* n o v e l *
PAPUWA~酒は飲んでも…?~
1/2
「ちょっと抜けるわ、俺。オメーらテキトーにやっといて」
「ん?どしたべシンタロー。なんかあっただか?」
「いや、少し酔っちまったみてぇだから、風に当たってくる」
赤い顔をしたミヤギが、上機嫌で「そっか~、はよ戻って来いよシンタロー!」と笑い、杯を持った手を軽く上げた。
それにおう、と答えてシンタローは多少ふらつきながらも、盛り上がっているその場を後にした。
――任務を終えて、団員達の間には心地好い疲労と達成感、充足感めいたものが広がっていた。
今回の任務は遠征期間が長かった上に、シンタローと伊達衆を加えていても困難極まる内容であった。
それ故に相手組織の降伏――Mission completeの報せが届いた時、団員達は沸き返った。
そんな彼らを自身も満足気に眺めながら、シンタローはふと、
(そういや、最近酒飲んでねーな~。確か帰還予定時刻にはまだ間があったはずだし……)
「――ヨシ、久しぶりにハメ外させてやっか!」
ニッと笑い、シンタローは団員達に「オメーら今から酒盛りすっぞーーッ!!街に降りっからついて来い!!」と宣言したのであった――
それがおよそ4時間前の事である。
シンタローはほてった頬を軽く叩きながら、盛り上がっている酒場から少しずつ遠ざかっていく。
ひんやりとした夜の空気を肺いっぱいに吸い込むと、自然と頬が緩んだ。
厳しい任務だったが、仲間に死傷者が出る事は無くこうして皆で馬鹿騒ぎに興じる事ができる。
あと数時間もすればこの国を出て、また次の仕事をこなしていかなければならない訳だが……一人も欠ける事無く、また次の地へ進めるのだという事が、ただ素直に嬉しかった。
いつの間にか鼻歌を歌っていた自分に気付き、シンタローは僅かに苦笑した。
酒のせいもあるのだろうが、どうも今夜の自分は浮かれすぎている。
同じく浮かれまくっているであろう仲間達と騒ぐのも悪くはないが――その前に、少しは頭を冷やそうと人気の無い方へ足を向ける。
べろんべろんに酔って、飛行艇の上で二日酔いにダウンする総帥というのはやはり誰も見たくはないだろう。
それ以前に、「そんな姿さらしてたまっかよ!」という彼自身の意地もある。
士官生時代からの付き合いになる、伊達衆の面々が揃っているのだから尚更だ。
後でからかわれるのも嫌だし、酔っ払った彼らに「士官生の時のシンタローはこんなんで」云々と若かりし頃の赤っ恥武勇伝を目の前で語られるのも、勘弁願いたかった。
酒は飲んでものまれるな。
先人の有り難い言葉を噛み締めて、シンタローは夜道を進む。
団員達と飲んでいたのはどちらかといえば街外れの酒場である。シンタローは暫くぶらぶらと歩いてから、街の明かりが随分遠いところにあるのに気付いた。
いつの間にかかなりの距離を来てしまったようだ。辺りは暗く、酒場の喧騒もここには届かない。
シンタローは道を外れて、大きな木の下に腰を下ろした。
手を地面に着くと、柔らかな草の感触。
シンタローは木にもたれて空を見上げた。
緩やかな高揚と、それとは相反する穏やかな波。
目を閉じれば心地好い睡魔が襲ってきた。
「……シンタローはん知りまへんか?」
「ああ~?スンタロぉ~?」
「そうどす、姿が見えまへんけど……あんさんさっきまで、あのお人の近くの席、陣取ってたでっしゃろ?」
図々しい、と言わんばかりの不機嫌な眼差しを向けるアラシヤマに、ミヤギよりもその隣にいるトットリの方が過敏に反応した。
「なに言いがかり付けとるんだっちゃアラシヤマ。お前、自分がシンタローの隣に座らせてもらえんで妬いとるだけだわいや!」
「わてはあんさんらと違うて、遠慮深いだけどす!……そもそもあんさんには聞いてまへんわ、どうせ知らへんのやろ?酔いどれ忍者はん」
「一人ぼっちの酒で酔いもできんかったヤツに、偉そうな口きかれたくないだっちゃ!」
「……あんさんホンマに腹立ちますなぁ~」
「お前ほどじゃないわな」
互いに忌々しそうに睨み合う。
――事実、酒場に着くなり張り切ってシンタローの隣を取ろうとしたアラシヤマは、当のシンタローの手によって危うく三途の川を渡らされるところだった。
仕方なく店の隅っこでちびちびと暗く酒を飲むアラシヤマの近くには、完全なブラックホールができていた。
「まぁまぁトットリぃ~、別に怒る事でもねぇべ~?」
既に完全にできあがっているミヤギが、少々呂律の回らぬ様子で上機嫌に割って入った。
「ミヤギくん……」
「スンタローならなァ~、風さ当たり行くってさっき店出て行ったところだべ~?ちょぉっくら酔ったんだと!」
「外に?……迂闊どしたわ、ずっとシンタローはんから目ぇ離さへんようにしてたんに!わての一瞬の隙をついて出て行かはるとは……流石はシンタローはんどすなぁ!」
店の隅っこから執拗にシンタローを凝視し続けていたアラシヤマだが(シンタローは徹底して気付かないフリを続けていた)、ガンマ団員達でぎゅうぎゅうに賑わっている店内では、人影に隠れてシンタローを見失ってしまう事も多い。
視線が外れた隙に、外へ出て行ってしまったのだろう。
シンタローをロストしたアラシヤマが店内をうろつく頃には、もういなくなった後だ。
「まったく……それにしても、そういう事は早く言いなはれ!
シンタローはんッ、今すぐわても行きますえ~ッ!!」
店を飛び出していくアラシヤマを見送って、ミヤギとトットリは「……シンタローも気の毒になぁ~」と全く同じ事を思った。
店を出たものの、シンタローがどこへ向かったのかは分からない。
きょろきょろと辺りを見回したが、少なくとも視界に入る距離にはいないようだ。
シンタローならどこへ行くだろう……普通風に当たるだけと言えば、そう離れた場所へは行かないだろうが。
「……いや、案外遠くへ行ってはるかもしれまへんなぁ。しかも人の多い賑やかな場所よりは……むしろ――」
アラシヤマは暫し思案し――街の明かりに背を向けて、歩き出した。
暗い道を黙々と歩いて、漸くよく知った気配を感じ取り、アラシヤマはそちらに向かって歩調を速めた。
本当に見つけられるとは運がいい、いややはり自分達は心友という絆で結ばれているのだ、とシンタローが聞いたら鳥肌を立てそうな事を考える。
木の下に誰かが座っているのが見て取れた。
昼ならばよく目立つ、長い艶やかな黒髪も夜の闇の中では静かに溶け込んでしまっている。
「……見つけましたえ、シンタローはん」
はやる心を抑えて――だがそれでも弾んでしまう声はどうしようもない――シンタローの前に回りこんだアラシヤマだったが。
シンタローの閉じられた目を見るや否や、慌てて地に膝をつき、顔を覗き込んだ。
「シンタローはんッ?どっか具合でも悪いんどすか!?」
声をかけながら脈を診ようと手を取ると、シンタローが小さく唸って身じろぎをした。
眉間にしわを寄せ、数度瞬きをしてゆっくりと焦点を合わせる。
暫くぼんやりとしていたようだが、目の前にいるのが誰だか分かると眉間のしわが更に深くなった。
「シンタローはん、大丈夫どすかッ?」「うる…せー……寝てただけだ…っつーの……」
シンタローは低い声で不機嫌そうにそう言った。
だがアラシヤマは、シンタローが寝ていただけと分かり安堵して肩の力を抜いた。
「……そら騒ぎもしますわ。こないなとこで寝るやなんて、何かあったらどうしますのん!しかも酒飲んだ後でっしゃろ?急性アルコール中毒でも起こしたんかと思いましたわ」
「あんぐらいの酒で、この俺がどーにかなるワケねーだろ」
大きく欠伸をし、シンタローは手の甲でごしごしと乱暴に目を擦った。
アラシヤマは少し迷ってから、シンタローの隣に腰を下ろした。
シンタローは一瞬嫌そうな顔をして「……げっ」と呟いたが、動くのが億劫なのか、避けようとはしなかった。
調子に乗って更に距離を詰めようとしたアラシヤマだが、無言でシンタローが手を上げるのを見て、慌てて「すんまへん調子乗りましたッ!」とぶんぶん首を振ってそれ以上近づかないとアピールした。
シンタローは少し呆れたような顔をしてアラシヤマを眺め、やれやれ、と溜息をつくと眼魔砲を撃とうとしていた手を下ろした。
「……ホンマ、こないなところで何してはったん?眠いんやったら飛行艇に戻るとか、酒場の上の部屋で仮眠取るとか色々あったんやないどすか?」
「俺が飛行艇に戻りゃあ宴会はお開きになっちまうし、寝に行っても場の空気が白けンだろ。……べっつに付き合う必要はねーのに、どいつもこいつも俺に気ィ遣いやがるかンな」
木の幹にトン、と頭をつけて、シンタローはフッと短く息を吐き出した。
だがその言葉にアラシヤマの表情が一瞬翳ったのを見て取って、シンタローは「あ~……」と少しバツが悪そうに頭をかいた。
「オメーまで余計な気ィ回すなって、気持ちワリーな。……俺は平気だから」
「シンタローはん……」
「総帥を継ぐって決めた時から、腹はくくってる。周りの態度が変わっちまうのも、しゃーねーだろ。今更あーだこーだ言うほどガキじゃねーよ」
「……そうどすか」
「あァ」
アラシヤマはそれ以上踏み込もうとはしなかった。
辛くないか、と訊ねるのは、シンタローを侮辱する事になる。
辛くないはずがない、重くないはずがない。
だがそれを口にはしたくないと言外に告げた彼の想いを、尊重したかった。
シンタローは「それに」、と先程よりもやや軽い口調で続けた。
「いい加減ヤローばっかの酒盛りにも飽き飽きしてたからな~。酔い覚ます為に外に出たら、いつの間にかこんなトコに来ちまってたンだよ」
まだ酔いが残っているのか、シンタローはいつもよりも砕けた様子で「気ィついたら寝てた」とあっけらかんと言って笑った。
その久しぶりに見る、まだ幼さを残した笑顔にアラシヤマもまた肩の力が抜けるのを感じた。
シンタローの言葉一つ、表情一つが、こんなにも影響力を持っている。彼の周りの、全ての人間に。
「素敵どすぅ~シンタローはんッ!」
思わず乙女チックに両手を頬に当てて「流石わての心友!!」とはしゃぐと、シンタローは「はァ!?……何言ってンのおまえ」と盛大に眉をひそめて思いっきり引いた顔をした。
「付き合ってらんね」
ケッと吐き捨てて立ち上がろうとしたシンタローだが――ふと考え直したように、上げかけた腰をストンとまた地面に下ろす。
「シンタローはん?どないしましたんや?」
「ん……今立ったら多分俺、足ふらついてる」
「はぁ~?どういうい――ッたぁ!?い、いきなり何しはりますのん!?」
予想外の言葉に首を傾げたアラシヤマの頭を意味も無く拳で叩き落し、シンタローは再度木の幹に背中を預けた。
「さっきまではそんなんでも無かったンだけどな~……何か思った以上に酒回ってるっつーか……また眠くなってきた」
「眠いて……ココで寝はるおつもりどすか!?あかんッ、風邪ひきますえー!」
「うっせーなァ、俺は眠いンだよ。今ココで寝たらぜってー気持ちイイ!」
「気持ちええとか気持ち悪いとかそんな問題ちゃいますやろ!」
「あ~うっせーうっせー」
耳を両手で押さえて「聞こえません」ポーズを取るシンタローにアラシヤマは尚もしつこく「寝たらあきまへんッ、寝たら危険どすえ~ッ!」と訴えかけていたが、イラついたシンタローに5回ほど殴られると、漸く静かになった。
諦めた顔をしてはぁ~と息をつくアラシヤマを前に、シンタローは軽く伸びをして大きな欠伸をした。
――そのリラックスした様子を見ていると、段々アラシヤマもまぁ仕方ないか、という気分になってきた。
「……まぁ今回は大目に見まひょ。任務も終わった事やし、無礼講どすな」
「何ブツブツ言ってンの?オメー」
「何でもありまへん。……シンタローはん、そう長居はさせられまへんえ?そろそろ帰るべきやと判断したら、わてが眠ってはるシンタローはんをおぶって帰りますわ」
「素直に起こせ。オメーにおぶわれるくらいなら這ってでも自分の力で帰る」
「それやとわての楽しみが……!」
「何を楽しむ気だテメーは!?」
思わず怒鳴ったシンタローだが、その拍子にぐらりと身体が傾いだ。
目の前の風景が一瞬ブレて、平衡感覚が失せる。
酒+眠気=運動能力低下。
そんな単純な図式が頭の中で回る。
地面に手をつこうとするが、イメージするように素早くは動かない。
アラシヤマを殴ったりして無駄な運動をしたのも良くなかったのかもしれない――などと呑気に考えていたシンタローの身体に、その当のアラシヤマが両手をするりと回した。
胸に抱き込むようにしてシンタローの身体を安定させ、顔を覗き込む。
「ホンマに酔うてはるんどすなぁ……そないに任務が完了して浮かれてはったんどすか?」
「……うっせ。俺だってたまにはハメ外してーンだよ」
「悪いとは言うてまへん。むしろもっとハメ外すべきでっしゃろ、あんさんは。……眉間のしわ、クセになりますえ?」
「……」
指摘されると余計に眉間に力が入った。
それに気付いたのだろう、アラシヤマは珍しく苦笑したが、「仕方ありまへんなぁ~困ったお人どす」と妙に嬉しそうに言いながらシンタローを腕の中に閉じ込めたままよしよしと頭を撫でた。
「…………今俺が絶好調の状態だったら、テメー成層圏の果てまで吹っ飛んでンぞ」
「せやったら、酒に感謝せなあきまへんな」
今この時ばかりは自分の有利を確信し、アラシヤマは飄々とした態度で言葉を返した。
ついつい口の端がニヤリと上がってしまう。
低く唸るように「テメー覚えてろよ……」と脅しをかけるシンタローであったが、まだ酩酊感が抜けないらしく、アラシヤマに寄りかかっている。
「もっちろん覚えときますえ!わてとシンタローはんの大切な思い出どすぅ~」
「やっぱ今すぐ忘れろ」
「嫌どす。こない大人しゅうしてはるシンタローはんやなんて、滅多に見られるもんやありまへんからな!……シンタローはんらしゅうありまへんが、これはこれでええもんどす。役得やわ、今夜のわて」
堪能させてもらいます、とニヤニヤ笑うアラシヤマの顎に頭突きをかましてやろうかと思ったシンタローだが――その後の惨事を思い浮かべて何とか自制した。
この状態でそんな事をすれば、まず間違いなく自分もかなりのダメージを食らってしまう。
復讐は体調が万全の時にすべきだろう。
こめかみに青筋を浮かべながらも抱き留められた体勢のまま大人しくしているシンタローに、アラシヤマは少し意外そうに目を瞬かせた。
少々浮かれすぎて口を滑らせたきらいのあるアラシヤマは、これは流石に殴られるかもしれない、と危惧していたのだろう。予想していた反応(鉄拳制裁)がこなかった事に、戸惑ったようだ。
「シンタローはん……?そないに眠いんどすか?」
「……。そーだよ、オメーのアホらしい話に付き合ってらんねーくれぇ眠いの俺は」
シンタローは不機嫌そうに、それでも返事を返してやった。
――確かに、らしくない。
自分ではそんなに酔っているつもりは無かったが、これは自覚している以上に浮かれていたのだろう。
傾けた杯の数は、そういえば覚えていない。
中途半端に寝たせいもあって、またうとうとと眠気が襲ってきていた。
触れ合った温もりが、悔しい事に心地好い。
気が付けば、また頭を撫でられていた。
もしかしたらアラシヤマも酔っていたのかもしれない。
「……オイ、それヤメロ」
「それ、って?何ですのん」
「頭撫でンなって言ってンだよ!犬猫じゃあるめぇし、馬鹿にされてっみたいでムカつく」
「そないなつもりはサラサラありまへんが……あえて言うなら、可愛がっておりましたえ?」
「余計ムカつく。つ~か、それは俺に『どうか眼魔砲で気の済むまでぶっ飛ばして下さい』ってオネガイしてンのか?」
