赤いキス
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「やっぱりシンちゃん、何が残念かって、さすがの私たちにも出会った頃の初々しさはなくなったっていうことだよ」
「俺は残念でもなければ、出会った頃を覚えてもいないことに早く気付け、親父」
「28年も経てば仕方ないのかなあ。6年前の痴話喧嘩や5年前の倦怠期に、お前が秘石を盗って家出したのは刺激的だったけど」
「勝手に俺の人生の捏造解釈をするな」
「永遠の愛ってのも罪だよね……」
「よく朝っぱらから永遠と愛と罪とを語れるな、どうでもいいから道を開けろ、俺には仕事があんだよ」
「だってシンちゃんたら、いつも忙しい、忙しいで、朝と夜しかパパ、一緒にいられないんだもん」
「だもんとか言うな。つーかここまでついてくるな。あんまりしつこいと俺はまた遠征行くぞ」
出勤間近の総帥シンタローは地団太を踏んだ。
ああッ……! とにかく! 塞ぐな、道を!
始終ベタベタしてくんな! そしてたまには一人にしてくれ!
時は朝。場所は自宅、玄関ホール。
そして多忙な自分の邪魔をしてくるのは勿論一人しかいない。
目の前の玄関扉に凭れている男は、薄く笑って自分を見つめている。
片手で脇に飾られている大輪の花をいじっていたりして。
いつも通り超然として見下ろしてくる青い瞳。
そこに浮かぶ余裕の色に、また腹が立つ。
今、マジックはシンタローの言葉に反応し、わざとらしく眉をひそめて表情を変えた。
「もう、またそんなこと言ってパパを脅かそうとするんだから……今は軍に遠隔地契約は入ってないってこと、知ってるよ! ちなみに今もあと3分半は時間に余裕があるってことも、ちゃあんと知ってます」
「……クッソ、もっと世のため人のために使えよ、アンタのその余力」
総帥の座を譲って引退したマジックは、新たにできた暇を自分から見ればおかしなことばかりに使っている。
全精力をかけて自分に構ってくるのもそうだが、恥ずかしいことに公の場に進出し始めたのもそうで。
何だ、あの世界大会は。何だ、あの自叙伝は。何だ、あのメディア進出はっ!
加えて総帥権移譲とはいえ、相変わらず特に内政や管理面に関しては、彼は隠然たる権力を持ち続けている。
特に自分が留守の遠征中は、中央司令部のある本部は彼の独裁状態だったし、そうでなくても組織管理権限を握っているので内情は筒抜けだ。
シンタローにすれば、やることなすことをすべて把握されているこの状態が、まるで自分が頼りないと言われているようで嫌だった。
……俺は、まだこの人に認められてはいない。
だから一人立ちしたくて、何かと理由をつけて、彼のいる本部を離れて遠征に出てしまうことが多い。
それはある意味、逃げていることなのかもしれなかったが、今のシンタローにとっては必要なことだった。
この人の近くには、いたくなかった。
そんな自分の気持ちも知らず、マジックは溜息をついている。
「もう。パパが忙しくなくなったと思ったら、今度はシンちゃんが入れ代わりで忙しくなっちゃって。いつになったら私たちは一緒にいられるんだろうね?」
「悪かったな。つーかいいの! 一緒にいなくたっていーの!」
「パパはとっても悩んでいるのに。お前は自分が忙しいばっかりで、二人の愛については無関心なんだね。悲しいな」
……忙しい。
確かに今の自分は、忙しい。
強大な軍を統括し、しかもその改革を行っている、この身。
毎日が多事多端、天手古舞いで暗中模索。
目の前のことを処理するだけで精一杯だ。
しかし自分にその任を託したマジックだって、今の自分と同じくらいに忙しかったはずだ。
だが過去を思い起こせば、背負っている重さに対して、そこまで彼が多忙であった印象はない。
息子である自分のために、時間を最大限に割いていたということは知ってはいたが。
本当の所は、特に自分には決して見せない人だからであるのかもしれないが。
全体的に彼には余裕が漂っていた。
だからシンタローは、自分の状態を『忙しい』とマジックに形容されると、本人にはその気はなくても上から見下ろされているようで、未熟さが露になるようで、切ない気持ちになるのだ。
「いいじゃない、一緒にいてくれたって。もうパパの気持ちはね、シ・ン・ちゃん、一晩中でもずっと♪ お前の耳たぶ舐めてあげたいのに……ああ」
「頼むから歌い出すな……って、そのおぞましい歌詞は、俺には悪魔の歌にしか思えん」
「シ・ン・ちゃん、パパのこと助けてよ、それができるのはお前しかいない♪」
「なあ……アンタ、その歌をファンクラブ限定だけじゃなくて全世界CD発売するっていう不吉な噂を聞いたが、俺の空耳だよな? そんなことになったら俺はシンタローの憂鬱どころか躁鬱状態で、日本支部の塔の上から飛び降りることになるんだが……」
シンタローはムッとしてマジックを睨んだ。
おや、と砂浜で光る何かを見つけたような、妙に嬉しそうな相手の目。
そういえば彼は自分のこの反抗する様子が楽しいのだという。
ますます気に入らない。
「……それに、そういうのをフザけて言うこと自体が信じられねェ。アンタは言葉が軽い」
「それは心外だな。言葉だって愛だって、こんなに重いのに」
「見えないモンの重さが量れるか、バカ……そろそろ3分半だろ、早くそこをどけ」
やれやれ、仕方ないね、と金髪を揺らして彼は言う。
つれないんだから。
そうしたら話は帰ってきてからだね。
パパはこれでも結構深刻に悩んでいるんだよ?
お前と私の愛についてね。
でも、お仕事なら仕方ない。
それじゃあね。シンちゃん。お仕事頑張ってね。
「さあ、情熱的にパパといってらっしゃいのキスを……」
ガシャーン! と響き渡る盛大な音。
シンタローは玄関ドア脇の、ステンドグラスの大窓を割って、外に出た。
----------
そして仕事から帰ってきたら帰ってきたで。
やっぱりまた玄関ホールから、マジックが待ち構えていた。
今日は特にしつこい。
「お帰りなさい、シンちゃん」
「……ただいま……って」
歩く自分にぴったり寄り添ってくる。
さりげなく肩を抱かれ髪をいじられる。
シンタローが身を捩って避けても、意に介さないで我が道を行く男。
あのね、と話しかけてくる声。
聞いてよ、シンちゃん。
今日パパは二人の愛について真剣に悩んで、ついにあの出会った頃の、初々しさを取り戻す方法を編み出したよ。
名付けて『愛のプレイバック革命~あの頃の君へ~』大作戦さ!
「微妙に笑えねーよ。ていうか。俺は疲れてるの! 早く寝たいの!」
頑張って早足で、自室へと向かうシンタローである。
広い家の長い廊下が恨めしい。
「わかってるよ。帰ってきたらいつもそれだから。シンちゃん、寝室に行く以外は何もしたくないんでしょ?」
ふふ、と耳元で笑う声。
パパはそんな所まで計算に入れて、準備万端さ。
抜かりはないよ。
「だからそんなシンちゃんのために、寝室への道にちょっとした仕掛けを施してみたよ! 頑張ってクリアしてね!」
「マジかよ……さも気遣いしてるようで、実は一番面倒で大掛かりに嫌なコトするよな、アンタ……」
シンタローが廊下の角を曲がると。
そこには何故か扉があった。
朝までは、ここに廊下が続いていたはずだ。
「……なんでこんなトコにドアが新しくできてんだよ」
「だから、仕掛けを作ったんだって」
あはは、と笑っているマジック。
「シンちゃんが寝室に行こうと思ったら、この扉をどんどん開けて行かなきゃダメです」
「どんどんって! まさかいくつもあるのかよ! 何時の間に家改造してんだよ! befor/afterしすぎだよ!」
チッ。本当におかしなコトしか、しやがらねえ。
舌打ちしたシンタローは、金色のノブを握り、思い切って目の前の扉を勢い良く開ける。
視界に飛び込んできたのは、白い部屋。
制御された穏やかな明かり。立ち込める消毒薬の臭い。
……病院?
「はい。ここがね」
ぱんぱん、と手を叩きながら説明をし出すマジック。
「この部屋が、パパとシンちゃんが初めて出会った場所だよ」
「新生児室かよ! 何が出会った頃の初々しさだよ! 初々しすぎんだよアホ親父!」
「だから愛のプレイバック革命なんだってば。お前と私の愛の軌跡を、一緒に再体験していくのが目的さ。そうやってあの頃の気持ちを思い出して欲しいんだ。それには出会いははずせないでしょ? もっともこの時はお前は言葉が喋れなかったけれど」
「新生児が喋れたら気味が悪いって! 思い出す思い出もないわい! つーかその困った思考法を改善してくれ! 頼むから!」
「はいはい、わかったから。さてと、シンちゃん、そこに仰向けに寝転んで。それでパパが見つめたら、にこっと笑ってね」
そこ、とマジックが指差したのは、部屋の中央、ガラス窓の中の白いベビーベッド。
「……」
シンタローは無言で、次の扉を開けた。
次の扉の先には、見慣れた家屋が広がっていた。
優しい香りがする。
――日本、か。
そう呟いて、シンタローは思わず足を止めて立ち尽くした。
シンタローはその幼い頃を日本で過ごした。
彼が一時期念じていた『日本に帰りたい』という想いは、この部屋に対するものだった。
……弟、コタローがその監禁の初期段階で、住んでいた場所でもある。
普段は意識に上らない、心の奥底に仕舞い込まれた、しかし自分の根源が存在する場所。
窓にかかる淡い色のカーテン。机の上の古い砂時計。白い花の絵。
大好きだった懐かしい風景。
例え擬似とはいえ、蘇るものはある。
シンタローはマジックの妙な演出に腹を立てながらも、どこか胸の奥が複雑に痛む気持ちを抑えることができなかった。
郷愁と切なさ、遠い思い出。
幼い頃の自分にとっては、この部屋の世界がすべてだった。
いつもここで笑って、泣いて、成長した。
そして待っていた。
共に暮らし、自分を置いて戦場へと向かった人が帰ってくるのを。
彼が自分にとって、ただ一人の人だった。
「……」
正直言って、この風景だけで心が揺れた。
そんな単純な自分を馬鹿だと思ったが、切なさで指が震えた。
連日の激務で心が弱くなっているのか、じわりと涙腺まで緩みかけた。
そんな彼の罠に嵌りかけたのに。
一瞬、わかっていながら嵌ってもいいかとまで思いかけたのに。
「はい、シンちゃん。これ台本ね!」
うきうきした様子の当の男が、立ち尽くす自分に、やけに分厚い本を手渡してくる。
「……あんだよ、これ」
「だから台本。シーン2だから12ページ目を開いて。卓袱台でおりこうさんにパパの作るカレーを待ってるシンちゃんの場面からだよ! お前の台詞はね、」
「なんでしつこく再現劇やらなきゃいけないんだよ! むしろ今のアンタの行動はあっさり成就しかけたものを、ぶち壊しにしたんだが、いつも通りに気付いてないんだろうな……そーいうのは鈍いよな……」
「ん? とにかくやろうよ! この台本書くのにパパは相当頑張ったね。撮りためたお前のビデオ、全部見直したよ。ちょっと辻褄の合わない所は直しておいたよ」
「どんな辻褄だよ! ……絶対コレ、都合よく修正された俺が書かれてるような気がする……もーいい! 次行くぞ! 次!」
「おや? シンちゃん、ちょっとやる気だね! まあパパは次の部屋もお気に入りだから先に進んでもいいか」
「俺は早く寝室に辿り付きたいんだよ!」
そして三番目の扉を開けると。室内なのに。夜なのに。
そこにはぱあっと明るい太陽の光と緑の草原が広がっていた。
「……俺にはアンタが何をやりたいかがわかってしまうことが辛い……」
きっとハリウッド仕様の特殊効果を無駄に使った、完璧な再現。
幼い頃の自分とこの男が駆けた、あの野原。
青草と土の香りまでして。何処からか、さわさわと風の音がする。
「この頃のシンちゃんは本当に素直で可愛くってねえ……はい。台本の25ページを開いて。シンちゃんが走って、私がそれを追いかける所からシーンは始まるよ!」
「何ページあるんだよ、この台本! しかもやけに小説調! まさか『秘石と私』の次は、これを出版する気じゃなかろうな親父……」
「ああ、映画化の話も来てるんだけど、ちょっと迷ってる」
「なにぃぃィぃぃいいイイっっっッッツ!!!」
「ホラ、シンちゃん、ちゃんと読んで! 『パパ! パパー! こっちだヨ、こっち!』って言って! そしたらパパがね、『ははは、シンちゃんは速いなー』って超笑顔で言って追いかけるから!」
「……俺は落とし穴だけは仕掛けるから、今度はちゃんと最後まで落ちろよ……」
「最後の決め台詞だけは忘れちゃダメだよ? とっても嬉しそうに『パパ、大好」
ゴォォォォン!
壮絶な音と共に、シンタローの右手から眼魔砲。
マジックの足元の床に大穴が開く。
「は」
彼は約25年前と同じく、ズボッと穴に落ちた。
「おおっ! ……シンちゃん! 早く! 早く、『やーい、ひっかかった、ひっかかった』って悪戯っぽく小首をかしげて言って! これはタイミングが重要!」
「そのまま永久に埋まってろ! 俺は先を急ぐ。眠いんだよ!」
シンタローは、自分を楽しそうに穴から見上げるマジックを一瞥すると、さっさと次の扉を開けた。
まったく、付き合ってられるか!
それでも追いかけてくる声。
「シンちゃん、決め台詞を……」
シンタローは背後を振り向かず、もう一度後ろ手で眼魔砲をお見舞いした。
部屋全部が破壊されたはずだ。
何が、昔は素直で可愛かった、だぁ?
……いい加減にあきらめろよ、バカ!
次の扉を開けたシンタローの前に広がった光景は、懐かしの士官学校の校庭とバルコニーだった。
「……これは……」
「今度は士官学校入学式と卒業式を、一緒に再体験したいと思って」
「何事もなかったかのように側にいるなよ……つうかさっきもだけど、室内でどうしてこんな外空間を完全再現できンだよ……金いくらかけてんだ……」
「御心配なく。パパ、スイス銀行に洗浄済みの隠し財産たくさんあるから。軍経費は使ってないよ」
「アンタって、結局俺に全部の権限移譲してないよな」
「ほら、見て! 桜もちゃんと咲いてるよ。この幹の裏側のボタンを押すと、綺麗に散るんだ。これはグンちゃんに開発してもらっちゃった。どうやら花びらの中に一枚だけ、アヒルのマークが入ってるんだって。当たりの印が」
「……俺はその無駄なことに情熱を傾ける、青の一族を変革したい……」
「それじゃそれでいいから。とにかく台本読んでよ! 最初に入学式ね。パパがまずバルコニーから訓示をするから……」
「というか、一番アンタがすべてを体現してんだよな、あらゆる意味で色んな嫌な青の特徴を……」
----------
そして次の部屋も。その次の部屋も。さらにその次の部屋も……。
シンタローは駆け抜けた。その度に疲労度が増していく。
……一体、いつになったら俺は寝室に辿りつけるんだッ!
どういう改造したんだよ、この家! 迷路状態じゃねーか!
何がプレイバックだ! 何があの頃の君へ、だ!
シンタローは肩で息をしながら、もう何番目かさえ覚えていない扉を開けた。
「……?」
彼の予想では、次の部屋にはあの南国の島が来るはずだった。
青い海と白い砂浜が見えるはずだった。
自分の人生の歴史は、そういう順番になっているはずだ。
しかし、次の部屋は自分がいつも勤務している本部の総帥室だった。
「……あれ。これで終り?」
拍子抜けした自分に対して、背後からついてくる不満そうな声。
「やけに残念そうだね。もう、シンちゃんったら折角の愛のプレイバック大作戦に非協力的すぎるよ!」
「ええい、うっさい!」
「本当は各部屋に衣装も用意してたのに……再現記念ビデオも撮るつもりだったのに……」
「じゃあアンタは俺に、半ズボンやら制服やらあまつさえベビー服まで着せようとしてたのかよ! しかもビデオ撮影かよ! まったく一人イメクラでもやってろっての! ……つーかさ……」
シンタローには引っ掛かることがあった。
マジックが『二人の愛の軌跡』などと馬鹿みたいな言葉で表現する、再現された過去部屋たち。
そこからは、明らかにいくつかの出来事が抜け落ちていた。
――秘石に関する出来事と。
――コタローに関する出来事。
「……つーかさ……」
その後の言葉が続けられない。
自分たち二人の歴史は、良かれ悪しかれ諍いの歴史でもあった。
マジックの気まぐれの行動に乗っかるつもりはなかったが、この違和感をそのままにはして置きたくなかった。
しかし言い方がわからない。
シンタローは困って、何となく過去の総帥室を眺めた。
4年前の仕様で、御丁寧に今はない秘石を置く台まである。
この部屋が最後に来ているのは、ここで自分が彼から総帥の座を譲られたからであるのだろうが。
「……」
デスクの前の、黄金色の台。
かつてそこに鎮座していた、青い石。
自分がそこから盗み、あの南の島へと持ち出し、箱舟に乗って一族の手を離れた、あの秘石。
番人の影であった自分と……青の一族を作った、張本人。
不幸な子コタローの暴走だって、あの石に操られて起こってしまった出来事なのだ。
つい黙り込んでしまう。
下ろした長い黒髪が頬にかかることで、自分が俯いたのがわかった。
そんな自分に、マジックが声をかけてくる。
「どうしたの、シンちゃん。すっかり元気がなくなっちゃって……ひょっとして怒ってる?」
「……別に」
「そうか、ごめんね。本当はね……初々しさがなくなったなんて言ったのは、嘘だよ。お前はいつだって新鮮で可愛いよ。ただ今日はいつもと違うことをしたかっただけなんだ」
「だ・か・ら! 抜け抜けと、そーいうハズかしいことを言うな! やるな! アンタの気まぐれに付き合わされる身にもなってくれ」
「だってシンちゃん、いつも忙しくて忘れてるみたいだったから……パパのことや、ずっと過ごしてきた28年のことを。シンちゃんにとってはただの28年なのかもしれないけれど、パパにとってはそれが人生すべてだから」
「……嘘つけ」
「どうして? 本気だって。またパパの言葉が軽いって思うの?」
何が、人生すべてだ。
アンタの人生は、俺が生まれる前からずっとあった癖に。
俺が生まれてからも、本当のことはずっと隠してきた癖に。
そんな上辺だけの人生回顧が、俺の人生ではあっても。
本当のアンタの人生である訳がない。
「……二人の歴史、とか言いやがって。結局は俺の心象風景ばっかじゃねーかよ。アンタのはどうしたよ、もっと昔のとか」
「だって私の過去には、お前はいないじゃない」
そう言われて、シンタローの胸はずきりと痛んだ。口ごもりながら言う。
「……いなくたって。いなくたって……作ったっていいじゃんかよ……どーせ暇を持て余してんだろーから」
「お前は私の過去を知る必要はないよ。知ったってどうせつまらない」
「勝手に俺の過去の部屋を作りやがる癖に、よく言うぜ」
マジックの方は自分の過去をすべて知っているのに、自分はこの人の過去を知ることができない。
いや、知っても、そこに存在することはできない。
まただ。また、壁がある。
自分はいつもそれに阻まれて隠される。
もどかしい。
「でもいいじゃない。どんな過去があったって、それが今は全部、お前への愛に変わってるんだから」
「簡単なことのよーに言うな……つうか、アンタの言葉ってあっさり出てくるから、本気か嘘か全くわかんねーよ」
「どうしてそんなに疑り深いんだろうね? 私のすべてはお前のものだよ?」
「自分だって疑ってばっかじゃんかよ。忘れるとかどーとかさ……つーかさ……」
シンタローはひどく疲れているのを感じ、側の椅子に座り込んだ。
ぎいっと背凭れがきしんで、彼の体を受け止めた。
その音が昔を蘇らせる。
……5年前。
大事な弟コタローを連れ去られ、絶望の淵にいた自分も、この椅子に座っていた。
側には青い石があった。
そしてマジックがいて、耳元で囁かれた言葉。
『私のものはすべてシンタロー、お前にあげるよ』
それを聞いた瞬間、自分はこの男から秘石を奪おうと決めた。
すべて、なんて。
すべてなんて、ありえない。
青い石を見つめるマジックの青い瞳は、シンタローには絶対に届くことができないものだった。
彼に認められようと足掻いてきた自分。
士官学校では首席を取り、軍ではナンバーワンと呼ばれるまでになった。
それでも届かない。
秘石とマジックの間には、入り込めない。
溺愛されながらも、一族の血から疎外され、そのことに常に引け目を感じてきた自分。
だから全てをあげる、なんて口では言われても、結局は俺は石とアンタだけは貰える訳がない。
できそこないの黒髪黒目の異端児だから。
『私には、お前さえいればいいんだ』
嘘ばかり。
俺がいなくてもいい世界の方を、アンタはたくさん持っている癖に。
青の一族である方が、俺よりも大事だった癖に。
「……つーかさ……」
シンタローは口を開いた。
マジックは相変わらず、悠然と自分を見下ろしている。
「つーかさ……何で、石のこと……省いてあるんだよ……」
やっと言った言葉だったのに。
悩んだ末、結局ストレートに問うしかない言葉だったのに。
「だって。それはお前が奪ったからだよ」
恐る恐る聞いた自分に、あっさりと答えが返って来た。
「私から青い秘石を奪ったのはお前でしょ」
どうしてか確かめるように問われる。
シンタローはどう答えていいのかわからなくて、ただ金髪の人を見上げた。
淡々と言葉は続く。
「そしてお前はあの南の島で私に言った。私が石に縛り付けられて、お前を初めとする家族を犠牲にしてきたと」
「……」
「そしてこうも言ったね。俺たちがやる、俺たちが守るって」
「……省いた部分も……覚えてるんだな」
「覚えてるよ。忘れる訳ない。あの日から、私の秘石と歩んできた長い過去は、お前に奪われたままだよ。だから部屋もないのさ」
そこで言葉を切ったマジックは、座った自分を覗き込んできた。
小さく静かな声で囁かれる。間近で視線が合う。
「でも本当にお前はその言葉を実行してくれるの? だってお前はいつも自分のことに一生懸命で。仕方ないとは思うけれど、私はずっと待っているのに」
「……」
「この部分は、台本には書いてないよ」
デスクの上に持っていた台本を投げ出すと、マジックは長身を屈めて、シンタローの黒髪に頬を寄せた。
忘れないで。
お前に奪われたんだよ。
私は一族の長として生を受けてから、ずっとあの青い石と共にあったけれど。
突然現れたお前が、すべてを変えた。
私を奪ったんだよ。
私の過去と未来を奪ったんだよ。
どうしてだろうね?
黒目で黒髪だって。血なんか繋がってなくたって。
この関係を他に表現する方法がないから、元からある言葉を使うしかないけれど。
言わせて欲しいよ。
『シンタロー。お前も私の息子だよ』
その言葉を聞いた瞬間、シンタローの目の前にあの日の風景が広がった。
目に焼きついて離れない。
南の島の、あの戦いの最後で、あの一人で去ろうとする背中。
自分を拒絶する背中。
それは幼い頃から曖昧にぼかした笑顔で、自分を置いて戦場に向かう人の後姿と重なって見えて。
俺は走っても走っても、追いつけない。
いつも、必死に努力しながら、それでもかなわなくて、ずっと心の中で叫んでいたよ。
跡を継いで総帥になった今だって、遠い背中のアンタに認められようと、俺はそれでも追いかけ続けるしかないんだ。
だから毎日忙しくて、それでも全然足りないんだ。
俺を置いて行かないで。
一人で行かないで。
死のうとしないで。
『行くな……行くな、父さん……』
そう呟いたシンタローの左目の縁から、涙が一筋零れ落ちた。
良かった、忘れないでいてくれて。
初めて過去の再現ができたね?
そして『合格』と言って、シンタローの頬に唇を寄せ、舌で涙を舐め取った。
そのまま囁く。
「シンちゃん、パパのこと助けてよ」
「……ッ! だから! ふざけて言うな!」
「ふざけてなんかないよ。私の運命を救ってよ」
シンタローはまた悲しくなった。
こうやって言葉であっさり言われる度、どんどんすべてが嘘になるような気がする。
真実が紛い物で塗り固められて、見えなくなっていくような気がする。
そして自分は騙されていくしかなくなるのだ。
「もうやめてくれよ……いつも大袈裟すぎんだよ……抽象的で目に見えないことばっかりで……ただでさえアンタは俺には訳わかんねーのに……」
「じゃあ言い方を変えるよ」
マジックはわずかに目を細めた。
「一緒にいてよ」
「……」
「パパとこれからも一緒にいるって約束してよ。そうしたら私は救われる。忙しいなら、忙しくない時はずっと一緒にいてよ。そして行くなって言うなら、ちゃんと追いかけてきてよ。私を一人にしないでよ」
シンタローは思わず椅子から立ち上がった。
間近で言葉を聞きたくなかった。
背を向ける。
だが、そのまま相手の声は、自分の背中に向けて静かに続けられる。
「……でも約束だって目に見えないから、お前は破るかもしれないね……いつだって私から逃げたがるお前だから。それでもいいから今は一緒にいてよ。言葉が不安で嫌いなら、言葉はなくていいから、態度でパパのこと愛してよ」
「……」
「何があったって、何処に逃げたって、最後はお前の帰る場所は私しかないのだから」
「……ッ」
また無性に腹が立った。
側にいる時は逃げることばかり考える。
離れている時は、帰る時のことばかり考える。
結局自分はこの男のことばかりを考えている。
そんな自分が憎い。
――知ってるさ。
いつも自分より先を歩いている人。
青の一族の先頭にいる人。
しかし人より先に立つということは、いつも一人だということ。
マジックは、いつだって一人の孤独の中にいた人間だった。
それが当然で、平気な人だとばかり、追いかける立場の自分は思っていた。
寂しさなんて感じたこともない人なんだろうと思っていた。
「だから、シンタロー」
背後からそっと抱き締めてくる腕。
首筋に感じる冷たい体温。
「破ってもいいから、一緒に約束して。破ったら、また次に新しい約束をして……この28年、ずっとそうして繰り返してきただろう? いつも喧嘩して、仲直りして、その繰り返し。繰り返してきた仲直りのキスが、私たちの約束だったんだよね」
大きな手が伸びてきて、自分の顔を振り向かせたから、口付けされるのかと思った。
しかし息が届く距離で、二人の接近は止まる。
悪戯っぽく青い瞳が自分を見つめている。
そこには泣いたばかりの顔をした、自分が映っていて。
「今日はお前からパパに約束をしてよ」
「……」
わずかばかりの逡巡の後、シンタローは乱暴に体に回された腕を振り払う。
そして正面に向き直ると。自分より高い位置にある顔に口を寄せて。
「……」
触れた瞬間、思いっきり相手の唇に噛み付いた。さっと離れて睨みつける。
彼は形の良い眉をひそめて、指で軽く口元を拭う。
ついた血を見る。
そして言った。
「……まるで私みたいなことをするね。でも噛み方が可愛いから猫かな……それに、ぞくっとしたよ。パパはこういうことをされると、お前を躾し直したくなるってよくわかってるはずなのに」
マジックの薄い唇は血で染まっている。
その両端が少し上がって、まるで微笑んでいるように見えた。
「過去の部屋はここでおしまいで、もうその扉の奥が、お前のお望みの寝室だよ。今夜のお前はそういう趣向がお好みかな?」
「……アンタだって、血は赤いだろ」
シンタローは言った。
舌で自分の上唇を舐める。鉄の味がした。
きっと自分の唇も、目の前の男の血で、赤い紅をつけたような色をしている。
「俺もアンタも青だけど、血は赤い。秘石は俺たちの血の色までは青く作れなかった。だから、アンタももう青とか赤とか言ってんな」
「お前は正確には私の血族ではないから、絶対にこの青の血の重さがわからない。作られて操られる身の上は同じだけれど、それでも受け継いできた過去と自分の汚濁で、私は汚れているんだよ。それでもお前はそう言えるの。そしてその言ったことを忘れないでいてくれるの」
「ずっと俺からすべてを隠してきたくせに……もういいよ。アンタは石コロなんかに拘るな。一緒とか言いながら、実際は一人で何でもやろうとするな。勝手に何処かへと行こうとするな」
「……責任取ってくれるの?」
シンタローは自分の唇をぎりっと噛んだ。
今度は自分の血が滴り落ちる。
もう一度唇を舐めた。
目の前の男の血と混ざり合った血は、それでも同じ鉄の味がした。
青の血。赤くて同じ味がする血。
――だから、何だっていうんだ?
――血は、血だろ?
それだけだ。
そんなの、操り人形じゃなくって、人間だったら、変えられるんだよ何だって。
そう信じろよ。
だいたい俺が一緒にいれば、アンタは変わるんだろ?
何だかんだ言ってさ。
実際に覇王への道ってのもやめてくれたし。
俺がずっと嫌だった、人殺しもやめてくれたよな。
俺はアンタからあのちっぽけな石コロを奪って、本当に良かったよ。
助けるとか、救うとか、そんな大袈裟なことじゃねーよ。
バカか。なぁに悩んでんだよ。
簡単なことじゃないかよ。
青の呪縛なんて。
そしてまた、シンタローは切れ長の目でマジックを睨みつけた後。
小さく背伸びして、今度は本当に口付けた。
目に見える色とかたちをした約束。
「これが、俺の、アンタへの赤いキスだ、忘れるな。これから一生覚えとけ」
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「俺は残念でもなければ、出会った頃を覚えてもいないことに早く気付け、親父」
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「勝手に俺の人生の捏造解釈をするな」
「永遠の愛ってのも罪だよね……」
「よく朝っぱらから永遠と愛と罪とを語れるな、どうでもいいから道を開けろ、俺には仕事があんだよ」
「だってシンちゃんたら、いつも忙しい、忙しいで、朝と夜しかパパ、一緒にいられないんだもん」
「だもんとか言うな。つーかここまでついてくるな。あんまりしつこいと俺はまた遠征行くぞ」
出勤間近の総帥シンタローは地団太を踏んだ。
ああッ……! とにかく! 塞ぐな、道を!
始終ベタベタしてくんな! そしてたまには一人にしてくれ!
時は朝。場所は自宅、玄関ホール。
そして多忙な自分の邪魔をしてくるのは勿論一人しかいない。
目の前の玄関扉に凭れている男は、薄く笑って自分を見つめている。
片手で脇に飾られている大輪の花をいじっていたりして。
いつも通り超然として見下ろしてくる青い瞳。
そこに浮かぶ余裕の色に、また腹が立つ。
今、マジックはシンタローの言葉に反応し、わざとらしく眉をひそめて表情を変えた。
「もう、またそんなこと言ってパパを脅かそうとするんだから……今は軍に遠隔地契約は入ってないってこと、知ってるよ! ちなみに今もあと3分半は時間に余裕があるってことも、ちゃあんと知ってます」
「……クッソ、もっと世のため人のために使えよ、アンタのその余力」
総帥の座を譲って引退したマジックは、新たにできた暇を自分から見ればおかしなことばかりに使っている。
全精力をかけて自分に構ってくるのもそうだが、恥ずかしいことに公の場に進出し始めたのもそうで。
何だ、あの世界大会は。何だ、あの自叙伝は。何だ、あのメディア進出はっ!
加えて総帥権移譲とはいえ、相変わらず特に内政や管理面に関しては、彼は隠然たる権力を持ち続けている。
特に自分が留守の遠征中は、中央司令部のある本部は彼の独裁状態だったし、そうでなくても組織管理権限を握っているので内情は筒抜けだ。
シンタローにすれば、やることなすことをすべて把握されているこの状態が、まるで自分が頼りないと言われているようで嫌だった。
……俺は、まだこの人に認められてはいない。
だから一人立ちしたくて、何かと理由をつけて、彼のいる本部を離れて遠征に出てしまうことが多い。
それはある意味、逃げていることなのかもしれなかったが、今のシンタローにとっては必要なことだった。
この人の近くには、いたくなかった。
そんな自分の気持ちも知らず、マジックは溜息をついている。
「もう。パパが忙しくなくなったと思ったら、今度はシンちゃんが入れ代わりで忙しくなっちゃって。いつになったら私たちは一緒にいられるんだろうね?」
「悪かったな。つーかいいの! 一緒にいなくたっていーの!」
「パパはとっても悩んでいるのに。お前は自分が忙しいばっかりで、二人の愛については無関心なんだね。悲しいな」
……忙しい。
確かに今の自分は、忙しい。
強大な軍を統括し、しかもその改革を行っている、この身。
毎日が多事多端、天手古舞いで暗中模索。
目の前のことを処理するだけで精一杯だ。
しかし自分にその任を託したマジックだって、今の自分と同じくらいに忙しかったはずだ。
だが過去を思い起こせば、背負っている重さに対して、そこまで彼が多忙であった印象はない。
息子である自分のために、時間を最大限に割いていたということは知ってはいたが。
本当の所は、特に自分には決して見せない人だからであるのかもしれないが。
全体的に彼には余裕が漂っていた。
だからシンタローは、自分の状態を『忙しい』とマジックに形容されると、本人にはその気はなくても上から見下ろされているようで、未熟さが露になるようで、切ない気持ちになるのだ。
「いいじゃない、一緒にいてくれたって。もうパパの気持ちはね、シ・ン・ちゃん、一晩中でもずっと♪ お前の耳たぶ舐めてあげたいのに……ああ」
「頼むから歌い出すな……って、そのおぞましい歌詞は、俺には悪魔の歌にしか思えん」
「シ・ン・ちゃん、パパのこと助けてよ、それができるのはお前しかいない♪」
「なあ……アンタ、その歌をファンクラブ限定だけじゃなくて全世界CD発売するっていう不吉な噂を聞いたが、俺の空耳だよな? そんなことになったら俺はシンタローの憂鬱どころか躁鬱状態で、日本支部の塔の上から飛び降りることになるんだが……」
シンタローはムッとしてマジックを睨んだ。
おや、と砂浜で光る何かを見つけたような、妙に嬉しそうな相手の目。
そういえば彼は自分のこの反抗する様子が楽しいのだという。
ますます気に入らない。
「……それに、そういうのをフザけて言うこと自体が信じられねェ。アンタは言葉が軽い」
「それは心外だな。言葉だって愛だって、こんなに重いのに」
「見えないモンの重さが量れるか、バカ……そろそろ3分半だろ、早くそこをどけ」
やれやれ、仕方ないね、と金髪を揺らして彼は言う。
つれないんだから。
そうしたら話は帰ってきてからだね。
パパはこれでも結構深刻に悩んでいるんだよ?
お前と私の愛についてね。
でも、お仕事なら仕方ない。
それじゃあね。シンちゃん。お仕事頑張ってね。
「さあ、情熱的にパパといってらっしゃいのキスを……」
ガシャーン! と響き渡る盛大な音。
シンタローは玄関ドア脇の、ステンドグラスの大窓を割って、外に出た。
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そして仕事から帰ってきたら帰ってきたで。
やっぱりまた玄関ホールから、マジックが待ち構えていた。
今日は特にしつこい。
「お帰りなさい、シンちゃん」
「……ただいま……って」
歩く自分にぴったり寄り添ってくる。
さりげなく肩を抱かれ髪をいじられる。
シンタローが身を捩って避けても、意に介さないで我が道を行く男。
あのね、と話しかけてくる声。
聞いてよ、シンちゃん。
今日パパは二人の愛について真剣に悩んで、ついにあの出会った頃の、初々しさを取り戻す方法を編み出したよ。
名付けて『愛のプレイバック革命~あの頃の君へ~』大作戦さ!
