ガンマ団本部上階にある、一族専用のバルコニーは今日も暖かい日差しを浴び、お茶を楽しむ午後のティータイムに優雅な一時を演出していた。
そんな気分を害する驚異的変なことを、シンタローの父親ことガンマ団総帥のマジックは言い出してきたのだ。
「シンちゃん、パパと結婚しないかい?」
「はっ!?」
あまりにもありえない事だったので、シンタローは持っていた胡桃入りスコーンを皿のうえに落としてしまった。
「ほら、パパとシンちゃんは毎日愛し合っているだろ?身も心も一つな二人だ…」
「眼魔砲ッ!!」
常識など皆無なマジックの発した言葉に、シンタローは顔を真っ赤に染めて眼魔砲を撃った。
「…一々、んなこと口に出して言うなーッ!!くそ親父ッ!!」
「ハハハ、照れちゃって可愛いッ!!」
悔しいぐらい無傷で帰ってきた、マジック総帥。
さすがと言うべきか、何とも難しい人である。
「パパは独身、シンちゃんも独身。ほらね、似合いの夫婦だよッ!!」
にこにこ笑いながら言うマジックに、シンタローは大きくため息をついた。
「親子で結婚はできないだろ。ばか親父」
「そんなーッ!!せっかくシンちゃんのためを思って、パパが言っているのにーッ!!馬鹿だなんてひどいよォッ!!!」
「どこが、俺のためじゃーッ!!!!」
いい年こいて泣きだす、マジック総帥。
それにキレるシンタロー。
「俺のためだったら、そのふざけた発言を取り消せぇッ!!!!」
「パパ、ふざけてなんかいないよッ!!!」
「その態度がふざけているんだよッ!!」
ドォン
遠くから聞こえる恒例となってしまった音に、秘書室の二人は溜息を吐いた。
「また、あのお二人は派手に親子喧嘩して…、バルコニーはこれで何度目の修復になるのだろう…」
ティラミスがガンマ団本部名物ともなった、親子喧嘩の爆発音にため息を吐きながら、引き出しから電卓を取り出した。
手早く、数字を打ち込む。
「今月は全壊が5回、半壊が16回…だな。…はぁ」
続いてチョコレートロマンスが、机のうえに置いてある電話の受話器を取り、ため息を吐きながら何度も押して覚えてしまったボタンを手早く押す。
「今回は…、半壊ですんでほしいな。できれば、総帥・だ・け・が・犠牲であってほしい」
「はは、いえてる…。あ、もしもしガンマ団秘書課チョコレートロマンスと申します。お世話になっております。…ええ、はい…そうなんです。申し訳ないのですが、至急お願いしたいのですが……はい、ありがとうございます。はい、はい…今回もお願いします。失礼いたします」
相手が電話を切る音を確認したチョコレートロマンスは、フックを押しそっと受話器を置く。
その音と同時に、二人揃って大きくため息を吐いた。
そんなやり取りがあったことなど、微塵の欠けらも知らない原因の二人は、バルコニーから姿を消していた。
どこにいるかといえば、二人はマジックの寝室にいた。
「ん…っ」
二人は深く口付けあっているのだが、シンタローが上でマジックが下と、ちょっといつもとは違う位置。
「シンちゃん…何か、積極的だね…」
長い口付けの後、くすくす笑いながら、頬を赤く染めるシンタローの耳元で囁く。
「うるさい…」
「だって、シンちゃんがパパを誘ったんだよ。すっごく嬉しくてね」
シンタローは恥ずかしいのか、顔をマジックの首筋に埋め込む。
「シンちゃん、パパと結婚したくないかい?」
自分を組み敷いている息子の背中を撫でながら、また同じことを言ってみると、今度は怒ることはなかった。
「…俺も、父さんと…、できることなら結婚したい…」
どこか辛そうなその声は、お互いを親子以上に愛し合ってしまった二人の辛さを表しているようにマジックの心に強く響いた。
背中を撫でていた手は、息子を力強く抱き締めていた。
その強さは、お互いの心の辛さ。
「シンタロー…」
自分を力強く抱き締める父の温もりを感じながら、目を閉じる。
「俺と、結婚してよ。父さん」
「ああ、結婚しよう」
私たちはけして、結ばれることは許されない。
しかし、親子でなかったら出会うこともなかった。
私たち親子の愛は、『禁忌』。
神からも見離された恋。
だから、誰よりも強く愛せれる。
二人に幸あらんことを…。
マジックは小さくため息を吐いた。
『この髪も、唇も、目も、指も、全て父さんのものだから』
昨晩の情事の後、シンタローが言った言葉にマジックは頭を抱えながら、考え込んでいた。
『全部、私のものなんだね?』
その言葉に、シンタローは小さく頷いてくれた。幸せそうに、微笑みながら。
本当にこのままでいいのだろうか。頭のなかに不安が過る。
確かに、結婚しようと言出したのは紛れもない、自分。
だが、息子の本当の幸せを考えた時、このままでは息子は、私たち二人は……いずれ、ぶつかってしまうだろう。
一つの大きな壁に。
部屋に帰れば、一糸まとわぬ姿で自分のベッドに寝ているであろう息子に、あのことを言えば私を嫌ってくれるだろう。
私から少しでも距離を置くことが、あの子にとっての幸せなのだ。
『何でだよ、何でコタローをッ!!』
ごめんね、シンちゃん。それが、お前の幸せのためなんだよ。
それに弱い私は、お前を愛していくかぎり、『親』と言う仮面を脱ぐことはできない。
どんなに、お前が私を『親』以上に愛し、私がお前を『子供』以上に愛したとしても…。
ごめんよ、シンタロー。
お前がどんなに私を嫌おうが、私はお前を愛してるよ。
その愛は息子以上に、そして恋人未満に。
世の中は、それ以上は、それ未満。
「総帥、シンタロー様が秘石を持って逃走しましたッ!!!」
ああ、シンタロー。
お前はそれ以上を望むのか…。
ならば、私はお前の望むままに動こう…。
「シンタロー様が南国の小島に上陸したと、報告がありましたッ!!」
「ティラミス、すぐに刺客を送りなさい。秘石を必ず取り戻せ…」
「はッ!!」
秘石なんてどうでもいい。
本当に欲しいものは・・・・・
「お帰り、坊や。パパだよ」
お前なのだから。
パプワ島で知った、俺の本当の素性。
秘石の番人の影。
…俺は、親父の息子じゃなかった。
最初っから、俺に親なんかいなかった。
あんたと結婚?
そんなことできないよな?
だって、あんたは息子である俺をあいしたんだから。
だから、終止符を打とう。
それが、あんたにとっての幸せだから。
ガンマ団本部総帥室。
こんなことあんたを前にして言うことではないと思うけど、だけど言わないとこのままだから。
「俺、結局あんたの息子じゃなかったんだな」
俺の発言に、少々驚きを隠せない親父が首をかしげる。
「シンちゃん?何を言っているんだい?」
あんただって俺の言いたいことがわかるだろ?
「…俺さ、小さいころから、本当に自分はあんたの息子なのか、すげぇ悩んでいた」
またそんなこと言ってと、親父は口を挟む。
そこで俺の気を引いて、はいここでおしまいといつも通りには今日は行かないんだよ。
「ガキのころは、いつか捨てられるんじゃないかといつもビクビクしてよ、あんたに甘えたりして考えないようにしていた。
そう、思春期に入って、あんたの息子だって周りに認められたくて、頑張って頑張って、NO.1になって…。
周りの奴等に、おまえはマジックの息子だって言ってもらいたくてさ、いじめられようが何しようが頑張った。
認めてもらうためにあんたの力借りたくないからって、反発ばかりしていたあのころ、それでも俺はあんたの息子だって信じていた。
本当は、あんたに認められたくて、あんたに息子だって認められたくて、今まで頑張てたんだ。
けど、だけど、俺、結局あんたの息子じゃなかった、この一族の人間じゃなかった。あんたはそれでも、息子だって言ってくれた。けど、俺は……」
しばしの間、沈黙が辺り一帯を支配する
「どんなに、頑張って努力しても、あんたの息子にはなれないんだッ!!」
俺の言葉を何も言わずに聞いていた親父が、俺にそっと近づいてくる。
「シンタロー、そんなことはないよ。血がつながっていなくとも、私とおまえは親子だ」
頭を優しく撫でられると、すべて忘れてしまいそうになる。
パプワのことも。
あんたの息子じゃないって事実も。
「俺ずっと辛かったんだぜ?自分の素性を知りたくても、どう調べていいか分からなかった。知りたくて、教えてほしくて、そしてやっと、やっと分かったんだ…」
あの島が答えを持っていた。
「……」
親父の手が止まる。
「俺には、人間の親なんていない」
小さく震えだす親父の手。
「シンタローッ!!そんなことはない、私はお前の父親だッ!!」
ぐいっと、強い力で俺は親父に引き寄せられた。
「あんたの息子は、最初っからグンマとコタローだけだよッ!!」
その腕の中から逃げ出すために暴れる俺を、親父の腕は力を増し強く抱きしめてきた。
「はなせっ…」
「私の息子はお前だけだ、シン・・・」
親父の言葉が途中で止まる。
ふと、親父の肩越しに入り口のドアを見るとグンマが眼を大きく見開いて、俺らをみていた。
傍には、ティラミスとチョコレートロマンスがグンマの後ろに立ってこちらを見ている。
ああ、俺の言葉を待っているんだ。
親父も、グンマがいたから最後までいえなかった。
結局、俺はあんたの息子じゃねぇ。
あんたも俺だけの父親にはなれない。
否、ならない。
「親父、石が無くなった今、番人の影でもある俺がここにいる存在理由が無くなっただろ?」
笑った顔、あんたに見せるのは何年ぶりだろう?
「シンタロー」
ああ、グンマごめんな。
「逝かせてよ」
俺、たぶん最低なこと言うぜ?
