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m3
 伸ばした手が当て所もなく彷徨って、落ちる音。頬に冷たいシーツの感触。
 見慣れた闇。先程、目覚めた時と同じように、いつの間にかマジックは、ベッドの中から暗がりを見つめていた。
 元の寝室だ。沈む静寂。
「……」
 彼は、自分が夢を見ていたのか、現実を見ていたのかが、よくわからなかった。
 汗が滲み、額に長めの前髪が貼り付いているのが、煩わしくて。
 際限のない焦燥感が、もどかしくて。
 ただ――
 握った手の感触だけは、現実として肌に残っている。あの手の感触……。
 この自分が、あの手を見違えようもなかったのだ。
 サイドボードの置時計に目を遣ると、針は午前二時前をさしている。
 午前二時?
 自分が最初に眠りについた時には、午前三時を回っていたはずだ、と彼は思った。
 時計の時間が狂っている……?
 それとも、私の時間が狂っている……?



 冷たい寝床で。マジックは一番最初に自分を訪れた、幼いシンタローの言葉を思い出している。
『三人の亡霊が、やってくるよ』
『パパ、おねがい。その三人と、あって』
 三人……。
 先刻の亡霊が……一人目……だとすれば。
 二人目の亡霊が、これからやって来るということだろうか……?
 何ということだ。この長い夢は、これで終わった訳ではないのか?
 マジックは身を起こす。来るべきものに備えようと、闇を見据える。
 すると、その時。何処か遠くで、鐘が、鳴った。
 一度、二度……。午前二時を、時鐘は告げる。
 また、あの全てを痺れさせていくかのような余韻が、暗い部屋を支配して。
 引き裂くように、鳴り響いて、消えた。
 そのまま。マジックは、待った。
 しかし、何事も起こらなかった。



「……」
 やはり、夢だったのかとも思う。
 マジックはベッドに腰掛けたまま、自分の手を眺めた。
 だが、あの優しい感触は、消え失せていくどころか、ますます自分の心の中で、明確な形をとって、その居場所を確保しようと蠢いていくのだった。
 彼は溜息をつく。
 囚われるものが多い程、人が惨めであるのなら。私は、どんどん奈落へと堕ちて行く。
 取り返しが付かない程に。弱者へと、堕ちて行く。
 ふと彼は、闇の中の自分の白い手が、青ざめていることに気が付く。
 まるで血の通わない、蝋人形のような余所余所しさに、その手は陰っていた。
 マジックは、ゆっくりと顔を上げ、正面を見つめる。
 すると、いつの間にか、カーテンの隙間から。先刻のように、誰かの手によって開けられることはなかったが、不思議な青い光が、漏れてきているのだった。



 彼は立ち上がると、迷わず大窓に歩み寄り、厚いカーテンを開けた。
「……っ」
 彼は思わず、目を眇める。
 圧倒的な光量が、部屋の闇に雪崩れ込んでくる。
 全てを飲み込むかのような、青白い光。吹雪のように冷たく吹きすさぶ、輝きの粒。
 ようやく目が慣れた時、彼は、窓の外に広がる光景を、理解する。
 カーテンの向こうには、冷たい窓が、いつの間にか大開きになっており、強い風が通り抜けていて。
 そこには、マジックが、半日前に無人に変えたばかりの、雪の荒野が続いていた。



 地平線の果てまでも。白い焦土は、どこまでもどこまでも続いている。
 生き物たちの残骸の上に、静かに雪が降り積もり、大地は白一色に埋め尽くされている。それは何処か、厳かで、美しい光景に、マジックには見えた。
 その白は、青のオーラを纏って、淡く発光しているのだ。
 まるで、凍てついた氷の女王が、青いシルクのショールを掛けているかのように。
 彼女の微笑みは、死の微笑み。命を失いし者どもの、夢の跡。
 この、音のない白い地には、ぼうっと、無数の青い光が彷徨っているのだった。
 青い蛍のよう、青い星のように、弾ける海の飛沫のように。行き場を失くした光たちは、惑う。
 各々に流れるような線を描いて、巡り合いながら、混じり合いながら、漂い続けている……。
 マジックは、その光景をしばらく見つめていた。
 これが世に言う、死地に留まる霊魂というものなのかもしれないと思ったが。
 彼は、全くそんな非科学的存在を信じてはいなかったので、これもまた幻だろうかと考えた。
 しかし、やはり、その度に――先程の、懐かしい姿が目に浮かんで。
 目蓋に焼き付いて離れない、あの姿を想うと。
 自分は、いっそのこと、この幻に取り込まれてしまった方が、気楽なのではないかとまで思い始める始末であったのだ。
 この、私が、と。マジックは、本日何度目かの嘆息を、禁じ得ない。



 その時。すうっと。
 当て所なく戦場を彷徨う、青い残り火たちの中から、一筋の強烈な光が、こちらに向かってくる。
 長く尾を引いたそれは、眼前で、弾けた。
 青が弾けて、人のかたちになり。再び、輝く存在が、彼の側に降り立っていた。



「……貴方が、二番目の亡霊か……?」
 相手に先んじて、マジックは、そう尋ねてみた。
 今度の訪問者も、その形をはっきりと捉えることはできない。
 眩い輪郭が、おぼろげにわかるだけだ。
 そこに、誰かがいるということを、曖昧に感じ取ることができるだけ。
「……」
 問われて、訪問者は、ゆっくりと頷いた。白装束が、淡く空気に舞うようで。
 そして輝ける者は、大窓の外、雪の野を、同じく手にした、ヒイラギの枝でさし示した。
 口を開く。
「これらは、戦場で無慈悲に殺された、惑う魂たち……」
 マジックは、眉を顰めた。やはりその声も、自分の内面に響くばかりだ。
 そして、その言葉に、小さく鼻で笑った。
 稚拙だと、思った。
「……こんな光景を見せて、どうしようというんです。まさか私に、改心せよとでも?」
 すると、意外にも亡霊は、かぶりを振った。
 しばらくそのまま、佇んでいる。
 間があった。
「貴方は……今日、私に殺された人間の内の一人か……?」
 あの戦場を彷徨う青い光の一つであったのだから。
 だがマジックが、そう聞いても、亡霊は答えなかった。
 ただ、こう言った。
「私は……現在の亡霊……現在のあなたへと続く、時間の亡霊」
 そして、柔らかく手を差し出してくる。
 自然な動作で、するりとマジックの手を取った。
 マジックは拒否しようとしたが、今度も叶わなかった。
 また、亡霊の手のヒイラギの枝が振られて、ぱあっと光の粉が舞った。
 マジックは、再び世界が、ぐにゃりと歪むのを感じていた。



 次に、彼がいた空間は、ひんやりとした石の持つ空気。
 白壁、大理石の柱、洗練されていながらも、何処かざわめきが伴う場所。
 マジックは、周囲に目を遣った。その見覚えのある調度品。
「……」
 士官学校校舎。入念に磨き上げられた、長い廊下の先の、オークの扉に閉ざされた、理事長室。
 彼と亡霊は、その前に立っている。
 校舎の内外では、ざわめきの中にも、やけに華やいだ雰囲気が感じ取れて。
 窓下に、ちらりと見える、行き交う学生たちの様子や飾り付けから。
 おそらく今日この日も、いわゆる聖なる日であるのだろうと、マジックは思った。
 ……自分の過去の。
 溜息が漏れる。側の亡霊は、突っ立ったまま、身動き一つしない。
 すると、廊下の曲がり角から突然、緊張した空気が伝わってくる。
 高い軍靴の音。声。



『この度の御勝利、早くの御帰還、我々ひとしく歓喜に堪えぬところでありまして……』
『ああ、予定より二日は早かったね。君たちも羽を伸ばす時間が減って、気の毒だ』
 廊下を曲がって、靴音と共に、こちらに向かって来たのは。
 背の高い、若い金髪の男と、背後に付き従った、媚びを笑みに含ませた中年の男たち。
 男のきびきびした動作と、それを上目で見上げる彼らとが、やけに対称的に見えた。
 赤い軍服。
『こ、これは存外な仰りよう……』
『冗談だよ。怯えるな。君たちの青少年に対する管理能力には、常々感心しているよ。安心して留守を任せることが出来る』
 こんな若者の口から、青少年、ときたか。
 マジックは、肩を竦めると、傍らの亡霊に目を遣る。相変わらず、静かに佇んだままだ。
 やれやれ、今度の私の連行者は、無駄な動作がお嫌いらしい。
 彼がそう呟いた時、目の前の一行が、マジックたちの前まで来た。
 青年への追従はまだ続いている。
『何分、急な御帰還の為、学生への連絡が遅れまして、送迎準備に不手際があったこと、誠に慙愧に……』
『構わない。どうせ学生はクリスマス休暇で帰省している者が多いだろう。ああ、私は本当に君たちには感心しているよ……』
 若くして総帥の座にある男はそう言った後、慣れた動作で、理事長室の扉を開ける。
 振り返る。
『だが、その無駄の多い口を噤んでくれたら、もっといいね。実に魅力的だ。それでは失礼。よいクリスマスを』
 遮るように扉は閉まり、学校業務を預かる幹部職員たちは、ぽつんと取り残された。
 しばらく、右往左往していた後に、口々に小声で何か囁き合いながら、彼らは来た道を戻って行く。
 その光景に、マジックは、亡霊に話しかけてみた。
「どうもアンバランスだね。喜劇さ。大の大人が、あんな若造に媚びるなんて。貴方はどう思う」
「……別段」
 相も変わらず、亡霊は素っ気無く答えただけだった。
 マジック自身も、こんな光景は覚えてもいない。ただ、そんなこともあったかな、と頭の隅で考えただけだ。
 しかし、この時の自分は、部下に『よいクリスマスを』等と口にする余裕があったのだと、それだけは意外に感じた。
 なぜなら……おそらく。
 この時の自分は……。



 先刻。あのクリスマスリース。
 ティラミスとチョコレートロマンスの心遣いを、無視した自分。
 ああ、この時よりも、年月を重ねたはずの自分は余裕がなくなってしまっているのだと、彼は独りごちた。
『行きましょう』
 亡霊はそう言うと、マジックの手を引き、閉ざされた理事長室の扉に歩を向ける。
 そして、また影のように二人は、分厚い扉を、するりと通り抜けた。



 豪奢な理事長室では、青年は黙々と執務机で、遠征中に溜まった仕事を片付けているようだった。
 何の変哲もない、何の面白みもない光景だった。
 表情のない、横顔。幾分、鋭角気味の輪郭。それらを眺めながら、マジックは、この時の自分は、22、3歳ぐらいであるのだろうと思う。
 なぜなら、窓の外では雨が、降り続いているからだった。
 自分が本部に戻っていて、雨が降っていたクリスマスといえば、記憶にあるのは、ただ一度きりだった。
 彼は、これから亡霊が見せようとしている光景を予想し、憤りを覚えた。
 その後、やるせのない倦怠が自分を襲うのを感じ、この悪夢から逃れる術はないのかと、傍らの亡霊を窺う。
 亡霊は、依然、沈黙したままだった。
 マジックは、この存在は、あの戦場で自分が殺した者なのだろうと、憎憎しく思った。
 だから、嫌な光景を選んで見せようとする。しかし、どうにもならなかった。
 繋がれた手は、決して解けはしないことは、何度も実証済みであったからだ。
 この時間の狭間にいる限りは、自分は、何の力も持てないのだった。



 透明な窓ガラスに這う、雨粒の筋。
 水の雫は、外の景色を湾曲して見せる。
 過去の自分が、書類に黙々と文字を書き込む音が、静かに響く。彼一人だけの空間。
 そう。
 この年のクリスマスは、雨だった。



----------



 ――雨が降っていて。
 この時の私は、それがとても気になっていたのだ。
 滴る水音を聞きながら、ただ紙にペンを走らせていた。全く、機械作業も甚だしい。
 すると突然に荒々しい足音が廊下の方でして、部屋の扉がきしみ、しなり、勢いよく開く。
『おお~~! 兄貴ぃ! 帰ったかぁ! オツトメ、ご苦労ご苦労ッ!』
 飛び込んできたのは、相も変わらず、兄弟の内で一番落ち着きのない弟だ。
『……ハーレム』
 私は聞こえるように大きく溜息をついた後、小言を口にする。
『また酒を飲んでいるな。先進国のほとんどでは、お前は飲酒年齢に足りていない』
『てやんでえ! クリスマスに年なんて関係ねーヨっ! 楽しくやろうぜぇ!』
 赤い顔をした弟は、着崩した軍服に小さな万国旗のついた紐を巻きつけ、すっかり出来上がっている風だ。
 抱えている幾本かの酒瓶が、擦れ合って、高い音を立てていた。せめて、ここでは割らないで欲しいと、私は眉を顰める。
『ほらよぅ、兄貴、カンパ~イ! 乾杯!』
 彼はそんな私の素振りに構わず、眼前に、グラスを差し出してくる。
 余りに煩いので、私は仕方なく椅子に座ったまま、それを受け取ってやる。互いに、クリスタルの縁を、かちんと合わせると、液体の水面が踊った。
 私たちは、なみなみと注がれた赤い酒を呷る。
 ひどく嬉しそうなハーレムの顔が、印象的だった。
『へへー!』
 空になった透明なグラスを受け取った彼は、執務机の傍らにあるソファに、行儀悪く胡坐をかいて座り、一人で酒盛りを始めてしまう。
 騒がしい。飲む合間に喋るのか、喋る合間に飲んでいるのかが、わからない有様だ。
 やれやれと思いながら、私は適当に彼に合わせつつ、書類に目を通している。
『なんでぃ。早く遠征から帰るんなら、知らせておいてくれりゃあ、良かったのによォ!』
『意外にあっさり片が付いたんだよ。私だって驚いた』
『あーあ、今年も戻って来ねぇっていうから、俺、ダチと街角の、なんつったかな、とにかく飲み屋を飲み潰してやるっつー予定、入れちまったぜ。ルーザー兄貴も今夜は研究所泊りだっつーし、サービスだって……』
『まぁ……もうそんな年じゃないだろう』
『……へっ……』
 不満そうにハーレムは顔を歪めると、また、ぐびりと酒を口に含んだ。
 兄弟四人でクリスマスを過ごしたことは、私が軍務に就いてからは、何度あったか。



『あのさ』
 しばらく、くだを巻いた後のことである。
 ハーレムが、鼻の頭を掻きながら、言い出した。
『兄貴も、俺らンとこ、来ねぇ? 一緒に街中の飲み屋を営業停止にしてやろうぜっ! いっぺん俺と勝負してくれよ! 飲み比べ! 俺、めっちゃくちゃ強くてよォ? もぉアイツらじゃあ、物足りなくってよォ……へへ、もし兄貴が来たら、連中も飲み屋のオヤジも、腰抜かすぜ!』
『私が?』
 またお前は突飛なことを言い出す、と私は肩を竦める。
 手元の書類を捲る。馬鹿馬鹿しかった。
『……お前はいいだろうが。進んで他人の居心地を悪くしたって、つまらない』
『たまには、いいじゃねぇかよう~ 兄貴ぃ~』
『それよりお前、今からそんなに飲んで大丈夫なのか』
『ハッハーッ! 景気づけだぜ! アンタももう一杯イケよっ! ホラ、ンな紙切れ見てねぇでよ!』
『遠慮しておく』
『ク・リ・ス・マ・ス! クリスマスだってぇのに、兄貴!』



 散々、絡んでから。
 これから街に繰り出すのだと、アルコールの香りを残し、ハーレムは、去っていった。
 始終、私のことを気にしながら。何度も、『仕事終わって、その気になったら、いつでも来いよな!』と繰り返しながら。
 ……私としては。
 その気持ちは有り難いと思うべきなのだろうが、どうしても、そんな気分にはなれなかった。
 だが静寂が部屋に満ちてからも、それまでは早く静かになって欲しいものだと願っていたにも関わらず、仕事を続ける気にもなれない。気が殺がれたとでもいうのだろうか。
 急を要するものは、すでに処理済みだったので、手元の呼び鈴を鳴らし、部下に、書類と共に幾許かの指示をし、下がらせてから。
 私は、酒の甘い匂いを追い出そうと、執務机を離れ、大窓を開けた。



 雨が、降っている。
 その年は暖冬で、僅かに降った雪すらも、この雨で溶け、大窓の外、バルコニーの格子の向こうには、ただの寒々しい風景が広がっているだけだった。
 辺りは暗くなり始めている。
 私は足を踏み出し、空を仰ぎ、そして正面に視線を戻して、雨を見つめた。先程からこの音が、ずっと気になっていたのだ。
 みぞれ混じりの冷たい雨は、重く鈍い。
 冬の雨は、とても……。
 沈鬱な、音をしている。



 私は湿った白い格子に手をつき、眼下の小道を眺める。
 ちょうどクリスマスイヴの礼拝が終わった所なのか、学生たちが楽しげに聖堂の方から歩いて来るのが、目に入る。
 何らかの事情で、休暇に帰省せず寮に残る者は、大概これに出るのが習慣だった。
 賛美歌、この日だけのクリスマス・キャロル。
 『あなたは愛されるために生まれて来たのです』等という、お決まりの牧師の説教。
 数回、義理で出席した時のそれを、思い起こしながら、自分と大して年の変わらない少年たちの、笑い合う顔を、視線で追っていた。
 私は、彼らは何をそんなに喜ぶことがあるのだろうと、常々不思議に感じている。
 同等な友人たちと一緒にいるというだけで、そこまで楽しい気持ちになることができるものなのだろうか等と、首を傾げる。
 他愛のない会話。小さな仕草、大きな動作、くるくる変わる表情。
 未だ自らの限界を知らない、自信過剰と甘えと初々しさの香り。
 この理事長室は、三階で。
 私はいつも、何とはなしに、遠いこの場所から、十代の少年の学校生活というものを、ある種の憧憬と軽蔑とをもって、眺めるのが好きだった。



 そぼ降る雨。色取り取りの傘。人の群れ。その中に、一筋の光が見えたような気がした。
 傘を持って寮を出なかったのか、密集した傘たちの合間を流れるように、通り抜けていく美しい金髪。闇と雨を弾く色。
 サービス。遠目でもすぐに、それとわかる。
 彼は、白い手を申し訳程度に頭上に乗せ、走っている。
 始終振り向き、何事かを喋り、笑い合いながら。嬉しげに。
 そして彼の背後には、いつも、黒髪の男がいるのだった。
 二人は、互いにしか見せないのだろう、明るい笑顔をしながら、ぱしゃぱしゃと足元の水を跳ね上げて。
 理事長室の下を通り過ぎ、遊びさざめく小鳥のように、道の先へと消えて行く。
 霞む雨の中へと、消えて行く。



