なことであるかのように感じられてしまう。
ルーザーは、懇意にしている弟のサービスや、自分の息子であるキンタローとの婚姻を望んでいるようではあるが、シンタローは、少なくともサービスにはこれ以上の心労はかけられないと考えていた。
「……あの繊細な叔父さんに、俺と結婚してくださいなんて言えるわけねえだろ……」
「そんなこと気にしないで言うだけ言ってみたら? サービス叔父様も、意外とまんざらでもないかもよ?」
「……いや、あの美貌の叔父様の御尊顔が連日傍近くにあったりしたら、俺の神経が持たない」
「じゃあ、キンちゃんにするの?」
「……キンタローねえ……」
シンタローは、それぞれが季節の植物に結び付けられた恋文とは違う、いやに慇懃な雰囲気の立て文を手に取った。
立て文とは、手紙を礼紙で縦に包んだもので、正式な文書という面がある一方、恋文であることを隠す場合などにも使われる。だが、キンタローがシンタローに恋文をこっそり送る必要はない──むしろこの状況では、その方がおかしい──わけで、キンタローの性格から察するに、正式な結婚の申し込みの手紙という考えからの立て文なのだろうが、この場合のそれは、かえってよそよそしい態度と思われかねなかった。──言うなれば、シンタローと結婚などしたくないのだが、世間体もあるし父親にも言われたので、とりあえず形だけ手紙を出してみる、というような。
手紙の内容も、使っているのは恋文に使われる仮名ではなく真名で、これは公文書かと勘違いしそうな硬い文章が続く。これを仮に普通の女性に出すのだとしたら、十中八九、最初の手紙で断られるのがオチだ。
「……なあ、キンタローは、なにを考えてこの手紙を書いてんだろうな……?」
「ああ、キンちゃんはね、一族の義務とか責任とか背負い込んだ気になってんじゃないの? シンちゃんが本当は男だって知ったときと、それなのに女の子の成人式である裳着をするって聞かされたとき、すごくびっくりして落ち込んでたもん。大好きなシンちゃんが大変なことになってるから、自分がなんとかしなきゃ、って思っちゃったんじゃない。ルーザー叔父様もいろいろ発破かけてるみたいだしさ」
「……それはそれで気が重いな……」
一族の者との婚姻が一番無難なのはわかっているのだが、どの相手も一長一短で決め手に欠ける。
「いっそのこと、ルーザー叔父様と結婚しちゃえば? そもそも言い出したのが叔父様なんだしさ。そうすれば、シンちゃんが受け継いだお父様の財産もルーザー叔父様のものになって、当主としての基盤も磐石になるだろうし、ちょうどいいんじゃない?」
「……そうすっと、俺がキンタローの義理の母親で、なおかつお前の義理の叔母になるんだぞ? オッサンや叔父さんと義理の姉弟ってことになるんだぞ!?」
それでいいのかよ、とシンタローはグンマを睨む。
「……んん、僕や叔父様たちはともかく、キンちゃんは承知しないだろうね」
「そうだろう?……それよかむしろ、俺としてはお前と結婚するのが一番手っ取り早いんじゃないかと思ったりもするんだけどな──」
思っても見なかった申し出に、グンマは驚いて目を見張った。
「ええ? 僕と!? だって僕たち、兄弟だよ?」
「だからかえって気安いんだよ。要するに、俺が男だって世間にばれなくて、親父の遺産も他所に渡らなけりゃいいんだろ? だったら親父の長男で、ずっと一緒に暮らしてたお前が一番の適任じゃないかよ。他の血縁の奴らとだと、遺産はともかく、どうしたって人の出入りが激しくなって、秘密を守るのも難しくなりそうだし──それにお前なら、ルーザー叔父さんの信用もなぜかあるし、一応後見人の高松もいるしな」
いざとなれば、気心の知れた使用人も含め、大きな力になるだろうと言うシンタローに、グンマは難しい顔で考え込んだ。
「……でも、兄弟──世間的には兄妹か──ってのを、どう言い訳するのさ?」
「そこをなんとか……実は養女で、とかさ」
どうせお芝居なんだから、なんとかならないかな、と言うシンタローに、グンマは首を傾げる。
「んん……そりゃあ、『実は男でした』ってのよりは衝撃は少ないかもしれないけどさ」
「そうだろ?」
「でも、シンちゃんが世間的に女だって思われてるってことは、変わらないんだよ? 僕は、結局のところ、そこが一番の問題じゃないかと思うんだ。自分勝手なお父様が生きてたころならともかく……こんなこと、いつまでも隠しておけるものじゃないって。一時的に隠せはしても、この先、絶対に綻びができるよ。だから早めになんとかして、シンちゃんが男として、堂々と皆の前に出て、暮らせるようにした方がいいって思うんだ」
「……」
「それに、養女ってことになると、血筋とか、遺産相続とか、どうなるのかなあ……。それに今更、そんな余計に事態をややこしくするようなこと、ルーザー叔父様が許すと思う? とりあえず世間体第一で、シンちゃんに裳着までさせて、一族の者と結婚させるって決めちゃったのに?」
「……ああ、もう、面倒くせえなあ!」
グンマの反論に、シンタローは苛立ったように髪をかき回した。
「……いっそのこと、俺が本当に女だったら良かったのにな」
本当の女だったなら、こんな一族の厄介者ではなく、もっといろいろ役に立つことができたのに、とシンタローはつぶやく。
「……そう言えばさ、シンちゃん」
「ん?」
「シンちゃんって、どうして女の子として育てられたちゃったわけ?」
「……あれ、お前、知らないんだっけ?」
「知らないよ。そんなの全然、聞かされてないもん。シンちゃんが男の子だって初めて知ったのだって、お父様が亡くなったときだよ?」
