頼んでいた機械が完成したとの連絡を受け研究課を訪れたアラシヤマは、先刻から部屋の一隅にある椅子に腰を掛けて、ぼんやりと目の前の博士の行動を眺めている。
ピンクのリボンに淡い金髪をまとめた博士の、常に紙一重の奇矯な振る舞いには慣れている。傍目にどう映ろうと、きっと彼の行動には彼なりの根拠があるのだろう。このつま先のとがった靴にぎざぎざつきのマント、右手に握られている星が先端に付けられた棒などにも―――きっと。
そんなアラシヤマの思惑など知る由もなく、グンマはその格好のまま、歌でも歌いだしそうな上機嫌だった。ひらひらとマントを翻しつつ、部屋の一角から三十センチ四方の箱を取り出してきて、マニュアルと共にそれをアラシヤマに渡し。
「はい、これが頼まれてた新型暗視スコープ。で、ね」
手に持つ星付きの棒をえいっと一振りして、にっこりと笑う。
「アラシヤマ、とりっく・おあ・とりーと」
「へぇ?」
「て、わかんない?んーと、じゃあ、お菓子ちょうだい」
仮装姿の二十五歳は無邪気に両手を伸ばし、思わず引き込まれそうになるほどつぶらな瞳でこちらをじっと見つめてくる。アラシヤマはそれに渋い顔を返し、小さくため息を一つ吐いた。
「あんさん……ええ年した成人男子がいつもポケットの中に菓子類詰め込んでる思とったら大間違いどすえ」
「えぇーー。だって高松もキンちゃんも、いっつも持ってるのに……」
それはあんさん仕様や、犬用クッキーとおんなじや…と内心では思ったがもちろん口にはしないアラシヤマだった。グンマは唇を尖らせて不満げな表情を隠そうともせず、上目遣いにアラシヤマを見る。
「それにしても、今日くらいはさぁ……」
「今日が、どうかしはったんどすか?あんさんはなんやらけったいな格好してはりますし。そのどこぞの魔女っ子みたいな格好、ドクターが用意しはったもんどっしゃろ」
「すごーい、なんでわかるの」
「そのやたら短いギリギリのキュロットの裾が何よりの証拠や……」
げんなりとその折り目正しい短パンの裾に目をやると、何を勘違いしたのかグンマはくるり、とその場で回ってみせた。そうした仕草が正しく似合ってしまうのが、この博士の怖いところでもある。
「かわいいでしょー。でもアラシヤマ、今日が何の日かほんとに知らないの?だって士官学校出だったら、一年のときに、学校行事で」
「士官学校……」
その単語を耳にした瞬間、背後に人魂が二つ三つ見えそうなほどアラシヤマの気配が一気に重くなる。
「わての一年生はトガワ君との語り合いと師匠の鬼のような再訓練で終わりましたさかいな……学校行事……フフ……ええ響きどすなあ……」
(うわあー言っちゃいけないこと言っちゃったよ……)とさすがのグンマも笑顔のまま表情を強張らした。
「……うん、でも、お菓子くれなかったから、アラシヤマはTrick決定」
「は?」
「ううん、なんでもない。ただ、最近は欧米以外でも世界的な行事になりつつあるんだからさ。アラシヤマも一応知っておいたほうがいいと思うんだ」
「はぁ……」
「今日はハロウィンて言ってね、キリスト教のお祭りなんだよ。お化けの格好して、それで大事な人にTrick or Treatって言うの」
にこにこと微笑みながら話し続けるグンマ。はじめはいつものようにほとんど聞き流していたアラシヤマだが、世界の常識と断言されたその行事を知らないというのも問題な気がして、つい耳を傾けてしまう。そして、
「その合言葉の意訳はね、『いたずらさせるか――もしくは「あなた」をください』v」
その発言を耳にした途端、ガタッ、とそれまで腰掛けていた椅子を蹴倒さんばかりに勢いよく立ち上がった。
「な、なな、なんどすってえええ?!」
「バレンタインデーのちょっと大人版、てトコかな。まあ、そのフレーズに含ませる意味の深さは人それぞれだけど……アラシヤマの言う『いい年』の人だったら、察してねって話だよね?」
「そっ……そないな行事があらはったなんて……やっぱりラテンの血が入っとる人たちの考えは違いますな……アラシヤマ一生の不覚やわ……ッ」
冷静に考えれば初めにグンマがアラシヤマに対してそれを言っている時点で、グンマの説明など大概嘘だとわかるはずなのだが。完全に頭に血が上っているアラシヤマはそんなことにすら気付かない。
グンマの言葉に一度はがくり、と肩を落としたアラシヤマだったが、おそらく床のキズか何かに対して、何かをぶつぶつと呟いていたかと思うと、急にがばりと起き上がり。グンマの両手をぐっと握った。
「グンマはん、教えてくれはってありがとさんどす。ほなわて、これから今すぐにでもわての王子様のところに行ってきますわ!」
「え、シンちゃんとこ?」
「当たり前どすッ。心友のシンタローはん以外に、わてのこの熱い願いを聞いてほしいお人はおりまへん!」
「あー…うん、がんばってね」
そしてまさに猛進といった勢いで総帥室に向かって走り出す。
その後姿を見ながら
(あ、しまった。これってシンちゃんにとってのTrickになっちゃうかも……)
そんなことにふと考えが至ったグンマだったが、持ち前の前向きさで、ま、いっか、と思い。後も見ないで走り去るアラシヤマを笑顔で手を振りながら見送った。
『TRICKSY』
研究課を出て中庭に出ると、太陽はすでにかなり西のほうに傾いている。時刻は五時を回ったというところだろうか。総帥室へとわき目も振らず突進するアラシヤマだったが、本部棟の地階に入った瞬間、前方を歩いている童顔忍者と顔だけ書道家の姿が目に入り、歩く速さをやや落とした。
どれほど忙しかろうと周りの状況が緊迫していようと、この二人は互いがそばにさえいればいつも楽しそうに二人きりの世界を作り出している。妬み半分嫉み三分の一興味六分の一でその様子をじっとりとした目線で追いかけていれば、ふとミヤギの明るい声が耳に入った。
「そだ。トットリ、Trick or Treatだべ!」
その一言に、アラシヤマの全身のセンサーが一斉にそちらを向く。
一体この自称ベストフレンド他称バカップルは今日という日をどのように過ごすのか。これまで培ってきた刺客技術の全てを駆使して二人の会話を盗み聞く。後姿からはよく確認できないが、ほんの少しだけ見えたトットリの横顔は、満開の笑みを浮かべていて。
「言われなくても、ちゃーんとわかってるっちゃよvでも今日は、夜が本番だわいや。だけぇ、ミヤギくん、仕事が終わったら僕ん部屋きて欲しいっちゃ」
「わかったべ。今年はどんなの用意してくれてっか、楽しみだべなあ……」
そうして二人して笑いさざめきながら、廊下の角を曲がっていった。
アラシヤマはと言えば、よろよろと壁に肩を預けると、目を血走らせて今の会話を反芻する。
(夜……夜が本番て……あんお人らナニこんな公共の場で堂々といかがわしい話しとるんーー?!)
