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世界征服のすすめ


「えー、諸君」
 マジックは、集会場に揃った団員をぐるりと見回した。
 最後列に近い位置に、シンタローは佇んでいた。彼の傍には、ミヤギ、トットリ、アラシヤマ、コージといった、のちに遥か遠方の島で行動を共にすることになる、実戦方面のエリートたちが固まっている。
「あ、おーい! やっほー、シンちゃーん! パパの声、そっちまではっきり聞こえるーっ?」
 演説台の上で、マジックはぶんぶんと手を振った。
 不意のことに、がくっ、とシンタローはこけかける。
 ……まともに喋れないのか、あの父親はっ。そんな眼差しを前方に向けるが、壇上の、場を統べる者はあくまでにこやかだ。
 周囲の視線が、シンタローに注がれていた。溜息をついて、彼はひらひらと手を振り返した。
「いいようだな。では、始めよう」
「……何が始まるんだっちゃか?」
「シンタローはんは知ってはるんどすか?」
「んー、まあ、大雑把な中身は。すげーめちゃくちゃだけど、一見――いや一聞? の価値はあるかもしれねえ」
 本当は認めたくない、と言いたげな表情で、シンタローは同僚に答えた。マジックは草稿に目を落とす。
「諸君らは、わがガンマ団の一員だ。ガンマ団といえば、世界に冠たる殺し屋組織……無論、それだけが全てではないが、最終的な目論見は世界征服にあることを、君たちは既に知っているだろう。だが、それは一体どのようにすればいいのか? 仮定に基づき、今日はそのことについて話を進めたいと思う」
 一旦言葉を切り、マジックは演説テーマを発表した。
「――『世界征服のすすめ』」
「でーっ、やっぱ最っ低……。あいつ、ネーミングセンスとかコピーセンス、まるきり持ってないんじゃねえのかァ? もちっとまともなタイトル付けりゃいいのに……」
 シンタローは心底嫌そうに呟いた。別にセンスなどなくとも中身がすばらしければいいのだが。
「……世界征服は、一朝一夕にしてできるものではない。入念な根回しが必要だ。切り崩しやすい部分から責めることも肝要である。そこで、……そうだな、日本人の団員もここには多いことだし、日本を征服する場合を例に取ってみよう」
 多いも何も、シンタローの士官学校入学以来、日本人もしくは東洋系が団員の主を占めているのが実情なのだが、それの持つ意味を正しく知る者は、今ここにはいない。
「日本を征服する為には、要は日本語を使えなくし、意思の伝達を不可能にしてしまえばいい。日本語を崩壊させるわけだ。その上で乗っ取りをかける。述べてしまえばこれだけのことだが、その為にはどのような手段を用いればいいだろう。考えてみたまえ」
「……弾圧しちまえばええんでねえべか?」
 ミヤギは囁いた。シンタローは、愚かなと言わんばかりの目で見返した。
「恐怖政治やってどーすんだよ! 日本の植民地支配のパターンを地でいく気か?」
「そげなこと言われでも……」
 壇上では、マジックが先を続けていた。
「長期的な展望で行なうには、被支配者の反発を最小限に食い止めねばならない。人道的見地、ヒューマニズムに則った、お涙頂戴大好きの国民性に訴える手段を取ることが必要だな。つまり――差別用語の撤廃」
 会場中にざわめきがはしる。差別用語なら、出版コード抵触や放送禁止用語といった方法で、今だって避けられている。この方法で、どうしたら日本語を崩壊させられるのだろう。既に大まかな内容を知っている――正確には一方的に聞かされている――シンタローだけが、肩をすくめて黙っている。
「といっても、差別だ差別だといきなり騒いでも、奇異な目で見られる恐れがある。……ちびくろサンボ、という物語が、黒人差別だというので、有害図書指定で一九八八年以降全面的に絶版になっているのは知っているな。しかし、ならば、白い肌を強調した『白雪姫』は何故指定を受けないのか。答えは、大人が読み聞かせるか、子供が自分で読むか、作品のその差にあるわけだ。大人はとかく、青少年の健全な育成を大仰に騒ぎ立てたがる。……日本の未来を担う子供たちに、『教育上よろしくない』と思われる言葉を覚えさせてはならない。どうだ、ヒューマニズム溢れる、思いやりに満ちた意見じゃないか。誰も我々の真の目的が、日本語の崩壊にあるとは思いもよるまい。まずはそういう名目で、差別に当たる言葉を排除してゆく。次第に、世論もそちらの方へ流れることだろう――」
「とんでもない論法じゃのぉ……面白いが」
 コージはひとりごちた。いったいこの先どう展開するのだろう。
「まあ、その辺りのところは割愛するが、とにかく、何が何でも殆どの言葉を差別用語とみなしてしまえばよろしい。誤解曲解OK。直截的表現でなくとも、差別感を連想させるだけで、それはもう駄目だ。過去にまで干渉して取り沙汰するのもいいだろう。ああ、固有名詞はあらかた使えんな。……例を挙げてみよう」
 マジックは一冊の文庫本を手に取った。
「これは、角○文庫だ。……今からもう一昔も前のことになってしまうが、社長兄弟分裂の闘争とその後の兄の麻薬取締法違反による逮捕、といった事件があったからには、角○はいかんな、○川は。世の中の同姓の人間が、長きにわたり、犯罪者と同じ苗字だというので、理不尽にも肩身の狭い思いをした可能性を否定できない。まずこれを削除だ。ついで、文庫。これには何の問題もないだろうか? 文庫というのは基本的に新書版より廉価で、普及版ということになっている。『普及』していないと断じられた新書版書籍に対して失礼だな。また、文庫の本来の意味は、書物を収めておく蔵、書庫だ。ということは、図書館だ。……身近に図書館のない地域の人が『文庫』の一言で差別感を煽られるかもしれない。これは、前述の連想パターンに曲解を上乗せしたものになるな。――削除」
 たかだか『○川文庫』の一語で、よくこんなにこじつけられたものである。聴講者は半ばマジックの話法に引きずり込まれ、固唾を呑んでいる。
「内容についても触れるかね? 一文だけ抜き出してみよう。ちなみにア○スラーン戦記第二巻だ。『はずむような足どりで家のなかへはいっていく少女を、ナルサスはやや呆然とながめやった。』……はずむような足どり、って、足の不自由な人はどうするのだろうね? 家のなかへはいっていくって、俗にホームレスと呼ばれる生活をしている人間が羨望と共に差別を感じないだろうか。第一、これは自宅ではなかったのだから、一歩間違えば住居不法侵入罪適用だ。ファンタジーにそんなものはない? 思い出したまえ、誤解してもいいんだよ。で、少女。男なら少年というな。年若い者という意味であるのに、それはなぜ男だけを指すのか。女性蔑視だな。……次の名前については今更言うまでもないし、呆然の呆は痴呆の呆、看護に疲れている身内にとっては文字だけで苦い思いが湧いてくるかもしれない。ながめやったというのは、目の見えない人に対して差別だ。――ほら、助詞と副詞しか残らないだろう。ことほどさように、ほぼ全ての単語は差別用語になり得るわけである」
 ここまでくると、こじつけもお見事としか言いようがない。
「そしてどんどん使用可能な日本語は減ってゆく。こーんな分厚い広辞苑だとて、語彙がなくなればページ数はがたっと減る。めざせ! パンフレット厚の広辞苑! これを合言葉に、用語削除の嵐風を吹かせたい。……だがしかし、削除し続けるだけでは芸がない。ここは一つ、我々で『差別にならない言い換え用語集』を発刊してみたらどうだろう。一言言うたび、記すたび、差別になるのではないかと怯えるようになる日本人にとって、もはや必要不可欠の書となるはずだ。国民は買わざるをえない。そう、どうせなら豪華装丁にしよう。五色分解フルカラーにホログラム加工、更に箔押しだ」
「同人誌のフェアじゃねえっての……」
 シンタローはぼそりとぼやく。何故それを同人誌と判るのかについて、深く問うてはならないのかもしれない。
「発行元である我がガンマ団には、印税で収益金が転がり込む。労せずして活動資金調達もできてしまった。いいことではないかね?」
 マジックはざっと聴衆を見渡した。感心したように頷く者、メモを取る者、唖然とした面持ちで聞き入る者――。
「――更にもう一つ狙ってみようか。固有名詞全廃となると、地名も駄目だな。言い換えなくてはならん。たとえば、そうだな……名古屋」
 集団の後方にいた名古屋ウィローは目をぱちくりさせた。
「何を言わせっせるんきゃあも……」
 自分の出身地がどう料理されるのか、興味津々で壇上を見つめる。
「中部地方で人口二百万人以上を抱える大都市、とでもなるか。だがこの表現ではまだそれ自体が差別用語だな、人口の少ない町が怒る。と、すると、座標で表さなくてはならん。北緯何度東経何度……緯度はともかく経度は、英国のグリニッジ天文台跡地の子午線が基準だ、基準にならなかった他国に対する不当な差別になるな、まだいけない。この際だ、我々で新しい座標を設定してしまおう。そのものずばりではならないから、ランダムにするために乱数表も必要になってくる。二冊組の本だな。地名一つ指すにもそれがなくては一言も話せないから、やはり国民は買わなくてはならない。得をするのはガンマ団だ」
 あざといほどの手口。その父らしさに、シンタローは苦笑を禁じ得ない。
「本題に戻すと、その頃には日本語は破壊されつくしているわけであるから、国を乗っ取ることも容易だ。さあ、差別用語を削除するという人道的手段で、自らの手を汚すことなく日本を征服できてしまったぞ。いやめでたい」
 まばらな拍手。アラシヤマは恐れがちに呼びかけた。
「あのぉ……シンタローはん?」
「何だよ?」
「わて、聞いとって思ぅたんどすけど……日本語を崩壊させるゆうことは、わてらも喋れへんのとちゃいますのんか……?」
「おお、言われてみりゃそうじゃの。アラシヤマ、ぬし、頭ええのお」
 コージはアラシヤマの頭をぐりぐりと撫でた。殆ど子供扱いだ。
「コ……コージはん、やめとくれやすっ」
「照れんでもええ。これは世辞ではないけん、わしの本心じゃ、安心せえ」
「わてはそうゆうことを言っとるんやあらしまへん! あんさんの、犬猫でもあやしはるみたいなその手がどすなあ」
 当人の意思はさておいて、はたから見たらじゃれている以外の何者でもない二人の様子を、シンタローは呆れたように見やり、咳払いした。
「ふざけてると、後で減俸くらうぞ、おめーら。……まあ、話を聞いてろって。判るからよ」
「……さて、日本の征服も当座叶った。活動資金も集まってくる。だが、意思の伝達ができないほど日本語を使えなくしてしまったら、我々は一体どうやって喋ればいいのだろうか。英語か? 心配は無用だ、諸君。ガンマ団に在籍している限り、制約なしに日本語の使用を認める。それが特権だ。――お、するとそれを求めて入団希望を出す一般国民も現れるか。その中に、埋もれた原石のごとき存在がいないとも限らない。征服者側の立場に寄りたいという野望家も何パーセントかはいるだろう。人材確保の心配もなくなったな、いいことだ。そして、日本を完全に支配下に置き、人々も我々の支配を受け入れるようになったら、改めて国民に日本語の使用を認めることにすればよかろう。いつまでも統制していては、クーデターを起こそうという不穏な輩が現れかねんのでな。――細かいことはまだあるが、これで我がガンマ団の日本征服計画は完了した。そうなると、それを足掛かりに、次はいよいよ世界征服だ……」
 壇上のマジックは、一息ついてから語を継いだ。
「……といっても、その一環として日本の場合を例にとったわけであるから、あえて同じことを繰り返すまでもあるまい。ここは、世界を手中に収めるに足る組織の在り方について話をしよう。シーンちゃん、聞いてるかーい?」
 マジックはまた手を振った。
 シンタローは思わず拳を振り上げる。最後尾から彼は怒鳴った。
「余計なことをせずに話を進めんか、クソ親父ッ!」
「ごほん。――先ほども述べたとおり、支配下に置いた者たちの反発心をでき得る限り抑えることが、征服者の必須条件だ。その為には、地域に根ざした組織づくりが必要になってくる。悪の組織だからといって、工業排水垂れ流しのどこぞの工場のような真似をしては、あっという間にバッシングされてしまうな? 地球にやさしい悪の組織。決め手はこれだ。無論、我がガンマ団は、早くからそれに着手している。限りある資源を大切に、節電・節水、コピー用紙は再生紙を両面使用……。諸君らが日頃使用する兵器も、実は屑鉄の再利用だ。今ブームになっているエコロジーを重視した組織を作ることこそ、ひいては世界征服を成功させることにもつながるのである」
 世界征服も、こう言ってしまうと何だかせこい。
「一方、地域密着型の組織という観点だが、何はともあれ、地域の皆様に愛される組織たらねばならん。人助けもそのうちだ。たとえば、往来で大きな荷物を抱えた老婆が立ち往生していたとしよう。その場合には、迷うことなくその荷物を持ってやるべきである」
「そんで、親切そうな顔のまま、荷物を奪って素早く逃げるんだべな」
 ミヤギの台詞に、アラシヤマは白い目を向けた。
「……アホどすな、あんさん。そないなことしたら、いっぺんに憎まれてしまいますがな。これやさかい、顔だけのお人は……」
「ミヤギくんたら……」
 ベストフレンド・トットリにまで呆れ顔をされ、ミヤギはふてくされたような表情になった。
「……『お婆さん、荷物をお持ちしましょう。横断歩道は危ないですからね、私に掴まって。どこまでいらっしゃるのですか、お送り申し上げましょう。いえ、礼には及びません、ガンマ団の人間(ここ強調のこと!)として、当然のことをしたまでですから』――こうでなくてはならないな。さわやかな近所付き合いも欠かすことはできない。ゴミはゴミの日に。挨拶も好印象を与える機会だ、有効活用すべし」
 総帥というより『シンちゃんのパパ』のノリだ。たしかにマジックは実践しているに相違ないが、いまいちハクに欠けるかもしれない。……いつものことではある。
「また、自A隊が行かないような、やらないような危険な仕事も進んで引き受けたい。理由か? そうすれば、ガンマ団の名も上がるし、相対的に自A隊の弱体化を促進させることもできる……弱体化すれば、いざ我々が征服にあたった際、防衛措置を取ることが不可能となる。一石二鳥ではないか」
 どよめきがそこかしこで起こった。満足げに、マジックは小さく頷く。
「そのような日常を繰り返すうち、地域住民の警戒心が弛んでくる日が必ず訪れる。『何だ、悪の組織といったって、自分たちの生活に何の支障も及ぼさないじゃないか』と思わせることができればしめたものだ。その時、我々はゆとりを持って、邪魔だてする自A隊なり軍隊なりを気に掛けることなく、一気に殲滅・征服を成功させることができるのだ。――地域に根ざした組織づくり、地球にやさしい組織づくりが世界征服の必然であることを理解し得ただろうか、諸君」
 シンタローは腕組みして、父を遠目に眺めた。言うとやるとでは大違いだろうが、見事に畳み掛ける、この舌の回転の良さだけは誉めてやってもいいかもしれない。
「長々と話してきたが、自分に可能な世界征服の手段はあっただろうか? 君たちも機会があれば、我がガンマ団の為、また自己栄達の為、可能な手段を実践してくれたまえ」
 そして、一拍の間。
「――以上」
 静寂の後に、嵐のような拍手が会場を埋め尽くした。