 やがて、大勢の少年たちの姿も、同じ霞の先に消えて行く。
 風が強くなった。雨は角度を変え、勢いを増し、私の立つバルコニーまで吹き込んで来る。
 木々がざわりと揺れ、氷を含んだ雨に、身を震わせる。
 私の格子に置いたままの右手の甲が、濡れていく。
 透明な水が滴り、指先を伝って流れ落ちる。
 温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
 凍える肌というものは、最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 自分の手を動かすということが、まるで道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
 だからそのまま、手は雨に打たれるに任せておいた。
 誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
 そして私は、ただぼんやりと。
 長い間。
 人影の消えた、夜景となった空間を、眺めていた。



 夜も更けてから、ふと、そんな気になって。
 理事長室を出、軍本部の総帥室に行き、そこでも仕事を終わらせてから。私は、聖堂へと足を向けた。
 ハーレムの誘いは、思い出しはしたものの、全く乗る気はなかった。
 雨はいつしか雪に変わり、ちらちらと、冷たい欠片が天空から舞い落ちている。
 数時間前は、少年たちの笑顔で満ちていた場所。
 今は、もう誰もいない。
 私は、すでに締め切られた聖堂の扉を開けると、その無人の空間へと入る。
 立ち並ぶ彫刻と荘厳な壁画が、私を出迎えた。
 外の闇は、ステンドグラスの窓を通して、何処か不思議な色となって、この場所を染め上げている。
 中央祭壇の十字架。金色のパイプオルガン。その隣に立つ、クリスマスツリー。
 私は、それらを三方から取り囲むようにして配置されている、信者席の一つに腰掛けた。
 ひんやりと冷たく固い感触が身を包む。
 高いアーチ型の天井を見上げ、それから祭壇を見つめる。
 輝くツリーは、金銀と共に、赤を基調とした装飾が施されていた。
 豪奢で、美しかった。



 このクリスマスの赤には、キリストが生きとし生ける者の犯した罪の許しを乞うために、流した血が象徴されているのだという。
 人はこの木の下で、この聖なる日に、自らの罪の贖いを誓い、救われた喜びを歌う。
 その歌、賛美歌、クリスマス・キャロル。
 ……くだらない。私はそう、心の中で呟いた。
 人は、歓喜を歌い、その翌日には平気で再び罪を犯す。
 そして何食わぬ顔で、一年を過ごす。次の年のクリスマスに、またキャロルを歌う。
 その繰り返し。
 何時まで経っても進歩のない、無駄な営みなのだと思う。
 しかし私は、趣旨は無益だと思っていたものの、その円を描くような美しい旋律は気に入っていた。
 芸術とは、その生み出される動機が何であれ、結果として美しければそれで良い。
 だから礼拝にちらりとでも顔を出して、その歌を聞いておけば、多少は気も晴れていただろうかと、一人考えた。
 そうしていれば、雨に濡れることもなかっただろうに。
 物思いに耽りながら、私は目を瞑っていた。
 もし誰かがこの姿を見たら、私が祈っているのだと誤解をしただろうと思う。
 だが私は、時間を潰していただけだった。
 しばらく、大聖堂でそんな時を過ごした後。
 私は、ジャンの部屋を訪ねた。



 裏庭から見る、彼の寮室の灯りは消えていた。暗い窓の向こうには、気配は一つきり。
 そのことに、自分の心が僅かなりとも軽くなったことに気付き、私は嫌になる。
 このまま戻ろうかとも思う。
 しかし、同じことだった。何をしようと同じ。
 繰り返し。無駄な営みだ。
 そう、私は自嘲しながら足元の小石を拾うと、その窓に向かって、軽く投げた。
 こつんと音がして。やがて、反応がある。静かに、窓が開く。
 先程、遠くから見た、黒髪黒目の姿が現れる。
 勿論あの笑顔では、決してないのだが。



 何時、御帰還なさったんですか、こんな時間まで詰めていらっしゃったんですか。
 ……どうして、ここに来られたんですか。
 等と聞いてくる彼。
 適当に答えを返しながら、私は窓から侵入したばかりの、静かな空間を見渡す。
 いつもは呼ぶばかりで、私がこの部屋に来たことは、今まで一度もなかった。
 初めて目にするその場所は、意外に寒々しく、物のない部屋だった。
 日用品は、入学当時に支給されたものだけを、使っているようで。
 灯りが消えたままの、薄暗い部屋。そして狭い。
 座る場所すら見当たらなかったので、私は、毛布の捲れたベッドの端に、腰掛ける。
 すると、少し離れた場所に、相手も掛ける。
 それを見て、私は疲れた溜息をついた。
 部屋に来てはみたものの、別段、大した目的がある訳でもなく、何となく自分から口を開くべきだという気がしたので。
『君はサービスといるかと思ったよ』
 と、話しかけてみる。
 ジャンは肩を竦める。
『恋人たちの夜だからですか』
 そう、笑う。
 闇の中で、その黒い瞳は、更なる深い闇に見えた。
『もしそうだったら、貴方はどうされたんです』
『さて……どうしただろうね。素直に退散したんじゃないかな』
 それが偽りのない本当の私の気持ちだった。



 隣に座る相手を、抱き寄せなければいけないような気持ちに襲われる。
 だからそうした。
 そして、相手が目を瞑るから。
 私も目を瞑る。



 私はいつも、彼に触れる時、何かが麻痺していくのを感じている。
 雨に濡れるように。
 温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
 最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 自分の手を動かすということが、まるで道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
 だからそのまま、流れに身を任せてしまう。
 自分自身が、誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
 また、繰り返しだ。
 何時まで経っても進歩のない、無駄な営みなのだと思う。
 くだらない。
 今夜もきっと、そうなのだろう。
 私は、ただぼんやりと。長い間。
 これから、遠くを見つめているばかりの君との時間を、過ごすことになる。



 ――君が。
 私より、サービスを愛する気持ちは、わかるよ。
 大事な弟だから。我が家で一番、可愛がられてきた子なんだよ。
 十分承知だろうが、あの子はいい子だ。
 根は素直で純粋だ。綺麗で。
 そこにいるだけで、誰からも、愛を集める子だよ。
 私とは違う。



 君は、私のことなんて、何とも思ってはいないのだろうということも、わかる。
 こんなに近くにいるのだもの、それはわかるさ。
 君にとって私は、不快であるのだろうかとさえ思う。
 嫌なんだろう……?
 それでも君が、私にこうして身を任せるのは、何か思惑があってのことなのかもしれないね。
 いつか何かの目的に、私を利用できるとでも思っているのか。
 愛するサービスの兄だからなのか。
 関係を断れば、私がサービスに全てを告げるとでもいうのか。
 それとも、ただのなし崩しで、惰性で、自分の身体なんてどうでもいい人間であるのか。
 ただ単に、私の権力に従っているだけなのか。
 ……いや、それは違うね。
 なぜなら、君は最初から、私を怖がらなかったから。
 追従だって、言わなかった。混じり気のない目で、じっと見据えてきたよ。
 だから私には、きっと。
 君が、他とは違って見えた……。



 そして私は。自分は、喪失感を求めているだけなのかもしれないと、一人冷笑する。
 容易に手に入る、この世の、ありとあらゆるものよりも、手に入らない、ただ一つのものが欲しくなる。
 幼い頃から頂上に立ってきたが故の、奇妙な性癖かもしれなかった。
 簡単に得てばかりきたために。
 何かを得ることができないという、その喪失感に、無力感に、私は焦がれてならない……。
 だから、禁じられているものばかりが、欲しくなる。
 愚かな。
 でも、それでもいいのだと。
 自分は、この喪失感こそを愛しているのだと、この時の私は思っていた。
 手に入れてしまえば、きっと自分の執着は消える。
 興味がなくなり、また再び乾燥した色のない世界が始まる。
 単調な私一人の世界。
 それが、嫌だった。
 自分が愛することをやめてしまうことだけが、怖かった。



 その時、扉の外で、人の気配を感じた。
 私は、相手の身体を離すと、咄嗟に壁とベッドの僅かな隙間に身を滑り込ませる。
 自分の気配を消す。
 すると隠すように、自分の上に毛布が掛けられるのを感じる。
 カチャリと、鍵のかからない扉が開く音。近付いて来る、忍ばせた足音。
 部屋に入ってくる。
『……高松。何のつもりだよ?』
 これも急いで身を整えたらしい、ジャンの声。
 侵入者は、いつもの人を食ったような台詞を吐く。
『しまった、起きてましたか、アナタ』
『しまったじゃないよ……ナンだよ、その袋』
『おやあ、見てわからないんですか? もっと文化習俗の勉強をすべきです』
『いや、わかるとかわからないじゃなくてさ。それに袋、担いでるだけだし。部屋着のままじゃないか』
『フッフー。即席サンタですよ。はい、ちょっとお部屋拝見』
『あのな、俺は普通に寝てただけだよ!』
『はいはい。失礼しました。よし、ジャンはオッケー……イヴの夜も、清く正しい少年でした、と。サービス! 安心して下さい、ジャンは合格ですよ!』
 その台詞の後に、弟の声が聞こえた。



 足音。これも部屋に入ってくる。
『何が安心だ……ジャン、呆れたろう。高松の奴、他人の弱みを握るために、サンタと称して各部屋を回ってチェックしてるんだ。まったく腹黒い男さ。その上、僕に付き合えってうるさくって』
 ベッドの下から、サービスと高松の足が見えた。
『サービスがいてくれれば、後日、仮に問題になっても上手く切り抜けられますからねぇ……って、これは心外な! 私は学生諸君に日頃の感謝の意を込めて、プレゼントを配って回っているだけですよ』
『例の手製の錠剤だろう? 人体実験も大概にしたら』
『さあてジャン、今夜はこれから、あなたにも付き合って貰いますよ! 恋人を連れ込んでいたり、部屋を抜け出していそうな人間は、前もってリストアップしているんです。大部屋で、帰省者が多くて一人部屋状態の所が怪しい……ほら、起きた起きた!』
 この三人は、何だかんだでとても仲が良いのだ。
 常に一緒にいるのだと聞くし、実際に姿を見かけもする。
 その中でジャンは、私といる時とは違い、少し抜けた所のある、お人良しなキャラクターをしているようだった。
 もっとも、こちらの方が本当の彼なのかもしれなかったが。
 いや……サービスと二人でいる時の、あの笑顔の方が……。
『わ、わかったって! 今着替えて行くから。先行っててくれよ』
 そんなジャンに、またサービスの声。
『まったく、とんだクリスマスイヴさ……まあ、眠れなかったから、こういうのもいいけどね……そうだよジャン、お前が付き合ってくれないと、僕ばっかりが、とばっちりを食って不公平だ』
 そう言った弟の靴先は、やけに軽く、嬉しそうに、私には見えた。
 二人の侵入者は、高松のメモか何かを見ながら、これからの計画を喋っている。
 扉から廊下に出ようと、歩き出す。
 隙を見て、ジャンが私に小声で話しかけてきた。
『あの……俺……』
 気まずそうな彼に、私は答える。
『最初に言っただろう。私は退散するよ』



 
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m2
クリスマス・キャロル
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2. 過去の亡霊

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 マジックが目を覚ました時、辺りは闇だった。
 彼は息をつく。そのまま、冷たいシーツに頬を当てている。
 体が重かった。
 薄目に赤い色の袖を見て、彼は疲れを覚える。
 自分は軍服のまま、寝入り込んでしまったらしい。
 沈み込んだベッドは柔らかかったが、いつも通りに素っ気無かった。
 何とはなしに、彼は暗がりを見つめていた。
 ひどく寒かった。
 閉め切った厚いカーテンの向こうには、白い花が咲いたように、窓霜ができているのだろうと思う。
 再び目を瞑る。
 そして、不思議だと感じた。



 ……何処かで、鐘が鳴っていた。
 ここは軍本部。寝室だ。こんな所に、時鐘があるはずはないから、自分はまた夢の中にいるのかと思索を巡らす。
 しかし、この音を、自分は知っているとも感じている。
 郷愁と胸のざわめき、揺れる無為。
 それは心の奥底に沈めたものを、呼び覚ますかのように、響き渡る。
 幼い頃、自分たち兄弟が住んでいた街の、時計台の鐘の音だった。



 最後に一つ、大きく鐘が鳴った。
 鈍い響き、長く尾を引くような余韻が空気を震わせる。
 じわじわとしたその音が、途切れた時。
 その瞬間。部屋の闇に、さっと光が閃いた。
 闇の切れ目は広がり、辺りは眩しい輝きに包まれる。
 マジックは、目を見開いた。何者かの手が、カーテンを引いていた。
 溢れくる光。まばゆさの燐粉。
 そしてあろうことか、光の中に、人のかたちが、佇んでいた。



 それ、は奇妙な姿をしていた。
 彼? 彼女? 子供? 青年? 老人……? それすらわからない。
 何か超自然の媒介を通してでもいるのだろうか。
 その姿自体を、マジックははっきりと捉えることができない。
 ただ、輝く純白の上衣、深く被ったフード。銀製のベルト。
 その片手に持った、ヒイラギの緑の若枝が目に映る。
 一番奇妙なことは、その訪問者の頭上から明るい光が煌々と溢れ出していることであり、そのためにこうした、いっさいのことが見えているのだった。
 マジックは、ぼんやりとその訪問者の輪郭を追っている。
 じっと見つめていると、形は揺らめき、背後の闇に溶け込んでしまう。
 さらに見つめていると、また元のようにはっきりと明確に見えてくる。
 明滅するかのような、その姿はこの世の存在であると、到底考えることはできなかった。
 やがて、一つのことが脳裏に閃き、マジックは瞬きをする。
 そして、そっと口を開いた。
 自分は夢に付き合わなければいけないようだと、溜息をつきながら。
 長い夢だ。きっと自分は、かつてない程に疲れ、落ち込んでいるのだと自嘲しながら。
「……あなたは。あの子が……幼いシンタローが会えと言った存在ですか……?」



「そうだ」
 返って来た声は、穏やかで、優しかった。
 すぐ近くにいるのではなく、遠くにいるように。遠くにいるのではなく、すぐ側にいるように。
 声音は不可思議に響く。
 この声は――耳で聞こえるのではなく、自分の頭の中に直接伝わって来ているようだった。
「私は、過去のクリスマスの亡霊」
「……過去の……?」
 マジックは眩しげに眉を顰め、小さな声で言った。
 この透明な空間の中では、自分の声だけが苦い味を含んでいる気がする。
「お前の、過去だよ」
 そう、訪問者は呟く。
 自らを亡霊と呼んだ存在は、静かにその手を、ベットで起き上がる自分に伸ばしてきた。
 まるで白磁で作られたように、まろい乳白色をしている手だった。
 指は長いようにも短いようにも感じられた。幽玄のかたち。
 目の前に差し出されたそれを、ただ見つめているだけの自分に、亡霊が、少し笑ったような気配がした。
 訳がわからない、馬鹿馬鹿しい。
 そんな自分の考えを、その光の存在は読み取ったのだと、マジックは感じる。
 変わらず内面に響いてくる声。
「心するがいい。私は、お前のために、ここに来た」



 不意にマジックの手が、強い力で握られた。ぐいと引かれる。
 彼は新鮮な驚きを覚えた。こんな風に、他人から行為を強制されるのは、久しくなかったことだった。
 いつもは命じ、抑え付けるることしかない自分の手。この数十年の長きに渡り、支配に慣れた手。
 亡霊はそれを何でもないように、当り前のように引く。
 異様なまでの暖かさが、触れた部分から自分に染み込んでくるのを、マジックは感じた。
「立ちなさい。そして、私と一緒に来るがいい」
 こうして命令されるのも、ひどく懐かしい心地がする。
 何故だろう。決して不快ではなかった。
 どうしてか、自分の乾いた心の中に、この手は入り込んでくる。
 そんな潤いを、この亡霊の白い手は、含んでいた。



 我知らずマジックは立ち上がったが、そのまま亡霊が、寝室の大窓に向かうのに気付き、話しかける。
 先刻のシンタローのように、窓から外に出ようというのだろうか。
「待って下さい。私は貴方とは違って幻の存在ではない。どうしようというのです」
 光の亡霊は振り返った。
 木漏れ日を思わせる、その動作は緩やかだった。
「手を……」
 そう言いながら、幻は繋いだ手を、マジックの軍服の胸に当てる。
「手をこうしていれば、私が支える。心配は無用」
 その時、二人の身体はすうっと窓を通り抜けた。
 まるで太陽の光が、薄いレースのカーテンを通り過ぎるように。
 クリスマスとは不思議だ。
 今夜は私まで幻になってしまったようだと、マジックは思った。



 光のきらめきの、ほんの一瞬で寝室の暗闇は消えて、跡形もない。
 自分と亡霊は、一つの光景に降り立っていた。
 すぐにマジックは、この場所には、様々な匂いが立ち込めていることに気付く。
 その匂いは、遥か昔に忘れてしまった数々の物思い、希望、喜び、不安と結びついていた。
 これが夢であるのなら。
 彼は思う。
 これが夢なら、美とは、私の奥底にあるものなのだろう。
 彼はゆっくりと周囲を見渡す。
 穏やかながらも、風景は淡い幸福に満ちているかのように、佇んでいた。
 石畳の敷かれた、古い街並。ミズナラの街路樹、立ち並ぶ石造りの建物の、落ち着いた色。
 木々の向こうに見える緩やかな丘陵、美しい森、薄青の空。鳥たちの住み着いた時計台。鐘が揺れ、優しい音で時を告げている。
 その景色全体に、ヴェールのように淡く積もる、雪。白い雪。
 明るく冷たい冬の昼間。
 その道を、駆ける子供の足音。



「……ここは、私の育った場所ですね」
 そう誰ともなしに彼が呟くと。
 亡霊はマジックを優しく見つめた。
「道を覚えているか」
 そう聞いてくるので。
「ええ」
 自分は頷いた。
 幼い自分が、毎日のように通り抜けた道。
 遠い昔に、馴染んだ場所。今、目にする風景は、記憶の中のそれよりも、やけに小造りに感じられた。
 こんなに、ちっぽけな場所だったなんて。
 そう彼は静かに思う。
 ……道の向こうから、子供が二人駆けて来る。