そんなことを考えて貧血にでも陥りそうになっていたアラシヤマは、背後から寄ってきた気配にすら気付かずに。無防備だった背中を、バンッと思い切り叩かれる。
「どうしたアラシヤマ!こがぁなとこでうずくまって、気分でも悪いんかぁ」
廊下中に響き渡りそうな声で問いかけてきたのは、日本だったら確実に銃刀法違反で連行される長刀を引っさげたコート姿の大男。アラシヤマはひりひりと痛む背中を押さえながら振り返ると、極めて陰険な目つきで大男――コージをにらみつける。
「コージはん、あんさん気分悪い人間の背中、そないに遠慮なく叩きはったら倒れますえ。しかも相変わらず無駄に声でかいどすし……」
「はっはっはっ、周り気にして小声で喋るんはわしの性に合わんけんのう!」
まあ平気そうならええんじゃ、と人好きのする笑みを満面に浮かべながら言う。その笑顔を見るとさすがのアラシヤマも毒気を抜かれてしまい、仕方ないどすなあ、と苦笑した。
「ま、確かに小声で内気に喋るあんさんなんか目にした日には、熱出して寝込みそうどすしな…」
いつもの癖で皮肉を交えて言った台詞にも、コージはほうじゃろうほうじゃろう、と一人でうなずいている。だがそれから、ふと何かに気付いたように真面目な表情を作って、少しの間視線を中空に彷徨わせた。
「と、そうじゃ、アラシヤマ。なんじゃったかのぉ…ホレ、あれじゃ、あれ」
どうやら何かを思い出そうとしているらしい。アラシヤマは眉を顰めながら、小首をかしげるようにして二十センチ近い身長差のある男を見上げる。
あれでもないこれでもない、と珍しく悩んでいた大男は十五秒ほどしてからようやく目的のフレーズが浮かんだようで、そうそう、と言いながら、ぽん、と手を打った。そして、アラシヤマに向かってにっと笑う。
「Trick or Treat、じゃ」
「はいぃい?!」
目を丸くして直立不動の姿勢になったアラシヤマの途轍もない動揺など、よく言えばおおらかな、悪く言えばこの上なく大雑把なコージは全く気付かない。
ニヤニヤと笑いながら、自分よりいくらか細身の(とはいえ一般的に見ればかなり筋肉質な)アラシヤマの肩に手を回して、耳元で囁く。
「いくら吝嗇なぬしでも、今日くらいはええじゃろう……な?」
「な?て……」
それはコージにとってみればほんの軽い茶目っ気で、食べ物の一つでも貰えれば儲けもの、という考えでやったことでしかない。
だがアラシヤマは、表情を陰にするように俯きしばらく黙ったままでいて。それからやおら、ふ、ふふ、と不気味な笑い声をたててコージに組まれた肩を震えさせ始めたかと思うと、
「今日も明日も明後日も、あんさんにやれる日なんて未来永劫来んわボケェっ!」
「ほぉじゃらけえーーー!」
両手を掲げ、ごおっと全身から容赦ない炎を噴き出した。全くの不意打ちに勢いよく燃え上がらされた大男は、やがてぶすぶすと燻りつつ、ゆっくりと前方へ倒れる。ずうん、と響く鈍い音。周囲にいた一般団員は顔面を蒼白にさせながら、遠巻きにその様子を眺めていた。
だが事件を起こした当の火元は、そんな恐れおののいた団員たちの視線などものともせず。
コージはんまでわての美貌を狙うてはったとは、まったく油断も隙もあらへんわ、と制服についた煤を払いつつ、歩き出す。
な、なんでじゃあ……というコージの最後の力を振り絞った至極まっとうな抗議の呟きは、アラシヤマの耳には届かなかった。
***
総帥室のある階にエレベーターが到着する。ココまで来れば目的の人までは後もう少しだ。
だがそこには思いがけない伏兵が待ち構えていた。
廊下の向こう側から歩いてくるのは、おそらく今しがたシンタローの部屋から出てきたらしきキンタロー。顔を上気させ動悸息切れの状態にあるアラシヤマの姿を見るなり、その端正な顔をゆっくりと、しかし顕著に顰める。
顔を見たくのなんてお互い様どすえ、と思いながら鬼気迫る表情でアラシヤマは問いかけた。
「キンタロー!総帥は中にいはるんどすな」
その質問にどう答えたものかと逡巡しつつ、キンタローはほとんど無意識の防衛本能というか、シンタローへの世話意識というかで、そのしっかりとした体躯で総帥室への道をふさいでいた。
「いることはいるが……」
「ほな、さっさとどきなはれ。わてはシンタローはんに用があるんどす」
「……今、シンタローは機嫌が悪い。更にこれまでの統計を見る限り、お前の顔を見てアイツの機嫌が悪くなることはあれ、良くなることはない。一刻を争うような用事でなければ後に……」
「一刻、一秒を争う用事どす。この上なく深刻な、デッドオアアライブゆう問題どす!」
そのあまりの気迫に押されてか、さすがのキンタローも、む……と言葉を呑み込んでしまい。仕方なく体を開いてアラシヤマに総帥室への道を開ける。
その意外とあっさりとした反応にほんの少しだけ違和感を感じつつも、アラシヤマはキンタローの脇をすり抜け、総帥室の前までたどり着いた。
急ぎ足でどこかへ向かうキンタローの背がエレベーターの中に消えていったのを確認してから、誰もいなくなった廊下で、二、三度ほど深呼吸を繰り返し。逸る鼓動を必死で抑えつつ、アラシヤマは総帥室の扉をノックする。
「シンタローはん、ア、アラシヤマどす」
少しの間の何かを我慢しているような沈黙の後(これはアラシヤマが総帥室を訪れたときは毎度のことだ)、げんなりしたような声で、入れ、とシンタローが答えた。
この上なく性能のいい換気装置をつけておきながら、室内には仄かに煙草の匂いがする。飾り気はないが豪奢な部屋で、目当ての紅い服の総帥は、何故かふてくされたような表情をしながら、重厚な机の上に両手を組み合わせていた。
「なんや……ありましたん?シンタローはん」
機嫌損ねてはるいうのはキンタローの方便やなかったんかい、と心の中でそっと呟きながら、眉間に二重の皺を寄せているシンタローに、アラシヤマは問いかける。
だが予想通りというべきかシンタローから返されたのはギラリ、と効果音が聞こえてきそうなほど凶悪な視線で。
「なんでもねーよ。それよりなんだ、用件は。くだんねーことだったらブッ飛ばす」
「い、いや、その、あの、どすな」
意気込みだけは十分。シンタローの険悪な目つきにも慣れきっている。だが、いざ本題を口に出そうとすると緊張が先立って、舌が強張ってしまうアラシヤマだった。
あかん、リラックスやアラシヤマ。冗談ぽく言ってしもたらええやないどすの。このチャンス逃したらあと一年待たなあかんのやで。シンタローはんをトガワくんやと思って勇気を出すんや――とシンタローが聞いたら眼魔砲で即滅されそうなことを思いつつ、冷たい汗をだらだらと流しながら荒い呼吸を繰り返す。
一方シンタローはといえば、キンタローの言うとおり、またアラシヤマが見て取ったとおり、いつも以上に不機嫌だった。よほど心にゆとりがあるときでなければ(そしてそんな日は一年に二日とないのだが)まず見たくない顔の唐突な来訪もさることながら、今日は昼に急なネット会議が入ってしまったため、昼食をとり損ねたのだ。
しかも、そういう日に限って朝食すら抜いて慌てて執務室に来ていたという経緯がある。立て続けに飛び込んでくる突発事項に次ぐ突発事項で、秘書に頼んで簡単なものを買ってきてもらう暇すらなかった。やっと先ほどたまたま打ち合わせのために訪れていたキンタローが今日は比較的手がすいていると言ったので、好意に甘えて、急ぎで何か軽食を買ってきてもらうよう頼んだばかりである。
そこにのこのこと現れたのが、常を超えて挙動不審極まりないアラシヤマだったというわけだ。
空きっ腹と苛立つ存在の両方を抱えて上体を机の上に突っ伏すと、片隅においてある多機能電子時計の緑の文字盤が目に入った。その日付を見て、ああそうか、今日はあの日だったかとシンタローは思い出す。
「おい、アラシヤマ」
「ななな、なんどす?」
明らかにいつも以上に奇怪な動きを見せるアラシヤマに目を眇めながらも、シンタローは机の上に両腕と首を放り出したまま言葉を投げかける。
「Trick or Treat」
とりあえず、小腹を満たせるものならなんでもいい。年間行事にかこつけて下心つきのプレゼントを常に用意しているアラシヤマである。何かしら食物にありつけるかもしれないし、もしなかったら(あるいはそれがおたべだったら)トリックと称して眼魔砲の一発も食らわせて憂さ晴らしをしてやろう……。
そんなことをぼんやりと考えていたシンタローは、次の瞬間アラシヤマの表情を見て心底ぎょっとした。
これでもかというほど顔を真っ赤にしたアラシヤマは、口元に手の甲を当てたたまま、ぼたぼたと鼻血をたらしながらシンタローを見ているのだった。
「い、いたずらくらいまでどしたら……ああっ、でもやっぱりあきまへん!!シンタローはんの希望には出来る限り添いたいどすけど、せやけど、わてが下になるんだけは……でけまへんッッ」
「………は?」
そうして少女マンガの主人公よろしく大粒の涙をこぼしながら総帥室を出て行こうとする。ただ部屋から外に出る間際にふと足を止め、演出過剰に扉のフチに手を掛けると、ぼろぼろと泣きながら無理やりに笑顔を作ってシンタローを振り返り。
「ホンマは……わてが言いたかったんどすえ。シンタローはん……」
それだけを言うと、今にも倒れんばかりの哀愁を背負いつつ、ふらつく足取りで退出していった。
シンタローはその一連の行動の最初から最後まで、言葉もなくひたすらに怪訝な表情で眺めているしかなく。
「なんだぁ、アイツ…」と呆然と呟く総帥のその頭の上には、無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。
***
コトの元凶となったグンマ博士は結局、予想通り高松とキンタローから贈られた甘い菓子の山に囲まれて非常に幸せな一日を過ごしたため、アラシヤマに言ったことなどは、きれいさっぱり頭から消え去っており。
とにかくその日以来、アラシヤマはケチで挙動不審でわけがわからない、という団内の定説が、よりいっそう深まったのであった。
Fin.
