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9.和室   53*28


 


 


 


 


 


日本では“中秋の名月”と呼ばれる、それは見事な月が見られる夜がある。


秋の、濃紺の空に浮かぶ金色のお月様。


黄色いそれはまるでホットケーキのようだと言ったら、父は小さな声で笑い『ではバターを乗せてあげよう』と返してきた。


 


丸い月。


まるいまるい、月。


うさぎが棲んでいるとも聞いた、その星にいつか行ってみたいと思っていたけれど十を越える頃にはそれがお伽話でしかないことを知ってしまい、夢は夢ですらなくなった。


そうしてなくしたものは幾つもあって、それを惜しむ心はあるが思い返すこと自体薄れていく。大人になるというのはそういうことだし、それを拒めば成長もまたないということになる。


 


大人になりたいと思っているうちは本当に幸せで、悩みのない子供の頃に戻りたいと思う頃には手遅れだ。


 


なにが辛いとか、悲しいとか。


重いとか痛いとかやるせないとか。


そんなことばかりが増えて本当のことが見えなくなる。分からなくなる。


ひとりでいると、気付けなくなる。


だから。


 


だから、傍にいる。


一緒にいる。


見えるように、気付くように、分け合えるように。


 


愛せるように。


 


 


愛せるように。


 


 


 


 


月が見たいとマジックが言いだし、そんなヒマはないと言い返す。


愚図って駄々を捏ね、“行こう行こう”と喚いたならいまここにはいなかった。


日本支部の敷地内にある庭園。


枯山水のその庭に、ひっそりとある家屋は純和風。昼であれば日を浴びた瓦屋根が黒く光り、真夏には白い雲が映り込むほどに輝きを放つ。


到着したのは今日の夕方のこと。


どのみち夏も過ぎ、既に秋の気配漂ういまでは日中であってもその光景を見ることも叶わないけれど、それでもここに来ると落ち着くのは決して気のせいなどではない。


様々な思いが交錯する。


ここは、そういう場所だった。


 


誘われても、簡単に頷けるはずがない。


冷たく切り捨てると俯いて、『そう。そうだね』と言った彼の横顔が本当に寂しそうだったから。


罪悪感なんて、そんな大袈裟なものではないけれど。


 


 「なに、シンちゃん。顔が怖くなってるよ」


 「怖くもなるわ」


 「なんで?」


心の底から“分かりません”という顔で見下ろすマジックの顎に手をかけ、ぐいと押しのける。


いい加減回りきった日本酒で、思考も指先も痺れているし拒む力も出し切れない。


嫌いじゃない。


嫌いなはずがない。


この世にただひとり、彼のために生まれた自分を否定することは出来ないし無意味だ。赤とか青とか、そんなことではなく。


生まれた意味と意義と生きていくなにもかもが彼のために用意されたもので、はじめは作られたものだという事実に打ちのめされもしたけれど。


違う。


いまは違う。


確たる根拠はなくとも本能が知っている。


彼も。


自分も。


迷うことも疑うこともないほどの強さで。


思いで。


 


これはもう恋だ。


手遅れの。


 


 


 「俺もあんたも、処置なしだよなぁ」


 「そうだね」


笑いながら寄せられる顔。押し返してやったのに、懲りることなく迫ってくる。唇が頬に触れ、額に触れ瞼に触れ。


彼の膝を割り、胸に背中を預けている。


凭れかかる体は記憶より細くはなっているけれど、それでも貧弱さの欠片もない男のもので。自分と変わらぬ見劣りのない逞しいもので。


なのに落ち着いてしまうのは。


求めてしまうのは彼だから。


マジックだから。


愛するものだから。


笑って、手に持った猪口を差し出すと後ろからお銚子が傾けられる。濃く、甘い日本酒の香りが独特の音とともに広がりシンタローの耳と心を満たした。


さほど酔っている訳ではないが、相手には酔っぱらいだと思わせておいた方がなにかと都合がいい。普通なら酔わせた上でよからぬことを企むのだろうが、マジックに関して言えばまったくの逆だ。


言いなりになられてはつまらないというのが表向きの理由だが、実際は意識の乏しい状態のシンタローを支配するのは紳士的ではないし、なにより愛情が感じられない…という本音があるらしい。


らしい、と言うのははっきり彼の口から聞いた訳ではないからで、以前、中途半端に酔った状態のシンタローに囁きかけた言葉から推察したことなのだ。


彼であればなんでもいいと思っているシンタローにとってみれば、意識があろうがなかろうが、翌朝に暫し文句を並べ立てればそれで気が済んでしまうことなのにそうはしない。


二人で過ごす時間はすべて記憶しておきたい。


それが執着なのか執念なのか、言葉を選べば良くも悪くも解釈出来る。


子供なのか大人なのか、言えることはどちらにしても彼は狡いということなのかも知れないが、その狡さを含んだなにもかもを愛しているから構わない。


構わないのに、そうしない。


マジックの、生真面目というべきかたんに融通が利かない性質を、気付かぬ振りで盗み見ながら溜息を吐く。


とっくに捕まえているのに、手に入らないと嘆く彼に盛大な、特大のそれを、またひとつ。


 


 「あ」


 「…なに」


 「忘れ物」


マジックが喋ると、その振動が背中に伝わりじんわり温かさを感じる。


まだまだ人恋しいというには早いけれど、それでもこんな夜は密やかに身を寄せ合うのが似合う。


口元にも、微かな笑み。


 「あーあ、持って来なきゃと思ってたのに」


 「なにを忘れたって?」


 「バター」


 「あ?なんに使うんだ」


日本料理に使うにはかなりくせのある食材だ。ムニエルやホイル焼きならともかく、いま饗されている膳の上には不似合いなそれを忘れたからと言って悔しがるのもおかしなもの。