「総帥のお話、面白かったっちゃね~」
「……オラ、半分ぐれえしかわがんねかったべ……」
 わらわらと人が退いていく中、トットリとミヤギはそれに紛れた。
 アラシヤマは、混雑を避け、少しおいてから歩き出した。
 くいっと後ろから引き寄せるように肩を掴まれる。そんなことをするのは、団員多しといえども、一人だけだ。
「何どす? コージはん」
「アラシヤマ、この後、ぬしヒマかの?」
「暇……どすけど、それがどうしはりましてん?」
 アラシヤマはコージを仰ぎ見た。
「じゃったら、さっそく世界征服の第一歩を踏み出しに行かんか」
「世界征服の、第一歩……?」
「わはは。人助けじゃ。『皆様に愛される悪の組織』とやらの実戦じゃけんのー!!」
「ちょっ……待っとくれやす、コージは――…」
 反問を封じて強引にアラシヤマの肩を押し、コージは去っていった。
 シンタローは大きく深呼吸して、身体を伸ばした。
「はー……やーっと終わったぜ……」
「シ・ン・ちゃん」
 背後から降るよく響く声に、ぐっと呻き、シンタローは振り返った。
「まだいたのかよ!」
 先ほどの演説だか講義だかを終えて、とうに総帥室に戻ったかと思ったマジックが、手を挙げていた。できることなら会話は交わしたくない。
「パパのお話し、どうだった? ためになったかな?」
「……知らねーよ」
 つーん。そんな擬音つきで、シンタローは顔を背けた。マジックが、よよよ、と泣き崩れる。
「ひどい、シンちゃん……」
「うざってえ泣き真似してんじゃねェッ! 俺はこの後、用があるんだから、行くからなっっ」
 シンタローは叫んで、そっぽを向いたまま立ち去りかけた。会場を出しなに、
「――親父!」
 ……言葉を投げる。
「講義、85点つけてやる!! ありがたく思えよ!」
 一瞬驚いたようにシンタローを見、マジックは鮮やかに笑った。今日の親子関係は、何とか保たれている部類に入るらしかった。


それからしばらく、マジックの世界征服のすすめは団員の間で妙に好評を博したのであった――。



参考/「自己資金0から始められる悪の組織」「悪の組織の為の世界征服戦略セミナー」




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幕間劇


 シンタローは、ガンマ団本部のとあるフロアの一室、通称『子供部屋』にいた。 
 この強大な暗殺者組織の総帥である父、マジックが、その職務に就いている間、シンタローはここで時間を過ごすのが常だった。
 今年で十歳になる息子を猫可愛がりして何処へ行くにも連れ歩き、暇さえあれば動物園だの遊園地だので遊ばせるマジックだが、自分の目が届かない時間、本部をただの子供が自由にうろつくのはさすがにはばかられるものらしい。決してこの部屋を出てはならないとシンタローは厳命されている。
 錠鍵は掛けられていないが、彼は命令を破ったことはなかった。与えられた言葉そのものが鍵の役目を果たしていたのだから。
 目の前には大きな鏡。それに映る己の姿を、彼は複雑な面持ちで見やった。
「………」
 くんっと軽く髪を引いてみる。父を筆頭とする一族の、他の誰も持ち合わせぬ黒い頭髪と……瞳。有り得べからざる、存在。
 父や叔父は可愛がってくれるが、他人が自分をどう噂しているのか、もう何年か前からシンタローは知っていた。
『出来損ない』――
 父が優しいのも、一種の不具者である息子への憐憫の故である、と。口さがない者は、血のつながりの有無まで取り沙汰している始末だ。 
 マジックに連れ歩かれるたび己に向けられる、好奇の視線。そして「あれが――あれでマジックの息子なのか」という不審の声は否応なくシンタローの心を切り刻んだ。勿論水面下で囁き交わされるだけのものではあったが、彼にはそれで充分だったのだ。
 自分にもっと力があれば……誰が見てもあの父の跡継ぎたる資格を持っていたら。そうしたら――。
 誰にも何も言わせないのに。「総帥も物好きな……情に流されて、何の力もない異端者を後継者とするとは」という、マジックに対する陰口などたたかせないのに。父を安心させてあげられるのに……。
 そこまで至ってもなお、自己よりマジックをかばおうとするところが、他に拠り所を持たない少年の手いっぱいの想いであるかもしれなかった。
 シンタローは鏡の中の自分を睨みつけた。
 その時、扉が小さな音とともに開いた。
「やっほー、シンちゃん、遊ぼっ」
 振り返ったシンタローの視線の先に、笑顔の少年が立っていた。ずっと幼い頃から天分を発揮して、既にここで半人前ながら科学スタッフの仲間入りをしている、同い年の従兄弟だ。
「グンマ……」
 いつものこととて、そのままグンマは子供部屋に入ってきた。
「お勉強の手があいたから来ちゃった。ね、何して遊ぶ?」
 シンタローはグンマをわずかに目を細めて見つめた。
 写真でしか見たことのないルーザー、そして一族の長であるマジックによく似た顔立ち――。
「どしたの、シンちゃん、ボーッとして」
 きょとんと首を傾げて、グンマは従兄弟の顔を覗き込んだ。伸びかけの淡い金髪がさらりと流れる。シンタローを映す、碧い瞳。
 ――象徴を全て具えた、その姿。
 何故こいつは、自分の欲しいものを当たり前の顔をして持っているのだろう? その多幸に気づきもせずに。
 ……どうして。
 頭の片隅でそう考えた瞬間、突き上げる衝動にシンタローの意識は飲み込まれていた。
「……ょう……」
「シン、ちゃん……?」
「……畜生ぉーッッ!!」
 吠えるように叫んで、シンタローはグンマの胸ぐらを掴み上げた。
 勢い余って、二人は床に転がり込んだ。
「おまえなんてッ!」
「やだっ、何するのさ!」
 抗うグンマを押さえ、シンタローは拳で殴りつけた。続けて従兄弟の頭髪をがばりとひっ掴む。
「痛いよォ! やめてよ、シンちゃん!」
「どうしておまえでなきゃいけないんだ!」
「な……何言ってるの? シンちゃん、ねえ! 一体どうしちゃったの!?」
 グンマには、シンタローの豹変の意味など判ろうはずもない。少しでも身を守ろうとするだけで精一杯だ。その従兄弟に、生まれながらの異端者である少年は激情の塊ごと言葉を突き立てた。
「全部持ってるくせに! 目も、髪も、顔も、力も! 何でおまえだけッ! おまえなんかがっ!!」
 シンタローは掴んだ金の髪を荒くひっぱった。
「畜生! おまえの髪の毛よこせ! よこせよおぉーっっ!!」
「痛いってばぁ! やだやだやだッ!!」
 グンマは必死に身をよじって暴れた。シンタローから逃れようと懸命に抵抗する。めちゃくちゃに振り回した腕が、シンタローの頬に当たった。
 ほんの半瞬力がゆるんだ隙に、グンマはシンタローの下から抜け出し、後ずさった。
「……っ」
 グンマはぼろぼろと涙をこぼしながら、姿勢を立てなおそうとするシンタローをねめつけた。
「ばか! シンちゃんなんか大っ嫌いだ!!」
 怒鳴って、グンマは身を返し、部屋を飛び出していった。
 シンタローは扉の向こうを凝視していたが、やがておさまりきれない感情をぶつけるように、爪の食い込んだ握り拳で床を殴りつけはじめた。
 何度も、……何度も。それ以外の動きなど、まるでできないように。
「……だって……ッ……!」
 その唇から洩れた声と同時に、涙の粒が床にぽたりと落ちた――。