「微妙に笑えねーよ。ていうか。俺は疲れてるの! 早く寝たいの!」
頑張って早足で、自室へと向かうシンタローである。
広い家の長い廊下が恨めしい。
「わかってるよ。帰ってきたらいつもそれだから。シンちゃん、寝室に行く以外は何もしたくないんでしょ?」
ふふ、と耳元で笑う声。
パパはそんな所まで計算に入れて、準備万端さ。
抜かりはないよ。
「だからそんなシンちゃんのために、寝室への道にちょっとした仕掛けを施してみたよ! 頑張ってクリアしてね!」
「マジかよ……さも気遣いしてるようで、実は一番面倒で大掛かりに嫌なコトするよな、アンタ……」
シンタローが廊下の角を曲がると。
そこには何故か扉があった。
朝までは、ここに廊下が続いていたはずだ。
「……なんでこんなトコにドアが新しくできてんだよ」
「だから、仕掛けを作ったんだって」
あはは、と笑っているマジック。
「シンちゃんが寝室に行こうと思ったら、この扉をどんどん開けて行かなきゃダメです」
「どんどんって! まさかいくつもあるのかよ! 何時の間に家改造してんだよ! befor/afterしすぎだよ!」
チッ。本当におかしなコトしか、しやがらねえ。
舌打ちしたシンタローは、金色のノブを握り、思い切って目の前の扉を勢い良く開ける。
視界に飛び込んできたのは、白い部屋。
制御された穏やかな明かり。立ち込める消毒薬の臭い。
……病院?
「はい。ここがね」
ぱんぱん、と手を叩きながら説明をし出すマジック。
「この部屋が、パパとシンちゃんが初めて出会った場所だよ」
「新生児室かよ! 何が出会った頃の初々しさだよ! 初々しすぎんだよアホ親父!」
「だから愛のプレイバック革命なんだってば。お前と私の愛の軌跡を、一緒に再体験していくのが目的さ。そうやってあの頃の気持ちを思い出して欲しいんだ。それには出会いははずせないでしょ? もっともこの時はお前は言葉が喋れなかったけれど」
「新生児が喋れたら気味が悪いって! 思い出す思い出もないわい! つーかその困った思考法を改善してくれ! 頼むから!」
「はいはい、わかったから。さてと、シンちゃん、そこに仰向けに寝転んで。それでパパが見つめたら、にこっと笑ってね」
そこ、とマジックが指差したのは、部屋の中央、ガラス窓の中の白いベビーベッド。
「……」
シンタローは無言で、次の扉を開けた。
次の扉の先には、見慣れた家屋が広がっていた。
優しい香りがする。
――日本、か。
そう呟いて、シンタローは思わず足を止めて立ち尽くした。
シンタローはその幼い頃を日本で過ごした。
彼が一時期念じていた『日本に帰りたい』という想いは、この部屋に対するものだった。
……弟、コタローがその監禁の初期段階で、住んでいた場所でもある。
普段は意識に上らない、心の奥底に仕舞い込まれた、しかし自分の根源が存在する場所。
窓にかかる淡い色のカーテン。机の上の古い砂時計。白い花の絵。
大好きだった懐かしい風景。
例え擬似とはいえ、蘇るものはある。
シンタローはマジックの妙な演出に腹を立てながらも、どこか胸の奥が複雑に痛む気持ちを抑えることができなかった。
郷愁と切なさ、遠い思い出。
幼い頃の自分にとっては、この部屋の世界がすべてだった。
いつもここで笑って、泣いて、成長した。
そして待っていた。
共に暮らし、自分を置いて戦場へと向かった人が帰ってくるのを。
彼が自分にとって、ただ一人の人だった。
「……」
正直言って、この風景だけで心が揺れた。
そんな単純な自分を馬鹿だと思ったが、切なさで指が震えた。
連日の激務で心が弱くなっているのか、じわりと涙腺まで緩みかけた。
そんな彼の罠に嵌りかけたのに。
一瞬、わかっていながら嵌ってもいいかとまで思いかけたのに。
「はい、シンちゃん。これ台本ね!」
うきうきした様子の当の男が、立ち尽くす自分に、やけに分厚い本を手渡してくる。
「……あんだよ、これ」
「だから台本。シーン2だから12ページ目を開いて。卓袱台でおりこうさんにパパの作るカレーを待ってるシンちゃんの場面からだよ! お前の台詞はね、」
「なんでしつこく再現劇やらなきゃいけないんだよ! むしろ今のアンタの行動はあっさり成就しかけたものを、ぶち壊しにしたんだが、いつも通りに気付いてないんだろうな……そーいうのは鈍いよな……」
「ん? とにかくやろうよ! この台本書くのにパパは相当頑張ったね。撮りためたお前のビデオ、全部見直したよ。ちょっと辻褄の合わない所は直しておいたよ」
「どんな辻褄だよ! ……絶対コレ、都合よく修正された俺が書かれてるような気がする……もーいい! 次行くぞ! 次!」
「おや? シンちゃん、ちょっとやる気だね! まあパパは次の部屋もお気に入りだから先に進んでもいいか」
「俺は早く寝室に辿り付きたいんだよ!」
そして三番目の扉を開けると。室内なのに。夜なのに。
そこにはぱあっと明るい太陽の光と緑の草原が広がっていた。
「……俺にはアンタが何をやりたいかがわかってしまうことが辛い……」
きっとハリウッド仕様の特殊効果を無駄に使った、完璧な再現。
幼い頃の自分とこの男が駆けた、あの野原。
青草と土の香りまでして。何処からか、さわさわと風の音がする。
「この頃のシンちゃんは本当に素直で可愛くってねえ……はい。台本の25ページを開いて。シンちゃんが走って、私がそれを追いかける所からシーンは始まるよ!」
「何ページあるんだよ、この台本! しかもやけに小説調! まさか『秘石と私』の次は、これを出版する気じゃなかろうな親父……」
「ああ、映画化の話も来てるんだけど、ちょっと迷ってる」
「なにぃぃィぃぃいいイイっっっッッツ!!!」
「ホラ、シンちゃん、ちゃんと読んで! 『パパ! パパー! こっちだヨ、こっち!』って言って! そしたらパパがね、『ははは、シンちゃんは速いなー』って超笑顔で言って追いかけるから!」
「……俺は落とし穴だけは仕掛けるから、今度はちゃんと最後まで落ちろよ……」
「最後の決め台詞だけは忘れちゃダメだよ? とっても嬉しそうに『パパ、大好」
ゴォォォォン!
壮絶な音と共に、シンタローの右手から眼魔砲。
マジックの足元の床に大穴が開く。
「は」
彼は約25年前と同じく、ズボッと穴に落ちた。
「おおっ! ……シンちゃん! 早く! 早く、『やーい、ひっかかった、ひっかかった』って悪戯っぽく小首をかしげて言って! これはタイミングが重要!」
「そのまま永久に埋まってろ! 俺は先を急ぐ。眠いんだよ!」
シンタローは、自分を楽しそうに穴から見上げるマジックを一瞥すると、さっさと次の扉を開けた。
まったく、付き合ってられるか!
それでも追いかけてくる声。
「シンちゃん、決め台詞を……」
シンタローは背後を振り向かず、もう一度後ろ手で眼魔砲をお見舞いした。
部屋全部が破壊されたはずだ。
何が、昔は素直で可愛かった、だぁ?
……いい加減にあきらめろよ、バカ!
次の扉を開けたシンタローの前に広がった光景は、懐かしの士官学校の校庭とバルコニーだった。
「……これは……」
「今度は士官学校入学式と卒業式を、一緒に再体験したいと思って」
「何事もなかったかのように側にいるなよ……つうかさっきもだけど、室内でどうしてこんな外空間を完全再現できンだよ……金いくらかけてんだ……」
「御心配なく。パパ、スイス銀行に洗浄済みの隠し財産たくさんあるから。軍経費は使ってないよ」
「アンタって、結局俺に全部の権限移譲してないよな」
「ほら、見て! 桜もちゃんと咲いてるよ。この幹の裏側のボタンを押すと、綺麗に散るんだ。これはグンちゃんに開発してもらっちゃった。どうやら花びらの中に一枚だけ、アヒルのマークが入ってるんだって。当たりの印が」
「……俺はその無駄なことに情熱を傾ける、青の一族を変革したい……」
「それじゃそれでいいから。とにかく台本読んでよ! 最初に入学式ね。パパがまずバルコニーから訓示をするから……」
「というか、一番アンタがすべてを体現してんだよな、あらゆる意味で色んな嫌な青の特徴を……」
----------
そして次の部屋も。その次の部屋も。さらにその次の部屋も……。
シンタローは駆け抜けた。その度に疲労度が増していく。
……一体、いつになったら俺は寝室に辿りつけるんだッ!
どういう改造したんだよ、この家! 迷路状態じゃねーか!
何がプレイバックだ! 何があの頃の君へ、だ!
シンタローは肩で息をしながら、もう何番目かさえ覚えていない扉を開けた。
「……?」
彼の予想では、次の部屋にはあの南国の島が来るはずだった。
青い海と白い砂浜が見えるはずだった。
自分の人生の歴史は、そういう順番になっているはずだ。
しかし、次の部屋は自分がいつも勤務している本部の総帥室だった。
「……あれ。これで終り?」
拍子抜けした自分に対して、背後からついてくる不満そうな声。
「やけに残念そうだね。もう、シンちゃんったら折角の愛のプレイバック大作戦に非協力的すぎるよ!」
「ええい、うっさい!」
「本当は各部屋に衣装も用意してたのに……再現記念ビデオも撮るつもりだったのに……」
「じゃあアンタは俺に、半ズボンやら制服やらあまつさえベビー服まで着せようとしてたのかよ! しかもビデオ撮影かよ! まったく一人イメクラでもやってろっての! ……つーかさ……」
シンタローには引っ掛かることがあった。
マジックが『二人の愛の軌跡』などと馬鹿みたいな言葉で表現する、再現された過去部屋たち。
そこからは、明らかにいくつかの出来事が抜け落ちていた。
――秘石に関する出来事と。
――コタローに関する出来事。
「……つーかさ……」
その後の言葉が続けられない。
自分たち二人の歴史は、良かれ悪しかれ諍いの歴史でもあった。
マジックの気まぐれの行動に乗っかるつもりはなかったが、この違和感をそのままにはして置きたくなかった。
しかし言い方がわからない。
シンタローは困って、何となく過去の総帥室を眺めた。
4年前の仕様で、御丁寧に今はない秘石を置く台まである。
この部屋が最後に来ているのは、ここで自分が彼から総帥の座を譲られたからであるのだろうが。
「……」
デスクの前の、黄金色の台。
かつてそこに鎮座していた、青い石。
自分がそこから盗み、あの南の島へと持ち出し、箱舟に乗って一族の手を離れた、あの秘石。
番人の影であった自分と……青の一族を作った、張本人。
不幸な子コタローの暴走だって、あの石に操られて起こってしまった出来事なのだ。
つい黙り込んでしまう。
下ろした長い黒髪が頬にかかることで、自分が俯いたのがわかった。
そんな自分に、マジックが声をかけてくる。
「どうしたの、シンちゃん。すっかり元気がなくなっちゃって……ひょっとして怒ってる?」
「……別に」
「そうか、ごめんね。本当はね……初々しさがなくなったなんて言ったのは、嘘だよ。お前はいつだって新鮮で可愛いよ。ただ今日はいつもと違うことをしたかっただけなんだ」
「だ・か・ら! 抜け抜けと、そーいうハズかしいことを言うな! やるな! アンタの気まぐれに付き合わされる身にもなってくれ」
「だってシンちゃん、いつも忙しくて忘れてるみたいだったから……パパのことや、ずっと過ごしてきた28年のことを。シンちゃんにとってはただの28年なのかもしれないけれど、パパにとってはそれが人生すべてだから」
「……嘘つけ」
「どうして? 本気だって。またパパの言葉が軽いって思うの?」
何が、人生すべてだ。
アンタの人生は、俺が生まれる前からずっとあった癖に。
俺が生まれてからも、本当のことはずっと隠してきた癖に。
そんな上辺だけの人生回顧が、俺の人生ではあっても。
本当のアンタの人生である訳がない。
「……二人の歴史、とか言いやがって。結局は俺の心象風景ばっかじゃねーかよ。アンタのはどうしたよ、もっと昔のとか」
「だって私の過去には、お前はいないじゃない」
そう言われて、シンタローの胸はずきりと痛んだ。口ごもりながら言う。
「……いなくたって。いなくたって……作ったっていいじゃんかよ……どーせ暇を持て余してんだろーから」
「お前は私の過去を知る必要はないよ。知ったってどうせつまらない」
「勝手に俺の過去の部屋を作りやがる癖に、よく言うぜ」
マジックの方は自分の過去をすべて知っているのに、自分はこの人の過去を知ることができない。
いや、知っても、そこに存在することはできない。
まただ。また、壁がある。
自分はいつもそれに阻まれて隠される。
もどかしい。
「でもいいじゃない。どんな過去があったって、それが今は全部、お前への愛に変わってるんだから」
「簡単なことのよーに言うな……つうか、アンタの言葉ってあっさり出てくるから、本気か嘘か全くわかんねーよ」
「どうしてそんなに疑り深いんだろうね? 私のすべてはお前のものだよ?」
「自分だって疑ってばっかじゃんかよ。忘れるとかどーとかさ……つーかさ……」
シンタローはひどく疲れているのを感じ、側の椅子に座り込んだ。
ぎいっと背凭れがきしんで、彼の体を受け止めた。
その音が昔を蘇らせる。
……5年前。
大事な弟コタローを連れ去られ、絶望の淵にいた自分も、この椅子に座っていた。
側には青い石があった。
そしてマジックがいて、耳元で囁かれた言葉。
『私のものはすべてシンタロー、お前にあげるよ』
それを聞いた瞬間、自分はこの男から秘石を奪おうと決めた。
すべて、なんて。
すべてなんて、ありえない。
青い石を見つめるマジックの青い瞳は、シンタローには絶対に届くことができないものだった。
彼に認められようと足掻いてきた自分。
士官学校では首席を取り、軍ではナンバーワンと呼ばれるまでになった。
それでも届かない。
秘石とマジックの間には、入り込めない。
溺愛されながらも、一族の血から疎外され、そのことに常に引け目を感じてきた自分。
だから全てをあげる、なんて口では言われても、結局は俺は石とアンタだけは貰える訳がない。
できそこないの黒髪黒目の異端児だから。
『私には、お前さえいればいいんだ』
嘘ばかり。
俺がいなくてもいい世界の方を、アンタはたくさん持っている癖に。
青の一族である方が、俺よりも大事だった癖に。
「……つーかさ……」
シンタローは口を開いた。
マジックは相変わらず、悠然と自分を見下ろしている。
「つーかさ……何で、石のこと……省いてあるんだよ……」
やっと言った言葉だったのに。
悩んだ末、結局ストレートに問うしかない言葉だったのに。
「だって。それはお前が奪ったからだよ」
恐る恐る聞いた自分に、あっさりと答えが返って来た。
「私から青い秘石を奪ったのはお前でしょ」
どうしてか確かめるように問われる。
シンタローはどう答えていいのかわからなくて、ただ金髪の人を見上げた。
淡々と言葉は続く。
「そしてお前はあの南の島で私に言った。私が石に縛り付けられて、お前を初めとする家族を犠牲にしてきたと」
「……」
「そしてこうも言ったね。俺たちがやる、俺たちが守るって」
「……省いた部分も……覚えてるんだな」
「覚えてるよ。忘れる訳ない。あの日から、私の秘石と歩んできた長い過去は、お前に奪われたままだよ。だから部屋もないのさ」
そこで言葉を切ったマジックは、座った自分を覗き込んできた。
小さく静かな声で囁かれる。間近で視線が合う。
「でも本当にお前はその言葉を実行してくれるの? だってお前はいつも自分のことに一生懸命で。仕方ないとは思うけれど、私はずっと待っているのに」
「……」
「この部分は、台本には書いてないよ」
デスクの上に持っていた台本を投げ出すと、マジックは長身を屈めて、シンタローの黒髪に頬を寄せた。
忘れないで。
お前に奪われたんだよ。
私は一族の長として生を受けてから、ずっとあの青い石と共にあったけれど。
突然現れたお前が、すべてを変えた。
私を奪ったんだよ。
私の過去と未来を奪ったんだよ。
どうしてだろうね?
黒目で黒髪だって。血なんか繋がってなくたって。
この関係を他に表現する方法がないから、元からある言葉を使うしかないけれど。
言わせて欲しいよ。
『シンタロー。お前も私の息子だよ』
その言葉を聞いた瞬間、シンタローの目の前にあの日の風景が広がった。
目に焼きついて離れない。
南の島の、あの戦いの最後で、あの一人で去ろうとする背中。
自分を拒絶する背中。
それは幼い頃から曖昧にぼかした笑顔で、自分を置いて戦場に向かう人の後姿と重なって見えて。
俺は走っても走っても、追いつけない。
いつも、必死に努力しながら、それでもかなわなくて、ずっと心の中で叫んでいたよ。
跡を継いで総帥になった今だって、遠い背中のアンタに認められようと、俺はそれでも追いかけ続けるしかないんだ。
だから毎日忙しくて、それでも全然足りないんだ。
俺を置いて行かないで。
一人で行かないで。
死のうとしないで。
『行くな……行くな、父さん……』
そう呟いたシンタローの左目の縁から、涙が一筋零れ落ちた。
良かった、忘れないでいてくれて。
初めて過去の再現ができたね?
そして『合格』と言って、シンタローの頬に唇を寄せ、舌で涙を舐め取った。
そのまま囁く。
「シンちゃん、パパのこと助けてよ」
「……ッ! だから! ふざけて言うな!」
「ふざけてなんかないよ。私の運命を救ってよ」
シンタローはまた悲しくなった。
こうやって言葉であっさり言われる度、どんどんすべてが嘘になるような気がする。
真実が紛い物で塗り固められて、見えなくなっていくような気がする。
そして自分は騙されていくしかなくなるのだ。
「もうやめてくれよ……いつも大袈裟すぎんだよ……抽象的で目に見えないことばっかりで……ただでさえアンタは俺には訳わかんねーのに……」
「じゃあ言い方を変えるよ」
マジックはわずかに目を細めた。
「一緒にいてよ」
「……」
「パパとこれからも一緒にいるって約束してよ。そうしたら私は救われる。忙しいなら、忙しくない時はずっと一緒にいてよ。そして行くなって言うなら、ちゃんと追いかけてきてよ。私を一人にしないでよ」
シンタローは思わず椅子から立ち上がった。
間近で言葉を聞きたくなかった。
背を向ける。
だが、そのまま相手の声は、自分の背中に向けて静かに続けられる。
「……でも約束だって目に見えないから、お前は破るかもしれないね……いつだって私から逃げたがるお前だから。それでもいいから今は一緒にいてよ。言葉が不安で嫌いなら、言葉はなくていいから、態度でパパのこと愛してよ」
「……」
「何があったって、何処に逃げたって、最後はお前の帰る場所は私しかないのだから」
「……ッ」
また無性に腹が立った。
側にいる時は逃げることばかり考える。
離れている時は、帰る時のことばかり考える。
結局自分はこの男のことばかりを考えている。
そんな自分が憎い。
――知ってるさ。
いつも自分より先を歩いている人。
青の一族の先頭にいる人。
しかし人より先に立つということは、いつも一人だということ。
マジックは、いつだって一人の孤独の中にいた人間だった。
それが当然で、平気な人だとばかり、追いかける立場の自分は思っていた。
寂しさなんて感じたこともない人なんだろうと思っていた。
「だから、シンタロー」
背後からそっと抱き締めてくる腕。
首筋に感じる冷たい体温。
「破ってもいいから、一緒に約束して。破ったら、また次に新しい約束をして……この28年、ずっとそうして繰り返してきただろう? いつも喧嘩して、仲直りして、その繰り返し。繰り返してきた仲直りのキスが、私たちの約束だったんだよね」
大きな手が伸びてきて、自分の顔を振り向かせたから、口付けされるのかと思った。
しかし息が届く距離で、二人の接近は止まる。
悪戯っぽく青い瞳が自分を見つめている。
そこには泣いたばかりの顔をした、自分が映っていて。
「今日はお前からパパに約束をしてよ」
「……」
わずかばかりの逡巡の後、シンタローは乱暴に体に回された腕を振り払う。
そして正面に向き直ると。自分より高い位置にある顔に口を寄せて。
「……」
触れた瞬間、思いっきり相手の唇に噛み付いた。さっと離れて睨みつける。
彼は形の良い眉をひそめて、指で軽く口元を拭う。
ついた血を見る。
そして言った。
「……まるで私みたいなことをするね。でも噛み方が可愛いから猫かな……それに、ぞくっとしたよ。パパはこういうことをされると、お前を躾し直したくなるってよくわかってるはずなのに」
マジックの薄い唇は血で染まっている。
その両端が少し上がって、まるで微笑んでいるように見えた。
「過去の部屋はここでおしまいで、もうその扉の奥が、お前のお望みの寝室だよ。今夜のお前はそういう趣向がお好みかな?」
「……アンタだって、血は赤いだろ」
シンタローは言った。
舌で自分の上唇を舐める。鉄の味がした。
きっと自分の唇も、目の前の男の血で、赤い紅をつけたような色をしている。
「俺もアンタも青だけど、血は赤い。秘石は俺たちの血の色までは青く作れなかった。だから、アンタももう青とか赤とか言ってんな」
「お前は正確には私の血族ではないから、絶対にこの青の血の重さがわからない。作られて操られる身の上は同じだけれど、それでも受け継いできた過去と自分の汚濁で、私は汚れているんだよ。それでもお前はそう言えるの。そしてその言ったことを忘れないでいてくれるの」
「ずっと俺からすべてを隠してきたくせに……もういいよ。アンタは石コロなんかに拘るな。一緒とか言いながら、実際は一人で何でもやろうとするな。勝手に何処かへと行こうとするな」
「……責任取ってくれるの?」
シンタローは自分の唇をぎりっと噛んだ。
今度は自分の血が滴り落ちる。
もう一度唇を舐めた。
目の前の男の血と混ざり合った血は、それでも同じ鉄の味がした。
青の血。赤くて同じ味がする血。
――だから、何だっていうんだ?
――血は、血だろ?
それだけだ。
そんなの、操り人形じゃなくって、人間だったら、変えられるんだよ何だって。
そう信じろよ。
だいたい俺が一緒にいれば、アンタは変わるんだろ?
何だかんだ言ってさ。
実際に覇王への道ってのもやめてくれたし。
俺がずっと嫌だった、人殺しもやめてくれたよな。
俺はアンタからあのちっぽけな石コロを奪って、本当に良かったよ。
助けるとか、救うとか、そんな大袈裟なことじゃねーよ。
バカか。なぁに悩んでんだよ。
簡単なことじゃないかよ。
青の呪縛なんて。
そしてまた、シンタローは切れ長の目でマジックを睨みつけた後。
小さく背伸びして、今度は本当に口付けた。
目に見える色とかたちをした約束。
「これが、俺の、アンタへの赤いキスだ、忘れるな。これから一生覚えとけ」
HOME
PR
パパは覇王
HOME
シンタローのパパはね。
とっても、えらいんだって。
せかいでいちばんなんだって。
はおう、ってゆうんだって。
今日もね。
でっかいひこうきから、パパとシンタローが、おりたらね。
みんなが、けいれい、するんだよ。
たくさんの軍人さんのね。白いてぶくろが、さあって、波みたいに。
おっきい海の、波みたいに。
シンタローをだっこしてるパパに、波がよせるみたいに。
そしたら、パアンって。ドンドンパンパン、はなびが、あがったよ。
きれいなの!
それでね。
ラッパとか、たいことか、ふえが、じゃんじゃんなるんだよ。
軍人さんが、ザッザッって、こうしん、するんだよ。
おそらには、バラバラバラって、ヘリコプターがいっぱい。
あるくとこに、赤いじゅうたんが、ひいてあるの。
どんな国にパパとシンタローがあそびにいってもね。
いっつも、こうやって、ようこそ! ってされるんだよ。
そしてね。
おヒゲのこわいかおした、おじさんたちが、ひこうきの下でせいぞろいして、まってたの。
パパにむかって、あいさつしたよ。
それをみたら、パパは、シンタローをじめんにおろしたの。
そして、そのおじさんたちと、あくしゅしようとしたの。
でもね。
「ああっ! シ、シンちゃん!」
シンタローは、ぱあって、かけだしたの。
いっぱいの軍人さんのあいだをね、しょうがいぶつきょうそう、したの。
ほらね。
かってにパパが、だっこ、やめるからこうなるの。
「シンちゃん! 待ってよ! パパと一緒におててつないでてよ!」
「総帥閣下……」
「シンちゃん! 一人でそっち行っちゃダメだって! パパを置いてかないで!」
「パパー! ここまでおいでー」
「ああもう、シンちゃんてば、かけっこ早いんだからっ!」
そうやって、みんな、ほっぽりだしちゃって。
バタバタってシンタローを、がんばって追いかけてくる。
こんなシンタローのパパは。
ちょっと……バカ。
パパは覇王
--------------------------------------------------------------------------------
「もー! パパったらぁ! シンタローがいないと、ダメなんだから!」
「んもうシンちゃん。勝手に走り出しちゃ、パパ困っちゃうよっ! 走る時は、よーいドンしなさい、よーいドン。あーあ、びっくりするコトばっかりするんだから。そんなとこも可愛いんだから」
「ごめんねぇ、パパ!」
あのね。
みんながパパをね。えらい人だって、おもってるみたいなの。
でも、ほんとはちがうよ。
いつもシンタローは、こっそりクスって、わらってるよ。
だってパパ、シンタローのつくった、おとしあなに、おちるもん。
『わー! シンちゃ~ん!! 助けて~!!』
シンタローのはしるのに、おいつけないもん。
『わー、シンちゃん、待ってー!!』
シンタローがいないと、おばけこわくてねむれないって、ゆうもん。
『えーん、パパ、シンちゃんいないと、こわくってさあ!』
いいおとなが、カッコわるいの。
みんな、だまされてるの。
シンタローだけが、ほんとのこと、しってるの。
でもね、パパ。
シンタローはいい子だから、ひみつにしといてあげるよ!
ばらされたら、パパ、こまるでしょ?
だから、ワンコのぬいぐるみ、かってほしいの。
★★★
今日は、グンマがきたよ。
「えへへぇ、シンちゃ~ん」
「よぉ、グンマ」
パパは、シンタローのこと、シンちゃんってよぶの。
グンマは、シンタローのこと、シンちゃんってよぶの。
パパは、グンマのこと、グンちゃんってよぶの。
そうよぶのは、パパひとりだけだよ。
だから、グンマはなまいきなの。
でもシンタローは、グンマのこと、グンちゃんってよびたくないの。
だって、カッコわるいよ。
ちゃんってつけてよぶなんて、カッコわるいコト、しないよ!
シンタロー、かわいいっていうより、カッコいいって、ゆわれる子になりたいの。
それでね。
みんなが、グンマのハネたかみが、かわいいってゆうの。
だからシンタローは、さわってみたよ。
ふわふわだったの。
ひっぱったら、グンマはないちゃったの。
パパがきて、シンちゃん、グンちゃんいじめちゃだめだよぉ、ってゆうから、シンタローはちがうよってゆったの。
グンマのかみが、ひっぱってって、シンタローにゆったんだもん。
きらきら、きんいろにひかって、ひっぱってって、ゆったんだもん。
だから、シンタロー、わるくないもん。
グンマのかみが、わるいんだもん。
「シンちゃぁん、シンちゃぁん」
おひるごはんの、あとにね。
グンマがよぶよ。
シンタローは、ためいきついて、こたえるの。
どうせ、またあそんでほしいってことなの。
シンタローは、おそとにいきたいのにな。
でもグンマはさっきから、おへやのソファで、うちゅうのほんみて、こうふんしてるの。
「なぁに」
「うちゅうって、すごいねぇ! すごぉく、でっかいの! ピカピカだよぉ! それでね、おほしさまがね、たくさんあってね、」
グンマは、なんだって、すごいってゆうの。
かんしんしすぎなの。
こんなんじゃ、いつか、だまされるの。
「あのねぇ、シンちゃぁ~ん! グンちゃん、うちゅうにいきたいよぉ~!」
たんじゅんなの。
しかたないから、シンタローは、つきあってあげるの。
「じゃ、いいよ。このソファ、うちゅういく、スペースシャトルね」
「わぁ~い! ぼくぅ、シンちゃんといっしょにぃ、うちゅういく!」
「はっしゃするから、目つむってろよ、グンマ」
「シンちゃん、ぼくも、はっしゃしたいよぉ」
「ダメぇ! これはシンタローがはっしゃってゆうの! でなきゃ、やめる!」
「ふぇ~ん、やめちゃヤだよぉ~」
「グンマ、目ぇつむった? よーし、ずどーん! はっしゃ!」
そしてシンタローも、目、つむったの。
つぎに目、あけたときは、もう、うちゅうだったよ。
お月さまにいったの。
じめんが、きんいろだったよ。
おそらに、ちきゅうが、うかんでたよ。
それで、ひっしにグンマが、ウサギ、さがしてたの。
「ウサた~ん! ウサた~ん! いないのぉ?」
シンタローは、そんなのより、もっとカッコいいのがいいの。
「うちゅうじーん! でてこぉーい! うちゅうじーん!」
ふたりで、よんでたら。
とおくから、『はァ~い』って、へんじがきこえて。
なにか、ちかづいてきたよ。
これが、うちゅうじん。
でも。
でも、かおが、さかななの。
したが、ベロンて、ながいの。
それで、ピンクのカタツムリみたいなカラ、せおってたの。
それから、あしが、たくさんあって。
うじゅるうじゅるしてたの……
しかも、いっぽんいっぽんに、アミタイツ、はいてるの。
キモいの。
シンタロー、こういうの、きらいなの。
なまぐさいの。
「わぁ、うちゅうじんさんだー」
グンマがちかよろうとしたから、シンタローは、とめたの。
こういうのとは、おはなししないほうが、せいかいなの。
「アタシを呼んだァ? カワイイ坊やたちぃ うふっ」
……しかも、オカマなの。
「あっちいこ、グンマ」
「んー、でもぉ、シンちゃぁん」
「そうよぉ。折角来たんだから、ゆっくりして行きなさいよぉ、シンタローさぁん」
なんだかシンタロー、さむけがしたの。
「グンマ! はしろう!」
「えぇ、どぉして、シンちゃぁん」
「いいの! ふきつなよかんがするの!」
シンタロー、グンマの手をつかんで、はしったよ。
でも!
なまぐさいのが!
おいかけてくるの!
「ウフッ……愛しい殿方のちみっこ時代を覗く幸せ そう、アタシはアナタの未来のラヴの寄せ集め……受け取ってェ、この溢れるヌラヌラヴ! ナマモノだからお早めにッ!」
へんたいなの!
おことわりなの!
はしって、はしったよ!
そしたら、ガケが!
いきどまりなの!
「とびおりるぞ、グンマ!」
「ふぇ~ん、シンちゃん、いやだよぉ、こわいよぉ」
「いいの! いくの! シンタローがいるから、だいじょうぶなの! 目、つむるの! それぇ!」
「うわぁぁ~~んっ!」
ふたりで、とびおりたの。
ひゅ――――んって。
風のおとに、まじって。
「シンタローさぁぁぁ~んっっ アタシ達、待ってるわよォ~~! 早くイイ男に育って、島に来てねェ~~!!!」
さいごに、のろいのことばが、きこえたの。
パチッ。
シンタローが、つぎに目、あけたときには。
ベッドのなかだったよ。
となりでグンマも、目、あけてたよ。
しばらく、キョロキョロしてたけど。
それから、やっぱり。
「う、う……ふぇぇぇ~~~~んっっっ!!!」
グンマ、おおごえで、なきだしちゃった。
そしたら、バタバタって、あしおとがして。
「グンマ様! 大丈夫ですか、グンマ様~~~!!!」
高松が、へやに、とびこんできたよ。
なみだとはなぢ。
どばあって。
シンタロー、それをよけて、えいって、ベッドからとびおりたよ。
高松とグンマは、いっつもなんでも、おおさわぎなの。
べつに、いいけど。
ここはシンタローのいえだから、あとしまつだけは、ちゃんとしてほしいの。
よごれたの。
そしたら、あとからパパがきて。
シンちゃん、よくねむれたかいって。
パパが、しずかだなって、おもったら。
ふたりとも、ソファで、いつのまにか、ねちゃってたんだよって。
「シンタローとグンマ、うちゅうじんにあったの」
そうゆったら、パパは。
あははーって、わらって。
「じゃあ、シンちゃん、いつかパパと一緒に宇宙に行こうね。世界を征服したら、次は宇宙だからさ」
って、ウインクして。
ゆったんだよ。
★★★
今日は、ハーレムおじさんがきたの。
ごはんたべに、いくからだよ。
おいしいものたべるときとか、たのしいとこにいくときとか。
ぜったい、くるの。
よんでないのに、くるの。
「へっへ。シンタローよ、相変わらず小っせェナ? その分じゃぁ、まーだオネショしてやがんじゃねーのか~ 今度おじさんが、オムツ、プレゼントしてやるぜェ?」
またシンタローをバカにするの。
わるいおじさんなの。
それで、シンタローがパパがいないと、なんにもできないとかって、そんなコトゆうの。
それはちがうよ!
ぎゃくなの!
パパが、シンタローがいないと、なんにもできないの!
ハーレムおじさん、わかってないの。
それにじぶんこそ、あにき~ってパパについてくよ。
カッコわるいの。
それにオムツどころか!
シンタローとグンマに、おとしだまも! くれないの!
まったく、しんじられないの。
それでね。
きょうのごはんは、おしろで、たべるんだよ。
くろいもりを、車でとおってきたよ。
みずうみがあってね。
シンタローたちが、そばにきたら、ガコーンって、おおきなおとがして。
みずうみにうかぶ、おしろにわたる、はしが、おりてきたよ。
なかにはね。
おへやや、ろうかに、よろいとか、おうさまのえとか、なんかたくさんあるの。
シンタローたちのテーブルのそばで、オーケストラのひとたちが、きれいなおんがく、えんそうしてたよ。
リクエストは、ってきかれて。
ハーレムおじさんが『ネコふんじゃった』ってゆって、パパにこわいかお、されてたよ。
「オイ、シンタロー。北京ダック食いたくねーか、北京ダック」
きんきらの、いすに、すわってからね。
パパが、だれかと、おはなし、してるときに。
けちんぼおじさんが、そうゆって、のぞきこんできたの。
また、にやにやしてるの。
「ペキダ……? そんなヘンなの、シンタローはいらないよー」
「あーあー。ま、ガキだから仕方ねーか! 大人の味ってのがワカるハズねーよナ。こりゃ言った俺が悪かった」
「パパー! シンタロー、ペキダクたべたいー」
「なぁに、シンちゃん、ペキダクって。ここドイツだけど、そんな料理あったかなぁ?」
「あー、きっと兄貴! シンタローは北京ダックって言ってんじゃねェかァ? 俺のカンがそう言ってる」
「シェフ」
「はっ!」
パパが、ぱちんって、ゆびを。
そしたら、すぐにね。
「喜びをもたらす一品です。総帥に千代万代の栄光あらんことを……」
シンタローより、おっきい、鳥のりょうりが、でてきたよ。
おとこのひと、さんにんで、やっとはこんできたの。
だけどね。
シンタローのおさらには、かわ、しかくれなかったの。
「シンちゃん、これ、皮を食べる料理なんだよ。こうやって包んで……熱いから気をつけてね」
「そーそー。お前は皮を食べてナ。仕方ねェ、俺は余り物でいーから、肉をいただくゼ。いやあ、兄貴とメシ食いに行くと肉が足りなくってなァ」
「お前は野菜も食べなさい、ハーレム!」
「まぁまぁ兄貴、いーじゃねぇかよ。ここはシンタローに免じて、な?」
「お前が言うな」
……。
なんか、なっとくいかないの。
だからけっきょく、シンタロー、もともとのコースをたべたの。
おいしかったけど。
ハーレムおじさんいると、シンタローは、いっつも、なっとくいかないの。
★★★
今日はね!
サービスおじさんがきたよ!!!