マジックは、くすくすと笑ってまた猪口に酒を注ぐ。


寄り掛かったシンタローの手元は不如意で満たすには至らぬはずのそれなのに、面白がるように注ぐから当然零れて手首を伝う。


ああ、そうか。


舌を伸ばし舐め取ると、その軌跡をマジックもまた赤いそれで辿っていく。


いやらしい。


小さな声で言うと、ふふ、と息ばかりの笑いが返る。


こめかみに唇が押し当てられる。


 「バター」


 「うん?」


 「なんに使うんだよ」


 「…シンちゃんのエッチ」


 「あア?」


バター。


 「………ばーか」


 「やーい、シンちゃんのエッチぃ」


 「持ってこようとしたのも、忘れたのもあんただろ」


 「えへへー」


 「誤魔化すな。なんに使うんだ?」


 「ホットケーキだよ」


 「は?」


 「ホットケーキ」


言って、指先が伸ばされる。


濃紺の空の黄色い月。


丸い月。


さやさやと吹く風に土の匂い。


 「…しょうがねえな」


 「しょうがないねぇ」


 「こら、自分が言われてるんだろ」


 「そうなの?」


こめかみから、額に移る。


 「しょうがねぇから、明日、買い物に行くか」


 「行こうか」


額から耳朶。


 「うし。じゃ、バターと小麦粉と卵と…」


 「お砂糖と、メイプルシロップもいるね」


耳朶から、頬。


 「牛乳もいるよな」


 「いるね」


頬から。


 


 


 


 


月。


空の月。


視界から消えたそれが再び現れたときそれは子供の頃に見たものとは違っていたけれど、どきどきと高鳴る胸の鼓動はいまも昔も変わらぬ響きを持っている。


月と。


マジックの金色の髪と。


静かな、夜と。


 


 


頬から滑る唇が、唇に触れるまでの永遠の一秒。


 


 


 


 


虫の音の幽かな。


 


かすかな、恋の。


 


 


 


 


 


END



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8.イギリス   52*27


 


 


 


 


 


最近ではスモッグの影響も減ってきたので、“霧の都”という枕詞を持つロンドンも昔ほど移動に困ると言うことはなくなってきたけれど、運が悪ければ伸ばした自分の腕すら見えなくなる濃霧に巻き込まれ足止めを食うこともまだまだある。


重ねて『運が悪かった』と、そう言って宥めたけれど、すっかり機嫌の悪くなってしまった彼の息子はあからさまに尖らせた唇を隠すことなく、ぷいと横を向きなにも見えない窓の外を睨み付けた。


父子を乗せた車はロンドンから二時間半ほどのドライブに出発し、目的地まではあと三十分ほどというところで立ち往生している。


前述の霧の所為だ。


恐らく視界は一メートルもないだろう。水分を多量に含んだ重たげな外気は触れるまでもなく厄介な存在であることが分かる。気が滅入るのも当然だった。


けれどナビシートに深く腰掛け、むっつりと黙り込んでいる彼にとって不機嫌さを連れてくるのはその為だけではない。


 「パパはシンちゃんのためならなんでもしてあげたいと思ってるよ?でも神様じゃないんだから、出来ることと出来ないことがある」


 「出来そうにないことを強引にやるのがアンタだろ」


 「そんな、私が万能だと信じてくれるのは嬉しいけど、シンちゃんももう大人だしいつまでも“パパがなんでもしてくれる”っていう考え方はそろそろ改めた方がいいかな」


 「…分かったから、腹立つだけだから黙ってろ」


 「嫌だよ。せっかく二人きりでいるのに、もっと色々話したい」


 「実のある話ならともかく、嘘ばっか言うんだから話さなくていい」


 「嘘なんて言わないよ。パパは出来ない約束はしないと知ってるだろう?」


 「それとこれとは違うじゃねぇか」


 「なにが?」




しれっと言った父の顔は見るまでもない。相変わらず車窓を睨む彼は苦々しげに呟いた。


 「ここはロンドンか」


 「違うよ。あれ、シンちゃんはまだイギリスの地理が頭に入ってないかな?」


ムカッときた。


きたから殴った。頭を一発。見事な反射神経で僅かに躱されたから、ダメージを与えることが出来ずそれが悔しくて更にムカツク。


 「ロンドンは二時間前に出発したよ。いまは…多分、ルイスに入った辺りじゃないかな」


 「そうだ、ここはロンドンじゃねぇ」


 「分かってるじゃない」


 「俺が言いたいのは“ここ”のことだ!運が悪かっただ?こんなところまで連れて来やがって、挙げ句に霧で身動き取れねえなんてどうすんだっ!護衛もなにも付けてねぇんだぞ、市街だって十分ヤバイのにこんなところで新旧総帥が立ち往生なんて…有り得ねぇ」


 「大丈夫だよ、誰が来たってパパがちょいちょいとやっつけてあげるから」


 「言ったな?敵の姿も見えない状態で飛んでくる爆弾でも片付けるんだな?よーしだったら外に出ろ。車の周りをリスのように機敏に走り回れ。そして被弾場所にいち早く回り込み身をもって俺を守れ」


 「…それじゃパパ、死んじゃうよ…」




彼の言いたいことも分かる。


確かに二人、軽々しい行動を取ることなど許されない立場にある。まして自分は世界中から恐れられ敵を持つ身だという自覚があるから、自重することが当然であり周囲への影響を考えれば屋敷の内にひっそり籠もっているべきなのだろうとも思う。