 声が聞こえた。
 何か楽しそうに笑いながら、石畳を駆けて来る。
 一目で兄弟だとわかる、そんな容姿をその子供たちはしていた。
 金髪で青い目。似た背格好。似たコート。肩から提げた、お揃いの鞄。
 あの鞄は……そういえば、何処に失くしたのだろうか。
『兄さん! そろそろ歩きましょうよ! 何だってこんなに全速力なんですか!』
『馬鹿、ルーザー、お前、もうすぐクリスマスなんだよ! 準備をするんだ! 一秒だって無駄にできやしないよ!』
『もう! こんなに走ったって、大して時間は変わりゃしませんって! それに、どうして僕まで……』
『クリスマスだからだよ! 決まってるだろ! よーし、家まで競争だ!』
『嫌ですって! 僕は……!』
 常に不満そうだが、それでも必ず付き合ってくれる弟と一緒に、その少年は元気一杯に、自分の前を通り過ぎて行く。
 マジックは、二人の小さな後姿を見送った。
 全速力だと言った通りに、荒い息に波打つ二つの背中が、弾むようだった。
「ほら、お前がいる」
 ようやく、これも同じく子供を見つめていた亡霊が、言った。



『そうだ、ルーザー、フェンシングの試合、勝った?』
『僕が負ける訳ないでしょうに』
『……もう、まったくお前は!』
 道の向こうへと消えて行く、学校帰りの子供たちのさざめき。
 あの先には、小川がある。石橋が架かっていて。
 川岸には、小さな風見鶏のついた円屋根の塔があって。風が吹く度、くるくると回るのだ……。
「これらは昔あったものの影にすぎない」
 そう亡霊が言った。
 マジックは、側の存在に目をやる。
 その言葉を、聞いていた。
「彼らには、私たちがここにいることがわからないのだ」



 マジックと亡霊は、懐かしい家路を辿った。
 時計台の鐘の音に合わせて、小鳥たちが嬉しげに木や建物へと飛び移る。
 雪化粧をした川沿いの道は、冬の太陽に照らされて、きらきらと輝いていて、木々は、日差しに薄っすらと枝の氷を溶かし、雫として大地に落とす。
 ふと、それに気付いて彼は、掬う形にして、その手を差し出したが、透明な水は、彼の手を通り抜け、ぱしゃんと足元に弾けた。
 輝く亡霊は、この風景は影にすぎないと言ったが、マジックは、自分たちこそが影なのではないかと感じる。
 日差しを仰ぐ。
 現在の自分こそが、遠くに去りし、美しき日々の幻影であるのかもしれない。
 あの頃は、自分がこんな人間になるとは、思ってもみなかった。
 宗教彫刻の施された石橋。冷たい清流。柔い土肌を所々に見せる、白い川原。
 そうだ、春になれば、この場所には一面に野の花が咲き乱れるのだ。
 若葉の季節に向け、彼らが雪下に息を潜めている様子まで、ありありと感じられて。
 この場所の、雪は――
 薄黄がかった水色、淡い綿菓子を溶かし込んだような空を、マジックは見上げる。
 そして見下ろす。
 自分が常に在る戦場とは違って、この場所の雪は、優しい色をしている。
 決して赤く染まることのない雪。



 四つ辻を曲がり、長い壁を過ぎ、門へと歩を進める。
 広がるアプローチ、美しく手入れされた前庭、豊かに茂る樹木。
 それらを通り過ぎ、足を踏み入れた邸内は、何処か甘い匂いが漂っていた。
 子供の話し声がする居間。玄関ホールにまで聞こえてくる、笑い声。
 亡霊は、相変わらずマジックの手を取ったままだ。柔らかな動作で彼を導いて行く。
 その頭上から零れる光が、亡霊が歩く度に、家中に撒き散らされていくのだった。
 すると、ぱたぱたと、小鳥が羽を震わすような足音がして、マジックは、首をかしげて、長身から傍らを見下ろす。
 そこには、濃い豊かな金髪、赤い頬。大きく丸い、悪戯っぽい青い瞳。
 幼児が、自分を、じっと見上げている。



 しばらく幼児は自分を見つめていたが。
 やがて意を決したように唇を引き結び、小さな手に抱えていた木椅子を、マジックの足元に置く。
 そして、それに、ひょいと飛び乗ったかと思うと、背伸びをして、マジックの方に、手を伸ばしてきた。
「……?」
 彼は、自分の姿が幼児に見えたのかと思った。
 しかし、その紅葉のような手は、マジックの幻の身体を擦り抜ける。
 マジックは自らの背後を振り返った。
 幼児の手が掴んでいたものは、壁飾りの剣、クレイモア。
 いつもこの場所に掛けてあった、装飾品だ。しかし両手剣だけに、十字型の柄は幼児の手には余る程大きい。
 案の定、危なっかしく手元が滑り、ガシャンと大きな音を立てて、剣は床へと落ちる。
 剣先についた輪状飾りが、弾けて転がっていく。
『む~』
 それを見下ろした幼児が、しまった、という顔をした。
 その時。
『ハーレム! 何やってるんだお前! そんなの外しちゃダメだろっ!』
 すかさず、叱責する声がやってくる。慌しい靴音がする。
 子供は、素早く木椅子から飛び降り、落ちた剣を胸に抱えると、逃げるように走り出した。
『ハーレム! こらぁ! 待ちなさい!』
『やだよぉー! おにーたん、おこるもん!』
『お前が怒るようなこと、するからだろっ! そんな危ないモノ、ツリーに吊るすなんて絶対ダメ!』
『だってぇ~! なんでも好きなモノ、つるしていいって、ゆったぁ!』
『何でもなんて言ってません! 何時何分何秒だよ! お前こそ言ってみろ……って、こら! 何てすばしっこいんだ、お前はぁ!』
 小さな三男は懸命にちょろちょろと走り、兄をかわして、居間に滑り込む。
「……」
 マジックは、その光景を黙って眺めていたのだが、これも立ち止まっていた亡霊が、自分の手を引いたので、自分も居間へと向かう。



『ふぇーしぐ! えーい! ルーザーおにーちゃん、えーい!』
 暖炉の前に、サービスと並んでクリスマスツリーを飾る、金色のリボンの細工をしている次男に、ハーレムは果敢に向かっていく。
 しかしルーザーは、その弟を面倒臭げに一瞥し、こう言っただけだった。
『ハーレム。それはフェンシングの剣じゃないよ。邪魔しないでくれないかい。この細工は案外難しいんだ』
『ふぇーしぐ! えーい、サービスぅ! しょーぶ! ルーザーおにーちゃん、しょーぶ!』
 勿論、剣は安全処置が施してあるものだが。
 暖炉の火に、きらりと子供が振り回した刃先が光って、一瞬、それにサービスが怯えた目をする。
『……勝負だって?』
 次男が、白い顔のまま、すっくと立ち上がった。
『そう……ハーレム、お前は僕と勝負したいの……いい度胸だね』
『……う……?』
 子供は、兄の雰囲気が変わったことに気付いたようだが、止まったままだ。
 小さな足が震え出している。
 飲まれてしまって、動けないらしい。
 ルーザーの背後から、サービスが金色の頭を覗かせた。
 すると、その顔を見たハーレムの顔に、生気が戻る。みっともない所は見せたくないという気持ちが働くのだろう。
 怯えを滲ませながらも、三男は口を開く。
『むー! ルーザーおにーちゃん……しょ、しょーぶ! しょーぶ!』
 マジックは、その光景に目を細めた。
 ああ、お前たちは、こうだったね、と呟きながら。
 三人の弟たちは、いつもこうだった。
 失われた光景がここにある。



『こらぁー! ルーザーまで! なぁにやってるんだよ! お前らは!』
 そして、これが四人の風景になる。
 必ず大騒ぎになり、必ず厄介なことになって、最後は必ず優しい気分になって、御飯を食べる。
 そして、この日はきっと、クリスマス当日とイヴを楽しみにして、眠る。
 指折り数えながら、クリスマスの時間を過ごす。
 彼らは自分では気付いてはいないだろうが、四人は四人共が、ひどく幼い顔をしていた。
 年長振っている自分も、冷めた人格を気取っているルーザーも。
 あどけない瞳の、双子も無論、とても幼い。
 守られるべき年齢をした、ただの子供たちだった。
 無邪気に笑うことのできる、可愛らしい子供たち。
 あの頃は、毎日が一生懸命で、はちきれそうで、輝いていたから。
 マジックは思う。
 輝いていたから、自分たちの姿を顧みる必要なんて、なかった。
 それだけで、幸せだったのだ。



 今、自分の時間では、一人は死に、一人は罪を負わせたまま共に在り、一人は遠い場所にいる。
 もう戻ることはないクリスマスの風景。
「できることなら」
 そう感じた時、マジックは口を開いていた。
「できることなら、この子供たちの幸せが、続けば良かった」
 亡霊が、そっと自分を見つめてくる。
 そして、手にしたヒイラギの枝を振った。
「また別のクリスマスを見ようか」
 青々とした葉のついた枝から、砂のように光がきらめいて。
 次の瞬間、空間が弾けるような感覚と共に、マジックと亡霊は、暗い部屋に立っていた。



 その場所は、静寂に包まれていた。
 見覚えのある寝室。柔らかな香り。
 落ち着いた色合いのマホガニー製サイドボードには、綺麗に整頓された書類。
 銀の懐中時計、呼び鈴。
 ペン立て、べっ甲のペーパーナイフ、インク瓶と真鍮でできた文鎮。
 ベッド。薄い天蓋の奥に、人影。
 その人を、マジックは知っていた。
 そう意識した時、喉の奥が、乾き切ってしまったようだった。
 我知らず、指先が震えた。
 もう四十年近くの間、自分が口にしたことのない言葉だった。
 忘れようとしてきた人。
 心の空白。
「父さん……」
 マジックが、そう呟いた時に、寝室の扉を、控えめにノックする音が聞こえた。



『入りなさい』
 天蓋の奥から、声が響く。記憶の淵に沈めた、低音の懐かしい声。
 マジックは思わず目を瞑る。
 聞いていたくはなかった。
 抗議するように振り返ったが、亡霊は、ただ端然と佇んでいるだけだった。
 ……ノックの主が、寝室の扉をそっと開く。
 ぎいっと音がして、薄明かりが暗い部屋に差し込んだ。
 そこにあったのは、幼い顔だった。だが、戸惑うように、その子供は、廊下に立ち尽くしている。
『どうした……マジック』
 遂に、その名が呼ばれて。
 その子供時代と同じように立ち尽くしていたマジックは、閉じていた目を開く。
 起き上がった、その人の顔を見る。微かに息を吐く。
 そして、目の前にいる、過去の自分と同じく、足が杭で打ち付けられたように、動かなかった。



『……父さん……ごめんなさい、えっと……』
 冷たい廊下で、扉に手を掛けたまま口ごもっている四人兄弟の長男は、弟たちを叱り付けている時とは、全く違う表情をしていた。
 寝間着とガウン。寒い冬の日。
 マジックは、ぼんやりとそれを思い出す。
 この日の朝に父親は、家族とクリスマスを過ごすために、遠征の合間を縫って帰ってきていたのだった。
 そして翌日には、また慌しく旅立ったはずだ。
 いつもはこの部屋には、主は、留守がちで。ただ、その存在を主張する、香りだけがしているのだ。
 過去の自分は――主に双子たちが眠った後――こっそりとこの部屋に入っては、しばらく時を過ごしていたものだった。
 安らぎをくれた人。
 会える時は短くても。
 あなたが、いてくれたという、それだけで。
 ――父さん。
 今度は口の中で、マジックはその言葉を繰り返した。
『父さん』
 少年の声が、それと同時に重なる。
『ごめんなさい……何にもない、です……おやすみなさい』
 赤面して、去ろうとする少年。
 それを、再びあの声が呼び止めた。



『待ちなさい。またあの夢を見たんだろう……こっちにおいで』
 図星を指された少年の耳は、ますます赤くなったが。
 しばし躊躇した後、大人しく父親のベッドの側に行く。
 そして、隙間を空けて貰った毛布の中に、遠慮がちに潜り込んだ。
『父さん……』
 そう言った少年は、すうっと抱き締められる。
 その暖かい腕に、少年は目を瞑る。
 こうしていると、青の力の覚醒、日常の様々なこと、強がっている普段の自分が、全て溶かされて、当り前の自分に戻っていくのだった。
 悩んでいたことや、悲しいこと、全部が何でもないことに思えていくのだった。
 自分の弱さを、弱さとして受け止めることができる。
 そんな場所だった。
 あの人の、優しい腕の中は……。



「……どうして」
 今はこうして、届かない場所から見ていることしかできない……。
 立ち尽くしていたマジックは唇を噛み締め、傍らの亡霊に言う。
「どうして、私にこんな光景を見せる……何が目的なのだ。亡霊よ、そもそもお前は、何者なのだ」
 苛立ちが、自分の言葉を荒くする。
 繋いだままの手を振り解こうとしたが、何故かそれはどうやっても解けない。
 そして輝く存在は、静かに告げただけだった。
「目的などない。ただ、私はお前のあるがままを見せるだけ」
 そして続ける。
「過去がそのようなものだからといって、お前は私を責めることはできない」
 しかしそう言い切った後、亡霊は微かに躊躇したようだった。
 その不自然な間を、マジックはおかしいと感じた。
 亡霊は、無機質で生気を感じさせない存在だったが。
 ごくたまに、こういう瞬間があることに、気付いていた。
 この存在からは、僅かに、何かの香りがするのだった。
 輝く光の眩さによって、紛れてはいるが。
「……次の場所へと行こう」
 静かに亡霊が、それだけを言った時、またぐらりと空間が変化した。



「……?」
 マジックは、次の空間で、辺りを見回した。
 同じ場所ではないか。
 ここは、先程と同じ、父親の部屋だった。
 確かに何かが変化した感じがしたのに。
 カーテンは締め切られ、これも暗闇だ。だが、無人のようだ。真夜中の静けさが漂っている。
 マジックが、不審気に側の存在を見遣ると、そっと亡霊は、その手にしたヒイラギの枝を、揺らした。
 枝が指し示した先には、無人のベッドに背をもたせ、床に膝を抱えて座り込んだ、小さな自分の姿があった。
 黒いスーツを着ている。泣き腫らして、赤くなった目の縁をしている。
 空虚な瞳。
 マジックは息を呑んだ。



『僕は弱くて、何もできなかった』
 少年の心の声が、聞き取れる。
 亡霊との会話と同じように、その声はマジックの内面に響き渡っていく。
 まるで、現在の自分が、同じ思考をしているかのようだった。
 自分の精神が同調していく。
 心が奪われる。
 あの時の心に、時を重ねたはずの自分が囚われていく。
 マジックはこめかみに手を遣り、亡霊を睨みつけた。
「どうして……私にこんな光景を見せる……」
『目の前で、父さんが死んでいくのを、見ていることしかできなかった』
 それでも声は淡々と続いていく。
 際限のない思索の海の水平線を、目指している。
『……お前が家族を守るんだ……』
 反芻されていく、父親が残した言葉。
 その少年の唇からは、血が滴り落ちていた。
 マジックは知っている。
 幼い彼にとって、家族とは、父が支えたもの全てだった。
 受け継いだものが、全てだった。
『力が欲しい……』
 少年は願う。
 どんな力でもいい。間違っていたっていい。
 全てを支える力が欲しい。
 弱くて幼くて、ちっぽけでしかない自分が。
 全てを背負って立ち上がる、力が欲しい。



 ――あの時。
 そうだ、あの時。
 葬儀の後、弟たちを部屋にやっと寝かしつけた後。
 主を失った、その部屋に入り込み、自分は一人、どうすることもできずに、うずくまっていたのだった。
 もう何も、自分が頼るものなどないのだと思った。
 優しく触れて、抱き締めてくれる人など、いないのだと思った。
 この部屋に残る香りも、すぐに消えて行くのだと思った。
 すると、いつしか暗闇の中で、青い光が、そんな自分の傍らで、輝きを増していったのだった。
 青い石。
 自分は、微かに、その声を聞いたような気がした。
 求めるものはこれなのだという予感に、幼い身を震わせた。
 いつも父の傍らにあったそれは、これからは自分の側にあるのだ――



 今、マジックの目の前で、過去の少年は、恐る恐る、青い輝きに向かって、その手を伸ばし始めていた。
 短いようにも長いようにも感じられる時間の後に。
 遂に、細い指先が、石に触れる……。
 爪の鳴る微かな音。
『僕は、力が欲しい……』
 少年の呟きに答えるかのように、石はますます輝きを増していく。
 僕は、と憑かれたように呟きながら、虚ろな目をして少年は、石を手に取る。
 握り締める。
 そのすべらかで冷たい感触は……。
 ……それからの彼の拠り所となっていくのだった……。
 ――あの子に、奪われるまで。



 マジックは、肌を総毛立たせた。
 悪寒がする。倒れ込みそうになる足を、必死に支える。
 目の前の少年と同調した自分の精神は揺れ、惑い、混濁する。
 石と共に。何処かへと堕ちていく感覚。
 後から後から込み上げてくる、激しい感情。
 邪悪な力。そして青い光に縛られていく快感。
 何かを滅ぼしたい、滅ぼされたい、何かに自分を埋めたい、奪いたい、奪ったもので自分を埋め尽くして見えなくしてしまいたい、失ったもののいた場所を埋めたい、壊したい、壊して全てのものを支配したい、綺麗なものを汚したい……。
 憎いよ。
 父さん。
 あなたを奪った全てが、憎いよ。
 僕に力を与えた全てが、憎いよ。
 突き上げてくる衝動に身を委ねることは、甘い陶酔を伴っていて。まるで悪魔の誘惑のように、全身を麻痺させる。
 憎悪と負の感情を増幅していく青い石は、少年の未だ無色な力を染め上げていく。



 父さん。
 息が苦しいよ。
 苦痛に歪む少年の顔。
 マジックも自らの鳩尾に手を当てたが、胸はますます締め付けられていくようだった。
 囚われていく。
 父さん……。
 目の前の少年の心と共に、彼は呟かずにはいられない。
 自分の声と、少年の声とが重なり合って木霊する。
 父さん。
 僕は、あなたがいないことが、悲しい。
 寂しくて、堪らない。
 あなたは、何処に行ってしまったのですか。
 僕は一人、ここで何をするべきなのですか。
 こんな、ただの子供でしかない僕が……。
 するとその問いかけに答えるように、小さな手の内の、秘石の奥に、少年が味わったばかりの、そして現在の自分が忘れようとしてきた、あの記憶が浮かび上がる。
 それから秘石が、繰り返し映し出すことになる、自分の全てを縛る映像だった。
 ああ、これは。
 マジックと少年は同時に呟く。
 あなたの死の瞬間。太陽に照らされるその笑顔。
 あなたの死を見た時、僕は、幼年時代の愛の夢から醒めた。
 あなたの美しい死に顔に、僕は弱い自分を捧げた。
 全てを諦めたのです。