シンタローはね、たのしみでね! たのしみでね!
きのうのよるから、ねむれなくってね!
もう、たいへんだったの!
わくわくどきどき、ぜいぜいはあはあなの!
ぎんいろのひこうきが、ちゃくちしてね。
サービスおじさん、カッコよく、おりてきてね。
まっさきに、ふわって、シンタローのあたま、なでてくれたの!
「また背が伸びたね」
って、ゆってくれたよ!
うわぁい!
おじさん、よくわかるの!
シンタロー、このまえ、おじさんにあったときから、こゆびはんぶん、おおきくなったよ!
さすが、サービスおじさんなの!
「クッ……サービス……今の適当に言っただろう……お前はいつも要領良くオイシイ所を……」
「何ですか、兄さん。邪魔しないで下さい」
サービスおじさん、シンタローをだっこしてくれたよ。
ほっぺた、スリスリしてくれたよ。
「わぁ、サービスおじさん、すべすべー」
「シンちゃん! パパだって! パパだって、まだ20代のお肌ピチピチだよ! すべすべのつるつるだよっ!!!」
「うるさいですよ、兄さん。今から化粧水つけたって、あなたは僕には敵いませんから。あきらめた方がいいですよ」
パパは、シンタローがサービスおじさんのコトばっかりだから、ごきげんナナメなの。
しっと、しまくりなの。
わかりやすいパパなの。
でも、シンタローは、サービスおじさんが好きだから、しょうがないの!
それでも、パパ、しつこくって。
どっちが好きかって、うるさいんだよ。
そんなしつもんに、シンタローはこたえるひつよう、ありません!
だから、あっちいってってゆったら。
こんどは、しょんぼりしすぎなの。
んもう。
こどもみたいでカッコわるくて、シンタローはますますサービスおじさんが、カッコよくみえるの。
「さぁ、シンタロー。行こうか」
「うん!」
「シ、シンちゃん……パパ、泣きそう……」
シンタローとおじさんが、おててつないで、あるいていくのを。
パパは、ずっと、かなしそうに、みおくってたよ。
シンタローがふりかえったら。
まだ、みおくってたよ。
パパったら。
だから、ぎゃくこうか、なの!
あたまわるいの。
あのね。
パパは、おとななんだから、ちゃんとガマンするの。
今日はいちにち、がんばってガマンするの。
そしたらね。
そうやって、いい子にしてたらね。
そしたら、あしたはシンタロー、パパといっしょにねてあげるよ。
★★★
今日はまた、グンマがきたの。
シンタローが、あそんであげてたら。
グンマが、むしめがね、もってきて。
おひさまのひかりで、くろいがようし、もやせるんだよって。
かがくのじっけん、しようって、ゆうの。
さいきんグンマは、かがくにこってるの。
おそとでね。
くろいがようし、じめんにひいて。
むしめがね、いろいろ、かたむけて。
おひさまのひかり、あつめてみたよ。
そしたら、ジリジリ、ブスブスって。
がようしが、もえだしたの。
すごい、すごいねって。
グンマと、ふたりで、うきうきしたけど。
シンタローのかみと目も、こうやって、もえるのかなあって、ちょっとおもったよ。
くろいから。
そのよる、ごはんのあとにね。
パパにね。
シンタローは、どうしてくろいかみと目なのって、きいたの。
あはは。
パパは、わらったの。
それはね、シンちゃん。
シンちゃんがうまれるまえに、パパがそう、かみさまにおねがいしたからだよ。
だからシンちゃんは、くろいかみと目なんだよって。
そんなことゆうの。
パパはひどいの。
じぶんが好きだからって、かってにかみさまにおねがいしたの。
わがままなの。
シンタローは、みんなといっしょな、きんいろのかみがよかったの。
あおいめが、よかったの。
きんいろのかみが、好きなの。
あおいめが、好きなの。
だから、パパ、ひどいって、たくさんないたら、ごめんねって、たくさんゆわれて。
どうしたら、パパをゆるしてくれるのって、きくから。
シンタローが、なおしてくれたら、ゆるしてあげるよって、ゆったら。
それは、なおすとか、なおさないじゃなくて、シンちゃん、そのかみと目、かわいいからいいじゃないって、パパがゆうから。
おまえのいろは、ひかりをあつめるいろだよって、パパがゆうから。
パパがそうおもってたって、シンタローは、いやなのって、ゆった。
そしてね。
なんで、パパはそんなにくろいかみと目が好きなのって、きいたら。
だって、くろいろって、シンちゃんのいろだからって、ゆわれて。
それはシンタロー、ヘンだとおもったの。
くろいろが好きだから、シンタローのかみと目をくろくしてくださいっておねがいしたって、さっきパパはゆったのに。
でもシンタローのいろだから、くろいろが好きなんだって。
ぎゃくになってるの。
ぜったい、おかしいの。
だから、シンタローは。
パパ、うそついてるって、おもったの。
きっと、パパは、シンタローに、うそついてるの。
ひとつ、うそっておもったら、みんなあやしいの。
でも、みんなうそだったら、パパがシンタローを好きだよっていうのも、うそってことなの。
それはダメなの。
だから、シンタローは、ぜんぶ、ほんとって、おもうことにしたの。
もう、そう、きめたの。
だから、シンタローのかみがくろくて、目もくろいのは、パパのせいなの。
パパ、さいてぇ。
それに、このさいだから、また、ゆっちゃうけどね!
パパ、シンタローのこと、かわいいってばっかり、ゆうでしょ?
シンタローは、かわいいより、カッコいい子なのって、いっつもゆってるのに!
パパは、そこんとこ、わかってないの。
にぶいの。
パパはひどいから、せきにんとって、シンタローのゆうことをきくの。
だから、今日はお仕事、いかないでほしいの。
★★★
むかしね。
どうしてパパはお仕事するのって、きいたこと、あるよ。
そしたら、せかいいちになるためだって。
パパが、それにいちばん、ちかいばしょにいるんだって。
パパ、せかいいちの、はおう、になるんだって。
今日、パパはお仕事いったまま、かえってこないの。
こんばん、かえってくるよって、ゆったのに。
そとはあらしで、風がびゅうびゅうふいてて、まどをばしばしたたいてるの。
シンタローはカッコいい子だから、こわくないけど、パパがしんぱいなの。
パパ、こわがりだから、こわくないかなって、おもうの。
いっつも、風がふくとね。
シンちゃん、パパこわいよって、もうふのなかに、もぐりこんでくるんだよ。
やれやれなの。
しかたないからね。
今日もね。
シンタローは、もうふをあたまからかぶって、パパをまっててあげてるの。
ねむいけど、パパがきたら、かわいそうだから。
しかたないから、まっててあげてるの。
でも、その日、シンタローはあそびすぎちゃって。
つかれちゃってて。
だから、いつのまにか、ぐっすりねちゃってて。
シンタローは、あさ、かぜのおとで、ハッと、目がさめて。
まわりを、きょろきょろさがしたけど。
パパ、となりにいなかったよ。
パパのお仕事。
シンタローは、大きらい。
むかしね。
シンタロー、どうしても、パパにお仕事、いってほしくなかったから。
すごく、ないて、わがままゆったこと、あるよ。
いかないでって。
それでもパパは、さいごはお仕事、いっちゃったけど。
かえってきたらね。
シンちゃん、おいでって、ゆうんだよ。
パパといっしょにおいで。
すてきなもの、みせてあげる。
ほら。
シンちゃんの国だよ。
そうゆって、パパは。
ヘリコプターから、シンタローに、その国をみせてくれたの。
きんいろ、だった。
どこまでもどこまでも。
きんいろ、だった。
じめんに、おりたら。
そのきんいろが、ひまわりのはなだって、わかったよ。
ねーえ、シンちゃん。
パパがゆうの。
ひまわり好きだって、言ってたよね?
だから、この国、ひまわりの国にしたんだよ。
ついさっき、パパのものにしたばかりなんだけどさ。
ぜんぶ、シンちゃんの好きな花で、埋めたんだ。
シンタロー、ひまわり、好きなの。
だって、つよい花だから。
それで、きんいろだから。
きんいろをみると、シンタローは。
むねが、きゅっとなる。
それは、きっと、好きってことなの。
だから、シンタロー、ひまわり、好きなの。
ひまわりの国は、とっても、きれいだったよ。
あおいそらのした。
どこまでもどこまでも。
きんいろで。
きれいだった。
「どうだい、シンちゃん。綺麗だろう! シンちゃんのために、パパはこの風景を作ったのさ!」
パパは、とくいなかお、してるの。
シンちゃん、ほめて、ほめて! って。
そういうかお、してるの。
「パパ、この国、シンちゃんにあげるよ! 私のものは、みんなお前にあげるよ! ぜんぶぜんぶ、あげちゃうよ!」
そんなパパのかみも、きんいろだった。
そらとおなじいろの、あおいめだった。
きんいろと、あおは、パパのいろ。
パパが、いっしょうけんめいなのが、わかったから。
シンタローは。
ちいさく、うんって、ゆったの。
でもね。
その国には。
にんげんが、ひとりも、いなかったよ。
いちめんに。
きんいろの花だけが、かぜに、ゆらゆら、ゆれてた。
だから。
シンタローは。
かなしく、なった。
★★★
パパが、お仕事からかえってきたの。
やくそくから、みっかも、おくれたの。
シンタローは、おこってるから、口きいてあげなかったけど。
でも、お仕事がわるいんだから、ちゃんとさいごに、パパをゆるしてあげたよ。
あのね。
パパは、ながいお仕事から、かえってきたときはね。
いつもの、ばいくらいに、シンタローにやさしいんだよ。
それはもう、すごいことなの。
だからシンタローも、ばいくらい、パパにやさしくしてあげるんだよ。
それにね。
こんどは、おみやげに、ワンコのぬいぐるみ、かってきてくれたの!
ほしかったやつなの!
だから、ゆるしてあげるの。
でも、パパが。
パパのいないときは、このワンコといっしょに、ねてねってゆうんだよ。
しつれいしちゃうの!
それはぎゃくなの。
パパこそ、シンタローのいないときは、ぬいぐるみ、ひつようなクセに、なの。
そうゆってやったら、じゃあシンちゃんがいないときは、じぶんでつくろうかなって。
シンちゃんにそっくりなの、つくっちゃうんだ。
びっくりするくらい、うんと、かわいいのをね!
たくさん、たくさん、つくっちゃう!
やけに、はりきってるの。
おさいほう、じょうずなパパなの。
それでね。
なかなおりだよ、って、パパがゆうから。
シンタローは、ひみつのばしょ、パパといっしょにいきたいって、おもったの。
パパがいないときにね。
グンマと高松がきて、おしえてくれたの。
グンマの好きな鳥が、たっくさんとんでくる、みずうみがあるんだって。
わたりどりのきせつ、だって。
その鳥、せかいじゅうを、たびしてるんだって。
すごいね!
パパといっしょだよ!
パパ、どうぶつ、大好きだから。
だから、シンタローは、その鳥、みせてあげたいって、おもったの。
パパは、ムリだよって、ゆったけど。
シンタローは、どうしてもいきたくて。
いかなきゃ、なかなおりしないって、ゆったの。
だから、いっしょに、パパと車で、みずうみにいったの。
とおくからみたら、すっごくいっぱいの、白い鳥が。
水あび、してたよ。
そうがんきょうでみて、わくわくしたよ。
シンタローは、うれしくなったよ。
ひとりではしって、ちかくまでいって、草のなかにガサって、かくれたよ。
鳥、すっごくかわいいの。
はねが、とってもきれいなの。
くちばしが、つるんって、してるの。
ばしゃばしゃ、あそんでるの。
こんなの、パパは、みないなんて、ダメなの。
だからシンタローは、車でまってるパパを、ひっぱってきたよ。
ムリだよって、またパパはゆったけど。
いいからって、シンタローは、ぎゅうって、パパの手をひっぱったの。
そしたら。
シンタローとパパが、ちょっとちかづいたら。
さっきのシンタローより、ずっととおくだったんだよ。
でもね。
ばさばさばさって。
はねのおとが。
ざあああああって。
水しぶきのおとが。
みずうみから。
鳥がいっせいに、とんでいっちゃった。
おそらに。
「……ごめんね、シンちゃん。パパ、動物には……特に野生の動物には、あんまり好かれてなくって」
とんでいった、いっぱいの鳥を見ながら。
パパが、そう、ちいさくゆったの。
……。
パパは、どうぶつ好きだけど、どうぶつにはきらわれてるの。
シンタロー、そのこと、しってたよ。
パパに、なでられると。
おうちでかわれてるワンコは、しっぽがおしりのあいだにはいって、おそとのどうぶつは、にげちゃうの。
でもね。
シンタロー、今日はだいじょうぶかなって、おもったの。
パパが、とってもやさしかったから、今日はだいじょうぶかなって、おもったの。
シンタローは、パパのこと、好きだから。
だから、どうぶつも、今日はパパのこと、きっと好きになってくれるって、おもったの。
「今度、サービスと一緒に来るといいよ。頼んでおくから」
そうゆった、パパのかお。
それをみたら、シンタローは。
ひまわりの国をパパがシンタローにくれたときみたいに。
かなしく、なった。
ごめんね、パパ。
そんな、わらいかたさせて、ごめんね、パパ。
そのかわりにね。
シンタローだけは、パパから、にげないでいてあげるの。
シンタローのかわりの、ぬいぐるみなんて、ずっとつくらなくってもいいよ。
パパがこわいとき、いつも、いっしょにいてあげるの。
シンタローだけは、ねないで、パパをまっててあげるよ。
ずっと、好きでいてあげる。
ごめんね。
でもシンタロー、ずっとどうゆえばいいのか、わからなかったから。
だから、だまってたら。
パパは、鳥がにげたから、シンタローがおこってるんだとおもって。
また。
「ごめんね、シンちゃん」
って、ゆったの。
だから、シンタローも。
「ごめんね、パパ」
って、ゆったよ。
その日、パパ、カレーつくってくれたの。
すごくおいしかったよ。
★★★
つぎの日おきたら、すっごく、いいおてんきだったの。
わーいって、ベッドから、とびだしたら。
シンちゃん、おはようって。
パパが、おにわの、キラキラおひさまのしたで、わらったよ。
そして、ゆったの。
シンちゃん、パパ、おせんたくしてるから。
パジャマぬいでね。
まるまる、あらっちゃうよ!
ぜんぶ、きれいにしちゃうよ!
はやく! はやく! それでさいごだよ! って。
わらって、せんたくもの、パンパンって、たたいたよ。
しわしわ、のばしてるの。
おにわでね。
シンタローのおようふくとか、パンツとか、シーツとかが。
ひらひら、パタパタ。
おどってたよ。
とっても、うれしそうだったよ!
だから、シンタローも、おどったよ!
おにわが、おまつりみたいだったよ!
わあ、シンちゃん!
んもう、あらうから、パジャマ、ぬいでってば!
はやくってば!
そうやって、パパはこまってるけど。
でも、パパも、すっごく、うれしそうだったよ。
キラキラのあさって、すてきなの。
みんながみんな、うれしくなるの。
シンタロー、おせんたくしてるパパ、好き。
エプロンしてるパパ、とっても好き。
せっけんのにおいのするパパ、大好き。
でもね。
これからパパ、またお仕事なんだって。
むっとしたシンタローのかおを、みて。
パパが、また、こまって、ゆったよ。
「シンちゃん! ほら、今度シンちゃんの誕生日だろう? 遊園地行こう! 遊園地!」
遊園地はにげたりしないから、パパはいきたがるの。
ほんとうはシンタローも、いきたいの。
いこうよ!
やくそくするから!
ゆびきりげんまん、って。
パパが、しゃがんで。
こゆびをだしたよ。
でもシンタローは、むっとしたままだったの。
パパは、お仕事、大好きなの。
パパは、はおう、なの。
せかいいちに、なるんだって。
でもね。
パパは、わかってないの。
お仕事いくから、パパは、シンタローのせかいいちに、なれないんだよ。
パパは、シンタローより、せかいのほうが、大好きなの。
お仕事で、いっぱい……
シンタローの、しらないことを、してるの。
だから、シンタローは。
そんなパパは、シンタローのいちばんにはしてあげません。
いつか、きづいて。
それでね。
シンタローは。
ゆび、のばしてる、パパをおいて。
ぱあって、かけだしたよ。
ほらね。
かってにパパが、やくそく、しようとするからこうなるの。
「シンちゃん! 待ってよ! ゆびきりげんまん、しようよ!」
「やだよー!」
「じゃあ一緒に仲良く、おせんたくしようよ! あらうから! さっきからパジャマぬいでって、言ってるでしょ!」
だってパジャマぬいだら。
パパ、さっさーって、おせんたくしちゃって。
お仕事、いっちゃうじゃない。
「パパー! ここまでおいでー」
「ああもう、シンちゃんてば、かけっこ早いんだからっ!」
キラキラのひかりのなかで、おせんたくものが、ひらひらするなかで。
せっけんの、においのなかで。
シンタローとパパは、また、おいかけっこ、したんだよ。
「パパー! こっちだヨ、こっち!」
「シンちゃん、待ってよ!」
ずっと、追いかけてきてね。
そういう、ゆびきりげんまんだったら、してもいいよ!
だって、そうでしょ。
パパは、シンタローがいないと、ダメなんだから。
シンタローがいないと、さみしくて、泣いちゃうんだから。
そうやって、みんな、ほっぽりだしちゃって。
バタバタってシンタローを、がんばって追いかけてくる。
こんなシンタローのパパは。
……。
シンタローの、たったひとりだけの、パパだよ!
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シンタローのパパはね。
とっても、えらいんだって。
せかいでいちばんなんだって。
はおう、ってゆうんだって。
今日もね。
でっかいひこうきから、パパとシンタローが、おりたらね。
みんなが、けいれい、するんだよ。
たくさんの軍人さんのね。白いてぶくろが、さあって、波みたいに。
おっきい海の、波みたいに。
シンタローをだっこしてるパパに、波がよせるみたいに。
そしたら、パアンって。ドンドンパンパン、はなびが、あがったよ。
きれいなの!
それでね。
ラッパとか、たいことか、ふえが、じゃんじゃんなるんだよ。
軍人さんが、ザッザッって、こうしん、するんだよ。
おそらには、バラバラバラって、ヘリコプターがいっぱい。
あるくとこに、赤いじゅうたんが、ひいてあるの。
どんな国にパパとシンタローがあそびにいってもね。
いっつも、こうやって、ようこそ! ってされるんだよ。
そしてね。
おヒゲのこわいかおした、おじさんたちが、ひこうきの下でせいぞろいして、まってたの。
パパにむかって、あいさつしたよ。
それをみたら、パパは、シンタローをじめんにおろしたの。
そして、そのおじさんたちと、あくしゅしようとしたの。
でもね。
「ああっ! シ、シンちゃん!」
シンタローは、ぱあって、かけだしたの。
いっぱいの軍人さんのあいだをね、しょうがいぶつきょうそう、したの。
ほらね。
かってにパパが、だっこ、やめるからこうなるの。
「シンちゃん! 待ってよ! パパと一緒におててつないでてよ!」
「総帥閣下……」
「シンちゃん! 一人でそっち行っちゃダメだって! パパを置いてかないで!」
「パパー! ここまでおいでー」
「ああもう、シンちゃんてば、かけっこ早いんだからっ!」
そうやって、みんな、ほっぽりだしちゃって。
バタバタってシンタローを、がんばって追いかけてくる。
こんなシンタローのパパは。
ちょっと……バカ。
パパは覇王
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「もー! パパったらぁ! シンタローがいないと、ダメなんだから!」
「んもうシンちゃん。勝手に走り出しちゃ、パパ困っちゃうよっ! 走る時は、よーいドンしなさい、よーいドン。あーあ、びっくりするコトばっかりするんだから。そんなとこも可愛いんだから」
「ごめんねぇ、パパ!」
あのね。
みんながパパをね。えらい人だって、おもってるみたいなの。
でも、ほんとはちがうよ。
いつもシンタローは、こっそりクスって、わらってるよ。
だってパパ、シンタローのつくった、おとしあなに、おちるもん。
『わー! シンちゃ~ん!! 助けて~!!』
シンタローのはしるのに、おいつけないもん。
『わー、シンちゃん、待ってー!!』
シンタローがいないと、おばけこわくてねむれないって、ゆうもん。
『えーん、パパ、シンちゃんいないと、こわくってさあ!』
いいおとなが、カッコわるいの。
みんな、だまされてるの。
シンタローだけが、ほんとのこと、しってるの。
でもね、パパ。
シンタローはいい子だから、ひみつにしといてあげるよ!
ばらされたら、パパ、こまるでしょ?
だから、ワンコのぬいぐるみ、かってほしいの。
★★★
今日は、グンマがきたよ。
「えへへぇ、シンちゃ~ん」
「よぉ、グンマ」
パパは、シンタローのこと、シンちゃんってよぶの。
グンマは、シンタローのこと、シンちゃんってよぶの。
パパは、グンマのこと、グンちゃんってよぶの。
そうよぶのは、パパひとりだけだよ。
だから、グンマはなまいきなの。
でもシンタローは、グンマのこと、グンちゃんってよびたくないの。
だって、カッコわるいよ。
ちゃんってつけてよぶなんて、カッコわるいコト、しないよ!
シンタロー、かわいいっていうより、カッコいいって、ゆわれる子になりたいの。
それでね。
みんなが、グンマのハネたかみが、かわいいってゆうの。
だからシンタローは、さわってみたよ。
ふわふわだったの。
ひっぱったら、グンマはないちゃったの。
パパがきて、シンちゃん、グンちゃんいじめちゃだめだよぉ、ってゆうから、シンタローはちがうよってゆったの。
グンマのかみが、ひっぱってって、シンタローにゆったんだもん。
きらきら、きんいろにひかって、ひっぱってって、ゆったんだもん。
だから、シンタロー、わるくないもん。
グンマのかみが、わるいんだもん。
「シンちゃぁん、シンちゃぁん」
おひるごはんの、あとにね。
グンマがよぶよ。
シンタローは、ためいきついて、こたえるの。
どうせ、またあそんでほしいってことなの。
シンタローは、おそとにいきたいのにな。
でもグンマはさっきから、おへやのソファで、うちゅうのほんみて、こうふんしてるの。
「なぁに」
「うちゅうって、すごいねぇ! すごぉく、でっかいの! ピカピカだよぉ! それでね、おほしさまがね、たくさんあってね、」
グンマは、なんだって、すごいってゆうの。
かんしんしすぎなの。
こんなんじゃ、いつか、だまされるの。
「あのねぇ、シンちゃぁ~ん! グンちゃん、うちゅうにいきたいよぉ~!」
たんじゅんなの。
しかたないから、シンタローは、つきあってあげるの。
「じゃ、いいよ。このソファ、うちゅういく、スペースシャトルね」
「わぁ~い! ぼくぅ、シンちゃんといっしょにぃ、うちゅういく!」
「はっしゃするから、目つむってろよ、グンマ」
「シンちゃん、ぼくも、はっしゃしたいよぉ」
「ダメぇ! これはシンタローがはっしゃってゆうの! でなきゃ、やめる!」
「ふぇ~ん、やめちゃヤだよぉ~」
「グンマ、目ぇつむった? よーし、ずどーん! はっしゃ!」
そしてシンタローも、目、つむったの。
つぎに目、あけたときは、もう、うちゅうだったよ。
お月さまにいったの。
じめんが、きんいろだったよ。
おそらに、ちきゅうが、うかんでたよ。
それで、ひっしにグンマが、ウサギ、さがしてたの。
「ウサた~ん! ウサた~ん! いないのぉ?」
シンタローは、そんなのより、もっとカッコいいのがいいの。
「うちゅうじーん! でてこぉーい! うちゅうじーん!」
ふたりで、よんでたら。
とおくから、『はァ~い』って、へんじがきこえて。
なにか、ちかづいてきたよ。
これが、うちゅうじん。
でも。
でも、かおが、さかななの。
したが、ベロンて、ながいの。
それで、ピンクのカタツムリみたいなカラ、せおってたの。
それから、あしが、たくさんあって。
うじゅるうじゅるしてたの……
しかも、いっぽんいっぽんに、アミタイツ、はいてるの。
キモいの。
シンタロー、こういうの、きらいなの。
なまぐさいの。
「わぁ、うちゅうじんさんだー」
グンマがちかよろうとしたから、シンタローは、とめたの。
こういうのとは、おはなししないほうが、せいかいなの。
「アタシを呼んだァ? カワイイ坊やたちぃ うふっ」
……しかも、オカマなの。
「あっちいこ、グンマ」
「んー、でもぉ、シンちゃぁん」
「そうよぉ。折角来たんだから、ゆっくりして行きなさいよぉ、シンタローさぁん」
なんだかシンタロー、さむけがしたの。
「グンマ! はしろう!」
「えぇ、どぉして、シンちゃぁん」
「いいの! ふきつなよかんがするの!」
シンタロー、グンマの手をつかんで、はしったよ。
でも!
なまぐさいのが!
おいかけてくるの!
「ウフッ……愛しい殿方のちみっこ時代を覗く幸せ そう、アタシはアナタの未来のラヴの寄せ集め……受け取ってェ、この溢れるヌラヌラヴ! ナマモノだからお早めにッ!」
へんたいなの!
おことわりなの!
はしって、はしったよ!
そしたら、ガケが!
いきどまりなの!
「とびおりるぞ、グンマ!」
「ふぇ~ん、シンちゃん、いやだよぉ、こわいよぉ」
「いいの! いくの! シンタローがいるから、だいじょうぶなの! 目、つむるの! それぇ!」
「うわぁぁ~~んっ!」
ふたりで、とびおりたの。
ひゅ――――んって。
風のおとに、まじって。
「シンタローさぁぁぁ~んっっ アタシ達、待ってるわよォ~~! 早くイイ男に育って、島に来てねェ~~!!!」
さいごに、のろいのことばが、きこえたの。
パチッ。
シンタローが、つぎに目、あけたときには。
ベッドのなかだったよ。
となりでグンマも、目、あけてたよ。
しばらく、キョロキョロしてたけど。
それから、やっぱり。
「う、う……ふぇぇぇ~~~~んっっっ!!!」
グンマ、おおごえで、なきだしちゃった。
そしたら、バタバタって、あしおとがして。
「グンマ様! 大丈夫ですか、グンマ様~~~!!!」
高松が、へやに、とびこんできたよ。
なみだとはなぢ。
どばあって。
シンタロー、それをよけて、えいって、ベッドからとびおりたよ。
高松とグンマは、いっつもなんでも、おおさわぎなの。
べつに、いいけど。
ここはシンタローのいえだから、あとしまつだけは、ちゃんとしてほしいの。
よごれたの。
そしたら、あとからパパがきて。
シンちゃん、よくねむれたかいって。
パパが、しずかだなって、おもったら。
ふたりとも、ソファで、いつのまにか、ねちゃってたんだよって。
「シンタローとグンマ、うちゅうじんにあったの」
そうゆったら、パパは。
あははーって、わらって。
「じゃあ、シンちゃん、いつかパパと一緒に宇宙に行こうね。世界を征服したら、次は宇宙だからさ」
って、ウインクして。
ゆったんだよ。
★★★
今日は、ハーレムおじさんがきたの。
ごはんたべに、いくからだよ。
おいしいものたべるときとか、たのしいとこにいくときとか。
ぜったい、くるの。
よんでないのに、くるの。
「へっへ。シンタローよ、相変わらず小っせェナ? その分じゃぁ、まーだオネショしてやがんじゃねーのか~ 今度おじさんが、オムツ、プレゼントしてやるぜェ?」
またシンタローをバカにするの。
わるいおじさんなの。
それで、シンタローがパパがいないと、なんにもできないとかって、そんなコトゆうの。
それはちがうよ!
ぎゃくなの!
パパが、シンタローがいないと、なんにもできないの!
ハーレムおじさん、わかってないの。
それにじぶんこそ、あにき~ってパパについてくよ。
カッコわるいの。
それにオムツどころか!
シンタローとグンマに、おとしだまも! くれないの!
まったく、しんじられないの。
それでね。
きょうのごはんは、おしろで、たべるんだよ。
くろいもりを、車でとおってきたよ。
みずうみがあってね。
シンタローたちが、そばにきたら、ガコーンって、おおきなおとがして。
みずうみにうかぶ、おしろにわたる、はしが、おりてきたよ。
なかにはね。
おへやや、ろうかに、よろいとか、おうさまのえとか、なんかたくさんあるの。
シンタローたちのテーブルのそばで、オーケストラのひとたちが、きれいなおんがく、えんそうしてたよ。
リクエストは、ってきかれて。
ハーレムおじさんが『ネコふんじゃった』ってゆって、パパにこわいかお、されてたよ。
「オイ、シンタロー。北京ダック食いたくねーか、北京ダック」
きんきらの、いすに、すわってからね。
パパが、だれかと、おはなし、してるときに。
けちんぼおじさんが、そうゆって、のぞきこんできたの。
また、にやにやしてるの。
「ペキダ……? そんなヘンなの、シンタローはいらないよー」
「あーあー。ま、ガキだから仕方ねーか! 大人の味ってのがワカるハズねーよナ。こりゃ言った俺が悪かった」
「パパー! シンタロー、ペキダクたべたいー」
「なぁに、シンちゃん、ペキダクって。ここドイツだけど、そんな料理あったかなぁ?」
「あー、きっと兄貴! シンタローは北京ダックって言ってんじゃねェかァ? 俺のカンがそう言ってる」
「シェフ」
「はっ!」
パパが、ぱちんって、ゆびを。
そしたら、すぐにね。
「喜びをもたらす一品です。総帥に千代万代の栄光あらんことを……」
シンタローより、おっきい、鳥のりょうりが、でてきたよ。
おとこのひと、さんにんで、やっとはこんできたの。
だけどね。
シンタローのおさらには、かわ、しかくれなかったの。
「シンちゃん、これ、皮を食べる料理なんだよ。こうやって包んで……熱いから気をつけてね」
「そーそー。お前は皮を食べてナ。仕方ねェ、俺は余り物でいーから、肉をいただくゼ。いやあ、兄貴とメシ食いに行くと肉が足りなくってなァ」
「お前は野菜も食べなさい、ハーレム!」
「まぁまぁ兄貴、いーじゃねぇかよ。ここはシンタローに免じて、な?」
「お前が言うな」
……。
なんか、なっとくいかないの。
だからけっきょく、シンタロー、もともとのコースをたべたの。
おいしかったけど。
ハーレムおじさんいると、シンタローは、いっつも、なっとくいかないの。
★★★
今日はね!
サービスおじさんがきたよ!!!
シンタローはね、たのしみでね! たのしみでね!
きのうのよるから、ねむれなくってね!
もう、たいへんだったの!
わくわくどきどき、ぜいぜいはあはあなの!
ぎんいろのひこうきが、ちゃくちしてね。
サービスおじさん、カッコよく、おりてきてね。
まっさきに、ふわって、シンタローのあたま、なでてくれたの!
「また背が伸びたね」
って、ゆってくれたよ!
うわぁい!
おじさん、よくわかるの!
シンタロー、このまえ、おじさんにあったときから、こゆびはんぶん、おおきくなったよ!
さすが、サービスおじさんなの!
「クッ……サービス……今の適当に言っただろう……お前はいつも要領良くオイシイ所を……」
「何ですか、兄さん。邪魔しないで下さい」
サービスおじさん、シンタローをだっこしてくれたよ。
ほっぺた、スリスリしてくれたよ。
「わぁ、サービスおじさん、すべすべー」
「シンちゃん! パパだって! パパだって、まだ20代のお肌ピチピチだよ! すべすべのつるつるだよっ!!!」
「うるさいですよ、兄さん。今から化粧水つけたって、あなたは僕には敵いませんから。あきらめた方がいいですよ」
パパは、シンタローがサービスおじさんのコトばっかりだから、ごきげんナナメなの。
しっと、しまくりなの。
わかりやすいパパなの。
でも、シンタローは、サービスおじさんが好きだから、しょうがないの!
それでも、パパ、しつこくって。
どっちが好きかって、うるさいんだよ。
そんなしつもんに、シンタローはこたえるひつよう、ありません!
だから、あっちいってってゆったら。
こんどは、しょんぼりしすぎなの。
んもう。
こどもみたいでカッコわるくて、シンタローはますますサービスおじさんが、カッコよくみえるの。
「さぁ、シンタロー。行こうか」
「うん!」
「シ、シンちゃん……パパ、泣きそう……」
シンタローとおじさんが、おててつないで、あるいていくのを。
パパは、ずっと、かなしそうに、みおくってたよ。
シンタローがふりかえったら。
まだ、みおくってたよ。
パパったら。
だから、ぎゃくこうか、なの!
あたまわるいの。
あのね。
パパは、おとななんだから、ちゃんとガマンするの。
今日はいちにち、がんばってガマンするの。
そしたらね。
そうやって、いい子にしてたらね。
そしたら、あしたはシンタロー、パパといっしょにねてあげるよ。
★★★
今日はまた、グンマがきたの。
シンタローが、あそんであげてたら。
グンマが、むしめがね、もってきて。
おひさまのひかりで、くろいがようし、もやせるんだよって。
かがくのじっけん、しようって、ゆうの。
さいきんグンマは、かがくにこってるの。
おそとでね。
くろいがようし、じめんにひいて。
むしめがね、いろいろ、かたむけて。
おひさまのひかり、あつめてみたよ。
そしたら、ジリジリ、ブスブスって。
がようしが、もえだしたの。
すごい、すごいねって。
グンマと、ふたりで、うきうきしたけど。
シンタローのかみと目も、こうやって、もえるのかなあって、ちょっとおもったよ。
くろいから。
そのよる、ごはんのあとにね。
パパにね。
シンタローは、どうしてくろいかみと目なのって、きいたの。
あはは。
パパは、わらったの。
それはね、シンちゃん。
シンちゃんがうまれるまえに、パパがそう、かみさまにおねがいしたからだよ。
だからシンちゃんは、くろいかみと目なんだよって。
そんなことゆうの。
パパはひどいの。
じぶんが好きだからって、かってにかみさまにおねがいしたの。
わがままなの。
シンタローは、みんなといっしょな、きんいろのかみがよかったの。
あおいめが、よかったの。
きんいろのかみが、好きなの。
あおいめが、好きなの。
だから、パパ、ひどいって、たくさんないたら、ごめんねって、たくさんゆわれて。
どうしたら、パパをゆるしてくれるのって、きくから。
シンタローが、なおしてくれたら、ゆるしてあげるよって、ゆったら。
それは、なおすとか、なおさないじゃなくて、シンちゃん、そのかみと目、かわいいからいいじゃないって、パパがゆうから。
おまえのいろは、ひかりをあつめるいろだよって、パパがゆうから。
パパがそうおもってたって、シンタローは、いやなのって、ゆった。
そしてね。
なんで、パパはそんなにくろいかみと目が好きなのって、きいたら。
だって、くろいろって、シンちゃんのいろだからって、ゆわれて。
それはシンタロー、ヘンだとおもったの。
くろいろが好きだから、シンタローのかみと目をくろくしてくださいっておねがいしたって、さっきパパはゆったのに。
でもシンタローのいろだから、くろいろが好きなんだって。
ぎゃくになってるの。
ぜったい、おかしいの。
だから、シンタローは。
パパ、うそついてるって、おもったの。
きっと、パパは、シンタローに、うそついてるの。
ひとつ、うそっておもったら、みんなあやしいの。
でも、みんなうそだったら、パパがシンタローを好きだよっていうのも、うそってことなの。
それはダメなの。
だから、シンタローは、ぜんぶ、ほんとって、おもうことにしたの。
もう、そう、きめたの。
だから、シンタローのかみがくろくて、目もくろいのは、パパのせいなの。
パパ、さいてぇ。
それに、このさいだから、また、ゆっちゃうけどね!
パパ、シンタローのこと、かわいいってばっかり、ゆうでしょ?
シンタローは、かわいいより、カッコいい子なのって、いっつもゆってるのに!