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アラシン祭に出させていただいていたものです。
いや、とにかく明るく軽い小説が書きたくて、ひたすらテンション上げて楽しみながら書きました。
跡地には目次ページから行けますので、もしまだの方いらしたら是非。
皆様方の素敵アラシンが拝見できますv
このページのみ背景はこちらのサイト様よりお借りしました。
闇の中に淡色の絵の具をほんの少し混ぜたような仄暗い廊下に、硬い革靴の音が響く。
重くもなく軽くもなく廊下に反響するその音は、機械的なまでに規則正しいリズムを刻む。それは歩く人間が特殊な訓練を受けている証拠だ。
等間隔に配置された非常灯の緑色の光だけが、白銀色の床にぼんやりと浮かぶ。
地下にあるこのフロアに外光を採り入れるための窓はない。もっとも窓があったところで、時刻はすでに午前二時を回っている。明るさはさして変わらないだろう。
『seawall』
大小合わせれば団内に無数にある資料室。地下三階の片隅にあるここは、利用する者すら滅多にいない。ほとんど無用と化しながら捨てることだけはできないという類の資料が積まれ、資料室とは名ばかりの単なる保管庫に、半ばなりつつある。
そこにあるのはデータベース化さえされないようなものばかりだった。かなりの昔、ほんの小さな依頼の事前調査で使用した写真資料や、それらに僅か関与した民間人の個人情報。旧態依然とした手書きの資料と紙焼きの写真が多く収められているのも、この部屋の特徴だ。そのせいか、ほぼオートメーション化が完了しているこの団内にあって、ここには古い図書館のような埃の匂いと、微かな湿気を帯びた空気がある。
アラシヤマがその部屋に向かっていたのは、そういった空気の中に無性に身を置きたい気分だったからだった。他と隔絶された空間で、一人考え事をしたいときなどに、こっそりと作っておいた合鍵を胸ポケットに忍ばせて、アラシヤマはここを訪れる。
しかし今、目的の部屋の前で鍵穴に鍵を差し込んだアラシヤマは、少なからぬ戸惑いを感じていた。
(鍵が、かかってへん……)
一応、名目上は資料室であるのだから利用者がいたとしてもありえない話ではない。しかし時刻が時刻であるし、それ以上にアラシヤマはここに自分以外の人間が訪れているのを見たことがなかった。
引き返そうか、と一瞬ためらってから、しかし一抹の好奇心がその背を押して。あまりに使われないため電動にすらなっていない扉を、音を立てないようにゆっくりと開ける。奥に並ぶ無数の書架と、その手前にあるいくつかのアルミ製の机。常ならば完全な闇に閉ざされているはずの室内は、今はほんの少しだけ明るい。片隅にあるひとつの卓上スタンドに、小さな光が点っている。
その灯りの元で古い机にうつ伏せに眠っているのは、団内にただ一人、真紅の制服をその身にまとう資格を持つ男だった。
(―――シンタローはん?!)
季節はもう十一月。いくら冷暖房の完備された団内とはいえ、日中に光が射しこまず人気もないこの資料室の、夜の冷え込みは上層階のそれとは比較にならない。そんな場所で、しかもこのように不自然な体勢で眠ったまま一夜を過ごせば、風邪をひくとまで行かなくとも、体に変調を来たすのは必至だろう。
なぜこんなところに、という疑問はとりあえず後回しにして、夢の中にいるときでさえ眉間に皺を寄せたままのその表情を若干痛ましく思いながらも、アラシヤマはシンタローを起こそうとした。だがその手が、シンタローの突っ伏している机の上に散乱している書類を目にした瞬間、ぴたりと止まる。
何十枚と散らばっている紙の、一番上に置かれていたのは、今日の日付の任務報告書。正しくはその中の最後の一ページ―――団員の戦死者リストだった。
(――― Total 27)
リストに羅列されているのは英字で書かれたフルネーム。それらの最後に引かれた一本の線の下にある無機質な二桁の数字は、シンタローが総帥になってからの新生ガンマ団では、初めて見る多さだった。
(F国の内乱制圧……そないに被害が出たんか……)
今朝方に全てを終えたその任務自体の結果は、成功。拠点をことごとく破壊され一つ残らず武器を押収された反政府組織は、もはや徒党を組める状況にはなく。政府はガンマ団の任務完了報告と同時に、反体制への勝利を宣言した。だがそれだけをとっても素直に喜べるほど、シンタローは割り切れていたわけではなかったのだろうと、アラシヤマは推測している。
当初、今回の任務を受けることを、シンタローは強硬に反対していた。理由は諸々あれど、そのもっとも大きなところは、正義の所在があまりに不明瞭だったからだ。それは、いまやこの団を支える最大の行動理念であるというのに。
更に言えば、おそらくシンタローが自らの感覚として共感していたのは、体制を打破する側だった。
一国内の同じ制度の中に生きる者でも、その環境に感じることは千差万別。そこに外部のものが介入しようとするとき、正当な理由として信じられるものは「民の声の多数決」という笑いたくなるほど「ロジカル」な統計しかない。
今回の件ではそれすらも明確ではなかった。就任以来徐々に張り付いていく絶対者としての鉄面皮の内側に、どうしても拭いきれない疑問が残っていたことを、アラシヤマは知っている。
シンタローは最後まで迷っていた。だがそれでもこの件を受けざるをえなかったのは、前総帥時代から残る数少ない幹部のほぼ全員が参入を強く主張したからだ。GDPこそ低いとはいえ莫大な天然資源を所有する一国を味方につけ多額の報酬を得るのと、迷いを残した判断で敵と為すのと、外交としてどちらが正しいというのか。その言葉に理論的な齟齬はなく、そして代替わりして日が浅いシンタローに、彼らを振り切る力はなかった。
成功しても失敗しても後味の悪いものだということは、依頼を受けたときからわかりきっていたことだったのに。
(しかも、その代償がコレ、ちゅうわけや)
名前の横には、ごく簡単な一文でその死亡状況が書かれている。アルファベット順に並べられたその名前の大多数の横に書かれた理由は同じだった。自らの正義を狂信的に遂行した人間一人が賭した命は、同じく自らの任務の正しさを信じる多くの団員の命を、一斉に、奪った。
内乱における犠牲者の数として、二十七というそれが多いのか少ないのかは評価が分かれるところだろう。戦場に身をおかない人間がテレビのニュースで、或いは新聞の活字でそれを目にすれば、そんなものかと納得も理解もすることなく、ただ思うだけの数字だ。そしてそれはまた、以前の体制に慣れきっていたアラシヤマや他の多数の団員にとっても、正直に言ってしまえばさほど大きな意味は持たない。
せやけど、こんお人はきっと、とアラシヤマは確信以上の思いを抱えながら、ほとんど憐れみにも近い眼差しでシンタローに目をやる。
(その数の重さと、その後ろにある悲しみのほんまの数を、ぜんぶ、背負い込む)