「物騒な願い事どすなぁ~。まぁそれもシンタローはんとわてとの友情のスキンシップどすから、喜んで受けますえ!」
「…………」
ムカつく相手を喜ばせたくない。
シンタローはこのポジティブ根暗を失意のどん底に突き落とす方法を本気で模索した。
が、頭を撫でられ続けていては考えに集中できない。
「撫でンなっつーの!」
「シンタローはんの髪、手触りええどすなぁ~」
「聞けよ人の話ッ」
「そないに嫌どすか?頭撫でられるんは」
嫌に決まってンだろ、といつもなら即座に言い返してアラシヤマを殴るところだが。
酔いが回っているシンタローは不覚にもその言葉に少し考え込んでしまった。
「……頭撫でられンのは、あんまり好きじゃねー。…………でも、髪を梳かれるのは……そんなに嫌いじゃねーかも……」
「…………………………。あんさん、相当酔うてはりますやろ」
心の中で「何ですのんその愛らしい答えッ!!?」と絶叫しつつ思わず鼻血をふきそうになったアラシヤマには全く気付かず、シンタローは「ああ~?別に酔ってねーよ」と面倒臭そうに答えた。
アラシヤマの体温が一気に上がった事で、余計シンタローの眠さが増す。
ぽかぽかして気持ちいい……天然のカイロかコイツは、と思いながらシンタローはおもむろに身体を離した。
「あ……もう起きはるんどすか?」
「ンだよ、さっきまで寝るなって騒いでたくせに」
露骨に残念そうな顔をしたアラシヤマの頭を軽くどつき、シンタローは「オイ」と偉そうな態度で呼びかけた。
眠いせいか、いつもよりも俺様度がアップしている。
「へ、へぇ!何どすのシンタローはん」
「正座」
「は?」
「正座しろ」
ぽかんとするアラシヤマにシンタローはイライラした様子でもう一度呼びかけた。
「オイ、聞こえねーのかよ?正座しろっつってンだよ俺は」
「あ、ああ。正座どすな」
何が何だか分からないまま、アラシヤマは慌てて正座をした。
偉そうに腕を組んでいるシンタローの前で、緊張した面持ちで地面に正座するアラシヤマ。
屋外で向かい合う男二人――何ともシュールでマヌケな姿であったが、シンタローは全く何の説明もしないまま「よし」と頷いた。
「悪夢見る事間違い無しっつーくらい思いっきり寝心地悪そうだけど、まァ他に代用できるモンもねーし……しゃーねーから我慢してやっか」
「あのぅ……シンタローはん。なんや色々とこき下ろされとるようどすが、わて、今から何されますのん?」
恐る恐る訊ねたアラシヤマに、シンタローはあっさりと答えた。
「枕の代用」
* n o v e l *
PAPUWA~酒は飲んでも…?~
アラシヤマは上機嫌でニコニコ(シンタローにはニタニタ笑っているように見えた)しつつ、自分の膝をポンポンと叩いた。
「さぁッ、おいでやすぅシンタローはん!!」
「思いっきり行く気が失せた」
「ああッ、またそないなイケズを!シャイどすなぁ~」
やっぱ止めとこうか、とも思ったが、ココから飛行艇なり酒場なりに戻るのも億劫だった。
普段なら絶対に有り得ない事だが、とにかく今は猛烈に眠い。
頭の回転が鈍りまくって正常な判断力が失われているのが自分でも分かる。
シンタローは「コイツはただの枕、コイツはただの枕」と繰り返し呟いた。
アラシヤマの膝にぼすっと頭を乗せると――シンタローはムッと眉を寄せた。
「……固い」
「……そりゃあ男どすからなぁ。オナゴのようにはいきまへんやろ」
チッと舌打ちし、それでも頭を下ろそうとはせず、シンタローはアラシヤマを見上げた。
見上げられた方のアラシヤマは落ち着かない様子で思わず身じろぎしたが、その途端「もぞもぞしてンじゃねーよ!余計寝心地が悪くなンだろ」とシンタローに叱られてしまい、「へぇっ、すんまへん!」と慌てて謝った。
シンタローはアラシヤマの顔をじっと見つめ、ハァ……と嘆息した。
「……オメー、顔は悪くねーンだよなぁ……何だっけ、京美人?あの露出狂のイタリアンがそう呼んでたよナ……」
意外な言葉にアラシヤマは「へッ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
シンタローは構わず言葉を続ける。
「女だったら、結構美人だったのかもな、アラシヤマ」
「……あんさん、やっぱ酔うてはりますやろ」
シンタローは「酔ってねーよ」と主張を繰り返したが、アラシヤマは面白がるように軽く眉を上げた。
「そうどすなぁ……わてが女やったら、シンタローはんももうすこぉ~しはわてに優しゅうしてくれはりましたか?」
「あァ?……俺は基本的にはオンナに優しいけど……アラシヤマねぇ~……」
酔いと眠気のせいで思考が上手くまとまらないらしい、シンタローは「うーん……」と唸りながら考え込んでいる。
その様子をますます楽しそうに見つめながら、アラシヤマは問い掛けを少し変えてみた。
「わてが女でも、心友になってくれはりました?」
「今でも心友じゃねぇ」
そこだけは即答したシンタローにアラシヤマはぐさッと心に突き刺さるものを感じた。
つい恨みがましげな視線を送ると、シンタローは鬱陶しそうに顔をしかめる。
アラシヤマは「いけずやなぁ~……」と呟いて先程のシンタローのように嘆息して見せた。
「わて、ホンマに女やったらよかったかもしれまへんな。そしたら、もっとシンタローはんにくっ付いてても怒られへんのやろうし」
酔っていない時でも、膝枕をしてくれとねだってくれたかもしれない。自分が女だったら。
だがそんな風に考えるアラシヤマとは対照的に、シンタローは「……いや、やっぱねーわ。オンナのお前って」と呟いた。
「……?」
「オメーがオンナだったら余計うっとーしい、つーか怖すぎる。眼魔砲でぶっ飛ばすのもちょっとだけ気が引けちまうし。――やっぱオメーはオメーのままで十分だ。今のまんまでいい」
「シンタローはん……」
シンタローからしてみれば何気ない言葉だったのだろうが。
その一言に、アラシヤマは一瞬驚いたように目を見開き……ふっと、表情を和らげてシンタローの髪を撫でた。
シンタローは眠いのか、彼の手を振り解こうとはしなかった。
「おおきに、シンタローはん。わても男でよかった思いますわ」
「何でだよ?」
「男やから、シンタローはんの傍におれるっちゅー時も多いでっしゃろ?」
「……オメーってヤツは、ホントにキモイな」
うんざりとした声音で言い、半眼になって自分を睨みつけてくるシンタローにアラシヤマは声を殺してくっくっと喉を震わせた。
「笑ってンじゃねーよ根暗」
「えろうすんまへん。……そうや、逆やったらどうやろ?シンタローはんが女やったら」
「俺が~……?」
眠いんだけど、と目で訴えるが、アラシヤマはまだ言葉遊びを続けたいようだ。構わずに話を振ってくる。
シンタローは「こういう自分本位なとこがコイツの嫌われる所以だよナ……」と思いながらも、ついつい女の自分を想像してしまった。
「俺がオンナだったら間違いなくサイコーの美女だな」
「きっとプロポーションも抜群どすえ!」
心友大好きの男は即座に同意した。
「下心持った連中が寄って来るんが、容易に想像できますわ。……まぁわてのシンタローはんに言い寄ってくるような身の程知らずの阿呆共は、わてが一人残らず灰にしてやりますえ。安心しておくんなはれ、シンタローはん!」
「……ジョーダンに聞こえねーのがオメーの怖えぇとこだな」
もちろん冗談などではない。何を言っているのだ、ときょとんとするアラシヤマに頭痛を覚えて、シンタローは目を閉じた。
「シンタローはんシンタローはん」
「……今度は何だよ。寝かせろっつーの」
「シンタローはんが女やったら、わての事どう思うと思います?」
相も変わらず下らない質問をする。
薄目を開けてアラシヤマの顔を見やると、アラシヤマはどこかわくわくした面持ちで此方をじっと見つめている。
シンタローは小さく小さく嘆息した。
――ムカつく話だが、ほんとにコイツは顔は悪くはない(中身はサイアクだけど)。
自分がいささか面食いであるという自覚は多少なりとあるので、アラシヤマが異性だった場合、正直少しは傾くかもしれない、と思った。
だが中身がサイアクなので、やはりそれは有り得ないだろうと結論付けた。
「今思ってる事と、何も変わンねーよ」
「……そうどすか。実はわても、そうどす」
「……?」
「シンタローはんが男でも女でも、構いまへん。わてにとっては何よりも大切なお人どす」
「…………。うっせーよ。俺はねみぃんだから、黙って枕になっとけ」
ぶっきら棒に言って今度こそ目をしっかり閉じ、アラシヤマの膝に頭を乗せたまま顔を横に向ける。
――目を閉じる一瞬前、視界の真ん中で心底嬉しそうに笑った男の顔が、暫く網膜に焼き付いて離れそうになかった。
シンタローが眠ったのを確認してから、アラシヤマは彼の髪を梳いた。
さらりと指の間を通るその感触が、心地好くて目を細める。
普段眉間に寄っているシワが取れて、いつもよりも若い――いや、幼い印象の彼の貴重な寝顔を覗き込んで、アラシヤマは鼻歌でも歌いたい気分になった。
無論、シンタローを起こしてしまうので自重したが。
嬉しくて嬉しくて、緩んでしまう口元をどうしても引き締める事ができない。
例え酔っていたからだとしても、シンタローが無防備な姿を自分に見せてくれている事が嬉しかった。
信頼されているのだと自惚れてもいいのだろうか、と思いながら、シンタローの髪に指を絡ませてその滑らかな感触を楽しむ。
――眠りに落ちる前の、交わした会話も飛び上がる程嬉しかった。
どうしてこんなにも、自分が喜ぶような事ばかりを言ってくれるのだろうこの人は(トラウマになるくらいキッツイ言葉も日常的によくくれるが)。
「ホンマに、嬉しおす。わてはあんさんの傍におれて……幸せどすえ」
恭しく捧げ持つような仕草で持ち上げた一房の髪に、そっと口付ける。
もしも今、シンタローが起きていたら即座に眼魔砲の洗礼をアラシヤマに浴びせていたのだろうが……彼はまだ、眠りの底にいる。
子どものように安心しきった寝顔で。
アラシヤマはシンタローの頭を優しく撫でながら、この時間がずっと続けばいいと願った。
――夜が明けるまでの、短い時間。
大切な人が、この手の届く場所にいる――
――と、思ったが。
実際はもっと短かった。
それから30分もしない内にシンタロー捜索隊(伊達衆含むガンマ団員達)に二人は発見され、とんでもない惨劇が繰り広げられる事となったのであった。
酒は飲んでものまれるな
~END~
PAPUWA~酒は飲んでも…?~
1/2
「ちょっと抜けるわ、俺。オメーらテキトーにやっといて」
「ん?どしたべシンタロー。なんかあっただか?」
「いや、少し酔っちまったみてぇだから、風に当たってくる」
赤い顔をしたミヤギが、上機嫌で「そっか~、はよ戻って来いよシンタロー!」と笑い、杯を持った手を軽く上げた。
それにおう、と答えてシンタローは多少ふらつきながらも、盛り上がっているその場を後にした。
――任務を終えて、団員達の間には心地好い疲労と達成感、充足感めいたものが広がっていた。
今回の任務は遠征期間が長かった上に、シンタローと伊達衆を加えていても困難極まる内容であった。
それ故に相手組織の降伏――Mission completeの報せが届いた時、団員達は沸き返った。
そんな彼らを自身も満足気に眺めながら、シンタローはふと、
(そういや、最近酒飲んでねーな~。確か帰還予定時刻にはまだ間があったはずだし……)
「――ヨシ、久しぶりにハメ外させてやっか!」
ニッと笑い、シンタローは団員達に「オメーら今から酒盛りすっぞーーッ!!街に降りっからついて来い!!」と宣言したのであった――
それがおよそ4時間前の事である。
シンタローはほてった頬を軽く叩きながら、盛り上がっている酒場から少しずつ遠ざかっていく。
ひんやりとした夜の空気を肺いっぱいに吸い込むと、自然と頬が緩んだ。
厳しい任務だったが、仲間に死傷者が出る事は無くこうして皆で馬鹿騒ぎに興じる事ができる。
あと数時間もすればこの国を出て、また次の仕事をこなしていかなければならない訳だが……一人も欠ける事無く、また次の地へ進めるのだという事が、ただ素直に嬉しかった。
いつの間にか鼻歌を歌っていた自分に気付き、シンタローは僅かに苦笑した。
酒のせいもあるのだろうが、どうも今夜の自分は浮かれすぎている。
同じく浮かれまくっているであろう仲間達と騒ぐのも悪くはないが――その前に、少しは頭を冷やそうと人気の無い方へ足を向ける。
べろんべろんに酔って、飛行艇の上で二日酔いにダウンする総帥というのはやはり誰も見たくはないだろう。
それ以前に、「そんな姿さらしてたまっかよ!」という彼自身の意地もある。
士官生時代からの付き合いになる、伊達衆の面々が揃っているのだから尚更だ。
後でからかわれるのも嫌だし、酔っ払った彼らに「士官生の時のシンタローはこんなんで」云々と若かりし頃の赤っ恥武勇伝を目の前で語られるのも、勘弁願いたかった。
酒は飲んでものまれるな。
先人の有り難い言葉を噛み締めて、シンタローは夜道を進む。
団員達と飲んでいたのはどちらかといえば街外れの酒場である。シンタローは暫くぶらぶらと歩いてから、街の明かりが随分遠いところにあるのに気付いた。
いつの間にかかなりの距離を来てしまったようだ。辺りは暗く、酒場の喧騒もここには届かない。
シンタローは道を外れて、大きな木の下に腰を下ろした。
手を地面に着くと、柔らかな草の感触。
シンタローは木にもたれて空を見上げた。
緩やかな高揚と、それとは相反する穏やかな波。
目を閉じれば心地好い睡魔が襲ってきた。
「……シンタローはん知りまへんか?」
「ああ~?スンタロぉ~?」
「そうどす、姿が見えまへんけど……あんさんさっきまで、あのお人の近くの席、陣取ってたでっしゃろ?」
図々しい、と言わんばかりの不機嫌な眼差しを向けるアラシヤマに、ミヤギよりもその隣にいるトットリの方が過敏に反応した。
「なに言いがかり付けとるんだっちゃアラシヤマ。お前、自分がシンタローの隣に座らせてもらえんで妬いとるだけだわいや!」
「わてはあんさんらと違うて、遠慮深いだけどす!……そもそもあんさんには聞いてまへんわ、どうせ知らへんのやろ?酔いどれ忍者はん」
「一人ぼっちの酒で酔いもできんかったヤツに、偉そうな口きかれたくないだっちゃ!」
「……あんさんホンマに腹立ちますなぁ~」
「お前ほどじゃないわな」
互いに忌々しそうに睨み合う。
――事実、酒場に着くなり張り切ってシンタローの隣を取ろうとしたアラシヤマは、当のシンタローの手によって危うく三途の川を渡らされるところだった。
仕方なく店の隅っこでちびちびと暗く酒を飲むアラシヤマの近くには、完全なブラックホールができていた。
「まぁまぁトットリぃ~、別に怒る事でもねぇべ~?」
既に完全にできあがっているミヤギが、少々呂律の回らぬ様子で上機嫌に割って入った。
「ミヤギくん……」
「スンタローならなァ~、風さ当たり行くってさっき店出て行ったところだべ~?ちょぉっくら酔ったんだと!」
「外に?……迂闊どしたわ、ずっとシンタローはんから目ぇ離さへんようにしてたんに!わての一瞬の隙をついて出て行かはるとは……流石はシンタローはんどすなぁ!」
店の隅っこから執拗にシンタローを凝視し続けていたアラシヤマだが(シンタローは徹底して気付かないフリを続けていた)、ガンマ団員達でぎゅうぎゅうに賑わっている店内では、人影に隠れてシンタローを見失ってしまう事も多い。
視線が外れた隙に、外へ出て行ってしまったのだろう。
シンタローをロストしたアラシヤマが店内をうろつく頃には、もういなくなった後だ。
「まったく……それにしても、そういう事は早く言いなはれ!