 高松は己の研究室で、幾人かの助手を相手に、次の実験についての大まかな指示を与えていた。
「……で、その際には……」
 そこに、入室許可を請う声も何もなく、いきなり人影が飛び込んできた。
「うぇーん! 高松ーっ!」
「グンマ様!?」
 驚いて見る高松に、グンマは走ってきた勢いのまま抱きついた。
「うわぁーん! ひっく、ふえーん!」
 しがみついて泣いているグンマを左腕で支え、高松はちらりとスタッフたちを一瞥した。もう一方の手を軽く振って、退出するよう動作だけで促す。
 一礼して助手たちが去っていった後、高松は小さく息をついて屈み込んだ。まだ百三十センチにも身長の足りないグンマと、目線の高さを合わせるためである。
「うぇっ……ぐすっ……高松ぅー」
「どうなさったんです。またシンタロー様と喧嘩になったんですか?」
 高松は97パーセントの確信を持って優しく訊ねた。
 高松に涙を拭ってもらって、グンマはこくんと頷いた。
「うん……。でも、でもね、ぼく何にもしてないんだよ。ぼくがお部屋に遊びに行ったら、シンちゃんがいきなり殴ったの」
「それは……。よほどシンタロー様の機嫌が悪かったんですね。お可哀相に、グンマ様」
 高松はグンマを抱き寄せた。グンマは黒髪のかかる首に腕を回した。
 実際、来訪者がない限りずっと一人きりであの部屋に閉じこめられていれば、シンタローでなくともフラストレーションがたまるのも無理はない、と高松は思う。それがマジックの方針で、そうすることでしか、息子を周囲の好奇の視線から守ることができないのは判るが、だったら初めからこんな場所に連れてこなければいいのだ。
 かなり辛辣な感想を、高松は被保護者をなだめながら内心でだけ投げかける。
「でねっ、シンちゃんがね、僕の髪の毛をよこせって言ってぎゅっとひっぱってきたんだ。すごぉく痛かったの……どうしてすぐいじめてくるのかな……」
 グンマは保護者に訴えた。高松はその発言内容にはっとして反復した。
「グンマ様の、髪?」
「うん、そう。ぼくは全部持ってるくせに、って……。全然意味が判らないよ、そんなの」
 高松はそこでシンタローの心理状態を理解していた。一族の象徴を何一つ持たぬ彼と、正反対の同年者……。幼い心では処理できないもどかしさの発露。
 ああ、きっと彼はよく似ている。……決して声には出さない呟きを高松はおし殺した。
 グンマは腕に力を籠めた。
「ぼく、シンちゃん嫌い! 乱暴なんだもん」
「駄目ですよ、そんなことをおっしゃっては」
「だって、意地悪だもん、嫌いだ!」
 むくれたような少年の声に、高松はため息をついて、ごく静かに問い返した。
「『本当に』、シンタロー様をお嫌いですか?」
 手を離し、不思議そうにグンマは高松を見た。
 幾秒か、視線が交差する。口先だけの虚偽はそこには許されなかった。
 グンマはうつむいて、ぶんぶんと首を振った。
「……そんなこと、ない……」
 自分の感情を見極めるように逡巡してから、彼は語を継いだ。
「――好き」
「でしたら滅多なことをおっしゃるものではありませんね。従兄弟でありお友達、でしょう、シンタロー様は? 私のグンマ様は、そのような大切な相手をけなす言動をなさる方ではなかったはずですよ」
「だけど……」
 口籠もったグンマは、突然顔を歪めた。幾分乾きかけていた瞳から、また涙があふれた。
「グンマ様」
「どうしよう――ぼく……」
 口を開くそばから、透明な雫が頬を伝って落ちてゆく。
「ぼく、シンちゃんに『大嫌い』って……ひっく、言っちゃった……よォ……」
 小さな刺が突きささる痛み。勢いで心にもないことを口にしてしまったと悔やんでも、一度顕わになった発言は、消し去ることはできない。グンマは口喧嘩ですらないその些細な一言の重みを認識させられる。
「シンちゃんの方がぼくを嫌いになったらどうしよう……そんなの、やだ……。ほんとは、好きなのに……大嫌いなんて、言っちゃっ……、から――」
 泣きながら喋るせいでむせかける少年の背を、高松は優しくさすった。
「大丈夫ですよ。グンマ様がシンタロー様をお好きだと思っていらっしゃる限り、シンタロー様だって、グンマ様のことを本気で嫌いになどなりません。……私の言葉は信じられませんか?」
「ぼくが高松を信じないわけない!」
 即答で叫んで、グンマはまたこほこほと咳き込んだ。
 軽く背中を叩かれて、まだ涙は止まらないままようやく深呼吸する。眼前で微笑む黒髪の保護者は、グンマにとっては物心ついた頃からずっと、一番の安心感を得られる存在だった。
「よかった。判っていただけましたね。でしたら、質問を変えましょう」
 あくまでも穏やかに、高松は金髪の少年に話しかける。
 総帥の一番上の弟に付き随いその反乱に加担するなどという、かつての自分が為したことを思えば、永遠に引き離されても仕方なかったのに、今、自分はグンマの実質上の保護者であり教育係を許され、任されて、ここにいる。なれば、グンマの持ち前の素直な気性と利発さをたわめることなく、まっすぐに健やかに伸ばし育てるのが与えられた責務であろう。
「グンマ様は、シンタローさまに対して悪いことをしてしまったとお考えですか?」
「思ってる……」
 消え入りそうな声でグンマは呟いた。高松はそれへにっこりとしてみせた。
「でしたら、シンタロー様に謝らなくてはいけませんね。悪いことをしたのなら、『ごめんなさい』と――ちゃんと告げることが、まずしなくてはならないことですよ。まあ……シンタロー様の方も、いきなりグンマ様に乱暴を働いたことは謝罪されるべきだとは思いますが、それは別問題ですから」
「許して、くれるかな……シンちゃん。それに――」
 あんな風に別れてきたのだ、気まずくて、また会いに行くのも気が引ける。そんな心情を飲み込み、グンマは高松の着衣の端を掴んだ。
「あの、高松は一緒に来てはくれない……?」
 おずおずと窺う碧い瞳に、高松は笑みを深くした。
「おやおや、もう十歳だというのに、甘えん坊ですね。他の時ならばいつでもどこでもご一緒しますが、今だけは承知いたしかねます。私が出て行っては、グンマ様のずるになってしまう。きちんとお一人で謝らなくては」
「………。うん」
 微かに首肯して、グンマは唇を引き結ぶ。それが彼の決意の意思表示だった。
 高松は、被保護者の頬をそっと撫でた。いつもはアンティークドールのようにすべらかな頬は、今は乾かない涙で湿り気を帯びている。
「それでは、頑張るあなたにご褒美を」
 つと立ち上がると、高松は事務机の方へ向かった。引き出しを開けて、中から何かを掴み出す。グンマはじっとその姿を見つめていた。
 すぐに戻ってきて、今度は膝をつかずに、高松は少年の手を取った。
「シンタロー様と一つずつ分けて下さい。仲直りの魔法がかかっていますからね」
 悪戯っぽく目を細め、まだ小さな掌に、二つの包みを載せてやる。それはグンマが好きなキャンディだった。
 グンマは載せられた小ぶりのいちごミルク味の飴を、目をしばたたいて見やってから、きゅっと握り締め、涙を残したままぱっと微笑った。
「ありがとう、高松! 大好き!」
「私も、グンマ様のことは大好きですよ。さ、いってらっしゃい」
 高松は細い肩を押して促した。触れる手に、最後の勇気を後押しするように。
 はっきりと頷き、グンマは飴を握った手を胸元に当てて、そのままぱたぱたと駆け出した。勢いは同じでも、入ってきた時とは足取りがまったく違う。
 小さな背中を見送ってから、高松はぽそりと独語した。
「――と、言ったものの、また泣かされて帰ってこなければいいんですけどねぇ……」
 そして彼は、少年の保護者から科学者としての顔に戻って、退出させたスタッフを再び呼び戻すべく連絡を取り始めた。