「もういいだろう……」
 小さな手に青い石を乗せ、それを一心に見つめている少年から、忌々しげに目を背けると、マジックは厭わしげに頭を振った。
 同調してしまった自分に、どうしようもない疲労感を感じていた。
「……もう私に何も見せないでくれ……私を元の時間に帰して欲しい……」
 白い上衣を着た存在は、沈黙したままだった。
「亡霊よ、どうして私を苦しめて喜ぶ……?」
 視線を向けると、その目深に被ったフードの下が、小さく動いたような気がした。
「先刻も告げたように。私はお前のあるがままを見せるだけ……なぜなら、それがお前にとって必要なことだからだ。そして、生きながらお前を想う人間が、そう願ったからだ。私はその心に、遣わされているに過ぎない……」
 亡霊は、囁くようにマジックに語りかけた後、再び口を閉ざした。



 その時、鐘が鳴る。
 高く低く、それは悲しい音色をしていた。
 膝を抱えたまま動かない少年の空間を、亡霊とマジックの存在する幽玄の空間を。
 等しく切り裂いていく。
 切り裂いて粉々にして、混ぜ合わせるように、鐘の音は世界を揺らし始める。
 言葉が響く。
「私の時間は、終わりかけているようだ……」



 鐘の音と共に、空間は歪み、時間は歪み、全てが縺れ合い始める。
 いつしか傍らにいた少年は闇に消え、石も消え、何もかもが溶け。
 いまやマジックの側には亡霊の姿しかなかった。
 来た時と同じように、また自分は時を越えて、元いた時間へと帰って行くのかもしれなかった。
 遠くから呼ばれている。
 自分は時間に、呼び戻されている。
 亡霊の頭上から溢れる光は輝きを増し、きらめきを撒き散らし、正視することができない。
 世界は流れる混沌の中にあった。
 しかし、その精神的喧騒においても。それでも、自分たちは、手は握ったままだった。



 今。マジックは、その手の肌触りだけを感じている。
 これ迄、おぼろげな像でしかなかった、亡霊の手。
 どうしてかこの瞬間、自分は、はっきりとその存在を感じ取ることができる。
 そしてマジックは、この手を知っている、と思った。
 何故今まで、気付かなかったのだろう。
 ひどく懐かしい。
 亡霊よ。私は、あなたの手を、知っている。
 この感触を、知っている。
 私はこの手を……ずっと……。



 溢れ来る光。黄金色の荘厳。
 眩さの中で、ゆっくりと、亡霊が、マジックを振り向いた。
 時の逆流の中で、亡霊の輝く上衣は溶けて消え去り、覆い隠すフードは跡形もなかった。
 あの時のまま。命を失った時と同じ、美しい顔。
 優しい笑顔。
「父さん……」
 今夜何度目かの、その自分の言葉に、初めて亡霊は答えた。
「マジック」



 そうだ。
 僕は……。
 僕は、いつだって、あなたを探していた。
 父さん。
 世界中で、あなたを探していたんです。
 雪の地でも、枯れた荒野でも、豊かに実る高原でも、遠い海の果てまでも。
 こう問い続けていたんです。
 あなたは、何処にいるのですか。
 いつか、全ての大地を手に入れたら、あなたが、見つかりますか。
 また……出会うことができますか。
 全てを手に入れたら、最後に、あなたが手に入りますか。
 あなたを失ってから、ずっと僕は。
 途方もない喪失感と無力感に、征服欲を駆り立てられていた。
 奪えば奪う程、あなたに近付いて行くのだと思った。
 あなたを失ってから、ずっと私は。
 ずっと、誰かを愛することに、憧れていた。



 鐘が鳴る。
「私の時間は、終わりかけている」
 懐かしい姿が再び厳かに告げ、白い上衣がふわりと揺れ、彼が身を翻す。
 握り締められていた手が、初めて離される。
 失う感触にマジックは、その手を伸ばした。
 絞り出すような声が、自分の唇から漏れるのを、聞いていた。
「……待って下さい!」
 父さん。
 私が最初に出会った人。
 行かないで下さい。
 光の人。
 私の、最初の人。



 去ろうとする人の、流れるような金髪は、その自ら放つ光で美しく輝いていた。
 かつて自分が百獣の王にも例えたその人は、最後に。
 また、微笑んだように見えた。
 光は燃え上がるようにその輝きで、全てを燃やし尽くしていく。
 覆い尽くされていく。
 私の過去が……燃える……。
「父さん……!」
 そう叫んだ瞬間に、マジックは、その頬に冷たい夜を感じた。









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m1
クリスマス・キャロル
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 誰かを愛したい。
 ずっと。
 ずっと、誰かを愛することに、憧れていたよ。




1. クリスマスの亡霊

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 白い雪の海原だった。
 悲鳴が掻き消された後の静寂が、その空間を支配している。
 閃光の名残。色彩のコントラスト。赤濁した血。黒い残骸。
 指先を掠める、錆びた鉄のように素っ気無い風。
 溶けた金属片、弾けた機械油、一瞬前はそこに命があったという痕跡。
 立ち込める硝煙と、焦げた生き物の肉の臭いと、薄闇に染まる空。
 空。
 その空を仰いだマジックは、僅かに眉を顰めた。
 少しやりすぎた。
 自らの足場さえ、消炭にしてしまう所だった。



 暴力的な蹂躙こそが、戦場では一番簡潔で、美しかった。
 ここには、死はすぐ側に存在したが、自分からは遠い存在でしかない。
 群れた命は土に還り、またすぐに蠢き出すだろう。
 自分は絶対者として、その永遠の生命連鎖を速めてやっているにすぎない。
 奪う者が奪っただけのことだ。何の感慨もない。
 ただ彼は、自らの力の不安定さだけが、気になった。
 ここには制御力を増幅する秘石がないので、微妙な加減を見誤る。
 マジックは、自分の手を見た。
 それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
 そう、この手が。
 この手が常に触れていた、青い石がない。
 奪われた。
 ……あの子に。



「……凄まじ……破壊……総帥! これで……版図に……」
 背後で部下が確認報告をしている。
 その声音に喜色を感じ、乾燥した砂を想い、睫毛の先に残り火を見る。
 そうか。私は、この地も手に入れたのか。
 そう思い、周囲の焦土を見渡してみたが、枯れた大地にはすでに何の魅力も感じなかった。
 雪と、かつて命あったものの残骸で染まった大地。
 ひとつの大地。それは、破壊するまでは、自分にとってはそれなりの価値があるように見えた。
 しかし手に入れた瞬間、その価値は、途端に失われてしまう。
 マジックの執着は、今この手に触れる淡雪のように、溶けて消える。
 興味がなくなってしまう。そして次の獲物に関心が移る。
 つまるところ自分は、物事の価値そのものよりも、それを手に入れることだけに憑かれているのだと思う。
 熱情は、伸ばした指先が届かない所にしか、存在しない。
 世界は、大地は。広すぎれば広すぎる程、自分を駆り立てるのだと思う。



 だからきっと。
 あの子をこうして奪うことができないということが、自分にとっての幸せなのかもしれなかった。
 手に入れることができないから。私はいつまでもあの子を、愛することができる。
 何かを欲しいと思っても、それはすぐに私の手の内に入ってしまうから。
 熱は消え失せ、刹那的な執着は消え失せ、私の心はいつもお前へと還る。
 何かを支配した後の空虚感、陶酔の後の徒労とやるせなさ。
 溜息の世界。
 そんな瞬間、いつも最後に私が行き着くのは、お前の面影。
 お前にばかり。
 私は焦がれて身を焼き尽くす。



 日は落ち、海の下に堕ち、遠くなる戦場の鼓動。
 船は翼を広げ、大地を飛び立ち、来た場所へと向かう。
 陰陽の揺らめきでしかない日常。際限のない、繰り返しの日々。
 地表で。暗い闇の中で。都市の光は明滅し、交錯し、享楽の華やぎと喪失の陰りを伝える。
 極彩色のイルミネーション。眠らない街。
 遥か上空、飛空挺の窓からマジックはそれを目にし、今日という日を知る。
 そうか。今宵はクリスマス・イヴ。
 しかし、現在の自分には、それは何の意味も持たない言葉だった。
 微かに昔を思い出しかけたが、すぐにやめた。
 息をつく。
 それから、もう窓の外は見なかった。



 本部に戻ると、彼は自室に何処か違和感を覚えた。先程と違う。
 柔い絨毯を踏みしめた数歩先で、すぐにその原因を理解する。
 デスクの上に、小さなクリスマスリース。
 定番のヒイラギやネズエダを絡ませ、銀のリボンと赤い薔薇で作られた輪。
 ティラミスとチョコレートロマンスの仕業だなと思ったが、今のマジックは、それを煩わしいとさえ感じる。
 そんな気分ではなかった。



 その後二人が、夜の定例報告に来たが、相手も心得たもので、全く表情にも出さない。
 不機嫌な自分に対して、部下は部下なりに気を使っているようだ。
 読み上げられる過去三時間分の戦況報告。
 自軍損傷率と死傷率、そして航空偵察と衛星等から割り出した、敵軍の同じ台所事情。
 南方戦線では、市街地に、武装勢力が市民を盾に強固な防御陣地を築いているとのことで、装甲車を突入させて、威力偵察の遂行を命じた。
 最低でも、地雷原と築城構造物の位置情報だけは入手する必要があった。
 自分の出陣時期は、それ次第。
 ……そして先刻、自分が敵主力を破壊したばかりの戦場では、敗残兵の掃討戦が佳境に入ったようだ。
 あの国では、宗教による統治が行われていて、その最高権力者は自らを大司教と名乗っていた。
 その大司教閣下の高貴なる御口には、身柄拘束の後に大量の自白罪を投与してあったが、数度目の致死ラインで、やっと情報を漏らし始めたという。
 確かその宗教はキリスト教亜種で、彼らにとっても、クリスマスやイヴは特別な日であったはずだ。
 救世主の祭日が、自らの最後の日。
 皮肉なものだと、マジックはぼんやりと赤く燃える暖炉の火に、青い目をやった。
 報告は淡々としてまだ続いている。
 早く、一人になりたかった。



 夜が更け、マジックは安楽椅子に身を埋め、ゆっくりと目を瞑る。
 望んでいた一人の世界は静寂に満ちていたが、思考の掻き乱れる深淵だった。
 浮かぶのは、微かな幸せの記憶。
 暖炉の火が、ごうと燃えた。
 赤い炎と、側の燭台の、蝋燭の揺らめき。窓の外の、夜の息使い。
 自分が、こんな時。心に描くのは、いつもただ一人。
 お前の顔。お前の記憶。
 私から去ってしまった、愛しい影。



 笑い声が聞こえる。浮かんでくる幼い顔。
 遠い昔の出来事。
『パパー! こっちだよ! こっち!』
 甘く脳裏に響く過去の声。それに自分は、語りかけずにはいられない。
 ねえ、シンタロー。小さい頃はよく一緒に遊んだね。
 追いかけっこ、したよね。笑い合いながら。
 お前は、私を大好きって。私もお前を、大好きって。
 楽しかった?
 私は……楽しかったよ。
 とても、楽しかった。幸せだと感じていた。
 ほら、今だって。こうして、目を瞑って。
 私は、その幸せの名残を懐かしむ。あの頃を――
 ねえ……シンタロー。お前は……私といて、楽しかった……?
 幸せだった……?
 そんなの。お前は聞いても、答えてくれるかな。答えてはくれないよね。
 そう空虚な内面に、いつも通りに問いを繰り返すと、目の前に、幼い黒髪黒目の子供が。
 おぼろげだったその面影が、はっきりとその姿を現した。
 明瞭な存在感が傍らにある。
 今、小さなシンタローが自分の側にいる。
 ああ、ここは夢の中の世界なんだと、マジックは思った。



「あのね、パパ」
 3、4歳くらいだろうか。
 過去のシンタローは、小さな手を一生懸命に振って、椅子から立ち上がった、背の高い自分に訴えかけてくる。
 そんな姿を見て、マジックは、腰を屈めると、幼い子供に視線を合わせて、少し笑った。
 いつもそうだね、シンちゃん。お前は、いつも、一生懸命。
 いつも私を、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
 一族誰もが持っていない、その黒いお前だけの瞳で。
「あのね、パパ」
 そう、こうやって必死に、私に何か言おうとするのさ。
 私はそんなお前が、好きだった。
 今だって。でも今は。
 大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったんだね。
 諦めて……去ってしまった。遠い南の島へと。
 私を捨てて。
「あのね、パパは、ひどいことをしてるよ」
「……」
「そんなパパは、きらわれても、しかたないの」
「……」
 マジックは、幼子の小さな動く口を見ていただけだった。
 ああ、昔は。この口が次は何を喋るか、そればかりが楽しみで。
 ずっと眺めていたよ。飽きなくて、飽きなくて。
 可愛らしい声と、可愛らしい台詞と、可愛らしい唇。
 もう、お前とは夢の中でしか、会えないんだね。
 マジックは、その唇に手を伸ばし、そっと触った。
 柔らかかった。
 ねえ、シンちゃん。
 歌うように口ずさみながら、指でその感触を確かめる。
 大きくならないで、シンちゃん。
 こんな、何も知らない小さいままでいて。
 だって、大きくなったら、お前は私から、逃げてしまうよね?
「酷い? 何も、酷くなんてないさ」
 自分の口が勝手に言葉を紡いで、幻に向かって返事をした。
 何でもいいから会話を続けて、この存在を少しでも長く引き止めておきたかった。



「私は何も酷いことなんて、していない。酷いと言うなら、私から逃げたお前が一番酷いでしょ」
 ねえ? シンちゃん。
 そう言ってやると、幻の子供は黒い瞳を揺らめかせた後、また薄桃色の唇を開く。
 マジックは、目を細めてそれを見守った。
「パパは、コタローに、ひどいことをしたの」
 やはり、この黒髪の子供は、可愛い顔をしていると思う。
 何を言っても可愛い。どんな台詞を言っても、同じ。
 そして、自分はこの顔に笑って欲しいなと思うけれども。
 子供は、懸命に喋っているので、それは望めなそうな雰囲気だった。
 でも、この顔が。紅潮した頬が、もっともらしく顰めた眉が、真剣な黒い目が。
 とても可愛い。
「パパ! きいて! シンタローのはなしを、きいて!」
「どうして。聞いてるよ。ちゃんと、聞いてる」
 マジックは陶然として呟いた。



「いま、パパの、めのまえにいる、シンタローはね。むかしのね。シンタローが、パパを好きだったときの、こころだよ」
 聞いてと言うから、ちゃんと聞いてみたが。
 この子供は、おかしなことを言い出す。夢の中の存在の癖に。
 昔、お前が、私を好きだったなんて。そんなことを言い出す。
 マジックが黙っていると、また、パパ、きいて! と必死に言い募ってくるので、聞いていた証に、言葉を返す。
「……シンタローが私を好きだった時の……心?」
 初めてまともに自分の反応を得た子供は、嬉しそうな表情を見せた。
 それを見てマジックは、こうやって自分が答えてやると、この子の喜ぶ顔を見ることができるのかと思った。
「パパがひどいことをしたから」
 だから、幼い声に優しく答えてやろうと決める。
「そうだね、酷いことをしたからね」
「パパがひどいことをしたから、シンタローは、パパを好きだったときのこころを、おとして、なくしちゃったの」
「そうだろうね、落として無くしちゃったんだろうね」
「だから、パパを好きだったときの、こころは、ずっと、こうやってまいごになってるの。ずっと、いくばしょがないの」
「大きくなったシンタローは、全てを捨てて南の島に去ってしまったからね……」
「ずっと、まいごなの」
 小さなシンタローの黒目がちな瞳は、澄み切っていた。
 細い肩と足が、懐かしかった。
 その姿を見ていると、マジックは、その子を抱き締めたいという衝動に駆られる。
 過去、よくしていたように。
 しかし思い止まり、じっと子供を見つめている。
 抱き締めると、幻の子供は、消えてしまいそうだったから。
 だから、ただ、じっと。見つめる。
 心の中で、語りかけるように。
 でもね、シンタロー。



 シンタロー。
 私を大好きだと、確かに昔のお前は言った。
 覚えているさ。懐かしい。
 あの頃のお前に、私はこうして会いたくて堪らない。自分が哀れな程さ。
 でもね。
 お前が幼い頃に好きだったのは、本当の私の姿ではない。
 私はお前を騙していたし。お前だって、見ない振りをしていた。
 それでも何も知らない子供で、幼さしか持ち合わせていなかったお前は。
 私しか頼るものがなくて、他に選択肢がなかったから。
 私が父親という立場だったから。
 それだけの理由で、無邪気に私を好きだと言っていたんだよね。



 お前が本当に私を好きだったことなんて、一度だってないのだと、私は思う。
 私は何十億人の中からだって、お前一人を選ぶけれども。
 お前は、数人の中からだって、私を選ばないような気がする。
 だから、私はお前を縛りたいと感じるけれども。
 そうすれば、そうする程、私はお前に嫌われていくのだろう。
 だけど、そうするしかないんだよ。
 どうしてだろうね?
 でも、私はそうする他に。
 どうすることもできないんだよ。



「だからね、シンタローのこころは、かなしい」
 目の前の懐かしい子供は、言葉を続ける。
 悲しい。
 マジックは、ゆっくりと口の中で、その言葉を反芻する。
 哀しい。
 私に騙されたことが……?
 そうだろうね。
 私は自分の特殊能力だって、眼のことだって、一族のことだって、あの……コタローのことだって……。
 全て、お前に隠してきたよ。
 それが最善の道だった等と、戯言を呟くつもりはない。
 ああ、そうさ。怖かったからだよ。
 お前に、少しでも長くの間、偽の私でもいいから、好かれたままでいたかった。
 全てはつながっているから。一つ明かせば、全てを明かすことになる。
 真実は鎖のように連なり繋がり、私とお前を縛るのさ。
 その鎖の一端をお前が握ってしまえば、お前は、全てを知ろうとし、束縛を解こうとするだろう。
 常に光の差す方へしか、歩めない子。
 私はそんなお前が好きだよ。
 だがね。そうしたら、きっとお前は、死んでしまうよ。
 賭けてもいい。
 お前は、その愛する弟に、殺される。
 確実にコタローを助けようとするお前は、その暴走した力に、いつか殺される。
 そんな残酷な未来を、私がお前に告げられると、思うかい……?