そもそもの原因を確かめずにいたと言うグンマに、シンタローは唖然とする。
「……その割には、お前、当たり前みたいに受け入れたよな。キンタローなんて、驚きすぎてしばらく音信不通になったのに」
シンタローが感心したように言うと、グンマは首を傾げた。
「だって、シンちゃん、裳着したの遅かったからね……だから、あんまり『女の人』っていう認識がなかったっていうか……。その裳着だって、男だってわかった後にしたわけだし」
この時代、高貴な女性は人前に姿を現すことは決してない。例え兄弟でも、話をするときには間に几帳を立てたり、場合によっては女房に取り次がせたりする。女性の姿を見られる者は、異性では、親や夫、恋人に限られるのだ。
だが、それはあくまで成人した男女に関してのことで、子供にはその禁忌はない。その区別は男ならば元服、女ならば裳着と呼ばれる成人式にある。言うなれば、その成人式を終えていないのなら、いくつになろうが子供のままということで、だれに顔を見られようがかまわない、という理屈が成り立つ。
「これが、もしお父様が存命中で、僕がなにも知らないうちにシンちゃんが裳着をしてさ、昨日まで気軽に顔を見せていたのが急に見られなくなったりしたら、シンちゃんを『女の人になっちゃったんだ』って意識したかもしれないけど。でも実際はそんなことにはならなかったし、裳着を終えた今だって、『どうせ男同士なんだから』って平気で顔突き合わせているわけでしょ? ティラミスとチョコレートロマンスも『どうせ兄弟なんだから』って全然気にしないし。……だから僕としては、そんなに前と変わったことがあるような気がしなくて……」
「……そんなもんなのかな」
「でもまあ、僕の場合、シンちゃんと一緒に暮らしてるからね。キンちゃんとは話が違うよ。キンちゃんはずっと、シンちゃんのことが好きだったんだから」
「……キンタローの趣味も悪いけどよ、奴には本当、可哀想なことしちまったよな……」
いくら女の子として育てられたからと言って、シンタローの中身までがそのように成長したわけではない。むしろ女の子らしからぬがさつな乱暴者で、事情を知らなかった叔父たちに、グンマと中身が入れ代わって生まれれば良かったのにと言わせたくらいだ。
シンタローにしてみれば、そんな女に惚れるなよ、と言いたいところなのだが、事実を知ったときのキンタローの落ち込みようを見てしまえば、そんなことを軽々しく口にするわけにもいかない。
「……それで、結局、シンちゃんはなんで女の子でいることになったわけ?」
昔を思い出して遠い眼をするシンタローを、グンマが引き戻した。
「あ、ああ……その話だったな。……グンマ、お前、俺の母親がすげえ迷信深い人だったってこと、知ってるだろ?」
シンタローの言葉に、グンマは頷く。シンタローの母親は二人が物心つくころにはすでに亡くなっていたが、その奇矯な人となりは数々の昔話からなんとなく聞き知っていた。
「その母さんがさ、俺を産んだとき、お告げがあったって言うんだ」
「お告げ?」
突拍子もない言葉にグンマが驚くと、シンタローも決まり悪そうな顔をした。
「ああ。……なんか胡散臭い感じがするんだけど……とにかくそうだったらしい。俺を女の子として育てなくてはいけないって」
「……ふうん……それで?」
「親父は、最初は信じなかったって言うんだ。どっちかって言うと、そういうの嫌いな方だし」
「うん、そうだね」
「だから、母さんの言うことを無視して普通に育てようとしたらしいんだけど──そのことで、母さんとずいぶん口論になったりもしたらしいんだけど、聞かないでいたら、そのうち母さんが産後の肥立ちが悪くて死んじゃって」
「……」
「親父は、そのことがよっぽど堪えたとかで……。こんなことになるんだったら、母さんの最後の望みくらい、叶えてやればよかったって思って──もしかしてそのお告げのことを無視したから、母さんが死んだんじゃないかとまで思いつめたらしくて。それで──」
「それでシンちゃんのことを、改めて女の子として育てることにしたってわけ?」
「そう、らしい」
「……」
「……」
「……シンちゃんには悪いけどさ、この話にはなんだかすごく、裏があるような気がするんだけど」
「……やっぱり……? 実は、俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて渋い表情をした。
「あの計算高いお父様がだよ? そんな絵物語みたいなこと、すると思う? 絶対なんか戦略立ててたに違いないよ」
「だよな。むしろ、母さんの迷信深さを、かえって利用してそうだよな。母さんの異常な物狂いの半分──いや、三分の二くらいは、親父が捏造して都合のいいように使ったものなんじゃねえの」
もはや故人となった実の親に対し、見も蓋もないことを二人は言う。極端な話、没落貴族の姫と大臣家の子息の恋という、当時有名だった両親の御伽噺のようななれそめに対してすら、身寄りも後ろ盾もない女を妻にして他家の余計な干渉を避けるためだろう、とか、相手の女に恩を着せ、文句を言わせないようにするためだろう、とすら思っていた。
「僕が思うにさ、お父様は、一族に姫がいないことを気にしてたんじゃないかな」
この時代の権力とは、娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませることにある。だが、グンマやシンタローが生まれた当時、天皇家には直系の男子がおらず、女帝による一代限りの皇位継承が続いていた。