 シンタローは服の袖で強く目を擦った。
 はふ、と息をついて、たくさんのぬいぐるみとクッションの間に入り込む。こうすると少し落ち着く気がした。
 嵐のような激情が去った後に残るのは、虚脱感と自己嫌悪だ。
 従兄弟のことが嫌いなわけではない。なのに、いじめてしまった。どうしてなのか気持ちを抑えることができなかった。
 もう、グンマは来ないかもしれない。いや、きっと来ないだろう。乱暴者で、何より明らかに一族の出来損ないである自分など、戯れにかまう気すらなくして、愛想を尽かしてしまったに違いない。
 シンタローは膝を抱えて、半ば顔を埋めた。
「っ……」
 また泣きそうになって、唇を噛む。
 駄目だ、いい子でいなくては。いつ父が戻ってきてもいいように、その時にいつでも笑って「おかえりなさい」を言えるようにしていなくては。父に不安や心配を与える要素は、一つでも少なくしておかなければいけないのだ。自分は、存在すること自体で大きなマイナスを背負っているのだから。
 懸命に自己に言い聞かせ、シンタローは膝を抱える腕に力を入れた。
「あ、の……シンちゃん?」
 不意に、控えめな呼びかけが発された。ぴくりとして見上げると、音もなく半開きにされた扉の向こうから、先ほど泣いて逃げていった従兄弟が顔を覗かせていた。
「グンマ――」
 もうやってこないと思ったその姿に、シンタローは大きく目を見開いた。
「……何で、来たんだよ」
 口から滑り出た言葉と声は、己の心情を裏切るものだった。
「またいじめられたいのか?」
 ――違う。こんなことを言いたいわけではないのに。来てくれてとても嬉しいのに。脅すようなことを言えば、従兄弟はまた逃げてしまう。
 案の定、グンマはびくっとして扉の陰に隠れてしまった。
 その様子に、シンタローは重ねた手を強く握り締めた。俯いて、殆ど叫びに近く言葉を投げる。
「行っちまえよ、弱虫グンマ! 二度と来るなッ!」
「……、…よ」
 呟きが、微かに届いた。
 え? と思う間もなく、扉が大きく開けられ、同い年の従兄弟は子供部屋の中に踏み込んできた。
「駄目だよ、ぼくは帰らない」
 グンマの背後で扉が滑るように閉ざされる。三歩ほど進んで、彼はその場に立ち止まった。
「ぼく、シンちゃんと喧嘩するの嫌だよ。ぎゅうって胸が痛くなって、悲しくて、自分がすごく嫌な奴になったみたいで、だから。喧嘩なんてするより、仲良くしていたいよ、その方がずっと気持ちいいもの!」
 そこまで一気に喋って、淡い金髪の少年は大きく息をついた。虚をつかれて呆然とシンタローはそれを仰ぎ見た。
 グンマは息を整えてから、はっきりと黒髪の従兄弟に視線を向ける。
「だって……だって、ぼくはシンちゃんのこと、好きだから」
 グンマは、胸元で握った手に少し力を籠めて、大きく息を吸い込んだ。
「だから、ごめんなさい! さっき、大嫌いなんて言っちゃってごめん。言うつもりじゃなかった。ほんとは、大好きだよ……? 信じて、くれる?」
 シンタローは、その場に立つ従兄弟をじっと見上げた。口からでまかせを、と一蹴するのは簡単である。だが、グンマがそのような部分で白々しい嘘をつけるような性格ではないことくらいは、生まれてからの十年間の付き合いで知っていた。真実の気持ちと発言が一致しないのは、つい今、自分も経験したばかりだ。
「………」
 黙り込んだまま、シンタローはグンマを見つめた。黒い瞳にさらされて、次第にグンマの表情が再びおどおどとしたものに変わってゆく。
「えっと、やっぱり、信じてもらえないかな……。もう……許して、もらえないかな――」
「……、俺も、いじめてごめん」
 今度は、思う言葉は自然に出てきた。小声だったが、かろうじて相手には届いたらしい。翳りかけていたグンマの表情が、一瞬にして晴れ渡る。
「うんっ!」
 これで貸し借りなしだね、と微笑む顔は、やはりマジックやその兄弟の血筋であることを疑う余地もなかったが、今はさして腹も立たなかった。
「そっちへ行ってもいい?」
 シンタローが座り込んだスペースを、グンマは指差した。ぶっきらぼうにシンタローが頷いてみせると、嬉しげにクッションのひとつを避け、グンマは左隣に腰を下ろした。
「えへへ、シンちゃんの隣、嬉しいな」
 特に擦り寄るでもなく、ただ傍に一緒に座ってにこにこしている様子に、シンタローは喉まで出かかった「ベタベタするなよ」という台詞の行き場を失って鼻白む。
 グンマは、シンタローと同じ姿勢になるように片腕で膝を抱き、それから、ずっと握っていた方の手を開いた。
「高松からもらったんだ。一緒に食べよ? 仲直りの印だよ」
 膝から腕を離して、白地にいちごの模様が描かれた包装のキャンディを一つつまみ、グンマはシンタローに差し出した。
 一瞬ためらってから、シンタローはそれを受け取った。にっこりとして、グンマは残った一つの包み紙をくるりと捻ってめくり、小さな三角形をしたピンクのキャンディを口に含んでもごもごと舐めた。
 シンタローは、更に躊躇した後、真似るようにいちごミルク味の飴玉を口に放り込んだ。
「ちょっと溶けてる。グンマ、おまえずっと握ってただろ、これ」
「だって、シンちゃんと仲直りできますようにって祈りながら持ってたんだもの」
 グンマはてらいもなく告げて、キャンディの甘酸っぱさを味わう。届いた祈りは、何にも勝る誇りだった。
 ふん、とわずかに鼻を鳴らし、しかしそれ以上突っ込むことはせずにシンタローはそこにいた。
 飴を舐めきるまで、そのまま二人は相手の存在と穏やかな沈黙だけを感じながら、何も話さなかった。


「俺、おまえだったらよかった」
 甘さの名残が口の中から消えてしばらくしてから、ぽそっとシンタローは呟いた。
「え? そんなの駄目だよ!」
 グンマはきょとりとまばたきして従兄弟の発言を否定した。
 シンタローは即断の返答を予測していなかったがゆえに、不快そうに眉を寄せることになる。
「何だよ、やっぱりおまえも俺のことバカにしてるのか? 俺みたいな出来損ないじゃ、おまえの立場は務まらない? それとも、自分が俺みたいになるのが嫌なのかよ?」
「ちっ違うよ!」
 一旦落ち着いたシンタローの機嫌がまたぞろ降下するのに焦った様子で、グンマは強く首を振った。聞き入れてもらえるうちに、素直な気持ちを話さなくては再びこじれてしまう。
「そんなこと思ってない」
「じゃあ、何で駄目なんだ?」
「だって、シンちゃんがぼくだったら、ぼくはぼくと友達っていうことになっちゃうじゃないか。そうするとシンちゃんはシンちゃんで……あれ?」
 とっさに的確な表現が出てこずに、グンマは己でも首を捻るような台詞を口にする。自分はありのままのシンタローが好きなのだと、そのシンタローと友達でいたいのだと、そう言いたかったはずなのだが。
 シンタローの、眉根に寄せていた皺が消える。
「………」
「シン、ちゃん?」
 おず、と名を呼ぶグンマの前で、シンタローは面食らってたっぷり十秒ほど黙り込んでから、突然ひくひくと肩を揺らした。
「……ぷっ」
 おかしそうにシンタローは笑い出していた。笑い転げる、に近かったかもしれない。
「グンマ、おまえ、すっごいバカ! 頭いいかもしれないけどすげえバカ!!」
「そ、そんなに笑うことないだろ。ぼくだって変なことを言ったって思ってるんだから!」
 げらげらと笑う黒髪の少年に、拗ねた様子でグンマは口をへの字にしてみせた。しかし、同時に、シンタローが自分といてこんなにも笑ってくれることが嬉しかった。根っからの侮蔑でも、自嘲でもなく、心底楽しそうに。
 それを見ているうちに、いつしかグンマもつられて笑っていた。
「もうっ、バカバカ言う方がバカなんだよ、シンちゃんてば知らないの?」
「だったら二人でバカでいいや、どうせ従兄弟なんだし。あー……苦し」
 笑いすぎて息を切らせながら、それによって滲んだ涙をシンタローは指先で拭き取る。一人でいた間の惨めな気持ちは、いつの間にか消し飛んでいた。
 気恥ずかしくてまだ口には出せなかったが、ありがとな、という内心の声は伝わると信じたかった。
 笑いの衝動が完全に治まってから、ふとシンタローは目を眇めて中空を見つめた。グンマは、ぽて、と膝に頭を載せて、隣を眺めやる。
 シンタローはゆっくりと右の掌を広げて宙にかざした。室内の明かりにほんのり透けて、指先が赤みを帯びて見える。まだ小さな手は、己が受容できる現実の狭さを表すようだった。
「早く、大人になりたいな」
 シンタローは、ぽつりと語を紡いだ。殆ど独り言に近かったかもしれない。
「そうしたら――」
「……そうしたら、今よりもっといろいろ強くなって、今悲しかったり苦しかったりすることも平気になって、大切な人たちを困らせたり悲しませたりせずに済むようになるのに。うんとたくさんのことを手助けできるようになるのに」
 思っていたことは、自分自身ではなくその傍らから聞こえた。ぎょっとして、シンタローは部屋の空間から己の左横に目を落とした。真顔のグンマの、透き通った碧い瞳とぶつかる。
 シンタローと目線を見交わして、少しだけグンマは笑った。
「これは、ぼくが思っていること。一緒、だったかな」
「何で、おまえ……」
 なぜ判った、という台詞は、グンマの、微笑んではいても真剣な瞳に打ち消された。シンタローはそのまま目を反らせなくなる。
「ぼく、同じことを高松に言ったことがあるよ。……シンちゃんの一番大切な人は、マジックおじ様だね」
 シンタローは、立てた膝に頭を載せたままこちらを見るグンマに、知らず頷いていた。
 こんな風に思うのは、自分だけだと思っていた。一族の異端者で、何の秀でた能力も持たないただの子供で、それゆえに大事な相手を失望させてしまうことが悔しくて。大人になれば……いわれのない非難や中傷を撥ね退けられるほど、誰にも負けないほど強くなれれば、今までの借りを全部返すことができる――。
 それは、自分だから思うことのはずだった。己が望んでも得られぬものを生まれながらに全て与えられ、誰からも認められて育ってきたはずのグンマが、自分と同じ心情を抱くなど、考えも及ばなかった。
「高松には、『急いで大きくなる必要はないんですよ。多くのことを一つずつ覚えて大人になればいいんですから』って言われてしまったけどね」
 グンマは、くすり、と喉の奥だけで笑った。
「その時は何となく、そんなものなのかって思わされてしまったけど……でも、やっぱり早く大きくなりたい。ぼくは、ぼくがいることでどれだけ高松に負担を与えているんだろうって、いつも思ってる。……でも、思っていても、それでも大抵困らせてしまうんだ。さっきだって、困らせてしまった。判っているのに駄目なんだよ」
 だから――と、グンマは語を続けた。
「大人に、なりたいな……今度は逆に、大事な人たちを守れるくらいに」
「うん……」
 素直にシンタローは首肯した。そうだ、誰にも文句を言わせないほど、誰よりも強く。こんな小さな頼りない手ではなく、早く大人になって、何でも受け止められるように。
「ね、シンちゃん」
 突如、がば、とグンマは頭を起こした。
「何だよ?」
 ぱちぱちとまばたきするシンタローに、グンマは今度は明快な笑みを向けた。先ほどまでの、透明でいて張り詰めた雰囲気は消え去っている。気配に呑まれたなどとは認めたくなかったが、シンタローはそこでようやく普段の調子を取り戻すことができた。
「どっちが早く大人になれるか、競争しようか」
「競争? おまえと?」
「そう。……ああ、勿論、年齢のことじゃないよ」
 顔の前で可愛らしく指を立てて振ってみせるグンマを見つめ、しばらく考えてからシンタローは殊更意地悪く笑った。
「そんなの、勝負にならないだろ。俺が勝つに決まってるんだから」
「えー! 何でさ。ぼくの方がいろいろできるようになるよ」
「甘ちゃんグンマが俺に勝とうなんて千年早い。おまえはびーびー泣いて隠れてるのがお似合いだ」
 シンタローは、ベーっ、と舌を出して、決して本気ではなくからかう。グンマはぷうっと頬を膨らませて黒髪の従兄弟をねめつけた。
「もう! 謝りになんて来るんじゃなかった。やっぱりシンちゃんなんて好きじゃない。日記に書いてやるッ」
「日記がどうした、バカグンマ」
 軽口を叩きながら、シンタローは目を細めた。
 そうだ、決して負けない。父も、叔父も、グンマも――いつかみんなに胸を張れるようになってみせるのだから。みんなに、自分という存在を真実認めさせてみせるのだから。
 少年の決意は、ゆっくりと己の胸の深くへ染みとおっていった。