パパは、そこんとこ、わかってないの。
にぶいの。
パパはひどいから、せきにんとって、シンタローのゆうことをきくの。
だから、今日はお仕事、いかないでほしいの。
★★★
むかしね。
どうしてパパはお仕事するのって、きいたこと、あるよ。
そしたら、せかいいちになるためだって。
パパが、それにいちばん、ちかいばしょにいるんだって。
パパ、せかいいちの、はおう、になるんだって。
今日、パパはお仕事いったまま、かえってこないの。
こんばん、かえってくるよって、ゆったのに。
そとはあらしで、風がびゅうびゅうふいてて、まどをばしばしたたいてるの。
シンタローはカッコいい子だから、こわくないけど、パパがしんぱいなの。
パパ、こわがりだから、こわくないかなって、おもうの。
いっつも、風がふくとね。
シンちゃん、パパこわいよって、もうふのなかに、もぐりこんでくるんだよ。
やれやれなの。
しかたないからね。
今日もね。
シンタローは、もうふをあたまからかぶって、パパをまっててあげてるの。
ねむいけど、パパがきたら、かわいそうだから。
しかたないから、まっててあげてるの。
でも、その日、シンタローはあそびすぎちゃって。
つかれちゃってて。
だから、いつのまにか、ぐっすりねちゃってて。
シンタローは、あさ、かぜのおとで、ハッと、目がさめて。
まわりを、きょろきょろさがしたけど。
パパ、となりにいなかったよ。
パパのお仕事。
シンタローは、大きらい。
むかしね。
シンタロー、どうしても、パパにお仕事、いってほしくなかったから。
すごく、ないて、わがままゆったこと、あるよ。
いかないでって。
それでもパパは、さいごはお仕事、いっちゃったけど。
かえってきたらね。
シンちゃん、おいでって、ゆうんだよ。
パパといっしょにおいで。
すてきなもの、みせてあげる。
ほら。
シンちゃんの国だよ。
そうゆって、パパは。
ヘリコプターから、シンタローに、その国をみせてくれたの。
きんいろ、だった。
どこまでもどこまでも。
きんいろ、だった。
じめんに、おりたら。
そのきんいろが、ひまわりのはなだって、わかったよ。
ねーえ、シンちゃん。
パパがゆうの。
ひまわり好きだって、言ってたよね?
だから、この国、ひまわりの国にしたんだよ。
ついさっき、パパのものにしたばかりなんだけどさ。
ぜんぶ、シンちゃんの好きな花で、埋めたんだ。
シンタロー、ひまわり、好きなの。
だって、つよい花だから。
それで、きんいろだから。
きんいろをみると、シンタローは。
むねが、きゅっとなる。
それは、きっと、好きってことなの。
だから、シンタロー、ひまわり、好きなの。
ひまわりの国は、とっても、きれいだったよ。
あおいそらのした。
どこまでもどこまでも。
きんいろで。
きれいだった。
「どうだい、シンちゃん。綺麗だろう! シンちゃんのために、パパはこの風景を作ったのさ!」
パパは、とくいなかお、してるの。
シンちゃん、ほめて、ほめて! って。
そういうかお、してるの。
「パパ、この国、シンちゃんにあげるよ! 私のものは、みんなお前にあげるよ! ぜんぶぜんぶ、あげちゃうよ!」
そんなパパのかみも、きんいろだった。
そらとおなじいろの、あおいめだった。
きんいろと、あおは、パパのいろ。
パパが、いっしょうけんめいなのが、わかったから。
シンタローは。
ちいさく、うんって、ゆったの。
でもね。
その国には。
にんげんが、ひとりも、いなかったよ。
いちめんに。
きんいろの花だけが、かぜに、ゆらゆら、ゆれてた。
だから。
シンタローは。
かなしく、なった。
★★★
パパが、お仕事からかえってきたの。
やくそくから、みっかも、おくれたの。
シンタローは、おこってるから、口きいてあげなかったけど。
でも、お仕事がわるいんだから、ちゃんとさいごに、パパをゆるしてあげたよ。
あのね。
パパは、ながいお仕事から、かえってきたときはね。
いつもの、ばいくらいに、シンタローにやさしいんだよ。
それはもう、すごいことなの。
だからシンタローも、ばいくらい、パパにやさしくしてあげるんだよ。
それにね。
こんどは、おみやげに、ワンコのぬいぐるみ、かってきてくれたの!
ほしかったやつなの!
だから、ゆるしてあげるの。
でも、パパが。
パパのいないときは、このワンコといっしょに、ねてねってゆうんだよ。
しつれいしちゃうの!
それはぎゃくなの。
パパこそ、シンタローのいないときは、ぬいぐるみ、ひつようなクセに、なの。
そうゆってやったら、じゃあシンちゃんがいないときは、じぶんでつくろうかなって。
シンちゃんにそっくりなの、つくっちゃうんだ。
びっくりするくらい、うんと、かわいいのをね!
たくさん、たくさん、つくっちゃう!
やけに、はりきってるの。
おさいほう、じょうずなパパなの。
それでね。
なかなおりだよ、って、パパがゆうから。
シンタローは、ひみつのばしょ、パパといっしょにいきたいって、おもったの。
パパがいないときにね。
グンマと高松がきて、おしえてくれたの。
グンマの好きな鳥が、たっくさんとんでくる、みずうみがあるんだって。
わたりどりのきせつ、だって。
その鳥、せかいじゅうを、たびしてるんだって。
すごいね!
パパといっしょだよ!
パパ、どうぶつ、大好きだから。
だから、シンタローは、その鳥、みせてあげたいって、おもったの。
パパは、ムリだよって、ゆったけど。
シンタローは、どうしてもいきたくて。
いかなきゃ、なかなおりしないって、ゆったの。
だから、いっしょに、パパと車で、みずうみにいったの。
とおくからみたら、すっごくいっぱいの、白い鳥が。
水あび、してたよ。
そうがんきょうでみて、わくわくしたよ。
シンタローは、うれしくなったよ。
ひとりではしって、ちかくまでいって、草のなかにガサって、かくれたよ。
鳥、すっごくかわいいの。
はねが、とってもきれいなの。
くちばしが、つるんって、してるの。
ばしゃばしゃ、あそんでるの。
こんなの、パパは、みないなんて、ダメなの。
だからシンタローは、車でまってるパパを、ひっぱってきたよ。
ムリだよって、またパパはゆったけど。
いいからって、シンタローは、ぎゅうって、パパの手をひっぱったの。
そしたら。
シンタローとパパが、ちょっとちかづいたら。
さっきのシンタローより、ずっととおくだったんだよ。
でもね。
ばさばさばさって。
はねのおとが。
ざあああああって。
水しぶきのおとが。
みずうみから。
鳥がいっせいに、とんでいっちゃった。
おそらに。
「……ごめんね、シンちゃん。パパ、動物には……特に野生の動物には、あんまり好かれてなくって」
とんでいった、いっぱいの鳥を見ながら。
パパが、そう、ちいさくゆったの。
……。
パパは、どうぶつ好きだけど、どうぶつにはきらわれてるの。
シンタロー、そのこと、しってたよ。
パパに、なでられると。
おうちでかわれてるワンコは、しっぽがおしりのあいだにはいって、おそとのどうぶつは、にげちゃうの。
でもね。
シンタロー、今日はだいじょうぶかなって、おもったの。
パパが、とってもやさしかったから、今日はだいじょうぶかなって、おもったの。
シンタローは、パパのこと、好きだから。
だから、どうぶつも、今日はパパのこと、きっと好きになってくれるって、おもったの。
「今度、サービスと一緒に来るといいよ。頼んでおくから」
そうゆった、パパのかお。
それをみたら、シンタローは。
ひまわりの国をパパがシンタローにくれたときみたいに。
かなしく、なった。
ごめんね、パパ。
そんな、わらいかたさせて、ごめんね、パパ。
そのかわりにね。
シンタローだけは、パパから、にげないでいてあげるの。
シンタローのかわりの、ぬいぐるみなんて、ずっとつくらなくってもいいよ。
パパがこわいとき、いつも、いっしょにいてあげるの。
シンタローだけは、ねないで、パパをまっててあげるよ。
ずっと、好きでいてあげる。
ごめんね。
でもシンタロー、ずっとどうゆえばいいのか、わからなかったから。
だから、だまってたら。
パパは、鳥がにげたから、シンタローがおこってるんだとおもって。
また。
「ごめんね、シンちゃん」
って、ゆったの。
だから、シンタローも。
「ごめんね、パパ」
って、ゆったよ。
その日、パパ、カレーつくってくれたの。
すごくおいしかったよ。
★★★
つぎの日おきたら、すっごく、いいおてんきだったの。
わーいって、ベッドから、とびだしたら。
シンちゃん、おはようって。
パパが、おにわの、キラキラおひさまのしたで、わらったよ。
そして、ゆったの。
シンちゃん、パパ、おせんたくしてるから。
パジャマぬいでね。
まるまる、あらっちゃうよ!
ぜんぶ、きれいにしちゃうよ!
はやく! はやく! それでさいごだよ! って。
わらって、せんたくもの、パンパンって、たたいたよ。
しわしわ、のばしてるの。
おにわでね。
シンタローのおようふくとか、パンツとか、シーツとかが。
ひらひら、パタパタ。
おどってたよ。
とっても、うれしそうだったよ!
だから、シンタローも、おどったよ!
おにわが、おまつりみたいだったよ!
わあ、シンちゃん!
んもう、あらうから、パジャマ、ぬいでってば!
はやくってば!
そうやって、パパはこまってるけど。
でも、パパも、すっごく、うれしそうだったよ。
キラキラのあさって、すてきなの。
みんながみんな、うれしくなるの。
シンタロー、おせんたくしてるパパ、好き。
エプロンしてるパパ、とっても好き。
せっけんのにおいのするパパ、大好き。
でもね。
これからパパ、またお仕事なんだって。
むっとしたシンタローのかおを、みて。
パパが、また、こまって、ゆったよ。
「シンちゃん! ほら、今度シンちゃんの誕生日だろう? 遊園地行こう! 遊園地!」
遊園地はにげたりしないから、パパはいきたがるの。
ほんとうはシンタローも、いきたいの。
いこうよ!
やくそくするから!
ゆびきりげんまん、って。
パパが、しゃがんで。
こゆびをだしたよ。
でもシンタローは、むっとしたままだったの。
パパは、お仕事、大好きなの。
パパは、はおう、なの。
せかいいちに、なるんだって。
でもね。
パパは、わかってないの。
お仕事いくから、パパは、シンタローのせかいいちに、なれないんだよ。
パパは、シンタローより、せかいのほうが、大好きなの。
お仕事で、いっぱい……
シンタローの、しらないことを、してるの。
だから、シンタローは。
そんなパパは、シンタローのいちばんにはしてあげません。
いつか、きづいて。
それでね。
シンタローは。
ゆび、のばしてる、パパをおいて。
ぱあって、かけだしたよ。
ほらね。
かってにパパが、やくそく、しようとするからこうなるの。
「シンちゃん! 待ってよ! ゆびきりげんまん、しようよ!」
「やだよー!」
「じゃあ一緒に仲良く、おせんたくしようよ! あらうから! さっきからパジャマぬいでって、言ってるでしょ!」
だってパジャマぬいだら。
パパ、さっさーって、おせんたくしちゃって。
お仕事、いっちゃうじゃない。
「パパー! ここまでおいでー」
「ああもう、シンちゃんてば、かけっこ早いんだからっ!」
キラキラのひかりのなかで、おせんたくものが、ひらひらするなかで。
せっけんの、においのなかで。
シンタローとパパは、また、おいかけっこ、したんだよ。
「パパー! こっちだヨ、こっち!」
「シンちゃん、待ってよ!」
ずっと、追いかけてきてね。
そういう、ゆびきりげんまんだったら、してもいいよ!
だって、そうでしょ。
パパは、シンタローがいないと、ダメなんだから。
シンタローがいないと、さみしくて、泣いちゃうんだから。
そうやって、みんな、ほっぽりだしちゃって。
バタバタってシンタローを、がんばって追いかけてくる。
こんなシンタローのパパは。
……。
シンタローの、たったひとりだけの、パパだよ!
HOME
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「父さん……!」
その声が、自分の闇を切り裂く。
意識が時間を越えて、過去と現在を越えて、その場所に辿り付く。
淡い覚醒。意識が戻る。世界が揺れていた。
身体が揺す振られているのだと気付くのに、時間が必要だった。
窓から漏れる薄明かり。
しんとした寝室で、懸命に自分を呼ぶ声。
幻から醒めた後の、戸惑い。
再び、冷たいシーツの感覚。
「……」
自分は、ベッドに倒れ込むように、仰向きになっていて、そのまま横から抱き起こされて、揺さ振られている。
傍らに自分のものではない赤い軍服の裾が目に入って、その腕の背後に見える、脇のサイドボードに、マジックは視線を遣る。
置時計、小さなクリスマスリース。
午前三時を過ぎた頃だ。最初に眠りについた時刻と同じ。
時刻は同じ。おそらく、日付も同じ。
『未来に連れてってやるから……』
先程のシンタローの声が、意識の奥で木霊している。
未来……。
そうか……。
ここは……。
マジックは、未来の世界で、軽く目を擦った。
そっと瞬きをする。静かな同じ夜。
そして、自分が、黒い瞳に凝視されていることを意識する。
赤い服を着た人に。
軽く息をついて、その相手に顔を向けると、彼は、とんでもなく引き攣った、今にも卒倒しそうな顔をしていたので。
どうしたのかと。マジックは、その人に向かって、口を開こうとした。
その瞬間。
「……ッ……父さ……」
凄い勢いで、抱き付かれた。
シンタロー。
半ば身体を起こしていたマジックは、また、そのままベッドに倒れこんだ。
背中のマットの感触が、柔らかい。
飛び込んできた身体が、暖かい。
マジックは、微かに笑う。
何だかこの雰囲気は、あの時に似ていると思いながら。
あの、コタローの攻撃から、シンタローが自分を庇ってくれた時に。
「アンタ、大丈夫なのかよっ!! ぜ、ぜ、全然、動かねーし! 息もしてないみたいだし! お、俺、帰ってきたら、びっくりして! びっくりして……」
「……」
「死んでるみたいで! 手も冷たいし! 目ぇ、開けないし! 何なんだよっ! クッソ、何なんだよ……生きてんの? 心臓動いてんの? なぁ!」
「……」
「な、何、笑ってやがんだ! いい加減にしろ!」
息つく間もない程に、堰を切ったように喋り出すシンタローの、身体の重みを感じる。
必死な顔が、上から自分を覗きこんでくる。
本当に生きているのか、確かめるように、指で触れてくる。
目を開けたはいいが、自分が黙っているから、彼は不安なのだろうか。
不安……。
私がいないと、お前は、不安?
南の島での一件の後に、マジックは、総帥職をシンタローに譲った。
青の未来を託したのだ。
それ以来、この子は東奔西走、休む間もなく世界中を駆けずり回っている。
青の未来を変えるためと……自分のやったことの後始末を、するために。
今日のクリスマスだって、本部に戻れるかどうか、わからないと言っていたね。
でも、コタローの誕生日のイヴに、どうしても間に合いたいんだと。
だから今晩。
……帰ってきてくれたんだ。
きっと、コタローの寝顔を見た後に、私の所にも来てくれたんだね。
そして、意識のない私を見て、驚いたんだろう。
でも私は、幻の中で、いくつものお前に会ってきていたというのに。
たくさんのお前に会ったよ。
私、頑張ったなあ。
最後に、こうして、未来のお前と会えた。
長かったよ。
だから、マジックはその黒い瞳に呟いた。
「シンちゃん。パパのこと、好き……?」
覗き込んで来るシンタローの眉が、吊り上った。
「あああ? 何でこんな時に、そんなこと聞くんだよっ! 俺は真面目に……」
マジックは腕を伸ばすと、自分に覆い被さる形になっているシンタローを抱き寄せた。
顔を近くに寄せて、視線を合わせる。至近距離。
長い黒髪に、マジックは手を差し入れた。
相手は動揺したままなのか、大人しい。
優しくその髪と背中を撫でながら、自分は問いかける。
「シンちゃん、今、パパが死んだかもって思った時、どう感じた?」
「知るかよ! 茶化すな! くっ……アンタ、本当に大丈夫なのか……よ……」
「……何故、泣いてるの……?」
「知るかよ……」
彼の目の端に溜まる透明な涙に、自分はそっと、唇を寄せる。
舌で舐め取る。甘い味がした。
目元から睫毛へ、睫毛から眉へ、眉から頬へ。
シンタローの顔の造作は、全てを知り過ぎる程に知っていた。
例え、どんな闇の中でだって、自分は舌先の感触だけで、何処を舐めているのかがわかるのだと思う。
「……っ……」
彼は、微かに身を捩ったが、涙で濡れた頬から、僅かに吐息の漏れる唇へと、構わず、自分は迫る。
そして聞く。
「シンちゃん、私のこと……好き……?」
カーテンの隙間から漏れる、月と雪の微かな灯りに、先程まで、どうしようもないぐらいに青ざめていたのに、シンタローの頬は、薄く上気している。
「……」
それでも答えず、閉じられたままの唇。
かわりに、ぽろりと、大粒の涙が零れ落ちてきたので、マジックは、その言葉を紡がない唇に、口付けた。
そして強く抱き締める。
いつも、言ってはくれないけれど。
言葉じゃないんだよね、お前は。
言葉で聞いても、決して口を開いてはくれないのに。
こうやってキスしたら、素直に口を開いてくれるのは、どうして?
言葉は冷たいのに。
口の中は、唇は、舌は、唾液は、すごく、熱くて甘いんだよ。
マジックは、上唇を軽く何度も吸い、下唇を同じように優しく弄る。
お互いの熱い息が漏れて、角度を変えると、今度は相手が激しく吸いついて来た。
「んぅ……っ……」
まるでマジックが本当に生きているのかを確かめるように、シンタローの濡れた舌は、必死に口内に滑り込んで来ようとしているのだ。
自分が回した右手で、その背中の稜線を擦ってやると、簡単に相手の腰が震えた。
「……あ」
同じく、しがみついてくるシンタローの腕。
蠢く柔らかい舌が、絡み合わされる度に、けだるい痺れが身体を襲う。
深くなっていく口付け。酩酊に似た眩暈。指先まで溶けそうになる恍惚。
でも、戻れなくなる前に。
「……」
マジックは、その限界地点で止める。暖かい身体を、離す。
繋がっていた唇が、薄い残滓の糸を引いた。
熱を含んで潤んだ、お前の瞳が、驚いたような色をしている。ここでやめるなんて確かに私らしくない。
私だって、続けたいけれど。でもね。だって、私は、これを言わなければ。
マジックは身を起こすと、なだめた相手をベッドの端に座らせる。
そして、言う。
「良かった、シンちゃん」
お前が一番、頑張ってくれたよね。長い夜だった。
「また、会えたよ」
「……?」
未だ口付けの余韻を残した、不思議そうな顔が愛しい。
「シンちゃん、私のこと、好きになって。そうしたら、私は自分のこと、少しは好きになってもいい」
そう、自分に言われた相手は、黙っていた。
黒い睫毛を伏せて、無言の後。
「……アンタが……信じなかっただけで……俺は……俺は、最初から……」
そんな言葉が、愛しい唇から零れ落ちた。
「シンちゃん、あのね」
また、抱き寄せる。
「ありがとう……」
お前は。好きという言葉よりも、かたちをくれる。
だから私は、信じたっていい。
今夜は、お前の私への心が、過去、現在、未来の私を助けてくれたんだろう?
だからお前に、私は信仰を捧げる。
その祝福を、感謝したい。
祈るよ。
愛していると、お前に祈るよ。
この長い夜の最初に聞こえた、あの嘆きの歌は、もう聞こえなかった。
聞こえるのは喜びの歌。
人は、クリスマスに、自らの罪の贖いを誓い、救われた喜びを歌う。
その歌、賛美歌、クリスマス・キャロル。
自分にも、初めてこの歌が本当に聞こえたと、マジックは、思った。
部屋のデスクの上には、クリスマスリースがある。
変わらず仕えてくれる部下の顔を思い出して、朝になったら、『ありがとう』と言ってやろうと、マジックは考える。
誰かに、大切に想われているという感覚は、私の全てを、変えるだろう。
それだけで。もう、世界なんていらないのだと感じる。
他の何も、いらない。
マジックは。
しゅんとして、やけに大人しく自分の腕の中に収まっている、その子に、心の中で語りかける。
あのね、シンちゃん。
ずっとね。早く朝が来ないだろうかと、昔、私は思っていたよ。
クリスマスの夜にね。
いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。
でも今は。この夜は、終わって欲しくはない。
でも、そう言ったら、お前は怒るだろうね。
私だって……朝が来るのには賛成するよ。
一日遅れだけれど。お前と一緒に祝うことのできる、特別な日だからね。
「シンタロー。朝になったら……一緒に、コタローの寝顔、見に行こうね」
そう言うとマジックは、子供にするように、シンタローの頭を撫でた。
朝が来たって。また、すぐに夜が来るのだと、今の私には、わかっているから。
「あ、あ、あったり前だろ! 絶対行くぞ! って、よーやくアンタも……俺は、もうさっき、行ったけどな! ギリギリで間に合わなくって……誕生日に……24日に……」
「シンちゃん」
やっと元気が出てきたらしい彼に、マジックは悪戯っぽく笑って言った。
「私より、コタローの所に先に行ったこと、さっき、実は後悔してたでしょ? 私が死んでるって思って。私の方に先に来ておけば、もっと早くにこうなってるのを見つけられたって、」
「あーもう! うっさいんだよ! あ! アンタ、もしかして死んだマネとかじゃないだろうな! 後でヒドいからな!」
「そんなマネする訳ないだろう……いいよ。私よりあの子を優先しても。その後で、必ずこうして私の所に来てくれるんだから」
「……」
シンタローは、再び黙り込んだ。
そして、少し経って、押し殺した声で呟いた。
「わかってんだろ……アンタは、コタローに、酷いことをした」
「うん……」
相槌の後、マジックは言う。
「私は、忘れてなんかいないよ」
また、間があって。
「つーかさ。明日、サービスおじさんと! ハーレムのおっさんが……金使い込みやがった癖にさー、どーいう神経してるんだか……明日来るって」
「ああ、知ってる」
そう、明るい声を出したシンタローだったが。
マジックの目の端に映った彼の手は、わずかに震えていた。
ただ思う。
ごめんね。私は、お前にも酷いことをしたよ。
シンタロー。
「ねえ、シンちゃん」
「あんだよ」
ぶっきら棒に答えたシンタローは、身体を離し、脇の方を向いてしまっている。
ベッド端に座ったままだ。窓はカーテンに締め切られていて、何も見えないというのに。
自分の前では不機嫌な振りをするのを、やっと思い出したらしいなと、マジックは思う。
いつものことだ。
「もっかい聞くよ。シンちゃんさぁ……パパのこと、好き?」
「だ、だから! んな質問するなって! うざいから!」
「さっき『俺は、最初から……』って言ったでしょ。その先を言ってよ、シンタロー」
「何が言ってよだ! その突然、自信満々になる所がムカつく! 根拠のない自信がムカつく!」
「根拠って。昔、お前はねえ、パパのこと『大好き!』ってねえ、」
「とんでもなく昔のコト持ち出すんじゃねえよ! ガキの言った言葉なんて覚えてんなよ!」
「それにねえ、パパが危ない時にねえ、パパの前に、さっとカッコ良く現れてねえ、パパのこと、ぎゅっとしてねえ、庇ってくれてねえ、」
「わーわーわーわー!!! アホだろバカだろアンポンタンだろアンタはぁぁ!!! もーさっさと寝てしまえ! 具合悪いんじゃねーのか……って、わっ!」
マジックは、ベッド端に腰掛けたまま、微妙に目を逸らしてばかりのシンタローの顎に、手で触れた。
自分の方を向かせてしまう。
焦っているシンタロー。さっきは、あんなに甘い雰囲気だったのに、とマジックは思う。
どうして今は、これくらいで恥ずかしがるんだろう。
切り替えのよくわからない子だな。
「な、なんだよっ!」
やれやれ、警戒心バリバリだ。
「お前は一途な子だから……一度好きになったら、ずっと好きでしょ。最初から最後まで好きでしょ。だから、過去だろうと今だろうと、好きなものはずっと好きでしょ。だから、一度『大好き』って言ったら、今だって同じ気持ちなんだよね」
「なっ……」
「一度拾ったら、絶対に捨てたりなんか、しないタイプだよね」
「……」
「だって、シンちゃん、ケチんぼだし」
「ああ? 節約の達人と言え。それか、やりくり上手と!」
何とか話を逸らそうとしているシンタローは。
「そ、そーいえば!」
ここぞとばかりに、あっと言う間に、どんどんと、聞いてもいないことを喋り出してしまう。照れ隠しなのだろうか。
料理の時に、アンタはあれを捨てるのは勿体無い、これを買うのは贅沢だ、とか。
こんなリサイクル術を編み出したから、アンタもやれだとか。
この間の休みに、本邸の倉庫を漁ってみた、地下室を探索してみた、使えそうなものがたくさんあったとか、何とかかんとか。
まったく、そういうの、大好きなんだから。
そんな話は続いて、最後に行き着くのは、やっぱり大好きなコタローのこと。
コタローが目覚めた時のために、色々用意しといてやんなきゃ!
普通に学校行かせてやりたいしさぁ、洋服だって、一杯いるだろうしさぁ。
コタロー用に、昔のイイモノを作り直したり、綺麗にしといてやるんだ! なんて。
マジックは、それを聞きながら、一人肩を竦めた。
こういう話を逸らされるのは、いつものことで、慣れていたけれど。
でも、今夜は、どうしても言って欲しかったのに。今じゃなくたっていいのに。
だから、そのお喋りに、割り込もうとしたのだが。
「……んでさ、ちょうどいい昔の鞄とかも見つけてさ、子供用の肩から掛けるヤツでさ……」
「鞄?」
聞き返すと、シンタローが嬉しそうに頷いた。
「それ、二つあった? 白くて……」
「うん。それそれ。二つとも持ってきた。モノがいいからよ、綺麗にすれば使えるよな。ちょっとしたアンティークっぽくって。逆にカッコいーよ! 最近あんなの、滅多に売ってないし、売ってても高いしさ……」
「……」
マジックは、コタローがどちらでもいいから、それを使ってくれたら嬉しいなあと、考えた。
それでね。
私も捨てないでね、シンちゃん。
シンタローの話は続いている。
コタローに関することだと、止まらなくなるのだ。その姿を見るのは、好きだったのだが。
……私に早く寝ろとか言った癖に。どうも釈然としない。
焦れたマジックは、『わかったよ、シンちゃん』と言った。
「は?」
黒い目が、丸くなっている。
「お前、大きくなってからは、言葉で言ってくれなくなったけれど」
余りにも無警戒な顔をしていたので。
そのよく動く唇に、マジックは今度は、触れるだけの口付けをした。
「態度で、私に『好き』って示してくれるよね。そういうお前が、私は好きさ」
「なっ……!」
さっと、またシンタローは、顔を赤くしている。条件反射だろうか。
そして、『アンタ、具合悪いんだろーが! 早く寝ろ!』等と言って、立ち上がろうとするから。
自分は、その赤い袖を引く。
「……もう!」
相手を再び、目の前に座らせる。
赤い軍服。受け継がれてきた総帥としての証。
それを、今は、この子が。
「昔、お前のサンタクロースは、赤い服を着た私だったよね」
怒っている振りをしているシンタローに、マジックは言う。
「……?」
「覚えてるでしょ……? お前は、ずっと私を待ってた」
「……」
シンタローは、一瞬、遠くを見るように瞬きをした。
マジックは、言葉を続ける。
「遠い昔、私には、偉大なサンタクロースが一人いて」
すると、シンタローは、探るような瞳を自分に向けてきた。
ああ、とマジックは思う。
いつも、お前、このことは。気を遣ってか、私に聞いてはこないね。
それだけ……私が、無意識の内に……死んだあの人のことを、タブーにしていたのかもしれない。
忘れようとして来たのを、お前は感じ取っていたのかもしれないね。
「そして今、私のサンタクロースは、赤い服を着たお前だよ」
あの人、私、お前と。
クリスマスのサンタクロースは、受け継がれていくのさ。
ずっと……。
想いも、受け継がれていくんだよ。過去、現在、未来へとね。
「ねえ、シンちゃん」
自分は、呼びかける。
「お願い。父さんって、私のこと、もう一回、呼んで」
「……やだよ。もう呼ばない」
「クリスマスでしょ……呼んで欲しいんだ。そして、また抱き締めて」
自分の雰囲気に、シンタローは戸惑っている。
これもそうだね。いつもそうだね。
私が、ふざける時は、お前は私に怒っていればいいのだけれど。
私が真面目になると、お前は、どうしたらいいのか、わからなくなるんだよね。
そういう所が、可愛いよ。
好きだよ。愛してる。
でも、真面目な私だって、本当の私なんだから。
それも含めて、受け止めて。
「サンタクロースからのプレゼント、それでいいから。私のこと、ぎゅっとして。抱き締めて」
「父さん……」
幾分の躊躇の後、そう呟いたシンタローは、すうっとマジックを抱き締めてくる。
その暖かい腕に、マジックは目を瞑る。
父さん……。
同じ言葉を、今度はお前が呟く。
懐かしかった。
繰り返しが。
懐かしかった。
こうしていると、全てが溶かされて、当り前の自分に戻っていくのだった。
全部が何でもないことに思えていくのだった。
自分の弱さを、弱さとして受け止めることができる。
そんな場所なんだよ。
お前の、優しい腕の中は……。
父さん……。
過去の私と同じ言葉を、現在のお前が呟く。
そして私は、同じく、目を瞑る。愛を感じながら。
失って、また手に入れる。
この言葉だって。
受け継がれてきたんだね。
長い道を歩いて来たよ。
暖かい腕の中で、こう、私が呟く。
「私の未来は、お前にあるんだ」
おかしいな。私は今、お前を手に入れているんだよね。
物事の価値そのものよりも、手に入れることだけに憑かれていた自分。
伸ばした指先が届かない所にしか、存在しなかったあの熱情。
ずっと自分は、手に入らないという喪失感こそを愛しているのだと、思っていた。
手に入れてしまえば、きっと自分の執着は消える。
興味がなくなり、また再び乾燥した色のない世界が始まる。
単調な私一人の世界。
それが、嫌だった。
自分が愛することをやめてしまうことだけが、怖かった。
ずっと、そう思い込んで来たんだよ。
でもお前だけは。
手に入れたって、私の心からは消えないね。
昔と同じように、いつだって、愛しているだけだよ。
支配、じゃないんだよね。支配じゃないんだよ。奪う、とかでもないんだよね。
もっと。
近くに。
ただ、側にいて。
「クリスマス、思い出した」
私は、過去、現在、未来に生きるだろう。
時間は、まだある。償いをする時間が、この子の側で。
窓の外では、雪が降っているのだろうか。
でも、この場所は暖かかった。
全てが晴れやかで。全てが静かで。
だが、耳をすませば、何処からか鐘の音が聞こえてくるような気がしていた。
そして、喜びの歌、神を称える賛歌。
その与えられる無償の愛を感謝する歌。
クリスマス・キャロルが。
「ずっとお前を愛している。私の、最後の人」
私を抱き締めたままのお前も、目を瞑っている。
どんなことがあっても。雪が降り、雨が降った後にも。
最後には、お前が残る。
愛していると、祈らせて。
信じさせて。
許して。
お前が、私の最後に残った全て。
私は。
誰かを愛したい。
ずっと。
ずっと、誰かを愛することに、憧れていた。
「……父さん……」
そして、途方もなく長い間。
誰かに愛されたい。
ずっと。
ずっと、誰かに愛されることに、憧れていたよ。
--------------------------------------------------------------------------------
終
BACK:3:現在の亡霊 | HOME
「クリスマス・キャロル」(C・ディケンズ)[HTML版/PDF版]
「父さん……!」
その声が、自分の闇を切り裂く。
意識が時間を越えて、過去と現在を越えて、その場所に辿り付く。
淡い覚醒。意識が戻る。世界が揺れていた。
身体が揺す振られているのだと気付くのに、時間が必要だった。
窓から漏れる薄明かり。
しんとした寝室で、懸命に自分を呼ぶ声。
幻から醒めた後の、戸惑い。
再び、冷たいシーツの感覚。
「……」
自分は、ベッドに倒れ込むように、仰向きになっていて、そのまま横から抱き起こされて、揺さ振られている。
傍らに自分のものではない赤い軍服の裾が目に入って、その腕の背後に見える、脇のサイドボードに、マジックは視線を遣る。
置時計、小さなクリスマスリース。
午前三時を過ぎた頃だ。最初に眠りについた時刻と同じ。
時刻は同じ。おそらく、日付も同じ。
『未来に連れてってやるから……』
先程のシンタローの声が、意識の奥で木霊している。
未来……。
そうか……。
ここは……。
マジックは、未来の世界で、軽く目を擦った。
そっと瞬きをする。静かな同じ夜。
そして、自分が、黒い瞳に凝視されていることを意識する。
赤い服を着た人に。
軽く息をついて、その相手に顔を向けると、彼は、とんでもなく引き攣った、今にも卒倒しそうな顔をしていたので。
どうしたのかと。マジックは、その人に向かって、口を開こうとした。
その瞬間。
「……ッ……父さ……」
凄い勢いで、抱き付かれた。
シンタロー。
半ば身体を起こしていたマジックは、また、そのままベッドに倒れこんだ。
背中のマットの感触が、柔らかい。
飛び込んできた身体が、暖かい。
マジックは、微かに笑う。
何だかこの雰囲気は、あの時に似ていると思いながら。
あの、コタローの攻撃から、シンタローが自分を庇ってくれた時に。
「アンタ、大丈夫なのかよっ!! ぜ、ぜ、全然、動かねーし! 息もしてないみたいだし! お、俺、帰ってきたら、びっくりして! びっくりして……」
「……」
「死んでるみたいで! 手も冷たいし! 目ぇ、開けないし! 何なんだよっ! クッソ、何なんだよ……生きてんの? 心臓動いてんの? なぁ!」
「……」
「な、何、笑ってやがんだ! いい加減にしろ!」
息つく間もない程に、堰を切ったように喋り出すシンタローの、身体の重みを感じる。
必死な顔が、上から自分を覗きこんでくる。
本当に生きているのか、確かめるように、指で触れてくる。
目を開けたはいいが、自分が黙っているから、彼は不安なのだろうか。
不安……。
私がいないと、お前は、不安?
南の島での一件の後に、マジックは、総帥職をシンタローに譲った。
青の未来を託したのだ。
それ以来、この子は東奔西走、休む間もなく世界中を駆けずり回っている。
青の未来を変えるためと……自分のやったことの後始末を、するために。
今日のクリスマスだって、本部に戻れるかどうか、わからないと言っていたね。
でも、コタローの誕生日のイヴに、どうしても間に合いたいんだと。
だから今晩。
……帰ってきてくれたんだ。
きっと、コタローの寝顔を見た後に、私の所にも来てくれたんだね。
そして、意識のない私を見て、驚いたんだろう。
でも私は、幻の中で、いくつものお前に会ってきていたというのに。
たくさんのお前に会ったよ。
私、頑張ったなあ。
最後に、こうして、未来のお前と会えた。
長かったよ。
だから、マジックはその黒い瞳に呟いた。
「シンちゃん。パパのこと、好き……?」
覗き込んで来るシンタローの眉が、吊り上った。
「あああ? 何でこんな時に、そんなこと聞くんだよっ! 俺は真面目に……」
マジックは腕を伸ばすと、自分に覆い被さる形になっているシンタローを抱き寄せた。
顔を近くに寄せて、視線を合わせる。至近距離。
長い黒髪に、マジックは手を差し入れた。
相手は動揺したままなのか、大人しい。
優しくその髪と背中を撫でながら、自分は問いかける。
「シンちゃん、今、パパが死んだかもって思った時、どう感じた?」
「知るかよ! 茶化すな! くっ……アンタ、本当に大丈夫なのか……よ……」
「……何故、泣いてるの……?」
「知るかよ……」
彼の目の端に溜まる透明な涙に、自分はそっと、唇を寄せる。
舌で舐め取る。甘い味がした。
目元から睫毛へ、睫毛から眉へ、眉から頬へ。
シンタローの顔の造作は、全てを知り過ぎる程に知っていた。
例え、どんな闇の中でだって、自分は舌先の感触だけで、何処を舐めているのかがわかるのだと思う。
「……っ……」
彼は、微かに身を捩ったが、涙で濡れた頬から、僅かに吐息の漏れる唇へと、構わず、自分は迫る。
そして聞く。
「シンちゃん、私のこと……好き……?」
カーテンの隙間から漏れる、月と雪の微かな灯りに、先程まで、どうしようもないぐらいに青ざめていたのに、シンタローの頬は、薄く上気している。
「……」
それでも答えず、閉じられたままの唇。
かわりに、ぽろりと、大粒の涙が零れ落ちてきたので、マジックは、その言葉を紡がない唇に、口付けた。
そして強く抱き締める。
いつも、言ってはくれないけれど。
言葉じゃないんだよね、お前は。
言葉で聞いても、決して口を開いてはくれないのに。
こうやってキスしたら、素直に口を開いてくれるのは、どうして?