けれど。


 「だってさー、デートしたかったんだもーん」


 「俺はしたかねぇ」


 「でもパパの運転でまったりしたでしょ?だから眠くなっちゃったんでしょ」


出発して三十分もしないうちに寝てしまった。それは不覚でしかなかったものの、信頼し、安心しきっているからだということは否めない。


認めないし、口にはしないけれど。それでも事実は変えられない。


 「ちょっとドライブって言うから仕方なく付き合ってやったってのに。あーもういいから迎えを呼べ」


 「やだ」


 「あーん?」


 「ヤダよ。いいじゃない、霧の中に二人残されて、もしかしたら取り込まれてこのまま戻れなくなるかも知れないなんて…ロマンティックだ」


 「お前なんかそのまま霧魔に食われちまえ」


 「霧魔!うわぁ懐かしいね」


懐かしくない。


シンタローは苦々しく舌打ちをした。


 「シンちゃんはいまでも霧魔が怖いんだね。大丈夫、パパがやっつけてあげるって約束しただろう」


 「怖かねぇって言っただろ!」


霧魔。


霧の魔物。霧の中に棲み、迷い込んだ人間を取り込む。食われるとも、次元の狭間に引き込まれるとも言われる伝説の怪物。


尤もそういった伝承は、危険から子供を遠ざけるため親が考えた方便である場合が殆どだし、恐らく霧魔に関してもそれが真相であるとは思う。けれどシンタローにとって正体の分からない存在はすべて恐怖の対象であり、見たことがないからこそ得体の知れない恐怖ばかりが増幅され自らの思考に更なる圧迫を加えるのだ。


幼い頃、自邸の庭で遊んでいるうちひとりでは入ることを禁じられた森の中へと踏み行ってしまった彼は、霧と夕暮れの二つに阻まれそこで一晩を過ごす羽目に陥ったことがある。


暗さと心細さが想像力を煽り、翌朝発見されたときは自分自身の作り出した恐怖に飲み込まれた状態でその後数日は高熱を発し彼の“怖いもの”に対するトラウマを決定的なものとした。


 「怖かったり、いやだと思うものはぜーんぶパパが消してあげる」


 「あっそ」


あの時も彼はそう言った。


そう言って抱き締めてくれた。


その言葉に嘘はなかったけれど、だからこそ許し難いこともあった。自分のため、という前提がなにより恐ろしかった。きっと彼には分からないこと。


 「でもさ、もし本当に霧魔がいて、二人とも連れ去られたとしたらどこに行くのかな?」


 「勝手に連れ去られてしまえ」


 「ダメダメ、二人ってところがポイントなんだよ。ねえ、どこだと思う?」


 「うち」


 「ん?」


 「うちに帰る」


 「だから帰れないんだって。浚われちゃったんだから」


 「浚われる訳ねぇだろ。行きたきゃひとりで行けよ、俺は帰る」


 「…一緒にいてくれないの?」


 「アンタは浚われてるんだろ?」


下らない。


こんなところに連れてこられ、得体の知れないものに更にどこかへ浚われることを想像しろと言われても出来るはずがない。したくない。


どこから来たのか分からないという底の知れない恐怖を、彼が知ることはないだろう。だからこそ行く先だけは自分自身で決めたいと、思い詰める弱い自分を理解することはないだろう。それが寂しいなんて。苦しいなんて。きっと分かってもらえない。


 「シンちゃんはパパと一緒にいるの、いや?」


 「黙って部屋の隅にいるならいてやらんこともない」


大体口数が多すぎるのだ。


どうでもいいことをベラベラと、神経逆撫で百%で並べ立てられるから苛々する。こんなキャラクターが彼本来の性格ではないと知っているから余計に腹が立つ。結局自分は軽んじられているのだと、そう言われているような気がするから許せない。


なにもかも知りたいだけ。なにもかも重ねたいだけ。言えないから、縋れないから。


素直になれないから。


 「じゃあ、本当にパパがいなくなっても、いい?」


 「うるせえのがいなくなりゃ清々する」


 「そう」


いつまでも子離れしないバカのくせに。悔し紛れにそう呟いたが、運転席にある気配が少し揺らいで冷ややかな空気が流れてくる。


ドアが開けられたと気付いたとき、彼の体は音もなく霧の中へと吸い込まれていったあとだった。


 「おい、なにやってんだよっ」


ドアはすぐに閉じられたが、それだけで濃厚なミルクのようにねっとりとした霧が流れ込み呼吸を圧迫する。肺の中を満たすそれに声を奪われ、思わず噎せ返るほどだった。


静まりかえり、音も気配も潰えた恐ろしいほどの静寂の中に取り残され、シンタローは知らず拳を握りしめた。身動けばなにか恐ろしいものに気付かれ、異空間に吸い込まれてしまうのではないかと本気で恐ろしくなる。


有り得ない。そんなことになるはずがない。けれど消えない霧が足下を覆い、そこから引き込まれてしまうのではないかという自分の想像にすら飲み込まれそうで車を降りるべきか留まるべきかの判断すら付かなくなってくる。


ガンマ団を率いる立場にありながらなにを恐れているのか。


それもこれもみなあのバカがいけないのだ、惑わせることを言い、そのように動く彼がいけないのだ。不幸はみんな、まず彼が招くことだ。巻き込んで。いつだって巻き込まれて苦しい思いをさせられる。当人はちっとも気付かぬまま。痛みを被らぬまま。