シンタローはんッ、今すぐわても行きますえ~ッ!!」
店を飛び出していくアラシヤマを見送って、ミヤギとトットリは「……シンタローも気の毒になぁ~」と全く同じ事を思った。
店を出たものの、シンタローがどこへ向かったのかは分からない。
きょろきょろと辺りを見回したが、少なくとも視界に入る距離にはいないようだ。
シンタローならどこへ行くだろう……普通風に当たるだけと言えば、そう離れた場所へは行かないだろうが。
「……いや、案外遠くへ行ってはるかもしれまへんなぁ。しかも人の多い賑やかな場所よりは……むしろ――」
アラシヤマは暫し思案し――街の明かりに背を向けて、歩き出した。
暗い道を黙々と歩いて、漸くよく知った気配を感じ取り、アラシヤマはそちらに向かって歩調を速めた。
本当に見つけられるとは運がいい、いややはり自分達は心友という絆で結ばれているのだ、とシンタローが聞いたら鳥肌を立てそうな事を考える。
木の下に誰かが座っているのが見て取れた。
昼ならばよく目立つ、長い艶やかな黒髪も夜の闇の中では静かに溶け込んでしまっている。
「……見つけましたえ、シンタローはん」
はやる心を抑えて――だがそれでも弾んでしまう声はどうしようもない――シンタローの前に回りこんだアラシヤマだったが。
シンタローの閉じられた目を見るや否や、慌てて地に膝をつき、顔を覗き込んだ。
「シンタローはんッ?どっか具合でも悪いんどすか!?」
声をかけながら脈を診ようと手を取ると、シンタローが小さく唸って身じろぎをした。
眉間にしわを寄せ、数度瞬きをしてゆっくりと焦点を合わせる。
暫くぼんやりとしていたようだが、目の前にいるのが誰だか分かると眉間のしわが更に深くなった。
「シンタローはん、大丈夫どすかッ?」「うる…せー……寝てただけだ…っつーの……」
シンタローは低い声で不機嫌そうにそう言った。
だがアラシヤマは、シンタローが寝ていただけと分かり安堵して肩の力を抜いた。
「……そら騒ぎもしますわ。こないなとこで寝るやなんて、何かあったらどうしますのん!しかも酒飲んだ後でっしゃろ?急性アルコール中毒でも起こしたんかと思いましたわ」
「あんぐらいの酒で、この俺がどーにかなるワケねーだろ」
大きく欠伸をし、シンタローは手の甲でごしごしと乱暴に目を擦った。
アラシヤマは少し迷ってから、シンタローの隣に腰を下ろした。
シンタローは一瞬嫌そうな顔をして「……げっ」と呟いたが、動くのが億劫なのか、避けようとはしなかった。
調子に乗って更に距離を詰めようとしたアラシヤマだが、無言でシンタローが手を上げるのを見て、慌てて「すんまへん調子乗りましたッ!」とぶんぶん首を振ってそれ以上近づかないとアピールした。
シンタローは少し呆れたような顔をしてアラシヤマを眺め、やれやれ、と溜息をつくと眼魔砲を撃とうとしていた手を下ろした。
「……ホンマ、こないなところで何してはったん?眠いんやったら飛行艇に戻るとか、酒場の上の部屋で仮眠取るとか色々あったんやないどすか?」
「俺が飛行艇に戻りゃあ宴会はお開きになっちまうし、寝に行っても場の空気が白けンだろ。……べっつに付き合う必要はねーのに、どいつもこいつも俺に気ィ遣いやがるかンな」
木の幹にトン、と頭をつけて、シンタローはフッと短く息を吐き出した。
だがその言葉にアラシヤマの表情が一瞬翳ったのを見て取って、シンタローは「あ~……」と少しバツが悪そうに頭をかいた。
「オメーまで余計な気ィ回すなって、気持ちワリーな。……俺は平気だから」
「シンタローはん……」
「総帥を継ぐって決めた時から、腹はくくってる。周りの態度が変わっちまうのも、しゃーねーだろ。今更あーだこーだ言うほどガキじゃねーよ」
「……そうどすか」
「あァ」
アラシヤマはそれ以上踏み込もうとはしなかった。
辛くないか、と訊ねるのは、シンタローを侮辱する事になる。
辛くないはずがない、重くないはずがない。
だがそれを口にはしたくないと言外に告げた彼の想いを、尊重したかった。
シンタローは「それに」、と先程よりもやや軽い口調で続けた。
「いい加減ヤローばっかの酒盛りにも飽き飽きしてたからな~。酔い覚ます為に外に出たら、いつの間にかこんなトコに来ちまってたンだよ」
まだ酔いが残っているのか、シンタローはいつもよりも砕けた様子で「気ィついたら寝てた」とあっけらかんと言って笑った。
その久しぶりに見る、まだ幼さを残した笑顔にアラシヤマもまた肩の力が抜けるのを感じた。
シンタローの言葉一つ、表情一つが、こんなにも影響力を持っている。彼の周りの、全ての人間に。
「素敵どすぅ~シンタローはんッ!」
思わず乙女チックに両手を頬に当てて「流石わての心友!!」とはしゃぐと、シンタローは「はァ!?……何言ってンのおまえ」と盛大に眉をひそめて思いっきり引いた顔をした。
「付き合ってらんね」
ケッと吐き捨てて立ち上がろうとしたシンタローだが――ふと考え直したように、上げかけた腰をストンとまた地面に下ろす。
「シンタローはん?どないしましたんや?」
「ん……今立ったら多分俺、足ふらついてる」
「はぁ~?どういうい――ッたぁ!?い、いきなり何しはりますのん!?」
予想外の言葉に首を傾げたアラシヤマの頭を意味も無く拳で叩き落し、シンタローは再度木の幹に背中を預けた。
「さっきまではそんなんでも無かったンだけどな~……何か思った以上に酒回ってるっつーか……また眠くなってきた」
「眠いて……ココで寝はるおつもりどすか!?あかんッ、風邪ひきますえー!」
「うっせーなァ、俺は眠いンだよ。今ココで寝たらぜってー気持ちイイ!」
「気持ちええとか気持ち悪いとかそんな問題ちゃいますやろ!」
「あ~うっせーうっせー」
耳を両手で押さえて「聞こえません」ポーズを取るシンタローにアラシヤマは尚もしつこく「寝たらあきまへんッ、寝たら危険どすえ~ッ!」と訴えかけていたが、イラついたシンタローに5回ほど殴られると、漸く静かになった。
諦めた顔をしてはぁ~と息をつくアラシヤマを前に、シンタローは軽く伸びをして大きな欠伸をした。
――そのリラックスした様子を見ていると、段々アラシヤマもまぁ仕方ないか、という気分になってきた。
「……まぁ今回は大目に見まひょ。任務も終わった事やし、無礼講どすな」
「何ブツブツ言ってンの?オメー」
「何でもありまへん。……シンタローはん、そう長居はさせられまへんえ?そろそろ帰るべきやと判断したら、わてが眠ってはるシンタローはんをおぶって帰りますわ」
「素直に起こせ。オメーにおぶわれるくらいなら這ってでも自分の力で帰る」
「それやとわての楽しみが……!」
「何を楽しむ気だテメーは!?」
思わず怒鳴ったシンタローだが、その拍子にぐらりと身体が傾いだ。
目の前の風景が一瞬ブレて、平衡感覚が失せる。
酒+眠気=運動能力低下。
そんな単純な図式が頭の中で回る。
地面に手をつこうとするが、イメージするように素早くは動かない。
アラシヤマを殴ったりして無駄な運動をしたのも良くなかったのかもしれない――などと呑気に考えていたシンタローの身体に、その当のアラシヤマが両手をするりと回した。
胸に抱き込むようにしてシンタローの身体を安定させ、顔を覗き込む。
「ホンマに酔うてはるんどすなぁ……そないに任務が完了して浮かれてはったんどすか?」
「……うっせ。俺だってたまにはハメ外してーンだよ」
「悪いとは言うてまへん。むしろもっとハメ外すべきでっしゃろ、あんさんは。……眉間のしわ、クセになりますえ?」
「……」
指摘されると余計に眉間に力が入った。
それに気付いたのだろう、アラシヤマは珍しく苦笑したが、「仕方ありまへんなぁ~困ったお人どす」と妙に嬉しそうに言いながらシンタローを腕の中に閉じ込めたままよしよしと頭を撫でた。
「…………今俺が絶好調の状態だったら、テメー成層圏の果てまで吹っ飛んでンぞ」
「せやったら、酒に感謝せなあきまへんな」
今この時ばかりは自分の有利を確信し、アラシヤマは飄々とした態度で言葉を返した。
ついつい口の端がニヤリと上がってしまう。
低く唸るように「テメー覚えてろよ……」と脅しをかけるシンタローであったが、まだ酩酊感が抜けないらしく、アラシヤマに寄りかかっている。
「もっちろん覚えときますえ!わてとシンタローはんの大切な思い出どすぅ~」
「やっぱ今すぐ忘れろ」
「嫌どす。こない大人しゅうしてはるシンタローはんやなんて、滅多に見られるもんやありまへんからな!……シンタローはんらしゅうありまへんが、これはこれでええもんどす。役得やわ、今夜のわて」
堪能させてもらいます、とニヤニヤ笑うアラシヤマの顎に頭突きをかましてやろうかと思ったシンタローだが――その後の惨事を思い浮かべて何とか自制した。
この状態でそんな事をすれば、まず間違いなく自分もかなりのダメージを食らってしまう。
復讐は体調が万全の時にすべきだろう。
こめかみに青筋を浮かべながらも抱き留められた体勢のまま大人しくしているシンタローに、アラシヤマは少し意外そうに目を瞬かせた。
少々浮かれすぎて口を滑らせたきらいのあるアラシヤマは、これは流石に殴られるかもしれない、と危惧していたのだろう。予想していた反応(鉄拳制裁)がこなかった事に、戸惑ったようだ。
「シンタローはん……?そないに眠いんどすか?」
「……。そーだよ、オメーのアホらしい話に付き合ってらんねーくれぇ眠いの俺は」
シンタローは不機嫌そうに、それでも返事を返してやった。
――確かに、らしくない。
自分ではそんなに酔っているつもりは無かったが、これは自覚している以上に浮かれていたのだろう。
傾けた杯の数は、そういえば覚えていない。
中途半端に寝たせいもあって、またうとうとと眠気が襲ってきていた。
触れ合った温もりが、悔しい事に心地好い。
気が付けば、また頭を撫でられていた。
もしかしたらアラシヤマも酔っていたのかもしれない。
「……オイ、それヤメロ」
「それ、って?何ですのん」
「頭撫でンなって言ってンだよ!犬猫じゃあるめぇし、馬鹿にされてっみたいでムカつく」
「そないなつもりはサラサラありまへんが……あえて言うなら、可愛がっておりましたえ?」
「余計ムカつく。つ~か、それは俺に『どうか眼魔砲で気の済むまでぶっ飛ばして下さい』ってオネガイしてンのか?」
「物騒な願い事どすなぁ~。まぁそれもシンタローはんとわてとの友情のスキンシップどすから、喜んで受けますえ!」
「…………」
ムカつく相手を喜ばせたくない。
シンタローはこのポジティブ根暗を失意のどん底に突き落とす方法を本気で模索した。
が、頭を撫でられ続けていては考えに集中できない。
「撫でンなっつーの!」
「シンタローはんの髪、手触りええどすなぁ~」
「聞けよ人の話ッ」
「そないに嫌どすか?頭撫でられるんは」
嫌に決まってンだろ、といつもなら即座に言い返してアラシヤマを殴るところだが。
酔いが回っているシンタローは不覚にもその言葉に少し考え込んでしまった。
「……頭撫でられンのは、あんまり好きじゃねー。…………でも、髪を梳かれるのは……そんなに嫌いじゃねーかも……」
「…………………………。あんさん、相当酔うてはりますやろ」
心の中で「何ですのんその愛らしい答えッ!!?」と絶叫しつつ思わず鼻血をふきそうになったアラシヤマには全く気付かず、シンタローは「ああ~?別に酔ってねーよ」と面倒臭そうに答えた。
アラシヤマの体温が一気に上がった事で、余計シンタローの眠さが増す。
ぽかぽかして気持ちいい……天然のカイロかコイツは、と思いながらシンタローはおもむろに身体を離した。
「あ……もう起きはるんどすか?」
「ンだよ、さっきまで寝るなって騒いでたくせに」
露骨に残念そうな顔をしたアラシヤマの頭を軽くどつき、シンタローは「オイ」と偉そうな態度で呼びかけた。
眠いせいか、いつもよりも俺様度がアップしている。
「へ、へぇ!何どすのシンタローはん」
「正座」
「は?」
「正座しろ」
ぽかんとするアラシヤマにシンタローはイライラした様子でもう一度呼びかけた。