言葉は冷たいのに。
口の中は、唇は、舌は、唾液は、すごく、熱くて甘いんだよ。
マジックは、上唇を軽く何度も吸い、下唇を同じように優しく弄る。
お互いの熱い息が漏れて、角度を変えると、今度は相手が激しく吸いついて来た。
「んぅ……っ……」
まるでマジックが本当に生きているのかを確かめるように、シンタローの濡れた舌は、必死に口内に滑り込んで来ようとしているのだ。
自分が回した右手で、その背中の稜線を擦ってやると、簡単に相手の腰が震えた。
「……あ」
同じく、しがみついてくるシンタローの腕。
蠢く柔らかい舌が、絡み合わされる度に、けだるい痺れが身体を襲う。
深くなっていく口付け。酩酊に似た眩暈。指先まで溶けそうになる恍惚。
でも、戻れなくなる前に。
「……」
マジックは、その限界地点で止める。暖かい身体を、離す。
繋がっていた唇が、薄い残滓の糸を引いた。
熱を含んで潤んだ、お前の瞳が、驚いたような色をしている。ここでやめるなんて確かに私らしくない。
私だって、続けたいけれど。でもね。だって、私は、これを言わなければ。
マジックは身を起こすと、なだめた相手をベッドの端に座らせる。
そして、言う。
「良かった、シンちゃん」
お前が一番、頑張ってくれたよね。長い夜だった。
「また、会えたよ」
「……?」
未だ口付けの余韻を残した、不思議そうな顔が愛しい。
「シンちゃん、私のこと、好きになって。そうしたら、私は自分のこと、少しは好きになってもいい」
そう、自分に言われた相手は、黙っていた。
黒い睫毛を伏せて、無言の後。
「……アンタが……信じなかっただけで……俺は……俺は、最初から……」
そんな言葉が、愛しい唇から零れ落ちた。
「シンちゃん、あのね」
また、抱き寄せる。
「ありがとう……」
お前は。好きという言葉よりも、かたちをくれる。
だから私は、信じたっていい。
今夜は、お前の私への心が、過去、現在、未来の私を助けてくれたんだろう?
だからお前に、私は信仰を捧げる。
その祝福を、感謝したい。
祈るよ。
愛していると、お前に祈るよ。
この長い夜の最初に聞こえた、あの嘆きの歌は、もう聞こえなかった。
聞こえるのは喜びの歌。
人は、クリスマスに、自らの罪の贖いを誓い、救われた喜びを歌う。
その歌、賛美歌、クリスマス・キャロル。
自分にも、初めてこの歌が本当に聞こえたと、マジックは、思った。
部屋のデスクの上には、クリスマスリースがある。
変わらず仕えてくれる部下の顔を思い出して、朝になったら、『ありがとう』と言ってやろうと、マジックは考える。
誰かに、大切に想われているという感覚は、私の全てを、変えるだろう。
それだけで。もう、世界なんていらないのだと感じる。
他の何も、いらない。
マジックは。
しゅんとして、やけに大人しく自分の腕の中に収まっている、その子に、心の中で語りかける。
あのね、シンちゃん。
ずっとね。早く朝が来ないだろうかと、昔、私は思っていたよ。
クリスマスの夜にね。
いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。
でも今は。この夜は、終わって欲しくはない。
でも、そう言ったら、お前は怒るだろうね。
私だって……朝が来るのには賛成するよ。
一日遅れだけれど。お前と一緒に祝うことのできる、特別な日だからね。
「シンタロー。朝になったら……一緒に、コタローの寝顔、見に行こうね」
そう言うとマジックは、子供にするように、シンタローの頭を撫でた。
朝が来たって。また、すぐに夜が来るのだと、今の私には、わかっているから。
「あ、あ、あったり前だろ! 絶対行くぞ! って、よーやくアンタも……俺は、もうさっき、行ったけどな! ギリギリで間に合わなくって……誕生日に……24日に……」
「シンちゃん」
やっと元気が出てきたらしい彼に、マジックは悪戯っぽく笑って言った。
「私より、コタローの所に先に行ったこと、さっき、実は後悔してたでしょ? 私が死んでるって思って。私の方に先に来ておけば、もっと早くにこうなってるのを見つけられたって、」
「あーもう! うっさいんだよ! あ! アンタ、もしかして死んだマネとかじゃないだろうな! 後でヒドいからな!」
「そんなマネする訳ないだろう……いいよ。私よりあの子を優先しても。その後で、必ずこうして私の所に来てくれるんだから」
「……」
シンタローは、再び黙り込んだ。
そして、少し経って、押し殺した声で呟いた。
「わかってんだろ……アンタは、コタローに、酷いことをした」
「うん……」
相槌の後、マジックは言う。
「私は、忘れてなんかいないよ」
また、間があって。
「つーかさ。明日、サービスおじさんと! ハーレムのおっさんが……金使い込みやがった癖にさー、どーいう神経してるんだか……明日来るって」
「ああ、知ってる」
そう、明るい声を出したシンタローだったが。
マジックの目の端に映った彼の手は、わずかに震えていた。
ただ思う。
ごめんね。私は、お前にも酷いことをしたよ。
シンタロー。
「ねえ、シンちゃん」
「あんだよ」
ぶっきら棒に答えたシンタローは、身体を離し、脇の方を向いてしまっている。
ベッド端に座ったままだ。窓はカーテンに締め切られていて、何も見えないというのに。
自分の前では不機嫌な振りをするのを、やっと思い出したらしいなと、マジックは思う。
いつものことだ。
「もっかい聞くよ。シンちゃんさぁ……パパのこと、好き?」
「だ、だから! んな質問するなって! うざいから!」
「さっき『俺は、最初から……』って言ったでしょ。その先を言ってよ、シンタロー」
「何が言ってよだ! その突然、自信満々になる所がムカつく! 根拠のない自信がムカつく!」
「根拠って。昔、お前はねえ、パパのこと『大好き!』ってねえ、」
「とんでもなく昔のコト持ち出すんじゃねえよ! ガキの言った言葉なんて覚えてんなよ!」
「それにねえ、パパが危ない時にねえ、パパの前に、さっとカッコ良く現れてねえ、パパのこと、ぎゅっとしてねえ、庇ってくれてねえ、」
「わーわーわーわー!!! アホだろバカだろアンポンタンだろアンタはぁぁ!!! もーさっさと寝てしまえ! 具合悪いんじゃねーのか……って、わっ!」
マジックは、ベッド端に腰掛けたまま、微妙に目を逸らしてばかりのシンタローの顎に、手で触れた。
自分の方を向かせてしまう。
焦っているシンタロー。さっきは、あんなに甘い雰囲気だったのに、とマジックは思う。
どうして今は、これくらいで恥ずかしがるんだろう。
切り替えのよくわからない子だな。
「な、なんだよっ!」
やれやれ、警戒心バリバリだ。
「お前は一途な子だから……一度好きになったら、ずっと好きでしょ。最初から最後まで好きでしょ。だから、過去だろうと今だろうと、好きなものはずっと好きでしょ。だから、一度『大好き』って言ったら、今だって同じ気持ちなんだよね」
「なっ……」
「一度拾ったら、絶対に捨てたりなんか、しないタイプだよね」
「……」
「だって、シンちゃん、ケチんぼだし」
「ああ? 節約の達人と言え。それか、やりくり上手と!」
何とか話を逸らそうとしているシンタローは。
「そ、そーいえば!」
ここぞとばかりに、あっと言う間に、どんどんと、聞いてもいないことを喋り出してしまう。照れ隠しなのだろうか。
料理の時に、アンタはあれを捨てるのは勿体無い、これを買うのは贅沢だ、とか。
こんなリサイクル術を編み出したから、アンタもやれだとか。
この間の休みに、本邸の倉庫を漁ってみた、地下室を探索してみた、使えそうなものがたくさんあったとか、何とかかんとか。
まったく、そういうの、大好きなんだから。
そんな話は続いて、最後に行き着くのは、やっぱり大好きなコタローのこと。
コタローが目覚めた時のために、色々用意しといてやんなきゃ!
普通に学校行かせてやりたいしさぁ、洋服だって、一杯いるだろうしさぁ。
コタロー用に、昔のイイモノを作り直したり、綺麗にしといてやるんだ! なんて。
マジックは、それを聞きながら、一人肩を竦めた。
こういう話を逸らされるのは、いつものことで、慣れていたけれど。
でも、今夜は、どうしても言って欲しかったのに。今じゃなくたっていいのに。
だから、そのお喋りに、割り込もうとしたのだが。
「……んでさ、ちょうどいい昔の鞄とかも見つけてさ、子供用の肩から掛けるヤツでさ……」
「鞄?」
聞き返すと、シンタローが嬉しそうに頷いた。
「それ、二つあった? 白くて……」
「うん。それそれ。二つとも持ってきた。モノがいいからよ、綺麗にすれば使えるよな。ちょっとしたアンティークっぽくって。逆にカッコいーよ! 最近あんなの、滅多に売ってないし、売ってても高いしさ……」
「……」
マジックは、コタローがどちらでもいいから、それを使ってくれたら嬉しいなあと、考えた。
それでね。
私も捨てないでね、シンちゃん。
シンタローの話は続いている。
コタローに関することだと、止まらなくなるのだ。その姿を見るのは、好きだったのだが。
……私に早く寝ろとか言った癖に。どうも釈然としない。
焦れたマジックは、『わかったよ、シンちゃん』と言った。
「は?」
黒い目が、丸くなっている。
「お前、大きくなってからは、言葉で言ってくれなくなったけれど」
余りにも無警戒な顔をしていたので。
そのよく動く唇に、マジックは今度は、触れるだけの口付けをした。
「態度で、私に『好き』って示してくれるよね。そういうお前が、私は好きさ」
「なっ……!」
さっと、またシンタローは、顔を赤くしている。条件反射だろうか。
そして、『アンタ、具合悪いんだろーが! 早く寝ろ!』等と言って、立ち上がろうとするから。
自分は、その赤い袖を引く。
「……もう!」
相手を再び、目の前に座らせる。
赤い軍服。受け継がれてきた総帥としての証。
それを、今は、この子が。
「昔、お前のサンタクロースは、赤い服を着た私だったよね」
怒っている振りをしているシンタローに、マジックは言う。
「……?」
「覚えてるでしょ……? お前は、ずっと私を待ってた」
「……」
シンタローは、一瞬、遠くを見るように瞬きをした。
マジックは、言葉を続ける。
「遠い昔、私には、偉大なサンタクロースが一人いて」
すると、シンタローは、探るような瞳を自分に向けてきた。
ああ、とマジックは思う。
いつも、お前、このことは。気を遣ってか、私に聞いてはこないね。
それだけ……私が、無意識の内に……死んだあの人のことを、タブーにしていたのかもしれない。
忘れようとして来たのを、お前は感じ取っていたのかもしれないね。
「そして今、私のサンタクロースは、赤い服を着たお前だよ」
あの人、私、お前と。
クリスマスのサンタクロースは、受け継がれていくのさ。
ずっと……。
想いも、受け継がれていくんだよ。過去、現在、未来へとね。
「ねえ、シンちゃん」
自分は、呼びかける。
「お願い。父さんって、私のこと、もう一回、呼んで」
「……やだよ。もう呼ばない」
「クリスマスでしょ……呼んで欲しいんだ。そして、また抱き締めて」
自分の雰囲気に、シンタローは戸惑っている。
これもそうだね。いつもそうだね。
私が、ふざける時は、お前は私に怒っていればいいのだけれど。
私が真面目になると、お前は、どうしたらいいのか、わからなくなるんだよね。
そういう所が、可愛いよ。
好きだよ。愛してる。
でも、真面目な私だって、本当の私なんだから。
それも含めて、受け止めて。
「サンタクロースからのプレゼント、それでいいから。私のこと、ぎゅっとして。抱き締めて」
「父さん……」
幾分の躊躇の後、そう呟いたシンタローは、すうっとマジックを抱き締めてくる。
その暖かい腕に、マジックは目を瞑る。
父さん……。
同じ言葉を、今度はお前が呟く。
懐かしかった。
繰り返しが。
懐かしかった。
こうしていると、全てが溶かされて、当り前の自分に戻っていくのだった。
全部が何でもないことに思えていくのだった。
自分の弱さを、弱さとして受け止めることができる。
そんな場所なんだよ。
お前の、優しい腕の中は……。
父さん……。
過去の私と同じ言葉を、現在のお前が呟く。
そして私は、同じく、目を瞑る。愛を感じながら。
失って、また手に入れる。
この言葉だって。
受け継がれてきたんだね。
長い道を歩いて来たよ。
暖かい腕の中で、こう、私が呟く。
「私の未来は、お前にあるんだ」
おかしいな。私は今、お前を手に入れているんだよね。
物事の価値そのものよりも、手に入れることだけに憑かれていた自分。
伸ばした指先が届かない所にしか、存在しなかったあの熱情。
ずっと自分は、手に入らないという喪失感こそを愛しているのだと、思っていた。
手に入れてしまえば、きっと自分の執着は消える。
興味がなくなり、また再び乾燥した色のない世界が始まる。
単調な私一人の世界。
それが、嫌だった。
自分が愛することをやめてしまうことだけが、怖かった。
ずっと、そう思い込んで来たんだよ。
でもお前だけは。
手に入れたって、私の心からは消えないね。
昔と同じように、いつだって、愛しているだけだよ。
支配、じゃないんだよね。支配じゃないんだよ。奪う、とかでもないんだよね。
もっと。
近くに。
ただ、側にいて。
「クリスマス、思い出した」
私は、過去、現在、未来に生きるだろう。
時間は、まだある。償いをする時間が、この子の側で。
窓の外では、雪が降っているのだろうか。
でも、この場所は暖かかった。
全てが晴れやかで。全てが静かで。
だが、耳をすませば、何処からか鐘の音が聞こえてくるような気がしていた。
そして、喜びの歌、神を称える賛歌。
その与えられる無償の愛を感謝する歌。
クリスマス・キャロルが。
「ずっとお前を愛している。私の、最後の人」
私を抱き締めたままのお前も、目を瞑っている。
どんなことがあっても。雪が降り、雨が降った後にも。
最後には、お前が残る。
愛していると、祈らせて。
信じさせて。
許して。
お前が、私の最後に残った全て。
私は。
誰かを愛したい。
ずっと。
ずっと、誰かを愛することに、憧れていた。
「……父さん……」
そして、途方もなく長い間。
誰かに愛されたい。
ずっと。
ずっと、誰かに愛されることに、憧れていたよ。
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終
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「クリスマス・キャロル」(C・ディケンズ)[HTML版/PDF版]
クリスマス・キャロル
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4. 未来の亡霊
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また……鐘が……鳴っている……。
頭が、割れるように痛かった。意識が、黒い霧のかかったような酩酊から、抜け出すことができない。
指先と足先が、凍りついたように悴んでいた。
噎せ返るような血の臭いは、まだ鼻腔に残る。
喉の奥が、焼け付くようにひりついた。
まるで自分の舌が、紙切れにでもなってしまったように感じられた。
マジックは重い目蓋を上げ、置時計の針を見る。
午前三時だ。
それは、最初に自分が眠りについた時間と、酷似していた。
依然として、この空間には、静かな夜しかなかった。
彼は濁った意識の中で、再び小さな言葉を思い出す。
『三人の亡霊が、やってくるよ』
過去の亡霊、現在の亡霊。
最初に、幼いシンタローが言った通りに、二人は現れ、消えて去った。
こうなったからには、どんなに自分が嫌がろうとも、三番目の亡霊とやらも、やがてやって来るのだろう。
ただ……。
その正体は。次の死者とは、一体誰だろう?
マジックには、心当たりがなかった。
顔も記憶してはいないような死者など、彼の人生には無数に存在したが、父親、ルーザーに続くような、自分の人生に巨大な影響を与える死者など、いようはずもなかったのだ。
「……」
彼は、深く溜息をついた。
口元のシーツを噛む。唾液は出なかったので、布の柔らかい感触だけが舌に伝わってきた。
血の味は、消えなかった。
固く、目を瞑る。
頭の奥が、痺れるようだった。鈍い痛みと切り裂かれるような痛みが、交互に走る。
鐘の音が響き渡る。
厳かな鐘の音が、彼の意識を打ち震わせる。苛んでいく。
そして、三つ目の鐘の音。最後のそれが、響き止んだ時、それでも彼は、何か異変はないかと、微かに睫毛を上げた。
暗い部屋には、何もなかった。静けさ。
じんじんとするこめかみを押さえて、彼は気怠い身を起こす。
冷たいベッドが、ぎしりと揺れた。
微動だにしないカーテン。陰影を刻ませる調度品。
何の変化もない。
……誰も、来ない。
ただ薄闇の中、床に、淡く自分の影が落ちていた。
「……」
マジックはそれを見つめている。
見つめていると、次第に、その影の色が濃くなっていくのだった。
深く深く。黒は濃くなる。
マジックは、これは自分の意識にかかっていた、黒い霧ではないのかと思う。
意識と、眼前の光景が、混在していくのだ。
その境界が曖昧になり、朧となって、こうして自分は夢の中へと囚われていく……。
黒い影は、自分の影の中で蠢き、躍動し、やがて一つの形となって。
地を這うように。音もなく。
人の姿が――
彼の目の前に、黒い訪問者が姿を現した。
先の二人の亡霊のように、その存在は、光り輝いてはいなかった。
その幽玄のかたちは、黒い衣を纏っており、光の粉の代わりに、黒い陰鬱と神秘とを撒き散らしているようだった。
「過去……現在……そして、貴方は」
マジックは乾いた口を開く。もうどうにでもなれという心持だった。
この最後の訪問者は、まるで死神のような姿をしていた。
相変わらず、その輪郭は、おぼろげで捉えることは叶わないのであるが、その空気の陰影、雰囲気の襞が、ひどく悲しみに満ちているのだ。
零れる黒い燐粉が、ひどく切なさに震えているのだ。
亡霊は、自分の問いかけに、ただ一言、こう答えた。
「未来……」
心の奥底にまで、響き渡るような声だった。
未来。
未来の亡霊。マジックは、その言葉を口の中で反芻する。
一体、どういうことだろうか。
将来起きることの幻影でも、この訪問者は自分に見せようというのだろうか?
明日の方向に、時を越えて。
ただ無言で、亡霊は自分の手を取る。あまりに素早く自然な動作だったので、マジックはされるがままだった。
手を、強く握られた時。その瞬間から、黒い霧が噴出して、世界が、暗闇に包まれて。
再び、寝室から時間と空間が転移した。
----------
泣いている。
引き裂かれる兄弟は、そのことを悲しんでいる。
当然のことだ。彼らはお互いに、一番、愛し合っているのだから。
『お兄ちゃん!』
幼い声。助けを求める声。
『コタロー!』
あの子の声。必死に叫ぶ声。
『親父! コタローを何処に連れて行くんだよ! 親父ッ……!』
かつて見た光景。すぐ側にある過去。
この場所は軍本部。
私の、やったこと。
それが今、自分の目の前にある。
兵士に連れ去られる子供。追いすがるシンタロー。
それを容赦なく気絶させる私の姿。
『お兄ちゃん!』
崩れ落ちる兄を目にし、金髪の子供が悲鳴のような声をあげる。
手を伸ばしている。それを断ち切るように、その子に向かって言う私。
『コタロー、お前は危険だ……』
冷たい。
それが真実であるにしても、頑是無い、まだ小さな子供であるのに。
場面が移り変わる。
『秘石に興味があるのか? シンタロー』
総帥室だった。
椅子にかけ、青い石に触れている私。
その前に、暗い顔をした青年が力無く立っている。
もう笑ってはくれなくなった、あの子。
でも、この日は、久し振りに話しかけてきてくれたから。
彼が話しかけてきてくれたということだけで、私は嬉しかったのだ。
だから、石が欲しいのかと、私は言った。気分が良かった。
いいよ。欲しいのなら、お前になら何だってあげるよ。
だって、愛してるんだもの。
『私の物は全てシンタロー。お前にあげるよ』
『だからね。そんなことより、パパと遊ぼうよ、シンちゃん。最近、全然構ってくれないから』
『……ッ……アンタは! ちゃんと俺の話を聞いてくれよ! 取り合ってもくれないじゃないか! 全然わかってくれないだろ!』
『お前の話なんて、聞いたってしょうがない。私にわかるはずがないんだから』
『どうしてだよ! どうして最初からそんな全否定すんだよ! どうしてアンタは、いっつも、そんな……』
『お前が私のことをわからないのと同じだよ。お前と私とは違う。そもそも、言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
『そんなこと言うなよ! そんなこと言ったら、アンタの言葉だって! 嘘ばっかで……俺に、嘘ばっかりで、本当のこと、教えてくれなくて、』
『だから私は、お前に何だってあげるって、言ってるでしょ。愛を形にして示してるでしょ。それなのにお前は、つれないから。だからパパは、いっつもね……』
『あげるとかって。俺は、そんなの、欲しくないんだよ! モノなんて欲しくないの!』
『ねえ、シンちゃん。パパのこと、好き……? お前が私の物を貰ってくれないんだったら、私は好きってこと、どうやって伝えればいいの。どうやってお前に証明すればいいの? そしてお前は、私のことを、どうやったら好きになってくれるの……?』
そして切りかわった次の場面は、何もない部屋で、一人、取り残された私が佇んでいた。
愛するシンタローは南の島に去った。
自分から、青い石を奪って。
『シンタロー……コタローのことは忘れろ』
『私はお前さえいればいいんだ』
かつて囁いた言葉だけが、無機質な顔をした私の記憶に、響いている。
そうだ。こうして、今の自分は、取り残されたのだ。
シンタロー。
自分は、呼びかける。
ねえ、シンちゃん。
私が、こんなこと言ったから、お前は怒って逃げたんでしょ。
嫌だった? そうだよね、嫌だったんだよね。
私の存在は、お前にとって、悪いことしかもたらさなくて。
不快でさえあるのだろうと思う。
ごめんね。
私はいつも、その事実に気付く度に、何かが麻痺していくのを感じている。
雨に濡れるように温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
自分自身が、誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
また、繰り返しだ。
私は何時まで経っても進歩のない。
そして最後には、何も残らない。
シンちゃん。パパに、秘石、返してよ。
それがないと、私は、上手く人を殺せない。
私は、石で、力を手に入れた。
石と一緒に、覇王への道を歩んできたんだよ。家族を支えてきたんだよ。
それがないと、私は……。
私は、秘石とお前のためなら、何だってするんだ。
お前のために、世界だって、手に入れるんだ。
そのために、石を……。
いや……。
秘石……。
違うんだよ。また、これも違うんだ。
どうしてお前は、一人で逃げずに、石まで持って遠くに逃げたの。
そんなの、なくたって。私はお前を追いかけるんだよ。
いつだって、私は追いかける。
シンタロー。パパの所に、帰ってきてよ。お前がいないと、私は。
確かに、私にとって、石は大切だよ。
だからお前は、それを奪って、私から逃げた。
でもね。お前は考え違いをしている。
私はお前が一番大切なんだよ。
私は、お前がいたからこそ、自分を手に入れた。
一緒に24年の月日を、過ごしたんだよ。
お前を愛してるんだよ。
お前がいないと、私は……。
「……ッ……」
深く沈み込まされた海底から、急激に水面に引き上げられる感覚。
幻想の水圧からの解放。自分が自分であるという意識。
記憶の夢から醒めるように、過去と同一化した自分を再び取り戻したマジックは、いつしか、自分が一人きりで立ち尽くしていることに気付いた。
傍らで自分の手を握っていたはずの亡霊は、消えていた。
辺りは、黒い霧に包まれている。
マジックは、その霧を、ぼんやりと見つめていた。
霧は、まるで生物のように蠢いているのだ。
伸縮し、うねり、漂いながら、自分を何処かへと導こうとしているかのように見えた。
誘われるようにマジックは、霧と共に、歩き出した。
鈍い頭痛は続いていた。
突然、視界が開ける。黒い霧を抜けた先には、鉄の門があった。
淡い白さと人気のない空間。清涼な空気の元に、薄い雪。踏みしめる感触が柔らかい。
見上げれば、厚い雲の切れ間から、光が差し込んでいた。緩やかに風が吹き、木々が雪を落とす音がひそやかに鳴る。
何処からか鳥の声までして、嘘のような穏やかな光景が広がっていた。
それは、冬の晴れ間だった。
「……」
マジックは、そっと呼吸をする。
新鮮な空気が肺に流れ込み、血の汚れが洗い流されていくのを感じる。
少しだけ、頭の痛みが和らぐような気がしたが、それは一瞬のことなのだろうと思う。
彼は、周囲を見回して、考えた。ここは覚えのある場所であると。
その場所は、青の一族の墓地だった。
見渡せば、教会の塔の向こう、小高い丘の上に、あの黒い亡霊が、立っている。
黒い衣は、風が吹く度に、揺らめき、なびき、白い雪の上に、黒い霧を振り撒いていく。
この亡霊が、自分の頭痛の原因であるのだろうと、マジックは感じている。
自分の意識を覆う、黒い闇。自分を導く、幻の影。
今、それは一つの形を取って、丘の上に佇んでいる。
黒い姿の傍らには、亡き父の墓があるのだった。亡き弟の墓があるのだった。
そしてその隣に、自分がまだ見たこともない、真新しい墓石がある。
亡霊は、上衣から突き出した指で、それを指し示している。
マジックは、表情を変えなかった。
意図的にそうしたというより、本当にさして心が動かなかったのだ。
まるで他人事のようだった。ただ、こんな光景を見ている、自分は馬鹿なのだと思った。
どうして私は、こんな場所にいるんだろう。
どうして亡霊に導かれたのだろう。こうして大人しく従っているのだろう。
過去。現在の亡霊が眠る墓地。
そして、未来の亡霊。
その墓は誰の墓だ……?
墓地――マジックは過去、この場所に、死者を葬ってきた。
幾度も訪れた。そしてここから、生ある場所に、幾度も帰った。
ああ、自分は、死した彼らに依存する情けない男なのだと感じながら、日常において、自分が忘れようとしてきた者たちが眠る場を去り、現実へと帰っていった。
ここは死者だけが土の下に横たわっている場所だった。
死者が、冷たい土に、がんじがらめになる場所だった。
永遠に。
亡霊は、そこにいた。
父親と弟の墓石の間に立って、新しく土を盛った、見慣れない一つの墓を指差していた。
マジックは、その石に目を遣り、そして口を開いた。
「貴方が示す、その墓石に近付く前に」
自分の舌は、まるで道具のように動く、とマジックは思った。
いつも私はそうだ。自分を馬鹿だと感じる時、いつも私は、道具のように身体を動かす。それだけしかできない。
くだらない。
「教えて欲しい。貴方は自ら、未来の亡霊であると名乗った。これまで私が見せられて来た光景は、全て過去にあったことだった。しかし、この墓地の風景は違う。その墓石は違う。これから貴方が私に見せるものは……将来起こることの幻影ですか……?」
しかし、そう尋ねても、目の前の亡霊は、依然として一つの墓を指差している。
微動すらしない。
「しかも、すぐ先の未来という訳ですか」
今迄見た光景は、全て時間的に連続していたのだから、自分は今夜、このまま現実世界に戻ることができずに、死ぬということなのかもしれないな、と彼は考える。
様々な想いを駆け巡らせた後、微動だにしない相手をマジックはもう一度眺め、静かに丘に足を向ける。
歩み寄り、亡霊の示す、それを見下ろす。
外装だけは豪華で、しかし人を寄せ付けない冷たい石。
……何故か、小さなクリスマスリースだけが、隅に控えめに置かれていて、半分雪に埋もれながら、風にリボンをはためかせている。
この日も、クリスマスであるのだろうか。
その見捨てられた墓石の上に、自分の名が読み取れた。
「こういう、人生の終りも、いいさ」
マジックは呟く。
「最後には何も残らない……私の人生そのままだ……でも墓石は残ったから、よしとしようか。上出来だ」
そう言った自分の声も、風に消えていくのだった。
あまりにも多くの命を殺した人間が、あまりにも多くの心を傷付けた人間が、こうして、あっさり死んでしまうというのも、また一興だった。
運命とはそういうものなのだろう。
大して意味もなく、理由もなく、ただ巡り続ける。
何かの拍子に零れ落ちた歯車は、そのまま忘れ去られていく。
人一人消えたとて、何の変わりもない世界は、そのまま続いていく。
そういうものであるべきなのだ。
そう結論付ける自分に。
「……本当にそれでいいのか」
亡霊の声が聞こえた。
マジックは、どうしてか、自分はその声を、今この瞬間、初めて聞いたと思った。
それは幽玄の響きではなく、人間の肉声だった。
「いいよ。構わない」
自分は答える。
そして、マジックは正面から、黒い亡霊を見つめた。とても自分の近くに、亡霊はいた。
相手は更に問いを重ねてくる。
「過去……現在……そしてこれからの未来……その旅を続けて……」
マジックは声を聞いている。
「今ある感情は何だ。今、胸にある感情は何だ」
そんな自分に、指を突きつけてくる黒い亡霊。
「今ある感情……私の胸に……?」
突飛なことを聞かれたと思った。
「そんなことを言われても」
そう言いながらも、マジックは、考えようとしたのだ。
私はいつも。
感情?
……頭が痛い。
再び頭痛に襲われて、彼は目を瞑った。意識を取り巻く黒い霧は、彼が考えようとする度に、彼の心を締め付けていくのだった。
心の奥底に辿り着こうとする度に、マジックは、針が刺すような痛みに堪え、唇を噛み締める。
心の奥底に辿り着こうとする度に――
私はいつも、何かが麻痺していくのを感じている。
思考が妨害され、考えることを止め、ただ流されていく自分を感じている。
あえて言うなら、どうでも良かった。
自分自身を考えることから、逃げ出したかった。
墓地に、いつしか雨が降り注いでいる。
薄い雪は、透明になり、いつしか同じ液体へと変わっていくのだった。
マジックは雨に濡れながら、額を押さえている。目の前の亡霊は、微動だにせず佇んでいる。
まるで、逃げることを阻もうとでもいうのか。
雨。
雨に濡れるように。
マジックは、呟くと、止め処のない思考を続けようとする。
温度が奪われて、どんどんと私の手は冷たくなっていく。
最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
誰からも忘れ去られてしまう。存在したことさえ、消えてしまう。
最後には、何も残らない。
この感情とは。
この感情とは、何だ……?
無だと、私は思ってきた。
しかし、無ではないのか?
諦め?
違う?
他にまだ何かあるのか?
「憎しみだ」
研ぎ澄まされたような亡霊の声。
突如としてマジックは、この自分の心にある感情が、憎しみであることを理解する。
手の平で胸元を押さえる。爪を立てて、引き裂く形にする。
そうだ。マジックは、乾いた心に水が染みとおるように思った。
私は、憎いのだ。この感情は、憎しみだ。
最後に私に残るのは、憎しみだ。
だが彼は、自分が何を憎んでいるのかがわからなかった。
しかし、何かが憎いのだ。憎くて堪らないのだ。
私は一体、何が憎いのだ?
父さんを奪った誰かが憎い?
私に覆い被さる責任が憎い?
私に全てを押し付ける、周りの者全てが憎い?
自分が味わうことのできない幸せを持つ人間が憎い?
私を犠牲にして、何も知らず安穏と暮らす人間が憎い?
私に力を与えた、何かが憎い?
……私を愛してくれない、全ての人間が憎い……?
「言ってやろうか」
マジックは、痛みの中で黒い亡霊を見つめている。
鼓膜の奥で、鐘が鳴っているようで。痛覚の交錯と、混迷する思考と、戸惑いにぼやける視界。
しかし、自分は必死に目を凝らす。
亡霊の幽玄の姿を、捉えようとする。
「アンタが憎いのは、自分自身だ」
「アンタの人生にあったのは、自分への憎しみ、逃避。そして自分を忘れようとする気持ち。思い出せよ。全部、思い出せよ! 忘れようとすんな!」
亡霊は叫ぶ。青年の声で。
「自分を憎むのをやめろよ……アンタ自身を受け止めろよ……!」
そう、言ってくるから。
「こういう、人生の終りも、いいさ」
自分は、再びこう返した。
この痛みが、自分への思考を麻痺させてくれるのなら、それでいいと思った。
それなら、このまま、雨に打たれていたいと思った。
「あ、アンタはいいかもしれないけどな! 俺は……」
亡霊の黒い姿も、濡れている。黒い霧は雨を弾き、輝いていた。
それを見たマジックは、美しいと感じた。
何をやったって。
何を言ったって、この子は、いつもこうなんだ。
「俺は嫌なんだよ! こんなの……こんな墓石……アンタは間違ってるんだ……」
いつだって、人のことに、一生懸命なんだ。
「アンタ、間違ってるんだよ……!」
「だが……お前は死者ではないはずだ」
マジックは言った。
「どうして、私の前に、亡霊の姿をして現れる……?」
黒い影は、いまや、光を放ち始めているのだった。
白い雪の中、そぼ降る雨の中。黒は水分を含んだように艶を帯び、その幽玄の輪郭を、一層輝かせている。
「俺は、未来の亡霊」
雨が、自分の身体を滴っていくのを、マジックは感じている。
雨はいつも、自分を、こうして冷たく濡らしていくのだ。
この、雨を弾く目の前の亡霊と、自分との違いは、一体何なのだろう。
自分はいつも、こうして、身体が重くなっていくというのに。
湿った金髪が、肌に張り付いていく感触が、いとわしくて堪らないというのに。
醜くなっていくばかりだというのに。
目の前の子は、どんどん光り輝いて……。
そうか、憎しみ。
マジックは、またもう一つの事実に気付く。
私の、この子への感情。
そこに、憎しみはなかったが、嫉妬はあった。私は、この子に焦がれながらも、嫉妬している。
この子は、自分にないものばかりを持つ。
自分は、この子にないものばかりを持つ。
私は、余計なものばかり。人間として。
「……アンタの未来で」
そんなマジックの目の前で、亡霊は、自分の胸元を掴む。乱暴に、引きちぎる。
その瞬間、亡霊の纏う上衣が、舞い上がって閃く。
黒い光が四散した。黒い霧も四散した。
そこに現れた姿が、言った。
「俺は、二度死ぬ男」
----------
「お、俺は……アンタのために、死んで……それなのに、当のアンタがそんなんじゃ……俺は、何のために……」
世界が、暗転した。
墓地も教会も木々も消え失せ、マジックは、再び闇の中にいた。
黒い霧ばかりが視界を塞ぐ。自分一人を包む、黒い霧。
「……シンタロー……?」
彼は消えていた。
「シンタロー!」
マジックは見回す。何も視界に映らない。
だから、名前を呼ぶ。返答はない。ただ黒い霧が行く手を遮るばかりだ。
仕方がないので、手探りで、マジックは歩き出す。
おかしなことを言うね、と呟きながら。
シンタロー。
お前が死ぬって。
私のために死ぬって、どういうこと……?