「全~~~部、却下」
 総帥室のデスクに座し、シンタローは、傍らに立つ青年にファイルを突き返した。
「どうしてだよッ! シンちゃんの意地悪!」
 返された書類を奪い取って、グンマはむっとした顔を見せる。
「どうしてもこうしても、全然策がなってないんだから仕方ねえだろうが。第一、職務で来ている時くらい『シンちゃん』はやめろ」
「はいはい、じゃあ、シンタロー総帥、ぼくの立案のどこがいけないのさ」
 二十五歳にもなって子供のように口を尖らせる、幼少の頃から変わらない従兄弟に、ガンマ団の新たな総帥は呆れた面持ちを向けた。シンタローの一歩背後には、口を緘したまま、かつてのナンバー2が立っている。どこか微笑ましげにかすかに口元が緩んでいるのは、幸いなことに、無論シンタローには見えていない。
「どこもかしこも、だ。文章自体がなってねえ。そもそもおまえの作戦立案は甘いんだよ。甘い物ばっか食ってるから、脳みそまで砂糖が詰まっちまったんじゃねえだろうな」
 殆ど傲然としてシンタローは胸を張った。偉そうにふんぞり返る、まるで少年のような仕草と、確たる威厳の中間点にその姿はあった。
「ったく、たまに任せりゃこれだ、日頃ウィローにばっか押しつけてたからこんなことになるんだよっ、自分じゃ無理ならキンタローに手伝ってもらっていいから、少しはまともな書類を持ってこいっての」
 シンタローがばしっと告げて睨むと、グンマの表情がぐしゃりと歪んだ。
「シンちゃんの……」
 ファイルを胸に抱き締め、ふるふると震えながら、グンマは大きく息を吸い込んだ。続くものを正確に予測して、シンタローはあさっての方向を向いて耳に指を突っ込む。
「シンちゃんの、バカぁ~ーーーーッツッ!!」
 叫びと共に、グンマはぐるりと振り向き、総帥室から駆け去っていった。
「あーあー、いつもながら見事な逃げっぷり」
 シンタローはひょいと肩をすくめた。背後に控えていたアラシヤマは、気の毒そうな眼差しを、閉まった扉の向こうに投げ、耳打ちに近く呼びかけた。
「シンタローはん……やない、総帥、ちいとは優しゅうしてやりはったらどないどす? グンマ博士は叱って伸びるお人やのうて、褒めて伸びるお人ですやろに。それに、これは博士の専門とは違いますよって」
 わずらわしげに、シンタローは軽く手を振る。
「いいんだよ、たまには。これからフォローするから」
 それより、と、シンタローは傍らを仰いだ。
「ウィローはどうしてるんだよ? 随分落ち込んでたろ、ちったあ元気になってんのか?」
「へぇ、ぼちぼちゆうところどすな」
 アラシヤマは柔らかく微笑した。名を挙げられた、名古屋出身の若者は、彼にとっては旧ガンマ団の当時からある種特別な相手だ。
「パプワ島から帰った頃は笑いもしはりませんどしたけど。最近ははしゃぐことも増えてきましたわ。無理は見え見えどすけどなァ」
「そっか、ならそのうち復帰させられるかな」
 頭の後ろで指を組み、首の筋肉をほぐしてから、シンタローは一度引き出しを開け閉めし、ついと立ち上がった。
「んじゃ、ちょいフォローしてくる。後は任せるから適当にさばいとけよ。手に余ったら追い返してもいい」
「確かに雑務は仕事のうちどすけど……ほんまはこうゆう為におるんとちゃいますのんけどな、わて」
 苦笑しながらも、アラシヤマは請け負って、振り返りもせず手だけひらひらとさせて立ち去る、全てを支える背を見送った。


「おらよ、いるんだろ。入るぞ、グンマ」
 グンマのラボの扉を殆ど蹴り開けるようにしながら、シンタローは入室した。たとえ錠がかかっていようと、総帥IDは、通常事態においてガンマ団内部フリーパスに設定されている。
 パソコン画面に向かってキーを叩いていたグンマは、ごしごしと目を擦った。
「あ……。明日までには、もっとちゃんとした計画を立てるから」
「おう、期待せずに待っとくぜ」
 軽く答えて、シンタローはグンマの背後に立つ。リボンで髪を束ねた従兄弟の頭を軽く小突いておいてから、シンタローは腕を伸ばしてキーボードの手前まで持っていった。
 ぽとり、と、キーの上にシンタローは小さなものを落とした。
「シンちゃん、これ……」
 グンマは首を捻って振り仰いだ。シンタローはにやりとしてみせる。
「仲直りの印、なんだろ?」
 それは、一粒の飴の包みだった。何十年来変わらない柄の包装紙は、そのまま過去を喚起させる。
「……覚えてたんだね」
 グンマはかすかに笑った。静かな笑みは、年齢に比べて子供じみたそれまでの雰囲気とは一転して、ひどく成熟して見える。これもまた、彼の真実の姿だった。
「もうとっくに忘れたと思ってた」
 呟いて、グンマはキャンディを口に入れた。
 息が詰まるようなあの頃の生活、それは決してシンタローにとっていい思い出ではなかっただろうとグンマは思う。もがいてあがいて、届かないものを追い求めて――、あの時代の自分は異端の意味さえ知らなかったけれど。知らないままに、変わらずシンタローのことを好きだったけれど。血を吐くようなあの日の黒髪の子供の憤りは、一族同士の争いを経験した今ならば理解することができる。
「忘れるかよ。……ともあれ、競争は俺の勝ちだな、泣き虫バカグンマ」
「涙もろいのは特性なんだから如何ともしがたいね。今更そんなことで勝った負けたと自慢そうにしているシンちゃんの方が子供っぽいと思うけど?」
 しらっと受け流し、グンマは机に向き直ると再びキーボードに指を乗せた。
 ――本当は、昔から知っていた。決してシンタローにかなうはずなどないことを。
 グンマは心の内で独語する。膂力の問題ではない、特殊技能でもない。どれほどのどん底へ叩き落されて号泣するはめになろうとも、最後には立ち上がる、その心のありようこそがシンタローの強さなのだと。
 シンタローは、ふん、と鼻を鳴らして、腰に手を当てた。
 画面を覗き込むふりをして、その実違うことをシンタローは考えていた。
 ……今でも忘れはしない。偏った愛情と、幼い己にとって世界にも等しかった周囲によって向けられる視線からの脱出への糸口をはっきりと形にして見つけた日のことを。実際には、それからもずっと、その手に抱えきれない現実に泣き喚く日々が続いたのだけれど。否、今だとて完全に振り切ることができたわけではないのだけれど。
 それでも、遥か遠い光を望むことが可能だったのは、他愛ないほどの一途さを見せられたからだ。
「ああ、コピーを許すから、それ、一通り作り直したらアラシヤマに渡せ。あいつから、ウィローのリハビリに使わせる」
「ここしばらく会えていないけど、少しはよくなったのかな、ウィローくん」
 その専門では別方向だが、組織の枠においては上司の立場を押しつけてしまった後輩の、時にやかましいほどの明るい喋り声を思い返して、グンマは幾分首を傾げた。
「んー、アラシヤマがぼちぼちって言ってたから、だいぶ復調してるんだろ。あいつ、心配性だしな。駄目なら意地でもかばうだろうから」
「そうだね、それなら了解」
 グンマは同意して、見出し項目から訂正をかけていった。
「今度は、生クリームが乗っかったみてえな甘ったるい文章なんか書くなよ」
 シンタローが釘をさすと、金髪の従兄弟は不本意そうに、しかしそれほど嫌でもなさそうに言い返してきた。もっともな言い分ではあったし、これが互いの正しい位置関係であると知っているからだ。
「判ってるよ、ぼくだってそれくらいっ」
「どうだかな、おまえ、根っからバカだしなあ。博士じゃなくてグンマバカせに改称した方がいいんじゃねえのかあ?」
「ちょっと。気が散るだろ! あんまりバカバカ言わないでよ、シンちゃん」
 むう、と短く唸って、置いた指はそのまま、グンマは従兄弟を見上げた。
 光をはじいて揺れる淡い金の髪。疑うことなく向けられる碧い瞳。
 幼い頃どんなに求めても得られなかったそれは、けれど、もうシンタローにとって己を捕らえる牢獄や重い足枷ではなかった。彼方の光を指し示したのはこの従兄弟で、そこまで歩ませたのは今は懐かしい島の生活。そして、心の錠鍵で閉ざされた扉を、手を共に重ねて押し開いてくれたのは、遠く旅立ってしまった、傍若無人なほどの一人の子供。
 人は、変わるのだ。変わらなければならないのかもしれないし、いつの間にか変わってしまうのかもしれなかったが。
「知ってるよ。バカバカ言う方がバカ、なんだろ?」
 そう言って、シンタローはどこか楽しげに笑った。




WILLOW PATTERN


 それはもしかすると、夢みた日々……。


 波の打ち寄せる音。夜の海岸。今夜はよく晴れている。
 そこにみんなが集まっていた。自分にとっては、久しぶりに彼らと顔をあわせたことになる。
「なぁ~んで、オラたちまでいなけりゃならねえんだべ。おめ、立場を忘れとるんでねえだか? なあ、トットリ」
「そうだわいや。僕達が刺客だってことを忘れてるんだらぁか?」
 不本意そうに、けれど実はそれなりに嬉しそうに言い募る二人組。彼らは以前からずっと親友同士だ。
「来ておいて何を言ってやがる。仕方ねえだろ、パプワがやりたがったんだ! ギャラリーは多いに越したことはないんだから」
 腰に手を立てて、長い黒髪の青年は二人を見やる。
「おまえらでも、少しはにぎやかしの役には立つからな」
 彼らはぐるりとかつての仲間を見回した。星明かりで随分と明るいから、充分に相手の顔は判別できる。
「言っとくが、今日は諸々の事情は忘れとけ。いいか、今日だけ停戦だぞ! これに乗じて内輪もめなんかしやがったらぶっとばすぜ」
「判っとるべ。何なら生き字引の筆を外すべさ」
 刀剣用の鞘を背負った青年が、ヤシの木の根元にそれを置いた。
「僕はミヤギくんの言うとおりにするっちゃ」
「あのぉー……ところで、シンタローはん」
 自分がその肩に乗せてもらっている青年が、おずおずと呼びかける。その手には、前もって渡された仮面。
「何だよ? アラシヤマ」
「……やっぱりわてがオニなんどすか……?」
「ったりめーだろ。おめー以外に誰がオニをやるんだよ」
 当然、といった顔で、訊ねられた方はあっさりと答えた。
「………。ええんどすええんどす、どうせわてははみだし者なんどす」
 すねた口調が、自分の耳元で聞こえる。
 ふと、月のない夜空を仰ぐ。
 漆黒に近いミッドナイトブルーを埋め尽くす、たくさんの星。その輝き。
 自分がかつて見慣れていたそれは、いつも薄く煙っていて、こんな冴えた夜空など、考えも及ばなかった。これが、本当の星空……。
 圧倒されるような星の群れ。見たことのないその星図はあまりに鮮やかすぎて、恐怖すら覚える。
「――……」
 呑み込まれそうな幻覚に、傍らの青年の髪にきゅっとしがみつく。
「……どうしはりました? ウィローちゃん?」
 左肩にいる自分に、彼は穏やかな眼差しを向けた。手を伸ばし、抱き寄せるように撫でてくれる。柔らかく微笑う彼が、ただ人付き合いに不器用なだけで、本当はとても優しい心の持ち主だということを、自分はずっと前から知っていて……。
「シンタロー! まだか? 早く始めろ!!」
 少年の声が、澄んだ空気に響いた。
「はーいはいはい! んじゃ、始めようぜ。準備はいいか?」
「わーい、豆まき豆まきー。ぼくとチャッピーはいつでもいいぞー」
「オラたちもだべ」
「テヅカくん、ウィローちゃん、どいとっておくれやす。危のうおますよってな」
 言われて、ばさりと羽を広げ、空中に飛び上がった。自分を慕ってくるコウモリと手をつなぎ、みんなを眺める。
 そうだ、自分はこんな風に過ごしたかったのだ。こうやって、もう一度みんなで……。