「オイ、聞こえねーのかよ?正座しろっつってンだよ俺は」
「あ、ああ。正座どすな」
何が何だか分からないまま、アラシヤマは慌てて正座をした。
偉そうに腕を組んでいるシンタローの前で、緊張した面持ちで地面に正座するアラシヤマ。
屋外で向かい合う男二人――何ともシュールでマヌケな姿であったが、シンタローは全く何の説明もしないまま「よし」と頷いた。
「悪夢見る事間違い無しっつーくらい思いっきり寝心地悪そうだけど、まァ他に代用できるモンもねーし……しゃーねーから我慢してやっか」
「あのぅ……シンタローはん。なんや色々とこき下ろされとるようどすが、わて、今から何されますのん?」
恐る恐る訊ねたアラシヤマに、シンタローはあっさりと答えた。
「枕の代用」
* n o v e l *
PAPUWA~酒は飲んでも…?~
アラシヤマは上機嫌でニコニコ(シンタローにはニタニタ笑っているように見えた)しつつ、自分の膝をポンポンと叩いた。
「さぁッ、おいでやすぅシンタローはん!!」
「思いっきり行く気が失せた」
「ああッ、またそないなイケズを!シャイどすなぁ~」
やっぱ止めとこうか、とも思ったが、ココから飛行艇なり酒場なりに戻るのも億劫だった。
普段なら絶対に有り得ない事だが、とにかく今は猛烈に眠い。
頭の回転が鈍りまくって正常な判断力が失われているのが自分でも分かる。
シンタローは「コイツはただの枕、コイツはただの枕」と繰り返し呟いた。
アラシヤマの膝にぼすっと頭を乗せると――シンタローはムッと眉を寄せた。
「……固い」
「……そりゃあ男どすからなぁ。オナゴのようにはいきまへんやろ」
チッと舌打ちし、それでも頭を下ろそうとはせず、シンタローはアラシヤマを見上げた。
見上げられた方のアラシヤマは落ち着かない様子で思わず身じろぎしたが、その途端「もぞもぞしてンじゃねーよ!余計寝心地が悪くなンだろ」とシンタローに叱られてしまい、「へぇっ、すんまへん!」と慌てて謝った。
シンタローはアラシヤマの顔をじっと見つめ、ハァ……と嘆息した。
「……オメー、顔は悪くねーンだよなぁ……何だっけ、京美人?あの露出狂のイタリアンがそう呼んでたよナ……」
意外な言葉にアラシヤマは「へッ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
シンタローは構わず言葉を続ける。
「女だったら、結構美人だったのかもな、アラシヤマ」
「……あんさん、やっぱ酔うてはりますやろ」
シンタローは「酔ってねーよ」と主張を繰り返したが、アラシヤマは面白がるように軽く眉を上げた。
「そうどすなぁ……わてが女やったら、シンタローはんももうすこぉ~しはわてに優しゅうしてくれはりましたか?」
「あァ?……俺は基本的にはオンナに優しいけど……アラシヤマねぇ~……」
酔いと眠気のせいで思考が上手くまとまらないらしい、シンタローは「うーん……」と唸りながら考え込んでいる。
その様子をますます楽しそうに見つめながら、アラシヤマは問い掛けを少し変えてみた。
「わてが女でも、心友になってくれはりました?」
「今でも心友じゃねぇ」
そこだけは即答したシンタローにアラシヤマはぐさッと心に突き刺さるものを感じた。
つい恨みがましげな視線を送ると、シンタローは鬱陶しそうに顔をしかめる。
アラシヤマは「いけずやなぁ~……」と呟いて先程のシンタローのように嘆息して見せた。
「わて、ホンマに女やったらよかったかもしれまへんな。そしたら、もっとシンタローはんにくっ付いてても怒られへんのやろうし」
酔っていない時でも、膝枕をしてくれとねだってくれたかもしれない。自分が女だったら。
だがそんな風に考えるアラシヤマとは対照的に、シンタローは「……いや、やっぱねーわ。オンナのお前って」と呟いた。
「……?」
「オメーがオンナだったら余計うっとーしい、つーか怖すぎる。眼魔砲でぶっ飛ばすのもちょっとだけ気が引けちまうし。――やっぱオメーはオメーのままで十分だ。今のまんまでいい」
「シンタローはん……」
シンタローからしてみれば何気ない言葉だったのだろうが。
その一言に、アラシヤマは一瞬驚いたように目を見開き……ふっと、表情を和らげてシンタローの髪を撫でた。
シンタローは眠いのか、彼の手を振り解こうとはしなかった。
「おおきに、シンタローはん。わても男でよかった思いますわ」
「何でだよ?」
「男やから、シンタローはんの傍におれるっちゅー時も多いでっしゃろ?」
「……オメーってヤツは、ホントにキモイな」
うんざりとした声音で言い、半眼になって自分を睨みつけてくるシンタローにアラシヤマは声を殺してくっくっと喉を震わせた。
「笑ってンじゃねーよ根暗」
「えろうすんまへん。……そうや、逆やったらどうやろ?シンタローはんが女やったら」
「俺が~……?」
眠いんだけど、と目で訴えるが、アラシヤマはまだ言葉遊びを続けたいようだ。構わずに話を振ってくる。
シンタローは「こういう自分本位なとこがコイツの嫌われる所以だよナ……」と思いながらも、ついつい女の自分を想像してしまった。
「俺がオンナだったら間違いなくサイコーの美女だな」
「きっとプロポーションも抜群どすえ!」
心友大好きの男は即座に同意した。
「下心持った連中が寄って来るんが、容易に想像できますわ。……まぁわてのシンタローはんに言い寄ってくるような身の程知らずの阿呆共は、わてが一人残らず灰にしてやりますえ。安心しておくんなはれ、シンタローはん!」
「……ジョーダンに聞こえねーのがオメーの怖えぇとこだな」
もちろん冗談などではない。何を言っているのだ、ときょとんとするアラシヤマに頭痛を覚えて、シンタローは目を閉じた。
「シンタローはんシンタローはん」
「……今度は何だよ。寝かせろっつーの」
「シンタローはんが女やったら、わての事どう思うと思います?」
相も変わらず下らない質問をする。
薄目を開けてアラシヤマの顔を見やると、アラシヤマはどこかわくわくした面持ちで此方をじっと見つめている。
シンタローは小さく小さく嘆息した。
――ムカつく話だが、ほんとにコイツは顔は悪くはない(中身はサイアクだけど)。
自分がいささか面食いであるという自覚は多少なりとあるので、アラシヤマが異性だった場合、正直少しは傾くかもしれない、と思った。
だが中身がサイアクなので、やはりそれは有り得ないだろうと結論付けた。
「今思ってる事と、何も変わンねーよ」
「……そうどすか。実はわても、そうどす」
「……?」
「シンタローはんが男でも女でも、構いまへん。わてにとっては何よりも大切なお人どす」
「…………。うっせーよ。俺はねみぃんだから、黙って枕になっとけ」
ぶっきら棒に言って今度こそ目をしっかり閉じ、アラシヤマの膝に頭を乗せたまま顔を横に向ける。
――目を閉じる一瞬前、視界の真ん中で心底嬉しそうに笑った男の顔が、暫く網膜に焼き付いて離れそうになかった。
シンタローが眠ったのを確認してから、アラシヤマは彼の髪を梳いた。
さらりと指の間を通るその感触が、心地好くて目を細める。
普段眉間に寄っているシワが取れて、いつもよりも若い――いや、幼い印象の彼の貴重な寝顔を覗き込んで、アラシヤマは鼻歌でも歌いたい気分になった。
無論、シンタローを起こしてしまうので自重したが。
嬉しくて嬉しくて、緩んでしまう口元をどうしても引き締める事ができない。
例え酔っていたからだとしても、シンタローが無防備な姿を自分に見せてくれている事が嬉しかった。
信頼されているのだと自惚れてもいいのだろうか、と思いながら、シンタローの髪に指を絡ませてその滑らかな感触を楽しむ。
――眠りに落ちる前の、交わした会話も飛び上がる程嬉しかった。
どうしてこんなにも、自分が喜ぶような事ばかりを言ってくれるのだろうこの人は(トラウマになるくらいキッツイ言葉も日常的によくくれるが)。
「ホンマに、嬉しおす。わてはあんさんの傍におれて……幸せどすえ」
恭しく捧げ持つような仕草で持ち上げた一房の髪に、そっと口付ける。
もしも今、シンタローが起きていたら即座に眼魔砲の洗礼をアラシヤマに浴びせていたのだろうが……彼はまだ、眠りの底にいる。
子どものように安心しきった寝顔で。
アラシヤマはシンタローの頭を優しく撫でながら、この時間がずっと続けばいいと願った。
――夜が明けるまでの、短い時間。
大切な人が、この手の届く場所にいる――
――と、思ったが。
実際はもっと短かった。
それから30分もしない内にシンタロー捜索隊(伊達衆含むガンマ団員達)に二人は発見され、とんでもない惨劇が繰り広げられる事となったのであった。
酒は飲んでものまれるな
~END~
PR
* n o v e l *
PAPUWA~ハピネス~
ひとぉぉつ…
ふたぁぁつ……
みぃぃっつ………
声には出さず、心の内だけでゆっくりとカウントする。
数を重ねる毎に、ごうごうと荒れていた心は凪いだ海のように静かになっていった。
戦いの場で高揚していた自分を抑え付け、冷静になれと指令を下す。
「シンタローはん。準備はようおますか?」
「誰に聞いてんだタァコ。いつでも行けるに決まってんだろ」
顔は前に向けたまま確認の意味を持って訊ねれば、返事は迷い無く返ってくる。
ちらりと視線を横に向けると、彼は口を真一文字に結んで前を見据えていた。
真剣な表情だ。だがそこには、無駄な気負いは一切存在しない。
怯む様子など微塵も見せず、ただただ己がやるべき事を真っ直ぐに、見詰めている。
(なんや、ワクワクしてはるようにも見えますなぁ)
ガキ大将がそのまま成長したかのような男。そんな形容詞が実によく似合う。
組織のトップが戦場の――それも第一線に立つなど、本当は有り得ない事だ。
だがシンタローは、躊躇無くその身を危険に投じる。部下を……いや、仲間を守る為に。
こうして後続部隊から切り離されてしまい、自分とシンタロー二人だけになってしまったという危機的状況にありながらも、彼は不敵に笑ってみせる。
「ここンとこ、書類と睨めっこしてばっかで退屈してたからな。今日は久々に暴れさせてもらいましょうかねェ~」
ぺろり、と舌なめずりするように唇を舐めるその仕草に、アラシヤマは苦笑いを浮かべた。
「そうどすなぁ、まぁ今の状況ならそう簡単には敵さんも降伏せんどっしゃろ。自分らが有利やと阿呆な勘違いしてはるようどすからな」
とことん無能な奴だ、と敵方の司令官を冷たく嘲って前方を見やる。
目標とする場所は、そう遠くない所にある筈だ。部下達と離れてしまったのは計算外であったが、こうなったらこうなったで、その状況を利用する。
後続部隊に陽動の役目を負ってもらい、その間に自分達が敵の本拠地へ侵入して今回の最大の狙いである重要機密の書かれた文書を奪取すれば良いのだ。
今回の遠征は少数精鋭で構成されており、兵士の数だけで言えば明らかに此方が不利だ。
しかし純粋な「力」という視点で言えば、決して引けは取らない。
それがいまだに分かっておらず慢心しているようでは、自分達の勝利は確定したも同然だろう。
トップが無能だとその下の者達がいっそ哀れだ。
「この分じゃ、楽勝だな。……早々に降伏されちまってもつまんねーけど、終わったゲームをだらだらやんのもウゼェな」
もっと根性出せ、と無体な事を呟くシンタローをアラシヤマはやれやれと呆れ混じりに見た。
「難儀なお人どすなー。そないに退屈してはりましたん?」
「オメーも知ってんだろ、書類整理がどんだけ大変かって事は」
「確かに。戦場出て、敵殺して回る方がよっぽど楽どすな」
戦場で交わすにはあまりに呑気過ぎる口調で、ぼやくように言う。
その内容はブラックジョークにも似ていたが、ジョークでない事は互いに分かっている。
シンタローはじろりとアラシヤマを睨み付けた。
「分かってんだろうけど一応言っとく。殺すのはナシだかんな?」
「へぇへぇ、了解どす。もうわてらは暗殺者やないし、シンタローはんとの約束破りたありまへんから。……殺しまへんし殺されまへん」
一瞬だけ、真剣な眼をして。アラシヤマはシンタローを見つめ返した。