濃霧に囲まれた空間は、既に異界へと引き込まれてしまったようだった。


 


 


聞こえるのは自分の鼓動だけ。


 


そのまま凍り付いたように動けないシンタローは濃密な白の世界をただ見詰めていたが、それが晴れるのは瞬きほどの間でいっそ嘘のようだった。


 


それまで視界を塞いでいた霧は、強い風に流されたのか一瞬で消え去り辺りは緑に囲まれたのどかな田舎道を取り戻している。初めて見る景色ではあったが不快など感じる要因はなく、怯え、竦みきっていた自分をも優しく受け入れているようだった。


そして、脇の木立には彼が。


髪も、肌も、衣服も。


しっとりと水気を吸って幾分色味を増した彼が、微かに微笑んで立っている。幽玄の気配を孕んだままに。


 「…、に、やってんだ、」


言葉が喉に張り付きうまく発することが出来ない。咳払いをして、それから改めて体に力を籠め、勢いよくドアを開けた。


 「なにやってんだよ!」


叫びながら駆け寄ると、彼は悪戯が成功した子供のように無邪気な笑顔で首を傾げる。


 「怖かった?」


 「怖い訳ないだろ!」


 「そう?でもパパ、シンちゃんの泣きそうな顔が久々に見られて嬉しかったよ」


 「誰が泣くか!」


 「うん、本当に泣いて欲しいんじゃないんだ。ただ、パパの所為で困るところは何度見ても可愛くてね。つい虐めたくなるんだよ。ごめんね」


 「バッカじゃねぇのっ」


言って、戻る。運転席に乗り込みエンジンをかけた。


そのままアクセルを踏み込み乱暴なハンドル操作で発進させた車を戻してやるつもりはなかった。そこにいたいなら、離れたいならそうすればいい。霧の中に逃げ込みたいなら、ひとりで勝手に、好きなだけ取り込まれればいい。


死にたいなら。


 


自分こそ、一歩間違えば死んでもおかしくない運転でどうにか自宅までの道を辿る。


泣いていることなど認めたくはないが、霞む視界が嫌でも思い知らせてくる。


好きなのに。


きっと、思いは同じはずなのに。


置いて行かれるのが辛いことを、二人ともに知っているのに。


どうして。


 


 


 


精神的にボロボロになりつつ帰った自宅で出迎えてくれたキンタローは、一緒に出掛けたはずの二人が別々に帰宅したことには驚いた風ではなかったが、暗い顔をした自分には訝しげに眉を寄せ大丈夫かと聞いてきた。


シンタローにこんな顔をさせる相手は一人しかいない。


それは身内であれば誰もが知っていることであり、知られていること自体は諦めるしかないので無言で頷くより仕方ない。


マジックは、既に帰宅しているという。


放って置いても二人の無断外出を許すような組織ではないのだ。当人たちは二人きりのつもりであっても、監視の目はどこまでだって付いてくるのだ。それは当然のことで不思議でも、不快でもなく慣れたこと。


しかもあの空間は確かに二人だけの世界だったから。


交わされた言葉や、すれ違う心の葛藤など誰も知らない。自分たちすら、追い切れない。


それが、悲しい。


 


 


ドライブだと言ったのに、結局疲れ、傷を増やしただけの時間をマジックがどう思っているのかそんなことは知らないけれど、夜になってほとぼりが冷めたと思ったのか、変わらぬ安っぽい笑顔で近付いてきた彼は当たり前のように伸ばした腕にシンタローを巻き込んでしまう。


なにがしたいのか、本当はこの男にも分かっていないのだ。


自分が、どうしたいのか分からないのと同じように。


 「あの町の先にあるオペラハウスに行きたかったんだ」


 


今日はなにも上演されていないのは知ってたけど、シンちゃんに見せたかったんだよ。


二人で見たかったんだよ。煉瓦造りの建物を。緑の中の、あの景色。時間が止まっているようで、とても静かで。あそこにいるシンちゃんを見たかったんだ。それだけなんだよ。


 


耳の中に直接吹き込まれる囁きは、あの時霧の中へと消えていった彼を思い出させて切なくなる。怯えながら回した腕で、抱き締めた背中をきつく抱え込む。


本当はどうしたいのか、分からないから二人とも。


二人とも未だに、傷を付けることで存在を確かめる。それでも傍にいると認め合う。


愚かで、馬鹿げている関係をそれでもやめられずに。


意地を張るにはもう、断ち切れるはずのない絆は完全に繋がりあっていると知ってはいたけれど。


 


口付けられて、また泣きたくなる。


恋しくなる。


触れているのに足りなくて。悲しくて。もっと近くに、感じたくて。


自信が持てないのは彼がすべてを見せてくれないから。


傷付けるのは、愛に応えてくれないから。


互いにもどかしさを抱え、同じ場所に留まっているならそれは霧の中にいるのと同じことで、だったら霧魔に魅入られたのは二人ともに言えること。


求め合い、愛し合っている自覚があるのに結局今日も有耶無耶にするのは何故なのか。


分からないからシンタローは目を閉じた。


白い霧が、すぐに全身を包みなにも見えなくする。考えられなくする。


 


霧は、マジックだ。


吐息に紛れ呟いた言葉は拾われることなく、彼を支配する腕もまた掴み所のないシンタローを霧のようだと思っている。


愛されたい、ただ、それだけを互いに思い詰めて。


 


 


ロンドンが、嘗てのような霧の都ではなくなっているという事実は知っているのに。


二人の心がそれを理解しようとするのは、まだ、もう少し、先のこと。


 