「天皇家は男系だから、いくら青の一族が男子に恵まれていて、女帝と結婚できても、その権力は次に続かない。女帝がお隠れになったり、代替わりしちゃえばそこで終わり。それに、女帝擁立は一時的なもので、いつまでも続くわけがない。──でも、一族には天皇に嫁がせるための姫がいない」
「……それで、賭けにでたって?」
「そう。……ええと、ちょっと待って……そのときのことを整理してみると……。シンちゃんが産まれたとき、帝は女性で、青の一族の男性がその伴侶だった」
「そして、天皇家には当分、男子が産まれそうな様子はなかった」
「お父様は、先のことを考えて、今度産まれてくる子──シンちゃんが、女の子であればそれでよし、よしんば男の子でも、女の子として育ててみるべきかどうか、検討し始める。でも、この無茶な計画を実行するにあたり、さすがのお父様にもかなりの躊躇いがあった」
「……その決心がつかないうちに、俺が産まれ、母さんが死ぬ」
「そのときにお父様は決めたのかもしれない。青の一族には女は滅多に産まれない。天皇家にも今は男子の産まれる気配はない。そしてシンちゃんはまだ産まれたばかりで、その性別を知る者はごく限られた者だけだ」
「……それが、どうして俺を女として育てようということになる?」
シンタローの言葉に、グンマは奇妙に悟り済ましたような微笑を浮かべた。
「……結果的には、お父様は賭けに勝った、というべきだろうね……お父様が死んで、全ては無駄になってしまったけど」
「……親父が生きてたら、俺はやがてパプワのとこに入内することになったろうって?」
「そう」
グンマが頷くと、シンタローは不快そうに眉をひそめた。
「……年齢差を考えてみろよ。パプワが元服するころ、俺はどう少なく見積もっても三十にはなってる。それでもか?」
「その年齢差こそが、重要なんじゃないかと僕は思うんだ。パプワくんは赤の一族の血を引いているから、権力を保持し続けるためには、青の一族はどうしても姫を入内させなければならない。シンちゃんは実際は男で、本当ならとうてい入内なんかできっこないんだけど、一方のパプワくんは子供で、入内したからってすぐに男女の関係になるわけじゃない。シンちゃんは入内するんなら女御として遇されるから、人前に姿を現すこともない。それなら信用できる女房さえきっちりそろえておけば、事実は絶対にばれない」
「……最初のうちはそれで誤魔化しても、パプワが大人になったら、どうするんだ?」
「そのときには、シンちゃんの年齢がものを言うんだよ。『もう齢だから、添い伏しはできません』って」
「……それで上手くいくと思うか……?」
「お父様なら平気で口出しもするだろうからね。無理やりにでも思い通りにしただろうね。……もっとも、パプワくんを見てると、さすがのお父様でも難しかったかもなっては、思うけど」
「……その計画が実行に移されなくて、本当に良かったと思うぜ」
もしものことを想像してか、げんなりとしてシンタローは言った。
近い将来、元服と同時に即位することになるだろうパプワは、今はまだ袴着を終えたばかりの子供ではあるが、すでにしてその非凡の才の片鱗を見せ、周囲を驚かせているという。
「……でも、惜しいのは惜しいんだよな。パプワの次はコタローが帝位に就くんだろ? 俺が入内できたんなら、それまでの橋渡しにもなったのに」
「それはもう、言ってもしょうがないね……ルーザー叔父様にはたぶん、そんな度胸はないよ」
「あの人、頭はいいんだけどなあ」
「お父様の死も、突然のことだったからね。今は一族を取りまとめるので、一杯一杯なんじゃないの。だからシンちゃんのことも、一族内でこっそり片付けちゃうことに決めたんじゃないかと思う。叔父様らしからぬ胆略的な考えだったよね。上手くすれば、赤の一族との均衡を保つのに使えたのにさ」
「……グンマ……お前って」
「赤の一族で、シンちゃんに言い寄ってるやつ、いたよね。ナントカっての。あいつ馬鹿っぽいから、上手く言いくるめてシンちゃんと結婚させちゃえばさ、赤の一族との伝手もできて、いろいろ便利だったのに。ねえ?」
「……俺は時々、お前が一番当主に向いてるんじゃないかと思うときがあるよ……」
親父そっくり、とシンタローが呟くと、いやだなあ、とグンマは顔をしかめる。
「僕は権力なんてものに興味はないよ。あんなののどこが面白いのか、ちっともわからないもの」
「……いいよ、お前は別に、そのままで……。好きな学問でもやっててくれよ。その方が平和だから」
シンタローが投げやりに言うと、その意味を理解しているのかいないのか、グンマは柔らかく微笑んだ。
「そうだね。早くいろんなことが落ち着いて、前みたいに皆でのんびりすごせるようになるといいのにね」
お父様がいなくなってからこっち、つまらない人付き合いばかりが増えて、すごく面倒なんだ、とぼやくグンマには、栄華の頂点にある一族の面影は、ほとんどない。
自分たち兄弟は、結局父親のようには、父親の望んだようにはなれなかったな、とシンタローは思う。二人を溺愛していたマジックが、そのところを実際にどう思っていたのかは、もはや知りようがないのだけれども。
とはいえ、一族のこれ以上の繁栄は望まずとも、その凋落を招きたくないのは二人とも同じだった。叔父たちや従兄弟が悩み苦しむ姿など見たくもないし、それ以上に何百人といる使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、それを防ぐ手立てがあるのだろうか、と思うと、シンタローは押し黙るしかなかった。ルーザーのするように、自分が一族の誰かと結婚して済む問題ではない分、不安は余計に募る。