だんだんと。
だんだんと。
闇に。マジックの目の前に、ぼんやりとした光が滲み出す。揺らめき出す。
その中に、最初に現れた、幼いシンタローの姿が浮かび上がる。
また、幻だ。遠くへと駆けて行く。
『パパー!』
黒髪が、可愛らしくこちらを振り返る。
手探りでしか歩くことのできない自分に、無邪気に笑いかけてくる。
呼びかけてくる。
『シンタローねぇ、パパ、大好きだよ!』
また、そんなことを。マジックは、溜息をつくしかない。
好きなんて。私は、言葉で言われたって、わからない。
『パパー! こっちにおいで!』
ああ、どうしてだろう。
この子は、自分を呼ぶのに。自分は、追いつくことができない。
私の足は、鉛のように重くなってしまった。
『シンちゃん……どこに行くの』
追いかけても、届かない。
小さな足音ばかりが響いて、私から、去って行く。
それでも追いかける……自分は。
――惨めだ。
『シンちゃん……パパを置いて行かないで』
『パパー! こっちだよー!』
『シンちゃん、待って』
『こっちだよ、こっち!』
『シンちゃん、パパから』
遠ざかっていく。
『パパから、逃げないで……』
その後姿は、より大きな光の方へと走っていく。
『私から逃げないで……シンタロー……』
私は、惨めだ。
不意に、その大きな光が近付いてくる。
シンタローと、自分を、包んで行く。
飲み込まれて、視界が開けた。
無機質なフロアが広がっている。灰色のダクトが這う壁、衝撃で砕け散ったパネル群。
ここは日本支部だった。
目の前に、青年へと成長したシンタローがいる。サービスがいる。
自分がいる。
『シンタロー……危険だからどいていなさい!』
『コタロー!』
『よせ、シンタロー! かなう相手じゃない!』
緊迫した空気。
そして三人の視線の先、瓦礫の中に――監禁したはずの子供、コタローがぬいぐるみを抱えて立っている。
サービスに連れ戻されたシンタローが、扉を壊して開けたのだ。
マジックの意識は、すでにこの風景に溶け込んでいる。
未来の自分と一体化している。だから、この状況の全てを把握している。
彼はコタローとシンタローの間に、立ちはだかりながら、険しい顔をして、こう考えている。
シンタロー。
そうだよね。
サービスの言うことだったら、お前は聞くんだよね。
そしてコタローのためだったら。お前は。
コタロー……。
『パパなんか大嫌いさ!』
言い放つ幼い声が、マジックの鼓膜に響く。その言葉の意味が、心の芯に強く響いた。
そうだ。私が、一番嫌いなのは、自分自身。
『嫌いで構わん、部屋に戻れ』
そうだ。私はいつか、この子に殺される。
この子は確かに自分の子。紛れもなく自分の子。
私を睨みつけてくる幼い両の瞳は、秘石眼。私と同じ身体を持ち、ルーザーと同じ精神を持つ子。
コタロー。
私はいつか、自分自身に、嫌われて、殺される。
私は、この子を、どう扱えば良いのか、わからない。どんな気持ちを持てばいいのかさえ、わからない。
ただ、見ていたくはないのだ。
いつも、この子を見つめる度に、自分の心の奥底が凍りついていくような気持ちに囚われる。
それは生まれて初めて、具体的な形となって、私に浮かび上がる感情。
私は――この子が、怖い。
『パパなんか、死んじゃえー』
強大な潜在能力を感じさせる青色が弾けて、世界が揺れる。
吹きすさぶ爆風、振動、粉塵。物理攻撃、それを凌ぐ脅威、精神の耐圧。
冷たい雨が私を通り過ぎていく時間。
針を刺すような痛み、薄れ硬くなる感覚、そして麻痺。
私は、この子に関わろうとする度に、まるで自分自身であることが、道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
今も、そうだ。
冷たい言葉を投げかけながら、私は、ぼんやりと、この子コタローを、眺めている。
早く元通りに閉じ込めなければとばかり、考えている。飛び散る金属片が、私の顔を掠めた。
……まだ、未熟な攻撃でしかないが。
これを繰り返していけば、私は、いつか、この子に殺される。
嫌われたままで、殺される。
でもそれが、運命だというのなら、仕方のないことだ。
こういう、人生の終りも、いいさ。
『今度は、はずさないよー!』
ただ、今は止めなければ。今は止めて、この子をまた閉じ込めなければ。
いつかは、崩れるのだとしても、この場は閉じ込めて、その部屋の壁を塗り固めるべきなのだ。
私はいつもそうさ。
いつか終わるという予感。そればかりを積み上げていく。
幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとする。
空中楼閣に住みたがる。
シンタローが、いつもその扉を開けて壊そうとするから。
私は、また、繰り返す。
『ばいばーい、パパ!』
コタローの手に、自分を狙う青い炎。
マジックは、それを防ごうと身構える。
監禁した部屋の中で、密かに繰り広げられてきた、二人のいがみ合い。
いつも最後は、自分はこの子を力で抑え付けて、終わらせる。
その儀式が、室外で行われただけのことだった。
……雪と雨とを繰り返す、冷たい水のように。嘘は降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
無益な繰り返し。
最後には、何も残らない……。
瞬間。目の前に、黒い影が閃いた。
マジックは、自分に起こった出来事に、呆然とした。
本当に、身動き一つできなかった。
……シンタロー。
大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったのだと思っていたよ。
諦めて……去ってしまったのだと。
遠い南の島へと、私を捨てて。
『言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
確かに、私に言ったって、しょうがないものね。
だって私が、言葉なんて、信じる訳がない。
信じられないよ。
好きなんて。
愛なんて。
いつか消えるという予感しかもたらさない。
シンタロー。形にしてよ。
形にしてくれないと、私は信じることができない。
でも、嘘だろう?
私は嘘ばかりついてきたけど、今度はお前が最大の嘘をつく。
嘘なんだろう。
こんなこと。こんな形にしろだなんて。
私は、頼んでないよ……!
『父さん!』
私は、シンタローが、私を庇って、命を失うのを、見た。
世界が、また暗くなる。
全ての光景が消え、深かった。
ただ、深かった。今までで一番、深かった。
日の差さない、地の真底。まるで出口のない回廊。果てのない道。
闇ばかりが続いている。
自分はまた、どうしてこんな場所に嵌り込んでしまったのだろう。
迷うばかりだ。
しかしマジックは、自分の足が動いていることに気付く。当て所もなく自分が歩いていることに気付く。
ここは、暗くて、寒いのだ。
何処かへと進まないと、自分は凍えてしまう。
だが、何処へ? 何処へ行けばいいのだ……?
『パパは、コタローに、ひどいことをしたの』
『パパ、さいてぇ』
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
いつしかシンタローの声が、幼い声と青年の声が、どれも同じ人の声が、闇の中を交差する。響き合う。
『パパ、クリスマスを思い出して』
マジックはそっと答える。答えながら、歩く。
思い出してって、お前は言うけれど。
でもクリスマスって。クリスマスって、何だい、シンタロー?
そう問いかけた瞬間、足元が崩れる。
マジックは、更なる回廊の底へと、堕ちて行った。
堕ちた先でも、彼は、また歩いていた。そうせざるを得なかった。
ふと、回廊の全方位に、また映像が映し出されていることに気付く。
未来の光景だった。
自分とサービスがいる。青の中でも、憎しみを糧にする二人が、崖の上に佇んでいた。
『シンタローが戻ってきたら……どうしますか、兄さん……』
『殺すよ』
シンタロー。
マジックは、その未来を眺めながら、問いかける。
未来のことは、もう、手に取るようにわかっていた。
この地の底にありながらも、自分には、全てがわかる。
時間の一場面中にいる時はわからないことが、まるで一本の映画を見ている観客のように、客観的に、今のマジックには理解できるのだ。
シンタロー。
そう問いかけながら、マジックは歩き続けている。
シンタロー。
聞いてくれる……?
私はね、かつて、お前と同じ顔の男を、殺そうとした。
そうだよ。お前の、その身体。その同じ身体に、違う魂を持っていた男のことだよ。
私はその顔が、憎かった。
他に心を向けながら、簡単に私に抱かれる、その身体が憎かった。
もうその身体は、粉々にされたのだと思っていたのに。
今度は……。
いや、再び。私が愛する人の身体として、現れた。
酷いよね。酷いよ。
お前がお前であることを、一番必要とする瞬間に、そうなってしまったんだ。
酷いよ。
私が一番嫌いな身体に、どうして一番好きな人の心が入ってしまったの。
それに折角……。
お前が……。
そうだ、シンちゃん。さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって、どういうこと……?
流れる映像は、移り変わる。矢のように映っては飛び去った。
『ねえ……シンタローさん、起きてよ……』
『シンタローさん!』
ジャンがお前を殺して、お前はまた死んだ。
でも起き上がるんだよね。最後はお前は、起き上がるんだ。
そういう運命の子なんだよ。そういう力を持った子なんだ。
『影――……あの子は影だったのか……』
お前の正体を。
『シンタロー……』
私は知った時、ただお前を可哀想だと感じた。
あんなにお前は一生懸命に生きてきたのに。
影だなんて。影ってのはね、いつか消えるものなんだよ。実体のない映し絵にすぎないのだから、消えるものなのだよ。
『行かれるおつもりですか、マジック総帥』
でもお前は消えなかった。
そういう力を持った子なんだよね。
『ティラミス……私は』
お前の24年間は、消えなかったよ。私がお前と過ごした24年間も、消えなかった。
私は、もう、どうだっていいんだよ。
お前の正体が、身体が、何だっていいんだよ。
お前の心が。お前でさえあるならば……。
『総帥であり父であり兄であり――青い一族の男だ!』
でもね。そのままのお前が、私の前に立ち塞がるのなら。
私は、やっぱり、お前を殺さなければならないんだよ。
それが私の運命だから。そういう、ものなんだよ。
マジックが呟いた刹那、また、足元が崩れ、彼は更なる地底へと堕ちて行く。
堕ちた先で、また歩いている。歩き続けている。
その内に再び声が聞こえてくる。
『アンタは、本当にそれでいいのか』
自分は答える。
「いいよ。シンタロー」
いつも最後には、何も残らないんだ。
「こういう、お前との終りも、いいさ」
『……アンタはそれで、幸せなのか』
幸せ? 私はそんなの。そんなの、望んだこと、ない。
何時だって、すぐに崩れ落ちる空中楼閣にしか、住んだことがないからね。
いつかは消えるものしか、この世にはないんだよ。
何だって……。
そんなもの、貰ったって、仕方ないじゃないか。
……いや。私はそれに値しない人間だから。
お前の言う通り、最低で酷い男だよ。
だから、そんなの。
望んだって、与えられる訳、ない……。
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
嫌い? ああ、嫌いさ。
憎いよ。
こんな生き方しかできない自分が憎い。
全てを運命で片付けて、言い訳しようとする自分が、憎い。
いっそのこと、早く終わらせてくれたって、それはそれで構わない。
自分自身に殺されるのなら、馬鹿らしくて、それでいい。
そうだ、シンちゃん。
さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって、どういうこと。
私を守るように、抱き締めてきたのって、どういうこと。
私を庇って死んだのって、どういうこと……?
『思い出せよ……! その自分自身を!』
突然、暗闇は、光に包まれた。辺りが照らされる。
マジックは、歩き続けていた足を止めた。
見上げる。
荘厳の光の中、過去の亡霊の声が……する……。
『私はお前のあるがままを見せるだけ……なぜなら、それがお前にとって必要なことだからだ。そして、生きながらお前を想う人間が、そう願ったからだ。私はその心に、遣わされているに過ぎない……』
先刻、告げられた言葉。
マジックは目を瞑る。
そして開く。心で語りかける。
でも父さん。
私は、あなたを思い出すのが怖い。
自分自身の根源。あなたを思い出せば、私は弱くなる。
だから。
だから、ずっと忘れようとしてきたのに……。
『マジック……』
父さん。怒っていますか?
僕は、あなたに顔向けができない。
あなたの跡を継いだのに、こんなになってしまった自分を、あなたに見せたくない。
『私は、お前が家族を守るんだ、と言った。しかしお前は勘違いしていることがある』
ああ……あなたの声は、こうでしたね。
忘れようとしてきた声は。
『その『家族』には、お前も入るんだよ。お前も、守られていいんだよ』
こんなにも、暖かい……。
『助けて兄さん……』
重なるように、現在の亡霊の声が響く。
ルーザーの声だ。
今度は闇にではなく、光の中に、映像が浮かび上がる。
『やめろォオ! 撃つなぁ!!!』
『撃て! 息子よ! 青の呪縛と共に、私を撃ち抜け!』
ルーザー。私は止めたのに。
お前は、あの諦念の中の孤独な死から。
冷たい雪に埋もれていく、あの死から。
もう一度、尊厳ある死に、やり直すことを望んだ。
『私は罰せられる人間だ……お前は敗北者になるな……』
でもルーザー、お前は。
『自分がしてきたことを、やり直しに戻ることはできない』
間違った人間として、最後まで死のうとするんだね。
『進め……怖がらずに進め……』
その子供に……希望を託して。
お前に正しいと言われ続けた私に、自省の道を与えて。
自らを反面教師として、私に道を説こうとする……。
幼い時から共に過ごした、私の自分自身と似た人よ。
そして、映像は消え、光と闇が混じり合い、静寂が訪れる。
幽玄の空間。
その不可思議な場所で、我知らず、マジックは待った。
彼を。
しかし何の兆しもなく、その空間は音一つない。空気の揺れ一つない。
今迄の順番通りで行くと、次に語りかけてくれるのは、未来の亡霊の番であるはずなのに。
すでに慣れたパターンを崩されると、不安がマジックを襲った。
彼は、自分を見捨ててしまったのではないかと。
もう、出て来てくれはしないのではないかと。
「シンタロー……」
声は聞こえてはこない。私に、語りかけてはくれない。
マジックは、溜息をつき、軽く長めの前髪を弄った。
「……」
私は、待っているだけでは、駄目なのか……。
だから、マジックはまた歩き出す。問いかけながら、歩き出す。
歩くのにも、語りかけるのにも、もう飽きたと思いながら。
しかし、繰り返す。
シンタロー。あのね、シンタロー。
クリスマスを思い出せと、お前は言った。
クリスマス。神に祈りを捧げる喜びの日だよね。
神の愛に感謝する日さ。
私は、もうお前に、ただ語りかけるのは、飽きてしまった。
私は、神に祈ったことなんてない。
いつも目を瞑って、時間を潰していただけだ。
だから、お前がクリスマスを思い出せと言っても、神になんて祈りたくはない。
まっぴらだ。
第一、神なんて、存在するとは思えないし。
仮に存在するとしたって、私は神に愛された記憶はない。
だから神なんてどうでもいい。
神なんて、与えもするが、奪うばかりで。
その釣り合いの取れない采配に、感謝する義理なんか、私にはないよ。
でもね。今、私は、祈りたいと思う
祈るよ。
クリスマスに自分を捧げて、愛に祈るよ。
神に、なんかじゃない。
シンタロー、お前に祈るんだ。
お前に、祈るんだよ。
「シンタロー……私のこと、助けてよ」
パパのこと、助けて。
シンちゃん。
さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって。
私を守るように、抱き締めてきたのって
私を庇って死んだのって。
……。
シンちゃん。
わかったよ。
私は、クリスマスを思い出すから。思い出して、祈るから。
クリスマス・イヴに生まれた、あの子のことも思い出すから。
シンちゃん……。
また、あんな風に、私のこと、守ってよ。
庇って欲しい。
お前が守ってくれないと、私は、何処かへと堕ちてしまうんだよ。
私を、好きになって。
私を、愛して。
救ってよ。
いつか消えないって、信じさせて。
奪うよりも、与えてよ。
こうやって私が祈るのは、ただ一人だけ。
世界で、お前、ただ一人だけだよ。
私のお前への愛は、信仰であるのだと思う。
救って欲しいと願う。
信じさせて欲しいと求める。光を見せて欲しいと望む。
お前が欲しいと飢える。
その無償の愛に、身を任せたい。
シンちゃん。ねえ、シンちゃん。
聞いてよ。
私は、お前に向かって、歩くよ。
だから、姿を見せて。
私の祈る、歩く方向を教えてよ。
私の所に、戻って来て。
全てを、思い出すから。
自分を、思い出すから……!
沈んだものが浮き上がるように、再び目の前の光の中に、映像が滲んで現れる。
「シンタロー……」
マジックは、それを見上げ、呟いた。
私の未来……。
涙を零すシンタローの姿が映し出される。彼は絶叫した。
『行くなァア! 父さぁん!』
未来のマジックは、この時に、過去の自分の犯してきた間違いを思い出したのだ。
そして、最も犠牲にしてきた子のことを、思い出したのだ。
コタロー。島を破壊しようと、青の力を暴発させる子。
その子へと歩み寄った自分は、小さな身体を抱き締める。
……ひょっとすると。
こんなに強く抱き締めたのは、この子が生まれて初めてのことだったのかもしれなかった。
小さなコタローは、震えていたよ。
それでも精一杯に、力を放出して、私を拒否しようとしていた。
『放せぇええ! パパなんか嫌いだぁあ!!』
この時の私には、もう、わかっていた。
コタローは、私に嫌われていると思い込んでいたから。
こんなにも、私を拒否して、嫌いだと言うのだ。
全てを拒否して、全てを壊して、全てを消滅させようとするのだ。
そして、コタローは、自分自身が、嫌い。
私自身の姿が、そこにいた。
私は、この子に、酷いことをした。
自分自身の姿と、真正面から向き合うのが、怖かった。
そして私は、自分が言って欲しかった言葉を、与え続ける。
ずっと。
『お前がやっているのは、悪いことだよ』
間違っていることは、間違っていると、教えてくれる人が欲しかった。
『そして私がお前にしたことも、やってはいけないことだった』
誰かに、こうして、謝って欲しかった。
『コタロー……疲れただろう、もう休みなさい……』
ずっと。
『誰も、お前を閉じ込めたりしないから……』
『パパ……』
ずっと、こうして。
ただ、抱き締めてくれる人が、欲しかった。
鐘が鳴っている。
マジックの意識は、再び無の空間に落ちている。
時空を越えた、誰もいない光の中に、鐘の音だけが、聞こえる。
シンタロー。
それでも彼は、光の差す方に向かって、呼びかける。
シンタロー。
あの鐘が鳴っているよ。
知ってるさ。これは、時間が終わる合図なんだよね。
『シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの』
最初にお前は、そう言った。
まだ、間に合うかい?
今、この瞬間。お前の心の時間は、終わってないよね?
まだ、私は間に合うよね……?
この鐘は、終りと同時に、始まりを告げる鐘でもあるんだよね……?
幼い頃、私の街に鳴り響いていた鐘の音は、そうだった。
『マジック!』
鐘の音の中から呼ぶ声がする。
『手、伸ばせよ! そこから引き上げてやるから!』
求めていた声がする。
祈りが通じた瞬間だと、マジックは思った。
声は言った。
『俺も……一緒に……受け止めるから!』
しかし、いざという時に、マジックは躊躇してしまう。
思わず、自分の手を見た。
それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
手。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
過去にお前は、そう言った。
でも今は……? 今でも本当に、そう思ってくれる? すべてを知った今でも、そう思ってくれる?
『バカ! 助けてとか言いやがる癖に、何でいっつもグズグズしてんだよっ! アンタは!』
シンタロー。私は、お前の身体が何であろうと、それでいいんだ。
お前の心がお前でさえあれば。
私との間に、どんな過去があった身体であろうと。
心がお前なら、いいんだよ。
『だー! 早くって! くっ……つーか! 何を迷ってんだよ! ああ、もうなぁ! 俺となぁ、俺とアンタは違うけど、同じなんだよ!』
同じ? どこが?
『俺は、アンタの手が、汚かろーと綺麗だろーと、何でもいいの! 何だっていいの! だから、早く手、出せってば!』
同じ……違うけど、そこは同じ……。
鳴り響く鐘の音は、すでに余韻へと移り変わろうとしていた。
『アンタなら、どーだっていいの! 早く、手、出せ! 未来に連れてってやるから!』
未来……一緒に……これから、未来に?
『アンタの、その厄介で困ったどーしょうもない自分自身……俺も一緒に、受け止めてやるから!』
本当に……?
いいの? 信じるよ?
『早く! 鐘の音が終わる! 早く!』
私は、ずっと、お前を追いかけて来たんだよ。
『アホか! 俺の方が追いかけて来たんだよ! 相変わらずわかってねーな……だから早く!』
やっと伸ばすことのできたマジックの手が、未来の亡霊の光に包まれる。
暖かいと思った
シンタロー……。
『父さん……!』
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4. 未来の亡霊
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また……鐘が……鳴っている……。
頭が、割れるように痛かった。意識が、黒い霧のかかったような酩酊から、抜け出すことができない。
指先と足先が、凍りついたように悴んでいた。
噎せ返るような血の臭いは、まだ鼻腔に残る。
喉の奥が、焼け付くようにひりついた。
まるで自分の舌が、紙切れにでもなってしまったように感じられた。
マジックは重い目蓋を上げ、置時計の針を見る。
午前三時だ。
それは、最初に自分が眠りについた時間と、酷似していた。
依然として、この空間には、静かな夜しかなかった。
彼は濁った意識の中で、再び小さな言葉を思い出す。
『三人の亡霊が、やってくるよ』
過去の亡霊、現在の亡霊。
最初に、幼いシンタローが言った通りに、二人は現れ、消えて去った。
こうなったからには、どんなに自分が嫌がろうとも、三番目の亡霊とやらも、やがてやって来るのだろう。
ただ……。
その正体は。次の死者とは、一体誰だろう?
マジックには、心当たりがなかった。
顔も記憶してはいないような死者など、彼の人生には無数に存在したが、父親、ルーザーに続くような、自分の人生に巨大な影響を与える死者など、いようはずもなかったのだ。
「……」
彼は、深く溜息をついた。
口元のシーツを噛む。唾液は出なかったので、布の柔らかい感触だけが舌に伝わってきた。
血の味は、消えなかった。
固く、目を瞑る。
頭の奥が、痺れるようだった。鈍い痛みと切り裂かれるような痛みが、交互に走る。
鐘の音が響き渡る。
厳かな鐘の音が、彼の意識を打ち震わせる。苛んでいく。
そして、三つ目の鐘の音。最後のそれが、響き止んだ時、それでも彼は、何か異変はないかと、微かに睫毛を上げた。
暗い部屋には、何もなかった。静けさ。
じんじんとするこめかみを押さえて、彼は気怠い身を起こす。
冷たいベッドが、ぎしりと揺れた。
微動だにしないカーテン。陰影を刻ませる調度品。
何の変化もない。
……誰も、来ない。
ただ薄闇の中、床に、淡く自分の影が落ちていた。
「……」
マジックはそれを見つめている。
見つめていると、次第に、その影の色が濃くなっていくのだった。
深く深く。黒は濃くなる。
マジックは、これは自分の意識にかかっていた、黒い霧ではないのかと思う。
意識と、眼前の光景が、混在していくのだ。
その境界が曖昧になり、朧となって、こうして自分は夢の中へと囚われていく……。
黒い影は、自分の影の中で蠢き、躍動し、やがて一つの形となって。
地を這うように。音もなく。
人の姿が――
彼の目の前に、黒い訪問者が姿を現した。
先の二人の亡霊のように、その存在は、光り輝いてはいなかった。
その幽玄のかたちは、黒い衣を纏っており、光の粉の代わりに、黒い陰鬱と神秘とを撒き散らしているようだった。
「過去……現在……そして、貴方は」
マジックは乾いた口を開く。もうどうにでもなれという心持だった。
この最後の訪問者は、まるで死神のような姿をしていた。
相変わらず、その輪郭は、おぼろげで捉えることは叶わないのであるが、その空気の陰影、雰囲気の襞が、ひどく悲しみに満ちているのだ。
零れる黒い燐粉が、ひどく切なさに震えているのだ。
亡霊は、自分の問いかけに、ただ一言、こう答えた。
「未来……」
心の奥底にまで、響き渡るような声だった。
未来。
未来の亡霊。マジックは、その言葉を口の中で反芻する。
一体、どういうことだろうか。
将来起きることの幻影でも、この訪問者は自分に見せようというのだろうか?
明日の方向に、時を越えて。
ただ無言で、亡霊は自分の手を取る。あまりに素早く自然な動作だったので、マジックはされるがままだった。
手を、強く握られた時。その瞬間から、黒い霧が噴出して、世界が、暗闇に包まれて。
再び、寝室から時間と空間が転移した。
----------
泣いている。
引き裂かれる兄弟は、そのことを悲しんでいる。
当然のことだ。彼らはお互いに、一番、愛し合っているのだから。
『お兄ちゃん!』
幼い声。助けを求める声。
『コタロー!』
あの子の声。必死に叫ぶ声。
『親父! コタローを何処に連れて行くんだよ! 親父ッ……!』
かつて見た光景。すぐ側にある過去。
この場所は軍本部。
私の、やったこと。
それが今、自分の目の前にある。
兵士に連れ去られる子供。追いすがるシンタロー。
それを容赦なく気絶させる私の姿。
『お兄ちゃん!』
崩れ落ちる兄を目にし、金髪の子供が悲鳴のような声をあげる。
手を伸ばしている。それを断ち切るように、その子に向かって言う私。
『コタロー、お前は危険だ……』
冷たい。
それが真実であるにしても、頑是無い、まだ小さな子供であるのに。
場面が移り変わる。
『秘石に興味があるのか? シンタロー』
総帥室だった。
椅子にかけ、青い石に触れている私。
その前に、暗い顔をした青年が力無く立っている。
もう笑ってはくれなくなった、あの子。
でも、この日は、久し振りに話しかけてきてくれたから。
彼が話しかけてきてくれたということだけで、私は嬉しかったのだ。
だから、石が欲しいのかと、私は言った。気分が良かった。
いいよ。欲しいのなら、お前になら何だってあげるよ。
だって、愛してるんだもの。
『私の物は全てシンタロー。お前にあげるよ』
『だからね。そんなことより、パパと遊ぼうよ、シンちゃん。最近、全然構ってくれないから』
『……ッ……アンタは! ちゃんと俺の話を聞いてくれよ! 取り合ってもくれないじゃないか! 全然わかってくれないだろ!』
『お前の話なんて、聞いたってしょうがない。私にわかるはずがないんだから』
『どうしてだよ! どうして最初からそんな全否定すんだよ! どうしてアンタは、いっつも、そんな……』
『お前が私のことをわからないのと同じだよ。お前と私とは違う。そもそも、言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
『そんなこと言うなよ! そんなこと言ったら、アンタの言葉だって! 嘘ばっかで……俺に、嘘ばっかりで、本当のこと、教えてくれなくて、』
『だから私は、お前に何だってあげるって、言ってるでしょ。愛を形にして示してるでしょ。それなのにお前は、つれないから。だからパパは、いっつもね……』
『あげるとかって。俺は、そんなの、欲しくないんだよ! モノなんて欲しくないの!』
『ねえ、シンちゃん。パパのこと、好き……? お前が私の物を貰ってくれないんだったら、私は好きってこと、どうやって伝えればいいの。どうやってお前に証明すればいいの? そしてお前は、私のことを、どうやったら好きになってくれるの……?』
そして切りかわった次の場面は、何もない部屋で、一人、取り残された私が佇んでいた。
愛するシンタローは南の島に去った。
自分から、青い石を奪って。
『シンタロー……コタローのことは忘れろ』
『私はお前さえいればいいんだ』
かつて囁いた言葉だけが、無機質な顔をした私の記憶に、響いている。
そうだ。こうして、今の自分は、取り残されたのだ。
シンタロー。
自分は、呼びかける。
ねえ、シンちゃん。
私が、こんなこと言ったから、お前は怒って逃げたんでしょ。
嫌だった? そうだよね、嫌だったんだよね。
私の存在は、お前にとって、悪いことしかもたらさなくて。
不快でさえあるのだろうと思う。
ごめんね。
私はいつも、その事実に気付く度に、何かが麻痺していくのを感じている。
雨に濡れるように温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
自分自身が、誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
また、繰り返しだ。
私は何時まで経っても進歩のない。
そして最後には、何も残らない。
シンちゃん。パパに、秘石、返してよ。
それがないと、私は、上手く人を殺せない。
私は、石で、力を手に入れた。
石と一緒に、覇王への道を歩んできたんだよ。家族を支えてきたんだよ。
それがないと、私は……。
私は、秘石とお前のためなら、何だってするんだ。
お前のために、世界だって、手に入れるんだ。
そのために、石を……。
いや……。
秘石……。
違うんだよ。また、これも違うんだ。
どうしてお前は、一人で逃げずに、石まで持って遠くに逃げたの。
そんなの、なくたって。私はお前を追いかけるんだよ。
いつだって、私は追いかける。
シンタロー。パパの所に、帰ってきてよ。お前がいないと、私は。
確かに、私にとって、石は大切だよ。
だからお前は、それを奪って、私から逃げた。
でもね。お前は考え違いをしている。
私はお前が一番大切なんだよ。
私は、お前がいたからこそ、自分を手に入れた。
一緒に24年の月日を、過ごしたんだよ。
お前を愛してるんだよ。
お前がいないと、私は……。
「……ッ……」
深く沈み込まされた海底から、急激に水面に引き上げられる感覚。
幻想の水圧からの解放。自分が自分であるという意識。
記憶の夢から醒めるように、過去と同一化した自分を再び取り戻したマジックは、いつしか、自分が一人きりで立ち尽くしていることに気付いた。
傍らで自分の手を握っていたはずの亡霊は、消えていた。
辺りは、黒い霧に包まれている。
マジックは、その霧を、ぼんやりと見つめていた。
霧は、まるで生物のように蠢いているのだ。
伸縮し、うねり、漂いながら、自分を何処かへと導こうとしているかのように見えた。
誘われるようにマジックは、霧と共に、歩き出した。
鈍い頭痛は続いていた。
突然、視界が開ける。黒い霧を抜けた先には、鉄の門があった。
淡い白さと人気のない空間。清涼な空気の元に、薄い雪。踏みしめる感触が柔らかい。
見上げれば、厚い雲の切れ間から、光が差し込んでいた。緩やかに風が吹き、木々が雪を落とす音がひそやかに鳴る。
何処からか鳥の声までして、嘘のような穏やかな光景が広がっていた。
それは、冬の晴れ間だった。
「……」
マジックは、そっと呼吸をする。
新鮮な空気が肺に流れ込み、血の汚れが洗い流されていくのを感じる。
少しだけ、頭の痛みが和らぐような気がしたが、それは一瞬のことなのだろうと思う。
彼は、周囲を見回して、考えた。ここは覚えのある場所であると。
その場所は、青の一族の墓地だった。
見渡せば、教会の塔の向こう、小高い丘の上に、あの黒い亡霊が、立っている。
黒い衣は、風が吹く度に、揺らめき、なびき、白い雪の上に、黒い霧を振り撒いていく。
この亡霊が、自分の頭痛の原因であるのだろうと、マジックは感じている。
自分の意識を覆う、黒い闇。自分を導く、幻の影。
今、それは一つの形を取って、丘の上に佇んでいる。
黒い姿の傍らには、亡き父の墓があるのだった。亡き弟の墓があるのだった。
そしてその隣に、自分がまだ見たこともない、真新しい墓石がある。
亡霊は、上衣から突き出した指で、それを指し示している。
マジックは、表情を変えなかった。
意図的にそうしたというより、本当にさして心が動かなかったのだ。
まるで他人事のようだった。ただ、こんな光景を見ている、自分は馬鹿なのだと思った。
どうして私は、こんな場所にいるんだろう。
どうして亡霊に導かれたのだろう。こうして大人しく従っているのだろう。
過去。現在の亡霊が眠る墓地。
そして、未来の亡霊。
その墓は誰の墓だ……?
墓地――マジックは過去、この場所に、死者を葬ってきた。
幾度も訪れた。そしてここから、生ある場所に、幾度も帰った。
ああ、自分は、死した彼らに依存する情けない男なのだと感じながら、日常において、自分が忘れようとしてきた者たちが眠る場を去り、現実へと帰っていった。
ここは死者だけが土の下に横たわっている場所だった。
死者が、冷たい土に、がんじがらめになる場所だった。
永遠に。
亡霊は、そこにいた。
父親と弟の墓石の間に立って、新しく土を盛った、見慣れない一つの墓を指差していた。
マジックは、その石に目を遣り、そして口を開いた。
「貴方が示す、その墓石に近付く前に」
自分の舌は、まるで道具のように動く、とマジックは思った。
いつも私はそうだ。自分を馬鹿だと感じる時、いつも私は、道具のように身体を動かす。それだけしかできない。
くだらない。
「教えて欲しい。貴方は自ら、未来の亡霊であると名乗った。これまで私が見せられて来た光景は、全て過去にあったことだった。しかし、この墓地の風景は違う。その墓石は違う。これから貴方が私に見せるものは……将来起こることの幻影ですか……?」
しかし、そう尋ねても、目の前の亡霊は、依然として一つの墓を指差している。
微動すらしない。
「しかも、すぐ先の未来という訳ですか」
今迄見た光景は、全て時間的に連続していたのだから、自分は今夜、このまま現実世界に戻ることができずに、死ぬということなのかもしれないな、と彼は考える。
様々な想いを駆け巡らせた後、微動だにしない相手をマジックはもう一度眺め、静かに丘に足を向ける。
歩み寄り、亡霊の示す、それを見下ろす。
外装だけは豪華で、しかし人を寄せ付けない冷たい石。
……何故か、小さなクリスマスリースだけが、隅に控えめに置かれていて、半分雪に埋もれながら、風にリボンをはためかせている。
この日も、クリスマスであるのだろうか。
その見捨てられた墓石の上に、自分の名が読み取れた。
「こういう、人生の終りも、いいさ」
マジックは呟く。
「最後には何も残らない……私の人生そのままだ……でも墓石は残ったから、よしとしようか。上出来だ」
そう言った自分の声も、風に消えていくのだった。
あまりにも多くの命を殺した人間が、あまりにも多くの心を傷付けた人間が、こうして、あっさり死んでしまうというのも、また一興だった。
運命とはそういうものなのだろう。
大して意味もなく、理由もなく、ただ巡り続ける。
何かの拍子に零れ落ちた歯車は、そのまま忘れ去られていく。
人一人消えたとて、何の変わりもない世界は、そのまま続いていく。
そういうものであるべきなのだ。
そう結論付ける自分に。
「……本当にそれでいいのか」
亡霊の声が聞こえた。
マジックは、どうしてか、自分はその声を、今この瞬間、初めて聞いたと思った。
それは幽玄の響きではなく、人間の肉声だった。
「いいよ。構わない」
自分は答える。
そして、マジックは正面から、黒い亡霊を見つめた。とても自分の近くに、亡霊はいた。
相手は更に問いを重ねてくる。
「過去……現在……そしてこれからの未来……その旅を続けて……」
マジックは声を聞いている。
「今ある感情は何だ。今、胸にある感情は何だ」
そんな自分に、指を突きつけてくる黒い亡霊。
「今ある感情……私の胸に……?」
突飛なことを聞かれたと思った。
「そんなことを言われても」
そう言いながらも、マジックは、考えようとしたのだ。
私はいつも。
感情?