「パパ。パパ!」
 幼子の黒い瞳は、自分を飲み込んでいくようだと、マジックは思った。
 黒。
 どうしてか、私はこの色に惹かれる……。
 この色は、私を煽り、狂おしい想いを呼び起こす。
「パパ。パパ、クリスマスを思い出して」
 その中で、言葉を繰り返す頑是無い声。
 シンタロー。私の可愛い子。
 思い出せと言われても。何を?
「パパ。パパ、コタローのこと、思い出して」
 黒い睫毛が、忙しく瞬きをし、光を弾く。
 だが弾けた光は、自分が指を伸ばすと、消えてしまう。
 私には、一生届かない光。
 それがお前の光。
「パパ、思い出して」
 その必死な姿に、マジックは再び口を開く。
「……どうして。折角、忘れようとしているのに。お前もコタローのことは、忘れなさい」
「忘れないよ! シンタローは、コタローのことは忘れないよ!」
「私のことは忘れても、コタローのことは忘れないんだね、お前は」
「忘れない。シンタローは、みんな、忘れないよ!」
「可愛い顔をして、嘘ばかりさ、お前は……」



「パパ、聞いて」
 黒髪の子は言い募る。握りしめた、小さな手を振る。
「シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの」
 マジックは、この台詞には形の良い眉を顰めた。
「時間が……終わりかけている? それはどういうことかな」
 彼は目の前の幻が消えようとしているのではないかと、そのことだけに焦りを持った。
「パパを好きだったときの、シンタローのこころが。きえそうなの」
 子供が説明することは、よく理解ができなかった。
 私を好きだった時の、シンタローの心が。
 現在のシンタローが、落として無くしてしまった心が。
 消えてしまう……?
「そうなったら、もう、おしまいなの。もう、もどれないの」
 時間は終わる。
 そうなったら、パパを好きだった時のシンタローに、もう戻れない。
 そう、幻は告げた。



「シンタローは、それがいや。だから、きょう、ここにきたんだよ」
 夢とは理解できないことで満ちている世界だから。
 そうやってマジックは、この非現実的な状況に結論付けようとするのだが。
 人は、夢を見て願望充足をするのだという心理学的知識が脳裏を掠め、うんざりした気持ちになった。
 シンタローが、私を好きだった時。いや、少なくとも好きだという、言葉をくれたあの時に。
 私は……。こんなにも戻りたいのだろうか。
 何でもいいから、あの子の言葉が欲しい。
 ああ、私は物乞いにまで堕ちてしまったのだと、マジックは溜息をつく。
 しかし、今更のことだった。
 自分は信じられないくらいに、惨めで、浅ましい人間だった。
 あの子の気持ちを、手に入れることは不可能だということを、とっくの昔に、自分は受け入れていたはずだったのにと、自らを情けなく思う。
「あのね、パパのところに」
 子供は、そんな自分の心境を他所に、言葉を続けていく。
「三人の亡霊が、やってくるよ」



「パパ、おねがい。その三人と、あって」
 パパが三人の亡霊と会ってくれないと。
 シンタローの心は、消えてしまう。
 何を馬鹿馬鹿しい、とマジックは感じたが、必死な幼い顔を見ていると、胸が締め付けられた。
 その黒い目の淵に、涙が溜まっていた。それは、とても綺麗な液体だと感じた。
 お馬鹿さんだね、シンタロー。
 いつだって。お前、すぐに、泣いちゃうんだね。
 私は、すぐに、泣かせてしまう。
 私はお前を泣かせたくて仕方なくて、そして泣かせたくなくて仕方がない。
 お前が泣くのを見るのが、辛いんだ。
 そして泣くのを見るのが、楽しいんだ。
 そんな浮き沈み。感情の明滅と、甘い味と苦い味。
 どちらにしても、私はお前に囚われる。お前が去った後も、囚われている。
「パパ……三人とあって……クリスマス、思い出して……」
 潤んだ泣き声すら、自分は可愛いと感じる。
「……」
 マジックは、微かに鼻で笑った。思い出すなんて。
 私の人生は、忘れることばかりだよ。
 ただ、お前のことだけを。
 私は胸に浮かべ、夢の中に浸り続ける。



「シンタローは、また、パパとあいたい……」
 会いたい? 私だって会いたいさ。
 お前は自分から逃げ出した癖に、よくそんなことを言える。
 しかも、あの青の石を私から奪って。
「もういっかい、パパを好きになりたい……」
 また私に嘘をつけと?
 そうしたら、お前は騙されてくれるの? 私が化け物だということを忘れてくれるの?
 それは無理でしょ。いつも不可能なことばかりで、私を困らせないで。
 お前は、我儘な子だね。
「だから、忘れたこと……ぜんぶ、思い出して……おねがい」
 そう言って、泣くのを我慢しようと口を引き結んだ、幼い子供の幻は、小さな右手を上げた。
 その瞬間、何処かから、音楽が聞こえたような気がした。
 悲嘆と後悔の泣き声、混乱した物音、金属の冷たい擦過音。
 幼いシンタローはその音楽にちょっとの間、耳を傾けてから、その悲しい嘆きの歌に自らも加わるように、すうっと体を浮き上がらせる。
 マジックの背後の窓の方へと、冷たく暗い夜の中へと、溶けるように身を滑らす。
 消えていく。
「……シンタロー! 何処へ……!」
 彼は追いすがるように、窓へと駆け寄ったが、窓の外には、薄い霧に包まれた闇があるだけだった。



 不意に安楽椅子の上で、意識が弾ける。
 マジックは、瞑っていた目を開いた。
 自室は薄暗く、ぼんやりと視界にうつろっている。いつもの空間。
 暖炉の火は消え、蝋燭の灯は消え、静けさだけが夜の色だった。
 傍らのデスクには、小さなクリスマスリース。
 夢から覚めた後の疲労感と、乾いた舌。
 幻の残滓。気怠い身体。
「……愚かな」
 マジックは、そう自嘲を含んだ声音で呟くと、壁の掛時計に目をやる。
 真鍮の振り子は規則正しく揺れ、鈍い輝きを放ち、何食わぬ顔で時を刻んでいた。
 すでに午前三時を回っている。
 窓から零れる、冷たい月明かり。青白い光。
 マジックはしばらくその光の中で、目を瞑っていた。
 そして立ち上がり、続きの間の寝室へと、向かった。
 椅子の軋む音と、足音が、いやに耳についた。
 彼は、やはり自分は愚かな男だと、思った。



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おかえり
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 かたかたとキッチンの扉が揺れる音がして、マジックが音のした方に目をやると、そこにはシンタローが立っていた。
「おかえり、シンタロー」
「……」
 そう声をかけても、相手は黙ったままで、所在無く立ってこちらを見ている。少し乱れた長い黒髪の先だけが、揺れていた。
 とろんとした、目だった。
 マジックは、ゆっくりと鍋をかき混ぜる。ぐるりぐるりとかき混ぜる。
 立ち昇る芳香。温かな湯気。
 鍋の様子を見ながら、もう一度声をかけた。
「カレー、できてるよ」
「……」
 やはり返事はない。
 だが、シンタローが、すん、と鼻を鳴らしたような気がした。



 マジックは、鍋の火をかちりと止めた。
 そして相手の方に、向き直る。正面と正面で向かい合う。
 黒い目と、自分の青い目とを合わせて、もう一度言った。
「おかえり」
「ん……」
 唇こそ動かなかったが、鼻にかかったような声が、今度は聞こえた。
 マジックは、薄い唇の端を上げる。シンタローに向けて、小さく瞬きをする。笑いかける。
 自分の視界の中、キッチンの端で、立ったままのシンタロー。
 赤い軍服に黒いコート。いつか見送った時と同じ姿をしていた。
 怪我も病気もしていないようで、マジックはほっと安堵の溜息をつく。
 ただ、様子だけが、出て行った時と違っている。
 ……長い間離れていた後のシンタローは、よくこんな目をしている。
 マジックは、久しぶりに会った彼の姿を、眺めた。その空気を感じた。
 感じていれば、やがてその輪郭の背後で、パタパタバタバタ跳ねるような足音と、嬉しげな笑い声が聞こえてくる。
 『はしゃぎすぎだぞ、グンマ』と諌めるような声が聞こえてくる。
 遠征から、シンタローが帰って来たのだ。





おかえり

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「疲れてるのなら、このまま寝ちゃう? 夕食は寝てからにする? 眠るのも御飯もお風呂も、いつも通り準備してあるから。どれでもいいよ」
 そうマジックが訊ねても、シンタローは身動きしなかった。
 そして相変わらずキッチンの端に、ぼんやりと立ち尽くしている。静かにこちらを見ているのだ。
 見ていると言っても、果たして焦点が合っているのかもわからない、鈍い瞳で、だったが。
「伯父上。ただいま戻りました」
「おとーさま! 見て見て! こんなお土産貰っちゃったよぉ~っ!」
 まるで置物のようになってしまったシンタロー越しに、キンタローとグンマが、自分に声をかけてくる。
 それに答えながら、マジックが、グンマが高々と掲げている『お土産』――各国の珍しい菓子であることが多いが、今回は動物の彫刻のようだ。砂糖菓子か何かだろうか――をよく見てやるために、彼らに近付くと。
 それまでほとんど身動きしなかったシンタローが、すれ違いざまに、左手の指だけを動かして、マジックのしていた黒いエプロンの裾をきゅっと掴んだ。
 弱弱しい力だったが、気を引くには十分なもので、だからグンマの菓子を褒めてやった後で、マジックはシンタローの肩に優しく触れた。
 その身体からは、わずかに硝煙の臭いがした。目はとろんとしたままだったが、少しだけ、頬がこわばっているような気がした。
「シンタロー」
「……」
 指以外はちっとも動こうとはしないシンタローに向かって、マジックは語りかける。
「今日のカレーはおいしいよ」
 返事はなかったが、シンタローがまた、鼻を鳴らしたような気がした。カレーの匂いを嗅いでいるのだろうか。
「コタローの顔は、もう見てきたんだよね」
「ん」
 そう聞くと、今度はシンタローは、微かに頷いた。



 マジックのエプロンの裾を掴んでいた指を、彼はそっと離す。
 それから、緩慢な動作で、身体の向きを変えている。
 足を踏み出して、じわじわと歩き出そうとしている。
 その方向が、階段の方だったから。
 マジックにも、シンタローがとにかく部屋に行こうとしているのだということはわかった。
 彼は疲れ切っていて、眠くてたまらないのだろうと、今更ながらに了解する。先にベッドに入るか風呂に入るかしたいのだろう。
 だがつい、むくむくと悪戯心が湧いてきて。
 マジックは、ゆっくり去ろうとしているシンタローの背中に向かって、言葉を投げる。
「大丈夫? 一人でできる?」
 少したってから。
 ぴたりとその背中が、立ち止まって。
「……できる!」
 振り向かないままに、怒ったような声が聞こえてきた。
 マジックは思わず口元をほころばせた。重ねて言った。
「シンちゃんはね、いっつもね。子ども扱いすると、怒るんだよね」
「……うるせー……」
 またそんな声が、背中からする。きっちり答えを返してくれるシンタローであるのだ。
 これ以上弄るのは、流石にちょっと可哀想だとマジックは思う。
 彼の反応を楽しんでしまっている自分は、罪深い。久しぶりだから、つい苛めてしまう。
 自分自身に肩を竦めて、マジックは最後にこう言った。
「足元に気をつけて。先に部屋に行っておいで。私もグンマとキンタローに食事を温めてから、すぐに行くから」
「……ん」
 再び、背中が歩き出す。
 覚束ない足取りで、ゆっくりゆっくりとシンタローの背中が、視界から消えていく。
 階段に消える背中を、最後まで見送ると。
 マジックは、言葉通りに再び鍋に火をつけて、カレーをかき混ぜる。



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 シンタローの部屋に行く。
 扉を開けると、まず足元に、黒いコートが落ちていた。
 そのすぐ横には、重なるように赤い軍服の上着。そのポケットから零れたらしい、ペンまで転がっている。
 点々と、シンタローの歩いた軌跡に従って、脱ぎ捨てた衣服がグシャグシャになって投げ出してある。
 絨毯の先には、白いシャツが落ちていた。
 その向こうには、靴下の片方。そのまた向こうには、もう片方が。まるでヘンゼルとグレーテル。
 普段はきっちりしているシンタローなのに。
 遠征帰りは、どうしてか少々だらしないのだった。
「やれやれ」
 マジックは、その衣服たちを拾い上げながら、シンタローの足跡を辿る。
 一つ一つを手に取る度に、何て多くのものを、彼はあの身に着けていたのだろうと思う。ひどく重い。
 左腕が汚れ物で一杯になった頃に、マジックは部屋付きの浴室に辿り付く。脱衣所である。
 ここが最終地点らしく、そこには下着だけになったシンタローが、裸の背をしてうずくまっていた。



 長い黒髪が、元気なく垂れている。白いリネンのマットに、しおれている。
 マジックは、ぽんぽんとその肩を叩く。声をかける。
「シンちゃん。こんなとこで落ちてたら、ダメだよ」
「……ん……」
「寒いだろう。こんな格好をして」
「……む」
 どうやら眠ってはいないようで、ただ単にここで力尽きてしまっただけらしい。浴室の扉は、すぐ側だ。
「お風呂に入るの? 立てる?」
「……」
「仕方ないね」
 マジックは、腕一杯に抱えた衣服を、脱衣所備え付けの籠に入れる。
 それから自分もしゃがむと、自由になった両腕で、シンタローの身体を床から抱き上げた。
「どっこいしょ、と」



「や……いいって……」
 これには流石に何か言わねばと思ったのか、シンタローがもぐもぐと言葉を呟いている。
 その精一杯の反抗に。
 いい訳ないでしょ、このままだと風邪ひくだろう、と返してから。
 マジックは、ふと気が付いたことを口にした。
「あれ、お前。少し軽くなった……?」
 間を置いて。
 答えが、腕の中から、聞き取れないほどの小声で漏れてくる。
「……たいして……変わんねぇ……」
「いや、絶対軽くなってるよ。シンタロー。ちゃんと食べてる? 一日三食、栄養のいいもの、食べてるかい?」
「……しんぱ……心、配……すんな……って……!」
「どうだか。心配するよ。私はいつだって心配してるよ」
「……」
 マジックは眉をしかめて、シンタローを抱き上げたまま、浴室へと歩き出す。
 ――シンタローは。
 他人に出す料理にはこだわるが、自分のことといったら、まるで構わないのだった。
 忙しければ、何も食べないことも多い。仕事のためには、一心不乱に、食事も睡眠も犠牲にしてしまうタイプだった。
 医者の不養生とはこのことで、マジックはいつも、シンタローには自分を大切にしてほしいと感じている。
 他の誰のことよりも、彼には自分を大切にしてほしかった。



 浴室の扉を開けると、優しい蒸気が二人を包む。
 家族共有の広い風呂――マジックは特に日本式のものが気に入っていた――もいいが、部屋付きの狭い浴室の方が、シンタローは落ち着くとのことで。
 遠征帰りには必ず、マジックはこの浴室の準備をしていた。
 手狭だけれど、穏やかで心地のよい空間。
 小さめのバスタブ、四角い出窓、ドライハーブを溶かし込んだ温めの湯。
 薄く香るほんのり乳色をした水面に、さっさと下着を脱がせて、マジックはシンタローの身体を沈める。
 ちゃぷんと、水の音。
 跳ねる飛沫の音。
 湯に沈んでいく鍛えられた身体。その身体を覆っていた空気が、細かな泡となって、水面に浮き上がっていく。
 出窓に置いた観葉植物が、かさりと揺れた。
「……」
 シンタローが、溜息を漏らした。
 息をつきながら、目を瞑った。
 気持ちがいいのだろう、その身体が湯の中で弛緩していくのがわかる。
 脚と腕が、くったりと伸びていく。込められていた力が、ほぐされていく。
「……う」
 シンタローが、溜息に続いて、微かに声を漏らす。
 浴室の声は、反響するように語尾が滲んで聞こえるのだ。夢の世界にまどろむような、その声。
 バスタブの背に、彼は全身を預けて。
 首も頭もその縁に預けて、長い豊かな黒髪が、浴室の石床に垂れた。
 マジックは、その髪が湯の中に入らないように、きちんとかきあげて、まとめてやった。すでに毛先が濡れている。
 水蒸気で湿った髪は、浴室の淡い灯りに、しっとりと光を含んで、艶を帯びていた。



 やがて。
 湯に沈められたシンタローが目を開き、白い湯気の中で、自分を見上げるのがわかった。
 そのぼんやりとした瞳に、マジックは言葉を返す。
「このまま置いておくと、お前、眠っちゃいそうだね」
「……」
「ほら、今もずり落ちそうになってる」
「……うう……」
 マジックは手を伸ばし、シンタローの両脇を抱える。
 力を抜きすぎて、危うく湯に沈みかけていたその身体を、再びバスタブの背に、きちんと凭せ掛けてやる。
「ほら。しっかりして」
「……」
「そしたら髪はね、洗ってあげるよ」
 マジックは、一度脱衣所に戻った。
 セーターを脱ぎ、ワイシャツの袖とズボンの裾を捲り上げる。
 浴室に戻ると、またシンタローが黒い目で、自分を見た。
 湯気のせいか、それはわずかに涙目のように潤んでいて、ひどく幼い色をしているように思えた。
 マジックはその目に、そっと微笑んだ。
 可愛いと、思った。



 温度を調節するために、洗い場で、マジックはシャワーのノズルを傾ける。
 自分の手の平が、ひたひたと濡れていく様を、眺めている。
 新しい湯気が生まれる。天井へと向かって立ち昇っていく。
 透明な液体は、さあさあ音を立てながら、白い手の平を打った。
 熱さと冷たさを繰り返しながら、交じり合いながら、それは静かに湯へと変わっていく。
 緩慢で曖昧な、温度の揺らぎ。絶対から中庸への、心の揺らぎ。
 すべてを溶かす熱、すべてを凍てつかせる冷気。
 湯とは、その狭間で漂う、かたちのない液体で、それは熱情にも冷酷にもならない二人の時間だった。
 癒しと安らぎが、マジックの長い指の間から、雫となって滴り落ちる。
 滴り落ちても、あとからあとから、手の平から溢れ出た。



「熱すぎたり冷たすぎたりしたら、言ってね」
 そう声をかけてから、マジックは、シンタローの垂らした黒髪に湯を浴びせる。
「……っ……」
 湯船に浸かったままのシンタローは、わずかに身動きしたものの、何も言わなかった。
 仰向いて、目は瞑ったままだった。
 洗い場で膝立ちをしているマジックに、首から上を任せている。
 その唇からは、小さな息だけが、漏れていた。
 唇はうっすらと赤みを帯びていたが、乾いていて、よく見れば端が少し切れていた。
 黒い前髪から、ひとすじの湯が、すうっと伸びて、かさついたその傷を濡らしていった。
 湯は、シンタローの乾いた部分を、柔らかくふやかしていくのだ。
 かたい飴細工が、温度を加えれば、とろりとろりとしなるように。
「何も言わないってことは、ちょうどいいってことだよね」
「……ふ……」
 再び息が、その柔らかくなった唇の合わせ目から漏れるのを、マジックは見る。
 とても静かな息だった。
 裸の胸が、ゆったりと上下していた。
 湯は、シンタローのうなじをつたって長い髪を零れ落ち、あとからあとから零れ落ちて、すぐに洗い場の床石に溢れかえる。
 自分の足元も、シンタローと同じ温かさに濡らされていく。その感触に、ふと、マジックは溶けそうになった。
 マジックは、左手で湯を浴びせかけながら、右手を伸ばして、シンタローの髪の根元から毛先までを、優しく撫でた。
 黒髪に指を絡めて、何度も何度も撫でた。
 撫でた後に、冷たい液体を自分の手の平に垂らす。
 その手で、また撫でる。