「シンタロー、考え直しなさいッ!!お前は、私を愛しているんだろッ!?私の前から消えることはないッ!!…今からでも、新しい絆を作って行けばいいだろ?お前と、グンマと、私と、コタローとでッ!!」
お前の耳に残っちまうかも。
「愛?」
だから、ごめん。
「そう、二人で言い合っただろう?愛していると」
最低な俺で、ごめん。
「俺はあんたを愛していない。石から植え付けられた、番人の影としての青の一族に対する愛情ではなく、監視義務の責任概念からきていた感情を俺は“愛”と呼んでいたんだ」
マジックの眼の色が変わった。
「だから…だから、私に抱かれたのかッ!?番人の影だからかッ!?」
俺を体から少し放し、強い目で睨みつける。
「ああ、そうだ」
そんなあんたに、俺は笑顔で返す。
「…っッ!!私は、お前を24年間息子としてそれ以上に愛し、育ててきたッ!!!」
ああ、そんなにあせっているあんたを見ることなんてもうないだろうな。
「ご丁寧なことに、石は俺をあんた好みの顔に作ったんだから、愛してしまうのも仕方ねえだろ?」
そう、ジャンとそっくりに。
「違うッ!!」
そんなに強く否定されると、俺の考えに間違いないんだと確信してしまうだろ。
「違わねぇだろ?」
「……」
ああ、大当たりかよ。
ちょっと悲しいな。
アンタはそんな風にしか俺を見ていなかったなんてよ。
ああ、本当の気持ちを今知った気がした。
「もう、逝かせてくれよ…。疲れたんだよ」
引き締まった頬に、そっと触れる。
「……」
「あんたも、俺のことで長い間悩んでいたんだろ?もう、悩む必要ねぇから」
ゆっくりと唇を合わせ
「だから、さよならだ」
別れを告げた。
俺はその場から逃げるように立ち去った。
そんな俺を誰も呼び止めようとはしなかった。
それでいいんだ。
俺が嫌われてしまえば、あんたの狂った愛情は本当の息子のグンマに行くだろう。
それでいいんだよ。
長い廊下を曲がり、俺は走った。
誰から逃げるのでもなく、早くしなければという責任観念に押され走った。
「・・・・・ごめんなさい」
本当はあんなこと言いたくなかったんだ。
「俺、弱いから・・・」
逃げるための口実欲しさに、アナタにあんなことを言ってしまった。
「本当は・・・・」
本当はアンタを愛しているんだ。
真実がどんなものであろうと、この心に変わりは無い。
懐にあるひとつのカプセル。
ガンマ団すべての人間が必ずひとつ所有している、自殺用の毒の入ったカプセル。
捕虜になったときには、機密漏洩防止に自殺するためにと常備してあるもの。
本当は一族には渡されることが無いもの。
だから、ガンマ団本部に着く間に団員からこっそり拝借した。
それを取り出し、口に含む。
喉が渇いて飲みにくいなんて贅沢はいえない。
無理やり飲み込み、足を止めた。
「・・・・・ふ」
これを飲んで助かったやつなんて見たことが無い。
俺一人だけを助けるためなのか、親父からの拷問を恐れていたのか仲間と思っていた奴は捕虜になったとたんに俺の前でこれを飲み、俺だけが生き残った。
自然と笑みがこぼれた。
やっと、やっとのことで俺は―
自分を手に入れた。
だんだんと意識が薄れていく。
ああ、そうだこんな時って昔のことが流れるって言うよな・・・
小さいころの記憶とか、そんなの全然頭の中に流れてこない。
意識的にそれはうその記憶だって抑制しているのかな。
けどさ、あれは俺の記憶であって、キンタローの記憶じゃないし。
でも、それでもあれはキンタローの体の記憶だし。
ああ、畜生!
俺、何故こんな人生なんだよ。
一度だって良いこと無かったじゃねえか。
母さんが、浮気をしたとか、出来損ないとか、親父の子供じゃねえとか。
いろんな人苦しめてきたよな。
俺って存在が。
俺が居なかったら、コタローはあんなふうにならなかったんだろうな。
それじゃ、俺って居なくて正解なんだよな。
それにしても―
「・・・・・毒効くの、遅すぎじゃねえか?」
俺の知っている限り、即効性だよな?
目の前が霞むが、これってあの眠たいっていう感じであって、死にそうって感じじゃない。
しかも、なんだろう。
騙されている気がする。
まてよ、そうかもしれない。
絶対そうだ。
逃げなきゃ。
親父が追いかけてくる。
「にげ・・・・・」
そこで俺の意識は途切れた。
「総帥」
ティラミスが私の部屋にやってきた。
ストレッチャーに乗せられたシンタローが運び込まれる。
どうやら、シンタローがあの薬を飲んだようだ。
「本当に、これでよろしかったんですか?」
愚問を私に投げかける。
「良かったよ」
そう答えても、ティラミスは苦虫を噛み潰したような表情で私の部屋から去っていった。
おかしいと思うなら、笑うがいい。
変だと思うなら、そう思えばいい。
私はそんな風に思われようが、私自身微塵もそんなことを思ったことがないのだから。
「これからだ」
自然と笑いが漏れる。
「これからなんだよ。シンタロー」
私を包み込む椅子から立ち上がり、部屋の真ん中に置かれたストレッチャーに歩み寄る。
「お前と私は、離れてはいけないなかなのだから」
頬を撫でる。
馬鹿だよお前は。
自殺用の毒を団員から盗んだとぬか喜びをしていたが、そんなことはお見通しなんだよ。
グンマにあんなことを言っていること事態、予想の範囲内。
それに、あの睡眠薬をガンマ団内部で飲むことだって、私を愛しているお前はそうするだろうって分かっていたよ。
ほら、私たちって相思相愛だろう?
分かれてはいけないのだから。
ね、シンタロー。
あれ、俺死んでない。
生きているって実感したのが、アンタが鼻血をたらしながら俺の人形を作っている光景を見たから。
だってよ、天国ってもっと心地のいいものだろう。
死にそびれたってがっかりした感覚と、生きていたっていう安堵感がある。
それは、アンタのことを好きだという証拠だよな。
「あ、シンちゃん起きた?」
嬉しそうに話すあんた。
「まあ・・・」
寝起きにそんな返事はおかしいって笑うかもしれないが、それしかいえない。
ひどいことを言ってしまったから。
「良かった。シンちゃん、睡眠薬飲んで寝ちゃうんだもん。私すっごく心配したんだよ!だって寝ている間に突っ込んでも何の抵抗も無いわけだし、やっぱ起きているシンちゃんに突っ込んでそれに抵抗するところがいいわけだし、寝たままのシンちゃんに突っ込めないから、2日間も私は我慢していたんだよ!」
ああ、やめて現実逃避したくなる言葉。
「うるさい」
ちょっと反抗してみる俺に、親父は可愛いと抜かしやがる。
「アンタ、結局ジャンみたいな俺を追いかけてきたんだろう?」
ちょっとひねくれたことを言うと、親父の目の色が変わった。
「ジャンジャンって、お前はサービスかい。あんな犬なんて、昔の思い出だ。今、私に必要なのはお前だけだよ」
ああ、そうなんだ。
なんとなく説得力あるな。
だってあいつは、犬だもんな。
高貴な俺様があんな犬と同じなんておかしいつーの。
それにあんなことを言ったのに、そんなに怒っていないんだ。
「私はね、お前さえ居ればいいんだよ」
「グンマは?」
ちょっと子供みたいなことを言うと、また可愛いといわれた。
「あれかい?あれは飾りだよ。妻が浮気をしていませんでしたってね・・・・」
ああ、そうなのね。
「それよりも・・・・」
俺の寝ているベッドに近づいてくるあんた。
「シンタロー、私はね独身なんだよ」
「知ってる」
そばまで寄ると、ベッドに腰かけ、俺の手をとる。
そして、そっと唇に寄せる。
「だからね、お前が私の奥さんになっておくれ。結婚しよう・・・シンタロー」
なんだか、唇にキスされるよりもドキドキする手の甲の口付け。
「おう」
そんな返事しか出来ない俺だけど、アンタはありがとうって笑ってくれた。
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「覚えてるか?」
シンタローが、笑って訊いた。
Absolute wish.
「勿論、覚えてるよ。
パパが忘れるワケないじゃない。
シンちゃんの誕生日を」
無理をして、いつものように笑う。
そうでもしないと、顔がひきつりそうだ。
自分のこと以上に嬉しいシンタローの誕生日が、
今日ほど来なければいいと思ったことはない。
「そうか?」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、笑うシンタロー。
その笑い方は、あの時と同じ。
慰めるように、労わるように――そして、誤魔化すように。
「何が欲しいんだい?」
訊きたくないのに、訊かずにはいられない。
ドクンドクンと心臓が煩い。
「その前に、絶対だよな?」
「何が?」
「絶対に俺が望むモノをくれるって約束」
真剣な目が、射抜くように見上げてくる。
これは、覚悟を決めなければいけないのかもしれない。
欲しいモノ、ではなく、望むモノ。
その言い方の違いだけで、ワケもなく焦燥感に駆られる。
「パパが、シンちゃんに嘘吐いた時あった?」
「どうだか?」
ケッと、シンタローが鼻で笑う。
嘘は、嫌と言うほど吐いてきた。
恥ずかしいなどと思ったことは一度もないが、
それでもキレイなシンタローには隠していたいと思う仕事をしている。
それを、出来うる限り見せないようにしてきた。
そこに、嘘は生じている。
嘘だと決定的にバレないように、誤魔化してはいたが。
だって、この子が穢れる。
こんなキレイな子が、私と同じになってしまう。
…いや、そうじゃないな。
私は、怖かったんだ。
この子が、どんな目で私を見るかと考えることが。
そんな私に気づいたシンタローは、
仕事に関しては一切気づかないふりでいてくれた。
変らぬ態度で、変らぬ表情で。
だから、いつから気づいていたかなんて知らない。
怖くて、追及できないまま。
「まー、いいよ。
約束さえ守ってくれたら」
「何を望むの?」
何が欲しい、とはもう訊けなかった。
「本当に、約束は守るのか?
守らなかったら――、家を出る」
どうやって、とは訊かなかった。
訊けなかった。
サービスのところにでも行くのだろうけれど、そんなことは許さない。
けれどそれを止めるために、この子の自由を奪うことをそれ以上に私は許せない。
私にできることは、ひとつ。
「シンちゃんを失うくらいなら、パパはなんだってするよ」
「守れよ」
短く確認するように、シンタローが言った。
私は、ただ頷いた。
「――サインをくれ」
差し出された予想もしなかった紙に、目の前が暗闇に染まる。
「…どうして?」
震える声で訊いた。
シンタローは顔を逸らし、俯いたままに答える。
「…理由なんて、どうだっていい。
サインさえ、くれればいいんだ」
「何それ?