いつの間にか、世間話や中断している学問の話をし始めているグンマに適当に相槌を打ちながら、先の見えぬ現状に対し、シンタローはこっそりとため息をついた。
異母兄の声に、転寝していたシンタローは、もたれかかっていた脇息からはじかれたように身を起こした。未だ開ききらない視界に、几帳をめくって顔を覗かせたグンマの、呆れたような表情がぼんやりと映る。
「誰もいないの? シンちゃん、無用心すぎるよ! こないだ、伊達衆のナントカってのに襲われたばっかりなのに!」
「人聞きの悪いことを言うな。この俺が昼間っからそう簡単に襲われるかってんだ」
起き抜けに嫌なことを聞いた、と蘇芳の小袿を着崩したシンタローは欠伸を噛み殺しながら言う。一方、内裏から下がってきたばかりなのか、未だ深緋の束帯姿のグンマは、「わかってないな」と言いたげにため息をついた。
「本当だったら、女の人ってことになってるシンちゃんの部屋に、僕だってこんなふうに入ってきちゃいけないのに……取次ぎどころか、女房の一人もいないなんて。──ティラミスとチョコレートロマンスはどうしたのさ?」
グンマの小言に、シンタローは億劫そうに返す。
「お前は特別だろ。兄弟なんだから、水臭いこと言うなよ。……ティラとチョコは、こないだその、アラシヤマが入ってきた築地の崩れを直しに行ってる」
「そんなこと……僕に言ってくれれば、仕丁の一人や二人、すぐ貸したのに」
不満そうなグンマに、シンタローは肩をすくめた。
「俺がやれって言ったんだよ。まあ、こっちに不用意に他人を近寄らせたくないってのもあるが……いろいろばれると面倒だからな。別に俺は一人でも大丈夫だし、それにあいつらだって、たまには『自分は男だ』って、実感したいんじゃねえかと思ってさ。──ちゃんと狩衣を着て、力仕事してってな。俺が言うのもなんだけど、親父の馬鹿な遺志のせいで、女装して、自分が男だってばれないように、それこそ女みたいに屋敷に閉じこもる生活させられてるんだぜ? 女房装束を着せられてるってだけでも恥なのに、なんにも知らない奴らにちょっかいかけられたり、言い寄られたりまでして……男としての面目なんて、あったもんじゃねえ。たまには開放してやらないと、おかしくなっちまうだろ?」
「シンちゃん……」
表情を曇らせるグンマに、シンタローは苦笑する。
「そんな顔すんなよ。しょうがねえだろ。親父が娘だって吹聴してた俺が実は男だ、なんて今さら知られるわけにはいかねえんだから。巻き込んじまったティラミスとチョコレートロマンスには悪いが、こういう秘密は、人が関わるほど漏れやすくなるからな。……とりあえず、一族の権力基盤が落ち着くまで、なんとか我慢してやってもらうさ。ルーザー叔父さんやコタローの不利になるようなことは、したくねえからな」
「だけど……本当にいいの? シンちゃんは、それで?」
勧められた茵にふてくされたように座るグンマを無視して、シンタローは手渡された文箱を覗き込んだ。マジック亡き今、屋敷の主であるグンマがわざわざ文使いのようなまねをすることもないのだが、シンタロー側の事情が事情で、本来ならば大勢いるはずの女房も信用できる者を厳選して数を極端に制限しているため、なにか間違いがあってはいけないと、直々に出向いてきたものらしかった。
「……オッサン、また来るのか」
文箱の中に不似合いな酒壺を見つけ、シンタローが忌々しそうに言う。
「うん。僕のところにも別に文が来たよ。月見酒だって」
酒好きのハーレム叔父が、月見にかこつけてグンマとシンタローの住む二条院にやってくるようになったのは、三ヶ月ほど前からのことだ。
それは、二人の父であるマジックの喪が明け、改めて一族の長の座に就いたルーザーの意向で、血族の誰かとシンタローを娶わせることが決まった矢先の出来事だった。都の口さがない野次馬たちは、絶大な権勢を振るったマジック亡き後、さっそく高貴なる一族の権力闘争が始まったのかと、興味津々でハーレムの動向に注目した。マジック最愛の娘を娶るということは、すなわち、マジックの持っていた力の全てを受け継ぐということを意味したからだ。シンタローを男と知る者はごく近い血縁の者と、シンタローの傍近く仕える二人の従者に限られており、マジックの生前からその周囲に近づくものは厳しく制限されていたため、当の二条院に仕える者にとってすら、シンタローは実在するのかどうかさえ定かではない、謎めいた深窓の姫君であった。シンタローが誰と結ばれるかによって、主であるグンマの行く末も変わりかねないと、都中の誰よりも二条院の使用人たちこそが、この訪問のもたらす結末について、固唾を呑んで見守っていたのだ。──その青の一族自体が、当初からこの茶番劇にいささかうんざりしていたことも知らずに。
だが、渦中の人物の一人であるシンタローはと言えば、自分の素性を知っているはずの叔父が、微妙な時期に微妙な行動に出たために、その真意を測りかねて右往左往していた。
常に行動が型破りでとらえどころのない叔父のすることである。単純に酒を飲みに来ただけなのかもしれないが、なにか別の考えがないとも言い切れない。ルーザーとハーレムの関係が良好とはいえないものであることも周知の事実だったから、今回の決定に対して、なにか一悶着起こすつもりではないかとも思われた。
とにかく相手はなにをするかわからない酔っ払いだ。用心するに越したことはないとの結論に達し、ティラミスとチョコレートロマンスを見張り役に、シンタロー自身はこんなときのためにあらかじめ立てこもりやすいように改造しておいた塗籠に身を隠したのだった。