「……う……」
 今度は、濡れた口元から、そんな声が漏れて。
 ひやりとしたのだろう。洗髪料の冷たさだ。
 マジックは、少し笑った。笑いながら、湯を止めた。
 それからまた、今度は両手を使い、液体で包み込むようにしながら、シンタローの髪を撫でていく。
 指の腹で、頭皮から毛先までの、しっとりと濡れた道を、ゆっくりと辿る。辿ることを繰り返す。
 ふわりとやわらかな泡がたつ。
 豊かな黒髪が白に埋もれていく。
 マジックの指は、そっと動く。
 こめかみから耳の後ろを、くすぐるように愛撫する。
 指の腹は地肌に触れて、小刻みに揺れて、後頭部から頭頂部までを、いくどもいくども移動する。
 丹念に、まんべんなく刺激を与え続ける。細かに動く。
 髪の間に通した指で、なめらかに長い毛先まで泡を送る。全体をまろやかに覆う。
 一塊の泡が床に落ちて、弾けた。濡れた床に崩れ、いつしか消えていく。



 洗いながら、マジックはシンタローの表情を見ている。
 それはまるで陽の光の中、舟に揺られて、うたたねをしている人の顔に見えた。
 帰ってきたばかりの時、あのキッチンに立っていた時の、頬のこわばりが緩んでいた。
 自分も知る戦地の臭いが、白い泡に洗い流され、消えていた。
 うっとりと閉じられた瞼が、それでもマジックの指の動きを敏感に感じて、わずかに揺れていた。
 顎が仰け反って、バスタブにくったりと全身が預けられていた。
 首元に浮き上がった鎖骨には、湯の雫が溜まっていた。
 無防備な姿だった。
 時折、光を弾く水玉が、争うようにその滑らかな肌をつたっていくのだった。



 ふとマジックは、洗う手を止める。
 天井から、雫がぽとりと垂れて、自分の手の甲に跳ねるのを感じた。
 静寂を感じる。
 ゆっくりと、シンタローの首の後ろに手を回した。
 湯の温みに、ほんのりと色づいた彼の頬に、そっと自分の唇を寄せる。
 そして、わずかに掠めただけで、すぐに離れた。
 一瞬の感触は、しっとりして柔らかかった。
「……ん……」
 シンタローの黒い睫毛が、少し揺れて。うっすらと目が開いて。
 ぼんやりとした黒い瞳が少し動いて、こちらを見上げて、またすぐに瞼が閉じられた。
 その瞼の曲線が、美しいなと、マジックは感じた。
 彼に触れたいと、思う。
 だが再び口付けはしなかった。
 かわりに人差し指で、濡れた耳のうしろを、ゆるりとなぞった。
 シンタローは刹那びくりと震え、眉を寄せたのだけれど、今度は目は開けなかった。
 マジックの好きな瞳は、静かの海に眠る貝殻のように、閉じられたままだった。



 湯で、泡を洗い流す。
 耳の縁に、中に、指を入れ、隅々まで洗う。
 遠い戦場の残り香は、泡に包まれて、排水溝に円を描くように吸い込まれていった。
 後には、マジックの手の中に、しっとりと水気を含んだシンタローの黒髪だけが残る。
 シンタローは、大人しく身体を預けている。



 髪を洗い終えると。
 マジックは、目を瞑ったままのシンタローに、声をかける。
「髪は終わったよ。身体は? 自分で洗える?」
「……ん」
 身体も洗ってやってもいいのだが、それではマジックもびしょぬれになってしまって、自分も入浴するはめになることは明らかだった。これが一日の終わりならば、それもいい。
 だが自分には階下にまだやることがあった。グンマやキンタローの食事の様子を、見に行ってやらねばならない。
「大丈夫?」
 マジックが言うと、少し間を置いて、息を抜くようにシンタローが答える。
「……洗える」
 シンタローも、マジックの事情は、よくわかっているはずだった。
 それが少し、心に染みる。
 まあ、湯には薬草を入れていたから、疲れているなら、とりたてて身体を石鹸で洗わなくてもいいのだけれど。
「じゃあ、ね。私は一度、下に降りてくるから。お湯に沈んじゃダメだよ。気をつけて」
「ん」
 そんなやりとりを交わして、マジックは浴室を出て、階下に降りた。



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 再びマジックが、シンタローの部屋に戻ると、まだ彼は浴室にいるようだった。
 少し心配になって、手の甲で、コツコツと浴室の扉を叩く。
「大丈夫かい、眠ってない? シンタロー」
「……ん……」
 反響でぼやけてはいたが、一応返事があったので。
 安心して、マジックはこの間にと、シンタローの洗濯物を分別する。
 手桶にぬるま湯を張り、洗剤を入れて、手洗いにする軍服を、四角く畳んで付け置きにする。
 それから脱衣所を出て、綺麗に整えられたベッドを再度点検し、もう一枚毛布を出しておこうかと考える。
 部屋隅の収納キャビネットを開き、薄めのものを選んで取り出す。
 広げて、また半分に折り畳んで、毛布をベッドの隅に置いた時。
 マジックは、自分に向けられた視線に気付いた。



「あったまった? シンちゃん」
「……」
 ろくに髪も身体も拭きもしないまま、バスローブを羽織ったのだろう。
 脱衣所の戸口に立っているシンタローの足元には、小さな水溜りができていた。
 その場所から、半分だけ開いた目で、彼は自分を見ている。
 しどけない姿。
 これでは、ちゃんと身体は洗えたのだろうか。無理をしてでも、身体も洗ってあげれば良かったかな。
 そう思いつつも口には出さず、マジックはシンタローに向かって、手招きした。
「おいで」
「……ん」
 たよりなく絨毯を踏みしめる音がする。
 ぽたぽた黒髪の先から、雫が落ちている。
 ゆっくりとシンタローが、自分の手招きに従って、こちらに歩いてきたから。
 その身体をマジックは引き寄せて、ベッドに座らせる。
 それから自分は立って、もう一度脱衣所に行く。バスタオルを数枚と、ドライヤーを持ってくる。
「さてと……あれ」
 マジックが見ると、シンタローはごろりとそのままベッドに横たわってしまっていた。
 濡れた黒髪が、散っている。はだしの足の裏も、湿っていた。
 白いバスローブからのぞく健康的な脚には、湯の筋すらつたっている。
「シンちゃん、ダメだよ。シーツが濡れるでしょ」
「……」
 返事はない。
 マジックは、ベッドに腰掛けると、自分の膝にバスタオルを一枚ひく。
 そして、寝転がってしまったシンタローの頭をぐいっと抱え上げ、その上に乗せた。
「ちゃんと拭いて乾かさないと、風邪をひいてしまうよ」
 シンタローは大人しく、されるままになっていた。



 もう一枚のタオルで、シンタローの髪の毛を拭いてやる。
 優しく包み込むように、抑えながら水分をぬぐいとった。
 水が染みこむ布の冷たさに、本当に全く拭かないまま浴室を出てきたのだと、マジックはおかしくなった。
 自分の膝の上で、時々面倒くさそうに首を振るシンタローの仕草が、ぷるぷると濡れた体を震わす動物のようだと思う。
 巣に戻ってきた獣を世話しているような、そんな気分にもなってくる。
 ただこの獣は、一筋縄ではいかないのが、曲者だった。
 かちりとドライヤーのスイッチを入れる。温風がしなる。
 長い髪の根元から毛先までを、指で梳くようにして乾かしてやる。
 半ばまで乾いたところで、ブラシを使い、丁寧に髪をまっすぐに整えていった。
 艶を出すように、念入りにとかしていく。
 本当に、動物の毛並みをブラッシングしているみたいであるのだ。
 おかしいね。面白いね、シンちゃん。
 いつもは、例えば団員の前では、あんなに威張っているのにね。
 笑みを口元に隠しながら、マジックはシンタローの髪を乾かしていく。毛先がそよぐ。ふわふわとなびく。
 何も知らないシンタローは、目を瞑ったまま、心地よさそうな表情をしているのだった。



 シンタローの全身は、湯の中と同じように弛緩していた。
 ベッドとマジックの膝に投げ出された、腕。脚。手の平。足の裏。
 彼の身体の輪郭が、緩んでいるような気がする。とろけているような、そんな感じがする。
 身に付いたものを洗い流して、裸のまま横たわっているような、そんな感じがする。
 その姿を眺めていたマジックは、ふと気付く。
 シンタローの爪が、伸びている。



 ベッドのサイドボードの引き出しを開けると、マジックは、小さな爪切り用の鋏と、やすりを取り出した。
 シーツの上に、これも手近にあった古い新聞紙をひく。
 それから、だらんと伸びきったシンタローの手を取った。
 所々の皮膚が硬くなっていて、少し節の目立つ、働く人間の手だった。
 マジックは、この手が、好きだ。
 右手の親指から、順序良く爪を切っていく。
 ぱちり、ぱちりと、音がした。
 長く伸びた爪は、前に自分が切ってやった時から、何の手入れもされていないように見えた。
 遠征中、自分では切らなかったのだろうか。
 それはこうして自分に切ってもらうためだと、うぬぼれてもいいのだろうか。
 マジックは丁寧に、指の一本一本その爪の先を、綺麗に切り揃える。
 丸く、やすりをかける。
 右手の小指までを整えてしまうと、次は左手を取り、同じようにする。
 秩序立った順番の手順は、それがまるで何かの儀式であるかのようだった。
 左手の中指を磨いた頃に、マジックは囁くように呟いた。
「お前は、また、すぐに遠征に行ってしまうんだよね」
 依然としてマジックの膝の上にある、黒い頭が、小さく動いた。
 マジックは、薬指を取る。そして優しく撫でてから、その伸びた爪に、鋏を入れた。
 ぱちり、とまた音がした。爪が新聞紙に跳ねる。
「この爪が伸びきるまでに、帰ってきてね」
 黒い頭が。
 また、動いたような、気がした。



 ベッドにきちんとシンタローを寝かせて、マジックは今度は足の爪を切った。
 柔らかい大きな枕に黒髪を埋めて、シンタローは目を瞑っている。
 まだ眠り込んではいないということは、わかった。
 マジックが彼の新しい指に触れる度に、その睫毛がぴくりと震えるからだ。意識して、いるのだ。
 明度を落とした室内灯が、おぼろげにそんなシンタローの姿を包んでいる。
 マジックは、九つの足爪を切り終えてから、最後に残った左足の小指に、静かに触れた。
 また睫毛が震える様子が、視界の隅に映った。
 ゆっくりと、その小さな指を、冷たい手の平で包み込む。
 それから、口付けた。
 これで最後だと思うと、名残惜しかった。
 シンタローの足の爪先は、少し痛んで、硬くなっていた。
 ずっと窮屈な軍靴を履いて、ずっと立ち詰めで、休む間もなく任務の先頭に立ってきた足の先だと思えば。
 彼の身体を、支え続けてきた足の先だと思えば。
 それだけで――愛しい。



 爪を切り終えてしまうと、マジックは立ち上がる。
 バスタオルや新聞紙の後始末をし、脱衣所で付け置きの様子を見て処置をしてから、またシンタローの側に戻った。
 シンタローの目は閉じられたままだった。
 今度こそ、甘い眠りに落ちかけているのだろうか。
「おやすみ、シンタロー」
 そう声をかけたが、返事はない。



 寝癖がつくだろうと思い、ばらけた髪の毛を集めて、耳の脇に整えてやる。
 その身体に、毛布をかけてやる。
 自分がいない間に目覚めた時のためにと、サイドテーブルに水差しとグラスを置く。
 シンタローが濡らした床を、綺麗に拭いた。
 それから、再び階下の息子たちの様子が気になったので。先刻は食事の最中だったから、今頃はもう終えている頃だろう。
 またキッチンに戻ろうと、マジックは考える。その後で、コタローの顔を見に行こう。おやすみの挨拶をしにいこう。
 ベッド脇の灯りを消す。
 部屋が薄闇に包まれる。
 薄闇は静寂で、静寂は眠りだった。
 束の間の、休息を。いい夢を。シンタロー。
 そして、部屋を出ようとして。
 ふと思い直して。
 マジックは、もう一度シンタローの枕元に立つ。
 しばらくそのまま佇んだ後。
 そっと手をシンタローに伸ばす。
 軽く、その頬に、指先で触れた。
 温かかった。
 と、シンタローの瞼が開いて、黒い瞳がこちらを見上げた。
 薄闇の中でも、その色は一際濃く、マジックを捉えた。



「……匂いがする」
 そんな呟きが、二人の間に零れ落ちて。
「なに」
 マジックは、首をかしげる。
 匂い。自分の指に、何かついていたのだろうか。
「俺の、好きな……」
 シンタローは、先刻キッチンにいた時と同じように、すん、と鼻を鳴らした。
 好きな、とシンタローは呟く。
 その声は、いつもより少しかすれてはいたけれど、芯を持ったあの声だった。
 あの声。シンタローの声。まどろみの中で息をするような、いとおしい声。
 その帰りを待つマジックが、いつも夢に見るような。胸が締めつけられるような、切り裂くような声。
 ずっと、会いたかった。
 離れている間、ずっとずっと、恋しかった。
 会うことのできた今は、もっと、恋しい。



「好きな……カレーの……匂いがする……」
 そう言ったシンタローが、にこっと、小さく笑った。
 それから目を瞑った。
 すぐにその胸が静かに規則正しく隆起し始め、本当に寝入ってしまったのだとわかる。
 寝息が、聞こえ始める。



 マジックは、自分の指を見つめた。
 爪は綺麗に切り揃えてあったし、料理をした後は、手を洗ったり湯を使ったりしていたから、カレーの香りなど残っているはずがなかった。
 実際に嗅いでみても、湯や洗髪料の匂いしかしない。
 そしてその匂いは、シンタローの髪の香りであるはずだった。
 眠りに落ちた人。優しい人。私を支配し、支配される人。
 マジックは、自分が洗ったばかりのその黒髪を、そっと撫でた。
 撫でながら、歌うように、言った。
「お前はね、私の所に、帰ってきたんだよ」
 マジックは撫でる手を止めた。
 長い髪に指を絡めたまま、息をつく。
「シンタロー……」
 起きたら、一緒にカレーを食べようよ。
 そう心の中で呟くと、マジックは、わずかに俯いた。
 ――この瞬間、お前と共にある幸福を、私は忘れない。



 あと、何度。何度失っても、私は忘れない。
 そしてまた新しい幸福を、お前と手に入れる。
 お前と。そして大切な、家族とで。未来を、創り出してみせる。
 マジックは、ゆっくりと顔を上げた。
 顔を上げた先には、小さく息を漏らす、安らかな寝顔があった。
 自分にとっての、かけがえのない人の、眠っている姿があった。
 マジックは、囁きかける。
 その眠りを妨げることのないように、静かな静かな声で。
 これが、お前に対して、私にできることの、すべて。
「おかえり」
 こんなに幸せになれるなんて、思いもしなかった。







HOME
mss
夜の遊園地
HOME


 幼い頃。俺と親父は、遊園地に行った。
 4歳の誕生日、そのお祝いだったのだ。
 あいつも俺も、やけに張り切って、その日を指折り数えて待ったのを覚えている。
 ジェットコースターに乗って、回転木馬に乗って、観覧車に乗って、それからそれから。
 パパと一緒に乗ろうよ、ヤだよ、もう一人で乗れるもん、いいじゃない、楽しいよ、それからそれから。
 当日、華やかな花火が上がって、遊園地は貸切で、親戚その他大勢が俺を祝うために集まって、世界各国の要人までもが押し寄せて、何もかもが予想以上に豪華絢爛で、俺は嬉しくて、結局、遊具になんか何一つ乗らないまま、あいつは人殺しのために立ち去った。



 時は過ぎる。
 すぐに帰ってくると言った男が戻ってきたのは、とっぷりと日が暮れてから、誰も彼もが消えてから、昼間の喧騒が嘘のような静寂が、辺りを包み始めた頃のことだ。
 俺付きのSPが、あの場所で総帥がお待ちですと、俺に指し示した。
 それはこの遊園地を見下ろすことのできる、小高い場所。
 夜の闇が立ち込める中を、あいつは、赤いペンキが塗られた観覧車前の、赤いベンチに、座って俺を待っていた。
 長い脚を組み、首を少し傾けて、遠い空の向こうを眺めていた。
 俺は、すぐ側まで行ったのだけれど、そんな男の姿を目にして、つい立ち止まって、それから近くの茂みに隠れた。がさがさと葉が揺れた。
 待たせた分、俺もあいつを待たせ返してやろうとしたのだ。



 葉の間から覗く、赤い観覧車、赤いベンチ、赤い総帥服。
 茂みの中から長く見つめていると、その色はいつしか、てらてらとぬめって、男の住む世界を思わせる。
 血の色を、思わせる。
 俺から隠したつもりになっている、あいつの世界。
 今、俺の視界の中で、戦場から戻ってきたばかりなのに、何でもない顔をしたあいつ。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
 風が男の金髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように俺には見えたのだった。
 その横顔に落ちる光の陰影は、男の顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて、まるで俺の知らない顔を、あいつがしているように、見せたのだ。
 俺は、長い間茂みの中でじっとしていた。
 男の顔を、見つめていた。背筋に冷たいものを、感じていた。
 所詮は子供の感覚だから、実際の時間はわからないけれど、とにかく、長い、長い、間、俺はあいつを眺めていた。
 そして風が両手の指なんかでは数え切れないぐらいに、男を打ちすえてから。
 不意に俺は電流にうたれたように立ち上がって、茂みから出て、男に近付いたのだ。
 白い顔が振り向いて、見下ろして、『ああ、シンちゃん』とだけ言って、初めて表情を崩して、微笑んだ。
 もういつもの顔だった。
 親父は、俺が隠れていたことなんて、とっくの昔に気付いていたのだろうと思う。
 俺に触れた男の手は、風のせいで、いつにも増してぞっとする程に冷たかった。
 抱き上げられて、ひやりと俺の額に触れた金髪も、冷たかった。
 ああ、この男の身体を冷たくしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、悟ったのだ。