 ずっと夢みていた日々。遥かな憧れの地。


 南の島のパーティー・ナイト――。




s1
WEEPING WILLOW


 楽園を、夢みていた。
 崩れてしまった過去。取り残された自分。遠い南の島――そこに喪った日々があるのだろうか。
 ……いつまでもみんなでいたかった。


 名古屋ウィローは総帥室にいた。
 世界最強、という修飾を冠せられることもある、殺し屋集団、ガンマ団。それを統べる、ただひとりの存在が彼の前に座っていた。
「マジック総帥……」
 そうウィローは呼びかけた。マジックは、不敵な笑みを絶やさないまま、両の視線でウィローを射抜く。
「ワシにお話しというのは……?」
 ウィローは問うた。
 ……答えを聞きたくはなかったけれど。
 訊ねるまでもなく、予測はあらかじめついている。次々とここに呼ばれ、去り、そして戻ってこなかった者たち――彼らと同じことを、自分は聞かされることになるのだ。おそらくは付加価値までつけて。
 ウィローには不可能なことを、マジックは命じるのだ――。
「ウィロー副参謀長」
 反射的に身体をこわばらせてしまう。マジックは指を組み、デスクに肘をついた。
「……いや『魔術師・名古屋ウィロー』、君に指令だ」
 その名で呼ばれることは、すなわち暗殺者としての任務を告げられるということだ。ウィローは自分の予想の正しさを悟らざるを得なかった。
「君も知ってのとおり、一昨年シンタローが秘石を奪って逃走した。そして、それを捕えるべく、幾人もの団員がシンタローの逃げ込んだパプワ島に向かった――だが、誰一人として任務に成功して戻っては来ん。島に居つく者まで出る有様だ」
 マジックは一旦言葉を切った。双眸が怪しい光をたゆたわせる。
「……我がガンマ団は脱走も任務の失敗も許さん。脱落者は斃さねばならない――判るな?」
 ウィローは無言のままその言葉を聞いていた。
 マジックはふっと嗤った。冷酷な、高処に立つ者の表情。
「シンタローを殺せ」
 溺愛している息子さえ、彼は縊ることができるのだろうか……?
 マジックは指を組み替えた。
「――ついでに、他の連中も始末してこい」
「しかし……っ!」
「何か不都合でもあるのか? 異議は聞かん」
 弟に逢いたくて、総帥一族の宝である秘石を盗み、脱走したシンタロー。彼と共に今パプワ島にいるはずの、ミヤギ、トットリ、アラシヤマ、コージ……。彼らは皆、かつてウィローと関わりを持っていた者たちだった。
 殺す……?
 彼を? 彼らを……?
「………」
 できるはずがなかった。
 自分の好いている人々。彼は――彼らは、仲間、なのだから。
「君なら、万単位の人間を殺せる毒薬を作ることも簡単だろう。連中に一服盛れば済むことだ」
 マジックは、デスクを挟んで彼の前に立つ部下を直視した。その瞳の力に、ウィローは気圧される。
 射竦められ。ウィローは視線を反らした。
「別に死体はいらん。とにかく確実に彼らを処分してこい」
 ウィローは唇を噛んだ。この部屋に立った時から……否、それより遥か前から知っていた言葉。守ることの能わぬ命令。
「――いいな?」
 念を押すように、マジックはウィローを絶対的な力の差で呪縛する。
 殺す……。
 彼を。彼らを……!
「承知したぎゃ……」
 歯向かうことの不可能な、絶対者の言に、ウィローは首肯した。
「必ず――奴らを仕留めてみせるがや。……絶対……」
 彼のその声は、内心の葛藤を偲ばせる、重くかすれたものだった。


 ウィローは魔法薬の材料を睨みつけた。
 彼に与えられている、慣れ親しんだ本部の研究室。もしかしたら、もう二度とここに戻ることはないかもしれない。
 二律背反の苦しみが、彼の心中でせめぎあっていた。任務を遂行すべきだと、理性が言い募る。そんなことはできないと、感情が反論する。永久機関のように繰り返す思考。
 ウィローは自分が手にかけるべき者たちの顔を思い出していた。
 ――もう二年近くも前、自分が誤って幼児と化してしまったことがあった。それは、まだ皆が揃っていた頃の、誰一人欠けることなど思いもよらなかった頃の記憶。最後の日々……。
『僕が面白いものをあげるっちゃよ。ほら、紙ナプキンで折ったキツネの顔だわいや』
『泣かしちまった詫びに、オラの定食のエビ天、おめにやるべ』
『どうじゃ、遠くまで見えるじゃろ。肩車ぐらい、いつでもしちゃるけん』
『仕方ねぇ、本を読んでやる。でも、ちょっとだけだからなっ!』
『ウィローはん、ちゃんと布団を被りなはれ。そうそう、さあ、一緒に寝まひょなぁ』
 ――――……
 彼らの言葉が蘇る。あの時向けられた皆の本質的な優しさを、ウィローは忘れてはいなかった。
 目を閉じ、幾度かの呼吸ののち開く。その瞬間、意志は定まっていた。
 ウィローは薬の材料を手に取った。
 マジックの命令は絶対だ。だが、自分には彼らを殺すことなどできない。
 ならば――。
「――無力な生物に変えてしまえばいい……」
 低くウィローは呟いた。
 みんなを、何の力も持たない存在に変えてしまえばいいのだ――ほとぼりが醒めるまでの間、彼らを。
 そうすれば誰にも判らない。彼らの存在が消えれば、やがて、追撃者は諦めねばならなくなる。他の誰にも、彼らに手を出させはしない。
 ……それが、ウィローの決意だった。
 時が過ぎて、何があったかさえ忘れられてしまう頃、彼らの変化は解ける。彼らを元の姿に戻す。そして、自分はいつまでもみんなと一緒に暮らすのだ。今は喪われた日々のように。……全てを捨てて。
 ウィローは壺に材料を落とした。まどろむように微笑む。
 みんなで楽しく過ごそう……遠い遠い、ずっと夢みたあの島で。
 とこしえの南国楽園で――。




mm
望憶


 望むことと、能わざることが、もしも同じ位置にあるのなら。


 唯一の望憶を見たかった。





 その瞬間瞳に映ったのは、閃光。そして、その合間に覗いたのは――。




<1>


「シンタロー」
 と、マジックは息子を呼んだ。いつもはあくまで『シーンーちゃん♪』のノリで呼ばれることが多いだけに、少々訝しく思いつつ、シンタローは父親に目を向けた。
「何?」
「今度の出征のことだが……」
「あぁ……D国辺境部でもめてるやつ? 親父が行って完璧にカタを付けてくる、って」
 そのような話を聞かされていたので、シンタローは確認するように訊ねた。マジックが頷く。
「そうだ。それにおまえも同行してもらおうと思ってな」
 一瞬、シンタローは言葉の意味を把握しかねそうになる。理解できたのは一呼吸後だった。
「俺が!?」
 思わず大声を出してしまう。
「でも、俺、実戦なんてやったことねぇぜ!?」
「だから、だ。おまえももう十八……そろそろ演習ではなく実戦に参加してもいい頃だろう」
 それは実際シンタロー自身も考えていたことではあった。近いうちに戦場に出ることになるだろうとは思っていたのだが、まさかいきなり次の出征が初陣とは。
 ……心の準備も何もあったものじゃねえよなー。
 小さく呟く。もっとも、一々、そんなものができるまで戦闘がストップしてくれるわけでないのは、シンタローとて知っている。
「これまで得てきたものがどの程度役立つか――いい機会だ、試してみろ。但し……」
 マジックが口元だけで笑う。
「言っておくが、おまえの意志にかかわらず『マジックの息子』の名は重いぞ。不様な姿をさらすような真似をしたら、その時は……判っているな?」
 息子を見つめる、冷徹な瞳。シンタローはゆっくりと首肯した。
「ああ……判ってる……」
 シンタローは、『ガンマ団総帥』を見つめ、敬礼した。もしかしたらこれが、彼がマジックを、父としてというより、自分の上に立つ絶対者、支配者としての視点で見るようになった最初だったかもしれない。
「……承知しました。任務を拝命いたします。御期待を裏切らぬよう、非能非才の身の全力を挙げて遂行する所存であります。――総帥」


 瓦礫の山の中に、マジックたちは立っていた。
 彼らの周囲では、敵兵が折り重なり、あるいは瓦礫の下敷きとなり、斃れている。
 半分はシンタロー一人の手によるものだった。
「ブラボー! シンちゃん」
 マジックが拍手してみせる。
「………」
 シンタローは半ば呆然としていた。一種の虐殺を行った自分を誉められたことに対する、反発反応すら、起こるレベルではない。
 自分が、奪った生命。
 これだけの人間の死。
 これが、戦いというものなのだろうか。人に殺される人と、人を殺す人――それを見せつけられて、シンタローは言葉を失っていた。彼がそれまで知っていたのは、知識としての死。……これが、現実だった。
 人殺しのスペシャリストが己れの職業――その意味に、改めて思い到る。人間が人間を殺すとは、こういうことなのだ……。
 それだけの力を自分が持っていることを感覚的に思い知って、シンタローは頭をおもいきり殴られたようなショックを隠しきれなかった。
 実際に軍籍に在る者として、または殺し屋として、この先幾度も合法的な殺人、非合法な殺人を犯すようになったらどうなるのだろう。
 シンタローは頭の隅で考えた。それとも、その時にはもう感覚が麻痺してしまって、人殺しを何とも思わなくなってしまうのだろうか。
 そう、ここで、いつも大量殺人を犯しているにもかかわらず平然としている、そしていつも他人に人殺しを命じている、この父のように……。
「どうした、怖くなったか。そんなことでは名前負けだぞ、シンタロー」
 挑発するようなマジックの言葉に、だがシンタローは反論を返さない。
「事後処理は任せる」
 マジックは駐屯部隊の長に声を投げた。
「……基地に戻るぞ」
 つまらなそうにマジックは身を返した。直属の部下がそれにつき随う。シンタローは頭を振って思いを断ち切り、後を追った。