本気で言ってるの?
それが何だか、知ってて言ってるの?」
ここまできても、それを確認する。
目の前の紙が、信じられないから。
信じたくもないから。
「約束だ」
俯いたままのシンタローの肩を掴み、無理矢理顔を上げさせる。
そこに、泣き出すのを必死に止めようとする顔があった。
「そんな顔するくらいなら、止めなさい」
「約束だ」
絶対に、引かないシンタロー。
視線を逸らすのを止め、必死に見上げてくる。
「それが、何だか知ってる?」
「入団志願届け」
「…うちの団が、何をしてるのか知ってる?」
「…暗殺」
ギュッと耐えるように唇を噛み締めたが、それでもシンタローは視線を逸らさなかった。
「人を殺すんだよ?」
ビクリとシンタローの肩が震えた。
このまま、諦めてくれればいいのに。
「それは、罪のない人かもしれないよ?」
「…それでも、決めたんだ」
それは、悲痛な声だった。
「…約束だろ?」
ふっと、シンタローが笑った。
悲痛な表情は、もうない。
「どうして、って訊いてもいい?」
「…理由なんてねぇよ」
そんなはずは、ないだろう。
心優しい子だった。
猫が死んだと、鳴き続ける子だった。
理由がない限り、団になど入ろうとは思わない。
「…嘘吐きだね」
「アンタに、似たんだよ」
何も、返せなかった。
ただ、そう、とだけ応えて、シンタローの手の内にあった紙を取った。
「後悔しない?」
「……」
シンタローは答えなかった。
後悔するかもしれない、ということだろう。
それでも、今はこの道しかないと決めている。
だから、何を言っても無駄なのだ。
ポケットに差してあった万年筆を取り、サインした。
それをじっと、シンタローは見上げていた。
「こんなモノ、お前に渡したくないよ」
「でも、俺は貰う」
暫く無言で見詰め合って、紙を返した。
それを、ギュッとシンタローが握り締める。
「じゃあな」
用は済んだ、とでも言いたげに、さっさと踵を返される。
その背中はまだ小さいのに、もう子どもではなかった。
「ハッピーバースディ、シンタロー」
投げかけた言葉に、シンタローは足を止めかけたがそのまま扉に向かう。
けれど扉に手をかけたまま、立ち止まる。
そして、振り返った。
「もう、嘘は吐かなくていい」
それだけ言うと、扉は静かに閉まってシンタローは出て行った。
言われた意味を理解するまで、数秒。
理解した瞬間、崩れ落ちそうになる。
私のためか?
何をどうしたら、そういう考えに至ったのか解らないが、
それでもその答えが間違っているとは思えない。
キレイな穢れなき子ども。
そんなシンタローを、私が汚い世界に引きずり落とすのか?
それを望んだことがない、と言えば嘘になる。
けれど、決してそれだけを望んでいたワケではない。
それなのに軋む胸の中、
喜びがまったくないとは言えない自分が、酷く情けなかった。
シンタローの誕生日なのに、
私は何もプレゼントすることが出来ず、
代わりに、どうしようもないほどに哀しくも優しいシンタローの想いを貰った。
「シンちゃーん」
大きな声で名を呼んで、
振り返る大好きな笑顔が見たかった。
それなのに、
見せてくれたのは、嫌そうに眉間に皺を寄せた顔。
Can I your wish?
「…何だよ」
子どもには難しそうな分厚い本を
ソファに深く腰掛けて読んでいたシンタローは、
心底嫌そうに顔を上げた。
最近、私に対する扱いがよくないのは何故か。
12歳にして反抗期なんだろうか。
けれど、そんなことを気にしちゃいられない。
「今日は、ホワイトディだよ。
何が欲しい?
何でもいいから言ってね」
その言葉に、
ただでさえ寄っていた眉間の皺が深くなり、
まるで相手をしていられない、とでも言うように、視線は本へと戻される。
それでも、会話を続けてくれる。
こんなところが愛おしいのだ。
「アホか。
ホワイトディっつーのは、チョコのお返しだろうが。
俺は、お前になんぞやってねぇだろ」
「何言ってるの。
チョコは貰わなかったけど、
シンちゃんずっとパパと一緒にいてくれたじゃない。
だから、お返しするんだよ。
で、何が欲しい?」
「…一緒にいてくれた、じゃねぇだろ。
会議もほったらかして、お前が俺に付きまとったんじゃねぇか」
「えー、そうだった?
パパすっかり忘れちゃったよ」
都合の悪いことは、忘れる。
覚えているのは、シンタローの表情。
怒っても、可愛い。
笑ってくれれば、愛おしい。
気持ちが溢れてしまう。
それなのに、シンタローはそっけない。
「とうとう、耄碌したか」
「その時は、シンちゃんが面倒見てね。
お礼に、今から何でも欲しいものをプレゼントするから」
「バレンタインのお返しじゃなかったのかよ」
「何でもいいんだよ。
パパは、シンちゃんに喜んでもらいたいだけだから。
だから何でも言ってよ」
ふざけた会話の中に本音を混ぜ込めば、
それを悟ったシンタローが本を読むのを止めた。
パタンと小さな音を立て、
閉じられた本を見つめながら表情をなくして何事か考える。
何にしようか、という可愛らしい悩み顔ではなく、
何か考えあぐねているような、そんな子どもらしくない真剣さ。
危機感を覚えてしまう、その表情。
「…シンちゃん?」
呼ぶ声は戸惑ったものとなってしまったが、
それに反応したシンタローは顔を上げ、じっと私を見つめてきた。
「…何でもいいんだな」
念を押すように、真剣な目と声で問われる。
「勿論だよ」
そう応えながら、
不可能なことを言われると怯えた。
「じゃあ、バースディプレゼントは俺の望むことを叶えろよ」
告げられたそれは、不可解なもの。
物心つくまでは、
喜んでくれるだろうモノを想像してプレゼントし、
物心がついてからは、
望むモノを訊いてプレゼントしてきた。
今更だろう?
それにシンタローが望むなら、
何をしてでも叶えようとするのが、自他共に認める私だ。
それなのに、何故念を押すように今それを望む?
「いつも望みを叶えてきたよ?」
ドクンドクン、と心臓が嫌な音を伝える。
背中は、冷やりとした汗が伝う。
こんな経験、したことがない。
これは、一種の恐怖だ。
そんな私の心境を知ってか知らずか、
シンタローはふっと笑った。
「でっかいモノ望んでるんだよ。
だから、嫌って言えねぇように保険かけてんだよ」
バーカ、とまた笑うシンタロー。
その笑顔にほっとしつつも、嫌な感触は拭えないまま。
だって、シンタローはこんな顔で笑わない。
慰めるように、労わるように――そして、誤魔化すように。
それでも、まだ何も気づきたくない私は、
ただ何事もなかったように笑って返すだけ。
「解ったよ。
シンちゃんは、何を望んでるんだろうね?
パパ、怖くなっちゃった」
笑いながら本音を混ぜても、
先ほどのようにシンタローは何も反応しなかった。
ただ、あの不安にさせる笑顔で、
楽しみにしてろよ、と言って笑った。
誕生日など来なければいい、と、
思ってしまうほどに、私の心は掻き乱された。
シンタローは、何を望むと言うのだろう。
それを、私は叶えるのだろうか。
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06.03.13
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スクランブル・エッグのとろとろにした黄身は、バターでソテーしたパンに乗せて。
今日のブラック・プティングはナツメグが効き過ぎか。
薄めに入れた紅茶はカモミールで、一晩の熟睡後も体に残る疲れを癒してくれる。
窓の白いカーテンの向こうには、爽やかな朝の光と小鳥が笑いさざめき。
平和な光景だ。
ガンマ団総帥シンタローは、吐息を漏らした。
膝の上の新聞をめくる。新しいインクの香りが鼻腔をかすめる。
テレビから流れるほのぼのとした休日のニュース。
今日は彼にとっても、久しぶりの休みだった。
「キンちゃ~ん、そこの林檎ジャムとってよー」
「これか。しかし林檎を素材とするジャムは熱してから食した方がいい。何故なら含まれるペクチンは20℃であれば22%の体内の活性酸素を除去するが、100℃で熱すると48%に効果が跳ね上がり更に……」
「朝からもういいよ~」
まったく平和だ。
食卓には食器の触れ合う音とナイフとフォークを使う音。
……こんなに平和なのは。
きっと、あいつがいないからだ。
しかし、いなくていいと思ってはいるが、いないと気になる。
何やら早朝に外出してしまったのは知っている。
あいつがやっていることを知りたくはないが、知らされないと腹が立つ。
クソッ。
イライラ。
……。
シンタローの我慢は食卓について15分で切れた。
「……今気付いたけど、そういや親父は?」
えー、とグンマが丸い瞳で意外そうにこちらを向く。
「あれぇ、シンちゃん知らないのー? あ、もうそろそろ九時かなぁ」
金色の巻き毛が揺れて、壁時計を見上げる。
カチリ、と長針が回る音がして、それは時報を打った。
テレビではワイドショー番組が始まっている。軽快な音楽。
「あァ? なんだよ、九時って」
『みなさん、おはようございます。休日の爽やかな朝、いかがお過ごしでしょうか……』
「九時は九時だ。いいか、短針が9の文字盤に合い秒針と長針が合わさった瞬間にだな、」
「あァ? じゃあデジタル時計だったらどーすんだよお前はよ」
「あ! 出た、おとーさま」
その瞬間シンタローは固まった。
『……それでは今日のゲストコメンテーターを御紹介します。ガンマ団元総帥、マジックさんです』
画面に大写しになる見知った金髪派手な顔。
しかもウインク。
『ははは、よろしくお願いします。シンちゃん見てる? 愛してるよ!』
「だっはーッッッっっっ!!!!!!!!!!!」
シンタローは食器を空中に巻き上げて食卓に突っ伏した。
----------
「だあからっ! やめてくれつってるんだよ!」
昼食時の青家族の食卓では、より凄惨な言い争いが続いていた。
「どうして? ガンマ団は秘密軍団から平和のお仕置き軍団に生まれ変わったんじゃないか! テレビくらい出たって平気だよ」
「ちっがーう! 恥ずかしいんだよっっ!」
「シンちゃ~ん、もうやめなよー。おとーさまのコメント、僕すっごく面白かったよっ」
「そーゆーコト言ってんじゃないのっッ!」
「伯父上、あの『五月みどり』と『シャツが黄緑』という発言の間にある接点には非常に興味があります。何故、人名と衣服がある特定の色をしているという事実が……」
「だーっ! キンタロー、お前までっ!」
シンタローは床に崩れ落ちた。
コタローッッ! 早く目を覚ましてくれっ!