……頭が痛い。
再び頭痛に襲われて、彼は目を瞑った。意識を取り巻く黒い霧は、彼が考えようとする度に、彼の心を締め付けていくのだった。
心の奥底に辿り着こうとする度に、マジックは、針が刺すような痛みに堪え、唇を噛み締める。
心の奥底に辿り着こうとする度に――
私はいつも、何かが麻痺していくのを感じている。
思考が妨害され、考えることを止め、ただ流されていく自分を感じている。
あえて言うなら、どうでも良かった。
自分自身を考えることから、逃げ出したかった。
墓地に、いつしか雨が降り注いでいる。
薄い雪は、透明になり、いつしか同じ液体へと変わっていくのだった。
マジックは雨に濡れながら、額を押さえている。目の前の亡霊は、微動だにせず佇んでいる。
まるで、逃げることを阻もうとでもいうのか。
雨。
雨に濡れるように。
マジックは、呟くと、止め処のない思考を続けようとする。
温度が奪われて、どんどんと私の手は冷たくなっていく。
最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
誰からも忘れ去られてしまう。存在したことさえ、消えてしまう。
最後には、何も残らない。
この感情とは。
この感情とは、何だ……?
無だと、私は思ってきた。
しかし、無ではないのか?
諦め?
違う?
他にまだ何かあるのか?
「憎しみだ」
研ぎ澄まされたような亡霊の声。
突如としてマジックは、この自分の心にある感情が、憎しみであることを理解する。
手の平で胸元を押さえる。爪を立てて、引き裂く形にする。
そうだ。マジックは、乾いた心に水が染みとおるように思った。
私は、憎いのだ。この感情は、憎しみだ。
最後に私に残るのは、憎しみだ。
だが彼は、自分が何を憎んでいるのかがわからなかった。
しかし、何かが憎いのだ。憎くて堪らないのだ。
私は一体、何が憎いのだ?
父さんを奪った誰かが憎い?
私に覆い被さる責任が憎い?
私に全てを押し付ける、周りの者全てが憎い?
自分が味わうことのできない幸せを持つ人間が憎い?
私を犠牲にして、何も知らず安穏と暮らす人間が憎い?
私に力を与えた、何かが憎い?
……私を愛してくれない、全ての人間が憎い……?
「言ってやろうか」
マジックは、痛みの中で黒い亡霊を見つめている。
鼓膜の奥で、鐘が鳴っているようで。痛覚の交錯と、混迷する思考と、戸惑いにぼやける視界。
しかし、自分は必死に目を凝らす。
亡霊の幽玄の姿を、捉えようとする。
「アンタが憎いのは、自分自身だ」
「アンタの人生にあったのは、自分への憎しみ、逃避。そして自分を忘れようとする気持ち。思い出せよ。全部、思い出せよ! 忘れようとすんな!」
亡霊は叫ぶ。青年の声で。
「自分を憎むのをやめろよ……アンタ自身を受け止めろよ……!」
そう、言ってくるから。
「こういう、人生の終りも、いいさ」
自分は、再びこう返した。
この痛みが、自分への思考を麻痺させてくれるのなら、それでいいと思った。
それなら、このまま、雨に打たれていたいと思った。
「あ、アンタはいいかもしれないけどな! 俺は……」
亡霊の黒い姿も、濡れている。黒い霧は雨を弾き、輝いていた。
それを見たマジックは、美しいと感じた。
何をやったって。
何を言ったって、この子は、いつもこうなんだ。
「俺は嫌なんだよ! こんなの……こんな墓石……アンタは間違ってるんだ……」
いつだって、人のことに、一生懸命なんだ。
「アンタ、間違ってるんだよ……!」
「だが……お前は死者ではないはずだ」
マジックは言った。
「どうして、私の前に、亡霊の姿をして現れる……?」
黒い影は、いまや、光を放ち始めているのだった。
白い雪の中、そぼ降る雨の中。黒は水分を含んだように艶を帯び、その幽玄の輪郭を、一層輝かせている。
「俺は、未来の亡霊」
雨が、自分の身体を滴っていくのを、マジックは感じている。
雨はいつも、自分を、こうして冷たく濡らしていくのだ。
この、雨を弾く目の前の亡霊と、自分との違いは、一体何なのだろう。
自分はいつも、こうして、身体が重くなっていくというのに。
湿った金髪が、肌に張り付いていく感触が、いとわしくて堪らないというのに。
醜くなっていくばかりだというのに。
目の前の子は、どんどん光り輝いて……。
そうか、憎しみ。
マジックは、またもう一つの事実に気付く。
私の、この子への感情。
そこに、憎しみはなかったが、嫉妬はあった。私は、この子に焦がれながらも、嫉妬している。
この子は、自分にないものばかりを持つ。
自分は、この子にないものばかりを持つ。
私は、余計なものばかり。人間として。
「……アンタの未来で」
そんなマジックの目の前で、亡霊は、自分の胸元を掴む。乱暴に、引きちぎる。
その瞬間、亡霊の纏う上衣が、舞い上がって閃く。
黒い光が四散した。黒い霧も四散した。
そこに現れた姿が、言った。
「俺は、二度死ぬ男」
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「お、俺は……アンタのために、死んで……それなのに、当のアンタがそんなんじゃ……俺は、何のために……」
世界が、暗転した。
墓地も教会も木々も消え失せ、マジックは、再び闇の中にいた。
黒い霧ばかりが視界を塞ぐ。自分一人を包む、黒い霧。
「……シンタロー……?」
彼は消えていた。
「シンタロー!」
マジックは見回す。何も視界に映らない。
だから、名前を呼ぶ。返答はない。ただ黒い霧が行く手を遮るばかりだ。
仕方がないので、手探りで、マジックは歩き出す。
おかしなことを言うね、と呟きながら。
シンタロー。
お前が死ぬって。
私のために死ぬって、どういうこと……?
だんだんと。
だんだんと。
闇に。マジックの目の前に、ぼんやりとした光が滲み出す。揺らめき出す。
その中に、最初に現れた、幼いシンタローの姿が浮かび上がる。
また、幻だ。遠くへと駆けて行く。
『パパー!』
黒髪が、可愛らしくこちらを振り返る。
手探りでしか歩くことのできない自分に、無邪気に笑いかけてくる。
呼びかけてくる。
『シンタローねぇ、パパ、大好きだよ!』
また、そんなことを。マジックは、溜息をつくしかない。
好きなんて。私は、言葉で言われたって、わからない。
『パパー! こっちにおいで!』
ああ、どうしてだろう。
この子は、自分を呼ぶのに。自分は、追いつくことができない。
私の足は、鉛のように重くなってしまった。
『シンちゃん……どこに行くの』
追いかけても、届かない。
小さな足音ばかりが響いて、私から、去って行く。
それでも追いかける……自分は。
――惨めだ。
『シンちゃん……パパを置いて行かないで』
『パパー! こっちだよー!』
『シンちゃん、待って』
『こっちだよ、こっち!』
『シンちゃん、パパから』
遠ざかっていく。
『パパから、逃げないで……』
その後姿は、より大きな光の方へと走っていく。
『私から逃げないで……シンタロー……』
私は、惨めだ。
不意に、その大きな光が近付いてくる。
シンタローと、自分を、包んで行く。
飲み込まれて、視界が開けた。
無機質なフロアが広がっている。灰色のダクトが這う壁、衝撃で砕け散ったパネル群。
ここは日本支部だった。
目の前に、青年へと成長したシンタローがいる。サービスがいる。
自分がいる。
『シンタロー……危険だからどいていなさい!』
『コタロー!』
『よせ、シンタロー! かなう相手じゃない!』
緊迫した空気。
そして三人の視線の先、瓦礫の中に――監禁したはずの子供、コタローがぬいぐるみを抱えて立っている。
サービスに連れ戻されたシンタローが、扉を壊して開けたのだ。
マジックの意識は、すでにこの風景に溶け込んでいる。
未来の自分と一体化している。だから、この状況の全てを把握している。
彼はコタローとシンタローの間に、立ちはだかりながら、険しい顔をして、こう考えている。
シンタロー。
そうだよね。
サービスの言うことだったら、お前は聞くんだよね。
そしてコタローのためだったら。お前は。
コタロー……。
『パパなんか大嫌いさ!』
言い放つ幼い声が、マジックの鼓膜に響く。その言葉の意味が、心の芯に強く響いた。
そうだ。私が、一番嫌いなのは、自分自身。
『嫌いで構わん、部屋に戻れ』
そうだ。私はいつか、この子に殺される。
この子は確かに自分の子。紛れもなく自分の子。
私を睨みつけてくる幼い両の瞳は、秘石眼。私と同じ身体を持ち、ルーザーと同じ精神を持つ子。
コタロー。
私はいつか、自分自身に、嫌われて、殺される。
私は、この子を、どう扱えば良いのか、わからない。どんな気持ちを持てばいいのかさえ、わからない。
ただ、見ていたくはないのだ。
いつも、この子を見つめる度に、自分の心の奥底が凍りついていくような気持ちに囚われる。
それは生まれて初めて、具体的な形となって、私に浮かび上がる感情。
私は――この子が、怖い。
『パパなんか、死んじゃえー』
強大な潜在能力を感じさせる青色が弾けて、世界が揺れる。
吹きすさぶ爆風、振動、粉塵。物理攻撃、それを凌ぐ脅威、精神の耐圧。
冷たい雨が私を通り過ぎていく時間。
針を刺すような痛み、薄れ硬くなる感覚、そして麻痺。
私は、この子に関わろうとする度に、まるで自分自身であることが、道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
今も、そうだ。
冷たい言葉を投げかけながら、私は、ぼんやりと、この子コタローを、眺めている。
早く元通りに閉じ込めなければとばかり、考えている。飛び散る金属片が、私の顔を掠めた。
……まだ、未熟な攻撃でしかないが。
これを繰り返していけば、私は、いつか、この子に殺される。
嫌われたままで、殺される。
でもそれが、運命だというのなら、仕方のないことだ。
こういう、人生の終りも、いいさ。
『今度は、はずさないよー!』
ただ、今は止めなければ。今は止めて、この子をまた閉じ込めなければ。
いつかは、崩れるのだとしても、この場は閉じ込めて、その部屋の壁を塗り固めるべきなのだ。
私はいつもそうさ。
いつか終わるという予感。そればかりを積み上げていく。
幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとする。
空中楼閣に住みたがる。
シンタローが、いつもその扉を開けて壊そうとするから。
私は、また、繰り返す。
『ばいばーい、パパ!』
コタローの手に、自分を狙う青い炎。
マジックは、それを防ごうと身構える。
監禁した部屋の中で、密かに繰り広げられてきた、二人のいがみ合い。
いつも最後は、自分はこの子を力で抑え付けて、終わらせる。
その儀式が、室外で行われただけのことだった。
……雪と雨とを繰り返す、冷たい水のように。嘘は降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
無益な繰り返し。
最後には、何も残らない……。
瞬間。目の前に、黒い影が閃いた。
マジックは、自分に起こった出来事に、呆然とした。
本当に、身動き一つできなかった。
……シンタロー。
大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったのだと思っていたよ。
諦めて……去ってしまったのだと。
遠い南の島へと、私を捨てて。
『言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
確かに、私に言ったって、しょうがないものね。
だって私が、言葉なんて、信じる訳がない。
信じられないよ。
好きなんて。
愛なんて。
いつか消えるという予感しかもたらさない。
シンタロー。形にしてよ。
形にしてくれないと、私は信じることができない。
でも、嘘だろう?
私は嘘ばかりついてきたけど、今度はお前が最大の嘘をつく。
嘘なんだろう。
こんなこと。こんな形にしろだなんて。
私は、頼んでないよ……!
『父さん!』
私は、シンタローが、私を庇って、命を失うのを、見た。
世界が、また暗くなる。
全ての光景が消え、深かった。
ただ、深かった。今までで一番、深かった。
日の差さない、地の真底。まるで出口のない回廊。果てのない道。
闇ばかりが続いている。
自分はまた、どうしてこんな場所に嵌り込んでしまったのだろう。
迷うばかりだ。
しかしマジックは、自分の足が動いていることに気付く。当て所もなく自分が歩いていることに気付く。
ここは、暗くて、寒いのだ。
何処かへと進まないと、自分は凍えてしまう。
だが、何処へ? 何処へ行けばいいのだ……?
『パパは、コタローに、ひどいことをしたの』
『パパ、さいてぇ』
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
いつしかシンタローの声が、幼い声と青年の声が、どれも同じ人の声が、闇の中を交差する。響き合う。
『パパ、クリスマスを思い出して』
マジックはそっと答える。答えながら、歩く。
思い出してって、お前は言うけれど。
でもクリスマスって。クリスマスって、何だい、シンタロー?
そう問いかけた瞬間、足元が崩れる。
マジックは、更なる回廊の底へと、堕ちて行った。
堕ちた先でも、彼は、また歩いていた。そうせざるを得なかった。
ふと、回廊の全方位に、また映像が映し出されていることに気付く。
未来の光景だった。
自分とサービスがいる。青の中でも、憎しみを糧にする二人が、崖の上に佇んでいた。
『シンタローが戻ってきたら……どうしますか、兄さん……』
『殺すよ』
シンタロー。
マジックは、その未来を眺めながら、問いかける。
未来のことは、もう、手に取るようにわかっていた。
この地の底にありながらも、自分には、全てがわかる。
時間の一場面中にいる時はわからないことが、まるで一本の映画を見ている観客のように、客観的に、今のマジックには理解できるのだ。
シンタロー。
そう問いかけながら、マジックは歩き続けている。
シンタロー。
聞いてくれる……?
私はね、かつて、お前と同じ顔の男を、殺そうとした。
そうだよ。お前の、その身体。その同じ身体に、違う魂を持っていた男のことだよ。
私はその顔が、憎かった。
他に心を向けながら、簡単に私に抱かれる、その身体が憎かった。
もうその身体は、粉々にされたのだと思っていたのに。
今度は……。
いや、再び。私が愛する人の身体として、現れた。
酷いよね。酷いよ。
お前がお前であることを、一番必要とする瞬間に、そうなってしまったんだ。
酷いよ。
私が一番嫌いな身体に、どうして一番好きな人の心が入ってしまったの。
それに折角……。
お前が……。
そうだ、シンちゃん。さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって、どういうこと……?
流れる映像は、移り変わる。矢のように映っては飛び去った。
『ねえ……シンタローさん、起きてよ……』
『シンタローさん!』
ジャンがお前を殺して、お前はまた死んだ。
でも起き上がるんだよね。最後はお前は、起き上がるんだ。
そういう運命の子なんだよ。そういう力を持った子なんだ。
『影――……あの子は影だったのか……』
お前の正体を。
『シンタロー……』
私は知った時、ただお前を可哀想だと感じた。
あんなにお前は一生懸命に生きてきたのに。
影だなんて。影ってのはね、いつか消えるものなんだよ。実体のない映し絵にすぎないのだから、消えるものなのだよ。
『行かれるおつもりですか、マジック総帥』
でもお前は消えなかった。
そういう力を持った子なんだよね。
『ティラミス……私は』
お前の24年間は、消えなかったよ。私がお前と過ごした24年間も、消えなかった。
私は、もう、どうだっていいんだよ。
お前の正体が、身体が、何だっていいんだよ。
お前の心が。お前でさえあるならば……。
『総帥であり父であり兄であり――青い一族の男だ!』
でもね。そのままのお前が、私の前に立ち塞がるのなら。
私は、やっぱり、お前を殺さなければならないんだよ。
それが私の運命だから。そういう、ものなんだよ。
マジックが呟いた刹那、また、足元が崩れ、彼は更なる地底へと堕ちて行く。
堕ちた先で、また歩いている。歩き続けている。
その内に再び声が聞こえてくる。
『アンタは、本当にそれでいいのか』
自分は答える。
「いいよ。シンタロー」
いつも最後には、何も残らないんだ。
「こういう、お前との終りも、いいさ」
『……アンタはそれで、幸せなのか』
幸せ? 私はそんなの。そんなの、望んだこと、ない。
何時だって、すぐに崩れ落ちる空中楼閣にしか、住んだことがないからね。
いつかは消えるものしか、この世にはないんだよ。
何だって……。
そんなもの、貰ったって、仕方ないじゃないか。
……いや。私はそれに値しない人間だから。
お前の言う通り、最低で酷い男だよ。
だから、そんなの。
望んだって、与えられる訳、ない……。
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
嫌い? ああ、嫌いさ。
憎いよ。
こんな生き方しかできない自分が憎い。
全てを運命で片付けて、言い訳しようとする自分が、憎い。
いっそのこと、早く終わらせてくれたって、それはそれで構わない。
自分自身に殺されるのなら、馬鹿らしくて、それでいい。
そうだ、シンちゃん。
さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって、どういうこと。
私を守るように、抱き締めてきたのって、どういうこと。
私を庇って死んだのって、どういうこと……?
『思い出せよ……! その自分自身を!』
突然、暗闇は、光に包まれた。辺りが照らされる。
マジックは、歩き続けていた足を止めた。
見上げる。
荘厳の光の中、過去の亡霊の声が……する……。
『私はお前のあるがままを見せるだけ……なぜなら、それがお前にとって必要なことだからだ。そして、生きながらお前を想う人間が、そう願ったからだ。私はその心に、遣わされているに過ぎない……』
先刻、告げられた言葉。
マジックは目を瞑る。
そして開く。心で語りかける。
でも父さん。
私は、あなたを思い出すのが怖い。
自分自身の根源。あなたを思い出せば、私は弱くなる。
だから。
だから、ずっと忘れようとしてきたのに……。
『マジック……』
父さん。怒っていますか?
僕は、あなたに顔向けができない。
あなたの跡を継いだのに、こんなになってしまった自分を、あなたに見せたくない。
『私は、お前が家族を守るんだ、と言った。しかしお前は勘違いしていることがある』
ああ……あなたの声は、こうでしたね。
忘れようとしてきた声は。
『その『家族』には、お前も入るんだよ。お前も、守られていいんだよ』
こんなにも、暖かい……。
『助けて兄さん……』
重なるように、現在の亡霊の声が響く。
ルーザーの声だ。
今度は闇にではなく、光の中に、映像が浮かび上がる。
『やめろォオ! 撃つなぁ!!!』
『撃て! 息子よ! 青の呪縛と共に、私を撃ち抜け!』
ルーザー。私は止めたのに。
お前は、あの諦念の中の孤独な死から。
冷たい雪に埋もれていく、あの死から。
もう一度、尊厳ある死に、やり直すことを望んだ。
『私は罰せられる人間だ……お前は敗北者になるな……』
でもルーザー、お前は。
『自分がしてきたことを、やり直しに戻ることはできない』
間違った人間として、最後まで死のうとするんだね。
『進め……怖がらずに進め……』
その子供に……希望を託して。
お前に正しいと言われ続けた私に、自省の道を与えて。
自らを反面教師として、私に道を説こうとする……。
幼い時から共に過ごした、私の自分自身と似た人よ。
そして、映像は消え、光と闇が混じり合い、静寂が訪れる。
幽玄の空間。
その不可思議な場所で、我知らず、マジックは待った。
彼を。
しかし何の兆しもなく、その空間は音一つない。空気の揺れ一つない。
今迄の順番通りで行くと、次に語りかけてくれるのは、未来の亡霊の番であるはずなのに。
すでに慣れたパターンを崩されると、不安がマジックを襲った。
彼は、自分を見捨ててしまったのではないかと。
もう、出て来てくれはしないのではないかと。
「シンタロー……」
声は聞こえてはこない。私に、語りかけてはくれない。
マジックは、溜息をつき、軽く長めの前髪を弄った。
「……」
私は、待っているだけでは、駄目なのか……。
だから、マジックはまた歩き出す。問いかけながら、歩き出す。
歩くのにも、語りかけるのにも、もう飽きたと思いながら。
しかし、繰り返す。
シンタロー。あのね、シンタロー。
クリスマスを思い出せと、お前は言った。
クリスマス。神に祈りを捧げる喜びの日だよね。
神の愛に感謝する日さ。
私は、もうお前に、ただ語りかけるのは、飽きてしまった。
私は、神に祈ったことなんてない。
いつも目を瞑って、時間を潰していただけだ。
だから、お前がクリスマスを思い出せと言っても、神になんて祈りたくはない。
まっぴらだ。
第一、神なんて、存在するとは思えないし。
仮に存在するとしたって、私は神に愛された記憶はない。
だから神なんてどうでもいい。
神なんて、与えもするが、奪うばかりで。
その釣り合いの取れない采配に、感謝する義理なんか、私にはないよ。
でもね。今、私は、祈りたいと思う
祈るよ。
クリスマスに自分を捧げて、愛に祈るよ。
神に、なんかじゃない。
シンタロー、お前に祈るんだ。
お前に、祈るんだよ。
「シンタロー……私のこと、助けてよ」
パパのこと、助けて。
シンちゃん。
さっきの、どういうこと?
コタローが私を撃った時に。
目の前に飛び出して来たのって。
私を守るように、抱き締めてきたのって
私を庇って死んだのって。
……。
シンちゃん。
わかったよ。
私は、クリスマスを思い出すから。思い出して、祈るから。
クリスマス・イヴに生まれた、あの子のことも思い出すから。
シンちゃん……。
また、あんな風に、私のこと、守ってよ。
庇って欲しい。
お前が守ってくれないと、私は、何処かへと堕ちてしまうんだよ。
私を、好きになって。
私を、愛して。
救ってよ。
いつか消えないって、信じさせて。
奪うよりも、与えてよ。
こうやって私が祈るのは、ただ一人だけ。
世界で、お前、ただ一人だけだよ。
私のお前への愛は、信仰であるのだと思う。
救って欲しいと願う。
信じさせて欲しいと求める。光を見せて欲しいと望む。
お前が欲しいと飢える。
その無償の愛に、身を任せたい。
シンちゃん。ねえ、シンちゃん。
聞いてよ。
私は、お前に向かって、歩くよ。
だから、姿を見せて。
私の祈る、歩く方向を教えてよ。
私の所に、戻って来て。
全てを、思い出すから。
自分を、思い出すから……!
沈んだものが浮き上がるように、再び目の前の光の中に、映像が滲んで現れる。
「シンタロー……」
マジックは、それを見上げ、呟いた。
私の未来……。
涙を零すシンタローの姿が映し出される。彼は絶叫した。
『行くなァア! 父さぁん!』
未来のマジックは、この時に、過去の自分の犯してきた間違いを思い出したのだ。
そして、最も犠牲にしてきた子のことを、思い出したのだ。
コタロー。島を破壊しようと、青の力を暴発させる子。
その子へと歩み寄った自分は、小さな身体を抱き締める。
……ひょっとすると。
こんなに強く抱き締めたのは、この子が生まれて初めてのことだったのかもしれなかった。
小さなコタローは、震えていたよ。
それでも精一杯に、力を放出して、私を拒否しようとしていた。
『放せぇええ! パパなんか嫌いだぁあ!!』
この時の私には、もう、わかっていた。
コタローは、私に嫌われていると思い込んでいたから。
こんなにも、私を拒否して、嫌いだと言うのだ。
全てを拒否して、全てを壊して、全てを消滅させようとするのだ。
そして、コタローは、自分自身が、嫌い。
私自身の姿が、そこにいた。
私は、この子に、酷いことをした。
自分自身の姿と、真正面から向き合うのが、怖かった。
そして私は、自分が言って欲しかった言葉を、与え続ける。
ずっと。
『お前がやっているのは、悪いことだよ』
間違っていることは、間違っていると、教えてくれる人が欲しかった。
『そして私がお前にしたことも、やってはいけないことだった』
誰かに、こうして、謝って欲しかった。
『コタロー……疲れただろう、もう休みなさい……』
ずっと。
『誰も、お前を閉じ込めたりしないから……』
『パパ……』
ずっと、こうして。
ただ、抱き締めてくれる人が、欲しかった。
鐘が鳴っている。
マジックの意識は、再び無の空間に落ちている。
時空を越えた、誰もいない光の中に、鐘の音だけが、聞こえる。
シンタロー。
それでも彼は、光の差す方に向かって、呼びかける。
シンタロー。
あの鐘が鳴っているよ。
知ってるさ。これは、時間が終わる合図なんだよね。
『シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの』
最初にお前は、そう言った。
まだ、間に合うかい?
今、この瞬間。お前の心の時間は、終わってないよね?
まだ、私は間に合うよね……?
この鐘は、終りと同時に、始まりを告げる鐘でもあるんだよね……?
幼い頃、私の街に鳴り響いていた鐘の音は、そうだった。
『マジック!』
鐘の音の中から呼ぶ声がする。
『手、伸ばせよ! そこから引き上げてやるから!』
求めていた声がする。
祈りが通じた瞬間だと、マジックは思った。
声は言った。
『俺も……一緒に……受け止めるから!』
しかし、いざという時に、マジックは躊躇してしまう。
思わず、自分の手を見た。
それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
手。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
過去にお前は、そう言った。
でも今は……? 今でも本当に、そう思ってくれる? すべてを知った今でも、そう思ってくれる?
『バカ! 助けてとか言いやがる癖に、何でいっつもグズグズしてんだよっ! アンタは!』
シンタロー。私は、お前の身体が何であろうと、それでいいんだ。
お前の心がお前でさえあれば。
私との間に、どんな過去があった身体であろうと。
心がお前なら、いいんだよ。
『だー! 早くって! くっ……つーか! 何を迷ってんだよ! ああ、もうなぁ! 俺となぁ、俺とアンタは違うけど、同じなんだよ!』
同じ? どこが?
『俺は、アンタの手が、汚かろーと綺麗だろーと、何でもいいの! 何だっていいの! だから、早く手、出せってば!』
同じ……違うけど、そこは同じ……。
鳴り響く鐘の音は、すでに余韻へと移り変わろうとしていた。
『アンタなら、どーだっていいの! 早く、手、出せ! 未来に連れてってやるから!』
未来……一緒に……これから、未来に?
『アンタの、その厄介で困ったどーしょうもない自分自身……俺も一緒に、受け止めてやるから!』
本当に……?
いいの? 信じるよ?
『早く! 鐘の音が終わる! 早く!』
私は、ずっと、お前を追いかけて来たんだよ。
『アホか! 俺の方が追いかけて来たんだよ! 相変わらずわかってねーな……だから早く!』
やっと伸ばすことのできたマジックの手が、未来の亡霊の光に包まれる。
暖かいと思った
シンタロー……。
『父さん……!』
三人が出て行った後。私は身を起こし、一人ベッドに座って、その他人の部屋で、しばらく部屋の隅を見ていた。
やっぱり、何もない部屋だと、感じた。
そして、来た時と同じように、窓から外に出る。
雪が静かに降り積もり、夜を銀色に輝かせていた。歩くと、さくさくという音がした。
新雪で、私の足跡の他は、何もない。その美しさと快感と、微かな後悔。
この足跡も、すぐに埋められていくのだろう。
手の平を差し出すと、白い粉はあとからあとから私に触れてくる。
そして溶けていく。
私の手には、透明な雫ばかりが、残っていく。滴り落ちる。
結局、雪も、雨と同じ。
だが、雨の方が冷たいと感じるのは、どうしてだろう。
夜は深みを増していたが、朝までは遥か遠かった。
白い雪の中。立ち尽くしたまま、漠然と。
早く、朝が来ないだろうかと、私は思う。
いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。
それから私は、軍付設の研究所へと足を向ける。
その部屋は、常と同じように灯りが煌々とついていて、私はそれを目にし、心ならずも微かに安堵する。
いつもと同じ顔で、私を出迎えたルーザーは、今夜は泊り込みなのだと言った。
このところ、ずっとそうなのだという。
白衣の弟。彼は一つの物事に熱中したら、それしか見えなくなる人間だった。
外は雪が降ってきたよ、と言ったら、初めて知ったという顔をしていた。
まあ、彼にしてみれば、雪は寒くて邪魔なだけの、冬の厄介事なのだ。
気にせず作業を続けるようにと告げてから私は、しばらく、顕微鏡を覗き込んでいる彼の、側に座っていた。
何をするでもなく、ただ座っている。
そしてルーザーは、そんな私を気にするでもなく、仕事に没頭している。
消毒薬の漂う白い部屋に、試験管や液体の乾いた音だけが響く。
白熱灯の光に、薄い色の金髪が輝いている。横顔。
私もルーザーも、何も喋らなかった。
これも、いつもと同じ沈黙だった。
この研究所だけは、一年を通して、何も変わらない。
外界と異なり、クリスマスの雰囲気を匂わせるものなど、一つも無かった。
そしてルーザーも変わらない。
このすぐ下の弟にとっては、一日とは一年の均等な1/365でしかなく、ただの無味無臭な時間の単位だった。
私が密かに恐れる、単調な世界が、このルーザーの世界そのもので。
私は、彼のそんな性格が、時にはもどかしくもあり、時には気楽でもあった。
今日は、後者の気分だった。
夜は、なかなか終わろうとはしない。
暗色の窓の外を眺めてから。私は、ついに、口を開いた。
『ルーザー。私は……間違っているか』
彼は、手を止める。その白皙の顔が、静かにこちらを振り向く。
私の目をじっと見つめる。
この弟にしかできない、名状しがたい表情で、微笑む。
『どうしたんです。兄さん。あなたらしくない』
そして、またその手が動き出す。作業を続ける。言う。
『あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ』
僕は、常に、そう信じています。
きっぱりと言い切られて、私は。
急に眠くなった、少しここで休んで行っていいかと、彼に尋ねてしまう。
『……? ええ……その長椅子でよろしければ。僕はいつも、そこで仮眠をとっているんですよ。肩掛けを被ってね。でも兄さん、お疲れのようですから、家に戻られた方が……戦地から御帰還になったばかりじゃあ、ありませんか』
『いや、いい。少し眠くなっただけだから。お前は気にせず、作業を続けてくれ。ちょっとの間だけだから』
『そうですか?』
『ああ。邪魔してすまないね。おやすみ』
『おやすみなさい、兄さん』
そうして私は、堅い長椅子で、目を瞑る。
微かな物音を聞いている。自分ではない人間が生み出す、空気の揺れる音を聞いている。
弟の香りがする肩掛けが、柔らかかった。
……また、雨が降っているのだろうか?
雪が再び雨に変わったのだろうか?