 


 


END


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6.糸   53*28


 


 


 


 


 


 「仕事だったんだから仕方ないだろ」


溜息とともに吐き出された言葉が疲れ切っているのは分かる。


実際ここ数日の彼は忙しくて、それが得意とは言い難いデスクワークが重なっているからだということも分かっている。


家に帰ることが出来ないほどではないにしろ、長時間座っているばかりの毎日に飽きているし、そんな風に思う自分を不甲斐ないと嫌悪してもいるのだろう。長引く会議の合間に煙草を持ってくるよう要求されたと零したグンマは、『勿論、渡してないけど』と付け加えることを忘れはしなかった。


誰にでも得手不得手はあって、彼にとってはそれが苦手なだけのこと。


慰めることは簡単だが、口にすれば意地を張ることが分かっているのでなにも言えなくなる。穏やかにいて欲しいのに、そんな自分が一番に追い詰める側に回ることは出来ない。


なんて厄介な子だろう。


なんて面倒なんだろう。


そして、なんて。


 


 「パパは、いつでもシンちゃんと一緒にいたいだけだよ」


 


なんて、愛しいのだろう。


 


 


 「…ばかじゃねぇの」


視線を逸らして呟いた横顔がほんのり赤くなっている。


近付いて、腕を取って、指を絡めて。


抱き寄せて抱き締めて口付けて。


欲しいのは言葉。


欲しいのは触れ合い。


欲しいのは思い。


欲しいのはすべて。


ほしいのは。


 


ほしいのは、いつだって。


 


 「父の日って、母の日よりあとに出来たんだよ」


 「へー」


 「男手ひとつで育てられた娘が、母親に感謝する日はあるのに、どうして父親に感謝を捧げる日がないのかって言いだしたのが起源なんだって」


 「…へー」


 「シンちゃんは私が育てたけど…でも、感謝されるようなことは、なにもしてないからね。嫌がられることの方が多いし」


 「自覚、あるんなら治せよ」


 「ははは、治せるならとっくにそうしてるって」


抱き締めれば大人しく腕の中にいてくれる、それが彼にとってどれほど大きなことか分かっているので、思う気持ちは強くなっていくばかりだ。


 「どうしたらシンちゃんと、片時でも離れないでいられるのかなぁ」


 「こんなウザイやつと四六時中一緒にいたら思考回路が焼き付く」


 「パパはお前と離れていると、糸の切れた操り人形になってしまうよ」


黙り込む。


 「そんなにパパのことが嫌なら、切れた糸をどこかに結びつけてしまえばいいのに。そうしたら二度とお前に近付けなくて、なにもかもから楽になれるのに」


跳ね上がる肩が傷付いたことを知らせてくる。


でも、彼から付けられる傷だって決して浅くはないのだ。


 「父の日だから感謝しろと言ってるんじゃないよ。ただ、待っていたんだ。お前の帰りを。帰ってきてくれるのを。待っていたんだよ、ずっと」


意地を張るから、だから手折ってしまいたくなる。


なにも見えないようにして、ただ縋らせたくなってしまう。


そんなの、望んでなどいないくせに。


そんな彼を手に入れたい訳では決してないのに。


 「私は…お前を、悲しませてばかりだ」


切れてしまえばいい。


本当に、糸など。


心など。


繋がりなど。


 「優しくされたいのに、憎まれることばかりしてしまう」


 「分かってる、なら…ああもうっ」


それまで大人しくしていたシンタローが、マジックの腕を振り払い正面に立った。


黒い瞳が輝いていて、棘のあるそれはこんな時でもとても美しかった。


 「拗ねるのは勝手だけど、そんなことくらいでここまで落ち込まれるのは迷惑だっ」


 「迷惑?私、シンタローにとってはそんなに無駄なもの?」


 「あーっ!ウザイ!はりきりウザっ!真夜中過ぎにめっちゃウザ!疲れて帰ってきたのにすっげぇウザ!!」


言いながら、伸ばされる腕。


自分を抱き締める腕。


愛するものの。


シンタローの。


 「一日遅れても、…まあ場合によっちゃ二日遅れても、ちゃんと父の日してやるから大人しくしてろ!」


 「パパ、感謝しろって言ってるんじゃないよ?」


 「うるせえ、とどのつまりは構って欲しいだけだろがっ」


 「…ばれてた?」


 「あんたはっ!…そういう奴だよ、ったく」


 


回した腕にぎゅっと力を籠めて、それからポイと放り出す。


掌で、ぺちん、と頬を叩かれた。


 「言っとくけどな、俺をこういう風に育てたのはあんただからな。恨むなら自分の教育方針を恨め」


 「うーん、そう言われると少しばかりパパが悪いのかなって気がしてきた」


 「アホウ」


 


 


 


二人でいたい。


いつだって“ひとつ”でありたい。


切れない絆をどんなときでも意識して、離れることはないと思いたいのだ。


どんなに細い糸であっても。


もしかしたら、自分自身の手で引きちぎることになるかも知れない脆い糸でも。


それでも。


 


きみを、求めているから。


 


 


 


 


END


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5.電話   53*28


 


 


 


 


 


電話、かけてね。


待ってるからね。



いい子にして待ってるから。


だから絶対、かけてきて。


眠くても。


ご飯を食べていても。


お風呂に入っていたっていい。


すぐに出るから。


すぐに、すぐに出るから。


ひとことでいいから。


声が、聞きたいから。


 


 


 「…いってらっしゃい」


 「いってきます」


 


 