個人差はあれど、その根底に絶対的な冷酷さを持つ青の一族の中にあって、唯一それを徹底できない人間。
(正義の味方、標榜するなんて、ほんまは……)
その後に続く言葉を、アラシヤマはしかし思考の中ですら形にはしない。そんなことは、シンタローにだってきっと、嫌というほどわかりきっていることだ。
シンタローは机の上に突っ伏しながら、微動だにしない。よほど深い眠りについているのか、呼吸音すらほとんど聞こえなかった。馬鹿げたことだとは思いながら、アラシヤマはその生存を確認したい気分に駆られる。だが、彼が何を思ってここを訪れ、この墓碑にも似た紙を前に眠っているのかを思うと、安易に手を触れることも憚られるような気がして。
しばらくの間、室内の薄闇に溶け込むようにその場に佇む。そうしている内にふと肌寒さを感じ、とりあえず脱いだ上着を以前より少し痩せたように思える肩にそっと掛けた。
深まる冷え込みにもう一度、起こそうかどうかを考えながらシンタローの俯けられた顔を覗く。そのとき彼の顔に表れた、全く予想もしていなかった変化に、アラシヤマはぎくり、と前髪の隙間から覗いている片目を見開いた。
シンタローの眉根はもう顰められてはいなかった。そしてその代わりにその顔に現れたのは、頬に一筋の軌跡を残す、涙。
そして同時に、ようやくアラシヤマは気付いたのだ。卓上にあるシンタローの手の下に置かれている、一枚の写真の存在に。
それは、蒼の写真だった。どこまでも続く青い空と、その遥か彼方にたなびく真白な雲。そして太陽の日差しに水面を輝かせる、澄明な青い海の、写真。
たとえば海と題されたものであればどんな写真集にでも載っていそうなその一片の風景を、シンタローは大事に守るように、またどこか隠すように、その節の目立つ手の下に置いており。その仕草が彼の心の内を何より強く訴えているような気がして、アラシヤマはゆっくりと上げた片手で目を覆った。
(―――ああ、あんさんは)
閉じた瞼の裏に、あの溢れるほどの黄金色の陽光が甦る。
(ほんまは、そないに帰りたいんやな―――)
もしかすると、シンタローはあの島にたどり着くまで、その感覚すら知らなかったのかもしれない。たとえば自分が士官学校で、師と過ごしたあの山荘を苦しいほど思い焦がれたように。己の力ではどうすることもできない胸を灼かれるような切なさを、シンタローが知ったのは、あの少年を残し島を離れたときが、初めてだったのではないか。
愛する弟と引き離されていた辛さ、憤りは確かに彼の身を引き裂かんばかりであっただろうけれど、シンタローには常にマジックという「家族」がそばにいて。振り返ればそこにはいつでも、彼にとって帰るべき家があった。もちろん、今でもその状況は変わらない。現役を退いた元総帥は相変わらず黒髪の息子を溺愛しているし、マジックのみならず彼の周りには彼を心から愛し、補助しようとする家族がいる。そこは間違いなく、シンタローにとってかけがえのない「家」だろう。
それでも、きっともう彼は知っている。泣きたくなるほど甘く狂おしく、胸を締め付ける望郷の念。それを向ける対象は、言葉の定義どおりの故郷だけではないのだと。
「わてらみぃんな足しても、まだ……敵わん、か……」
否、自分たちだからこそ、敵わないのだと。抑えられたその声はほとんど、アラシヤマにとっての自嘲だった。本当はそんな問題ではないことは知っている。彼がどちらをより大事に思っているのかを比較するなど、考えようとすることすら愚かだ。
それはただ純粋に、本当に単純に。彼にとってあの楽園にも似た南国での生活が、それだけ鮮やかで幸せに満ちたものであったというだけの話。
彼が今の立場から逃げ出そうとしているなどとは、アラシヤマは微塵も思わない。それでも、もし彼が時として何もかもを置き去りにして無性にそこに帰りたいと願ってしまうことがあったとしても。彼があの島でどれほど満ち足りた笑顔を浮かべることがあったかを知る者であれば、それをアラシヤマも他の誰であっても、責めることなど出来はしない。
あの南国を、彼の友人を愛したからこそ、そこに結ばれた約束をシンタローが違える筈もなく。彼がそんなことを、何があっても口にしないことを知っているから、なおさら。
―――堪忍な、とアラシヤマは、シンタローの顔に触れないように、そこにかかる長い前髪をゆっくりと指先でかきのけながら呟く。
「行ってもええて――背中は押せへんのや……」
それは彼の決断であり、自分の思考や行動で何かが左右されるような問題ではないことも知っている。彼は彼の思うままにそれを行い、そして自らの意思で、己を縛り付けてすらも、ここで生きると決めた。
その心の底でどれほど望んでいようと、解放は救いと同義語にはならないと理解しているから。アラシヤマたちにできるのは、ただそんな彼を見守り、少しでもその心を推し量ることだけだ。
「あんさんが背負うとる荷物の肩代わりもできへん。ほんまはできることなんて、なんもあらへんのかもしれん。それでも」
どれほど重い枷を与えられ、邪険に扱われても。自分は、自分らは決して彼の傍らを離れはしないから。そのことが彼自身にしか解決の出来ない多くの問題に、どれだけの助けとなるのかはアラシヤマにはわからなかったが。もし信頼を与えてさえくれるのならば、それを裏切ることだけは絶対にしないから。
だから、どうか。
その強い光を持つ瞳を曇らせることなく、強がりでも毅然と前を向いていて欲しいと、心から願う。
ホンマ、頼むわ……と投げかけた声は音にならず、懇願と励ましを含んだはずのその言葉は、まるで贖罪のように己の内に響いて。
アラシヤマはシンタローの頬に残るその水跡を、まるで淡雪に触れるかのように、そっと指先で辿った。
了
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新4巻であの台詞を言えるようになるまでには、
どれだけの葛藤があったんだろう、と、勝手に考えて切なくなる。
『on the wild world』 -epilogue-
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
==========================================================
BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
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BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld
本文の前に
このストーリーは、PAPUWAの名を借りたゆずポンの捏造小説の中でも
群を抜いて嘘つきな物語です。
作品を読んで戴ければ分かるのですが、シンちゃんとパパの関係も
状況設定も環境も、なにもかもが作り物です。
それを踏まえた上での閲覧をお願いします。
繰り返しますが嘘ばっかりです OK?