お兄ちゃんは、お兄ちゃんはこんな家族の中で……ッ!
「シンタロー」
全ての元凶が倒れ伏す自分の髪を撫でてきた。指でこぼれる涙を拭いてくる。
「どうしたんだい? ひどく御機嫌斜めだね……パパに話して御覧。お前は笑った方が、可愛いよ!」
「……っ!!!!」
溜め。
ウインウインウイン。
手の中できっかり三秒。
「……アンタのせいだ――――!!!!」
どっかーん!
正攻法で眼魔砲が部屋に炸裂した。
最近、テーブルの上にバラの一輪挿しがある。
特に意味はなく聞いてみると、なんだかコイツに毎朝送りつけてくるアホがいるらしい。
『知ってる? シンちゃん。赤いバラの花言葉は『情熱』。毎日花を贈って、千本になったら告白するんだよ。そして相手は断れない。そうなったらパパどうしようかな』
……もうどうでもいいから、とにかく勘弁してくれ……ッ!
例の恥ずかしい世界大会で優勝したり、講演会その他テレビラジオ雑誌もろもろのメディアに出まくったりと、最近のマジックは公の場に進出している。
特にあの口に出すのもためらう大会は、グンマがテレビをつけていたので自分もばっちり目撃してしまった。
え、衛星放送で世界中にあの映像が……ッ!
今までは家庭内だけでの恥だったのに……。
世界中に晒さないで、我が家の恥ッ!!!
しかもナンかアレ以来、世界中のバカやアホたちから変な貢物が届いたり妙な追っかけがいたりして……。
ああっ……ッ! おぞましい……ッッ!
考える程に、うざいエピソードが頭をよぎって悶々としてくる。
シンタローは心を落ち着かせるために、居間のソファで料理の本を広げた。
この所は忙しくて好きな料理も作れないってのに。
その貴重な休みをいつもアイツはッ! アイツはッ……!
……。
……。
目の端に、着替えたらしいマジックのスーツが映った。
どうやら午後から出かけるらしい。
「……」
再びどこへ行こうというのか。
気になる。また人様の前でバカをやらかしそうな悪寒。
しかし聞くのはムカツく。だけど俺だけ知らないのはもっとムカツく。
イライライラ。
そして聞いてくれと言わんばかりの顔で、自分の前を通り過ぎていくマジック。
イライライライラ。
「あ、あのね、シンちゃん」
グンマが見かねたのか話しかけてきた。
「おとーさま、3時から御本のサイン会があるんだって。あと一緒に軽く販促のポスター撮影」
バリッ。
お気に入りの料理本が、俺の手の中で真っ二つに割れた。
……ぐわああああああアアアアアァァァァッッ!!!
あの恥ずかしい自叙伝くわぁ!!!
「そうそう、グンちゃん」
あはは、とマジックが能天気に話し出す。
「明日は日本のトーキョー都で一日都知事をやるんだけどさ。ハーレムに聞いたけど、あの都庁って夜になると合体してロボットになるらしいよ! さすがメカニックの国エキゾチック・ジャパン」
「うわあ、おとーさま、それってスゴい!」
「合体するのはいいですがまずその目的と効果が問題視されるかと。そもそも日本の軍隊とはあくまで自衛隊であり、日本国憲法第九条の観点から言うと……」
「……いい加減にその一族全体の、間違った日本観やめようぜ」
さてと、そろそろ行かなきゃかな、と言いながらマジックが腕時計を見た。
そして自分の方を向いて笑う。
「今日は折角シンちゃんお休みなのに、一緒にいられなくてゴメンね! でもシンちゃんの顔が見たいから昼御飯は食べに来たんだよ。パパ、可愛く謝るから許して!」
「カワイかねーよ、カワイか。そのカワイさ自体を100字以内で説明しやがれ。つーかそんな恥ずかしい会に行くのヤメロ、本も発禁になってしまえ」
「ヤだなあ、シンちゃんったら亭主関白」
「誰が亭主ッ! 誰が関白ッ!」
「そんなに怒らなくても。どんなに人気者になったって、私はいつだってお前だけのものだよ! ヤキモチ焼くシンちゃんも可愛いけど。それじゃあね。バイバイ!」
「はあああ? うわっ! たっ!」
……飛んできた投げキスが、光速すぎて避けられなかったことにしばらく落ち込んだ……
「……」
シンタローは非常に仕事に戻りたかった。
仕事に無理矢理打ち込めば、いつものように、わずらわしい私事から一時は解放されるのだ。
今日に限って自由な体が恨めしい。
いや。いやいやいや。落ち着け、俺。
必死に自分を励ました。
俺は、ガンマ団総帥シンタローだ。
これぐらいのダメージどうだっていうんだ。
精神の安定ぐらい、軽くコントロール出来ないでどうする。
クッソォ、あのアホ親父め。
外で何やらかすか……人様の前で何やらかすか……だがそんなことは俺が気にしなければいい話であって。
そう、気にしなければいい。
……まあ、場所どこ行ったか知らないからな。知らないから気にしなければまあ……。
「シンタロー。伯父上はトーキョーのシンジュク、キノクニヤ書店に向かわれたそうだ。駅東口。ちなみに飛空艇は整備済みのが乗降口に」
ああっッ! お気遣いの紳士が余計なことをッ!
「お夕飯までには帰ってきてね、シンちゃん」
「ダ・レ・がッッ!!! ド・コ・にッッ!!! 行くんだよっ!」
「シンちゃん、そーいえばコート欲しいって言ってたじゃない。軍服の上にはおるやつ。今、日本はバーゲンの時期らしいよっ!」
「確かにバーゲンで購入すれば経費節減の観点からすると好ましくはある」
「……数万節約するより、その前に3億円パクった親族を連れてこいよ、お前ら……」
あ、という顔でグンマが人差し指を立てる。
「そーいえば、吉兆の高級味噌が切れてるっておとーさまが」
「そう言えば、日本製半導体が切れていたな。最近はアキハバラ以外の主要都市量販店でも手に入ると聞くが」
「突然一度に思い出さないでッッッ! 切れてる日本製品ッッッ!」
チッ。
クッソ、ナンだこの気まずい雰囲気は。
二人の目が、俺にこの家から出て行けと言っている。
ナンなんだ、この息苦しい家は。ここは俺の家じゃなかったのか。
「……近くを散歩してくる。久々の休日だからな」
とりあえず今は出て行くしかないぜ。なんてこった。
いいさ、外の冷たい空気を吸って、落ち着こう。
踵を返したシンタロー、その背中に浴びせかけられる声。
「行ってらっしゃ~い! お味噌よろしくねっ! あとお菓子も」
「半導体。いいか、型番を間違えるな」
「万が一近くまで行ったらな……万が一だぞ、万が一」
バタンと乱暴に玄関口のドアを閉めると、途端に冷気が体を包んだ。
ひんやりとした風が吹いている。
けっこー寒いな。薄いセーターだけで出てきてしまった。
まだ春も早いしな。
肩が小さく震えたので、手の平で擦ってみる。
……。
やっぱ、コートって買わないとダメかな。
……。
あの総帥服って意外と寒いんだよ。胸開いてるし。下はワイシャツだけだし。
……。
ガンマ団総帥が風邪ひいたら、団員に示しがつかないもんな……。
……。
休みの日に買い物するのってよく考えたら、まったくもって当り前のことだよな……。
----------
シンタローは両手に買い物袋をぶら下げて、シンジュクの駅ビル内をうろうろしていた。
買い物はもう終わってしまった。
おまけの味噌と半導体と、グンマ好みの甘い和菓子まで買ってしまった。
もうエスカレーターを上から下まで五往復はしている。
そろそろ店員の目が気になってきた。
そりゃこんなデカい男がうろついてちゃ不審に思うだろうよ。
あー、あー、そりゃそうだよな。俺だっておかしい人だと思うよ、いつもなら。
しかもその間に、きゃあきゃあ言ってる女の子たちに数回声をかけられた。
……次、声をかけられたら女の子と遊ぶのも悪くない。
だって休日だし。そう思いながら、生返事で断ってしまう。
ああ……俺って煮え切らない男だ……。
そうこうしている内に時間は3時。
……。
シンタローは、思った。
次はエレベーターに乗ろう。
屋上の動物乗り物で遊ぶ子供たちを眺めて、地下の食料品売り場を総チェックして更に買い物し、駅南口の350mの遊歩道を散歩し、駅西口の地下道を通ってそびえる都庁を見、駅北口はないので仕方なくセイブ・シンジュク駅北口まで行って、シンタローが問題の東口についたのはもう暗くなってからのことだった。
他は全部行ったから、東口だけは行かないってのは具合悪いだろうしな……不公平だ。
タクシー乗り場を越えて、シンタローは東口正面へと足を踏み出した。
周囲を見渡してみて、少し安心する。
なんだ、普通の風景じゃん。
休日の横断歩道は人で満ち溢れ、アルタ前の大画面には平凡なCMが映り、街頭ではIT業者の勧誘が通り過ぎる人々に小袋を配っている。
夕闇の中で車のクラクションが鳴り、若者たちが待ち合わせしているのか手に手に携帯をいじっていて……。
……若者?