「戦い甲斐のない……」
 マジックは吐き捨てた。
「これなら私が出るまでもなかったか……。うちの軍をてこずらせたくらいだ、もう少し愉しませてくれるかと期待したんだが」
 彼にとって戦いは、人殺しとは、娯楽にすぎないのだろうか――。
 マジックは息子に視線を向けた。黙り込んだまま一歩後ろをシンタローはついてくる。
「どうしたんだい、シンちゃん」
 急にマジックは声のトーンを引き上げ、シンタローに話しかけた。
「浮かない顔だね。せーっかくシンちゃんの武勲を、パパ、誉めてあげたのに。シンちゃんってば喜んでくれない……しくしく、パパ泣いちゃうよ」
「……っ!!」
 シンタローは声を詰まらせた。握った拳に力が籠もる。なぜ、たった今大量虐殺を見た、行なったばかりで、こんなにヘラヘラとおちゃらけていられるのか。
 憤りが、シンタローの全身を瞬時に駆け巡る。彼は上目遣いに――マジックとの身長差のゆえだ――父をキッと睨みつけた。
 マジックは薄く笑みを刷いた。
 そうだ……シンタローはこれでいい。このままでいい。自分に対する反発こそが、シンタローを勁くする。
 自分を反面教師にすることで、シンタローが、己れの手を朱に染めることの意味と重みを自覚できてくれればいいのだ。真の勁さを彼は手中にしようとしている――。
「それにしても……」
 再び元の絞った声音に戻り、マジックは独語した。
「あっけなさすぎるな」
 現場からいくらも行かないところで、マジックは足を止めた。
「総帥?」
 部下の呼びかけ。マジックは面白くもなさそうな表情で辺りに視線を投げた。
「待ち伏せされた、か」
 マジックは呟いた。……え? という顔で、傍らのシンタローが父を見上げる。
「動かないほうがいいぞ、シンタロー」
 それに呼応するかのように、周囲から敵軍の兵たちが現れた。向けられた火器は完全に一行を捉えていた。もっとも、下手に逃げ出そうとしない限り、すぐに発砲するつもりはないようだ。
「やはりな……」
 マジックの、己れの部下を見据える双眸が冷たい厳しさを増す。
「……何故監視を怠った!! 動向を正確に探るのが役目だろうッ!」
 叱責された方は、萎縮し、身をこわばらせている。マジックは鼻白み、自嘲に近い嗤いを覗かせた。
 ここまで気付かなかった自分も同じか……。
 マジックは敵の士官に目を向けた。
「我々をどうするつもりだ? 捕虜か、あるいは――」
「決まっている! 皆殺しだっっ!! だが、簡単には殺さん!」
 マジックを除く一行に緊張感がはしる。
 ……この地にマジックがシンタローを連れてきたのは、彼がとことん息子を甘やかしていたからだった。
 マジック自らが出向く、しかも比較的容易な任務。さして手に余ることもなく、更に常に、何かあればシンタローをフォローする態勢をとることもできる。それを、息子の初仕事として選んだのだ。シンタローに対するマジックの偏愛ぶりは、それを受ける本人以外の全員が正しく理解するところだった。
 ゆえに、このような思いをシンタローにさせるつもりはマジックには毛頭なかったのだが……。
 だがしかし、こうなった以上は、それにシンタローがどこまで対処できるか、耐えられるのか、マジックは見極めることにしていた。初陣での予定外の偶発事とはいえ、これで潰れてしまうようなら、後々役には立たない。
 シンタローには将来ガンマ団総帥の座を譲り渡すつもりなのだ。であれば、それにふさわしい資質の片鱗を見せてもらわねばならない。無能者は必要ないのだ。
 父親としての想いの他に、恐ろしいほど冷酷な思考を働かせる、背反部分がマジックの裡には存在していたのだった。
「なるほど……」
 マジックは、そっと背後の息子を伺い見た。
 蒼ざめ、怯えた顔――。
 それは、そうだろう。初陣でこのような目に遭って豪胆でいられたら、逆に神経を疑ってしまう。
 ……もう充分かもしれない。少なくとも彼の息子は、さっさと両手を挙げて敵の前に出てゆき、命乞いするような真似はしなかったのだ。たとえそれが、虚勢に根ざすものでも……。
 死角は――ある?
 マジックは手を伸ばし、シンタローの頭を抱き寄せた。くしゃりと、一族の誰とも違う黒髪が指にわずかにからまりつく。
「動くなッッ!!」
 ダゥンッ……!
 威嚇のつもりか、マジックの手前をめがけて発砲が起こる。足元の土と小石が跳ね上げられ、舞い飛んだ。
 周囲の、息を呑む気配。
「ふん」
 敵も味方も一種の興奮状態にある中、マジックはただ一人平然と、無感動に現状を眺めやっていた。
 それから、抱き寄せたシンタローの耳元で、ごく低くささやく。
「いいか、シンタロー……東南東、左後方約三十度――死角だ」
「え……?」
「一人なら抜けられる。……逃げろ!」
「……親父――?」
 恐怖と驚愕が入り交じった顔で、シンタローは父親を仰ぎ見た。
「けどっ!」
「大丈夫だ――」
「何を喋っている!」
 キン、と、再び地面がはぜる。
 マジックは軽く舌打ちした。長話ししていては分が悪くなる。
「私は平気だ。……ここでむざむざ死ぬような、悪いことは、パパはしたことないよ、シンちゃん♪」
 この状態で、ちゃかした口調をつくれる豪胆さは賞賛に値するものだろう。薄紙一枚の差の、きわどいものではあったが。
 ぎりぎりの状態で、けれど、せめて息子だけでも逃がそうとする――そんな親子愛に見えたかもしれない。確かにその意味も持ち合わせていた。しかしマジックが真に考えていたのは、もっと私的なことだった。
 ここで自分の『力』を解放すれば、あっさりけりがつく。だがマジックは、シンタローに化け物じみた自分の姿を見せたくなかった。
 ……眼魔砲は、シンタローにもできる技だ、幾分セーブしたなら使ってもいいだろう。問題はそれより上に位置する能力だ。
 秘石を使うどころか、秘石眼すら、マジックはシンタローにはその本質を明らかにしたことがなかった。そして当分、する気もなかったのだ。
 シンタローは動こうとしない。
 マジックは息子の髪をなぶった。別の表現が必要らしい。
「……これはテストだ。この状態から逃げおおせることもできないようでは、ガンマ団にとって必要な人材とは言えん。役立たずが!」 
「な……ッ!!」
 シンタローの顔色が変わる。この期に及んでそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
「不要と言われたくなければ成功してみせろ」
 言い置いて、マジックは敵の様子をはかった。敵の隙と死角……より完全なものにするためには?
 タイミングは――
 わざと、マジックは一歩進み出た。敵兵の狙いが一瞬彼一人に集まった、その瞬間、
「――行けっ!!」
 マジックはシンタローを突き飛ばした。
 ザッ……!
 もはや思考とは別のところで、シンタローは地を蹴った。大きな岩が盾になる。
「何っ!?」
 敵の反応は遅れた。
 目標を定め損ねて、砲口が揺らぐ。動くものに対して目が行くのは人の常だ。
 マジックが力を集中させるには、それで充分だった。あとは味方側に被害が及ばないよう、引き絞るだけだ。
 ダダダダッッ……
 岩の間をすり抜けてゆくシンタローに、一斉砲火が浴びせられる。だが、逃げる方向が方向だ、どれ一つ彼をかすりもしない。
「へんっ、当たるかよッ!」
 強大な殺戮と破壊の予感。
 ――バゥッ!
 反対方向で起こる小さな爆発……
 岩陰に飛び込みかけて、シンタローはふと後ろを振り仰いだ。
「――!?」
 意図的に小規模の眼魔砲を放ち、注意を更に自分の方に向けようとしたのだろう、完全に息子をかばう位置に移動したマジックが、構えをとって立っていた。
 防ぎきれるわけがない。
 マジックに向けられる銃口――。
「親父!」
 シンタローは盾となる岩の陰から飛び出していた。無意識の、反射にも似た行動だった。
 引金に掛かった指に力が加わる。
 膨れあがる、圧倒的な力のオーラ。終末の光景。
「親……っ。父さん!!」
「何をしているッ!」
 巻き起こる風が髪を逆立てる。
「……よせ! 来るな! シンタロー!!」
「……っ!!」

 ――ドゥッッ!!

 耳をつんざく音。土埃に遮られる視界。激しい爆風にあおられる。
 コマ送りのフィルムのように途切れとぎれの情景。
 破裂する空間の中心にシンタローはいた。
 閃光で目が眩む。圧力に近い衝撃。
「――父さんっ!!!……」
 ……叫びは、爆発音にかき消された。