今日も、言えなかった。


本気じゃないからじゃない。


勇気がないんじゃない。


我が儘だから。


それは、我が儘だから。


言っちゃいけないから。


 


 「パパ、今度はいつ、会えるの?」


 


赤い服が見えなくなってから呟く。


知られないように、困らせないように小さく。


ひっそりと、小さく。


 


 


 


子供の頃の自分を思い出すと、いまでも胸が苦しくなる。


それは懐かしく切ない記憶。


こんな夜は、必ず、蘇る。


 


 


 


 


 


前線から後退し、戦線を離脱したところで漸く体の力を抜いた。


空は、星も少なく濃紺の帳を降ろしている。


兵士としての戦闘力は大したことがないくせに、所持する武器が大量でこちらも下手に動くことが出来ないため睨み合いばかりが既に四十日以上続いていた。


遠征に出ればもっと長期に渡ることもあるが、今回の戦闘は消耗戦に近いものがあり先に動いた方が負けるような強迫観念めいた空気までが漂う。誰もが疲れ、苛立ちはピークに達していると言ってよかった。


本部までは、最新型であるシンタローの艦の最高速度で飛行すれば五時間足らずで移動出来る距離にありそう遠い地ではなかったけれど、今回ばかりはそんなことはなんの慰めにもならなかった。


仕置き、という大義名分の元にこちらから仕掛けることが出来ればいいのだが、今回は隣接する国々から“極力穏便に”という注文を付けられているので無闇に動くことも出来ない。まずは和平交渉からと使節団を送ったものの、返答を保留された状態のまま身動きが取れずいたずらに時間ばかりが過ぎていったのだが、今日になってやっと“再度の交渉を”という返事か寄越されたのだった。


交渉はキンタローに任せてある。


請われれば出向くが、正式な和平に結びつく確証はどこにもない。当然自ら赴くつもりであったシンタローを留め、『俺が呼ぶまで大人しくしていろ』ときつくキンタローに言われやむなくその場は譲ったのだ。


自分たちの不利になるようなことは言えない。


そして相手の挑発に乗ることも出来ない。


シンタローとて総帥だ、戦時下の折衝が如何に微妙で難しいかはよく心得ている。けれど今回ばかりは勝手が違い、苛立った気分のまま会談の席に着くのは得策であるはずがなかった。


気が短いとは思わない。


けれど長いとも思えない。


戦線とは名ばかりの区域から離れ、全軍の配置を使節団警護の形に組み替え終えると、自然と大きな溜息が漏れ出てしまった。


 


艦内の自室に戻り、上着を脱ぐ。


そのままベッドに放り出すと、右袖がだらしなく滑り落ち床に着いた。そんな些細なことでも苛々が募る。こんなことではいけないと、両手でぴしゃりと頬を叩くと、今度は溜息ではなく意図して大きな深呼吸をした。


 


 『いっぱい武器を持ってる国だからね。気を付けてね』


 


まるでその辺に買い物に行く息子を送り出す気安さで言ったマジックは、片手をヒラヒラ振りつつ自分を見送った。


本当は、やれ心配だーだの、早く帰ってきてねーだの言いたいところだろうが、こと戦線に出向く自分にその言葉がぶつけられたことは一度たりとなかった。


当然だろう。


それまで見送る立場にあったシンタローだからこそ、それが禁忌であることは嫌と言うほど知っていた。戦闘員全ての命を預かる総帥として、一度戦地に出れば自らの保身など構うことが出来ないのだ。


勿論、軽々しく死ぬことも出来ない。当然だろう、総帥の命は即ち全軍の命運と同列にある。なにがなんでも生き延びて、窮状を勝利へと転換させる責任がある。


心配でも、無事な姿が見たくとも。


自分たち二人にとって、戦地に赴くときに交わす言葉は常に簡潔で、決して背負わせるものであってはならなかったのだ。


 


上着同様ベッドに体を投げ出すと、無機質な天井をじっと見詰めて思索に耽る。


マジックが総帥職に就いていた間に、彼が怪我をして戻ったのは全部で三度。一度は本当に危ないと言われたこともある危機的状況だった。


それでもあの男は数日後にけろりとした顔で自分の前に現れると、出ていくときと同じような気安さで『ただいま~』と語尾にハートマークを付けて駆け寄ってきた。


シンタローの怪我に至っては既に片手では足りず、それどころか両手すら越えているかも知れなかった。尤も数えているのがマジックなので切り傷ひとつでもカウントされるのだから分が悪いが、静かな、寂しげな目で巻かれた包帯を撫でる彼を見ていると訂正させる気にはなれなかった。


言わなくても分かる。


聞かなくても、分かる。


去っていく背中を見るのがこれで最後になるかも知れないと常に覚悟を決めながら、そのくせ生きて戻って欲しい、声だけでいいから聞かせて欲しいと願ってしまう。


いま、あの蒼い目をしたシンタローの思い人は、なにを見てなにを考え、誰と過ごしているのだろう。


楽しげに笑いながらも自分のことを思い出したりするのだろうか。


思い出して、あの寂しげな眼差しを浮かべたりするのだろうか。


 


会いたい。


 


声が、聞きたい。


 


戦地から電話をくれることはよくあった。


幼い子供を持つ父親としてそれは当然のことだったのかも知れないが、けれど自分が強請ってそれを求めたことは一度としてなかった。揺るぎないその采配が自分の不用意な言葉で崩れることなど招けるはずもなかった。


だから鳴らない電話は、時に一月を越えることだって、あった。


 