……気付きたくないことに気付いてしまった。
明らかに違う年齢層の方々が混じっている。
混じっているっていうかむしろ主成分。
シンタローは帰りたくなった。
何かとてつもなく悪いことが起きる予感がする。
東口の右手、つまりキノクニヤ書店の方へは必死に目をやらないようにしていたが、このざわざわとした嫌な雰囲気はそこから漂ってきているような気がする。
世界最強軍団の総帥として、鍛え上げたこの俺の勘がヤバいと叫んでる。
動け。動け。俺の足。
しかし人込みの中で、背の高いシンタローは歩道の電柱のように動けない。
俺は、消費者金融のティッシュ配りのお姉さんたちにも絶対変に思われている。
だけど。だけど。
明らかにおかしい年齢層の方々が、腕に分厚い本を抱え使用済みの整理券を手に、興奮しながら群れている様子はもっと異常だ。
地面に座り込んで、必死に限定トレカを交換している様子はもっと異常だ。
何か怪しげなグッズを、声高に即席オークションしている様子はもっと異常だ。
ええっ? もう7時だぜ? 4時間経ってるんだぞ?
まだ終わってないの!?
その瞬間、パッと辺りが明るくなった。
シンジュク通り交差点の四方八方からライトが輝き、ガラス張りのキノクニヤ書店を美しく照らし出す。
アルタ前の大画面が見たくもない男の顔を映し出す。
群集がざわめき出し、我も我もと身を乗り出す。
シンタローの身体が、硬直した。
あああああッ! オ、オレ、もしかして一番ダメージの大きい時間帯に来ちゃった?
助けてッ! 助けて、神様ッッ!
白い大型リムジンが軽快なブレーキ音と共に、書店前に乗りつける。
運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
そして絶妙なタイミングで書店の扉が開いて。
ヤツが颯爽と姿を現した。
ウオオオオオオン!
人々のどよめきを、シンタローは気の遠くなった心で聞いていた。
『みなさんどうもありがとう。楽しかったよ!』
全てを中継している大画面のせいで、聞きたくもない声がシンジュク東口全体に響いている。
『みなさんに愛を。我が最愛の息子、シンタローの次の愛で恐縮だけれども……』
……もうシンタローには搾り出す声すら残ってはいなかった。
警備員や警官が抑えた人波の間を通り抜けて、花束を手に車に乗り込むマジック。
走り出すリムジン。
追いすがる群集。
灰色の画面になるアルタ前。
終わった!? 俺の苦行はもう終わった?
しかし。
シンジュク通りの半ばまで進んだ車は、人波で動きを止めた。
ちょっとッ! しっかりしてよッッ! 日本の警察ッッッ!
そんなんだから犯罪検挙率が年々下がってヤンキーが増えて、俺たちが苦労すんのよ?
ああっ、ホラ、ホラ、俺の目の前に……。
降りてきたあああああああッッッッッ!!!!!!
『ははは。じゃあ皆さんにさっきしきれなかった『秘石と私』巻末フロクの解説を』
まだマイクはずしてないのかよ! つうか大画面も再び映すな!
お前らどんなサービス精神だッ!
『まず最初の第一章一条一項の『パパだよ、そしてこれはパンダ』に関してですが、この想起の背景には、実は悲しい事情があったのです。秘石を奪った我が息子シンタローが南の島に行ったきりの時……』
もう……。
もう……。
もうッ……!
耐えられないッッッッッ!!
恥ずかしいッッッッッッッッ!!!
シンタローの凍りついた足が初めて動いた。
矢のように人込みを飛び出す。
派手なスーツの男の手をつかむと、比較的人の薄いヨヨギ方面へと走り出した。
----------
「シンちゃん、荷物持つよ」
「いいって」
「シンちゃん、寒くないの」
「つーか別の意味でサムいんだよ放っとけ」
「シンちゃん、何買ったの、見せて」
「ここで見せられるかよ! いいから大人しく歩け」
自分たちはシンジュク御苑に向かう細道を歩いている。
暗く街路樹が陰り、たまに通る車のサーチライトが掠めていく。
小さく夜の鳥の鳴き声がした。
……まだ心臓がばくばくいっている。
信じられない。ありえない。
あああ、恥ずかしい! なんなんだよ!
どうして俺ばっかりこんな目に!
平然とバカをやるこの男が憎らしい。
「ねェ、シンちゃん」
「あんだよ、黙ってろ」
「……じゃあパパの口塞いでよ」
「うわったったったっ!!! バカ! どーしてアンタはこう人目とかどーでもいいんだよッ! 恥を知れ!!!」
大きな体に後ろから抱きつかれた。
少ないとはいえ遠巻きに好奇の目が向けられている。女性の黄色い声まで聞こえてくる始末だ。
シンタローは唇を寄せてくるマジックに必死に抵抗した。
掴み掴まれの、ぎゃんぎゃんとしたいつもの押し合いになる。
「……だってシンちゃん」
耳元で低く声が響いて、それが嫌で文句を言ってやろうとその顔を見ると。
わざとらしい素振りの中で、意外に彼は真剣な目をしていた。
思わず手を止める。
通り過ぎる車の光が、薄く長く二つの影を作って、また闇に消えた。
カタカタカタと遠くに走る自転車の音。近付いたままの自分の頬が相手の息を感じる。
「とにかく大きな声で言わないと、お前はどんどん私から離れていってしまうよね。お前が立派になっていくのは嬉しいよ……でもそれが寂しい。置いていかれそうで不安でたまらない。私にはお前だけだもの。だから何だって使うよ。何だって利用して、世界中の何処でだって、朝から夜まで何時だって、お前のこと愛してるって言いたいんだよ」
「……そんなの……言わなくていい」
「でもシンちゃんわかってくれないし」
「そんなのわからなくていーんだよっ! アンタだって」
言葉を切る。
また無性に腹が立った。
「アンタだって、わかってないだろ、色々……オラ、もう行くぞ。ホントに置いてくぞ」
無理矢理に男を振り払い、スタスタと道を歩く。
冷たいんだから、という声がして、後ろからついてくる足音が聞こえた。
まったく最悪だ。
このバカが。クソ。
ひたすら手間がかかって。
死ぬほど気がきかなくて。
とにかく思い通りにならなくて。
いつまでたっても訳がわからないし、あっちもわかっちゃくれない。
なんて面倒な奴。
なんて直球な奴。
なんて恥ずかしい奴。
シンタローは振り返った。
視線が合って、嬉しそうに微笑みかけてくる青い瞳。
……。
……わかってる。
この世で一番恥ずかしいヤツは。
アンタを放っておけない、俺自身。
HOME
HOME
スクランブル・エッグのとろとろにした黄身は、バターでソテーしたパンに乗せて。
今日のブラック・プティングはナツメグが効き過ぎか。
薄めに入れた紅茶はカモミールで、一晩の熟睡後も体に残る疲れを癒してくれる。
窓の白いカーテンの向こうには、爽やかな朝の光と小鳥が笑いさざめき。
平和な光景だ。
ガンマ団総帥シンタローは、吐息を漏らした。
膝の上の新聞をめくる。新しいインクの香りが鼻腔をかすめる。
テレビから流れるほのぼのとした休日のニュース。
今日は彼にとっても、久しぶりの休みだった。
「キンちゃ~ん、そこの林檎ジャムとってよー」
「これか。しかし林檎を素材とするジャムは熱してから食した方がいい。何故なら含まれるペクチンは20℃であれば22%の体内の活性酸素を除去するが、100℃で熱すると48%に効果が跳ね上がり更に……」
「朝からもういいよ~」
まったく平和だ。
食卓には食器の触れ合う音とナイフとフォークを使う音。
……こんなに平和なのは。
きっと、あいつがいないからだ。
しかし、いなくていいと思ってはいるが、いないと気になる。
何やら早朝に外出してしまったのは知っている。
あいつがやっていることを知りたくはないが、知らされないと腹が立つ。
クソッ。
イライラ。
……。
シンタローの我慢は食卓について15分で切れた。
「……今気付いたけど、そういや親父は?」
えー、とグンマが丸い瞳で意外そうにこちらを向く。
「あれぇ、シンちゃん知らないのー? あ、もうそろそろ九時かなぁ」
金色の巻き毛が揺れて、壁時計を見上げる。
カチリ、と長針が回る音がして、それは時報を打った。
テレビではワイドショー番組が始まっている。軽快な音楽。
「あァ? なんだよ、九時って」
『みなさん、おはようございます。休日の爽やかな朝、いかがお過ごしでしょうか……』
「九時は九時だ。いいか、短針が9の文字盤に合い秒針と長針が合わさった瞬間にだな、」
「あァ? じゃあデジタル時計だったらどーすんだよお前はよ」
「あ! 出た、おとーさま」
その瞬間シンタローは固まった。
『……それでは今日のゲストコメンテーターを御紹介します。ガンマ団元総帥、マジックさんです』
画面に大写しになる見知った金髪派手な顔。
しかもウインク。
『ははは、よろしくお願いします。シンちゃん見てる? 愛してるよ!』
「だっはーッッッっっっ!!!!!!!!!!!」
シンタローは食器を空中に巻き上げて食卓に突っ伏した。
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「だあからっ! やめてくれつってるんだよ!」
昼食時の青家族の食卓では、より凄惨な言い争いが続いていた。
「どうして? ガンマ団は秘密軍団から平和のお仕置き軍団に生まれ変わったんじゃないか! テレビくらい出たって平気だよ」
「ちっがーう! 恥ずかしいんだよっっ!」
「シンちゃ~ん、もうやめなよー。おとーさまのコメント、僕すっごく面白かったよっ」
「そーゆーコト言ってんじゃないのっッ!」
「伯父上、あの『五月みどり』と『シャツが黄緑』という発言の間にある接点には非常に興味があります。何故、人名と衣服がある特定の色をしているという事実が……」
「だーっ! キンタロー、お前までっ!」
シンタローは床に崩れ落ちた。
コタローッッ! 早く目を覚ましてくれっ!
お兄ちゃんは、お兄ちゃんはこんな家族の中で……ッ!
「シンタロー」
全ての元凶が倒れ伏す自分の髪を撫でてきた。指でこぼれる涙を拭いてくる。
「どうしたんだい? ひどく御機嫌斜めだね……パパに話して御覧。お前は笑った方が、可愛いよ!」
「……っ!!!!」
溜め。
ウインウインウイン。
手の中できっかり三秒。
「……アンタのせいだ――――!!!!」
どっかーん!