「……シンタロ――――ッツッ!!!」

 加速度的に意識が遠のく。
 完全に意識を手放す瞬間、瞳に映る閃光のはざまで、マジックの両眼が哀しげに青く光るのを、シンタローは見たような気がした――。




<2>


 あれ……? 俺、どうしたんだ?
 シンタローは、ゆっくりと辺りを見回した。
 死んじまった……のかな、俺……。ここは……ガンマ団本部?
 彼は横たわり、一室の天井を瞳に映していた。
 調度品は違うが、どことなく見覚えのある部屋。……そうだ、ここは総帥室の隣にしつらえられた別室だ。何故こんなところに自分はいるのだろう。
 起き上がろうと、シンタローは身じろぎした。途端、ひょいと宙に浮く感覚。自分を覗き込んでいるのは――。
 ……親父っ!?
「起きちゃったかい、シンちゃん」
 シンタローはマジックに抱き上げられていた。有り得べからざる状況だった。
「あ……う……」
「んー? 何かな? パパがどうかしたかい?」
 シンタローに向かって笑いかけるその顔は、たしかにマジック自身だったが、彼の知る父より、確実に二十歳近くは若い。声の質もそれ相応に、まだ青年の域を出ていなかった。
 そこでシンタローは初めて気付いた。自分が乳児になっていることに。これなら軽く抱けるはずだ。
 ここは過去の世界なのだろうか。それともただの幻影にすぎないのか……。
「兄さん……」
 低く、押し殺したような呼び声。赤ん坊のシンタローを抱いたマジックはそちらに向き直った。必然的にシンタローの視界も方向を変えることになる。
「何だ、サービス、まだ言い足りないのか」
 おじさん? ほんとに若い……
 マジックと対峙するように、弟であるサービスが立っていた。現実のシンタローとちょうど同年代だ。
 サービスは、思い詰めたようにも見える表情でマジックを見返していた。
「本気、なんですか、兄さん」
 その問いに、ほんのわずかだけ、自分を抱く父の手に力が籠められたのをシンタローは感じた。
「本気で、シンタローを――」
「愚問だぞ、サービス」
 マジックは、まっすぐに、齢の離れた弟を見据えた。
「シンタローは私の息子だ。それを後継ぎに決めて何が悪い?」
「ぼくが言っているのはっ――!」
 サービスが声を詰まらせる。彼の声にならない言葉を、兄は奪い取った。
「シンタローが秘石眼を持たないからか? この子では一族の後継者は務まらない、と言いたいのか」
 マジックは唇の片端だけ上げて嗤った。
「『おまえが』そう言うのか?」
「………!」
 他人の神経を逆撫ですることにかけては、右に出るものはなかろうと思われるほどの、棘を含んだ口調だった。
「嫉妬か? 望んでも得られぬ地位をあっさりこの子が攫うことへの? それとも普通の瞳で生まれてきた、そのこと自体に?」
「そうじゃない! ぼくの言いたいのは……そんなことなんかじゃ……っ」
 何度もサービスは首を振る。年齢不相応の苦悩の翳がたゆたっていた。
 数瞬の、沈黙が支配する時間。
「……シンタローが、可哀相だ」
 ぽつりと、サービスは呟いた。マジックがかすかにぴくりとしたのが、シンタローに伝わる。
「可哀相すぎるよ……。こんなのは、兄さんのエゴじゃないか」
 目線だけ動かして、シンタローは父と叔父を見比べた。
「別にぼくは後継者になりたくなんてない……なれるはずもないし、なる気もありません。だから、そんなつもりで、シンタローを後継ぎに定めることについて異論を呈しているわけじゃないんです」
 震えているようにも聞こえる、抑えた声が、室内を回遊する。
「……シンタローは秘石眼じゃない。それはそのまま、一族の中の立場として、異端者になることを意味します。ただでさえあなたの、『マジックの息子』という枷が、この子にはついて回るのに」
 ……ぼくが、『マジックの弟』の名を重く感じているように。
 声に出さなかった思いを、けれど聞き取ることは容易だった。
「……増して、一族の後継者として彼を立てるなんてことになったら、余計にシンタローは――」
 サービスは哀しげな瞳で兄を捉えた。
「シンタローはおそらく、破滅に向かう一族の運命を内から変えることができる、ただ一人の存在でしょう。袋小路に入り込んだ我々一族にとって、もはや必要不可欠な……。それなのに、わざわざ彼を潰そうとしているとしか、ぼくには思えない。……最後まで耐えきれればいい、でもそうでなかったら……」
「もういい、サービス」
 マジックは弟の心情の吐露を押しとどめようとした。サービスの声は反して次第に高くなってゆく。
「―シンタローに三重苦を背負わせるつもりなんですか……? 勝手に押しつけて、それを敢えて推し進めようなんて、そんな……そんなのはただの、あなたのエゴイズムだ!」
「……たいした言い種だな。既に決めたことだ、おまえに言う資格はない!」
「いつだってそうじゃないか! それとも、やっぱり兄さんはジャンの――っ!!」
「――サービス!!」
 マジックは一喝した。はっとサービスが息を呑む。その場の空気が凍結していた。
「申し訳ありません……。失礼します」
 サービスは一礼すると、足早に部屋を出ていった。
 ……おじさん……親父っ!?
 シンタローは、必死に父の衣服を掴み、叫んだ。しかし、発することができたのは、意味を為さない喃語でしかあり得なかった。四肢の感覚すら、まるで自分のものではないようだ。
「あぅ……だぁ……」
「シンタロー……?」
 腕の中の我が子に、マジックは視線を落とした。心持ち、瞳によぎる色合いが暗い。
「すまない。嫌な問答を聞かせてしまったな。……といってもまだおまえには判らないか」
 あやすように、息子をマジックは揺らした。
「私のエゴ、か――。そうなのかもしれない。秘石眼ではないおまえにとって、確かにこれは酷だろう。……嫌われることは覚悟の上だが、それでは足らず、もしかしたら、恨み、憎まれすらするかもしれんな……」
 マジックはふと微笑んだ。優しく、穏やかに。彼らしくないほどに。
「それでもね、シンタロー……」
 悲しいほどの静けさを湛えた、それは、呟くような口調だった。
「私はおまえが可愛くてしょうがないんだよ」
 シンタローは大きく目を見開き、自分を抱くマジックを凝視した。そこにいるのは、一人の父親だった。
「どんなに憎まれても、たとえ一族の異端者でも、私は、おまえが……シンタロー―」
 父さん……。そう心の中で呼びさす。
 その時、不意にシンタローは、ぐいっとひっぱられるような感覚をおぼえた。
 ……何だ? 何が起こったんだ!?
 視界が霞み、頭がぼやけてくる。薄れる意識の中、シンタローは最初の疑問の答えに辿り着いていた。
 あぁ、そうか、これは幻なんかじゃねえ。俺の記憶だ……ずっと、はるか昔の……。
 それだけ考え、シンタローは引力に身を委ねた――。


「う……」
 シンタローは薄く目を開けた。映るのは、天井。
「気が付いたようだね」
 すっと、人影が脇で動く。
 体がひどく重苦しい。シンタローはのろのろと頭を巡らした。その途端締めつけられるような頭痛に、彼は顔をしかめた。
「ドク……ター……?」
 ドクター高松がシンタローの傍に立っていた。
 ここは医務室なのだろうか。高松がいるところを見ると、前線の駐屯基地だ。でも、どうやって?
「俺……」
 喋ることさえ億劫だ。呼吸するたび、胸郭が情けない悲鳴をあげる。
「ああ……そのまま動かないで、シンタローくん」
 高松はシンタローの額に手を置いた。
 昔は「シンタロー様」と様付け、そして敬語で話していた高松だったが、特別扱いされたくないと強く言い張るシンタロー自身の要望で、二年ほど前からは、極力、口調を修正している。今もその例に違わなかった。
「君は三日近く昏睡状態だったんだよ。話は聞いたが……あれだけの力をまともに受けて、その程度のダメージで済んだだけでも奇蹟なんだからね」
 あれだけの、力?
 その言葉に、突然光景が蘇る。……あの、大爆発。
「取り敢えず診察を――」
「………! そうだ、親父っ! 親父は!?」
 シンタローは痛みも忘れて、すがるように高松に問うた。訊かれた方は、わずかに驚きを混ぜた表情で発言者を見返した。
 高松が返答するより早く、
「私ならここにいる」
 反対側から声が割り込む。シンタローは、はっとしてそちらを向いた。鉄の破片を突きさされているかのような頭の痛み。
 腕組みしたマジックが、シンタローの横たわるベッドの傍らにいた。擦過傷一つ負っている様子はない。
「親父……」
 そうか、無事だったんだ……。
 半ば麻痺している舌の感覚がもどかしい。
「シンタロー」
 マジックは呼びかけた。そこに含まれるのは、暖かさではなく、氷のような冷たさだった。
「何故、戻ってきた?」
「え……」
「逃げろ、と私は言わなかったか? どうして、あのまま行かなかった」
 シンタローは困惑して父を見やった。マジックの声が冷淡さを増す。
「そのせいで、シナリオは台無しだ。結果的に何事もなかったからよかったようなものの、自分のしたことがどれほど他人の障害になったか、おまえは判っているのか!」
「俺は……ただ、親父が……っ」
 苦しい呼吸をおして話そうとする息子を、マジックはあざけるような双眸で切り刻んだ。
「私が心配だった、とでも言うのか? ふん、あれしきのことで、この私がやられるわけがなかろう。おまえはただ私の言うとおりにしていればいいんだ! それを、上面だけの独断で先走って、その挙句がこれか。不様だな、シンタロー!!」
「な……っん……!」
 かっとなってシンタローは跳ね起きた。途端に、全身を貫く激痛に、彼は身体を折った。一瞬気が遠くなり、けれど、同じもののせいで現実に引き戻されるほどの、激しい痛みと苦しさ。
「……ぐっ……」
「シンタローくん!」
 それまで、心配げな目で、しかし立ち入ることのできぬものとして父子の会話を静観していた高松が、手を伸ばす。……限界だ。
「駄目だ! まだ起きられるわけないだろう」
 肩を抱くようにして、高松は己れの患者を再び横たわらせた。シンタローは眉を寄せ、喘ぐような、時折止まりかねない不規則な呼吸を洩らしている。
 マジックの放った力の中心点に飛び込んできて、これだけの怪我どころか、生きていられることの方が不思議なのだ。シンタローにその自覚があるかどうかは甚だ不明瞭なものだったが……。
「ク……ソ親父っ!」
 枕に頭を押しつけ、絞りだすような声でシンタローは罵った。マジックは、無感動に我が子を眺め下ろす。
「いいざまだな……自業自得だ。最初に念を押したはずだな、不様な姿をさらすような真似をしたら、その時は……と。おまえには失望させられたぞ。少しはものの役に立つかと思えばこれだ」
 マジックは語気を強めた。
「それでも私の息子か! このマジックの名をけがしおって!!」
「――ッ!」
 シンタローは、言い返す言葉を見失って、ただ黙って耐えるよりなかった。マジックは興味を失ったように、ふいと横を向いた。
「……覚悟しておけ」
 言い残して、マジックはつかつかと場を歩み去った。対照的な静寂が、後に残された。


 マジックは壁にもたれ、吐息した。
 これでまた息子に憎まれるのは確実だろう。ねぎらいの言葉一つ与えない自分を、シンタローは恨むだろうか?
「……だとしても構わん……」
 彼は独語した。自分にはこんなやり方しかできないのだ。――それが、間違っていたとしても。
 自嘲の色が、マジックを淡く染めていた。


 マジックが医務室から去り、ようやくシンタローが、荒いながらも呼吸を元に戻したところで、高松は控えめに名前を口にした。
「シンタローくん……」
「………」
 シンタローは唇を噛み、小刻みに震えている。
「……えよ……」
「え――?」
「俺……できねぇ、よ……。親父、みたい、に――そんな、の……」
 高松は、毛布をかぶせなおす手を一瞬止めた。
 シンタローは泣いていた。涙を流しながら、呟きに近くひとりごちる。
「……お……れ、判ん……ねぇよ。何にも……全ぜっ……何で――っ」
 シンタローが言葉を詰まらせるのをみて、高松は再度呼びかけた。
「シンタロー様、いいことを教えてさしあげましょうか……」
 語調を改めて、ふわりと毛布を掛ける。
「完全に意識を失っていらっしゃいましたから、あなたは無論ご存じないことでしょうけれどね――」
 近くの椅子に、高松は浅く腰を下ろした。指を組み、膝に置く。
「あなたをここまで運んできたのは総帥です。あなたが眠っている間、ずっと付き添っていらしたんですよ。寝食も忘れて……とても心配なさって――」
 ぐったりとしたシンタローを抱えてここに飛び込んできた時の、マジックの顔を、高松は生涯忘れまい、と思う。彼の構成要素の第一であるはずのゆとりも何もかもかなぐり捨てた、すがりつくような……。
 それは、十七年前のあの日、ルーザーの起こした叛乱の中で、ほんの一瞬だけ見せたものと同じ種類に属していたかもしれない。決定的に違うのは、あの時彼は敗北者を赦さなかったということだ。
 魔王たるマジックにとって唯一の例外がシンタローなのだと、高松には判っていた。
『シンタローを救けてくれ! 私のせいだ……私が、誤ったから……っ!!』
 そう、マジックは言ったのだ。そして、それから先、どれだけ高松が司令部に戻るように促しても、マジックは息子の傍を離れようとしなかった。何度もその名前を繰り返しながら……。
「あの方はあなたのことを――」
「親父、が……?」
 本当にそうなのだろうか。あの父が?
「あなたはお父上がお嫌いですか?」
 高松の問いに、しばらくシンタローは答えなかった。
「……判らねえ……」
 ――違う。本当は、どんなにけなされても、蔑まれても、それでも自分は父が好きなのだ。多分、最後の最後のところで。
 胸が痛い。それは、怪我のせいだけではなくて……。
 ふとシンタローは夢でみた記憶を思い出した。
 赤ん坊の自分に語りかける、父の姿。きっとただ一つの望憶……。
「――診察は後回しにした方がよさそうですね。もう少し眠っていらっしゃい」
 高松は声をかけた。シンタローは微かに頷いて、目を閉じた。


「シンタロー、おまえはまだこれから、絶望を知らなければならない……。その時、おまえはどうする……?」
 マジックは再び呟いた。そこに、団員が駆けてくる。
「ああ、お捜ししておりました、総帥! 今回の報告書のことで……」
「判った。すぐに行く」
 マジックは首肯し、身を返した。父と息子の想いが、戦場で迷走し交錯する……。




 それでもね、シンタロー……私はおまえが可愛くてならないんだよ――。




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