その一月を、今回は既に越している。


定時連絡は入れるし、必要があればキンタローが報告する。研究所勤めのグンマが直接通信を求めてくることもあったので、シンタローの無事は彼を通してマジックにも伝わっているのは確かだ。


けれど彼自身が求めてくることはない。


あの頃のシンタローと同じように。


 


安全圏まで後退し、着陸させたため艦内は静かだ。


まして総帥の御座船である緊張は乗組員全員を極限までに消耗させる。本部から送られた要員と速やかに交代を済ませたため、張り詰めた空気もいまは弛み、暫しの休息には打って付けの夜となった。


耳を澄ませば虫の声まで聞こえてくるような気さえして、シンタローは、ふと口元に笑みを浮かべた。


着陸しているとは言え地上からは何メートルも離れているし、鋼鉄の機体は飛行時の騒音すら遮断する厚みがある。


なにも聞こえない。


聞こえるはずがない。


 


聞きたいものは、声は、ここには、ない。


 


 


ふと。


思いついて、身を起こしたシンタローは投げた上着を取り上げるとポケットを探った。


勝手に機種交換させられた携帯電話はマジックと同じデザインで、彼手製の“マジックくん人形”がストラップ代わりに取り付けられている。


何度外してもしつこく付け直され、いい加減面倒になりそのままにしてあるのだ。団内でもそれは既に知られたことで、シンタローが、この不似合いなファンシーさを身に付けていたところで誰も注意を払わなかった。


揺れる人形を指先で突き、それから液晶画面を見る。


待ち受けの画像は、これも既に諦めたが週替わりの“マジック百面相”より、“シンちゃんあいらっびゅーんの顔”が設定されている。


どの辺があいらっびゅーんなのか、それ以前にあいらっびゅーんとはなにかと問い詰めてやりたいが、あの勢いで由来や撮影秘話など語り尽くされては堪らないので極力無視することにしている。


週替わりなのに、既に一月以上見ている、間の抜けた笑顔。


唇を少しだけ尖らせているのが“らっびゅーん”を表しているそうだが、そのセンスには脱力するより他にない。


着信履歴を見ても、最近はキンタローか本部、グンマからの通話ばかりが並んでいて、見たことをすぐに後悔する。深みにはまる自分の行動を呪ってみても、どうせ初めから結果は分かっていたのだからどうしようもない。


声が聞きたい。


会えないなら、せめて。


せめて声が聞きたい。


あの低い、深みのある声で名前を呼んで、その声音で抱き締めて欲しい。


慰めて欲しい。


女々しいとは思わなかった。


だって、好きだから。


欲しいから。


自分のものだから。


遠慮はいらない相手だから。


彼だから。


 


彼だから。


 


時差を考えれば、もう眠りについて暫く経った頃だろう。


物音には敏感な彼だから、たとえマナーモードに設定してあったとしても起きてしまう。ふざけたことばかりしているものの、それでも自分の我が儘でその眠りを破ってしまうのは躊躇われた。


朝になれば、この寂しさは消えるだろうか。


疲れが見せた幻だと、すべては夢だと思えるだろうか。


シンタローには、それが無理であることなど疾うに分かっている。


マジックという存在は、マジックでなければ補うことが出来ない。他のなにを与えられてもだめなのだ。


彼でなければ。


彼だけが自分を救える。


愛することが、出来る。


 


登録の、一番初めにあるその番号。


通話ボタンを押す指が震える。


心が。


 


震える。


 


 


 


 


ルルル…


 


 


 どうしたの?


 なにかあった?


 


 


ルルル…


 


 


 眠れないの?


 …寂しいの?


 


 


 


 


 


   呼び出しのコールも彼の声も、鳴り響く胸の音にかき消されてしまいそう。


 


 


 『――――シン、ちゃん』


 


 


   だからきっと。


 


 


 『やっと、だね』


 


 


   きっと。


 


 


 『やっと、私たち、』


 


 


   きっと。


 


 


 『声も、繋がることが、出来たんだね…』


 


 


 


 


 


 


 


ルルル…


 


 


 


 


 


END


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


                           ルルル… ルルル… ルルル… と三回鳴らして切ったら
                           それは それは 寂しい 淋しい私から "I want you"
                                           ………ほんとは、不倫の歌               


z

 

 


4.手   37*12


 


 


 


 


風邪なんて引いたことがない。


怪我だって、かすり傷ひとつ負った姿を見たことはない。


でも。


子供の頃は気付かなかった血の臭いを、感じ始めたのはつい最近。


誰のものかは知らないけれど、いつも血と、死の匂いが漂っている。


染み付いている。


笑っていても。


その表情の奥にある、凍り付くほどの冷たい光りになど。


 


 


気付かなければ、よかった。


 


 


 


 


いつも通りしつこくされて、頭に来て口を利かないまま離れた。


向かった先がいま一番の激戦区だというのは出発後に知ったけれど、心配に思ったところで呼び戻すことが出来るはずもなく、また喧嘩別れしている手前そんな気持ちを知られるのも嫌だった。


ひとの命を奪い、縁(ゆかり)のない土地を我がものにし、そこになんの意味があるのか本人にすらもう分かっていないのではないかと思う。


世界を制圧し、征服し、一体それでなにになるのか。


一度だけそのことについて聞いたことがある。感情を殺して、興味ではなくただなんとなく、その瞬間に思いついたような振りで聞いた。“世界を手に入れてどうするのか”と。


答えはなかった。


笑っていた。


ただ笑って、大きな掌で肩を抱かれた。抱き寄せられて、耳元で囁かれた。


 『愛しているよ』


いつも繰り返す言葉に聞き流すのもいつものこと。


はぐらかされた、そう思った。


深追いするには、自分にはなにもなかった。なにも。なにひとつ、ない。


本当は。


 