正攻法で眼魔砲が部屋に炸裂した。
最近、テーブルの上にバラの一輪挿しがある。
特に意味はなく聞いてみると、なんだかコイツに毎朝送りつけてくるアホがいるらしい。
『知ってる? シンちゃん。赤いバラの花言葉は『情熱』。毎日花を贈って、千本になったら告白するんだよ。そして相手は断れない。そうなったらパパどうしようかな』
……もうどうでもいいから、とにかく勘弁してくれ……ッ!
例の恥ずかしい世界大会で優勝したり、講演会その他テレビラジオ雑誌もろもろのメディアに出まくったりと、最近のマジックは公の場に進出している。
特にあの口に出すのもためらう大会は、グンマがテレビをつけていたので自分もばっちり目撃してしまった。
え、衛星放送で世界中にあの映像が……ッ!
今までは家庭内だけでの恥だったのに……。
世界中に晒さないで、我が家の恥ッ!!!
しかもナンかアレ以来、世界中のバカやアホたちから変な貢物が届いたり妙な追っかけがいたりして……。
ああっ……ッ! おぞましい……ッッ!
考える程に、うざいエピソードが頭をよぎって悶々としてくる。
シンタローは心を落ち着かせるために、居間のソファで料理の本を広げた。
この所は忙しくて好きな料理も作れないってのに。
その貴重な休みをいつもアイツはッ! アイツはッ……!
……。
……。
目の端に、着替えたらしいマジックのスーツが映った。
どうやら午後から出かけるらしい。
「……」
再びどこへ行こうというのか。
気になる。また人様の前でバカをやらかしそうな悪寒。
しかし聞くのはムカツく。だけど俺だけ知らないのはもっとムカツく。
イライライラ。
そして聞いてくれと言わんばかりの顔で、自分の前を通り過ぎていくマジック。
イライライライラ。
「あ、あのね、シンちゃん」
グンマが見かねたのか話しかけてきた。
「おとーさま、3時から御本のサイン会があるんだって。あと一緒に軽く販促のポスター撮影」
バリッ。
お気に入りの料理本が、俺の手の中で真っ二つに割れた。
……ぐわああああああアアアアアァァァァッッ!!!
あの恥ずかしい自叙伝くわぁ!!!
「そうそう、グンちゃん」
あはは、とマジックが能天気に話し出す。
「明日は日本のトーキョー都で一日都知事をやるんだけどさ。ハーレムに聞いたけど、あの都庁って夜になると合体してロボットになるらしいよ! さすがメカニックの国エキゾチック・ジャパン」
「うわあ、おとーさま、それってスゴい!」
「合体するのはいいですがまずその目的と効果が問題視されるかと。そもそも日本の軍隊とはあくまで自衛隊であり、日本国憲法第九条の観点から言うと……」
「……いい加減にその一族全体の、間違った日本観やめようぜ」
さてと、そろそろ行かなきゃかな、と言いながらマジックが腕時計を見た。
そして自分の方を向いて笑う。
「今日は折角シンちゃんお休みなのに、一緒にいられなくてゴメンね! でもシンちゃんの顔が見たいから昼御飯は食べに来たんだよ。パパ、可愛く謝るから許して!」
「カワイかねーよ、カワイか。そのカワイさ自体を100字以内で説明しやがれ。つーかそんな恥ずかしい会に行くのヤメロ、本も発禁になってしまえ」
「ヤだなあ、シンちゃんったら亭主関白」
「誰が亭主ッ! 誰が関白ッ!」
「そんなに怒らなくても。どんなに人気者になったって、私はいつだってお前だけのものだよ! ヤキモチ焼くシンちゃんも可愛いけど。それじゃあね。バイバイ!」
「はあああ? うわっ! たっ!」
……飛んできた投げキスが、光速すぎて避けられなかったことにしばらく落ち込んだ……
「……」
シンタローは非常に仕事に戻りたかった。
仕事に無理矢理打ち込めば、いつものように、わずらわしい私事から一時は解放されるのだ。
今日に限って自由な体が恨めしい。
いや。いやいやいや。落ち着け、俺。
必死に自分を励ました。
俺は、ガンマ団総帥シンタローだ。
これぐらいのダメージどうだっていうんだ。
精神の安定ぐらい、軽くコントロール出来ないでどうする。
クッソォ、あのアホ親父め。
外で何やらかすか……人様の前で何やらかすか……だがそんなことは俺が気にしなければいい話であって。
そう、気にしなければいい。
……まあ、場所どこ行ったか知らないからな。知らないから気にしなければまあ……。
「シンタロー。伯父上はトーキョーのシンジュク、キノクニヤ書店に向かわれたそうだ。駅東口。ちなみに飛空艇は整備済みのが乗降口に」
ああっッ! お気遣いの紳士が余計なことをッ!
「お夕飯までには帰ってきてね、シンちゃん」
「ダ・レ・がッッ!!! ド・コ・にッッ!!! 行くんだよっ!」
「シンちゃん、そーいえばコート欲しいって言ってたじゃない。軍服の上にはおるやつ。今、日本はバーゲンの時期らしいよっ!」
「確かにバーゲンで購入すれば経費節減の観点からすると好ましくはある」
「……数万節約するより、その前に3億円パクった親族を連れてこいよ、お前ら……」
あ、という顔でグンマが人差し指を立てる。
「そーいえば、吉兆の高級味噌が切れてるっておとーさまが」
「そう言えば、日本製半導体が切れていたな。最近はアキハバラ以外の主要都市量販店でも手に入ると聞くが」
「突然一度に思い出さないでッッッ! 切れてる日本製品ッッッ!」
チッ。
クッソ、ナンだこの気まずい雰囲気は。
二人の目が、俺にこの家から出て行けと言っている。
ナンなんだ、この息苦しい家は。ここは俺の家じゃなかったのか。
「……近くを散歩してくる。久々の休日だからな」
とりあえず今は出て行くしかないぜ。なんてこった。
いいさ、外の冷たい空気を吸って、落ち着こう。
踵を返したシンタロー、その背中に浴びせかけられる声。
「行ってらっしゃ~い! お味噌よろしくねっ! あとお菓子も」
「半導体。いいか、型番を間違えるな」
「万が一近くまで行ったらな……万が一だぞ、万が一」
バタンと乱暴に玄関口のドアを閉めると、途端に冷気が体を包んだ。
ひんやりとした風が吹いている。
けっこー寒いな。薄いセーターだけで出てきてしまった。
まだ春も早いしな。
肩が小さく震えたので、手の平で擦ってみる。
……。
やっぱ、コートって買わないとダメかな。
……。
あの総帥服って意外と寒いんだよ。胸開いてるし。下はワイシャツだけだし。
……。
ガンマ団総帥が風邪ひいたら、団員に示しがつかないもんな……。
……。
休みの日に買い物するのってよく考えたら、まったくもって当り前のことだよな……。
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シンタローは両手に買い物袋をぶら下げて、シンジュクの駅ビル内をうろうろしていた。
買い物はもう終わってしまった。
おまけの味噌と半導体と、グンマ好みの甘い和菓子まで買ってしまった。
もうエスカレーターを上から下まで五往復はしている。
そろそろ店員の目が気になってきた。
そりゃこんなデカい男がうろついてちゃ不審に思うだろうよ。
あー、あー、そりゃそうだよな。俺だっておかしい人だと思うよ、いつもなら。
しかもその間に、きゃあきゃあ言ってる女の子たちに数回声をかけられた。
……次、声をかけられたら女の子と遊ぶのも悪くない。
だって休日だし。そう思いながら、生返事で断ってしまう。
ああ……俺って煮え切らない男だ……。
そうこうしている内に時間は3時。
……。
シンタローは、思った。
次はエレベーターに乗ろう。
屋上の動物乗り物で遊ぶ子供たちを眺めて、地下の食料品売り場を総チェックして更に買い物し、駅南口の350mの遊歩道を散歩し、駅西口の地下道を通ってそびえる都庁を見、駅北口はないので仕方なくセイブ・シンジュク駅北口まで行って、シンタローが問題の東口についたのはもう暗くなってからのことだった。
他は全部行ったから、東口だけは行かないってのは具合悪いだろうしな……不公平だ。
タクシー乗り場を越えて、シンタローは東口正面へと足を踏み出した。
周囲を見渡してみて、少し安心する。
なんだ、普通の風景じゃん。
休日の横断歩道は人で満ち溢れ、アルタ前の大画面には平凡なCMが映り、街頭ではIT業者の勧誘が通り過ぎる人々に小袋を配っている。
夕闇の中で車のクラクションが鳴り、若者たちが待ち合わせしているのか手に手に携帯をいじっていて……。
……若者?
……気付きたくないことに気付いてしまった。
明らかに違う年齢層の方々が混じっている。
混じっているっていうかむしろ主成分。
シンタローは帰りたくなった。
何かとてつもなく悪いことが起きる予感がする。
東口の右手、つまりキノクニヤ書店の方へは必死に目をやらないようにしていたが、このざわざわとした嫌な雰囲気はそこから漂ってきているような気がする。
世界最強軍団の総帥として、鍛え上げたこの俺の勘がヤバいと叫んでる。
動け。動け。俺の足。
しかし人込みの中で、背の高いシンタローは歩道の電柱のように動けない。
俺は、消費者金融のティッシュ配りのお姉さんたちにも絶対変に思われている。
だけど。だけど。
明らかにおかしい年齢層の方々が、腕に分厚い本を抱え使用済みの整理券を手に、興奮しながら群れている様子はもっと異常だ。
地面に座り込んで、必死に限定トレカを交換している様子はもっと異常だ。
何か怪しげなグッズを、声高に即席オークションしている様子はもっと異常だ。
ええっ? もう7時だぜ? 4時間経ってるんだぞ?
まだ終わってないの!?
その瞬間、パッと辺りが明るくなった。
シンジュク通り交差点の四方八方からライトが輝き、ガラス張りのキノクニヤ書店を美しく照らし出す。
アルタ前の大画面が見たくもない男の顔を映し出す。
群集がざわめき出し、我も我もと身を乗り出す。
シンタローの身体が、硬直した。
あああああッ! オ、オレ、もしかして一番ダメージの大きい時間帯に来ちゃった?
助けてッ! 助けて、神様ッッ!
白い大型リムジンが軽快なブレーキ音と共に、書店前に乗りつける。
運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
そして絶妙なタイミングで書店の扉が開いて。
ヤツが颯爽と姿を現した。
ウオオオオオオン!