the opposite bank …parallel story
イートン校に通う少年は、外出時であっても制服を着用しなくてはならない。
燕尾服を着た学生たちはまだ幼い顔をしたものも多く、往来を行くその姿は道行く人々の目を十分に楽しませていた。
尤も当の彼らといえばそのような視線には慣れているので、動じたり浮かれはしゃいだりすることなど決してなく、伝統に培われた絶対的な自信を胸にしゃんと伸ばした背筋も美々しく目的地へと足を運ぶ。
金の髪に蒼い瞳を持つ、子供にしてはやたらと大人びた表情をもつ少年…マジックも、その中の一人だった。
この町には外国人観光客が数多く訪れる。
史跡、旧跡、名所と呼ばれる場所や建物がいくつもあり、さらにイートン校に通う少年たちが見られるのだ。人気があるのも頷ける。自分たちを見てなにが楽しいのか分からないが、それでもカメラを向けられたことに腹を立てるよりは素通りしてしまう方が早い。
自身の誇りはもちろん、自分たちはこの国の伝統と名誉を負ってもいるのだ。無益な雑事に囚われる閑など微塵もない。
その日は授業で使う資料を探しに書店へ行くことになっていた。図書館に行けば済む話ではあるのだけれど、帰りにチョコレートを買うという目的があったので数人と連れ立って寮を出たのだ。
なんでも日本ではバレンタインデーと呼ばれる風習があり、好きな人にチョコレートを贈り愛を告白するそうだ。マジック自身も日本には興味があり、そういった行事が嫌いな性質ではなかったので付き合うことにした。
初めにその話を持ち出したのは同室の少年だった。
去年の夏、父親と親交のある日本人一家が彼の家に滞在し、その娘に一目惚れをした。向こうも憎からず思っているのは確かなようで、また会おうと硬く約束を交わしたという。そのときに出たたくさんの話の中にバレンタインデーのことも含まれていたというのだ。
日本では女性から男性にプレゼントを贈るそうだが、物心付いたときには女性を敬い、守るべき立場にあると教育されてきた自分たちにとりその習慣は受け入れ難い。愛を伝えるのならばどちらが送ろうと構うことはあるまいと力説するので、その場にいた誰もが深く頷いた。
十二歳になったばかりのマジックには、愛という言葉はまだ重過ぎると思うけれど。
それでもいつか、本当に愛する人が出来ればわかるのだろう。
選び抜いた贈り物に気持ちを籠めて、恋を、告白するそのときに。
本を探すという大義名分はすぐに飽きられ、少年たちはいそいそと菓子やケーキを売る店に向かった。
日本に送る手間が掛かるため小さな店では事足りないだろうと、大通りに面した有名店を目指して歩く。
その途中のことだった。
長い黒髪を持つ青年が、片手に地図を持ち林立するビルを見上げている。
日本人だ。すぐに分かった。髪も、地図を見る目も黒く、顔立ちも自分とはまったく異なる。日本人にしては随分背が高いけれど、それでも背に掛かる艶やかな黒髪は、いつか見た日本画に描かれていた十二単姿の姫君のようだった。
道に迷った旅行者なのだろうか、いかにも“困った”という顔で周囲に視線を廻らせているのが少し、おかしい。十七、八だろうか。日本人は若く見えるというから、もしかしたらもう少し上なのかもしれない。
誰かに声を掛ければいいのに、母国語しか操れないのか地図を見ては溜め息をつくばかりだった。
気付かず歩き去る友人に先に行くよう伝え、マジックはその青年の下に向かった。自分を目指し歩いてくる少年の気配はすぐに分かったようで、ほっとしたような、警戒したような眼差しでこちらを見る。
「こんにちは」
「あ、日本語話せるんだ。助かった」
「少しです。ゆっくり、一言ずつ、話してください」
日本語は一年前から習っている。自ら希望して学び始めたのだが、役立つときが来たようだ。
「えーと、俺は旅行者なんだけど、ちょっと道に迷ったみたいで」
「どこに向かいますか?」
「この店なんだけど。お菓子。ケーキとか、チョコとか売ってる店。えー、販売店。…の方が難しいか」
「分かります。ケーキやチョコレートを売っている店、ですね」
「そう。分かるかな。きみ、地元の子じゃないだろ?あっと、ここで生まれ育った子じゃないだろう?」
「ここでは生まれていません。でも、知っている店です」
「マジ?やった、助かった」
「これから僕も行きます。一緒に行きましょう」
「サンキュー。…あー、発音悪いか」
「それも分かります。大丈夫」
笑いかけると彼も笑い返してくれる。マジックより年上なのは確かだが、それでも微笑む様は少年のように愛らしい。心細げに周囲を見る怯えた目つきも可愛いと思ったが、彼は、笑った顔の方が数倍も素敵だ。
目的地が同じだったことは偶然だが、店自体に用のなかったマジックもこれで大義名分が出来た。機嫌よく異国人をエスコートしながら、まずは紳士らしく自己紹介をすることにした。
「僕はマジックといいます。イートン校の学生です」
「いーとんこう?…あ、学校か。中学?って日本と基準が違うんだろうな。えっじゃあそれ制服?」
「はい、これは学校の制服です」
前半の言葉の意味はよく分からないけれど、確かにこの国に存在するパブリックスクールの中でも外出時に制服着用を定められているのはイートン校だけだ。襟元を指先で摘まみ、彼に向かって肩を竦めて見せる。
「おかしいですか?」
「や、おかしくなんかないよ。すげえかっこいいし、似合ってるし。でも燕尾服が制服ってのは日本じゃありえないからさ」
「そうですか。あなたは日本人ですか?」
「うん。…と、張り切って言えるほど純粋かどうかはわかんないけどな。あ、日本人百パーセントじゃないかもしれないってこと。分かる?」
「はい。でもとても綺麗な黒髪です。僕は日本人の黒い髪がとても好きです」
「そうかぁ?俺はきみみたいな金髪の方がずっと綺麗だと思うけど」
「僕の髪は綺麗です。いつも褒められます」
「は、」
きょとん、と目を丸くして、それから。
「あはははははっ、そうか、綺麗って自覚があるか。あはははははっ」
それから彼は、笑った。
とても楽しそうに。
とてもおかしそうに。
笑った。
「…太陽だ」
「あははっ、え、あ、ごめん。なに?」
「あなたは太陽です」
「…は?」
黒髪の青年は不思議そうに見詰めてくる。黒い瞳。深く澄んで、それは吸い込まれそうな。
「あなたは太陽です。僕は、とても好きになりました」
「すごいな、紳士って男にもそんなこと言うのか」
感心したように言って、それからまた微笑んだ。伸ばされた掌が金の髪に触れる。
「じゃあきみは、…マジックは、月だな」
「つき?」
「月。ムーン」
「ああ。…僕が月?どうしてですか?」
見上げる彼はとても優しそうに笑っていて、その笑顔はとても幸せな気分になれる素敵なもので。これまで自分のことを、こんな風に見る者はなかった。こんなに静かに見つめてくれる者などなかった。
誰一人。
「夕べ夜中にドライブしたんだけど、そのときに見た月が真黄色で、でかくて、すげぇ綺麗だったんだ。森の上に浮かんでてさ、ホント、生まれて初めて見たよ。あんなに綺麗な月」
「夕べ、ドライブ…ああ、車で観光地を廻ることですね。そのときに見た月が綺麗だったのですか?僕の髪は夕べの月のように綺麗だと」
「ドライブって和製英語か?えーと、うん、まあそういうこと。マジックくんの髪はでかくてピッカピカに光ってる月みたいに綺麗だよ」
「あ、ありがとうございます」
「褒めてもらった礼じゃないからな。本当にそう思ってるからな」
ぽん、と頭を叩かれる。その親愛の情のこもる仕草に胸が熱くなった。こんな風に触れてくる相手も初めてだ。しかも不快ではない。
嬉しい。
微笑む瞳をうっとりと見詰めていると、髪に触れていた手を離し困ったように頬を掻いた。
「えーと、それで案内の続きを頼みたいんだけど」
「ああ、ごめんなさい。こちらです」
道に迷ったといっても通り自体は合っている。一ブロック先へ進めばそこが目的地だ。級友たちは既に到着しているだろう。
再び歩き出したもののマジックの足取りはひどくゆっくりしたものだった。店に着けば案内役は終わってしまう。少しでも長くこの太陽と共にいたい。
「お菓子を買うのですか?」
「うん。土産なんだけど、日本人ってなんか海外土産はチョコって感覚があるらしいんだよな」
「おみやげ。プレゼントですね」
「まあそんなもん。一緒に来たやつは紅茶の専門店に行ってるんだ」
「一緒に?友達と一緒に旅行をしているのですか?」
「んー、まあ…そんなとこかな…」
曖昧に答えた顔が、少し、歪む。
太陽が翳る。
「あの、」
「ん?」
「一緒に旅行をする友達は、友人ではないのですか?」
「友達も友人も一緒だよ」
「ああ、なんと言えばいいのかな。一緒に旅行をするのなら、友人なのではないですか?」
「仲がいいかってこと?うん、まあ仲の悪いやつと一緒にはいられないけどな」
「好きな人ではないのですか?」
「好き?」
「恋人では、ないのですか?」
「恋人、ねぇ…」
表情は益々暗くなる。
友人かと聞けばそうではないような返事をする。ならば恋人なのかと聞き返せば、もっと辛そうな顔をする。
笑った彼が好きなのに、自分のした質問は彼を苦しめているようだ。そんな表情はさせたくない。笑ってほしい。笑って、自分を見て欲しい。それなのに。
彼の好きな人、彼の恋人という言葉に胸が痛んだ。黒い髪の太陽は、その輝きを自分ではない誰かに与えているという事実はとても切なく哀しいもので、出逢ったばかりとはいえ隠しようのない気持ちを自覚させた。
一目惚れというものは本当にあるのだ。
そして運命はいつでも思わぬところに罠を仕掛けている。
「恋なんてさ、半分以上が錯覚だよ」
「さっかく?」
「気のせいってこと。あー、子供になに聞かせてるんだろうな」
苦笑して、それから前を向いてしまう。
「僕は子供です。でも聞きたいです。あなたのこと」
「俺のこと?」
「恋人のことを、本当は好きではないのですか?」