夜の遊園地

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「ひどい! ずっと前から約束してたのにっ! ひどいよシンちゃん!」
「仕方ねーだろうが! 仕事入っちまったんだよ!」
「仕方なくない! 私の誕生日、一緒に遊園地に行ってくれるって言ったのにっ!」
「ああ――――ッ! もう! じゃあ日程ずらせばいーだろ!」
「駄目だよ、今日じゃなきゃ! 私の誕生日じゃなくっちゃ、ダメ!」
 俺は耳を塞ぎ、口をひん曲げ、仏頂面。
 出勤前のこの忙しい時間。俺が姿見の前で、自分の赤い軍服の襟元を、せっせと直しているその背後で、
「シンちゃんってば!!!」
 延々と俺に訴えかけてくる男。マジック。
 俺の前に後ろに、左に右に。ヤツが動く度に、ピンクのエプロンが、ひらひらとちらつく。構って攻撃の、なんて激しさ。
 ある意味いつもの光景なのだが、今日は特に酷い。やけに粘りやがるなと、俺は、がっくりと首を垂れて、溜息をつく。
 アンタな、ガキじゃあるまいし。いくつになったと思ってんだよ、親父……。立場を逆にした俺のちみっこ時代よりも、物分り悪いときてやがる。このワガママ男め。どうしてくれよう。
「ひどいよっ! パパ、楽しみにしてたのにっっ! そうだ、今日こそハッキリさせてもらいます!」
 ばん、とマジックが、朝食の皿が並んだままのテーブルを、勢いよく叩く音が聞こえた。
 渋い顔で振り向いた俺に、ずずいと迫る真顔。
「シンちゃんは、パパと仕事、どっちが大切なの!?」
「ぬお~~~ッ……アンタがそれを言うか!」
 ワナワナ震える、俺の腕。これから出勤。耐えろ、俺。
 朝食の後始末もほったらかしで言い募ってくる、服装と言動のみは妻仕様な相手と、いつの間にやら責められる夫仕様な俺様。世の中一体どうなってんだ、地球が逆に回っても、もう俺は驚かねえ。
「ねえ、どっち! 答えて! 答えて、シンちゃん!」
「仕事」
 どかーん。
 ヤツの両眼が光って、壁に大穴が開いた。
「ああもう、うっせえええええ――――ッッッ!!!」
 我慢できん!
 どかーんずがーんぼかーん!
 お約束で、数発、俺も眼魔砲をお見舞いしてから、とっくの昔に仕事に向かった、グンマとキンタローの後を追いかけようと、俺は玄関へと向かう。
「シンちゃん! 待ってよ、シンちゃん!」
 しかし追ってくる。ワガママ男が追ってくる。
 俺はスタスタ早足で長い廊下を歩きながら、振り向かずに怒鳴りつける。
「うるせえなあ! 誕生日くらい、夕メシの時にケーキ買ってロウソク立てて吹き消して、そんでいいじゃねーかよッ! いい大人がダダこねてんじゃねえ――――ッ!!!」
「だって! だって! シンちゃん、だって~~~~~~!!!」



 俺が総帥一年目の冬。あの南国の出来事から迎える、初めての冬。
 12月12日。マジックの誕生日の、朝の会話である。
 俺は、この男と遊園地に行くという約束を反故にしたことを、ひたすら責められている。
 息の詰まるような多忙なスケジュールの中、なんとか空けた、いや空けさせられた、今日の午後。
 そこに今朝早く、新規の仕事が入ってしまったのだ。
 ちなみに行く予定であった遊園地は、俺の4歳の誕生日を祝ったあの場所。すべてが、マジック・セレクション。
「シンちゃん! ひどいよ、シンちゃんってば! こっち向いてよ!」
 イライラしながら、俺は頑張って足を速める。俺の背中にぴったりと貼りついて、追いすがる男。
「たまには断ればいいでしょ、最近は依頼された仕事は全部引き受けてるみたいだし! それかその予定を相手にずらして貰えばいい!」
「ダメに決まってんだろうがああ!」
 なにせ俺は、新任一年目。この正義のお仕置き稼業はなかなかに厳しく、仕事を断っていては、後に響くのは明白だった。
 しかも、相手は大口契約、超VIP。できることなら確保しておきたい客だから、逃すことはできない。
「じゃあいいよ! その相手の所にパパが行って、交渉してきてあげるから! ひと睨みでサクっと黙らせてくるよ!」
「だああ――――ッ! 威力業務妨害!」
「じゃあ、そのお仕置きする相手の方を、ひと睨み……」
「俺の仕事だ――! ぐっ、ンなコトしやがったら、もう口きいてやんねーからなああああ!」
「それはやめて。シンちゃんが口きいてくれなかったら、パパは寂しくって死んじゃうよ! シンちゃんはパパが死んでもいいの? ねえ、死んでもいいのってば!」
 俺は地団太を踏む。
 あああ! このバカ! アンタいくつだ! 小学生かよッ!!!
「なんでそんなにアンタはガキっぽいんだァ――――! アンタが我慢すれば全部丸く収まるんだよ、このワガママ親父ッ!!! くっそ、俺ぁ、仕事行くぞ!!!」
 俺は玄関ホールの扉に向かって、駆け出した。
 スーパーダッシュ。
 俺に憧れる団員たちは、俺様のこの鍛え上げられたナイスバディが、日々のマジックとの抗争から生み出されていることを知らない。
 ヒーローの陰の努力、陰の事情は、表に出せないものであることが多い。
「シンちゃん! パパがどうなっても、知らないから!」
「あーあー、うっさい、勝手にしやがれ!」
 最後は喧嘩別れの形で、その朝、俺は家を出た。



 腹が立つ。
 その日の俺は、執務中にペンを3本折って駄目にし、団員訓示で『前総帥の跡を継ぎ』と言うべき所を『前総帥のアホ過ぎ』と言ってしまい、書類のサインがやたら右上がりになってしまった。
 全部あいつのせいだ。俺は、思い出す度、ギリギリと唇を噛み締める。
 何だ、マジックの奴。自分が総帥の時は、自分だって仕事を優先してた癖に。総帥を引退して、待つ側に回った途端に、この調子だ。
 なんであいつは、ああなのだろう。他に対しては基本的に正常だと言えなくもないが、俺に対しては異常極まりない。
 どこのガキだ。俺はあいつの親か。保護者か。あんな手のかかる巨大な子供が、生まれた時からオプションってどうよ! 俺って可哀想。めっちゃ可哀想! なんて運命、どんな運命。
 ひとしきり自分を慰めた後、溜息をついて俺は、こうも思った。
 それにな。
 あんな変なダダのこね方をしなければ、もっと普通に……例えば他の日に埋め合わせをするとか……そんな約束だって、取り付けたり……してやらないことも、なかったのに。
 こっちだって、少しは悪いと思ってるんだから……な。仕事優先なのは仕方ないにしても、償いぐらいはする。それなのに――
 いつもあいつのやることは、逆効果なのだと思う。
 もっと優しく、できたはずなのに……。
 俺はそこまで考えてから、くにゃりと自分の手の内で姿を変えた、ガンマ団総帥印の印鑑を、切ない目で眺める。
 また、罪のない文房具を成仏させてしまった。経費節減の苦労が、水の泡。
 それもこれも全部、あいつのせい。



 午後からの俺は、くだんの臨時出張。飛び立つ飛空艦。待ってろ、依頼者。
 正義の味方にゃ休みはない。カッコ良さの背後に潜む、世知辛さ。わかっちゃいるが、やめられねえ。
 東にヤンキーがガンをつけてくれば、行って退治してやり。
 西にヤクザがいれば、眼魔砲でお仕置きしてやり。
 南に最強ちみっこや犬がいれば、食事を作ってやったことを、そっと思い出したり。
 北にコタロー似の美少年がいれば、無償で力になってやって住所を聞いたり。
 そんな正義のヒーローに、俺はなりたい。
 これが新生ガンマ団総帥である俺の生き方。悪いヤツにゃあ、眼魔砲をお見舞いするぜ。
 安心しやがれ、命は取らねえ。見逃してやるから、せいぜい更生するんだナ。
 今日もこんな調子で、悪者のお仕置きに精を出し、俺はくるりと踵を返して、帰途につく。艦橋で、黒い革コートを翻す。
 フッ、キマったな。
 そんな俺が、緊急発信を受け取ったのは、コートを翻して三歩進んだ頃。任務達成の充実感に浸っていた瞬間のことだった。
 キンタローがいつも通りに眉間にシワを寄せて、差し出してきた書面。
『ガンマダン ソウスイドノ オマエノ チチオヤハ アズカッタ』
「何ィッ!」
 その文字が目に入った時、俺は一瞬呆然として、それから身を乗り出したのだけれど。
 後に続く文章を見て、どっと脱力して、イヤになった。
『……ランドニ コラレタシ カイトウ マジカルマジック<ハアト>』



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 そして俺は、結局。あの遊園地、正門前に、突っ立っている。
 すでに夜遅く、とっくに閉園しているだろう時間であるのに、門は開いている。人気はない。
 冬の風が吹いて、はたはたと色とりどりの布を靡かせ、電飾が夜に極彩色のイルミネーションをきらめかせていた。
 ファンシーな装飾とヤンキーなざっくばらんさが、絶妙にミックスしたこの空間。静かに立ち並んだ券売機が、整列してこちらを見ているような気がした。
 俺は、懐から携帯を取り出し、短縮ボタンを押して呼び出し音を鳴らし、舌打ちをして、それをもう一度懐に押し込んだ。
 何度マジックに連絡しても、出ないのだ。メールの返事も音沙汰なし。家に電話しても、グンマが『おとーさま、出て行ったきり、帰ってこないんだよぉ~』と言うばかりだ。
 ええい、ちくしょう。めんどくせえ。
 俺が遊園地まで迎えに行かないと、帰らないつもりかよ。あいつには意固地な所があるから、一度飛び出したら、三日経っても四日経っても帰ってこないに決まってるんだ。
 そして俺が無視し続けたままだと、世界中のメディアを使って、大々的に誘拐劇を仕立てあげるに決まってるんだ。『マジック元総帥、誘拐事件勃発!』とな。『背後に某機関暗躍の噂』『すわ国際紛争の幕開けか?』
 俺は、押し寄せるマスコミを思い、新聞雑誌に踊る文字を思い、世界中のスクリーンに垂れ流される映像を思った。
 家庭内喧嘩を世界的事件にまでエスカレートさせるのは、ごめんこうむる。でも、あいつなら平気でやりかねない。
 恥ずかしいヤツ。だから、こんな時は経験則上、こっちが初期段階で折れておかなければならないのだ。
 ああもう、本当に面倒くさい。



 このまま、帰っちまおうか。
 俺は、背中を返しかけた。だが、帰っても家で悶々として、自分が腹を立てるばかりなのはわかりきっている。溜息をついて、また門と向き合い、肩を落とす。
 結局、最後には俺は、あいつを迎えに行かなければならないのだ。どう自分が行動したとしても、結局はそうなるし、早いか遅いかの違いであった。
 まったく小学生どころじゃねえ、イヤな園児め!
 自問自答しながら、俺は遊園地の門を、しぶしぶ通り抜ける。
 門の内には、微かに、音楽が流れていた。



「……」
 俺は、その耳に触れる旋律を、どこか懐かしいと感じた。
 そういえば。この場所に来るのは、20年と……あの南国の地で一回り季節が巡って、あと幾許かぶり、だった。
 でも、こんなにこの門は小さかっただろうか。柵はこんなに低くて、塔はこんなに素朴な建物で、煉瓦は煤けていただろうか。記憶の中にある視界はずっと低く、もっと彩りに満ちていた。こんな風にモノトーンの影に沈んでいただろうか。
 踏み出すアスファルト。あの時は、駆けると優しい足音がしたはずだったのに。今は、冷たい軍靴の音がする。こつ、こつ、と規則正しい機械じみた響きが耳をつく。
 歳月を経たこと以上に、4歳の頃に眺めた景色は変貌を遂げていて、俺は、それは自分が変わってしまったということだろうかと、瞬きをして思う。
 大人の世界と子供の記憶の、隔絶感が、押し寄せてくる。



 夜の遊園地は、まるで異世界に迷い込んだように、すべてが青褪めて、ほの白く、よそよそしさに覆われていた。
 ひどく静まり返っている。だが時折、風で揺らめく幟が乾いた音をたてる。そして無機質な自分の足音ばかりが響き渡る。
 遊具は自動機械化されているのだろうか、係員すらも整備員すらも、人っ子一人、見当たらないのだった。
 空はちょうど新月の頃で、満天の星だけが呼吸をするように光芒を放つ。
 そして地上の輝き。きらめく遊具は、自分たちだけのために動きを止めない。
 回転木馬は輝きを振り撒いて回り、小型列車は光のトンネルを潜り抜けて闇をうねる。動物の顔が描かれた小さなゴンドラは、ゆらゆらと回転しながら、夜空を走る。
 フライングカーペットは舞い上がり、降下し、ただ主人に命ぜられたことを淡々とこなしているように見えた。真鍮の柱が、じっと静けさをたたえている。チケットの半券が、地面を撫でるような風に舞っている。
 ここは、昼間の子供にとっては、夢の世界であるのだ。
 だが、夜は?
 夜の遊園地は、俺にとっては、夢の果ての寂しい世界を想わせた。
 夢が行き着いた先の、その先の宛てのない世界。
「……あいつ、どこに、いるんだろ……」
 ふと、冬の寒さを感じて、俺は身を震わせてコートの襟を寄せながら、小さく呟いた。
 声は、ぽつんと唇から飛び出て、側の看板に弾けて地に落ちて、すぐに消えた。
 その瞬間だった。俺に向かって、輝く物体が襲い掛ってきたのは。



「……ッ!」
 不意をつかれて俺は、背後に飛び退ってその物体を避ける。きらめきの燐粉を残して、俺の鼻先を駆け抜け、ぐうんと流線を描いて飛んでいく塊。
 姿勢を低くし身構えた所に、ブーメランのような楕円軌道に乗って、再びそれが折り返し、突進してくる。
 今度は前方に倒れ込んで、俺は一回転する。
 反撃体勢をとってから。
「……」
 それから、静かに立ち上がった。
 俺の身体を、すうっと物体は、すり抜けていった。輝きの残像は、揺らめきながらアーチの向こうに消えた。
 俺はその正体を悟る。
 イリュージョン。
 よくよく辺りを見回せば、ペガサス、シードラゴン、フェニックスといったおとぎ話の中の生き物たちが、七色の輪郭に彩られて、闇の中を駆け回っているのだった。
 幻想の輝き。人工的に作られた、夢の世界。
 幼い頃の俺だったなら、きっと手を打って喜んだだろうに、と思う。
 今の俺は戦闘態勢なんか取っちまって、何をピリピリしてるんだ。嫌な大人になっちまった。
 幼い頃は……俺は戦いなんか、知らずに。
 ただ、去っていくあの男の背中から、抱きしめられた時の上着から、その匂いだけを敏感に嗅ぎ取っていた……。
 もう、俺は夢の世界には戻ることは叶わないのだろうか。
 俺は、夜空を見上げて、ほうと溜息をつくと。また歩き出した。
 ――幼い頃は……?
 もう、向かう場所はわかっていた。



 遊園地の最奥、なだらかな丘陵に沿った長い坂を上った先。大きな観覧車の前で、男は俺を待っていた。
 遠目の暗がりに、その姿が見えた。
 すると俺の体は一瞬、硬直した。息を止めた俺の側には、記憶と同じ姿をした、茂みがあった。
 幼い頃、俺がずっと隠れていた、あの葉の繁り。
 蘇る遠い距離の記憶。そして今。同じ夜の中で、俺は、あの時と同じ場所から、男を見つめていたのだ。同じだ、と思った瞬間、訳のわからない感情が俺を縛った。
 立ち尽くす。どうしてか、背筋を染みとおる何かが通り抜けて、俺の力を奪う。
 俺の視界の中で、いつだって、何でもない顔をしたあいつ。
 どんな瞬間にも、俺からすべてを隠したつもりになっていた、あいつ。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
 風が男の髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように見えるのだった。
 きっと、俺があの時と同じように側に駆け寄るまで、男は、このままずっと身動きしないのだ。



「……ッ……!」
 そう感じた瞬間、俺の身体に力が蘇る。衝動が沸き起こる。
 かすかに躊躇したものの、そんな自分を振り切るように、長い道を駆け出した。
 俺の、一族とは違う黒い髪が、なびいた。規則的に靴が地を蹴る音は消えて、乱れたみっともない足音ばかりが聞こえた。
 道の先に立つ男。走る度に、俺とあいつの距離が、狭まっていくのを感じた。もう少しだ、もう少しだと、ひたすらに走る。自分の息遣いが、うるさい。
 もう、隠れたりなんか、しない。
 男の顔に落ちる光の陰影は、あの時と同じで、その顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて、だけど今の俺は、もうその顔を知っている。
 その、酷薄な表情を知っている。
 隠されていた罪悪の顔を、知っている――
 昔、俺は、冷たい風に一人吹かれているマジックを、見ているだけだった。
 風に打たれて冷えていく彼の姿を、見つめること。それだけしかできなかった。
 でも今の俺は、同じ風に吹かれたいと。
 そこから助け出すことはできなくても、せめて冷たさに共に打ちすえられていたいと。
 どうしようもなく思っているのだ。



「ここで待っていれば、来てくれると思っていたよ」
 全速力で走って、はあはあと息を切らしている俺に、マジックは何でもない顔をして言う。
 俺は、キッと男を睨みつけた。それでも、相手はこう言うのだ。
「仕事さえ終わったら、お前は、絶対来てくれるってわかっていたから」
「……チッ」
 何を、いけしゃあしゃあと。
 とりあえず俺は、まずは怒らなければと思い立ち、懐から通信文を取り出して側のベンチに放り出す。
「アンタ! これ、どーいうつもりだよッ!」
 肩をそびやかして詰め寄ったが、依然飄々として、あっさりと返ってくる答え。金色の眉が、軽く上がった。
「ああ、それ。いやあ、危なかったよ! パパ、一回さらわれたんだけれど、縄を切って逃げてきちゃった」
「うっそつけ――――ッ!!!」
「嘘じゃないんだな、これが。ほら、ここに縛られた痕が」
「あああ? どっ、どこにだよ!」
「ほら、ここ。腕の……」
「見えねえよ」
「ここ。ここだって」
 マジックが袖口をずらして、手首を見せようとするから。
 つい、俺は、どれどれと身を乗り出したら。
「つかまえた!」
「!!!」
 覗き込んだ顔を捉えられて、首に腕を回されて、ぎゅっと抱きつかれてしまった。