殺さないし、殺されない。
シンタローは戦地に赴く部下達に、この誓いを守れと告げた。厳守せよと告げてから、命じた。
絶対に――死ぬなと。
無理な注文だと自分でも分かっていた。絶対などありえない。
ましてやそこが戦場であるのなら、尚更に。
分かっていても、シンタローは一人一人のガンマ団員達の顔をしっかりと記憶に残すように見つめて、ハッキリと言った。
必ず帰ってこいよ、と。
そうして、ガキ大将のように笑って見せるのだ。
その信頼に満ちた眼差しと笑顔、言葉に、皆もまた応える。
しかしアラシヤマだけは、滅多にそれを貰えない。
シンタローがアラシヤマの方を見てくれる事は、ごくごく稀だ。
それを残念に思い、時には恨めしくも思うが……それだけ信用されているのだろう、と彼は思う事にしている。
それに、わざわざ言葉にするまでもなく、アラシヤマはシンタローが何を望んでいるのか、理解しているつもりだ。
だから彼は笑う。
「殺しまへんし、殺されまへん。必ず一緒に戻る約束どすからな」
「……何で俺がオメーと戻んなきゃなんねーんだよ。一人で埋もれてろ」
向けられた笑顔に居心地が悪そうに眉を寄せ、シンタローは結局、フン、と鼻をならしてアラシヤマから顔を背けた。
そんなシンタローを見て、ますますアラシヤマは笑みを深める。
気色悪い、と殴られたが、それさえも嬉しかった。
肩の力を抜いて拳を緩く握り、会話をやめると二人は唇を結んでスッと眼を閉じる。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ……。
声には出さず心の内で静かにカウントして。
申し合わせたように、二人は同時に地を蹴った。
ががががが、と先刻までいた場所を銃弾が抉っていく。
硝煙の匂いが立ち込めて、「ああ、ここは戦場なんどすなぁ」と今更な事をアラシヤマは思った。
ここに在る事が、嬉しい。ここに今、一人でない事が単純に嬉しい。
「シンタローはん!二時の方向や、あんじょう気張りや!!」
「ケッ、んな事言われるまでもねーんだよ根暗ぁ!オメーこそ手ぇ抜いたらぶっ殺す!!」
打てば響くように返ってくる言葉。
心地好ささえ感じながら戦場を駆ける。駆ける。駆ける。
敵が戦闘不能になるように殺さない程度に痛めつけ、あるいは戦意喪失を狙って圧倒的なまでの力を見せ付け。
硝煙漂う戦場で、大切な人の存在をすぐ傍に感じている。
「終わり、ましたなぁシンタローはん」
「……」
「終わってみれば……まぁまぁ骨のある依頼どしたな。敵方の司令官、意外と根性出してはりましたわ」
「……」
「運動不足、解消できはりました?」
「……うっせーよ。ばか」
漆黒の長い髪を風になびかせて、シンタローはじっと前を見据えている。
戦いの後の興奮状態は、やがて虚脱感へと変わる。
何かを見つめているようで、その実、彼が見つめているものはここには無いのだろう。
アラシヤマはシンタローと背中合わせに座ったまま、自身もまた前を見つめた。
密着した背中から伝わる体温は、火傷しそうな程に熱く感じた。
それが自分のものなのか、彼のものなのか、それすらも分からない程に温度は溶け合い、解け、またゆっくりと溶けていく。
さやさやと吹く風になびくシンタローの髪を、アラシヤマはそっと捉えた。
髪に指を絡ませて、唇を寄せる。
いつもなら即座に眼魔砲が飛んできそうなものだが、それすらも億劫な程に疲労困憊しているのか、はたまたよっぽど物思いに沈んでいるのか、彼は振り返りもしない。
アラシヤマは艶やかな髪に口付けて、また解放した。
さらりと流れる髪を、素直に綺麗だと思い、何だか可笑しくなった。
戦場で背中合わせに上司と座り込み、上司の髪にキスをして、綺麗だなぁと見惚れているなんて。
はたから見れば、きっと狂気の沙汰だろう。
「シンタローはん」
「……ンだよ」
「わてら、生き残りましたなぁ」
「当たり前だろ」
馬鹿じゃねーの、とでも続きそうな素っ気無い口調で返され、アラシヤマは小さく喉の奥で笑った。
それが振動となって伝わったのか、笑ってんじゃねーよ、という不機嫌そうな声と共に、背中にかかる重さが増した。
ぐいぐいと嫌がらせのように体重をかけられ、アラシヤマは苦しそうに、それでも笑う。
「重いどす、シンタローはん」
「そのまま潰れちまえ、人畜有害な根暗ストーカー」
「フ…フフフ……せやけど、これもシンタローはんの愛の重さや思えばむしろ幸せどすなぁ~」
「ゲッ、キモイ上にウゼェ!」
本気で嫌そうな声を上げシンタローは顔をしかめるが、身体を離そうとはしなかった。
「……珍しおすなぁ。そないに疲れはりましたのん?」
「疲れた……つーか、ねみぃ。最近ほとんど寝てなかったからな……」
その言葉に嘘は無いだろう。総帥になってからというもの、まさに寝食を忘れて彼はガンマ団をまとめあげる為に進み続けてきた。
その人知れぬ努力を思うと、アラシヤマは胸にこみ上げる感情をどうすればいいのか分からなくなる。
同情ではない。憧れとも少し違う。
もっと暖かく、もっと近しく、もっと御し難いものだった。
「少しなら、寝てても構いまへんえ。任務は完了しましたし、迎えのヘリが来るまでにはまだ時間がかかりますやろ」
「……んー……そっかぁ?」
「へぇ。心配せぇへんでも、わてがおりますわ。万が一、敵の残党がおったとしても何の問題もありまへんわ」
「まぁそうだろうけど……俺はむしろお前を警戒している」
眠そうな声でありながらも、ハッキリと冷たさを感じられる声でそう言われ、アラシヤマは思わず涙した。
「ひっ、酷いどす~シンタローはん!せいぜい寝顔を写真に撮るくらいどすえ?!」
「堂々と言われるとつい錯覚しそうになるが、それは盗撮ってもんだよな?このどすえヤロー」
あ~眠い!と後ろで目を擦る気配がし。
「んじゃ、俺寝るわ。何か妙な事しやがったらぶっ殺すからな」
「了解どす。……ゆっくりお眠りやす、シンタローはん」
ああ……、と短く答えて。シンタローはそのまま、眠りに落ちていった。
「…………」
規則正しい呼吸音。背中にかかる重みに、何故か深い安らぎを覚える。
アラシヤマはシンタローの手をそっと握ってみた。
暖かい手は、無意識にだろうがぎゅっと握り返してくる。
我知らず、口元にやわらかな微笑が浮かんだ。
背中合わせに手を繋いで、貴方を感じている。
それでいい、と思った。
シンタローが前を向いている時は、自分が後ろを向こう。
シンタローが後ろを向く時は、自分が前を向こう。
彼の為なら何でもできる自分を、アラシヤマは知っていた。
何の見返りもいらない。もちろん、くれると言うのなら迷わず貰うが。
本当に欲しいものはきっと、もうとうの昔に貰っている。
願わくは。
アラシヤマは空を仰ぎながら思った。
願わくは。
この体温を感じられるところで、最期の時を迎えたい。
口に出せば縁起でもない、とシンタローに怒られそうだが(それ以前に気色悪い!と眼魔砲でも撃たれそうだが)、それはきっとこの上ない幸せだろうと思って、アラシヤマは笑った。
END
PAPUWA~ハピネス~
ひとぉぉつ…
ふたぁぁつ……
みぃぃっつ………
声には出さず、心の内だけでゆっくりとカウントする。
数を重ねる毎に、ごうごうと荒れていた心は凪いだ海のように静かになっていった。
戦いの場で高揚していた自分を抑え付け、冷静になれと指令を下す。
「シンタローはん。準備はようおますか?」
「誰に聞いてんだタァコ。いつでも行けるに決まってんだろ」
顔は前に向けたまま確認の意味を持って訊ねれば、返事は迷い無く返ってくる。
ちらりと視線を横に向けると、彼は口を真一文字に結んで前を見据えていた。
真剣な表情だ。だがそこには、無駄な気負いは一切存在しない。
怯む様子など微塵も見せず、ただただ己がやるべき事を真っ直ぐに、見詰めている。
(なんや、ワクワクしてはるようにも見えますなぁ)
ガキ大将がそのまま成長したかのような男。そんな形容詞が実によく似合う。
組織のトップが戦場の――それも第一線に立つなど、本当は有り得ない事だ。
だがシンタローは、躊躇無くその身を危険に投じる。部下を……いや、仲間を守る為に。
こうして後続部隊から切り離されてしまい、自分とシンタロー二人だけになってしまったという危機的状況にありながらも、彼は不敵に笑ってみせる。
「ここンとこ、書類と睨めっこしてばっかで退屈してたからな。今日は久々に暴れさせてもらいましょうかねェ~」
ぺろり、と舌なめずりするように唇を舐めるその仕草に、アラシヤマは苦笑いを浮かべた。
「そうどすなぁ、まぁ今の状況ならそう簡単には敵さんも降伏せんどっしゃろ。自分らが有利やと阿呆な勘違いしてはるようどすからな」
とことん無能な奴だ、と敵方の司令官を冷たく嘲って前方を見やる。
目標とする場所は、そう遠くない所にある筈だ。部下達と離れてしまったのは計算外であったが、こうなったらこうなったで、その状況を利用する。
後続部隊に陽動の役目を負ってもらい、その間に自分達が敵の本拠地へ侵入して今回の最大の狙いである重要機密の書かれた文書を奪取すれば良いのだ。
今回の遠征は少数精鋭で構成されており、兵士の数だけで言えば明らかに此方が不利だ。
しかし純粋な「力」という視点で言えば、決して引けは取らない。
それがいまだに分かっておらず慢心しているようでは、自分達の勝利は確定したも同然だろう。
トップが無能だとその下の者達がいっそ哀れだ。
「この分じゃ、楽勝だな。……早々に降伏されちまってもつまんねーけど、終わったゲームをだらだらやんのもウゼェな」
もっと根性出せ、と無体な事を呟くシンタローをアラシヤマはやれやれと呆れ混じりに見た。
「難儀なお人どすなー。そないに退屈してはりましたん?」
「オメーも知ってんだろ、書類整理がどんだけ大変かって事は」
「確かに。戦場出て、敵殺して回る方がよっぽど楽どすな」
戦場で交わすにはあまりに呑気過ぎる口調で、ぼやくように言う。
その内容はブラックジョークにも似ていたが、ジョークでない事は互いに分かっている。
シンタローはじろりとアラシヤマを睨み付けた。
「分かってんだろうけど一応言っとく。殺すのはナシだかんな?」
「へぇへぇ、了解どす。もうわてらは暗殺者やないし、シンタローはんとの約束破りたありまへんから。……殺しまへんし殺されまへん」
一瞬だけ、真剣な眼をして。アラシヤマはシンタローを見つめ返した。
殺さないし、殺されない。
シンタローは戦地に赴く部下達に、この誓いを守れと告げた。厳守せよと告げてから、命じた。
絶対に――死ぬなと。
無理な注文だと自分でも分かっていた。絶対などありえない。
ましてやそこが戦場であるのなら、尚更に。
分かっていても、シンタローは一人一人のガンマ団員達の顔をしっかりと記憶に残すように見つめて、ハッキリと言った。
必ず帰ってこいよ、と。
そうして、ガキ大将のように笑って見せるのだ。
その信頼に満ちた眼差しと笑顔、言葉に、皆もまた応える。
しかしアラシヤマだけは、滅多にそれを貰えない。
シンタローがアラシヤマの方を見てくれる事は、ごくごく稀だ。
それを残念に思い、時には恨めしくも思うが……それだけ信用されているのだろう、と彼は思う事にしている。
それに、わざわざ言葉にするまでもなく、アラシヤマはシンタローが何を望んでいるのか、理解しているつもりだ。
だから彼は笑う。
「殺しまへんし、殺されまへん。必ず一緒に戻る約束どすからな」
「……何で俺がオメーと戻んなきゃなんねーんだよ。一人で埋もれてろ」
向けられた笑顔に居心地が悪そうに眉を寄せ、シンタローは結局、フン、と鼻をならしてアラシヤマから顔を背けた。
そんなシンタローを見て、ますますアラシヤマは笑みを深める。
気色悪い、と殴られたが、それさえも嬉しかった。
肩の力を抜いて拳を緩く握り、会話をやめると二人は唇を結んでスッと眼を閉じる。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ……。
声には出さず心の内で静かにカウントして。