しかし、それはただの杞憂だったと言うべきか──結局のところ、酒宴で酔いつぶれたハーレムが、シンタローのところにやってくることはなかった。
都一の酒豪と評されるハーレムが酔いつぶれるなど、考えられないことだったが、もしかしたらグンマか、グンマの後見役の高松が、気を利かせてなにか薬を盛ったのかもしれないと、シンタローは勘繰っていた。──あえて確認はしていないので、真相は謎のままだが。
拍子抜けするような思わぬ結末のおかげで、奇妙な緊張感をはらみつつも、日常は今までと一見変わりなく続いていくかのように思われた。最初のハーレムの行動が印象的だったせいか、その後の叔父や従兄弟との手紙のやりとりなどは、取り立てて人目を引きもしなかったのだ。──ただ、なにもなかったことの代わりのように、シンタローの心に奇妙なしこりが残ったこと以外は。
……あえて言うならば、それは、さんざん思い悩ませられておいて、結局は肩透かしを食らったことへの、恥ずかしさや苛立ちといったものであろうか。
別にハーレムの方でなにかはっきりしたことを言ってきたわけでも、二人の間に暗黙の了解があったわけでもなく、シンタローが一方的に心配して気をもんだだけのことで、逆恨みと言われればそうなのだが、だからといって簡単に納得して気持ちを収められるわけでもなかった。
少なくとも、シンタローにしてみれば、あんなろくでなしの叔父に対して、少しでも期待めいたものをかけてしまった自分が許せないのである。この先の見えないうんざりするような状況を、あの叔父ならなんとかしてくれるのではないかとかすかな望みを抱いて裏切られた、その八つ当たりも兼ねて、あのときのことをずっと根に持っていたのだ。
「ハーレム叔父様、よく来るよね。この前遊びに来てから、まだ三日もたってないんじゃない?」
三ヶ月前の酒宴以降、ハーレムは頻繁に二条院を訪れるようになったが、毎回飲んで騒いで帰るだけである。警戒することがかえって馬鹿らしいと思えるほどに、ハーレムはシンタローのことを気にしていないように見えた。
「……どうせ、酒目当てなんだろ。でなきゃ、俺の財産目当てか。……一体何回月見するつもりなんだろうな、あのオヤジは」
今日は新月だっつうの、とシンタローは悪態をつく。
この時代、親の財産は娘が相続するというのが普通であった。ゆえに、生前、位人臣を極めたマジックの莫大な財産も、長男のグンマではなく、世間的に一人娘ということになっていたシンタローが全て受け継いでいる。ルーザーがシンタローを一族の者と娶わせようとするのも、実は男であるという秘密もさることながら、この莫大な財産を他の者の手に渡したくないという思惑ゆえでもあるのだ。
「サービス叔父様とキンちゃんからも手紙来てるからね。忘れずにちゃんとお返事書いてよ? あと一応こっちの二人にもね」
榊と松の枝にそれぞれ結び付けられた文を見て、シンタローは呆れたようにため息をつく。
「……あいつらもよく懲りないよな……」
おそらく榊が有力貴族の一人であるアラシヤマのもので、松が青の一族と同等の勢力を持つ赤の一族の一人、リキッドのものなのだろう。
この二人、いつどこでどうシンタローを垣間見たのか知らないが、もうずいぶんと前から言い寄っていて、未だに諦めるということを知らない。シンタローを溺愛して、言い寄る者たちを秘かに闇に葬っていたとされるマジックが、絶大な権力を誇っていたころから生き延びているのだ。代替わりして未だ権力を掌握しきれていないルーザーが一族との婚姻を決めた程度で、引き下がるはずもなかった。
「こっちの二人のは、適当でいいから、今すぐ書いてくれるかな? あとで高松が害虫撃退の薬をふりかけて送るから、先に欲しいんだって」
「……あ、そう……」
明日の二人の惨状を思うと今から気が遠くなるシンタローだったが、ここで情けをかけてもさらに泥沼化するだけである。なるべく二人のことは考えないようにして、手近な紙にどうとでもとれるような曖昧な歌を書きつけ、さっさとグンマに渡した。
「サービス叔父様とキンちゃんのは、また後ででいいから。ティラミスかチョコレートロマンスに持たせてよこしてね」
「……オッサンのはいいのかよ」
「ハーレム叔父様には、今夜の宴のこともあるから、僕の方から出しておくよ。シンちゃんは、前のときに返事書いたばっかりだから、今回はいいんじゃないかな?」
頻繁に返事を書いて、こちらが気のあるような素振りをするのもどうかとグンマは言う。
「別に、ハーレム叔父様に対してどうこうっていうんじゃなくてさ……。どうせ、これは全部世間の目を欺くお芝居なんだから、変に野次馬を喜ばせるようなことするのも、癪だなって思わない?」
「……そうだな……」
シンタローはため息をつきながら、サービスの手紙を取る。
「うちの馬鹿親父のせいでサービス叔父さんにもいらん迷惑かけちまって、本当申し訳ないよな……」
サービスの手紙は、一応恋文の体裁を取ってはいるものの、中身はこちらの様子を心配し、気遣うような内容のものだ。
マジックの死後、信頼していた長兄が堂々と隠していたとんでもない事実が明るみに出、ひどく驚き、動揺もしただろうに、シンタローのため、なにくれとなく心を砕いてくれるサービスを思うと、自分の置かれたこの異常な状況のことなど、実に些細なことであるかのように感じられてしまう。
ルーザーは、懇意にしている弟のサービスや、自分の息子であるキンタローとの婚姻を望んでいるようではあるが、シンタローは、少なくともサービスにはこれ以上の心労はかけられないと考えていた。