「恋人じゃないよ。本当に好きかと聞かれればそうじゃないし、嫌いかと聞かれれば…うーん、それも嫌いじゃないとしか…」
「恋人ではない人と、一緒にいるのですか?」
「日本語に腐れ縁って言葉があってな。英語だとなんていえばいいんだろう…好きとか嫌いとかじゃなくて、惰性で傍にいるってどうしようもない状態のことをそういうんだよ」
「好きではないなら一緒にいなければいいのではないですか?」
「気持ちってさ、確かに自分のものだけど、でも思う通りの方向に動かせるものじゃないだろ。好きな人を嫌いになろうと思っても無理なように、ずっと傍にあったものを簡単に切り離すってことも出来ないんだ」
「でも好きではないのなら、」
「好きじゃないとは言ってない。な、この話はこれで終わり」
少し煩わしそうに言い切る。眉を寄せた表情は、それも見たくない、させたくないもの。
太陽の翳りを作るのは月。
彼を悲しくさせるのは、自分。
届かない。
the opposite bank …parallel story
それから少しの間は黙ったまま歩き、目的の店の手前で足を止めた。
「この先です。二つ目の建物があなたの探していた店です」
「なんだ、通りはあってたんだ。やっぱりあいつの地図の書き方が変だったんだな」
あいつ、というのが彼を輝かせることの出来る存在なのだろうか。
曖昧で暗い表情をしたけれど、それは子供の自分では分からない感情で踏み込ませたくはない領域にあるものなのだろう。
通りがかりの道案内が触れられる限界は超えている。
「助かったよ。マジックくんもなんか買うんだろ?お礼に俺が買ってやるからさ」
「僕は行きません」
「え、僕も行くって言ってなかった?」
「僕は…」
爪先を睨む。拳を握る。
恋なんて半分以上は錯覚。そうだ、“さっかく”とは事実と異なることをそうだと思い込むこと。日本語の辞書にはそう記してあった。
だからこれは錯覚だ。
彼が太陽なのも。自分が月なのも。
すべて。
「僕は、行きません。さようなら」
「え、あ、さよなら」
「さようなら」
さようなら。
日本語の授業で一番初めに習ったのが“こんにちは”と“さようなら”。
二つの言葉は対を成し、出逢ったときと別れるときに使う言葉だと教えられた。
さようなら。別れの言葉。
もう逢えない。
僅か数分のうちに落ちた恋は、一ブロック先で消えてしまった。
去っていく彼の背中を見詰めたけれど、振り向くことなく店の中へと消えていった。黒髪が、吸い込まれるかのごとくうねる様はまるで自分を拒絶しているかのようで益々悲しくなってくる。
こんな恋をするのは、世界中でも自分だけに違いない。
望めばなんでも手に入る。
誰もが自分にかしずき敬う。
すべてがあってすべてが皆無の冷めた日常の中、初めて出逢った温もりなのに。
自ら見つけた太陽なのに。
きっと、やっと、出逢えた。
通行人の邪魔にならないよう隅に避けて立っていた。
じきに級友たちが出てくるだろう。寮には一人で戻るべきではないと思ったので仕方なく立ち尽くす。もし先に彼が出てきたら気付かぬ振りをすればいい。声を掛けられたらもう一度“さようなら”と答えよう。名誉も、伝統も、こんなときには何の役にも立たない。
常に背筋を伸ばし前を向いて進むようという指導は受けていても実践出来るとは限らない。背を丸め、石畳を見詰めるうち悲しい気分が盛り上がりだんだんと視界がぼやけてきた。
ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。
爪先の周りに雨が降る。
傘を持つ習慣はほとんどないが、それでも制服を濡らすのは嫌だと思う。重たい燕尾服は惨めな気持ちを増長するから、だから出来ることならやんでほしい。
降り始めたばかりだから、きっと、すぐにはやみそうにもないけれど。
「泣くなよ」
ぽん、と。
「俺が泣かせたのか?なんか気に障ること言ったか?」
頭に乗せられた掌。温かなそれ。
「中学生にはなってると思ってたけど…もしかしてもっと下か?」
「した?」
「いまいくつ?何歳?」
「十二歳です」
「うわー、俺より十歳も下かよ」
「あなたは、十八歳くらいだと思っていました」
「俺は童顔じゃねえぞ。ってまあ日本人は若く見られるって言うもんな」
苦笑して、それから指が髪を梳く。
「お礼、ちゃんとしたいからさ。これ」
差し出されたのは赤い包装紙に包まれた小箱。彼が訪ねた店の名前が印刷された、金のリボンが巻かれている。
甘い匂いが微かに漂い、それが益々切なくさせる。
「わっなんで余計に泣くんだよ!」
「にほ、んは、」
「は?日本?」
「日本、では、好きな人に、チョコレートを渡すのでしょう」
「ああ、バレンタインのこと?」
「僕のことは、好きでは、ないっでっ、しょ、」
「あーあーでかい目が大洪水だぞ。蒼いからマジで噴水みてえ」
「好きでは、なっい、なら、渡しては、いけませっん」
「や、これバレンタインのチョコじゃないし。お礼だし」
「お礼なら、いりっません」
「えっ!なにそれ、じゃあバレンタインなら受け取るのか?」
「は、いっ、うっ、はいっ」
「いや、はいって言われてもさ…」
困ったように首を傾げる。ああ、益々彼に嫌われることを言ってしまったのだ。そう思うと涙は止まるどころか際限なく湧き上がる。
「日本のバレンタインって女の子が好きな男にチョコを渡して告白する日だって知ってる?」
「なぜ、女性に限定するっのです、か。男性が贈っては、いけなっ、い、のですか」
「いけないことはないけど…まあ日本じゃ普通しないなぁ」
「ぼ、僕は、あなたが、好き、です。あなたから、チョコレートを、贈られたいです」
「あー…」
再び首を傾げ、頬を掻く。彼の癖なのだろうか。
けれど今度は笑っていた。優しく、温かく、包むような笑顔で見詰めてくる。くすぐったそうに、という言葉があるが、きっとこういう笑顔のことを言うのだろう。
「なんだかわかんねぇけど、マジックくんが欲しいっていうならあげるよ」
「僕が、ほしいと言えば?」
「バレンタインのチョコ、俺から欲しいならあげる。これは、俺からきみへ、心を籠めてプレゼントする」
太陽が。
「ハッピーバレンタイン。…って、言うらしいぞ」
照れた分、輝きが増した太陽。
雨上がりの空によく似合う。
「僕に…」
「嬉しいのかどうかわかんないけど、泣くほど欲しいって言われて拒むほど勿体付けられる身分じゃないし」
掌に載せられた箱は軽くて、けれどそこに籠められた気持ちはとても重い。
生まれて初めての重み。
きっとこの先、二度とは得られない彼の気持ち。
「…ありがとうございます」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
「ありがとう…ござい、ます…」
「…また泣く」
頭の上の温もりが染み入る。
彼が好きだと繰り返す。
言葉にしないなんて、そんなこと、出来るはずもなく。
「あの、」
「シンタローはん」
「…なんだ、今日は別行動って言っただろ」
「わての方はもう用事が済んでしもうたんどす。はよホテル戻りまひょ」
「俺はまだ買い物途中だっつの」
黒い髪。けれど太陽ではない。
夜の闇のような男が彼を見ている。傍にいる自分などまるで視界にすら入っていないかのように、我が物顔で彼の腕を掴む。引き寄せる。
「日本とちごうて物騒な国やし、あんさん一人で歩かせる訳にはいきまへん」
「ガキじゃねえよ」
「ガキやないから始末におえんのどす。みてみい、こないな子供にまで引っ付かれて。わての気持ちも考えとくれやす」
「なんでお前の気持ちなんか考えなきゃ、」
「わて、だからどす」
毒、という言葉を習った。
それは体に害をなす薬物のことを指し示すものだが、他にも意味があると教えられた。
毒のある言葉。
毒のある笑顔。視線。
「さ、行きまひょ」
「おいっ」
「行きますえ」
「おいって、」
「シンタローはん」
彼には笑顔を。
自分には。
「なんや知らんけど、あんさんシンタローはんになに言わはったん?このおひとになんやしたなら、子供かて許さへんで」
毒のある、という形容を理解した。
彼が輝きを翳らせるもの。
太陽を覆い、その光を遮るもの。
月ではなく夜。
夜そのもの。
「ほな行きますえ」
「お前な、マジックくんはわざわざ道案内をしてくれたんだぞ!」
「その礼は手のもんで果たしたやろ」
顎で示された小箱を背後に隠す。汚されるようで嫌だった。
「だけどものには言い様ってもんが、」
「いい加減にしなはれ」
ぴしりと切るように言い放つ。
「行きますえ」
再度腕を引かれると、彼は、諦めたように付き従った。
諦めたように。
彼には相応しくない、その冷めた表情。
誰かに似ている。
きっと、誰かに。
自分に。
「シンタロー!」
「…え」
驚いたように振り返る顔。黒い瞳がまるで救いを求めるようで。
「シンタロー、僕は、あなたが、好きです」
「え、あ…」
「僕はあなたが好きです!好きです!好きです!」
哀しそうに。けれど嬉しそうに。
「ありがと」
笑って。
「ありがとな」
笑って。
「ありがとう」
その背中はすぐ、人通りに紛れて消えた。
手の中の小箱がなければ、きっと、夢の中にすら埋もれ忘れる刹那の出逢い。
彼のことが好きだ。
だからしっかりその言葉を繰り返す。
彼のことが好きだ。
好きだ。この気持ちに嘘はない。いまだけのものじゃない。好きだ。
消えてしまった背中を、その幻影を追いながら、それでも心の中は澄んでいた。
これは一瞬の出逢いなどではなく、永遠に続く恋の中の一秒。
必ずいつか。
いつか必ず取り返す。
彼を。
思いを。
恋を。
きっと。
きっと。
「マジック」
「…ああ、用は済んだのかい?」
「勿論。空輸できる一番大きなサイズを頼んだよ」
「それはよかった」
「おや、きみは店には入ってこなかったような気がしていたけど。誰に渡すんだい?」
「………」
「マジック?」
赤い箱。
恋の箱。
封じ込めた。
「太陽さ」
いまはまだ遠く離れた、無限の岸の、煌きに。
END or NEXT?