申し合わせたように、二人は同時に地を蹴った。
ががががが、と先刻までいた場所を銃弾が抉っていく。
硝煙の匂いが立ち込めて、「ああ、ここは戦場なんどすなぁ」と今更な事をアラシヤマは思った。
ここに在る事が、嬉しい。ここに今、一人でない事が単純に嬉しい。
「シンタローはん!二時の方向や、あんじょう気張りや!!」
「ケッ、んな事言われるまでもねーんだよ根暗ぁ!オメーこそ手ぇ抜いたらぶっ殺す!!」
打てば響くように返ってくる言葉。
心地好ささえ感じながら戦場を駆ける。駆ける。駆ける。
敵が戦闘不能になるように殺さない程度に痛めつけ、あるいは戦意喪失を狙って圧倒的なまでの力を見せ付け。
硝煙漂う戦場で、大切な人の存在をすぐ傍に感じている。
「終わり、ましたなぁシンタローはん」
「……」
「終わってみれば……まぁまぁ骨のある依頼どしたな。敵方の司令官、意外と根性出してはりましたわ」
「……」
「運動不足、解消できはりました?」
「……うっせーよ。ばか」
漆黒の長い髪を風になびかせて、シンタローはじっと前を見据えている。
戦いの後の興奮状態は、やがて虚脱感へと変わる。
何かを見つめているようで、その実、彼が見つめているものはここには無いのだろう。
アラシヤマはシンタローと背中合わせに座ったまま、自身もまた前を見つめた。
密着した背中から伝わる体温は、火傷しそうな程に熱く感じた。
それが自分のものなのか、彼のものなのか、それすらも分からない程に温度は溶け合い、解け、またゆっくりと溶けていく。
さやさやと吹く風になびくシンタローの髪を、アラシヤマはそっと捉えた。
髪に指を絡ませて、唇を寄せる。
いつもなら即座に眼魔砲が飛んできそうなものだが、それすらも億劫な程に疲労困憊しているのか、はたまたよっぽど物思いに沈んでいるのか、彼は振り返りもしない。
アラシヤマは艶やかな髪に口付けて、また解放した。
さらりと流れる髪を、素直に綺麗だと思い、何だか可笑しくなった。
戦場で背中合わせに上司と座り込み、上司の髪にキスをして、綺麗だなぁと見惚れているなんて。
はたから見れば、きっと狂気の沙汰だろう。
「シンタローはん」
「……ンだよ」
「わてら、生き残りましたなぁ」
「当たり前だろ」
馬鹿じゃねーの、とでも続きそうな素っ気無い口調で返され、アラシヤマは小さく喉の奥で笑った。
それが振動となって伝わったのか、笑ってんじゃねーよ、という不機嫌そうな声と共に、背中にかかる重さが増した。
ぐいぐいと嫌がらせのように体重をかけられ、アラシヤマは苦しそうに、それでも笑う。
「重いどす、シンタローはん」
「そのまま潰れちまえ、人畜有害な根暗ストーカー」
「フ…フフフ……せやけど、これもシンタローはんの愛の重さや思えばむしろ幸せどすなぁ~」
「ゲッ、キモイ上にウゼェ!」
本気で嫌そうな声を上げシンタローは顔をしかめるが、身体を離そうとはしなかった。
「……珍しおすなぁ。そないに疲れはりましたのん?」
「疲れた……つーか、ねみぃ。最近ほとんど寝てなかったからな……」
その言葉に嘘は無いだろう。総帥になってからというもの、まさに寝食を忘れて彼はガンマ団をまとめあげる為に進み続けてきた。
その人知れぬ努力を思うと、アラシヤマは胸にこみ上げる感情をどうすればいいのか分からなくなる。
同情ではない。憧れとも少し違う。
もっと暖かく、もっと近しく、もっと御し難いものだった。
「少しなら、寝てても構いまへんえ。任務は完了しましたし、迎えのヘリが来るまでにはまだ時間がかかりますやろ」
「……んー……そっかぁ?」
「へぇ。心配せぇへんでも、わてがおりますわ。万が一、敵の残党がおったとしても何の問題もありまへんわ」
「まぁそうだろうけど……俺はむしろお前を警戒している」
眠そうな声でありながらも、ハッキリと冷たさを感じられる声でそう言われ、アラシヤマは思わず涙した。
「ひっ、酷いどす~シンタローはん!せいぜい寝顔を写真に撮るくらいどすえ?!」
「堂々と言われるとつい錯覚しそうになるが、それは盗撮ってもんだよな?このどすえヤロー」
あ~眠い!と後ろで目を擦る気配がし。
「んじゃ、俺寝るわ。何か妙な事しやがったらぶっ殺すからな」
「了解どす。……ゆっくりお眠りやす、シンタローはん」
ああ……、と短く答えて。シンタローはそのまま、眠りに落ちていった。
「…………」
規則正しい呼吸音。背中にかかる重みに、何故か深い安らぎを覚える。
アラシヤマはシンタローの手をそっと握ってみた。
暖かい手は、無意識にだろうがぎゅっと握り返してくる。
我知らず、口元にやわらかな微笑が浮かんだ。
背中合わせに手を繋いで、貴方を感じている。
それでいい、と思った。
シンタローが前を向いている時は、自分が後ろを向こう。
シンタローが後ろを向く時は、自分が前を向こう。
彼の為なら何でもできる自分を、アラシヤマは知っていた。
何の見返りもいらない。もちろん、くれると言うのなら迷わず貰うが。
本当に欲しいものはきっと、もうとうの昔に貰っている。
願わくは。
アラシヤマは空を仰ぎながら思った。
願わくは。
この体温を感じられるところで、最期の時を迎えたい。
口に出せば縁起でもない、とシンタローに怒られそうだが(それ以前に気色悪い!と眼魔砲でも撃たれそうだが)、それはきっとこの上ない幸せだろうと思って、アラシヤマは笑った。
END
空がこぼれてきそうだと思った。
あんまりにも沢山溜め込んだ思いが胸の奥に溜まっていて。
息苦しくて辛くて……それでも吐き出せなくて。
嚥下したなら広がる苦味。
空が……落ちてくる。
青い青い瞳の呪縛がこの身を縛る。
そんなもの携えてさえいないこの身を……………
アイ言葉
身体の奥になにかが蟠る。
それはひどく大きくて妙に邪魔で。そのくせ吐き出そうにもこびりついて落ちやしない。
忌々しく息を吐いてもそれは悠々とした顔で腹の奥に眠っている。
汚イ
醜イ
穢レ
憎悪
悲哀
涙
憤リ
憤懣
こびりついて落ちないそれをただ溜め込んだ。
それが一番楽だった。……切り捨てる勇気もない自分を嘲笑う事も出来ない。
この手から奪われたたったひとり同じ血を通わせた弟。泣いていたその小さな指をあたためる事も出来ない。
喉の奥が焼かれるような焦燥がいつまで経っても消える事がない。
………守れない自分を思い知った。
強いと自惚れていた。
父親が自分の願いを全て叶えてくれると驕っていた。
吐き出した。たった一度きりの本音。
殴られたのはこの身だったのに……泣きそうだった父の顔がいまも胸に突き刺さる。
たった一度口にした事実が亀裂を生んだ。
……そしてそれは………………
決別がこの身に降り掛かる結果しか導かない事をどこかで予感していた…………
………ゆっくりと開かれた瞼の先、眩しい陽光が遠慮なく青年を捕らえた。
顔を顰めてそれを遮断するように腕をあげ、改めて瞬きを数度青年は繰り返した。
随分と……懐かしい夢を見た。
あれはいつの頃のコトだったか。……確か弟を連れ去られて一年も経った頃だったか…………
この島に流れ着くほんの数カ月前の頃の自分。
いま思い返せばなんて陳腐で愚かしい幼さを晒した事か。
もっと大人だと思っていた。…………けれど成人すればなんでも思い通りになるのだと祈っていた馬鹿な幼さは拭いきれていなかった。
苦笑を口元にのぼらせて、青年は軽く息を落として伸びをする。身体を支えてくれていた樹の幹が微かに腕にあたった。
そうしたならなにかが落ちる気配。
………この時期には何の実もつけないはずだと怪訝そうに眉を顰めて音のした地面を見つめれば……転がっていた箱。
「……なんだ…これ…………?」
無愛想な深緑のラッピングを施された箱。簡素にまとめられた木箱。
落ち着いた感じのする趣のある和風の包み。大雑把にココナッツの葉でまかれただけの木の実。
御丁寧に花まで散らされていたのか、よくよく見てみれば青年の眠っていた辺りは季節外れの花園に変わっている。
呆気にとられていた青年が改めて不振そうな目つきで散らばっている花の中に埋もれるような箱を摘まみ上げた。
振動を与えないように注意しながら耳元に近づけ、箱の中に危険物はないか確かめてみる。
とりあえずその中から機械音もないし、比較的軽く危険な匂いも感じなかった。
怪訝な顔を零したまま一体なんなのかと悩んでいると、背後の茂みが僅かな音をたてた。
条件反射で青年はそちらに顔を向けて無意識に急所を庇い背後をとられぬように幹に背中を押し付けた。
緊張した気配の中、ぬっと現れたその影に青年は一気に脱力したのだけれど…………
「ハロー、シンタローさんv 素敵なベッドね♪」
「…………………イトウ…………」
呆れたような声でその名を呼び、がっくりと木に寄り掛かった青年は大きく息をついて足下の花を踏まないように注意しながら再び座り込んだ。
どこか含む笑みを零したイトウの顔を不愉快そうに青年が睨み付けると慌てたように自分の口元を押さえる。
………それでも一本の腕は変わらず背後に回されたままである事を不思議に思いながら青年はそっぽを向いたままの姿勢で言葉を続けた。
「なんか用かよ。俺は昼飯作りに戻るぞ?」
どこか苛立たしげに……それでもちゃんと相手のコトを気遣った声が零されてイトウの目がやわらかく綻ぶ。 嬉しそうなその顔を視界の端に収め、どこか居心地悪そうに青年は立ち上がった。
それに従うようにイトウは歩を進め、青年の前まで周り込むときょとんとその大きな目を青年の顔に近付けた。
……………突然近付いたその顔にぎょっとした青年がつい条件反射で殴りつけるように遠ざけてしまう。
「いった~い…… ひどいわ、シンタローさん。まだなにもしていないじゃない………」
シクシクと泣いたイトウにバツの悪い顔を一瞬零しながらもツンと顔を逸らして青年はどこか憮然とした声で答える。
「………………いきなり近付くからだ。で、なんの用だよ」
落ちていた箱や花には目もくれず、青年は歩き始めようとする。きちんと殴り飛ばしてしまったイトウの間近まで寄りながら。
その心配りに痛んだ顔をさすりながらもイトウはにっこりと笑う。
………こんな彼だから、いくら手酷い扱いを受けたとしても諦めきれないのだ。
そんな気配に気づいたらしい青年が子供のような顔をして唇を尖らせている。慣れてくれた雰囲気に綻ぶ顔をそのままに、イトウはすっと隠していた腕を背後から表した。
その触手という名の腕の中、鎮座しているのは………かわいらしくラッピングされた花の飾りのついた箱だった。
それが示す意味が判らなくて、青年は眉を顰めてそれを眺める。
………手を出そうともしないでただ眺めるだけの青年に苦笑を落とし、イトウは改めて声をかけた。
「お誕生日おめでとう、シンタローさん。タンノくんの家でパーティーの用意もできてるわ」
だから迎えにきたのだといったなら……晒される驚くほど無防備な顔。
泣き出しそうな、それを耐えるような……………不器用な幼い顔がほんの一瞬覗いた。
……………そして驚いたような惚けた声が響く。
「………たん……じょう…………? 今日だった………のか…………?」
戸惑った声にイトウが困ったような顔で笑った。
ずっとずっとなにかに追われていて、余裕のない青年。人のコトは思い出せるくせに…自分のコトは忘れてしまう不器用な……………
もっとも、だからこそ秘密裏に用意していてもまったく気づかれる事もなかったのだけれど…………
笑い飛ばしたくなるほどかわいらしい。
それはこの島で綻ぶ事を覚えた青年の本質。
……だからこそ、こうして祝福される価値があるのだけれど………………
声もなく戸惑ったままの青年の一歩前に進みながら、イトウはちらりと茂みの奥を見遣る。………僅かに畏縮した気配に小さく笑いながら悪戯っぽく青年に囁いた。
「ほら、その箱もお花も……お祝いのプレゼントでしょ?」
顧みる事も忘れて寂しそうにたたずむ小さなプレゼント。探すのに苦労したのだろう芳香のあまりきつくない質素で静かな花たち。
隠れたままずっと青年が起きるのを待っていたのだろうか…………?