帰ってくれば、きっとまたなにもなかったように笑って、大袈裟な仕草で抱き締めながら寂しかったと、愛していると繰り返すのだろう。リピートしすぎてとうの昔に擦り切れてしまったカセットテープのような真実味のない声で。音で。


凍る蒼い瞳で。


 


 


帰還の報せはなかった。


けれど屋敷の者の慌てた様子にピンと来た。


本部に問い合わせ、半ば強引に聞き出した報に一瞬、本当に息が止まった。すべての物音、感覚が遠ざかり自分がいま何処にいるのかも分からなくなった。


それからどうやって辿り着いたのか分からないけれど、気付いたときはメディカルセンターの集中治療室前に立っていた。


入室は許されてはいなかったが、たとえ許可があっても入ることは出来なかっただろう。


見るのが怖くて。


事実を知るのが、怖くて。


恐ろしくて。


 


どうして喧嘩などしたのだろう。


どうしてなにも言わず行かせてしまったのだろう。


どうして。


どうして。


どうして。


 


寒さとは違う震えに四肢を丸め蹲っていた。


抱き締めてきたのが求める相手ではないからなにも言わなかったし、彼も、なにも聞かなかった。医者ではないが、一族の健康管理は彼の仕事のひとつでもあったため当然医療チームには組み込まれていたのだろう。


普段は従兄弟ばかりを愛し、自分には一切の興味など持たぬ彼であったのに、何故だかその腕は暖かく囁かれる慰めはゆっくりと、そして静かに染み渡っていく。


大丈夫。


大丈夫。怖くない。私がついています。あなたにはどんな痛みも苦しみも与えないから。


守るから。


どうして彼が自分に対しそこまでの愛情を見せるのかぼんやり頭の隅に湧いた疑問は、包み込む温かさの中に溶けだしやがて薄れ消えていった。


大切なことだったのかも知れないけれど、いま、自分にとって最も重要なことは目の前の扉が開くそのことだけだ。本当に欲しい腕の中に、強く抱き締められることだけだ。


帰ってきて。


還ってきて。


ここに。


自分の元に。


かえってきて。


それだけ。


 


 


掃討作戦は成功したが、自らが放った眼魔砲が火薬庫に引火し近くに滞空していた味方の艦がその爆発に巻き込まれパニックに陥り、結果側面から衝突されたのだという。


外傷は少なく、また実際にそれほどひどい負傷ではないという。


けれど意識の回復が遅いことが不安を煽る。


その状態が四日も続いた。


 


 


目が覚めたと聞かされたとき、膝から力が抜けて立っていることが出来なくなった。


高松が支えていなければ本当に倒れていたかも知れない。


手を引かれ、通された病室の白さが目に染みて思わず堅く瞼を閉じる。


閉じてしまえば開くことが怖くなり、支える腕を強く掴んだ。大丈夫、あの声がまた染み込んでくる。


 「ああ、泣かせてしまったんだね。ごめんね」


枕元に立つと、掠れた、小さな声がかけられる。視界の隅に焦がれた指先が見える。


自分に向かって伸ばされる、求め続けたその指が。


大きな手が。


 


繋ぐ、ために。


 


 


 


手は繋ぐために。


いつだったか、散歩に行こうと誘われ並んで歩いた夕暮れの中で言われた言葉に、自分は当然のように逆らった。この年になってどうして父親と手を繋いで歩くような真似が出来るかと、そう言って伸ばされた手を振り払った。


けれどいま、その同じ手をしっかりと握りしめ、眠ってしまった肩先に鼻先を埋もれさせるよう甘え擦り寄っているのは自分だ。


生きてきた時間は長くはないけれど、それでもこんなに恐ろしいことは、体験は愚か想像すらしたことがなく、ダメージは深く心の中に根付いている。


父を、彼を失うことなど考えられなかった。


それを現実のものとして突き付けられ、更に受け入れられない事態だと思い知らされる。死ぬ。消える。いなくなる。有り得ない。そんなことは有り得ない。


許せない。


掌は温かく、それが彼のものだと思うだけで安心出来た。


傍にいる、そのことだけで満足だった。


どんなに冷たい目をしていても。


どれほどの人を殺そうと。


それでも彼を失うことに比べれば、それはほんの些細なことでしかないとさえ思える。間違っていると、狂っていると言われようと、この温もりをなくすこととは引換になど出来ようはずもないのだ。


もし。


もし、彼から離れるときが来るとすれば、それは二人を繋ぐこの手の温かさを信じられなくなったとき。余人を介したことではなく、互いの気持ちが通じ合わなくなったとき。


それ以外のこと、誰を殺そうがなにを奪おうが、そんなことでは父と、自分を繋ぐ楔は解けたりはしない。決して互いを見失ったりはしない。この手は、彼だけに向け伸ばしている。自分だけを求め伸ばされている。


だから。


殺すもの、覇王としての彼から目を背けることはもうしない。


後悔など決してしない。


彼こそが自分を、彼だけが自分を生かすことの出来る存在だから。


すべてだから。


 


絡めた指に力を籠めると、眠っているのに握り返す力を感じた。


大きな手。


いつか自分も持てるだろうか。この手を離さないと伝えることの出来るほど、大きく、温かなそれを彼のために。


指先に口付けた唇に感じた熱を、夢の中の彼も感じていると、いい。


 


 


 


 END


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