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…本気にして書いちゃうかも
大体、写真にはろくな思い出がない。
つまらなそうだったり、あからさまに不機嫌だったり、時には泣き顔だって晒している。
父の所持するアルバムは自分の失態ばかりが集められているから、写真には、ろくな思い出がない。
だから。
だからいまさらこんなことに気付いたとしても、それは。
Photograph 40*15
士官学校に入学して寮生活が始まると、自宅に戻る頻度は極端に減った。
それは当然のことだし、勿論意図してのことでもある。
総帥の息子だと言われることには慣れていたけれど、かといって甘んじて受け入れるだけの軟弱な根性もしていない。言いたいなら言えばいい、けれど自分にはそれを跳ね返すだけの器量がある。何事にも負けず常に一番上を目指し、そしてその高みからすべてを見下ろすのだ。
父のようになりたいとは思わない。
その為の一番ではない。
結局それが劣等感の表れだとしても自分が潰れないためには必要な決意だったのだ。
シンタローにとっては。
生来の負けず嫌いであることは確かだとしても、本来彼は争いごとというものがどうにも苦手で、加えて人付き合いというものにも不慣れだった。
如才なく振る舞うことは出来る。
誰とでも気安く接することは出来る。
けれどそれは処世術の一つであったし、シンタローが目指すものになるために必要不可欠なステップでもあった。
敵など、世界中に転がっている。
父を脅かす存在は、彼がどれほど強くとも存在するという覆しがたい事実がある。
だからシンタローは強くなければならないし、誰をも従える力を持たなければならない。いずれ総帥という地位を継ぐからではなく、父を守るために。
この世で唯一自分という存在を動かすことの出来る彼を守り抜くために。
その思いを、けれど一度も口にしたことはなかったけれど。
それほどに大きく、そして当たり前に大切な人だから。
学生寮に入寮してからと言うもの、父は事あるごとにシンタローを呼びつけた。
主席であり、学年代表でもある自分が理事長に呼び出されるのは当然である。けれど時には一日のうちに二度も三度も呼び出され、挙げ句用件と言えば『今度、学生たちを連れてピクニックに行こうと思うんだけど、どこがいい?』とか『ほら、日本の縁日?お祭りの晩に屋台がズラリと並ぶあれ。あれをね、開催したらどうだろうかと思って』などという、これまでであれば食事時の話題程度の戯れ言だから始末が悪い。
シンタローとて寂しくない訳ではない。
長く共に暮らした相手だし、なにより四六時中同じ時間を過ごせていた訳でもない。
総帥という職にある彼は多忙を極める存在だし、希に顔を合わせても懐かしさに甘えられるほど素直な性格もしていない。
だから、二人きりで話をすることは、実はとてもくすぐったくて、実はとても嬉しいことだ。
それも、口にしたことは、ないけれど。
本当は大好きなんだよ。
子供の頃から変わらずに、あなたのことが、大好きだよ。
いつだって言葉は胸の中に溢れているのに、口を開けば憎まれ口ばかりを並べてしまう。“照れちゃって”と言われれば、不機嫌に目を逸らし、無視して歩き去ることも既に慣れてしまったこと。
不器用な自分を分かって欲しいし、分かってくれていると知っていてももどかしさは募るばかりで。
喩え世界中が彼を許さなくとも自分は許せる。
それが人殺しでしかかなくとも自分だけは彼の手を取れる。
鮮血にまみれ、腐った肉の臭いの染み付いた背中であっても自分は進んで守れるし、腕に余る広さであっても、包み込める自信があった。
それこそが特権だった。
シンタローだけに許された、親子以上の繋がりすら感じる強い絆。
自分だけが、彼を、マジックという男を理解出来る。共にある。
錯覚ではないそれを思うたび、いつでもシンタローは言いしれぬ優越感に身震いを感じるほどだった。
その日、父は長い戦いの日々を終え帰還するはずだった。
予定では午後の早い時間であると聞かされていたから、授業を終え課題を済ませるとシンタローは急ぎ自宅へと駆け付けた。
寮の部屋はあまり広くはないため、必要なものを入れ替えるため時折戻ることがある。他の生徒からすればそれも特権と陰口を叩きたくなるところだろうが、なにを言われてもそれだけはやめるつもりのないことだ。
父に会う。
彼と過ごす僅かな時間。
大切な、貴重なそのひとときを守るため、普段は断ることの多い軍用車での送迎すらも喜んで受け入れた。
彼が戻っていないことを確かめると、自室の荷物を少し散らかし、いかにも“荷造りに手間取っています”という風を装った。
そのくせ数分おきに窓辺へ歩み寄り外を眺めているのだから矛盾もいいところだ。
見破られているかも知れない。
いや、恐らくばれているだろう。
そんな小細工が通じる相手ではないし、本当に、ただ荷物の入れ替えのためだけに帰宅していると思われているのは悲しい。
だからシンタローは、持っていく必要のない荷物をさも迷ったような振りで眺め降ろし、難しい表情を浮かべ溜息すら吐いてみせるのだ。
すべてはあなたのために。
この世でただひとり、シンタローという世界の中心に位置する彼のために。
「…遅い、な…」
窓外は、庭を照らす灯りにぼんやりと霞んでいる。
時計は既に深夜に近い時刻を告げ、寮にいれば疾うに消灯時刻を過ぎていた。
帰宅の予定が狂うことは間々あったし、守られたことの方が少ないのが現実だ。だからそれほど落胆することではないし約束をした訳でもないのに恨むのは筋違いだ。
けれど不安になるのは。
心細くなるのは彼だから。
ガンマ団総帥という、罪と、罰と、怨嗟をその身に纏う彼だから。
だから怖い。
二度と逢えないのではないかという恐怖に飲まれ、押し潰されそうになる。何度も。何度でも。
士官学校への入学を希望したとき、父は黙って見詰めてきた。
そして一言、許可する、と呟いた。
広いはずの背中がその時だけは小さく見えた、それは決して錯覚ではなかっただろう。
許さないと言ったところで自分の決意が変わることはない。正しくそう読みとったマジックは反対の言葉こそ口にはしなかったけれど、その後抱き締めてきた腕が震えていたのをいまでもはっきり覚えている。
庇護されるだけの子供が巣立つその瞬間を寂しがる、それだけではない痛みをシンタローも共に感じていた。
けれどいつか。
いつか、死ぬときが来るとしたら。
自分は父を守ると決め、その為に彼の腕の中を抜け出すのだから後悔はない。
泣くだろう、気が狂ったように叫ぶだろう、そうは思うがそれでも決意は揺らがない。
自分が死んで彼が残るのであればそれでいい。
それがいい、シンタローは本気でそう思っている。
青の一族であるはずの、証をなにも持たない自分。
その異端である身の息子をただ愛してくれる彼に報いるために、この命は最後の一欠片まで捧げてしまった。
入学式で、新入生挨拶の壇上で彼を見詰めたその時に。
もし、死ぬときが来たらそれは彼のため。
強い父がそれでも膝をつかねばならぬ時のため。
だから強くなる。強くなる。強くなる。
誰よりずっと、強くなる。
一番でなければならないのは、だからその決意のため。
また一つ溜息を吐き、今夜は戻らないのだろうと諦める。
諦めがいいのは彼に関することに限ってで、そんな自分が少し、嫌だ。