男というものは不器用な生き物だと笑い、イトウはそれを示すように青年に目線で示唆を与える。勘のいい青年がそれに気づかないわけもなく………唇穏やかに綻ぶ。
こぼれ落としそうだった誰かからの好意。
それを抱き締めるように足元の箱たちを抱き締めて、イトウの示した茂みの方に声をかけた。
「………サンキュー、お前ら。一緒に飯…食うか?」
穏やかな声は心地よくて。
………この島に訪れるまで亡くしていたそのあたたかさが、心地よくて………………
茂みに隠れていた男たちも顔を綻ばせて駆け寄ってくる。
痺れてしまった足取りはどこかたどたどしい。それを笑いながら青年は久し振りに心から笑みを落とした。
空の先、零れ落ちてくる青。
この身を蝕む色にいつ喰い尽くされるのか怯えていた事があった。
それでも思う。
………くだらないと、笑い飛ばせる。
この島がその勇気を教えてくれた。
その勇気を、思い出させてくれた。
見失いかけた仲間を鮮やかに浮き上がらせて………………
あんまりにも沢山溜め込んだ思いが胸の奥に溜まっていて。
息苦しくて辛くて……それでも吐き出せなくて。
嚥下したなら広がる苦味。
空が……落ちてくる。
青い青い瞳の呪縛がこの身を縛る。
そんなもの携えてさえいないこの身を……………
アイ言葉
身体の奥になにかが蟠る。
それはひどく大きくて妙に邪魔で。そのくせ吐き出そうにもこびりついて落ちやしない。
忌々しく息を吐いてもそれは悠々とした顔で腹の奥に眠っている。
汚イ
醜イ
穢レ
憎悪
悲哀
涙
憤リ
憤懣
こびりついて落ちないそれをただ溜め込んだ。
それが一番楽だった。……切り捨てる勇気もない自分を嘲笑う事も出来ない。
この手から奪われたたったひとり同じ血を通わせた弟。泣いていたその小さな指をあたためる事も出来ない。
喉の奥が焼かれるような焦燥がいつまで経っても消える事がない。
………守れない自分を思い知った。
強いと自惚れていた。
父親が自分の願いを全て叶えてくれると驕っていた。
吐き出した。たった一度きりの本音。
殴られたのはこの身だったのに……泣きそうだった父の顔がいまも胸に突き刺さる。
たった一度口にした事実が亀裂を生んだ。
……そしてそれは………………
決別がこの身に降り掛かる結果しか導かない事をどこかで予感していた…………
………ゆっくりと開かれた瞼の先、眩しい陽光が遠慮なく青年を捕らえた。
顔を顰めてそれを遮断するように腕をあげ、改めて瞬きを数度青年は繰り返した。
随分と……懐かしい夢を見た。
あれはいつの頃のコトだったか。……確か弟を連れ去られて一年も経った頃だったか…………
この島に流れ着くほんの数カ月前の頃の自分。
いま思い返せばなんて陳腐で愚かしい幼さを晒した事か。
もっと大人だと思っていた。…………けれど成人すればなんでも思い通りになるのだと祈っていた馬鹿な幼さは拭いきれていなかった。
苦笑を口元にのぼらせて、青年は軽く息を落として伸びをする。身体を支えてくれていた樹の幹が微かに腕にあたった。
そうしたならなにかが落ちる気配。
………この時期には何の実もつけないはずだと怪訝そうに眉を顰めて音のした地面を見つめれば……転がっていた箱。
「……なんだ…これ…………?」
無愛想な深緑のラッピングを施された箱。簡素にまとめられた木箱。
落ち着いた感じのする趣のある和風の包み。大雑把にココナッツの葉でまかれただけの木の実。
御丁寧に花まで散らされていたのか、よくよく見てみれば青年の眠っていた辺りは季節外れの花園に変わっている。
呆気にとられていた青年が改めて不振そうな目つきで散らばっている花の中に埋もれるような箱を摘まみ上げた。
振動を与えないように注意しながら耳元に近づけ、箱の中に危険物はないか確かめてみる。
とりあえずその中から機械音もないし、比較的軽く危険な匂いも感じなかった。
怪訝な顔を零したまま一体なんなのかと悩んでいると、背後の茂みが僅かな音をたてた。
条件反射で青年はそちらに顔を向けて無意識に急所を庇い背後をとられぬように幹に背中を押し付けた。
緊張した気配の中、ぬっと現れたその影に青年は一気に脱力したのだけれど…………
「ハロー、シンタローさんv 素敵なベッドね♪」
「…………………イトウ…………」
呆れたような声でその名を呼び、がっくりと木に寄り掛かった青年は大きく息をついて足下の花を踏まないように注意しながら再び座り込んだ。
どこか含む笑みを零したイトウの顔を不愉快そうに青年が睨み付けると慌てたように自分の口元を押さえる。
………それでも一本の腕は変わらず背後に回されたままである事を不思議に思いながら青年はそっぽを向いたままの姿勢で言葉を続けた。
「なんか用かよ。俺は昼飯作りに戻るぞ?」
どこか苛立たしげに……それでもちゃんと相手のコトを気遣った声が零されてイトウの目がやわらかく綻ぶ。 嬉しそうなその顔を視界の端に収め、どこか居心地悪そうに青年は立ち上がった。
それに従うようにイトウは歩を進め、青年の前まで周り込むときょとんとその大きな目を青年の顔に近付けた。
……………突然近付いたその顔にぎょっとした青年がつい条件反射で殴りつけるように遠ざけてしまう。
「いった~い…… ひどいわ、シンタローさん。まだなにもしていないじゃない………」
シクシクと泣いたイトウにバツの悪い顔を一瞬零しながらもツンと顔を逸らして青年はどこか憮然とした声で答える。
「………………いきなり近付くからだ。で、なんの用だよ」
落ちていた箱や花には目もくれず、青年は歩き始めようとする。きちんと殴り飛ばしてしまったイトウの間近まで寄りながら。
その心配りに痛んだ顔をさすりながらもイトウはにっこりと笑う。
………こんな彼だから、いくら手酷い扱いを受けたとしても諦めきれないのだ。
そんな気配に気づいたらしい青年が子供のような顔をして唇を尖らせている。慣れてくれた雰囲気に綻ぶ顔をそのままに、イトウはすっと隠していた腕を背後から表した。
その触手という名の腕の中、鎮座しているのは………かわいらしくラッピングされた花の飾りのついた箱だった。
それが示す意味が判らなくて、青年は眉を顰めてそれを眺める。
………手を出そうともしないでただ眺めるだけの青年に苦笑を落とし、イトウは改めて声をかけた。
「お誕生日おめでとう、シンタローさん。タンノくんの家でパーティーの用意もできてるわ」
だから迎えにきたのだといったなら……晒される驚くほど無防備な顔。
泣き出しそうな、それを耐えるような……………不器用な幼い顔がほんの一瞬覗いた。
……………そして驚いたような惚けた声が響く。
「………たん……じょう…………? 今日だった………のか…………?」
戸惑った声にイトウが困ったような顔で笑った。
ずっとずっとなにかに追われていて、余裕のない青年。人のコトは思い出せるくせに…自分のコトは忘れてしまう不器用な……………
もっとも、だからこそ秘密裏に用意していてもまったく気づかれる事もなかったのだけれど…………
笑い飛ばしたくなるほどかわいらしい。
それはこの島で綻ぶ事を覚えた青年の本質。
……だからこそ、こうして祝福される価値があるのだけれど………………
声もなく戸惑ったままの青年の一歩前に進みながら、イトウはちらりと茂みの奥を見遣る。………僅かに畏縮した気配に小さく笑いながら悪戯っぽく青年に囁いた。
「ほら、その箱もお花も……お祝いのプレゼントでしょ?」
顧みる事も忘れて寂しそうにたたずむ小さなプレゼント。探すのに苦労したのだろう芳香のあまりきつくない質素で静かな花たち。
隠れたままずっと青年が起きるのを待っていたのだろうか…………?
男というものは不器用な生き物だと笑い、イトウはそれを示すように青年に目線で示唆を与える。勘のいい青年がそれに気づかないわけもなく………唇穏やかに綻ぶ。
こぼれ落としそうだった誰かからの好意。
それを抱き締めるように足元の箱たちを抱き締めて、イトウの示した茂みの方に声をかけた。
「………サンキュー、お前ら。一緒に飯…食うか?」
穏やかな声は心地よくて。
………この島に訪れるまで亡くしていたそのあたたかさが、心地よくて………………
茂みに隠れていた男たちも顔を綻ばせて駆け寄ってくる。
痺れてしまった足取りはどこかたどたどしい。それを笑いながら青年は久し振りに心から笑みを落とした。
空の先、零れ落ちてくる青。
この身を蝕む色にいつ喰い尽くされるのか怯えていた事があった。
それでも思う。
………くだらないと、笑い飛ばせる。
この島がその勇気を教えてくれた。
その勇気を、思い出させてくれた。
見失いかけた仲間を鮮やかに浮き上がらせて………………
それはあまりに雄大で。
あまりにも輝いていて。
同じほどの腕を備えた身でも。
煌めく色素を携えていても。
決して手は届かないのだと思い知らせるのです。
…………伸ばす腕を、知って下さい。
忘れ果てた回帰
いつものように台所に立つすらりとした背の男。刻まれる包丁の音はリズムを取っているようで乱れがなかった。
それを横目でちらりと見つめ、こっそりと動く影。
先ほど男が何かを作っていたよう気に手を伸ばし、中にあるものをひとつまみ取り出した。
しおしおとした少し濃い桃色に小首を傾げ、口にぽいと入れるのと男の声が響いたのは同時だった。
「あ、こらチャッピー、食べるな!」
「きゃうんっ」
いつもの叱られたのとは違うチャッピーの鳴き声にびっくりしたようにパプワが声をかけた。
「どうした、チャッピー」
「きゃうん、きゃうん」
「あーあ………だからダメって言っておいただろ?」
先ほど作り終えた容器の蓋をもう一度閉め、清潔な布巾を水で絞ってシンタローがチャッピーの前にしゃがみ込んだ。涙目で見上げる犬はどうにかして欲しいと目だけで訴えている。
「ほら、舌出して。まだ飲み込んでねーな?」
出された舌の上でどうする事も出来ずにたたずんでいるものをつまみ上げ、軽く拭ってやる。それだけでもかなり変わるだろう。近くに置いておいたコップに水を満たし、チャッピーに渡してうがいを促した。
ガラゴロとうがいの音が響く中、パプワが不思議そうにシンタローの手の中にある容器を見つめる。
それがなんなのか、自分も知らない。先ほどシンタローが何か作っていて、でもご飯ではないようだったから、デザートなのかもしれない。
デザートのつまみ食いなら自分もしたいけれど、チャッピーの様子からいって違うらしい。
「それは一体なにが入っているんだ?」
「ん? ああ、これは桜の花びらだよ。それを塩漬けしてんの」
楽しそうに答えたシンタローの笑顔につられて笑いかけながら、その物体の用途がしれずに眉をしかめる。
…………そんなものを食べたのだから、さぞチャッピーも驚いただろうと思いながら。
「………………?」
疑問を視線に溶かして投げかけたパプワに気付き、シンタローがしゃがみ込んでその視線を同じくした。さらりを長い髪が頬を滑る様がすぐ間近に見える。こうしてきちんと目を合わせ、言葉をまっすぐ向ける瞬間が、パプワは好きだった。
「コレはお湯に薄めて香りを楽しむものなんだよ。だからこのままじゃ食べれないし、うまくもない。………解ったか、チャッピー」
こっそり後ろで丸まって聞いているチャッピーに苦笑しながら声をかける。伸ばされた腕が優しくその毛皮を撫でているのを見てパプワはぎゅっとチャッピーを抱きしめた。………そうするとその大きな手のひらが自分の頭も撫でてくれる事を知っているから。
柔らかな仕草で晒される慈愛の御手。
心温まる絆の再現。
………決して、それは他者を介入させない。
否、それらは全てが優しく、しかも決して内へ入り収縮する類いではなく、広がり数多のものを包む様相を示しているのだ。そう思う事こそが劣等感なのかもしれないと小さく息を吐く影が、一つ。
自嘲気味な笑みを残し、吐いた息を飲み込むように唇を閉ざすとパッと笑顔を咲かせた。
「シンタローさん、俺、昼飯の材料集めてきますね。パプワ、なにがいい?」
楽しげに弾んだリキッドの声にきょとんと小首を傾げ、パプワがジッとシンタローを見上げる。
どこか幼いその仕草を愛でる瞳は優しい。
「なんでもいいぞ」
「………それが一番困る回答だってーの」
呆れたため息の中、シンタローはきちんとその言葉の含む意味を汲み取っている。だから零す笑みは柔らかく、照れたようにパプワの頭を少し力を込めて撫でた。
微笑みを、零さずにはいられない風景。まるで絵画の中にしかないような美しき絆。決して現実にはあり得ないと思わせるほどの崇高さに、何故か痛む胸を持て余す。
ほんの少し遠いところに立っているだけで、遥か彼方にたたずむような虚無感を感じるのはきっと、浅ましさなのだろうと思いながら……………
てくてくとジャングルの中を歩きながら辺りを見回す背中を見遣る。
彼が前を歩き、自分は後ろ。荷物持ちは強制ではなく志願したのだが、そうでもしないと一緒に材料集めなど同行させてもらえないような気も、する。
思わず吐きそうになる息は重く、そんなものを晒したなら機嫌を悪化させるだろう目の前の人物を思えば落とす事も出来ない。
「お、これこの島にもあるのか。パプワたち好きだから多めに持ってくぞ」
「え? ………あ、これ……でも前に食いませんでしたよ?」
差し出された果物を見て訝しげに首を傾げた。
甘酸っぱくて果肉が少し堅い柑橘系の果物。そのまま出しても食べないだろうと思ってジャムにしたが、あまり好評ではなかった。そう思って疑問を口に出すと逆にシンタローは小首を傾げた。
「そうか? 前ん時は砂糖漬けにしたの保存用に多めに作ったけど、全部たいらげやがったぞ、あの大食らいたちは」
どこか楽しげな声で話す言葉は、軽い。ふと過る過去の姿。………考えてみると、まともに顔をあわせたのは前のパプワ島での戦闘の時だった。
さぞ印象が悪いだろう事は自分への対応の冷たさで十分知れる。確かに一番はじめに彼の仲間に重傷を負わせたのは自分なのだから、なにも言い訳はないけれど。
多分、自分が知っている彼の顔は少ない。なにせ晒されるすべてがパプワたちの為なのだから。
自分の為にむけられた笑みは記憶にない。当然と言えば当然なのだろうけれど。
「本当にシンタローさんはパプワたちの事よく知ってますね」
苦笑を交えて僅かな羨望とともに呟いたのは、無意識。
…………どちらへの羨望かさえ、あやふやだった。
けれど呟いた途端に後悔する。どうせ回答は解っているのだ。自信の溢れ得たあの笑みで、当たり前だと言われるに決まっている。
決して自分が入り込めない世界の、清艶なる絆の存在。伸ばす腕すら携えず、ただ傍観する事以外、為す術もない。
いっそ潔く諦めて、加えて欲しいのだと声を大にして叫べばまだ救いもある。けれどそれすら出来ないのは多分に望みが違うからだと、解っている。
溜め息を飲み込んで、与えられるだろう言葉に傷つかない為の準備をする。そうして見遣った視線の先には、けれど想像とはまるで違うものがたたずんでいた。
振り返った影。揺るぎない雄々しい背中。風に揺れた長い黒髪が頬を撫で、静かに包む。
そのひとつひとつが網膜に焼き付くように静かに流れた。
瞬く瞳。どこか、憂いさえ乗せて。………自分の予想した回答が紡がれる事はないと、はっきりと示された。
姿は変わらず、決して脆弱には見えないのに。………頑強であり揺るぎないと思わせるのに。
それでもこんなにも儚く思わせるものは一体なんだと言うのだろうか…………?