人々のどよめきを、シンタローは気の遠くなった心で聞いていた。
『みなさんどうもありがとう。楽しかったよ!』
全てを中継している大画面のせいで、聞きたくもない声がシンジュク東口全体に響いている。
『みなさんに愛を。我が最愛の息子、シンタローの次の愛で恐縮だけれども……』
……もうシンタローには搾り出す声すら残ってはいなかった。
警備員や警官が抑えた人波の間を通り抜けて、花束を手に車に乗り込むマジック。
走り出すリムジン。
追いすがる群集。
灰色の画面になるアルタ前。
終わった!? 俺の苦行はもう終わった?
しかし。
シンジュク通りの半ばまで進んだ車は、人波で動きを止めた。
ちょっとッ! しっかりしてよッッ! 日本の警察ッッッ!
そんなんだから犯罪検挙率が年々下がってヤンキーが増えて、俺たちが苦労すんのよ?
ああっ、ホラ、ホラ、俺の目の前に……。
降りてきたあああああああッッッッッ!!!!!!
『ははは。じゃあ皆さんにさっきしきれなかった『秘石と私』巻末フロクの解説を』
まだマイクはずしてないのかよ! つうか大画面も再び映すな!
お前らどんなサービス精神だッ!
『まず最初の第一章一条一項の『パパだよ、そしてこれはパンダ』に関してですが、この想起の背景には、実は悲しい事情があったのです。秘石を奪った我が息子シンタローが南の島に行ったきりの時……』
もう……。
もう……。
もうッ……!
耐えられないッッッッッ!!
恥ずかしいッッッッッッッッ!!!
シンタローの凍りついた足が初めて動いた。
矢のように人込みを飛び出す。
派手なスーツの男の手をつかむと、比較的人の薄いヨヨギ方面へと走り出した。
----------
「シンちゃん、荷物持つよ」
「いいって」
「シンちゃん、寒くないの」
「つーか別の意味でサムいんだよ放っとけ」
「シンちゃん、何買ったの、見せて」
「ここで見せられるかよ! いいから大人しく歩け」
自分たちはシンジュク御苑に向かう細道を歩いている。
暗く街路樹が陰り、たまに通る車のサーチライトが掠めていく。
小さく夜の鳥の鳴き声がした。
……まだ心臓がばくばくいっている。
信じられない。ありえない。
あああ、恥ずかしい! なんなんだよ!
どうして俺ばっかりこんな目に!
平然とバカをやるこの男が憎らしい。
「ねェ、シンちゃん」
「あんだよ、黙ってろ」
「……じゃあパパの口塞いでよ」
「うわったったったっ!!! バカ! どーしてアンタはこう人目とかどーでもいいんだよッ! 恥を知れ!!!」
大きな体に後ろから抱きつかれた。
少ないとはいえ遠巻きに好奇の目が向けられている。女性の黄色い声まで聞こえてくる始末だ。
シンタローは唇を寄せてくるマジックに必死に抵抗した。
掴み掴まれの、ぎゃんぎゃんとしたいつもの押し合いになる。
「……だってシンちゃん」
耳元で低く声が響いて、それが嫌で文句を言ってやろうとその顔を見ると。
わざとらしい素振りの中で、意外に彼は真剣な目をしていた。
思わず手を止める。
通り過ぎる車の光が、薄く長く二つの影を作って、また闇に消えた。
カタカタカタと遠くに走る自転車の音。近付いたままの自分の頬が相手の息を感じる。
「とにかく大きな声で言わないと、お前はどんどん私から離れていってしまうよね。お前が立派になっていくのは嬉しいよ……でもそれが寂しい。置いていかれそうで不安でたまらない。私にはお前だけだもの。だから何だって使うよ。何だって利用して、世界中の何処でだって、朝から夜まで何時だって、お前のこと愛してるって言いたいんだよ」
「……そんなの……言わなくていい」
「でもシンちゃんわかってくれないし」
「そんなのわからなくていーんだよっ! アンタだって」
言葉を切る。
また無性に腹が立った。
「アンタだって、わかってないだろ、色々……オラ、もう行くぞ。ホントに置いてくぞ」
無理矢理に男を振り払い、スタスタと道を歩く。
冷たいんだから、という声がして、後ろからついてくる足音が聞こえた。
まったく最悪だ。
このバカが。クソ。
ひたすら手間がかかって。
死ぬほど気がきかなくて。
とにかく思い通りにならなくて。
いつまでたっても訳がわからないし、あっちもわかっちゃくれない。
なんて面倒な奴。
なんて直球な奴。
なんて恥ずかしい奴。
シンタローは振り返った。
視線が合って、嬉しそうに微笑みかけてくる青い瞳。
……。
……わかってる。
この世で一番恥ずかしいヤツは。
アンタを放っておけない、俺自身。
HOME
タンポポの花
HOME
本部の中庭隅に、タンポポが咲いていた。
「ふうん、シンちゃん、そんなのが好きなんだ」
しゃがみこんで嬉しそうに眺めている黒髪に声をかけると、『好きだよ』と素直な答えが返ってきた。
「春になったって感じがするだろ。それにこんなコンクリの間から、よく顔出したなって思ってさ」
差す日の光は暖かい。灰色のコンクリートの小さな割れ目からは、黄色い花弁が天を向いて咲いている。
「すっごく綺麗だ」
そう言ったシンタローは自分を振り向き、『な!』と同意を求めてきた。
「ああ」
返事をすると、彼はわずかに眉をしかめる。
どこかいけなかっただろうか。
シンタローが長い髪を揺らせて立ち上がった。
「……とにかく、春って好きさ。ワクワクしてくるし、こーゆー緑を見てると俺も頑張ろうって気になるから」
「そう」
「じゃあ、俺、行くよ」
「気をつけて」
「……うん」
見送ったシンタローの背中が、建物の中に消える。
彼はこれから戦地に行くのだ。
残されたマジックは、一人で彼が喜んでいた『緑』を観察する。
それは言われなければ、自分の目には雑草としてしか映らない草々。
本部付の庭師が仕事を怠っているぐらいにしか思わない。
彼は芸術品や花の良さの審美眼は備えていたが、このような勝手に生える雑草を見て、頑張ろうなどと思える気持ちが全くわからなかった。
だがシンタローがそう言うなら、それはそういうものなんだろう。
嬉しそうに話していた姿。
そんなシンタローの赤い頬は、とても可愛いと思う。
シンタローだけが、マジックにとって価値がある。
----------
数日後に帰陣したシンタローは、食卓のテーブルの上を見て驚いた。
「どうしてタンポポを植木鉢に入れるんだよ」
出陣前に見た黄色い花が、白いクロスの上に置かれている。
「え、どうしてって」
マジックは驚いたように言う。自分が喜ぶとでも思っていたのだろうか。
「だってシンちゃんはこの花が好きなんだろう。だったら、こうして家に入れて守らなきゃだめだよ。外に置いたら風に吹かれるし踏みつけられるよ。そうなってからじゃ遅いじゃないか」
「……」
「そうだ、これはコタローの枕元に置いておくよ。そうするとお前は嬉しいだろう?」
いい思い付きをしたという顔で男は言い、窺うようにシンタローの目を見下ろした。
反応に困ったシンタローが曖昧に口端を上げると、彼は安心したように微笑む。
シンタローが悲しくなるのは、いつもこんな瞬間だった。
その夜コタローの部屋に入ると、花の鉢はマジックが言った通りベット脇に置かれていた。
側の椅子に腰掛け、小さな弟の頬をなぞる。
規則正しい寝息が伝わってきて、彼が眠りの中でも確かに生きていることに安心する。
可愛い顔の隣の、鉢植えのタンポポ。
それがひどく寂しそうに見えて、その花びらにも手を伸ばす。
数日前に彼が感じた生命力は消えていた。
しばらく黄色い花を触っていると、また胸の奥に寂しさが込み上げてきた。
蘇る過去の言葉たち。
『コタローのことは忘れろ』『私の息子はお前だけだ』『お前さえいればいいんだ』
――アンタは、この子を愛していない。
おそらく今この瞬間も。
俺に引け目を感じて、俺に無理矢理合わせてる。
「ここに来てたんだ」
部屋の扉が開いて、マジックが姿を現す。手には茶色のアンプルを数本持っている。
「その鉢。どうも元気がないみたいなんだ。だから栄養剤でも挿そうと思って」
「……」
その瞬間、シンタローは胸が怒りで熱くなるのを感じた。
近づいてきた男の腕を乱暴につかむ。
「この花は、鉢植えにされたからおかしくなったんだよ……ッ」
金髪の男の整った顔は不審気だ。
「……俺は、植木鉢に入れたタンポポが見たいんじゃないんだよ。踏みつけられても、コンクリとか風とかに邪魔されても、頑張って根を張ってる姿が好きなんだよ。大事にしたいってのと鉢に入れたり栄養やるのは違う……」
それがこの男の可愛がり方だと知っているから、それだけに我慢ができなかった。
自分も一度、逃げた。
マジックは首を傾げて考える様子をしながら言う。
「お前がそれを元に戻せと言うなら、そうするよ」
「……ッ!」
カッとなった。
揺れた自分の肘に植木鉢は当たり、呆気なくベットの下に落ちて割れた。
絨毯に飛び散る陶器の破片と土。
「あ……」
「ああ、割れちゃったね」
しゃがみこんでそれを拾い集める男。
泥の中でくちゃくちゃになっているタンポポの花が、目に痛かった。
「……その花、どうするの」
立ち尽くしたままでシンタローが聞く。
「ん?そうだね、お前の好きなように。また鉢に植えるか、それとも元の……」
「アンタさ」
その言葉を遮り肩をつかんで真正面から見据えた。
悲しい気持ちが湧き上がってきて、それを吐き出したくてたまらなくなる。
相手が困った顔をして立ち上がると、長身から見下ろされる形になった。
「アンタ、コタローが目覚めたら、どうすんの。やっぱり『お前の好きなように』って言うの」
「……」
また感情の読み取れない瞳を、この男はしている。
この瞳が、ずっと怖かった。
でも今は立ち向かって言わなければならない。
――俺よりも、この子を愛して。
血のつながらない俺なんかよりも、血のつながったこの子を。
「お願いだよ……コタローが目覚めたら、ちゃんと愛してやってくれよ……」