「……あの繊細な叔父さんに、俺と結婚してくださいなんて言えるわけねえだろ……」
「そんなこと気にしないで言うだけ言ってみたら? サービス叔父様も、意外とまんざらでもないかもよ?」
「……いや、あの美貌の叔父様の御尊顔が連日傍近くにあったりしたら、俺の神経が持たない」
「じゃあ、キンちゃんにするの?」
「……キンタローねえ……」
シンタローは、それぞれが季節の植物に結び付けられた恋文とは違う、いやに慇懃な雰囲気の立て文を手に取った。
立て文とは、手紙を礼紙で縦に包んだもので、正式な文書という面がある一方、恋文であることを隠す場合などにも使われる。だが、キンタローがシンタローに恋文をこっそり送る必要はない──むしろこの状況では、その方がおかしい──わけで、キンタローの性格から察するに、正式な結婚の申し込みの手紙という考えからの立て文なのだろうが、この場合のそれは、かえってよそよそしい態度と思われかねなかった。──言うなれば、シンタローと結婚などしたくないのだが、世間体もあるし父親にも言われたので、とりあえず形だけ手紙を出してみる、というような。
手紙の内容も、使っているのは恋文に使われる仮名ではなく真名で、これは公文書かと勘違いしそうな硬い文章が続く。これを仮に普通の女性に出すのだとしたら、十中八九、最初の手紙で断られるのがオチだ。
「……なあ、キンタローは、なにを考えてこの手紙を書いてんだろうな……?」
「ああ、キンちゃんはね、一族の義務とか責任とか背負い込んだ気になってんじゃないの? シンちゃんが本当は男だって知ったときと、それなのに女の子の成人式である裳着をするって聞かされたとき、すごくびっくりして落ち込んでたもん。大好きなシンちゃんが大変なことになってるから、自分がなんとかしなきゃ、って思っちゃったんじゃない。ルーザー叔父様もいろいろ発破かけてるみたいだしさ」
「……それはそれで気が重いな……」
一族の者との婚姻が一番無難なのはわかっているのだが、どの相手も一長一短で決め手に欠ける。
「いっそのこと、ルーザー叔父様と結婚しちゃえば? そもそも言い出したのが叔父様なんだしさ。そうすれば、シンちゃんが受け継いだお父様の財産もルーザー叔父様のものになって、当主としての基盤も磐石になるだろうし、ちょうどいいんじゃない?」
「……そうすっと、俺がキンタローの義理の母親で、なおかつお前の義理の叔母になるんだぞ? オッサンや叔父さんと義理の姉弟ってことになるんだぞ!?」
それでいいのかよ、とシンタローはグンマを睨む。
「……んん、僕や叔父様たちはともかく、キンちゃんは承知しないだろうね」
「そうだろう?……それよかむしろ、俺としてはお前と結婚するのが一番手っ取り早いんじゃないかと思ったりもするんだけどな──」
思っても見なかった申し出に、グンマは驚いて目を見張った。
「ええ? 僕と!? だって僕たち、兄弟だよ?」
「だからかえって気安いんだよ。要するに、俺が男だって世間にばれなくて、親父の遺産も他所に渡らなけりゃいいんだろ? だったら親父の長男で、ずっと一緒に暮らしてたお前が一番の適任じゃないかよ。他の血縁の奴らとだと、遺産はともかく、どうしたって人の出入りが激しくなって、秘密を守るのも難しくなりそうだし──それにお前なら、ルーザー叔父さんの信用もなぜかあるし、一応後見人の高松もいるしな」
いざとなれば、気心の知れた使用人も含め、大きな力になるだろうと言うシンタローに、グンマは難しい顔で考え込んだ。
「……でも、兄弟──世間的には兄妹か──ってのを、どう言い訳するのさ?」
「そこをなんとか……実は養女で、とかさ」
どうせお芝居なんだから、なんとかならないかな、と言うシンタローに、グンマは首を傾げる。
「んん……そりゃあ、『実は男でした』ってのよりは衝撃は少ないかもしれないけどさ」
「そうだろ?」
「でも、シンちゃんが世間的に女だって思われてるってことは、変わらないんだよ? 僕は、結局のところ、そこが一番の問題じゃないかと思うんだ。自分勝手なお父様が生きてたころならともかく……こんなこと、いつまでも隠しておけるものじゃないって。一時的に隠せはしても、この先、絶対に綻びができるよ。だから早めになんとかして、シンちゃんが男として、堂々と皆の前に出て、暮らせるようにした方がいいって思うんだ」
「……」
「それに、養女ってことになると、血筋とか、遺産相続とか、どうなるのかなあ……。それに今更、そんな余計に事態をややこしくするようなこと、ルーザー叔父様が許すと思う? とりあえず世間体第一で、シンちゃんに裳着までさせて、一族の者と結婚させるって決めちゃったのに?」
「……ああ、もう、面倒くせえなあ!」
グンマの反論に、シンタローは苛立ったように髪をかき回した。
「……いっそのこと、俺が本当に女だったら良かったのにな」
本当の女だったなら、こんな一族の厄介者ではなく、もっといろいろ役に立つことができたのに、とシンタローはつぶやく。
「……そう言えばさ、シンちゃん」
「ん?」
「シンちゃんって、どうして女の子として育てられたちゃったわけ?」
「……あれ、お前、知らないんだっけ?」
「知らないよ。そんなの全然、聞かされてないもん。シンちゃんが男の子だって初めて知ったのだって、お父様が亡くなったときだよ?」
そもそもの原因を確かめずにいたと言うグンマに、シンタローは唖然とする。
「……その割には、お前、当たり前みたいに受け入れたよな。キンタローなんて、驚きすぎてしばらく音信不通になったのに」