「なにも俺は知らねぇよ」
静かに告げられた音。震えすら帯びず、力みすらない。ただ淡々と事実を語るように穏やかだ。
そのくせ潔く頭(こうべ)すら下げかねない寂しそうな瞳に息が詰まる。………誰よりも何よりも互いを理解していると見えるのに。けれど決して解ってはいないのだと悲しげな音が囁いた。
困惑して、干上がる喉をむち打ち声を上げる。掠れるような叫びに聞こえる見苦しさに舌打ちしたくなりながら。
「だって…………!」
あんなにも解りあえているではないか。望むものを互いに与えあって、それでも解らない事があるのなら、どうやって理解が通うと言うのか。
自分は彼よりも長くパプワの傍にいた。それでも解らない事だらけで、途方に暮れる事の方が多い。
全てに柔軟に対応し、慈しみ抱きしめ必要な時に必要なだけの腕と言葉と、信頼を捧げる。
そんな理想的な事、他では決して見られない。……見られるわけがない。
もどかしく言葉に出来ないそれらを喉奥に蟠らせて唸るように唇を噛む。どれほど、それこそ血反吐を吐く思いで訴えても、決して受理されないと肌で感じた。
ゆっくりと瞼を落とし、それらの感情すべてを見極め受け流した瞳は常と変わらぬ威厳を甦らせて前方を見遣った。
………静かに細く吐き出された吐息を受け止めたのは、ただ前方に広がる柔らかな緑たちだけだったけれど…………
空には星が煌めいている。シンタローはそれを見上げた。もう眠っているだろうパプワたちの寝息すら聞こえてきそうな静寂はそう体験出来るものではなかった。
見上げた空の様相の見事さに感嘆を覚え、同時にその不可解さに面白みが込み上げる。海底の奥底に沈んだ島にありながらここには太陽があり星がある。前に島と変わらない静けさと美しさ。
息を吸うごとに浄められるような不可思議な感覚。身の裡の奥底で凝り固まったものを柔らかく溶かしてくれる。
ゆっくりと落とした瞼の底、過去に映されたのはかつての島だった。
けれど今は、ガンマ団の面々も浮かぶ。かつては切り捨て自由になる事ばかり考えていたのに、今はあの場もまた、自分の帰る場所と変わった。
「……………………」
息を落とし、微睡むように頤を下げた。呼気は静まり眠りを誘うように風が作り上げた木々の歌声が身を包んだ。
けれど眠りは訪れない。不意に感じ取った気配にそれらは妨げられた。
殺された足音。滲ませる事のないように気づかわれた気配。木々の密集した場では見事という他ないほどその気配は無音を身にまとって近付いて来た。その静寂さが逆に奇妙に虚空に残されてはいたけれど。
小さく息を吐き、眼前の人を見遣る。起き上がってどこかに消えたから散歩程度かと思えばなかなか帰ってこなかった。………このままではパプワたちも起きてしまうのではないかと危惧して探してみればこんな間近な場所で眠りこけている。………本当に、よくわからない人だ。
誰よりも何よりもかつての島を愛し、そこに住う命をかけがえのないものと尊んでいるくせに。
誰よりも何よりも漂流した命を思い、手放せないと思い寄せているくせに。
この二人はそれでも決して同じ道を進もうとはしない。離別を、いっそ潔いまでに受け入れ、そうして進む強さ。
見ていてどれほど歯がゆいものかなんて、当の本人たちは知りもしないのだろうけれど。
それほど人は強くはないのだ。自分を理解してくれるものを、手放す事などできない。……それなのにただ相手が喜ぶからと、別離すら受け入れ笑う根拠が、リキッドには理解できない。
「……もし………」
小さく息を飲み呟いた、声。
聞き届けられる事のない事を願い晒された音は、けれど続きはしなかった。言いたくなかったと自身で解っていた。
彼が自分の代わりにこの島に残ったならどれほどの幸があっただろうか。彼は強く、自分に出来ない事だって何でも出来る。正直、ここまで完璧な人間を自分は知らない。苦手とする分野すらない彼が信じられない。
それでも、あるいはだからこそ、か。彼はこの島を探すのではなく舞い戻り組織を改革した。
………自分の生きる意味を知っている事は、幸福なのだろうか?
そう問いかけたくなる。
ただ我が儘に己の為にだけ生きればいいと、自分は思うのに。二人はそれでは笑えないのだと、笑う。
夜気が忍び寄り、風が少し強く肌をなぶった。南国の島のようであり、けれど海底に沈んだこの島は時折吹く風がひどく冷たい。
それに思考を舞い戻らされたリキッドは膝を折りシンタローの前にしゃがんだ。やはり起こして帰った方がいいだろうかと一瞬悩み、腕を伸ばす。
風が、吹きかける。漆黒の髪を揺らし、青い月影に晒された肌を影に染める。
眩く輝く己の髪とは対極にあるそれを眺める。思いのほか長い睫毛が色濃く影を落とし、風に揺れる様すら見て取れる距離。………決して、自分には許されないだろうと諦めていたのに。
伸ばす腕が触れる事が出来る。ほんの少し近付けば重なる肌。
呼気すら埋(うず)めて、無意識に風に押されるように身体が揺れる。
…………あと、ほんのすこし。
落とされた瞼の先には鮮やかな彼の姿。自分ではない誰かが傍に居て初めて晒される彼の本質。
痛みを飲み込むように寄せられた眉。悔恨すら覚悟して近付けられた唇は、緩やかな呼気に触れて弾かれるように身を離した。
触れる事すら、罪な気が、した。
口吻けるだけでなく、その身にまとう空気すら穢す事が出来ない。
彼の事も、彼の思う子供の事も理解できない自分に、触れるような資格すら、ない。
噛み締めた唇で苦みを飲み下し、ゆっくりとリキッドは立ち上がる。
せめて夜風に凍えないように毛布くらい持ってこようと歩む背は、それ故に気付かない。
ゆっくりと開かれ微睡む仕草のままに見遣った視線に。
「………度胸ねぇな……」
噛み締めるような声音に己で小さく笑う。
触れて来たならどうするかすら考えていない身で、その言もないだろうと再び瞼を落とした。
もう少し、またあの男が来たなら目を覚まし帰ろう。
きっと子供が自分がいないと不機嫌に顔を顰めて布団にうずくまっているだろうから……………
それを見たときに、血が沸き立つ気がした。
生まれたばかりの赤子に対して抱く感情ではない。
それは刷り込みと言ってもさ差し触りはなかったのかも、しれない。
ただ純然とした嫌悪が身を包む。
怒りともつかない戦慄きが身体を震わせた。
初めての甥の誕生に感動しているのだと家族は思っていたけれど。
そんな生易しいものなどではない。
人目がなかったなら、くびり殺していたかもしれない。
これが、そんなあたたかさに満ちている訳がない。
………どす黒いまでの、憎悪。
脳裏の華
どかりと座った総帥の椅子。別になんの感慨も湧かないのはその称号を得ていない身で座っているせいか。
一族を巻き込んでの大騒動のあと、結局シンタローはマジックの後を継いだ。もうすでに血など繋がっていない身でそれでもマジックはシンタローに執着する。
いっそ気味の悪いほどのそれを、けれど拒みはしないシンタローの意図も解らない。あるいは、そんなもの自体がないのかもしれないが。
…………一滴の血も、分かってはいない新総帥。
一族を束ねるには足りないはずの秘石の力すら凌駕するなにかを確かに秘めている。それは物理的な力では及ばぬ深淵さ。…………秘石と同じく生まれ持っていなければ培うことなど出来ないカリスマなのか。
解るはずもない結論を欲しがって駄々をこねている子供のような自分の思考にハーレムは唇を歪めた。別になにか確かな答えを求めたつもりなどないと無理矢理納得して椅子から身体を離す。ぎしりと響いた音に、少々無理な体勢を強いていたことはわかったが、今更だ。壊れたところで困るのも弁償するのも自分ではないと素っ気無く視線を逸らせば呆れたような視線。
…………気づかなかった自分に小さく舌打ちした。勿論、相手には解らないように。
すどく射抜く視線を向けてみればつまらなそうな幼い顔。時折思い出したように覗かせる昔と変わらない無防備さ。
このところ見せなかったそれは、やはり新総帥としての激務をこなしていて余裕がなかったからか。あるいは、それを完璧にこなすために行なっていた擬態か。
どちらにしてもくだらない。ガキはガキらしくままごと遊びでもしていればいいものを、なにを自ら望んで重荷を背負おうとするのか。………そして周りもまた、それを何故望むのか。
拒む訳がないとわかっていて言う願いは強制だ。それを自覚もしていない愚かさに辟易とする。
………………もっとも、我が侭さ加減であれば誰よりも特出している自分が言ったところでまったく説得力などないのだろうけれど。
「ったく、ここは俺の部屋なんだが?」
どこか親しみを込められた音。多分、血の繋がりがなくなっても関係などないとようやく思えたのだろう。
いつも息苦しそうに生きていた少年時代とは打って変わった姿。重荷を増やされ更に雁字搦めになった癖に、開花されたその性情。
憐れんで、どうなる訳でもない。
それを自分はよく知っている。悲しんだ所で詮無きこと。自身で決めたことを曲げることの出来ない崇高さはある。もっとも、紙一重でただの馬鹿でもあるけれど。
皮肉げに歪めた顔を向け、ハーレムは赤い制服に身を包んだ甥に声をかけた。
「なにいってやがる。お前がいなけりゃ俺の部屋だったぜ」
どこか小馬鹿にしたなんの意味もない戯言。本気になど誰も考えていない言葉は、けれどシンタローの眉をどこか歪める。
それを見つめ、訝しそうにハーレムは目を細めた。………別に、この程度のことはよくいうたわ言だ。いつもだったら馬鹿なこと言っているなとでも言ってあっさりと流してしまう常套句のような言葉のスキンシップ。
それを躱しきれずに思い悩むなど、らしくもない姿。
そうしてふと思う。…………今日という日が、いつであったかを。
あの島にシンタローが流れ着いた日。運命を呪い続けた少年が、運命を感謝した奇蹟の起こった日。
そしてなによりも激しい喪失を、再び背負わざるを得ないことを知ってしまった日。
本当に不器用な家系だ。愛しむものを愛しいと愛すことも出来ない。ましてそれを壊さずに抱き締める術すら持たない破壊を旨とした強大過ぎる血の力。それを自覚するには情の深過ぎる性情。なんて皮肉なことかと幾度嘲ったかも解らない。
多分、一族の中で自分だけが解っている。否、解ろうとしている。自分達の愚かしさと、血の威力。そしてそれに連鎖される記憶と情。
それらが………なにを意味するかを。
誰もが焦がれる。自分達とは違うその姿。
決して光に染まりはしない黒を模している癖に、それでも輝くような存在感。人の上に立つことを約されていながらも拒む姿すら艶やかだ。………誰もが傾斜する。その足下に膝をついてもいいのだと、思わせる。
無条件降伏を可能にする魂は存在する。
それをよく、理解している。それはなによりも絶大な威力を持って自分達の血を揺り動かせる。血の征服が重ければ重いほど、その執着もまた、重い。
あの島で自由を知ったいまのシンタローにとって、その枷はきっと重荷以上の重圧。
息すら出来なくなるほどの。………当たり前を躱せなくなるほどに……………
それならいっそ全てを捨て去ってしまえばいいのに、それでも縋る腕を無視できない。
どこまでもお人好しな性情を悔やむ奴などいない。それこそを願っているのだから。………だからこそ哀れだと思ったことは、あったけれど。
「なんだ……着任したばっかでもう引退か?」
皮肉を込めて囁けばゆっくりと伏せられた瞼。思いのほか長い睫が微かに揺れる。
息を飲み込んだのか、あるいはなにかを自身に確認したのか。揺れた睫はすぐに開かれ、いつもの勝ち気な輝きを宿らせた瞳を覗かせた。
そうして誇らしげに象られた笑みとともに綴られるのは耳に心地よい旋律。
「だ~れがあんたに譲るようなへまをするかってんだよ。あんたに渡したら一日で破産宣告だぜ」
からかうように弾む声。年上に対してと思わない訳がない。
それでもどこかでそれを許している。なんでかなんて、解るはずがない。
ただ知っている。
初めこの身を占めた感情は確かな憎悪だった。自分の弟の片目を奪った憎い影を彷佛させるその色彩に対しての。
そうして抱かれ続けた像は、けれどゆったりと様変わりする。執着のように示された毒舌や冷たい素振り。傷つけることだけを目的としたちゃちな言葉すら、変化する。
示すものは何一つ変わらないのに。ただ視線が求めることに気づいてしまった。
鬱陶しいと思っていた癖に。消えてしまえばいいと願っていた癖に。
それでも視界にいないその影が物足りなくて、つい足を運ぶ。まるで幼子の恋慕のような幼稚な行為。
そうして注がれた視線の分、知ってしまった生きることに不器用な魂の存在。
手を伸ばすことは簡単だった。おそらく陥落させることも。なにも知らない瞳の中に刻むことはあまりに容易くて………それ故に伸ばせない腕に気づく。
わかったから、決めたこともある。
別に慕われたいなんて思わない。今更、そんな関係になったところで意味もない。
慕われるのも頼られるのも好意を寄せられるのも、全部弟に対してで構わない。
………………それでもたったひとつ譲れない意地。
不敵に笑んだシンタローの、それでも隠した腕の指先は微かな怯えに染まっている。
恐れていないことなど何一つない。きっとその威風堂々たる姿さえ、自身に目隠しするための擬態。
たいして差のない位置まで伸びた肩に軽く掌を添え、不可解そうに顰めかけた眉を覗くように寄せた面が、一瞬影に染まる。
端正な、顔。その顔だけを見たなら確かに自分の慕う叔父と同じ。ただ、それでもその瞳に写る影だけは違う。どこかいつも血を流している淋しそうな子供の影。
それが間近まで寄ったなら……唇に触れた微かなぬくもり。
…………………あまりに予想外の行為に対して無防備になっていたことは確かだ。
ただそれでも一体何故と悩むだけで…嫌悪は湧かなかった。
目を瞬かせることもせず、ただ歪めた眉だけで疑問と謝罪を求めてみれば、呆れたように鼻で笑われる。
本当に、気など合わない親戚はいる。それを心の底から肯定したくなる瞬間はいつだってこの叔父が相手だ。決して自分はこの人の考えも行動の意図も推し量れない。
傷つけることに慣れているかと思えばひどく苦しそうに顔を歪める。おちゃらけているかと思えば誰よりも人に気を配っている。アンバランスで不確かで、いまだ安定という言葉から遠ざかった不思議な人。
その人の声が、響く。
「俺をダシに使った使用料だ。ガキの癖になに生意気に抱え込もうとしてんだか」
………ひどく甘くさえ聞こえる、冷たい音。
突き放しているようで包み込もうと必死な仕草。優しい言葉をかけることで狂わせる血の存在を、きっと誰よりもよく知っている人。
ずっとそれに縛られて、逃げ出したいのだと流し続けた涙は雨にも似ていたのに。それを注いでいた金の髪と変わらぬ色を宿した人が、逆の言葉を捧げてくれる。
ハーレムに突っかかることで、立ち直ろうと思っていた。甘やかそうなどとはしない相手だから、厳しくやり合ってくれると思ったから。
そしてぶつかりあっていまこの身の内を廻るやり場すらない不安や葛藤を消してしまいたかった。それは確かに生意気なまでに人を頼らなかった自分の悪い癖。
さっと頬に刺した朱は羞恥か、あるいは見透かされたことへの照れなのか。
解りはしないが、音がする。
………変わり始めたなにかの、始まりの音。
それを流すように……受け入れるように、シンタローはもう一度瞼を落とす。
……………近付いた気配に、ただ睫は震えるだけだったけれど………………