約束を破られることには慣れていたし、元より彼は自分相手に適わぬ誓いは立てなかった。なので、悲しく思うのは自分の勝手であり、恨む方が筋違い。
散らかった自室を出て、マジックの部屋に向かう。
この部屋の鍵は預かっていて、不在中に入室することも許されていた。
けれど実際に足を踏み入れたのは数えるほどで、なにをする訳でもなくただぼんやりと室内を見回し、ソファに掛け、湿った溜息を吐いて部屋を出るのが常だった。
その日。
だからその日、書棚に近付いたのは特に意図してのことではなかったし、気まぐれに本を抜き出してみたのも殆ど無意識のことだった。
シンタローには難解な哲学書や、まだ読みこなすには持て余す外国語の背表紙が並ぶそれは眺めていても退屈なだけですぐに飽きた。
それでも伸ばした指で本を弾き、抜き出し、足下に並べていく。
黒か紺か茶の革表紙ばかりで色味が悪い。
出した本を並べ替え、自分なりの法則に従い入れ替えたりしているうち、棚の本の殆どを出してしまったことに気付いた。
そして。
見付けた。
深い緑の色をした、掌に乗る小さな本。
開くと、そこにはシンタローの叔父、マジックの弟サービスが、彼には珍しい不機嫌そうな顔で写っている写真が一枚、挟み込まれていた。
年齢は、恐らくいまのシンタローと大差ないだろう。
その証拠に叔父は自分と同じ作りの服を着ている。士官学校の制服だ。
カメラを構えた相手に向けて怒っているのか、それとも機嫌の悪い時を狙って撮影されたものなのか。
とにかく、シンタローの前では柔らかく微笑んでいることの多い彼には珍しいその表情に少し戸惑う。
その目がひどく冷たかったから。
見たことのない鋭さを含む、険の籠もったそれだったから。
身内に甘い父だから勿論叔父にも優しげな表情でいることが多い。第一、この様な不機嫌な顔になるのはマジックの役目であり、大抵はサービスに懐くシンタローに不平を漏らすときに見せるものだった。
サービスは物静かで、けれどその静けさの中になにか言いしれぬものを隠している。“なにか”がどういうものを示すのか自分でもよく分からないけれど、微笑みつつも自分を見下ろすその瞳の中に浮かぶ色が赤いような、闇より深い漆黒のような、そんな気がして怖くなることがある。
誰にも打ち明けられないけれど、叔父のことは信じているけれど、時折。
なにを怒っているのだろう。
被写体の中心はサービスで、その他に映っているのはスーツ姿のマジックと、もう一人。
黒髪の。
マジックは写真の左端に、右頬を見せる角度で映っている。
サービスを見ている訳ではない。視線は向かいに立つ、黒髪の少年に注がれているようだった。
優しげに微笑んだその表情には見覚えがある。
自分だけに与えられるはずのその笑顔。
眩しげに伏せた睫毛の長さまで見て取れそうな、その光景。
サービスが幼いように、父も、随分と若い。青年の凛々しさはいまとは違う魅力を振りまいたことだろう。その時、共にあることの出来なかった自分を悔やみたい程度には。
そのマジックが見下ろしている黒髪の少年。
顔は見えないけれど、その微笑みが彼に向けられていることは嫌でも分かる。マジックの視界には彼しか納められていないのだから。
自分と同じ制服を着た、恐らく、同じような髪型の、少年。
鼓動が早まるのが、分かる。
シンタローは考えた。
混乱する頭を必死に動かし、周囲にいる人々の顔をものすごい勢いで思い描いていく。
黒髪。
黒髪。
そうだ、サービスと仲のよい校医。
従弟であるグンマの保護者的な存在として、団内でも確たる地位を得るあの男。そうだ、彼だ。彼に違いない。
どくどくと脈打つ胸を押さえ、どうしてこんなに動揺するのか、そんな必要がどこにあるのかと自分自身を叱咤しながら呼吸を整える。指先が震えているのが我ながら滑稽だった。
けれど。
震えが止まらないのは、写真がもう一枚あることに気付いているから。
指先に感じる二枚目。重なったそれをずらす勇気はない。
なんだろうこの焦燥感。
なんだろうこの既視感。
なんだろう。
なんだろう、この、恐怖。
怖くて。
唇も。
震えて。
どれほどの時間を、そうして過ごしていたのか分からない。
気付くと背後の気配が、優しく自分を抱き締めるところだった。
大きな手。長い指。温かな胸。
「寝ているのかと思った」
のろのろと顔を上げたシンタローは、背後から抱き締めるマジックの笑顔を認め一気に力が抜ける。彼の腕の中へ沈んでいく。
「随分散らかしたね。なにをしていたの?」
聞かれても答えられない。手にした写真も隠したいのに、動くことが出来ない。
隠したい?
どうして?
聞けばいい。これは誰?これは誰?これは誰?これは。
あなたが微笑みかけているこの黒髪の少年は一体。
だれですか。
「…ああ、それはサービスがいまのシンタローより一つ年上の時のものだね」
指先が、強く掴んでいたはずの写真を難なく抜き取る。
見られなかったもう一枚のそれも、シンタローからは遠くなって。
「確かこの時、高松に…校医をしている彼に、ひどくからかわれていたよ。写真を撮ったのも彼だ」
「…へ、え…………そ、う」
「士官候補が集う校内で“仲がいい”という言い方もおかしなものだが、それでも彼等はとても親しく付き合っていたからね。時にはこうして、互いを構い過ぎることもあったんだろう」
シンちゃんも、グンちゃんとは喧嘩ばかりだよね。
言いながら、マジックの指先が落ちていた深緑の表紙に伸びる。
拾い上げ、写真を挟む。
元通りに。
元の通りに。
何事も、なかったように。
「本当に仲がよくて…私はいつも、羨ましくて…」
蒼い目の中に浮かんだそれは、紛れもない“痛み”。
「…羨ま、しい、って…どうして…」
「私には友人と呼べる相手はいなかったからね。じゃれて遊ぶ時間もなかったし」
答える彼の目の中には、もうその気配は見つからない。
隠すのがうまくて、はぐらかすのがうまくて、誠実な振りをしてとんでもなく不実な彼の、いつもの仕草。
「本当にサービスは、私の欲しいものばかり持っている」
「ほしい、もの?」
「うん」
微笑みは、写真の中にあったものとよく似ている。
似すぎている。
どちらが本物か、分からない、ほどに。
「友達とか、シンちゃんの“大好き!”とか、ね」
抱き締める腕すら。
抱え上げたシンタローをソファに座らせ、散らかった書籍を簡単に片付けると彼は再びシンタローを抱き上げ彼の部屋に向かった。
途中で帰宅が遅れたことを謝ったが、シンタローは答えることが出来なかった。
寒くて、ひどく寒くて、震えていたから。
ベッドに寝かしつけ、何度も髪を梳いてくる。
学校のことや訓練のことを聞いてくる。
逢えない時間を寂しがって、頬に、額に口付ける。
愛していると囁いてくる。
そのすべてが自分のもので、そしてすべてが朧気だ。
これは、この時という概念は本物なのか。
いまこの瞬間、ここにいる自分とはなにか、父とはなにか。
一枚の写真。
古びたそこに、映し出されたものこそが真実だとしたら―――
髪を梳く。
黒髪。
綺麗だと言う。素敵だという。とても似合っているという。
シンタローを構成するものの一つ。
黒く艶やかな、細く頼りない、髪。
繋がりのような。
だれと、だれの?
「………髪」
「うん?」
「伸ばそう、かな…」
強くなる。
決めたのに。
決めたけれど。
「そうだね…シンタローなら、似合うと思うよ」
あなたのために強くなる。
その決意はいまも変わらず、決して嘘ではないけれど。
見上げるその微笑みが、滲む前に目を。
閉じる。
END