シンタローが感心したように言うと、グンマは首を傾げた。
「だって、シンちゃん、裳着したの遅かったからね……だから、あんまり『女の人』っていう認識がなかったっていうか……。その裳着だって、男だってわかった後にしたわけだし」
この時代、高貴な女性は人前に姿を現すことは決してない。例え兄弟でも、話をするときには間に几帳を立てたり、場合によっては女房に取り次がせたりする。女性の姿を見られる者は、異性では、親や夫、恋人に限られるのだ。
だが、それはあくまで成人した男女に関してのことで、子供にはその禁忌はない。その区別は男ならば元服、女ならば裳着と呼ばれる成人式にある。言うなれば、その成人式を終えていないのなら、いくつになろうが子供のままということで、だれに顔を見られようがかまわない、という理屈が成り立つ。
「これが、もしお父様が存命中で、僕がなにも知らないうちにシンちゃんが裳着をしてさ、昨日まで気軽に顔を見せていたのが急に見られなくなったりしたら、シンちゃんを『女の人になっちゃったんだ』って意識したかもしれないけど。でも実際はそんなことにはならなかったし、裳着を終えた今だって、『どうせ男同士なんだから』って平気で顔突き合わせているわけでしょ? ティラミスとチョコレートロマンスも『どうせ兄弟なんだから』って全然気にしないし。……だから僕としては、そんなに前と変わったことがあるような気がしなくて……」
「……そんなもんなのかな」
「でもまあ、僕の場合、シンちゃんと一緒に暮らしてるからね。キンちゃんとは話が違うよ。キンちゃんはずっと、シンちゃんのことが好きだったんだから」
「……キンタローの趣味も悪いけどよ、奴には本当、可哀想なことしちまったよな……」
いくら女の子として育てられたからと言って、シンタローの中身までがそのように成長したわけではない。むしろ女の子らしからぬがさつな乱暴者で、事情を知らなかった叔父たちに、グンマと中身が入れ代わって生まれれば良かったのにと言わせたくらいだ。
シンタローにしてみれば、そんな女に惚れるなよ、と言いたいところなのだが、事実を知ったときのキンタローの落ち込みようを見てしまえば、そんなことを軽々しく口にするわけにもいかない。
「……それで、結局、シンちゃんはなんで女の子でいることになったわけ?」
昔を思い出して遠い眼をするシンタローを、グンマが引き戻した。
「あ、ああ……その話だったな。……グンマ、お前、俺の母親がすげえ迷信深い人だったってこと、知ってるだろ?」
シンタローの言葉に、グンマは頷く。シンタローの母親は二人が物心つくころにはすでに亡くなっていたが、その奇矯な人となりは数々の昔話からなんとなく聞き知っていた。
「その母さんがさ、俺を産んだとき、お告げがあったって言うんだ」
「お告げ?」
突拍子もない言葉にグンマが驚くと、シンタローも決まり悪そうな顔をした。
「ああ。……なんか胡散臭い感じがするんだけど……とにかくそうだったらしい。俺を女の子として育てなくてはいけないって」
「……ふうん……それで?」
「親父は、最初は信じなかったって言うんだ。どっちかって言うと、そういうの嫌いな方だし」
「うん、そうだね」
「だから、母さんの言うことを無視して普通に育てようとしたらしいんだけど──そのことで、母さんとずいぶん口論になったりもしたらしいんだけど、聞かないでいたら、そのうち母さんが産後の肥立ちが悪くて死んじゃって」
「……」
「親父は、そのことがよっぽど堪えたとかで……。こんなことになるんだったら、母さんの最後の望みくらい、叶えてやればよかったって思って──もしかしてそのお告げのことを無視したから、母さんが死んだんじゃないかとまで思いつめたらしくて。それで──」
「それでシンちゃんのことを、改めて女の子として育てることにしたってわけ?」
「そう、らしい」
「……」
「……」
「……シンちゃんには悪いけどさ、この話にはなんだかすごく、裏があるような気がするんだけど」
「……やっぱり……? 実は、俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて渋い表情をした。
「あの計算高いお父様がだよ? そんな絵物語みたいなこと、すると思う? 絶対なんか戦略立ててたに違いないよ」
「だよな。むしろ、母さんの迷信深さを、かえって利用してそうだよな。母さんの異常な物狂いの半分──いや、三分の二くらいは、親父が捏造して都合のいいように使ったものなんじゃねえの」
もはや故人となった実の親に対し、見も蓋もないことを二人は言う。極端な話、没落貴族の姫と大臣家の子息の恋という、当時有名だった両親の御伽噺のようななれそめに対してすら、身寄りも後ろ盾もない女を妻にして他家の余計な干渉を避けるためだろう、とか、相手の女に恩を着せ、文句を言わせないようにするためだろう、とすら思っていた。
「僕が思うにさ、お父様は、一族に姫がいないことを気にしてたんじゃないかな」
この時代の権力とは、娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませることにある。だが、グンマやシンタローが生まれた当時、天皇家には直系の男子がおらず、女帝による一代限りの皇位継承が続いていた。
「天皇家は男系だから、いくら青の一族が男子に恵まれていて、女帝と結婚できても、その権力は次に続かない。女帝がお隠れになったり、代替わりしちゃえばそこで終わり。それに、女帝擁立は一時的なもので、いつまでも続くわけがない。──でも、一族には天皇に嫁がせるための姫がいない」