 男に、たよりなく引き寄せられてしまう。ばふっと俺の顔は、マジックの胸に押し付けられてしまう。
 俺は叫んだ。
「騙しやがったなあああ!!!」
「はは、まさに愛の手管だねえ、今のは。でもあの文章、ちゃんとお仕事終わった頃に届いただろう? ああー、パパ、シンちゃんとギュッ! ってできて、幸せ~」
「くっ……俺はシアワセじゃね――ッ! 離しやがれぇぇ!!!」
「暴れない、暴れない。どうどう」
 俺を抱きしめ慣れている相手は、すでに反撃のかわし方も心得たもので、この腕からは逃げることはできないのだと俺はわかっている。
 わかっているけど、身をよじる。これは習性。相手もわかっているけど、逃げられたら大変だという素振りをする。これも習性。
 習性で、俺とあいつの関係は、成り立っているようなものだ。
「助けに来てくれて、ありがとう」
 そうウインクしてくる男に、俺は舌を出して答えた。
 ……マジックの、香りがする。



 お決まりの諍いがあった後に。今夜のマジックは俺を抱きしめたまま、でもちょっと違って、こんな言葉を囁いてきた。
「……観覧車に、一緒に乗ってくれたら。離してあげる」
 そして大きな円形のそれを、感慨深く見上げている。俺たちの側で、ゆっくりゆっくりと、空を巡る、赤い観覧車。夜空に描かれる円のかたち。
「あああ?」
 俺は、そう乱暴に返事をしたものの、先刻一人待つマジックの姿を見た瞬間から、この男は観覧車に乗りたいのだろうと気付いていたから、それ以上は続けずに、そのまま黙っていた。
 抱きこまれている耳元に、低音が響く。
「観覧車。お前と一緒に、乗りたいなあ」
「……」
 俺は、再びあの日を思い出している。戦場から帰ってきたこの男を、観覧車の前でひどく待たせた日のことだ。
 幼い俺は、こんな風に同じように、この場所で抱きしめられて、そのまま寝入ってしまったのだ。だから、あの日。俺たちは観覧車にさえ乗らなかった。
 この男と俺の遊園地は、楽しい事前計画の記憶と、場所の記憶だけで終わった。
 俺を抱きしめている男も、あの日を、俺と同じ過去を思い出しているのだろうか。
 だったらいいと、俺は感じた。
 その瞬間、俺と男とは、確かに同じ何かを共有していた。



 抵抗をやめて、そっと睫毛を上げて、俺はマジックを見上げた。
 青い瞳が俺を見下ろして、その薄い唇の端が、わずかに上がって、俺たちは至近距離で見詰め合って、そのまま無言の会話を交わしていた。
 こんな時は、いつも静かに目配せするだけで、一瞬だ。
 一瞬で、決まる。
 そして、俺たちは観覧車に乗ることになったのだ。



 自動錠の音がし、扉は閉まって一つの箱となり、俺たちは閉ざされた空間で息をする。中の一枚板の座席に、並んで腰掛ける。
 かたかたと獣が凍えて歯を鳴らすように、観覧車は夜に回り始める。暗闇に、頼りない小さな箱が、回転していくその不確かさ。大地は遠くなり、無人の遊具たちが眼下に小さくなっていく。嵌め込まれた窓ガラスが、俺の息で、白く曇った。
 夜は、暗い。目を凝らすとずっと先の方で、遠い山の稜線がおぼろげに浮かんでいるのが見えた。
 闇の海の中に、黄金色に輝く街の灯火、港の明かり、光を連ねる高速道路。
 イルミネーションが一際美しいのは。そうだ、クリスマスが近いから。
 俺はそう思いついて、目を細めた。
 コタローの誕生日が、近いから。



「……あんまり側に寄るな」
「仕方ないでしょ、狭いんだから」
「いや、絶対アンタの方、もっと隙間がある! ずれろよ! くっついてくんなって!」
「もう、この子は細かいことに拘るなあ。いいでしょ、だいたい、だいたいで。ぴと」
「うお――ッ! アンタの『だいたい』は、ぴったり密着状態かぁっ! ああもう!」
「誰も見てない、見てない。私たちだけだよ。ねえ、だから」
 ああ、もう、もう。そういう問題じゃ、ないっての。俺たち、ケンカしてたんだぜ。
 それもこれも習性。俺の胸に沸き起こるこの感情も、習性。くっついてくるのも、抵抗するのも、最後はくっつくのも、習性。



 俺はマジックといると、ずきずきと心の奥が痛むのを感じることがある。
 肌がざわめく。平静ではいられなくなる。悲しくなる。切なくなる。自分の一番醜い部分が、暴かれていくような気持ちになる。
 特に、こんな、しんとした空間では、必死に築き上げている自分が崩されていく音が、聞こえてくる気がしている。
 そのことが悔しくて、痛みを隠すために、俺は仏頂面をしてしまうことになる。
 そんな俺の気持ちなんて知りもせず、マジックは暢気に、俺に話しかけてくる。
「あれ。シンちゃんったら。黙っちゃった」
「……黙って、悪いかよ」
 図々しい男は、俺の肩に、こつんとその金髪を乗せてきた。寄りかかってくる。
「重い! アンタ、重いんだよっ!」
 嬉しそうな白い顔が、至近距離から俺を見つめてくる。
「でもパパ、シンちゃんとこうすると、凄く落ち着くんだ」
「くっ! い、今だけだからな! 調子に乗んな!」
 俺は、ぷいとソッポを向く。
 ……だけど、この男の側では。
 側で目蓋を閉じれば、俺は。ひどく安心してしまうのだ……。



 今度は、少し間があって。
「シンちゃんったら。目、つむっちゃった」
 そんな声が聞こえたから。
「つむって、悪いかよ!」
 大きく叫んで、ギッと目を開けたら、ここぞとばかりに『ん~』とキス寸前の相手の顔があって、俺はどきっとして、思わず飛びのく。飛びのくといっても観覧車の中だから、肩を引いて尻をずらすのが限度。必然的に捕まってしまう。
 暴れる俺、ぎゅうぎゅう近付いてくるマジック、押し返す俺、少し笑っているマジック。
「もーう、シンちゃんったら、きかん坊だなあ! あんまりつれないと、この観覧車、天辺までいったら、目からビームで止めちゃうよ! 24時間密室ラブラブ事件の始まりだね!」
「もっと有益なことに使えよ、そのフザけた超能力っ!」
「さあ、ラブの犯人は誰かな! パパかな? それともシンちゃん?」
「あーうっさいうっさいうっさい! これ乗ったら帰るぞ! いいか、俺ぁ、帰るからなッ!!!」
 狭い箱がきしんで揺れて、はめ込まれた窓ガラスが少し曇って、また何事もなかったかのように観覧車は回る。夜の風を張らんで、ゆっくり、ゆっくりと立ち昇っていく。
 やがて静かになった二人は、その振動を感じている。再び抱き寄せられて、俺は相変わらずの仏頂面で、そのまま黙っていた。
 腰に手を回されたから、お返しに俺は肘でその手に、ぐいぐい圧力をかける。
 でも相手は、こたえない。俺はいまいましげに、その顔を見ながら思った。
 ――共犯じゃねえのか。



 そのままずっと、そうしていた。
 不意に、小さな声が聞こえた。
「……さっきは、ごめんね。お前は忙しいのに、無理を言って」
 珍しいと、俺は驚く。
 マジックが、自分のワガママを反省するなんて。そしてそれを俺に言うなんて。
「ケッ! なーにを今更。明日は季節外れの台風でも来ねえだろーな」
「でも今日は、この場所に、お前と、来たかった」



 マジックが話し出そうとする雰囲気に、俺は身を固くする。
 過去――俺がどんなに望もうとも、決して自分の話はしてくれなかったマジックは、あの南国の島での出来事以降、昔の思い出を、こうして静かに語ってくれるようになった。
 いつもという訳ではないけれど、そっと壊れ物に触れるように、俺の知らない頃のマジックの話を。どこか遠い青い目をして。
 その度に俺は情けないくらいに緊張し、胸が痛くなる。痛みは、自分の無力感を示しているのかもしれなかったし、絶対に手に入れることが叶わない、ショーウインドーの中の人形を見つめる子供のような心に似ているのかもしれなかった。
 ただ声が、響く。
「ずっと昔のこと、お前が生まれる前のことだよ。私が幼い頃……よく家族で、この遊園地に来たんだ。忙しい父と来たのは一度きりだったけど、それからすっかり気に入ったハーレムやサービスが、何かにつけて行きたがってね。だから幼い私たちは、兄弟の誕生日毎に、遊園地に来ていた」
 マジックの父親――つまり俺の祖父にあたる人――が亡くなったのは、彼がごく幼い頃だという事実は、勿論知っていた。13歳の時分だという。同年の自分はまだ士官学校に入る前だ。
 そしてその幼いままで、男は総帥となった。
 俺が今、ずっと年長の俺が今、苦しみ悩んでいる責務を、幼い身で男はこなしていた。
「……年の初めに、双子の誕生日、年の半ばに、ルーザーの誕生日、年の終わりに、私の誕生日……」
 歌うように、男は呟いた。
「その儀式も、父が亡くなって、あっさりと終わった。それから長い年月が経って……今度は幼いお前の誕生日に、この場所に来たんだったね」
「……ああ」
「あの時、あんなにお前も私も楽しみにしていたのに。何も乗ることができずに、それっきりになってしまっていた。それが、ずっと……気になっていたよ」
 俺も気になっていた、とは言えなかった。言えずに唇を引き結んだ俺に対し、マジックはそっと笑う。
 小さい頃のお前は、今朝の私みたいに、ワガママなんて言わなかった。ただいつも、私が『仕事が入った』と告げると、ほら、今みたいに。
 マジックの指が伸びて、つん、と俺の唇を、突いた。
「黙って、こんな顔、してたよね」
 俺は慌てて顔の筋肉をぎくしゃくさせて、『こんな顔』と指摘された表情を変えようとした。だが上手くいかない。他にどんな表情をすればいいかが、わからない。
 男は言葉を続ける。
 私も仕事を優先させる人間だけど、お前の側にいられない時は、とても寂しくて。その当時は、もしかしたら、そう感じるのは私だけで、お前は私なんかいなくても寂しくなんかないのかなって。そう思うこともあったのだけれど。
「今は……そんなことを考えていた自分を、ひっぱたきたいって、感じてる」
 俺はまだきっと、『こんな顔』をしていたのだと思う。そのままの顔で、ぶっきらぼうに言った。
「自信過剰め」
「本当にそう?」
「……だからアンタは嫌なんだ」
「本当に私のこと、嫌?」
「ああもう、聞くな!」
「だって聞きたいんだもの」
「くっ……ここに来てやったろ! あんなアホくさい脅迫状に釣られてな! それで十分だろ!」
 男はまた、ふっと薄く笑って、俺を抱きしめてきた。その口元が見てられなくなって、俺はつい視線を脇にそらす。窓の外、夜を彩る灯火たちが、踊るようにちらついた。
「だから、一つの区切りがついた今。昔来た、誕生日の日にね。お前と一緒に、この特別な場所に来たかったのさ」



 気恥ずかしさの反面、俺は心の奥で、衝撃を受けている自分を、感じていた。
 マジックにとって、この遊園地は、俺の関係ない思い出たちの住む、特別な場所であったのだ。
 マジックの愛する父親、幼い頃の兄弟たち、その他たくさんの、俺の手の届かない過去たちの住む場所。
 4歳の自分と遊園地に来た時も、この男は別のことを考え、別のものを見ていたのだろうと思うと、俺は悔しくなる。こんなに側にいるのに、彼には俺がどうやっても追いつけない過去があって、絶対に同じものを見ることができない。
 そして今も。さっきは、確かに俺たちは、同じ想いを共有していると感じていたのに。
 また、遠くなる――



「ねえ、シンちゃん」
 俺の想いを他所に、声は囁き続ける。
「お願い、パパを甘えさせてよ」
 俺は、ちらりと相手の顔を見た。
 その青い瞳は、うっとりしたまなざしで、俺を見つめてくるのだった。熱い色。この熱は、俺だけに向けられているのだろうか。
「嬉しい時も、悲しい時も、キスさせて」
「……」
「いつも、ごめんね。でも……私はお前に子供扱いされたいんだと、思う。わざとワガママを言って、怒られたい。私を怒ってくれる人なんて、ずっとずっと、長い間、いなかったよ。お前に出会うまでは」
「……バカ」
「そう。そうやって、怒られないと……私は、また道を間違えてしまうのだと思う……」
「脅迫かよ」
「ああ、その通りかもしれないね。脅迫だって何だってして、私はお前に怒られたい」
 男は息を止めた。それから微かに息を吐いた。すると俺の首筋に、その息がかかった。
 俺はぞくりとする。肌はみっともないぐらいに緊張して、次の相手の言葉を待つ。
 その言葉は、闇に溶け込んでいくような甘い響きを含んでいるのだった。
「私はお前に、側にいて欲しい」



 男の声。かたかたと揺れる観覧車の音に、沈んでいくようなその声。幼い頃、いつも眠る前に耳元で囁かれていた、その声。
 ――こんな話があるよ。
 不思議な回転木馬の話さ。
 回転木馬が一周する度に、木馬に乗った少年は年を取っていくのさ。
 逆に回転すれば、一つ若返る。そんな、夢の世界の話を、お前は知っている?
「観覧車でも、同じことが起きたら、素敵だと思わないかい」
 俺は、男を見つめた。
「観覧車が一つ回る度に、私は一つ若返って、お前に近付いていくとしたら」
 ……回り巡って、私は子供になりたい。
 幼い子供に戻って、お前に抱きしめて貰いたい。
 幼い頃から、私はずっとお前に会いたかった。
 寂しい時、こんな風に側にいてほしかった。
 だから、今。私を抱きしめて。
 お前といるとね。お前は私を子供っぽいと言うけれども。
 私はいつも、やり直しているのだと思う。
 失われた、子供時代を。



「大丈夫」
 何故か、そんな言葉が、俺の口から、飛び出していた。
 夜を巡る観覧車。この観覧車が一つ回れば。俺はこの男へと一つ近付くことができるとしたら。
 ……回り巡って、俺は。アンタの場所へと、近付きたい……。
「アンタはきっと幸せになる」
 アンタが、幸せになったら。
 そうしたら……。
「……そうしたら……きっと俺も、幸せになる……」



 いつの間にか、外には粉雪が待っていた。
 空高く白い花弁は舞って、12月の夜を華やかに描く。白と黒と輝きの世界。俺の夢の世界は、今、ここにある。
 夢の世界は、失われてはいない。
 ひとつひとつ、やり直して、新しく作り上げていくものなのだろうと、思う。
「……きっとクリスマスは、ホワイトクリスマスだね」
 窓の外を眺めていたら、マジックがそう言うから。俺は、黙って次の相手の言葉を待った。
 そんな俺を見つめて、男は、微笑んで言った。
「コタローの誕生日には。きっと美しい銀世界が広がっているね。世界は、あの子が目覚めるのを待っている。私も、お前も、そして家族も…あの子を待っているんだ」



 俺は、初めて自分から、相手に身を寄せた。
 金髪の頭に手をあてて、強く引き寄せる。胸元に、男を抱きしめた。
 マジックといると、俺の心の奥が痛むのは確かだ。肌がざわめく。平静ではいられなくなる。悲しくなって切なくなるのだけれども。
 だからこそもっと――側にいて、幸せが欲しくなる。
 身ぐるみ剥がされた俺の心は、寄り添うことの温もりに焦がれてしまう。剥き出しの愛情に惹かれてしまう。
 マイナスの感情も、プラスの感情も、全部アンタのせい。俺の感情は、みんなアンタのせい。幼い頃から、それもこれも、全部。最初から、ずっと最初から……。
 俺は男に囁き返す。自然に口から言葉が零れ出た。
「……もう、何かを奪う人生なんて、やめろよ」
 相手は、俺の胸にぴったり顔を寄せて、鼓動を聞いているのだと思う。
 男の、あの血を思わせる赤い軍服は、今は俺が身に着けている。この男のかわりに、身に着けている。
 この赤は、俺がアンタから引き受けた業の象徴。俺はこの赤を着て、風に向かって立つ。
 でも俺だって、この温もりがなければ、立つことなんてできないんだ。一緒に。
「何かを奪う生活より……何かを生み出す生活、しろよ」
 破壊から、再生をめざすために。
 奪うばかりの道を歩いてきたアンタだけれど。もう止めたっていいんだぜ。
 俺が毎日、一生懸命に総帥やってるのは。一体何のためだと思ってるんだ。
 夜の狭間、声がした。
「シンタロー。『何か』なんて曖昧に言わないで」
 俺は息をつく。睫を下げて、自分の腕の中を見つめる。男は、俺を見つめていた。
 俺だけを見つめていたのだ。観覧車が回る。
「愛でしょ。私は愛を生み出す人になりたい」



「……」
 俺は、頭を下げた。そっと男の唇に、自分のそれを押し付ける。
 嬉しい時。悲しい時。今までアンタは何千回、ひょっとしたら何万回も俺にキスしてきたけれど、その内、悲しかった時は何回?
 これから何度、嬉しい時のキスをすれば、釣り合うの?
 少なくとも俺からのキスは、嬉しい時のものだと、いい。
 ――私はいつも、やり直しているよ。
 相手の唇は塞いでいるはずなのに、また、声が聞こえたような気がする。
 唇から感じる、脳髄まで染みとおるような男の声を聞きながら、俺は考えている。
 悲しいキスの数を、俺が埋めることはできるのだろうか。
 そうすれば、この男が悲しい目をすることはなくなるのだろうか。
 ――すべてを、ね。
 キスしてやるさ。
 この男が抱いていた無茶な野望、その行き着く先、夢の果ての世界は、この夜の遊園地のような孤独の地ではなくなるように。
 できることなら幸せの地であるように。
 ――いつもいつも、私たちは喧嘩しては、やり直しだね。
 俺は、アンタに何ができるのか。
 こうして一緒に観覧車に乗るだけしかできない俺は、無力なのか。
 ――繰り返している。そしてそのことが、私には嬉しい。
 唇を離すと、ひどく近い距離で、男は俺を見上げて囁いた。
「私は、お前の手で、生まれ変わりたい」



 ――本当は観覧車になんか、乗らなくったって。
 ――お前といれば、私は。
 ねえ、シンタロー。愛しているよ。
 これからもずっと、私と一緒に、いてくれる?
 そうすれば、未来が新しい私の誕生日になる。
 静かな問いかけと共に、男の手がそっと近付いてきて、俺の頬に優しく触れた。
 俺は目を閉じたのだけれど、同時に自分の肌が、びくりと驚きに震えたのを感じていた。
 俺の腕と腰とに挟まれていたせいか、マジックの手は、ひどく熱かった。
 あの時、冷たくなっていた、その過去の手が。
 ああ、この男の身体を熱くしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、再び悟ったのだ。








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