降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
無益な繰り返し。
最後には、何も残らない……。
混濁する意識は、いつしか雨音と混じり合う。
優しいようにも、囁くようにも、胸に滴り落ちていくのだった。
そう。
この年のクリスマスは、雨だった――
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マジックは目を見開いた。
世界が二重に揺れ、やがて一重になった。
自分の指先に力が戻り始める。額を指で押さえ、息をつく。磨り減りそうな心を、何とか支える。
混乱しそうになる自我同一性。
そうだ、これが、今の私だ。
整理しようと、彼は唇を噛む。
目の前で眠りに落ちかけているのは、過去の自分であって。
今の私は、こうして亡霊に手を引かれ、この部屋の隅に突っ立っている存在であるはずなのだ。
過去の影を、眺めているだけの存在。
「……」
過去の自分と同一化した意識を、やっとのことで引き戻したマジックは、傍らの亡霊を見遣った。
自分は、過去の自分の行動を追って、始終この存在に引き回されていたのだ。
相も変わらず、端然と佇んでいる亡霊。
目の前の、遥か昔の兄弟の姿を、じっと見つめている亡霊。
研究室の窓を叩く雨音が、少し強くなった。
長椅子の男が、僅かに身動きしている。
顕微鏡を覗く男は、一瞬手を止め、それからまた作業を続ける。同じ時間ばかりが、続く。
そんな光景。失われた光景。
「……お前は」
それを横目で見ながら、マジックは口を開く。
自分の側の存在に、語りかけようとする。
すると、亡霊はそんな自分の先を制するように、静かに呟いた。
「あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ」
「お前は……今でも、そう思っているのか……?」
亡霊は沈黙していた。
眩い輝き、幽玄の幻、緩やかな透明感を纏い、この世のものではない静かな威圧を醸し出している
そしてマジックの眼前で、再び亡霊は、その手の内の枝を振る。
瞬間。反転した世界は、凄惨な戦場へと姿を変える。
血まみれの岩場。壮絶な力の暴発の跡。大地に、気絶して横たわる弟、サービス。
そして、黒い目を見開いた形で、座り込む一つの死体。
――ジャンの死体。
その前で言い争う、過去のマジックとルーザー。
二人の声は、よく聞き取ることができない。
『……今すぐ……こ……から立ち去れ』
『どうして……ですか? サー……のに』
『……赤……は……憎む……一族……で争うこと……は避けろ……』
「いつだって」
呟く声。
「あなたは正しいんです」
その台詞と共に、マジックの視界を、黄金色の閃光が貫く。
亡霊の纏う、輝く上衣が四散して、光の粉になって撒き散らされる。
白い花びらが舞い散るかのように、闇を照らす。
その懐かしい面影が、目の前に姿を現す。
ルーザー。彼岸の彼方の、白い花。
最後に別れた時の、青年時代のあの日のままで。
「あなたは正しい。いつだって……僕が、この赤の男を殺めた時さえも、あなたが、それをサービスに隠そうとした時さえも……そして」
繊細なガラス細工のような表情。あの時のままの微笑みを浮かべ、言葉を続ける彼。
「この……僕の最後の時だって。僕はずっと、そう思い続けていた」
また、光がきらめいて、場面が移り変わる。
白い荒野だった。
雪が止め処なく、しんしんと降り続いていた。全てを、埋め尽くしているのだった。
この現在の亡霊が現れた時に。あの、窓を開け放った時に、最初に見た光景だった。
自分の手が、無人と変えた大地。
大量虐殺の跡を覆い隠す、美しい銀の雪。一面の雪。
そして、彷徨う青い光たち。
この目の前に立つ亡霊は、その光の群れから、現れた。
……自分はずっと。
この存在は、あの戦場で自分が殺した者なのだろうと……。
あの戦場。白い雪に包まれた戦場……。
「僕が命を落としたのも、こんな白く美しい戦場でのことでした」
懐かしい人が、懐かしい声で、懐かしい唇を開いて言う。
ルーザーが、静かに指で示した先。
そこには、冷たく凍りかけている一つの死体が、眠るように雪の中にいた。
その閉じられた瞼の縁や、整った鼻梁や、金色の睫の先が。
埋もれていく。
もはや熱を失い、雪を水に変えることのできない身体。
かつて人間であり、自分の弟として生きた身体。幼い頃から共にあった人。
天上から降り注ぐ、白いかけらたちは、その、同じくらいに白い肌を消し去っていく。
まるで、火葬の火の粉が舞い上がり、天まで焦がすように。
雪の粉は舞い上がり、美しい人の死を悼んでいるかのように見えた。
彼は、一人きりで死んだ。
こうして死んでいったのだ。
誰も、その死の瞬間に、手を握ってやることはなかった。
諦念だ。
ここにあるのは諦念だ、とマジックは、その光景を無言で見つめている。
あきらめの中の、それは孤独な死の姿だった。
「あなたは正しい。そして自ら死を選んだ僕は、間違っています。僕を引き止めたあなたが正しい。そして、最後は僕の死を許可したあなたは、」
マジックは、傍らの横顔を見遣る。
その顔は無表情で、彫像のようで、生気がなくて。そして依然として、美しかった。
「正しい」
そう、ルーザーは初めて自分を正面から見据えてきた。
雪の世界。
埋もれた死体はもはや、輪郭すらおぼろげに、そこには最初から何もなかったかのように、白に塗り固められ、消えていた。
まるで、彼がこの世に存在していたという事実さえも、消し去るように。
最後には、何も残らない……。
「……」
沈黙で答えるしかない自分。無人の荒野に、佇む二人。
全ての命を無に帰すために、雪は、降ることをやめようとはしなかった。
「先程、あなたは『お前は今でも、そう思っているのか』と僕に尋ねましたね」
「……ああ」
マジックは、自分がこの亡き弟と、自然に言葉を交わしていることに驚く。
もうすでに自分は、この幻の世界に、夢の世界に、取り込まれているのかもしれなかった。
亡霊の世界。そこに馴染んでいくということは、自分もまた命を失ったのではないだろうか。
人は死ぬ時、その人生の走馬灯を見るという。
もはや自分は、現実世界に戻ることは叶わないのではないだろうか、という疑問が胸を掠めたが。
それもまた、いいのかもしれないと。この時、マジックは思った。
それもまた諦念だった。
雪は降り続いていた。
「僕は……」
ルーザーの声は続く。弟の声は淡々として、それでいながら重く。
この雪のように、しんしんと大地に落ちていくのだ。
「僕は、今でもあなたは正しいのだと思っています。ただ……」
「ただ?」
マジックは、弟に比べて、自分の声は澄んではいない、と感じた。
弟が、彼の死を最終的に許可した自分を、恨んではいないことには確信があった。彼はそのような人間ではない。
ルーザーの死を、後悔し続けているのは、マジック自身の方だった。
そしてサービスに罪を負わせ、その一生を台無しにした。
明るい正直さが魅力だったハーレムに、真実に対して口を噤むかどうかの選択をさせた。
二つの命が消えて、二つの命が生まれた。
様々な現在世界のわだかまりが、全て、ルーザーの死へと結びついていくのだ。
現在世界の亡霊とでも言うべき存在が、まさにルーザーだった。
……いや、そう表現するよりも。
マジックは、その後悔に囚われる自分が、嫌だった。
「今の僕は、こう思っています。あなたは正しいけれど、ただ……惑う人でもあった……僕は生前……この言い方はおかしいですか? 生前、僕は若すぎて、未熟すぎて、自分自身の役目を果たすことで精一杯で。そんなあなたに気付くことができなかった」
透き通る表情。
朝に生まれ、夕に生涯を閉じる、蜻蛉の羽。
「惑う……」
「兄さん。あなたは、つまらないことで後悔しないで下さい。惑わないで下さい。囚われないで下さい。僕は、そんなために死んだのではない。僕はあなたにそれを告げるために、今日ここに来た」
また、光がきらめく。
場所が移った。
見慣れた部屋だった。落ち着いた色の家具、優しい香り。
――日本。
棚にきちんと並べられた人形やぬいぐるみ。
子供部屋。静かな寝息と、窓から雪灯りの差し込む薄闇。
小さなベッドだった。
小さな毛布がかけられていて。ゆっくりと、寝息に合わせて上下するのだった。
小さなふくらみ。
「……」
言葉が、出なかった。
マジックは、自分が、呆然としていることに気付いた。
見つめていることしかできなくて。
この光景を永遠に眺めていることができるのなら、元の世界に戻らなくてもいいとまで思った。
それ程までに、その存在が自分の全てだった。
傍らに立つルーザーが、その美しい顔をしかめたのが感じ取れた。
ベッドの脇には、可愛らしい細工のぶら下がった、クリスマスツリーがあった。
そしてゆるやかに弧を描くヘッドボードの端に。
ちょこんと吊るされている、靴下。毛布から覗いている黒い髪。
クリスマス・イヴの夜。
……微かに気配がする。
靴音。
かちゃりと、ノブが回って。そっと、子供部屋の扉が開く。
マジックは、振り返らなかった。
そうせずとも、それが誰かはわかっていた。
過去の自分が、現れたのだ。
20代も終りの頃だろうか。
若々しい顔は、たった今迄あったはずの戦地の名残で、未だ険しい。
その赤い軍服の肩先に、雪の欠片がついていた。急いで戻って来たのだろう、微かに息が乱れている。
この頃は……長期遠征が重なった時期でもあった。
過去の自分は、白い息を一つ吐くと、それでも静かにベッド脇に立った。
子供を見下ろした。
その、見つめる瞳。子供に触れずに、ただ見つめるだけの瞳。
つい先刻まで、その同じ目で人を殺してきたのだろうに。
マジックは、その過去の自分の目を、眺めることができなかった。
思わず、顔を逸らす。
すると、同じように顔を背けたルーザーと、視線が合った。
「どうです、兄さん。ひどいものです」
亡霊が呟く。
「あなたは、こんなちっぽけな場所で、立ち止まっていい人間ではないのに」
マジックは、ただ黙っていた。
しばらくそのままの時間が過ぎて。
過去の自分は、子供を見つめたまま、立ち尽くしていたが、ふと我に返ったように、踵を返そうとした。
これから、クリスマスのプレゼントでも持って来ようというのだろう。
すると毛布の下から、小さな手が伸びてきて、彼の手を、ぎゅっと握った。
『……っ!』
ぱちん、と軽く音がして。過去の自分は、咄嗟にその手を振り解いてしまう。
その動作は荒々しく、子供の手は叩き落とされたようにも見えた。
『……?』
毛布が捲れた。幼い顔が、現れる。
その黒い瞳が、不思議そうな顔で、その手を拒否した人間を見ている。
『ご、ごめんね、シンちゃん……起きちゃったんだね』
過去の自分は、自らの反射的な行動に、驚いているようだった。明らかに動揺していた。
『痛かった? パパ、びっくりしちゃって……』
子供に向かって、必死に説明しようとしている。
『ごめん、パパの手、汚いから』
彼は、人を殺したままの手で、子供に触れることが嫌だった。
いつもは肌が剥ける程に洗ってくるのだが、この日はそんな時間はなかったのだ。
そのままの手だった。
『……どうして、パパ』
幼い声が響く。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
そう黒い瞳が言って、再び、過去の自分の手を取る。小さな手で、しっかりと握った。
ぱあっと光が零れるように笑う。
『シンタローが、ねてるあいだに……サンタさん、きたんだぁ……』
そして、そう嬉しそうに子供は言っているから。
過去の自分は、手を握られたことに加えて、サンタクロースの正体まで知られてしまったのかと。
どうすればいいのかわからず、ただ戸惑っている。
『パパ、くつしたから、でちゃったの?』
『……? なぁに、シンちゃん、靴下って。パパが出るって、どういう意味?』
無邪気な声が、愛しかった。
『だってシンタローはね。サンタさんに、プレゼントは、パパがいいって。こころのなかで、おねがい、してたんだよ』
『……』
『サンタさん、おねがい、きいてくれたんだぁ!』
大人と子供の会話は続いている。子供部屋での、過去の出来事。
小さなクリスマス。
それを見つめているマジックに、ルーザーの声が聞こえる。
「兄さん。あなたは惑わされすぎる……」
瞬間、世界は揺らめいた。
具体的な光景は消え、裁断され、紡ぎ合わされ、七色に輝き始める。
異空間の中に、マジックはいた。
いつの間にか周囲には、まるで回転木馬から眺める景色のように、自分とシンタローが過ごした日々が、流れていく。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。
くるくる変わる黒髪の子供の表情が、うねりとなって時間に漂う。
シンタロー。
彼は、陶酔するように、名前を呼んだ。
24年の間、私が心に描き続けた人。
私が生涯の間で、最も長く側にいた人。
シンタロー。
マジックは、その時の奔流の中で、それに見とれるしかないのだ。
だって、シンタロー。
お前は、最初から、私に笑いかけてくれたじゃないか。
その顔は、昔は、お前が生まれる前は、決して心から笑いかけてはくれなかったのに。
……違う。
そんなの、関係ないよ。
顔なんか、どうでもいいんだ。
違うんだよ。
お前が好きなんだよ。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。一緒に過ごした何でもない日々。
たくさん喧嘩もしたよ。
意地悪もしたし、優しくしたり、されなかったりしたよ。
お前のこと一つで、私は幸せになったり、不幸になったりする。
その繰り返しさ。
でも、最後はお前、いつも笑ってくれたから。
最後はいつも、私は幸せになる。
何も残らないなんてこと、絶対になかった。
どんなに繰り返したって、いつも最後には幸せが残る。
何でもないつまらないことが、お前といると、幸せに変わるんだ。
「シンタロー……」
マジックの目の前で、歳月は過ぎて行く。
幼い顔は次第に大人び、少年から青年の顔になり、それでも愛しい同じ顔だった。
シンちゃん、大きくならないで、なんて。
そんなこと、さっき、私は言ってしまったけれど。
嘘だよ。
どんな姿だって、お前はお前。私の可愛いシンタローだよ。
大好きさ。私はお前を愛してる。
でも……お前は……。
流れる日々は巡り、あの時へと近付く。
刻々と。あの時の、クリスマスへ。
血の……。
シンタロー。
お前が、私のことを、大好きなんて、言うから。
私は、その幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとした。
青の血のこと、化け物じみた特殊能力のこと、私がやっていること……全て、隠しておきたかったんだ。
願望の空中楼閣さ。
愛の幻。それが崩れただけなんだよ。
ただ、来るべき時が来ただけなんだ。自業自得だよ。
いつその日が来るんだろうと、ずっと思っていた。
いつ、この子は、私の手が汚れていることに、気付くのだろうと……。
もう、手を握ってくれなくなるのだろうと……。
「その日が、来たんですよね」
冷たく響く声に、マジックは忘我の淵から引き戻される。
傍らに立つルーザーは彼を見つめ、鬱蒼として微笑んだ。
その金髪は、眩い光に輝いていた。
「あなたは、惑いから醒めることになる。兄さんは、あんな出来損ないの子供に囚われてはいけません」
「何を……」
「結局、こんな生活や関係は、幻想だったということが、すぐに判明したんですよね。覇王を目指すあなたの、足枷にすぎない」
「……お前は……」
「おわかりでしょう。これが僕の見せる、最後のクリスマスです。完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」
鮮血のクリスマス。
今、マジックは、血の海の中に立っている。
この日は12月24日、聖夜だった。
白い部屋は赤く染まっていた。壁、窓、床。
そこかしこに、こびり付いているのは、人の肉片だった。
絶大な力が放出された跡。禍々しい青い力。
その鮮血の中で、赤ん坊が産声をあげていた。
「完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」
ルーザーが、また耳元で囁く。
「あの出来損ないとは違って、金髪碧眼、両眼秘石眼。僕が追い求めた、最良の青の血族。何が御不満なんですか? 何が悪いというんです?」
シンタローとの幻想を破り、この子は生まれることによって、自分に現実を突き付けてきたのだった。
青の呪縛から、逃避しようとしていた自分に。
青そのものを体現する子、コタロー。
だが、この子は。
「この子は……コタローは……」
マジックは、しなだれかかってくる弟を、弱った瞳で見つめた。
言う。
「だが……この子の精神は、お前そのものだった……」
世界が、真っ赤に染まった。
マジックの目の前から、ルーザーの姿が消える。
凄惨な白い部屋も消える。赤ん坊の姿も消える。
全ての風景が捨象された無の世界。
ただ、赤ん坊の泣き声だけが響き渡っている。
その中で一人、マジックは思う。
コタロー。
あの子に出会った時、私はこう感じた。
私は、いつか、この子に殺される。
そして、シンタローも、この子に殺される。
このルーザーと精神を同一にする子供にとって、それはとても簡単なことであるはずだった。
善悪の区別がつかない上に、暴発する最大級の力を持つ、危険な子。
仕方のないことだったんだよ。だから、私はコタローを閉じ込めて。
……いや。これも逃避か……?
私は、ただ、あの子の側にはいたくはないから。
コタローは、ルーザーと似ていて、そして自分とも似ていて……。
まるで、暴発していく自分自身を見ているようで……
だから私は……ルーザーの死の時と同じように……。
正面から受け止めることをせずに……。
……。
止め処ない思考は、いつしか鐘の音となり、空間を揺さぶり出すのだった。
鐘が……鳴る……。
赤ん坊の悲痛な泣き声と混じり合い、あの鐘が鳴る……。
「……僕の時間は……終わりかけています……」
何処からか亡き弟の声がする。
「さようなら、兄さん。僕の時間は終わった……これからは……目を覚まして……その優秀な子供と正しい道を……」
「待て、ルーザー!」
マジックは叫んだ。
自分を残して、勝手に自己完結して、去ろうとしていく弟が、許せなかった。
繋いできた手の空虚感が、寂しかった。
いつだって、お前はそうだ。いつだって、責任は私に。
面倒臭いことが大嫌いで、何でも私に押し付ける。
でも、私は、ずっと……。
幼い頃は、一緒に、弟たちの面倒をみたいと思い続けてきて……。
長じてからだって。
一緒に、お前と一緒に、やりたいことが、たくさんあった!
優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
この機械のような思考をする弟が、こだわってきたもの。
私は、お前を失うまで。それはそういうものなのだろうと、思ってきた。
一族を支えるためには、歪んだ力であろうと、間違った力であろうと、利用して、強くあるべきだと考えてきた。
そのためには、誰が死のうと、悲しもうと、傷付こうと。
仕方のないことだと、諦めていた。
しかし、ある時、気付いたんだ。
優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
それは、幸せと、関係があるのか……?
私が今迄、選んできた道。その一つ一つ。
精神に失調をきたし、使い物にならなくなったお前を切り捨てたこと。
お前を、あの冷たい雪の戦場で、たった一人、寂しく死なせたこと。
それでも、お前は、私が正しいと言う。
そのまま進めと言う。
一言でいい。
お前の口から、私は間違っていたと言って。
ルーザー。
「さようなら、兄さん……亡霊としてですが……お会いできて、嬉しかった」
私を恨んでいると、言って。
「ルーザー……!」
そう叫んだ時、また大きく鐘の音が響き渡る。
世界が何重にも滲んで、その輪郭が波のように揺らめいていく。
黄金色の淡いもや。目の眩む光。
一瞬だけの強烈な浮遊感。折り返した後の、果てのない沈落感。
どこまでも、どこまでも。
……落ちていく……。
そして、マジックは再び、静かな寝室に身を横たえている自分に、気が付いた。
やっぱり、何もない部屋だと、感じた。
そして、来た時と同じように、窓から外に出る。
雪が静かに降り積もり、夜を銀色に輝かせていた。歩くと、さくさくという音がした。
新雪で、私の足跡の他は、何もない。その美しさと快感と、微かな後悔。
この足跡も、すぐに埋められていくのだろう。
手の平を差し出すと、白い粉はあとからあとから私に触れてくる。
そして溶けていく。
私の手には、透明な雫ばかりが、残っていく。滴り落ちる。
結局、雪も、雨と同じ。
だが、雨の方が冷たいと感じるのは、どうしてだろう。
夜は深みを増していたが、朝までは遥か遠かった。
白い雪の中。立ち尽くしたまま、漠然と。
早く、朝が来ないだろうかと、私は思う。
いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。
それから私は、軍付設の研究所へと足を向ける。
その部屋は、常と同じように灯りが煌々とついていて、私はそれを目にし、心ならずも微かに安堵する。
いつもと同じ顔で、私を出迎えたルーザーは、今夜は泊り込みなのだと言った。
このところ、ずっとそうなのだという。
白衣の弟。彼は一つの物事に熱中したら、それしか見えなくなる人間だった。
外は雪が降ってきたよ、と言ったら、初めて知ったという顔をしていた。
まあ、彼にしてみれば、雪は寒くて邪魔なだけの、冬の厄介事なのだ。
気にせず作業を続けるようにと告げてから私は、しばらく、顕微鏡を覗き込んでいる彼の、側に座っていた。
何をするでもなく、ただ座っている。
そしてルーザーは、そんな私を気にするでもなく、仕事に没頭している。
消毒薬の漂う白い部屋に、試験管や液体の乾いた音だけが響く。
白熱灯の光に、薄い色の金髪が輝いている。横顔。
私もルーザーも、何も喋らなかった。
これも、いつもと同じ沈黙だった。
この研究所だけは、一年を通して、何も変わらない。
外界と異なり、クリスマスの雰囲気を匂わせるものなど、一つも無かった。
そしてルーザーも変わらない。
このすぐ下の弟にとっては、一日とは一年の均等な1/365でしかなく、ただの無味無臭な時間の単位だった。
私が密かに恐れる、単調な世界が、このルーザーの世界そのもので。
私は、彼のそんな性格が、時にはもどかしくもあり、時には気楽でもあった。
今日は、後者の気分だった。
夜は、なかなか終わろうとはしない。
暗色の窓の外を眺めてから。私は、ついに、口を開いた。
『ルーザー。私は……間違っているか』
彼は、手を止める。その白皙の顔が、静かにこちらを振り向く。
私の目をじっと見つめる。
この弟にしかできない、名状しがたい表情で、微笑む。
『どうしたんです。兄さん。あなたらしくない』
そして、またその手が動き出す。作業を続ける。言う。
『あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ』
僕は、常に、そう信じています。
きっぱりと言い切られて、私は。
急に眠くなった、少しここで休んで行っていいかと、彼に尋ねてしまう。
『……? ええ……その長椅子でよろしければ。僕はいつも、そこで仮眠をとっているんですよ。肩掛けを被ってね。でも兄さん、お疲れのようですから、家に戻られた方が……戦地から御帰還になったばかりじゃあ、ありませんか』
『いや、いい。少し眠くなっただけだから。お前は気にせず、作業を続けてくれ。ちょっとの間だけだから』
『そうですか?』
『ああ。邪魔してすまないね。おやすみ』
『おやすみなさい、兄さん』
そうして私は、堅い長椅子で、目を瞑る。
微かな物音を聞いている。自分ではない人間が生み出す、空気の揺れる音を聞いている。
弟の香りがする肩掛けが、柔らかかった。
……また、雨が降っているのだろうか?
雪が再び雨に変わったのだろうか?
降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
無益な繰り返し。
最後には、何も残らない……。
混濁する意識は、いつしか雨音と混じり合う。
優しいようにも、囁くようにも、胸に滴り落ちていくのだった。
そう。
この年のクリスマスは、雨だった――
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マジックは目を見開いた。
世界が二重に揺れ、やがて一重になった。
自分の指先に力が戻り始める。額を指で押さえ、息をつく。磨り減りそうな心を、何とか支える。
混乱しそうになる自我同一性。
そうだ、これが、今の私だ。
整理しようと、彼は唇を噛む。
目の前で眠りに落ちかけているのは、過去の自分であって。
今の私は、こうして亡霊に手を引かれ、この部屋の隅に突っ立っている存在であるはずなのだ。
過去の影を、眺めているだけの存在。
「……」
過去の自分と同一化した意識を、やっとのことで引き戻したマジックは、傍らの亡霊を見遣った。
自分は、過去の自分の行動を追って、始終この存在に引き回されていたのだ。
相も変わらず、端然と佇んでいる亡霊。
目の前の、遥か昔の兄弟の姿を、じっと見つめている亡霊。
研究室の窓を叩く雨音が、少し強くなった。
長椅子の男が、僅かに身動きしている。
顕微鏡を覗く男は、一瞬手を止め、それからまた作業を続ける。同じ時間ばかりが、続く。
そんな光景。失われた光景。
「……お前は」
それを横目で見ながら、マジックは口を開く。
自分の側の存在に、語りかけようとする。
すると、亡霊はそんな自分の先を制するように、静かに呟いた。
「あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ」
「お前は……今でも、そう思っているのか……?」
亡霊は沈黙していた。
眩い輝き、幽玄の幻、緩やかな透明感を纏い、この世のものではない静かな威圧を醸し出している
そしてマジックの眼前で、再び亡霊は、その手の内の枝を振る。
瞬間。反転した世界は、凄惨な戦場へと姿を変える。
血まみれの岩場。壮絶な力の暴発の跡。大地に、気絶して横たわる弟、サービス。
そして、黒い目を見開いた形で、座り込む一つの死体。
――ジャンの死体。
その前で言い争う、過去のマジックとルーザー。
二人の声は、よく聞き取ることができない。
『……今すぐ……こ……から立ち去れ』
『どうして……ですか? サー……のに』
『……赤……は……憎む……一族……で争うこと……は避けろ……』
「いつだって」
呟く声。
「あなたは正しいんです」
その台詞と共に、マジックの視界を、黄金色の閃光が貫く。
亡霊の纏う、輝く上衣が四散して、光の粉になって撒き散らされる。
白い花びらが舞い散るかのように、闇を照らす。
その懐かしい面影が、目の前に姿を現す。
ルーザー。彼岸の彼方の、白い花。
最後に別れた時の、青年時代のあの日のままで。
「あなたは正しい。いつだって……僕が、この赤の男を殺めた時さえも、あなたが、それをサービスに隠そうとした時さえも……そして」
繊細なガラス細工のような表情。あの時のままの微笑みを浮かべ、言葉を続ける彼。
「この……僕の最後の時だって。僕はずっと、そう思い続けていた」
また、光がきらめいて、場面が移り変わる。
白い荒野だった。
雪が止め処なく、しんしんと降り続いていた。全てを、埋め尽くしているのだった。
この現在の亡霊が現れた時に。あの、窓を開け放った時に、最初に見た光景だった。
自分の手が、無人と変えた大地。
大量虐殺の跡を覆い隠す、美しい銀の雪。一面の雪。
そして、彷徨う青い光たち。
この目の前に立つ亡霊は、その光の群れから、現れた。
……自分はずっと。
この存在は、あの戦場で自分が殺した者なのだろうと……。
あの戦場。白い雪に包まれた戦場……。
「僕が命を落としたのも、こんな白く美しい戦場でのことでした」
懐かしい人が、懐かしい声で、懐かしい唇を開いて言う。
ルーザーが、静かに指で示した先。
そこには、冷たく凍りかけている一つの死体が、眠るように雪の中にいた。
その閉じられた瞼の縁や、整った鼻梁や、金色の睫の先が。
埋もれていく。
もはや熱を失い、雪を水に変えることのできない身体。
かつて人間であり、自分の弟として生きた身体。幼い頃から共にあった人。
天上から降り注ぐ、白いかけらたちは、その、同じくらいに白い肌を消し去っていく。
まるで、火葬の火の粉が舞い上がり、天まで焦がすように。
雪の粉は舞い上がり、美しい人の死を悼んでいるかのように見えた。
彼は、一人きりで死んだ。
こうして死んでいったのだ。
誰も、その死の瞬間に、手を握ってやることはなかった。
諦念だ。
ここにあるのは諦念だ、とマジックは、その光景を無言で見つめている。
あきらめの中の、それは孤独な死の姿だった。
「あなたは正しい。そして自ら死を選んだ僕は、間違っています。僕を引き止めたあなたが正しい。そして、最後は僕の死を許可したあなたは、」
マジックは、傍らの横顔を見遣る。
その顔は無表情で、彫像のようで、生気がなくて。そして依然として、美しかった。
「正しい」
そう、ルーザーは初めて自分を正面から見据えてきた。
雪の世界。
埋もれた死体はもはや、輪郭すらおぼろげに、そこには最初から何もなかったかのように、白に塗り固められ、消えていた。
まるで、彼がこの世に存在していたという事実さえも、消し去るように。
最後には、何も残らない……。
「……」
沈黙で答えるしかない自分。無人の荒野に、佇む二人。
全ての命を無に帰すために、雪は、降ることをやめようとはしなかった。
「先程、あなたは『お前は今でも、そう思っているのか』と僕に尋ねましたね」
「……ああ」
マジックは、自分がこの亡き弟と、自然に言葉を交わしていることに驚く。
もうすでに自分は、この幻の世界に、夢の世界に、取り込まれているのかもしれなかった。
亡霊の世界。そこに馴染んでいくということは、自分もまた命を失ったのではないだろうか。
人は死ぬ時、その人生の走馬灯を見るという。
もはや自分は、現実世界に戻ることは叶わないのではないだろうか、という疑問が胸を掠めたが。
それもまた、いいのかもしれないと。この時、マジックは思った。
それもまた諦念だった。
雪は降り続いていた。
「僕は……」
ルーザーの声は続く。弟の声は淡々として、それでいながら重く。
この雪のように、しんしんと大地に落ちていくのだ。
「僕は、今でもあなたは正しいのだと思っています。ただ……」
「ただ?」
マジックは、弟に比べて、自分の声は澄んではいない、と感じた。
弟が、彼の死を最終的に許可した自分を、恨んではいないことには確信があった。彼はそのような人間ではない。
ルーザーの死を、後悔し続けているのは、マジック自身の方だった。
そしてサービスに罪を負わせ、その一生を台無しにした。
明るい正直さが魅力だったハーレムに、真実に対して口を噤むかどうかの選択をさせた。
二つの命が消えて、二つの命が生まれた。
様々な現在世界のわだかまりが、全て、ルーザーの死へと結びついていくのだ。
現在世界の亡霊とでも言うべき存在が、まさにルーザーだった。
……いや、そう表現するよりも。
マジックは、その後悔に囚われる自分が、嫌だった。
「今の僕は、こう思っています。あなたは正しいけれど、ただ……惑う人でもあった……僕は生前……この言い方はおかしいですか? 生前、僕は若すぎて、未熟すぎて、自分自身の役目を果たすことで精一杯で。そんなあなたに気付くことができなかった」
透き通る表情。
朝に生まれ、夕に生涯を閉じる、蜻蛉の羽。
「惑う……」
「兄さん。あなたは、つまらないことで後悔しないで下さい。惑わないで下さい。囚われないで下さい。僕は、そんなために死んだのではない。僕はあなたにそれを告げるために、今日ここに来た」
また、光がきらめく。
場所が移った。
見慣れた部屋だった。落ち着いた色の家具、優しい香り。
――日本。
棚にきちんと並べられた人形やぬいぐるみ。
子供部屋。静かな寝息と、窓から雪灯りの差し込む薄闇。
小さなベッドだった。
小さな毛布がかけられていて。ゆっくりと、寝息に合わせて上下するのだった。
小さなふくらみ。
「……」
言葉が、出なかった。
マジックは、自分が、呆然としていることに気付いた。
見つめていることしかできなくて。
この光景を永遠に眺めていることができるのなら、元の世界に戻らなくてもいいとまで思った。
それ程までに、その存在が自分の全てだった。
傍らに立つルーザーが、その美しい顔をしかめたのが感じ取れた。
ベッドの脇には、可愛らしい細工のぶら下がった、クリスマスツリーがあった。
そしてゆるやかに弧を描くヘッドボードの端に。
ちょこんと吊るされている、靴下。毛布から覗いている黒い髪。
クリスマス・イヴの夜。
……微かに気配がする。
靴音。
かちゃりと、ノブが回って。そっと、子供部屋の扉が開く。
マジックは、振り返らなかった。
そうせずとも、それが誰かはわかっていた。
過去の自分が、現れたのだ。
20代も終りの頃だろうか。
若々しい顔は、たった今迄あったはずの戦地の名残で、未だ険しい。
その赤い軍服の肩先に、雪の欠片がついていた。急いで戻って来たのだろう、微かに息が乱れている。
この頃は……長期遠征が重なった時期でもあった。
過去の自分は、白い息を一つ吐くと、それでも静かにベッド脇に立った。
子供を見下ろした。
その、見つめる瞳。子供に触れずに、ただ見つめるだけの瞳。
つい先刻まで、その同じ目で人を殺してきたのだろうに。
マジックは、その過去の自分の目を、眺めることができなかった。
思わず、顔を逸らす。
すると、同じように顔を背けたルーザーと、視線が合った。
「どうです、兄さん。ひどいものです」
亡霊が呟く。
「あなたは、こんなちっぽけな場所で、立ち止まっていい人間ではないのに」
マジックは、ただ黙っていた。
しばらくそのままの時間が過ぎて。
過去の自分は、子供を見つめたまま、立ち尽くしていたが、ふと我に返ったように、踵を返そうとした。
これから、クリスマスのプレゼントでも持って来ようというのだろう。
すると毛布の下から、小さな手が伸びてきて、彼の手を、ぎゅっと握った。
『……っ!』
ぱちん、と軽く音がして。過去の自分は、咄嗟にその手を振り解いてしまう。
その動作は荒々しく、子供の手は叩き落とされたようにも見えた。
『……?』
毛布が捲れた。幼い顔が、現れる。
その黒い瞳が、不思議そうな顔で、その手を拒否した人間を見ている。
『ご、ごめんね、シンちゃん……起きちゃったんだね』
過去の自分は、自らの反射的な行動に、驚いているようだった。明らかに動揺していた。
『痛かった? パパ、びっくりしちゃって……』
子供に向かって、必死に説明しようとしている。
『ごめん、パパの手、汚いから』
彼は、人を殺したままの手で、子供に触れることが嫌だった。
いつもは肌が剥ける程に洗ってくるのだが、この日はそんな時間はなかったのだ。
そのままの手だった。
『……どうして、パパ』
幼い声が響く。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
そう黒い瞳が言って、再び、過去の自分の手を取る。小さな手で、しっかりと握った。
ぱあっと光が零れるように笑う。
『シンタローが、ねてるあいだに……サンタさん、きたんだぁ……』
そして、そう嬉しそうに子供は言っているから。
過去の自分は、手を握られたことに加えて、サンタクロースの正体まで知られてしまったのかと。
どうすればいいのかわからず、ただ戸惑っている。
『パパ、くつしたから、でちゃったの?』
『……? なぁに、シンちゃん、靴下って。パパが出るって、どういう意味?』
無邪気な声が、愛しかった。
『だってシンタローはね。サンタさんに、プレゼントは、パパがいいって。こころのなかで、おねがい、してたんだよ』
『……』
『サンタさん、おねがい、きいてくれたんだぁ!』
大人と子供の会話は続いている。子供部屋での、過去の出来事。
小さなクリスマス。
それを見つめているマジックに、ルーザーの声が聞こえる。
「兄さん。あなたは惑わされすぎる……」
瞬間、世界は揺らめいた。
具体的な光景は消え、裁断され、紡ぎ合わされ、七色に輝き始める。
異空間の中に、マジックはいた。
いつの間にか周囲には、まるで回転木馬から眺める景色のように、自分とシンタローが過ごした日々が、流れていく。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。
くるくる変わる黒髪の子供の表情が、うねりとなって時間に漂う。
シンタロー。
彼は、陶酔するように、名前を呼んだ。
24年の間、私が心に描き続けた人。
私が生涯の間で、最も長く側にいた人。
シンタロー。
マジックは、その時の奔流の中で、それに見とれるしかないのだ。
だって、シンタロー。
お前は、最初から、私に笑いかけてくれたじゃないか。
その顔は、昔は、お前が生まれる前は、決して心から笑いかけてはくれなかったのに。
……違う。
そんなの、関係ないよ。
顔なんか、どうでもいいんだ。
違うんだよ。
お前が好きなんだよ。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。一緒に過ごした何でもない日々。
たくさん喧嘩もしたよ。
意地悪もしたし、優しくしたり、されなかったりしたよ。
お前のこと一つで、私は幸せになったり、不幸になったりする。
その繰り返しさ。
でも、最後はお前、いつも笑ってくれたから。
最後はいつも、私は幸せになる。
何も残らないなんてこと、絶対になかった。
どんなに繰り返したって、いつも最後には幸せが残る。
何でもないつまらないことが、お前といると、幸せに変わるんだ。
「シンタロー……」
マジックの目の前で、歳月は過ぎて行く。
幼い顔は次第に大人び、少年から青年の顔になり、それでも愛しい同じ顔だった。
シンちゃん、大きくならないで、なんて。
そんなこと、さっき、私は言ってしまったけれど。
嘘だよ。
どんな姿だって、お前はお前。私の可愛いシンタローだよ。
大好きさ。私はお前を愛してる。
でも……お前は……。
流れる日々は巡り、あの時へと近付く。
刻々と。あの時の、クリスマスへ。
血の……。
シンタロー。
お前が、私のことを、大好きなんて、言うから。
私は、その幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとした。
青の血のこと、化け物じみた特殊能力のこと、私がやっていること……全て、隠しておきたかったんだ。
願望の空中楼閣さ。
愛の幻。それが崩れただけなんだよ。
ただ、来るべき時が来ただけなんだ。自業自得だよ。
いつその日が来るんだろうと、ずっと思っていた。
いつ、この子は、私の手が汚れていることに、気付くのだろうと……。
もう、手を握ってくれなくなるのだろうと……。
「その日が、来たんですよね」
冷たく響く声に、マジックは忘我の淵から引き戻される。
傍らに立つルーザーは彼を見つめ、鬱蒼として微笑んだ。
その金髪は、眩い光に輝いていた。
「あなたは、惑いから醒めることになる。兄さんは、あんな出来損ないの子供に囚われてはいけません」
「何を……」
「結局、こんな生活や関係は、幻想だったということが、すぐに判明したんですよね。覇王を目指すあなたの、足枷にすぎない」
「……お前は……」
「おわかりでしょう。これが僕の見せる、最後のクリスマスです。完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」
鮮血のクリスマス。
今、マジックは、血の海の中に立っている。
この日は12月24日、聖夜だった。
白い部屋は赤く染まっていた。壁、窓、床。
そこかしこに、こびり付いているのは、人の肉片だった。
絶大な力が放出された跡。禍々しい青い力。
その鮮血の中で、赤ん坊が産声をあげていた。
「完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」
ルーザーが、また耳元で囁く。
「あの出来損ないとは違って、金髪碧眼、両眼秘石眼。僕が追い求めた、最良の青の血族。何が御不満なんですか? 何が悪いというんです?」
シンタローとの幻想を破り、この子は生まれることによって、自分に現実を突き付けてきたのだった。
青の呪縛から、逃避しようとしていた自分に。
青そのものを体現する子、コタロー。
だが、この子は。
「この子は……コタローは……」
マジックは、しなだれかかってくる弟を、弱った瞳で見つめた。
言う。
「だが……この子の精神は、お前そのものだった……」
世界が、真っ赤に染まった。
マジックの目の前から、ルーザーの姿が消える。
凄惨な白い部屋も消える。赤ん坊の姿も消える。
全ての風景が捨象された無の世界。
ただ、赤ん坊の泣き声だけが響き渡っている。
その中で一人、マジックは思う。
コタロー。
あの子に出会った時、私はこう感じた。
私は、いつか、この子に殺される。
そして、シンタローも、この子に殺される。
このルーザーと精神を同一にする子供にとって、それはとても簡単なことであるはずだった。
善悪の区別がつかない上に、暴発する最大級の力を持つ、危険な子。
仕方のないことだったんだよ。だから、私はコタローを閉じ込めて。
……いや。これも逃避か……?
私は、ただ、あの子の側にはいたくはないから。
コタローは、ルーザーと似ていて、そして自分とも似ていて……。
まるで、暴発していく自分自身を見ているようで……
だから私は……ルーザーの死の時と同じように……。
正面から受け止めることをせずに……。
……。
止め処ない思考は、いつしか鐘の音となり、空間を揺さぶり出すのだった。
鐘が……鳴る……。
赤ん坊の悲痛な泣き声と混じり合い、あの鐘が鳴る……。
「……僕の時間は……終わりかけています……」
何処からか亡き弟の声がする。
「さようなら、兄さん。僕の時間は終わった……これからは……目を覚まして……その優秀な子供と正しい道を……」
「待て、ルーザー!」
マジックは叫んだ。
自分を残して、勝手に自己完結して、去ろうとしていく弟が、許せなかった。
繋いできた手の空虚感が、寂しかった。
いつだって、お前はそうだ。いつだって、責任は私に。
面倒臭いことが大嫌いで、何でも私に押し付ける。
でも、私は、ずっと……。
幼い頃は、一緒に、弟たちの面倒をみたいと思い続けてきて……。
長じてからだって。
一緒に、お前と一緒に、やりたいことが、たくさんあった!
優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
この機械のような思考をする弟が、こだわってきたもの。
私は、お前を失うまで。それはそういうものなのだろうと、思ってきた。
一族を支えるためには、歪んだ力であろうと、間違った力であろうと、利用して、強くあるべきだと考えてきた。
そのためには、誰が死のうと、悲しもうと、傷付こうと。
仕方のないことだと、諦めていた。
しかし、ある時、気付いたんだ。
優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
それは、幸せと、関係があるのか……?
私が今迄、選んできた道。その一つ一つ。
精神に失調をきたし、使い物にならなくなったお前を切り捨てたこと。
お前を、あの冷たい雪の戦場で、たった一人、寂しく死なせたこと。
それでも、お前は、私が正しいと言う。
そのまま進めと言う。
一言でいい。
お前の口から、私は間違っていたと言って。
ルーザー。
「さようなら、兄さん……亡霊としてですが……お会いできて、嬉しかった」
私を恨んでいると、言って。
「ルーザー……!」
そう叫んだ時、また大きく鐘の音が響き渡る。
世界が何重にも滲んで、その輪郭が波のように揺らめいていく。
黄金色の淡いもや。目の眩む光。
一瞬だけの強烈な浮遊感。折り返した後の、果てのない沈落感。
どこまでも、どこまでも。
……落ちていく……。
そして、マジックは再び、静かな寝室に身を横たえている自分に、気が付いた。