「……それで、賭けにでたって?」
「そう。……ええと、ちょっと待って……そのときのことを整理してみると……。シンちゃんが産まれたとき、帝は女性で、青の一族の男性がその伴侶だった」
「そして、天皇家には当分、男子が産まれそうな様子はなかった」
「お父様は、先のことを考えて、今度産まれてくる子──シンちゃんが、女の子であればそれでよし、よしんば男の子でも、女の子として育ててみるべきかどうか、検討し始める。でも、この無茶な計画を実行するにあたり、さすがのお父様にもかなりの躊躇いがあった」
「……その決心がつかないうちに、俺が産まれ、母さんが死ぬ」
「そのときにお父様は決めたのかもしれない。青の一族には女は滅多に産まれない。天皇家にも今は男子の産まれる気配はない。そしてシンちゃんはまだ産まれたばかりで、その性別を知る者はごく限られた者だけだ」
「……それが、どうして俺を女として育てようということになる?」
シンタローの言葉に、グンマは奇妙に悟り済ましたような微笑を浮かべた。
「……結果的には、お父様は賭けに勝った、というべきだろうね……お父様が死んで、全ては無駄になってしまったけど」
「……親父が生きてたら、俺はやがてパプワのとこに入内することになったろうって?」
「そう」
グンマが頷くと、シンタローは不快そうに眉をひそめた。
「……年齢差を考えてみろよ。パプワが元服するころ、俺はどう少なく見積もっても三十にはなってる。それでもか?」
「その年齢差こそが、重要なんじゃないかと僕は思うんだ。パプワくんは赤の一族の血を引いているから、権力を保持し続けるためには、青の一族はどうしても姫を入内させなければならない。シンちゃんは実際は男で、本当ならとうてい入内なんかできっこないんだけど、一方のパプワくんは子供で、入内したからってすぐに男女の関係になるわけじゃない。シンちゃんは入内するんなら女御として遇されるから、人前に姿を現すこともない。それなら信用できる女房さえきっちりそろえておけば、事実は絶対にばれない」
「……最初のうちはそれで誤魔化しても、パプワが大人になったら、どうするんだ?」
「そのときには、シンちゃんの年齢がものを言うんだよ。『もう齢だから、添い伏しはできません』って」
「……それで上手くいくと思うか……?」
「お父様なら平気で口出しもするだろうからね。無理やりにでも思い通りにしただろうね。……もっとも、パプワくんを見てると、さすがのお父様でも難しかったかもなっては、思うけど」
「……その計画が実行に移されなくて、本当に良かったと思うぜ」
もしものことを想像してか、げんなりとしてシンタローは言った。
近い将来、元服と同時に即位することになるだろうパプワは、今はまだ袴着を終えたばかりの子供ではあるが、すでにしてその非凡の才の片鱗を見せ、周囲を驚かせているという。
「……でも、惜しいのは惜しいんだよな。パプワの次はコタローが帝位に就くんだろ? 俺が入内できたんなら、それまでの橋渡しにもなったのに」
「それはもう、言ってもしょうがないね……ルーザー叔父様にはたぶん、そんな度胸はないよ」
「あの人、頭はいいんだけどなあ」
「お父様の死も、突然のことだったからね。今は一族を取りまとめるので、一杯一杯なんじゃないの。だからシンちゃんのことも、一族内でこっそり片付けちゃうことに決めたんじゃないかと思う。叔父様らしからぬ胆略的な考えだったよね。上手くすれば、赤の一族との均衡を保つのに使えたのにさ」
「……グンマ……お前って」
「赤の一族で、シンちゃんに言い寄ってるやつ、いたよね。ナントカっての。あいつ馬鹿っぽいから、上手く言いくるめてシンちゃんと結婚させちゃえばさ、赤の一族との伝手もできて、いろいろ便利だったのに。ねえ?」
「……俺は時々、お前が一番当主に向いてるんじゃないかと思うときがあるよ……」
親父そっくり、とシンタローが呟くと、いやだなあ、とグンマは顔をしかめる。
「僕は権力なんてものに興味はないよ。あんなののどこが面白いのか、ちっともわからないもの」
「……いいよ、お前は別に、そのままで……。好きな学問でもやっててくれよ。その方が平和だから」
シンタローが投げやりに言うと、その意味を理解しているのかいないのか、グンマは柔らかく微笑んだ。
「そうだね。早くいろんなことが落ち着いて、前みたいに皆でのんびりすごせるようになるといいのにね」
お父様がいなくなってからこっち、つまらない人付き合いばかりが増えて、すごく面倒なんだ、とぼやくグンマには、栄華の頂点にある一族の面影は、ほとんどない。
自分たち兄弟は、結局父親のようには、父親の望んだようにはなれなかったな、とシンタローは思う。二人を溺愛していたマジックが、そのところを実際にどう思っていたのかは、もはや知りようがないのだけれども。
とはいえ、一族のこれ以上の繁栄は望まずとも、その凋落を招きたくないのは二人とも同じだった。叔父たちや従兄弟が悩み苦しむ姿など見たくもないし、それ以上に何百人といる使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、それを防ぐ手立てがあるのだろうか、と思うと、シンタローは押し黙るしかなかった。ルーザーのするように、自分が一族の誰かと結婚して済む問題ではない分、不安は余計に募る。
いつの間にか、世間話や中断している学問の話をし始めているグンマに適当に相槌を打ちながら、先の見えぬ現状に対し、シンタローはこっそりとため息をついた。