「ああ」
「そんな生返事じゃなくて、ちゃんと約束してくれよ」
「……約束するよ。ちゃんとコタローを愛する」
約束しても、約束しても、次の瞬間にすぐまた不安になる。
この約束はこれからまた何度も重ねられるのだろう。
なぜなら自分はいつだって悲しくなるし、いつだってこの人はその内面を自分に見せてはくれないからだ。
青い眼を見つめていると、自分の黒い目から涙が溢れてくるのがわかった。
絶対にこの男とは理解しあうことはできない。
「ごめんね。また不安にさせて」
冷たい指がそれを拭う。
シンタローはその手を取って、握りしめた。
寂しい。
「……アンタは、俺が言ったからって何でもその通りにやんのかよ……」
「違うよ」
男が軽く背を屈める。額と額がくっつけられて、シンタローは目を閉じた。
こういう瞬間、彼はわかりあえない二つの心の境界線が、ふっと溶けるのを感じる。
だけどそれは目を閉じている間だけのことだ。
甘い低音が暗闇の中で、間近に響く。
「お前が教えてくれる光を、私はいつも探している……お前が導いてくれなければ、もう歩けない」
「光なんて俺には見えないよ……どうやって教えろっていうんだよ……」
「今はお前が目を閉じているから。今お前が見ているのは、私の闇だ。お前が目を開けてしまうと、私はまたこの暗闇に一人取り残される」
「……」
「でも、お前は目を開けて。そして正しい道を、何度でも私に教えて」
声は静かで強かった。
「私は何度でもやり直す。お前といる限り」
「……父さん……ッ」
「ここはそれ以外には何の価値も生まれない世界だ」
俺しか価値がないといつもアンタは言う。
なら、俺がアンタの世界を作ってやる。
何度でもやり直すよ。失敗しながら、アンタに言い続けるよ。
この繰り返しでしか、俺たちは強くはなれない。
失われた時間を取り戻すことはできない。
そうしなければ、俺とアンタの心の溝は埋まらないんだ。
こんなに、つながりたいのに。
お前の言いたいことはわかったよ。
このタンポポはコタローなんだよね。
……もう閉じ込めたりはしないよ。
別のやり方で大事にするよ。
……愛するよ。
そして男は子供の金色に輝く頭を撫で、その髪に軽く口付けた。
HOME
HOME
本部の中庭隅に、タンポポが咲いていた。
「ふうん、シンちゃん、そんなのが好きなんだ」
しゃがみこんで嬉しそうに眺めている黒髪に声をかけると、『好きだよ』と素直な答えが返ってきた。
「春になったって感じがするだろ。それにこんなコンクリの間から、よく顔出したなって思ってさ」
差す日の光は暖かい。灰色のコンクリートの小さな割れ目からは、黄色い花弁が天を向いて咲いている。
「すっごく綺麗だ」
そう言ったシンタローは自分を振り向き、『な!』と同意を求めてきた。
「ああ」
返事をすると、彼はわずかに眉をしかめる。
どこかいけなかっただろうか。
シンタローが長い髪を揺らせて立ち上がった。
「……とにかく、春って好きさ。ワクワクしてくるし、こーゆー緑を見てると俺も頑張ろうって気になるから」
「そう」
「じゃあ、俺、行くよ」
「気をつけて」
「……うん」
見送ったシンタローの背中が、建物の中に消える。
彼はこれから戦地に行くのだ。
残されたマジックは、一人で彼が喜んでいた『緑』を観察する。
それは言われなければ、自分の目には雑草としてしか映らない草々。
本部付の庭師が仕事を怠っているぐらいにしか思わない。
彼は芸術品や花の良さの審美眼は備えていたが、このような勝手に生える雑草を見て、頑張ろうなどと思える気持ちが全くわからなかった。
だがシンタローがそう言うなら、それはそういうものなんだろう。
嬉しそうに話していた姿。
そんなシンタローの赤い頬は、とても可愛いと思う。
シンタローだけが、マジックにとって価値がある。
----------
数日後に帰陣したシンタローは、食卓のテーブルの上を見て驚いた。
「どうしてタンポポを植木鉢に入れるんだよ」
出陣前に見た黄色い花が、白いクロスの上に置かれている。
「え、どうしてって」
マジックは驚いたように言う。自分が喜ぶとでも思っていたのだろうか。
「だってシンちゃんはこの花が好きなんだろう。だったら、こうして家に入れて守らなきゃだめだよ。外に置いたら風に吹かれるし踏みつけられるよ。そうなってからじゃ遅いじゃないか」
「……」
「そうだ、これはコタローの枕元に置いておくよ。そうするとお前は嬉しいだろう?」
いい思い付きをしたという顔で男は言い、窺うようにシンタローの目を見下ろした。
反応に困ったシンタローが曖昧に口端を上げると、彼は安心したように微笑む。
シンタローが悲しくなるのは、いつもこんな瞬間だった。
その夜コタローの部屋に入ると、花の鉢はマジックが言った通りベット脇に置かれていた。
側の椅子に腰掛け、小さな弟の頬をなぞる。
規則正しい寝息が伝わってきて、彼が眠りの中でも確かに生きていることに安心する。
可愛い顔の隣の、鉢植えのタンポポ。
それがひどく寂しそうに見えて、その花びらにも手を伸ばす。
数日前に彼が感じた生命力は消えていた。
しばらく黄色い花を触っていると、また胸の奥に寂しさが込み上げてきた。
蘇る過去の言葉たち。
『コタローのことは忘れろ』『私の息子はお前だけだ』『お前さえいればいいんだ』
――アンタは、この子を愛していない。
おそらく今この瞬間も。
俺に引け目を感じて、俺に無理矢理合わせてる。
「ここに来てたんだ」
部屋の扉が開いて、マジックが姿を現す。手には茶色のアンプルを数本持っている。
「その鉢。どうも元気がないみたいなんだ。だから栄養剤でも挿そうと思って」
「……」
その瞬間、シンタローは胸が怒りで熱くなるのを感じた。
近づいてきた男の腕を乱暴につかむ。
「この花は、鉢植えにされたからおかしくなったんだよ……ッ」
金髪の男の整った顔は不審気だ。
「……俺は、植木鉢に入れたタンポポが見たいんじゃないんだよ。踏みつけられても、コンクリとか風とかに邪魔されても、頑張って根を張ってる姿が好きなんだよ。大事にしたいってのと鉢に入れたり栄養やるのは違う……」
それがこの男の可愛がり方だと知っているから、それだけに我慢ができなかった。
自分も一度、逃げた。
マジックは首を傾げて考える様子をしながら言う。
「お前がそれを元に戻せと言うなら、そうするよ」
「……ッ!」
カッとなった。
揺れた自分の肘に植木鉢は当たり、呆気なくベットの下に落ちて割れた。
絨毯に飛び散る陶器の破片と土。
「あ……」
「ああ、割れちゃったね」
しゃがみこんでそれを拾い集める男。
泥の中でくちゃくちゃになっているタンポポの花が、目に痛かった。
「……その花、どうするの」
立ち尽くしたままでシンタローが聞く。
「ん?そうだね、お前の好きなように。また鉢に植えるか、それとも元の……」
「アンタさ」
その言葉を遮り肩をつかんで真正面から見据えた。
悲しい気持ちが湧き上がってきて、それを吐き出したくてたまらなくなる。
相手が困った顔をして立ち上がると、長身から見下ろされる形になった。
「アンタ、コタローが目覚めたら、どうすんの。やっぱり『お前の好きなように』って言うの」
「……」
また感情の読み取れない瞳を、この男はしている。
この瞳が、ずっと怖かった。
でも今は立ち向かって言わなければならない。
――俺よりも、この子を愛して。
血のつながらない俺なんかよりも、血のつながったこの子を。
「お願いだよ……コタローが目覚めたら、ちゃんと愛してやってくれよ……」
「ああ」
「そんな生返事じゃなくて、ちゃんと約束してくれよ」
「……約束するよ。ちゃんとコタローを愛する」
約束しても、約束しても、次の瞬間にすぐまた不安になる。
この約束はこれからまた何度も重ねられるのだろう。
なぜなら自分はいつだって悲しくなるし、いつだってこの人はその内面を自分に見せてはくれないからだ。
青い眼を見つめていると、自分の黒い目から涙が溢れてくるのがわかった。
絶対にこの男とは理解しあうことはできない。
「ごめんね。また不安にさせて」
冷たい指がそれを拭う。
シンタローはその手を取って、握りしめた。
寂しい。
「……アンタは、俺が言ったからって何でもその通りにやんのかよ……」
「違うよ」
男が軽く背を屈める。額と額がくっつけられて、シンタローは目を閉じた。
こういう瞬間、彼はわかりあえない二つの心の境界線が、ふっと溶けるのを感じる。
だけどそれは目を閉じている間だけのことだ。
甘い低音が暗闇の中で、間近に響く。
「お前が教えてくれる光を、私はいつも探している……お前が導いてくれなければ、もう歩けない」
「光なんて俺には見えないよ……どうやって教えろっていうんだよ……」
「今はお前が目を閉じているから。今お前が見ているのは、私の闇だ。お前が目を開けてしまうと、私はまたこの暗闇に一人取り残される」
「……」
「でも、お前は目を開けて。そして正しい道を、何度でも私に教えて」
声は静かで強かった。
「私は何度でもやり直す。お前といる限り」
「……父さん……ッ」
「ここはそれ以外には何の価値も生まれない世界だ」
俺しか価値がないといつもアンタは言う。
なら、俺がアンタの世界を作ってやる。
何度でもやり直すよ。失敗しながら、アンタに言い続けるよ。
この繰り返しでしか、俺たちは強くはなれない。
失われた時間を取り戻すことはできない。
そうしなければ、俺とアンタの心の溝は埋まらないんだ。
こんなに、つながりたいのに。
お前の言いたいことはわかったよ。
このタンポポはコタローなんだよね。
……もう閉じ込めたりはしないよ。
別のやり方で大事にするよ。
……愛するよ。
そして男は子供の金色に輝く頭を撫で、その髪に軽く口付けた。
HOME